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容易にいかない欲張り

昨晩はトーマス・マン作「ファウスト博士」のラジオ放送の三回目であった。初めて、タイマーを使って録音した。と言っても帰宅途中の車のラジオで部分的にはオンタイムで聴いた。

平常使っているPCステーションはステレオになっていないのが、車とは言えその効果に期待したがそれは判らなかった。歌や気勢を挙げる状況は判り良いが、何よりもその宗教学や哲学的内容になると、運転をしながら理解をするのは困難である。一字一句に耳を澄ませないと、言葉が上滑りに流れてしまう。

帰宅後に用事をしながらPCで聞いても、なかなか頭には入らない。その理由は、速読で流して読んでいて、再び読み返さなければ行けないと考えていたところに相当するからである。

なにが、読み直しを必要とさせるかと言えば、それはモンタージュ法による、様々な視点を組み合わせた文脈から要約する事の難しさに尽きる。例えば、アードリアンが学ぶハレ大学の宗教学の教授達の各々の見解と主人公のまた語り手の視点が入り乱れるとなると、通常の思考ではなかなか捉えがたい。

更にそこから、その人物の世俗での信念や生き様までを語られると、仮にただ一人の教授を扱っても観察し甲斐がある訳だが、それが複数に上り、そうしたステレオタイプ化した人物像を広くドイツ人に宛がい、一般化させるとなると大変な試みとなる。それを、後の方では自由主義と言う学生のバンカラに民族として客観化させて民族の主観とし語らせる。

このラジオでは、第十章から始まり、この回のみならず、アードリアン・レーファークーンの物語を、否、ドイツ文明の運命を端的に特徴つける。

「つまり、ドイツ人は二重の平行した軌道に、許されざる思考の組み合わせを所持して、あれやこれやと求め、全てを求めようとする。非定理主義で、大きな人間性における存在を基礎とする勇敢さを強調する人々である。しかしそれがない混ぜになる事で、他方から一方への精神の特性つけに於いて、混乱へと導かれる。自由も高貴さも理想主義も天真爛漫も一つの屋根の下にしているようだ。しかし、これが上手く行く筈がない」と語らせている。

そして、それらの実例がこれに続く。



参照:
想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12
by pfaelzerwein | 2007-10-19 04:16 | 文学・思想 | Trackback
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