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音楽教師の熱狂と分析

昨晩は連続ラジオドラマ「ファウストュス博士」の第二回放送を聴いた。主人公が楽器製造の叔父さんのいる町で数学への関心のうちにも室内楽などに接していく事始に始まり、音楽教師クレッチマーのベートーヴェンのソナタに続き同時期の作品ミサ・ソレムニスを含むフーガに関する講釈、そして彼の故郷であるペンシルヴァニアのドイツ移民教会共同体での音楽生活が語られる。

前回からの流れが放送の冒頭に示される。そこでは特に「蝶のエピソード」を挙げて、美しさと醜さの両面を併せ持つ二項対立を物語の骨子としているとして、本編に引き継がれる。

そのルター派の信教に支えながらかつ迷信の残るような中部ドイツの町で、音楽教師が講演を行なう情景と共に、その内容が主観性に満ちたハーモニーと即物的なポリフォニーを対称軸におき、やはり同音異調の構造を上の「蝶」と同じく二律背反を応用する自然として扱っていく。

こうして掻い摘むと、構造主義的な世界観がこの作品の根幹にあって、アドルノのアドヴァイスと共に砂を噛むような読書感のようにとられ、なおそうした表面的な読み取りが、ザッハリッヒな印象を与え兼ねない。しかし、この作品の面白さは全く他の所にある。

つまり、実際はこのラジオ制作で強調されているように、このクレッチマーが登場する場面は、「魔の山」のセッテムブリーニの場面のように滑稽さとユーモアに満ち溢れている。この音楽教師が熱狂して言葉を詰まらせ、どもりながら夢中に解説するのがそのハ短調の最後のピアノソナタなのである。

その内容は、最近は殆ど必ずこの曲の解説に使われているので比較的良く知られている。そこでは、二楽章アリエッタの主題「ディムダダ」つまりドソソが歌詞をつけて歌われる。

„Him-melsblau“ oder:
„Lie-beslied“ oder:
„Leb’-mir wohl“ oder:
„Der-maleinst“ oder:
„Wie-segrund“ -

「青い天空」、または 
「ラヴソング」、または 
「お別れだ」、または、
「いつか他日」、もしくは 
「草の原っぱ」となる。

これが、C音に半音高く変えられたCis音のトレモロを伴ってD-G-Gと鳴らされる時は、つまり次のように変わる。

„O-du Himmelsblau“, oder
„Grü-ner Wiesengrund“,
„Leb’-mir ewig wohl“ -

「ああ、青空」、または
「緑の草原」、
「永遠にお別れだ」と共振するとなる。

この変化を称して「Cis音は、心を揺さぶり、慰めに、哀愁に満ちた、世界の和解の手である。それは、髪や頬を触れる辛くも情に満ちた愛撫のように、間近に覗きこむ最後の深く静かな眼差し」と、この作家はクレッチマーに表現させる。

更に、「それは形を巨大に展開され、擬人化されて祝福される。そしてそれが聴者に別れを告げる、目の前を通り過ぎる心に、永遠の別れを」

„Nun ver-giß der Qual!“ heißt es „Groß war – Gott in uns.“ „Alles – war nur Traum.“ „Bleib -mir hold gesinnt.“

「さあ、苦悩を忘れよう」とは、「偉大な神は我らが内にあった。」「全てはただの夢。」「心から愛していておくれ。」

そして、その講義の後、小さな夜の町の裏道の彼方此方に聴講者の鼻歌 

- „Leb’-mir wohl“ „Leb’-mir ewig wohl“ „Groß war – Gott in uns.“ -

が響き渡るシーンは、上の最も耳に残った美しい眼差しの表現に劣らず、面白い情景で、尚且つなにかを暗示している。



参照:
Thomas Mann: Doktor Faustus (hr2 kultur)
Live-Streaming (hr2 online hören)
International Music Score Library Project
 Category:Composers (IMSLP)
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by pfaelzerwein | 2007-10-12 04:53 | 文学・思想 | Trackback
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