久しぶりのオテロ感

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喉の痛みを飴で押さえたら。今度は声が出なくなって、洟が垂れてきた。これで回復するのだろうと思うが、久しぶりに風邪をひいたようだ。喘息気味に痰が絡む。

「オテロ」の録音を流した。ドミンゴのオテロである。久しぶりに楽譜を見る以前に音を流した。思いはどんな楽譜面が想像してみたくなったからだ。そのLPを購入したのはクライバー指揮でドミンゴを聞く前だったかよく覚えていない。但し、そのLPは比較的鳴らしていることも覚えている。日本盤で新品を安売りでなく購入しているということは準備に購入した可能性が強い。当時はVIDEOなどもなく、もっぱら音を聞きながら歌詞カードを通すというのが最初だった。オペラ体験も一桁の数であったろうから、ト書きまでを読んでいた気がする。

流石に今は大分違う。先ず歌詞を読むということがない。何もオテロの一語一句が頭に入っているどころか、シェークスピアのそれと混同してしまっている可能性が強い。今回が二度目だからだ。要するに馴染みがないオペラなのだが、音だけ流していれば歌詞はある程度聞き取れる。流石に制作録音の利点であり、また劇場に行けばテロップが流れている ― 流石に先日のマンハイムでは両サイドに重ねてドイツ語しか流れていなくてそれはそれで馬鹿げていた。要するに昔のように歌詞に邪魔されない。それ以上に重要なのは音楽の流れと構成でしかないからだ。

そこで台所仕事をしながら耳を澄ました。最初の出だしがやはりとても独創的でよい。しかし音形や和声などあまり上手く定着しない。劇的な効果はとても高いが、勝手が少し違う。するとどうしても演奏が気になってくる。特に一幕冒頭から終わりまでの流れがやはり決まらない。以前は気にならなかったことが気になってくる。ここではジェームス・レヴァイン指揮でロンドンの寄せ集め楽団が演奏している。しっかり鳴り切っていないだけでなく、例えば声がどうしても劇場のそれに比べて出を急いでいる感じがあって、劇場臭くない。カオスに至らなくとも明白さも今一つなのに流れが決まらない。嘗てはオペラにおいてもこうした表現がメリハリと思っていたのだが、歌を考えるとどうしても表現が十分でない印象を受ける。

そもそも劇場の楽団で録音するぐらいならこのような制作録音の価値はなかったのだろうが、これはこれで物足りない。なるほど座付管弦楽団の日常の演奏とは大分異なるのだが、これではやはり片手落ちだ。最も苦になるのは細かな表現まで管弦楽が演奏できていないことで、そもそも当時のメトロポリタンの音楽監督でも管弦楽の表現に依存していたのだろうと思う。バイロイトにおいてもいつも決まったテムピを打てる指揮者として定評があったようだが、こうして制作録音になると楽譜を十分に読み込めていない。

やはり、カルロス・クライバーの方が積極的な表現を低音のフレージングなどによって強調していたこともあり、演奏していたのがスカラ座の管弦楽となると、表現力があった。こうしたLPの良さはなるほど名場面を取り出して聞けばドミンゴやスコットやミルンズの声として楽しめるのだが、やはり「オペラじゃないな」と感じてしまう。嘗ては、「テークばかりのスタディオ録音では本気度が出ない」という説明をどのように解釈するかを考えたが、今は大分違うことが言える。最大の問題はそのような環境の問題でなく音楽表現自体が問題だと思うようになってきた。

テークの継ぎはぎの問題は致命傷であり、傷を修正可能な幸福でもあるのだが、このLPで感じるのはそれ以前の演奏の質であり、楽譜読解で、歌手も管弦楽も寄せ集めで同じ指揮者何回も更っている訳ではないので定着していない。やはりそれが何よりも大きい。ライヴ感覚とはまた別な話なのだ。

もう一つ感じたのは、LP三枚に収まるように短いという感じで、「マイスタージンガー」やその他の楽劇などに慣れると、お勉強するのもやはり手っ取り速い。逆に時間を掛ければそれ以上に精妙に合わせることは可能になると思う。あのカール・ベームでもこの「オテロ」はレパートリーにしていたぐらいだから、今回もペトレンコ指揮で音楽的な本質が明らかになるだろうと期待している。(続く)



参照:
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-11-16 23:59 | 生活 | Trackback
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