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第二祝日の不可欠の厄落とし

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今迄で複数回出かけたオペラ公演は数えるほどしかない。一番数を出かけたのは復活祭「スペードの女王」の四晩、その他は、同じ復活祭「オテロ」、「トリスタン」、「マイスタージンガー」、「サロメ」、「神々の黄昏」、「ジークフリート」と「三部作」とミュンヘンのペトレンコ指揮の二回ぐらいだろうと思う。そしてフランクフルトの「マノンレスコー」再演再訪にはそれなりの期待があった。

なによりも並行上演の「魔女」におけるアスミク・グリゴーリアンの芸風の変化からこれはどうしてもと思った。結論からすると指揮者が遅刻で指揮者無しの公演で、いつもは超一流指揮者の公演しか出かけないのだが、二流でも三流でもない指揮で鳴らされて酷い目に遭った。それだけは、既にその手の三年前の映像であのヴィオティとは明らかに異なエう録画が出ていたので避けたく、人に譲る予定でいたのだ。しかし時既に遅し。

プッチーニの総譜を一通り見ておいても全く役に立たないどころか、如何に舞台の声以外はカットするかだったが、あまりにも難しい。序ながら一流指揮者に着いたアシスタントではなくコーチとか言う所謂コレプティの纏め役のような指揮を初めて聴いたが、なるほどその部分部分が音出しできるようにいつもの仕事になっていて、それが全く場面場面で繋がらないのだ。まるでオペラガラを観ているような感じである。そして何よりも酷いのはその人がピアノを弾いたらこうなんだと分かる、歌手が音を取り易いような音だけを出すのである。二流指揮者なら貶して終わるのだが、抑々指揮の目的が違う。悪いのは、ペトレンコならリニヴやハーンが控えていたような優秀なアシスタントではなくこうした劇場裏の人材に頼るしかなかった音楽監督ヴァイクレの程度の低さであり、その様な体制を作っている支配人の責任である。

そのような状況で折角の演出があり乍らもそこで音楽が何かを語る訳ではなく、テムポ取りで制限された歌手の歌でしかなかった。その中で二人の主役は初日シリーズと同じように自らの歌を示せてはいたと思われるが、もう一つの大きな関心ごとであったグリゴーリアンの歌に関しては、確認できたことはあった。少なくとも三年前の声が出ていないことを確認した。その時に初めて聴いたのだったが、嘗てのマリアカラスでも聴けなかったそのリリカルな声はもうなかった。

今夏のザルツブルクの「三部作」において、ヤホが得意とする「修道女アンジェリカ」の高音にはバイエルン放送局では既に批判があった。勿論書き手はザルツブルクでの「サロメ」は何回も聴いていたと思われるが、要するにその時の声は失われていたということだったのだろう。個人的にも最もドラマティックな「外套」のジョルジェッタが最も声が合っていて、その前は「エレクトラ」であったので、どうしても確かめておきたかったのである。

そして本人が最近語っているように、「もはや自身を守る必要がなくなった」というのはこれだと分かった。長く売れないようにして守ってきたリリックな声は既に失われていた。来年はマクベス夫人、再来年はイゾルテということで、ドラマティックな声ならば最早聴く必要はないだろう。確かに歌も技術的にも上手になっていて、それは大喝采ものなのだが、世紀のソプラノとしての価値はないかもしれない。前回はフレーニよりも遙かに良かったが、今ならばフレーニの方が素晴らしい。来年は復活祭前にシュスタコーヴィッチの交響曲14番の歌を聴く。



参照:
初アスミク・グリゴーリアン 2019-10-11 | 女
ビキニポール踊り予約 2022-12-05 | 生活
by pfaelzerwein | 2022-12-26 20:21 | | Trackback
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