人気ブログランキング | 話題のタグを見る

永過ぎた春だろうか

永過ぎた春だろうか_d0127795_23130701.png

各地での新人事は一定期間を待って為される。特に大歌劇場や大管弦楽団の新任監督任命となればキャリア指揮者やスター指揮者が任命されることになって、現行の契約期間が終わるのを待たなければいけない。その前者の一人がミュンヒナーフィルハーモニカーのシャニであり、後者の一人が同地の放送交響楽団で待たれているラトルである。

そのラトルが、ヴァ―クナーの楽劇「ジークフリート」をコンサート形式で振った。勿論名歌手を集めての催し物であるが散々に批判されている。そこで歌っている英国系人とドイツ人の歌を比較などできないという事であるが、たとえそのテノール歌手がどれほどヴァ―クナーを得意としていて同地の劇場で歌っていたとしても、子音が全く発声出来ておらず、母音に関してはそれは異なる。要するにそれ以上は外交辞令として言うまいとしている。その流れで同様にラトル指揮を切っている。ドイツ国籍云々などは全く関係ないのである。

そのことそのものがラトル批判となっていて、未だ就任していないポストを救うとは、共演者に配慮しようとするのかと、特にオペラ指揮等で全く指揮が出来ていないラトルの致命傷を指摘している。例えば、放送交響楽団の自慢の金管や打楽器が喜び勇んで腕を振るうところで全く抑えることもっ出来ずに、声が全く聞こえないようなことにしているというのである。それに対抗して吠えられるのはゼーリックぐらいで、カムぺのように主導権を持って歌わないと駄目というのは、まさしく復活祭で周知の事実となっていた。

そしてそもそも「ヴァルキューレ」で示したように、凝りもせずに甲斐の無い指揮しようというのは、四部作「指環」で脱ミトスでも示そうとしているのか、今回もさっぱり理解できなかったと。

ここで謂わんとしていることは、一つは上述に続いて、真面にヴァ―クナーを指揮出来るほどの中欧の音楽が特に独墺音楽を発音できない事、そして歌劇の経験を摘んでいないことから、歌手を指揮することが出来ない事、そして放送交響楽団を指揮するのに態々楽劇を演奏会形式で指揮する事への認識が示されている。

これはBR放送協会の批評では言葉を変えて、その最後の点に視点を移している。つまり、演奏会形式でこのような楽劇を演奏する価値は何処にあるのかの疑問である。筆者は、書棚の2メートルに及ぶプログラムの並びを前にして、あの演出は恥知らずだったとか思い出しながら、その意味に思い当たる。

演出の助けが無ければ屡一世紀以上を超える歴史の中での物語の意味合いが分からない。だから演奏会形式は少なくとも何回かは舞台を経験してこそ、その演奏の意味を知ることが出来るものだと結論している。

オペラとが楽劇とかはその様に作曲されていて、さもなければ意味がないことを示している。要するに分からないのは聴衆であり、婉曲的乍上述のラトルがこうした作品からその音楽的な意味を引き出そうとしても徒労にしか終らないことを示唆している。

ラトルファンを止めようかというほど批判されていて、ヤンソンスザールで派手に興行的成功ををと考えていた人事も意味なく。2030年まではバックヤードも無い貸しホールで演奏会を続ける。



参照;
Ungebremst loslegen, Michael Bastian Weiß, AZ vom 6.2.2023
WARUM OPER AUCH OHNE BÜHNENBILD GROSS SEIN KANN, Michael Atzinger, BR vom 3.2.2023
永過ぎた春だろうか 2023-01-26 | 雑感
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
by pfaelzerwein | 2023-02-07 23:13 | 文化一般 | Trackback
<< 光が射したコンロ クライマックスのトランス >>