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玄人の話題になる評論

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最も権威のある独語新聞ノイエズルヒャー新聞がオテロ初日の批評を書いている。オペラ批評としては秀逸で、音楽的にここまで演者と聴衆双方にとって参考になる記事は少ない。比較的長めなので全訳はしないが、音楽ジャーナリズムに興味のある人は読んで欲しい。理由は書いたように参考になるからだ、これを読めばお客さんも含めて全て係わりのある人が何かを考える切っ掛けになるからだ。高級紙はどちらかというと高踏的になり過ぎて哲学的な社会学的な考察へと進んでしまうのがオペラ批評の常であるが、この昨年日本へも同行したマルコ・フライ記者のザッハリッヒでとても具体的な記事は音楽的で更に専門的な考察を促す。

実はアバド指揮のオテロ上演を二幕まで聞いて、色々とつまりその重要なイアーゴのクレドのシーンが上手くいかずにチグハグニなっていたのに驚いていた。考えられるのはアバドの指揮があやふやになってきていたとしか考えられなかった。当時はまだそれほど体調を崩していなかったと思うのだが、どうなのだろう。折角のライモンディーのイタリア語の輝く声も役に立たず、勿論若いクーラが支えられる筈もない。森を走りながらもオペラ指揮者の職人技とも関係がないなと考えていた。そして先週の初日のそこを聞き返すとあれ程声の威力が足りないと思っていたフィンレーのイアーゴとの音楽運びがばっちり決まっていることを発見した。

なにも贔屓の引き倒しのために一度下げてから上げようなんて思っていないが、まさしくフライ氏がそこから書き始める。「二幕のそこまで聞けばこのカナダ人フィンレーの歌唱がこの制作の抜き出た存在でまさに新発見だった」とまで賞賛している。そこまでの確信は私は持てなかったので更に読み進むと、ペトレンコの指揮とも深く係っていることが分かってくる。その点に関しては上のクレドにおける難しさをアバド指揮で知り、同時に恐らくフォンカラヤンならば強引にべとべとにペイントを塗り込むような演奏をしているのが想像されるからだ。

しかしペトレンコの指揮は、殆ど印象派風の音色で - つまり筆者はヴァークナーと異なりヴェルディーはライトモティーフではなく、それによって楽曲を構成しているとしている、敢えて私のように調性と言わずにに色のコムポジションでってところだろうか - イタリアの楽曲をミュンヘンの座付楽団に深いところで引き寄せたとしている。私などはこれを読むとぞくぞくとして、生ではどのように響くのだろうと興奮してしまうのだ。似通った例はプッチーニの「三部作」にもあったが、あれの方がむしろ放送でもよく分かった。

そしてフィンレーが有効に使った指揮者の与えた表現空間を、二人の現在最高のペアーが使い切れていなかったと鋭く迫る。つまりデズデモーナのハルテロスとオテロのカウフマンについてである。前者に関しては「声がでか過ぎる」というような馬鹿な評論も見かけたので、それは流石に「何も分からないおばさんがジャーナリスト顔して書いているわい」と玄人筋には思われるだけだが、少なくとも本人も目を通すと気分もよくないが気になる筈だ。それでも全く参考にはならない。

しかし高品質なジャーナリズムはポイントをつく。今までの期待からすると明らかに色褪せていて、特にハルテロスは頂点を超えたとする。「バイロイトのエルザでも中音域が危なく、暖かく色気のあるヴィブラートも色あせていた」としっかりと聞いているからこそ批判できることを書く。そしてミュンヘンの「オテロ」では、前半で可成りのイントネーションの問題が表出したと批判する - まさしくアーティキュレーションの問題で、声を作るために問題化していたと私が指摘したその通りだ。

そしてカウフマンの問題を分析する。「こちらはロンドンでも既に問題化していた通りだが」と前置きしながらも、バリトンに近いつまりドミンゴに近い暗めの声ながら、ドミンゴがバランスの取れた技術と中音域の稀なる色彩に依存したのに対して、カウフマンは柔らかな高音に苦労して殆どニュアンス豊かな透明な表現が出来ないとバッサリ切る。そしてカウフマンのオテロには求められないとしている。それは暗い声質のカウフマンのディレンマであり、この二人の劇での夫婦の亀裂が音として聞こえるようだとどこまでも辛辣だ。しかし、この記事をお二人とも読んで嫌だなとは思いながらも恐らく本人たちが実感していることであり、今後の仕事への方向性にも関することなので破り捨てはしないだろう。そのような二人ならば歌手としてあそこまでの域に達していないのは当然だからである。そしてここまで書ける記者の取材ぶりには敬意しかない。問題点を明らかにすることこそが次への可能性を開く唯一の方法であるからだ。

そして、ペトレンコのイタリアものレパートリーについて2015年の「ルチア」との比較で、あの時はまだまだブレーキを掛ける手綱捌きがあったのだがとその問題点を指摘しつつ、今回はあらゆる面への自由を与えつつ、決して統率を失うことなく、イタリアものの時には本当に気持ちよく指揮していると完全に克服したとしている ― ヴェルト紙の阿保おやじに限らず「鞭を入れ」とかの表現が目立った中でとても明白な反論をしていて溜飲が下がる。これに関しては私は本番まで時間があるのでコメントは避けたいが、氏が書くようにイタリアものへのこのようなプロフィールを強化すべきかどうかも先ずは保留したい。正直、放送だけではまだ聞き取れていないことがまだまだありそうだ。

この記事を読んで、シリーズ残りの上演のなかで何か対処可能なことは殆どないかもしれない。しかし、少なくとも次の公演からはやはり心理的にとても影響される。こういう玄人筋の話題に上るようなものであると同時に、一般の聴衆にとっても色々と音楽のことを考えさせてくれるジャーナリズムでなければいけないというとても好例だと思う。



参照:
初日に間にあったSSD 2018-11-23 | 生活
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
ARD真夜中の音楽会 2018-02-09 | 音


by pfaelzerwein | 2018-11-26 23:01 | マスメディア批評 | Trackback
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