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飛ぶ鳥跡を濁さずの美

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名伯楽が皆あれほど苦労する楽曲をいとも簡単に指揮してしまうペトレンコには改めて驚かされる。最終日を待って感想を纏めたいと思うが、ペトレンコのべ-ト―ヴェン解釈は基本的には変わらない。羽の生えたような軽妙さに木管楽器などの名人芸も要求されていて、中々やっていたと思う。ホルンもデングラーの横にヴィオティーが並んで四管体制の管楽器がとてもよく吹けていて、ホルンもオーボエも流石に二人ともベルリナーフィルハーモニカーで若しくは助っ人で吹いただけのことはある。座付楽団であれほど吹けていたオーボエはザルツブルクでもどこでも聞いたことが無い ― 後で写真を見て「ハフナー」と「悲愴」のためにベルリンに呼んだグヴァンツェルダッチェだと確認した。もしフィルハーモニカーで演奏したら弦の圧も異なるがそれに対抗する管も強力で、あの軽さを要求されるという超技巧を要求されることが分かった。座付管弦楽団が絶妙に演奏すればするほど私はそこにフィルハーモニカーの課題を聞く。フィルハーモニカーがこの公演を聞いたなら同じだと思う。コントラバス四本の同じ編成でバーデンバーデンで演奏したらと思うと、ルツェルンの感覚からそのダイナミックスに鳥肌が立つ。先ずは四月にランランとの二番の協奏曲でじっくり聞かして貰おう。

そしてヨーナス・カウフマンへの拍手はいつものように控えめだ。しかしその歌唱は彼の活動領域やその人気市場の広さとは裏腹にとても通向きである。そもそも彼の名前が私の目に入ったのはYouTubeで偶然見たマネ劇場での「ファウストの業罰」の名唱と名演技であって、本当はそうした分野こそが独断場だと思う。歌劇的であるよりも器楽的であり且つ名演技となる。声の質とか何かは評価すべきところが違うと思う。詳しくは、もう一度細かく確認したいと思うが、拍手を見れば分かるように、ゲルハーハーのように舞台で大向こう受けしない、そのような技能である。

止む無きことから終演後に再び再会した他の芝居劇場の演出家の奥さんのおばさんが、「演出どうだった」と口火を切った。彼女に言わせると、「ここはモダーン過ぎてあまりにもというのが多い」となるが、明らかにこのビエイトの演出もポストモダーン風でもはや些か色褪せてしまっている。感心する人はもう殆どいないと思う。その演出についてあまり深入りはしたくはないが、それも改めて観てからとなる。「演出は感心しないが、音楽は良かったよ」と答えると、どっこい「カウフマンどうだった」と来た。

そこで「難しい二幕一場を上手にこなしていた」と答えたが、一面メディアの話題の矛先であり、一面可成り業界的な関心事であることも事実であろう。実際の音楽的なハイライトはフィナーレ前のデュエットで、カウフマン自身が「女性に有利で男性に不利な作曲になっている」というその通りのクライマックスだった。この点で実際に相手役のカムペに喝采が集まるのは当然で、それに値するだけの歌と演技と、この数年で更に緩んだ下着姿を披露した ― しかし同年輩の同僚では出来る人はあまりいないだろうという自負もあるのだろう、また実際に若い姿態で魅せてもあれに代わって歌える人がどれぐらいいるのだろうか。そのようにペトレンコが個人的な繋がりを超えてカウフマンやカムペにテコ入れするにはそれなりの意味がある。

上のおばさん、つまり教会のお写真を送って貰ったおばさんも「それでももう直ぐいなくなってしまう」とペトレンコが辞めてしまう事を嘆いていた。「バーデンバーデン」に来てくださいよとミュンヘンの人と話す度に宣伝をする私設大使の私であるが、まさしくフェードアウトの準備は着々と進んでおり、ミュンヘンでの監督時代の頂点は過ぎて、そこに「飛ぶ鳥跡を濁さず」の美意識と逆算の見事さを見る。

管弦楽に関して前記したように、一つ一つの演奏実践の奥に、フィルハーモニカーとの未来形もしくは彼らへのとても大きな課題を指し示す形となって、まさしく私たちの時代の管弦楽演奏の可能性の有無がとても楽天的な気分の中で問われている。



参照:
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活


by pfaelzerwein | 2019-01-25 21:39 | | Trackback
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