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新支配人選出の政治

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先週のニュースの反応が不思議である。ヴェルト新聞のヘイトアホ親仁が書いている通りだ。SWR2などの関係する報道機関のみは事実関係だけを短報として伝えている。だから週末まで気が付かなった。ザルツブルクの復活祭はそれなりに催し物として公認されていて、そこの新支配人が決まるというのは文化ニュースとしてそれなりの価値がある。ヘイト親仁は肝に据えかねたのか今になって報じた。周りを見ていた臆病者に違いない。狐に包まれた感じとはこういうことを指すのか。

日程は事前から報じられていてショー的効果がお膳立てされた中で、ティーレマン監督を州政府関係者が訪問して直接その意思を確かめて、次期支配人には、芸術監督がその就任に強く反対した現ミュンヘンの劇場支配人バッハラー氏が推挙された。これによって2022年からの就任と復活祭プログラムの同意権行使が決定した。それに先立って2020年7月1日付けで経営権を握る。同意権はないかもしれないが、予算を握ることになるので大きな影響を与えるのは間違いない。

ザルツブルク州の音楽祭諮問委員会を辞任した緑の党を代表する作曲家のダンツマイール氏から背後事情が漏らされている。ザルツブルガーナハリヒテン紙が伝えるところによると、益々減少する後援者数と関心の減少が、不正経営のスキャンダラスを何とか耐え抜いた祝祭を圧迫しており、経営上も立て直しが諮られているらしい。その一つとして、支配人の重要性と同時にティーレマン監督祝祭の人気の無さが拍車を掛けているという現状認識のようである。つまり、バッハラー支配人とは協調できないと明言した芸術監督の辞任は予め読み込まれていることになる。

通常ならばこれでティーレマンが退陣して、ザルツブルクから椅子を蹴って出て行くのだが、バーデンバーデンへと移ったベルリナーフィルハーモニカーに代わって音楽祭の中心となったシュターツカペレドレスデンにとってはこのザルツブルク公演があるからこそのティーレマンという。つまり音楽祭の監督を投げ出すと同時にシュターツカペレの指揮者としての 地位も揺らぐとされる。

正直シュターツカペレとティーレマンの関係はよくわからない。一度しか聞いたことがなく指揮者の実力からすれば可もなく不可もなくの凡演だった。そもそもこの指揮者のどこがよいのか全く分からないので判断に困る。但しハッキリしているのは客が入らないことだ。座付管弦楽団でもミュンヘンのツアーのコンサートの方が売り切れになる。ペトレンコと比較しても仕方がないがこのオペラ指揮者には人気がないのだろう。

この件は当初から政治事件として捉えられた。そもそもバッハラーが次期監督に名乗り出たということ自体が驚きであり、真偽のほどが疑われた。しかしこうして結論が出るとティーレマンの天敵としての意思で応募したことになる。バイロイト音楽祭の場合は最初から抗争の構図が明らかだったが、ザルツブルクにおいては敢えて打ち落としに行くとは思わなかった。ミュンヘンにおいてもケントナガノから辞表を出させるような形で首を取り換えた実績があり、そこまで待たずともティーレマンが自滅をするようにここまで慎重に進められた様子がある。なるほどザルツブルク州は「ティーレマンを追い出すことはしない」と外交的な姿勢を崩していないが、シュターツカペレドレスデンと音楽祭の関係は保全されるとの感触なくしてはこのような結論には至らなかったのは当然で、まさか交換可能なゲヴァントハウスとの密約が成立しているとは思えない。つまり、ドレスデンでのティーレマン切りの憶測が立っているということだろうか。

確かに今晩二度目のコンサートとなる共生のための催し物はシュターツカペレが明白にティーレマンのペギーダへの関与を責めるものであり、そこで政治と芸術を混同しないというような言論は成立しない。へートに繋がるような発言や行動はMeToo以上に厳しく対処される姿勢を示すと同時に、様々な外見や思想などに関わらず寛容を訴えていることからAfDに相当するティーレマンの政治姿勢を排除することもできない。ここでもバッハラーのような政治手腕が要求されるので、まさしく新支配人はゴーストバスターのような任を与えられる。それが同意権であり、経営権なのだ。

復活祭運営の背景には、やはりああした政治姿勢の文化活動には経済支援ができないという企業などのカムパニーポリシーがあり、残るのはもともとフォン・カラヤンが自費を費やして創立した芸術祭であった故にそれに賛同する金満家からの支援がある。本人の死亡後にその援助はじり貧となり、観光事業として州政府が管轄するように、未亡人のカラヤン財団がバーデンバーデンへとパートナーを変えた事情があった。そしてティーレマンの手引きもあってかカラヤン財団が再びザルツブルクへと乗り換えたのは二三年前のことである。我々にとってはどちらでもよいことなのだが、カラヤン財団にとっては口出しする場所がしっかりしていないと意味がなく、ザルツブルク州はその関与を迷惑に思っているとされている。なるほど「ヴァルキューレ」のリヴァイヴァル上演は少なくとも興行的には成功したのだろうが、芸術性という意味でも分岐点になったのかもしれない。カラヤン財団のみならずカラヤンの芸術的業績が洗い直されて、その意味合いが変わってきたこともそこに反映されていると思われる。

ブログには来年のベルリナーフィルハーモニカーの日本公演にはメーターが指揮するとあった。真偽のほどは分からないが、もともとはペトレンコ指揮以前に誰かが変わって指揮するのであろうと考えたが、今年の出来からすれば東京で現状を問うだけの形は出来つつある。キリル・ペトレンコが同行できない理由はもっぱら日程上の都合であり、12月のジルフェスタ―コンツェルトのプログラムにも関わっているかもしれない。いずれにしてもペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの日本初公演は2021年となるのだろう。しかし最初から日本では人気の無いズビン・メーターが指揮をする計画が立てられていたとすると驚きである。メータ氏は治療を日本でしているのかと思わせる。



参照:
Bachler oder Thielemann: Es kann zu Ostern nur einen geben, Ljubisa Tosic, Der Standard vom 11.11.2018
"Wir vergraulen Thielemann nicht!", HEDWIG KAINBERGER, Salzburger Nachrichten vom 10.11.2018
釈然としないネット記事 2018-10-03 | マスメディア批評
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事


by pfaelzerwein | 2018-11-13 01:00 | マスメディア批評 | Trackback
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