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身体に精神が宿るとき

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少しづつ気温が上昇してきた。印象からすると今年ほど涼しい春は無かった。このまま推移するとそれほど暑くはならないと予想する。空気が充分に冷えていて、陽射しの中でのランニングも気持ちよかった。当然月が替われば気温は上昇するだろうが、長袖が必要な五月は久しぶりだったのではないか?五月の気持ちよさが今一つで、六月、七月と快適だったらよいと思う。但し六月は例年の如くヴァインフェストで騒がしくなる。

承前)最初のハイライトであったドッペルフーゲに関しては既に言及した。フォルテシモの頭出しの付け方とアクセント、到底今までの演奏では出ていなかった頭出しとそのカノン、残念ながら合唱ほどには管弦楽団に十分なアクセントが付けられていなかった。全てはコンツェルトマイスターの責任だったが、楽団は実力なりにしっかりと弾いていた ― 最後の喝采において管楽器奏者も何人も立たせた、しかし同じ楽器群でも立たせない楽器の一番二番の奏者もいた、それはペトレンコがいい演奏をこそ誉めるという矜持であって、ラトルのだらしなさとは正反対である。こうした対位法的な扱いにおけるペトレンコの腕前は劇場でも何回となく経験しているが、劇場作品ではこれほど凄まじく立派な楽譜は無い。

しかし、今回の八番の恐らく最も成功していたのはそこへと繋がると同時に第二部の素材となる楽想や動機の扱い方で、私が注目していたのはこの交響曲の展開部に相当するところでのその力感である。早いテムポにおいて第二主題部を上手に運んだのは当然なのだが、この第一部においては誰が指揮しても降臨する第一主題部とその他の部分へのあまりにものコントラストが難しい。

そして展開部の流れの中で、特に既に第二部での準備となっているところは、なにも楽譜が頭に入っていなくても予習に繰り返し音源を聴いている耳には、ミサ的に「インフィルマノストリ」と聖霊(精神)が宿るのは明らかではなかったかと思う。それほどの場の劇性こそが、ペトレンコ指揮では、ギーレン指揮者や小澤指揮などと同じようには音楽が淀んだり流れてしまわない所以である。

管弦楽の実力も影響したかに思えたのは、今まで聴いたどのペトレンコ指揮の音楽よりも、ややもすると説明的に感じたからだ。つまり対旋律などの当て方がで残念ながら上手く出てこなかったところがあるからだろうと想像する。反面、主旋律がアクセントをもって出てくるので見通しが良過ぎるぐらい流れが分かり易い。この点に関しては一年後のミュンヘンの劇場での公演でも完成しようが無さそうなので、ベルリンでの演奏が待たれるところである。恐らくマーラーのこの代表的な交響曲の本格的な回帰へと繋がり、バーンスタインのルネッサンスを漸く乗り越えることが可能となるに違いない ― 晩年にもう一度振ることを拒絶して「何も新たにすることが無い」と敗北宣言を捨て台詞とした指揮者アバドの無能力さを改めて回顧する。

そして件のフーゲを超えて、更に大きな合一のフィナーレへ、勿論ペザンテからのテムポの運びも、どうしてもこうしたペトレンコ指揮の専売特許として注目してしまうのだが、例えば指揮者ヤルヴィなどだと地団駄踏んでギアを入れ替えるところを一瞬の体の屈伸で見事に大フィナーレと運んだ ― 例えると昔のミッションの五足ギアと、最新式の九足のフルオートの相違であろうか。第一部の残響が捌けたところで拍手が来るかどうかと構えた。最近の傾向からすれば大都市圏ならばここで湧き起ったと思うほどの圧倒的な出来だった。

しかし流石にそこはローカルな地方都市の住人であって、そこまでトレンドに影響されていない。明らかに一部のドイツの都市からすると聴衆の平均年齢も高かった。そこに楽譜に指示があって、ヴィデオで見るロート氏のように会場を振り返って受けを狙わないのは当然だが、兎に角早い動きで大指揮をしたので汗だくだったようだ。いつも以上に長い時間を掛けて汗を拭いていた。(続く)



参照:
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-05-24 19:14 | | Trackback
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