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オペラとはこうしたもの

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二十数年ぶりにマンハイムの座付楽団の演奏を聞いた ― 最後はジュン・メルケル指揮かもしれない。こちらの耳も変わっている部分はあるかもしれない、会場も全く変わっている、楽師さんも重なっているのはほんの一部だろう。N饗のMeTooデュトワ指揮によるフランクフルト公演と昨今の生中継の差異を考えるのと同じような感じである。勿論よくなっている部分もあって、時代的な背景があると思う、しかし根本のところは同じだ。地方の名門オペラ劇場でしかなく、ヴァークナー上演にかけては連邦共和国の中では一流の歌劇場に続く名門である。なんといっても歴史上最初に作られたヴァークナー協会で楽匠自らが指揮をしたメッカでもある。それを良しとして独自の伝統を保持しているかに見える劇場だ。だから大物の演目が並ぶレパートリー劇場でその実はブラックミュージックシアターのようである。

そんな塩梅だからバイロイトでもまた先日飛び入りのミュンヘンでも立派なハンス・ザックス親方を歌ったミヒャエル・フォレでも初めはマンハイムにいたというので、今回も期待した。そのハンスザックスはこれではどうしようもなかった。あの会場であれだけの声しか出ないだけでなく、技術的にも全く冴えない。バイロイトでペトレンコチームに入っていたオックスフォード出身のアレクサンダー・ソリーの棒も歯切れが悪くてどうしようもないが、あの歌と比較するとどんなに調子が悪くてもミュンヘンのコッホは声、技術的にも一流だ。ヴァルターに関してはどんなに不調なフォークトが歌ってもその足元にも及ばなかった。エファーも小粒と書かれていたが、ミュンヘンで苦労しているのを見ていると、到底その域の声も出ておらず技術的に上が出ないテノールやソプラノが並ぶ。こうしてみるとオペラファンが声で舞台を楽しむとしても、座付管弦楽団がどんなに酷くても、その夜の状況ではただ一人ベックメサーを歌ったモネマーのヨハヒム・ゴルツだけが指揮者や楽団とは関係なく場面を作れていた。要するにオペラファンが二三流劇場で楽劇を楽しむというのは如何にも通そうに見えるが全く音楽的にはお話しならない行為であり、そのようなものは楽劇でもなんでもなく、学芸会である。

座付管弦楽団の問題は、指揮者の技術的な程度の低さだけではなく、たとえエキストラを入れてもアンサムブルが出来ていない。否、そういうものがオペラ劇場の座付管弦楽団であり、ジンダを演奏しているに過ぎない本物のオペラ劇場なのだろう。ミュンヘンのそれに慣れるとあれと本物の差が分からなくなる。確かに昔と比べてアマルガムの響きは少なくなったが、コントラバスの音程の悪さや発音が、あれは直さなければと思わせた。終始私は指揮者の気持ち見ていたが、ホルンが鳴ると第一の女性が高く浮ついた音を出してあれではヴァークナーにならないと思わせた。ミュンヘンの深いデングラーの響きに比べるまでもなく、そもそも音程が安定しなかった。兎に角、弦と管がバラバラで、何段もの楽譜になると嘗てのそれのように全体の響きで一小節の中の響きにしましょうという程度の合奏力であった。それでも昔よりはマシに思えたのは「マイスタージンガー」はベートーヴェン程度の楽器編成だからだろうか。自慢の恒例の「パルシファル」などになるとアマルガムになるのだろうか。そして、この指揮者がミュンヘンの座付き楽団を振ったらどのように響くかなども想像してみた。そのタラリンリズムは変わらない。

ただし、前回のゲスト公演の「ポッペア」においても若い合唱団は人数の割にとても強い声を出す。恐らく一番大きい音響は合唱団である、しかし如何せん芝居しながらになると急に声が出なくなる。経験というか訓練が出来ていない証拠だろうか。オペラとはこうしたものだ。

そして同じ座付楽団でも音出しがミュンヘンのように遅れて出てこない分、歌手の方も拍から拍へととても窮屈なことになっていた。勿論これも指揮者の責任かもしれないのだが、やはりこの程度の座付楽団では上手く歌わせる伴奏などは出来ないのだ。そしてあの広さにも拘らず、ぐずぐずとして管弦楽が鳴らないのにも拘わらず、言葉が聞き取れない。お話しにもならない、もはや致命的だ。合奏が出来ていないと全てにおいて具合が悪い。こうした上演を百回聞こうが見ようが、何十年経っても楽匠の音楽などは理解出来ないで一生を終える。だから繰り返して聞けるのかもしれないが、時間と金の無駄である。出来れば次回はもうこうした地方都市での音楽劇場はご免でやはり名門の芝居小屋に限定したい。楽匠がオペラ劇場での楽劇の上演を禁じた気持ちがよく分かる。



参照:
逸脱にドラマあり 2018-11-11 | 音
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評


by pfaelzerwein | 2018-11-12 00:29 | 文化一般 | Trackback
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