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忘却とは忘れる事なり

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承前)日曜日のショパンについて書き留めておかなければいけない。ゆっくり楽譜を見ながら歴史的録音を比べてとか思っていたが、いつものことで到底時間が無い。マルカンドレ・アムランのリサイタルは来年行くので、手短に感想としておこう。

バーデンバーデンでのガイダンスがとても程度が高く充実していたことについては触れたが、その内容はとても示唆に富んでいた。講師はポーランド人なので、ショパンとなると何時にもなく熱が入った。全体のプログラミングに関しても言及していて、若書きと最晩年の作品が合わされたという特徴を伝えていて、一曲目のベートーヴェン最後の四重奏曲と同様にファンタジーポロネーズを扱った。正直ショパンを自分で弾く訳もないので、ただの名曲でしかなかったが、それどころかショパンの作品で最も重要な曲だと言われて驚いた。

つまり簡単に聞き流してしまえばそれだけの曲でしかないが、下降線におけるあまりにも大胆な和声展開のはじまる最初の変ハのアコードからの、それに続く分散される音形、一体それはなにか、一向に表れないポロネーズのリズムの主題。それが謎解きされる。

つまり下降形でアコードとくるところが追憶となる。そしてなんとそのあとの分散音形をして泡だという。泡、このポーランド人が勝手なことをと思うと、洗礼だと断言した。すると当然、前の下降は水に浸けられて、丁度「青いサンゴ礁」のブルック・シールズが水に潜り、そして浮かび上がるときの泡である。なるほど潜在意識化にあるカトリック信者の若しくは人類共通の羊水の中の記憶かもしれない。ここまで聞けば如何にこの曲が通り過ぎる中で何が起こっているかに気付かせてくれるが、本当だろうか?

二つ目の主題、そしてポロネーズが漸く出てくる。実際、この主題やらトリオに出てくるそれなどが気に成っていたのだが、コラールなどだけでなく、繋ぎが挟まれるところで不明確になると同時に終止形が置かれ曲としての体を整えている。それがどのような意味を持つのか、要するにクラシックな叙述法からすれば一体何だと疑問が呈されるところで、次のように説明された。

だからロマン派と美学的にされるところで、丁度当時の小説類を比べてみたらよいというのである。つまり、ポロネーズという主題が曲の途中から消えてしまうのだ、それは主人公が途中で死んでしまう話しと同じで、その為の展開の準備やドラマテユルギー上の工夫がそこで為されていて、一番単刀直入なのは読者につまり聴者に主を忘れさせることなんだという。全くクラシックの技法とは反対で、忘却から次が展開する。

そこで、大名言が発せられる。反クラシックつまり反啓蒙思想の忘却の話法となる。つまり、「過去に覚えが無いことには習わない」、思わず声が出そうになった。歴史認識、その流れをはっきり把握して構築的に合理的に、指揮者のブロムシュテット爺ではないが、今日より少しでも素晴らしい明日があるという希望とその態度こそが啓蒙の思想であり、そこでは人々は少しづつ開眼されて、覚醒して賢くなっていく。浪漫的とはその反対で、覚醒してはいけないのである。いつも眠っているのである。それどころか忘却の彼方へとひたすら歩むのである。勿論ポロネーズというような舞曲はポーランド人にとっては潜在心理のような土着の心理に働きかける要素である。

日本人がドイツのホッホロマンティックに明け暮れる信条は、見ざる聞かざる言わざるの三重苦の人生観と世界観でしかない。その日本市場でベートーヴェンが演奏されて好まれるという矛盾はここにあり、正直未だにその人気の秘密が私には分からない。確かに何もかもを忘れるための音楽需要と言うのもあったような気がする。

さて、肝心の演奏はどうだったか。今ホロヴィッツのややデフォルメが過ぎる演奏と比較してルービンシュタイ演奏の細やかな感情の襞のようなものは嬉しいのだが、やはり惚けるところ少なくなく常時忘却へと進みそうである。その点アムランのピアノはやはり飛び切りの名人で極力歪になるのを避けていてペトレンコの指揮に相当するような拘りが激しい。要するにあるべき音符を正しくその語法の中で鳴らせば真意は自ずと伝わるという按配でペトレンコも以前は仏頂面の指揮をしていたらしい。

そして、座ったまま拍手をさせずに二曲目へと少し間をおいて進んだ。スケルツォである。こちらは更にその傾向が強く、あまりにもの音符の波に暫し忘却の彼方へと睡魔が押し寄せてきた。フモーアを超えて夢魔である。こうして当代を代表する名人の演奏を聴くと如何に普通のピアニストが楽譜を土台に自己表現にばかり鍵盤を鳴らしているかが分かる。その鍵盤での自己表現のセンスがよいかどうかだけの相違である。

ガイダンスに戻れば、これはと言う面白いことを言った。メモは取らなかったが、その意図を考えると気持ちよかった。このような超名人を祝祭劇場のマティーネーに迎えることは殆どなくて、それもアムランがとなると待ち遠しくて待ち遠しくて溜まらなかったのだという。本当にLangLangだったのだと言った。恐らく、当日の聴衆の半数ぐらいは先日のランランのピアノを聴いたであろう。本当の名人を待ちわびたというのがその旨だった。確かに笑い話にしかならないピアノだったが、あれでも何だかんだと書く記者がいるのだから、全ては忘却へと深い眠りへと沈んでいく。(終わり)



参照:
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
悦に入る趣味の良さ 2017-03-09 | ワイン
by pfaelzerwein | 2019-05-14 21:27 | | Trackback
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