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馭者のようにほくそ笑む

馭者のようにほくそ笑む_d0127795_0472965.jpg金曜日の紅葉狩りは楽しかった。本日、日曜日は晴天で冷えた昨日とは変わり曇天となったので、晩に散歩が出来るかどうか分からない。だから、晩秋の金曜日の妙趣を思い起しておこう。しかし、春の京の花見を描く谷崎文学のように筆が運ぶ訳ではないので、色々と考えながら歩みを進めるのである。

色である。黄色に染まったその色は、ヘーゲル教授に言わせると、そこに静脈動脈の赤と青色が混ざり、その色が緑に近くなる皮膚の色の親近感を見る。色の三原則を導くよりも、その葉の小さなモザイクのような抽象的なパターンをここに見る。

ヘーゲル教授は様々な文化のパターンにシンボルを見て、実際は仮想である一般性を語り、キリスト教文化圏における特殊性を客観視する。色づいた葡萄の葉を見て、そこからキリストの一生に思いを馳せることのないように、不可逆な客観性がそこに存在する。

車を停めて、一組の中高年夫婦をやり過ごしてから、トランクルームの革靴に履き替えていると、観光客らしいおばさんが声をかけてきて、町の中心にある泊まっているホテルの名前を言い、「少し間違ったかしら」と尋ねる。小さな丘を降りてきた所であり、反対側へ戻るにはそれを越えなければいけないので、「降りて行ってもそれほど遠くはないよ」と教えてあげる。

ワイン産地でない地域からの旅行者で、ワインの試飲買い付けを兼ねてやってきているのだろうか?きっと連れが歩くのを面倒がって、ホテルで少し情報を入れて一人で裏山を歩いてみたのだろう。思い掛けなく道が分岐していたり、小さな丘があって、その間には小さな谷に小川のようなものが通っていて道を失ったのだろう。それでも、一般的な方向感覚は確かで、ワインの山とその作業道が確実に町へと向っている。

どの地所も同じように見えるかと思うと、反対の一角からは他の一角が想像も付かないと思ったに違いない。そこでは、歩く人の主観的な妙趣があり、その人を客観的に見る妙趣がある。分岐路から分岐路へと何気なしに誤って進む面白さと滑稽味がここにあって、それは、道を逆戻りして正しく折り返しても妙趣が無いように不可逆であり、一般性に対する特殊性がそこに存在するのである。

ヘーゲル教授は、デューラーのそれに対してラファエロの版画を反証として挙げて*、また音楽においては、ドイツ音楽の弱起のアウフタクトを特殊性としてイタリアやフランスのそれと区別して**客観性を得ている。

破天荒な「ディアベリの主題による33の変奏曲」は、ベートーヴェンの最後の三大ソナタや「荘厳ミサ」に前後する創作で、ベティーナ・アーニムを通じて知り合ったフランクフルトのブレンターノ家の娘アントニーに向けられている。その二馬力か三馬力の推進力で揺られる馬車に乗せられるような、その弱起は、シンコペーションを掛けられてついついと眠気を誘うかと思うと、急激なリズム変化や不意打ちのはぐらかしを掛けられて吃驚してはたと眼が覚める。それを見る馭者台に陣取る作曲家は振り返りほくそ笑む。そして暫らくすると何もなかったように、強引に飛ばしたり揺らしたりと、殆ど脱輪したかのようなグロテスクな表情さえ見せるのである。ぎょっとして、その馭者の顔に嘗ての即興演奏家の面影を見て、知らぬ間に再び、馬車に揺られながらうとうととするのである。

秋の葡萄の間を巡り、区画を別ける小さな石塀の間に積んだ石段を滑らないように、左足右足と一つ一つ確かめて降りたり、一段飛ばししてみたり、塀の上から飛び降りてみたりと、何の変哲もない道を寄り道しながら昇り降りするようなものなのである。
馭者のようにほくそ笑む_d0127795_0504366.jpg参照:
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19  
どうにも哲学的な美の選択 [ 文学・思想 ] / 2007-10-18
*7.Heft
**18.August 1826
by pfaelzerwein | 2007-10-22 00:51 | 文化一般 | Trackback
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