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エロスがめらめらと燃える

肉体とエロスは今年のこのブログのテーマでもある。BLOG「TARO'S CAFÉ」で裸とポルノが話題となった。イン河の橋の欄干の男性器をされけ出したキリスト像の設置が物議を醸し出している中、オーストリアのカトリック原理主義者が、春のザルツブルクの裸のモーツァルト像*ペンキ事件に続いて再び抗議行動を起した。事件に関してはカトリックのメディアは関心を持って伝えているが、一先ずその町から遠く離れている我々にはどうでも良い。

興味あるのは、ポルノ反対派と呼ばれる原理主義者の行動原理であり、我々の社会が持つ「裸とポルノ」に対する考え方ではないだろうか。裸の彫刻と聞いて誰もが思い浮かべるのはギリシャ神話の神々の古典の裸像である。そして、それにキリストの腰に捲いた襤褸布を比較するのである。

古典芸術をして、ヘーゲル教授は裸について簡素に的確に語っている。つまり、神々は完璧で隠すものがないのであって、衣服を纏ったり性器を隠すのは人間的なこととしている。そして、ギリシャの美神のヴィーナスなど限られた女性しか充分に肌をさらしていなので、もしギリシャ人がより以上に裸に寛容であったなら美意識は変わっていただろうと大変残念がっている。

なぜならば、精神的な部位と言うのは頭とか手の動きとか仕草を考え、それ以外の部位は動物的で感覚的な必要悪と一般的には考えるからである。つまり、隠されていると言うことは、動物的な感覚が嫌われて、慎み深い人間の精神が動物的な生を恥じていることを示すと語る。要するに、古代においてもパラス像などが余りを肌を曝していないことを挙げ、人間のそのような部位の美は感覚美であって、精神美ではないと断言する。

当然、アダムとイヴの楽園追放の経緯が原罪となることに対応している。キリストがギリシャの神々のような肉体を持っていないことは確かで、罪を背負っていることが大切なのである。

またFKKと呼ばれる肉体賛美や解放がナチズムもしくは唯物主義やマルキズムの文化であるように、一方アニミズムに類似する即物的肉体の商品化と神格化によるフェティシズム**、その中間帯のヴィクトリア期の美学者ラスキンやルイス・キャロルらのペドフィリアや作家オスカー・ワイルドなどの同性愛者の存在、また画家ターナーの変態ぶりなども文化宗教的背景を無視しては考え難い。

反面、性の倒錯は観念的なもしくは目的論的な考察のなかでこそ倒錯と言われるのであって、ヘーゲル教授の説のように肉体はそもそも不死ではないので不完全としても、そしてそれらが浄化されて美が存在するとする精神の普遍性にも疑問が投げ掛けられる。

本日は霧がたち込める万聖節となった。ドイツ語の「ALLERHEILIGEN」は「All Hallow’s Even」つまりケルトのハロウィーンと同じ語彙であると最近はその米国文化の一般化から説明されるようになっている。肉体が朽ちた後のその精神が、蝋燭を添えられて、めらめらと光り輝く。その光を微かに跳ね返す対象こそがエロスへと導かれる。


*モーツァルトの非聖人化は、娯楽映画などよりもこのような方法の方が効果がある。
**資本主義の物神崇拝論としての用例が有名なようだが、寧ろここでは未発達な宗教や世界観によるアニミズムが重要である。



参照:
純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28
素裸が雄弁に語らないもの [ 文化一般 ] / 2005-04-21
民主主義レギムへの抵抗 [ 文化一般 ] / 2007-08-25
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
by pfaelzerwein | 2007-11-02 00:00 | | Trackback
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