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人命より尊いものは?

今日の西側先進国においては、人の思想や傾向は「テロとの戦い」への見解として表れる。

先日来のテロ対策に犠牲とされるものをどのように読み込むか、非常時の限界を探る知的なお遊びであり内務の政治課題となっている。それを真っ向から批判したのが、カールツルーヘの憲法裁判所のディ・ファビオであったが、その保守的市民社会を基本とする考え方にも現実とのずれがあることを我々も感じている。

マンハイム大学の名誉教授で公共の権利と法哲学の専門家ゲルト・レーレッケがこれに関して興味深い文章を投稿している。その見出しが示すように、法的には必ずしも人命はもっとも重要なものではないと言う法的見解である。

ここで触れた、札付き暴走族が、スパイヤーの町中、静止した警官にフロントグラスを射撃され射殺された事件は記憶に新しい。全国紙では問題とならなかったが、地元では大きな社会的な議論となったことは、死刑廃止の欧州市民を興奮させる出来事であったので想像に足りる。この法的疑問にもこの記事は間接的に回答してくれている。

先ずは、憲法判断による警察権の解釈つまり平時の治安維持の定義である。つまり精神薄弱や酔っ払いをそのまま放って置く事はならない。それは短く時間の定まった拘留に限られる。しかし、公共のための殺害は許可されているのである。そこでバーデン・ヴュルテンベルク州で新たに発効した警察法が語る。

「直接の行為に接して、明らかな非当事者の危険が充分に予想されない場合、銃器の使用が生命の危険を防ぐ唯一の手段であるとはならない。」

銃器使用は、正当防衛と緊急を要する場合のみに許されることを示している。

自称も含めて我々リベラルと呼ばれる市民は、市民の生命や財産が護られない限り国やその他の政体は必要無いと考えている。つまり戦争状態においても、市民に向けられた銃口は戦争犯罪として捉える。しかしここでは大風呂敷を広げずに、問題となっている対テロ対策において、テロリストが原子力発電所に旅客機を乗っ取って向かっている想定で、国防軍はこの旅客機を撃墜出来るか出来ないかの議論に絞って考える。

つまり、数百人足らずの罪の無い乗客と一万人の生死を天秤に掛けることが出来るかどうかのグロテスクな知的遊戯である。この法学者は、連邦法に従えば既に憲法判断が下ったように、撃墜は許可されないと言う。なぜならば、国は人命を防衛の手段に使うことを許されていないからである。たとえ如何なる人命も尊重しなければいけないからである。世界六十億の人命自体に最も重要な価値が置かれる。

そこから、生命の清算や相殺は禁止される。その尊厳が、加算された生命に還元されるに係わらずにである。つまり人の生死に関しては、一人であろうとも千人であろうとも論理的には変わらない。これが回答である。

しかし、非当事者や過失のない者を社会の利益のために犠牲にして良いのか?法治国の名を持って、この回答は得られない。法治国はあらゆる手段を講じて、対策をしなければいけない。そしてそれを自ら諦めることは許されない。

そのためには、法は自らつまり国自体を犠牲に崩壊へと導いても手段を講じなければいけないと言う。しかしである、1992年にハイデルベルクでニコラス・ルーマンが講演したように、「テロリストによる原爆点火を避けるために拷問は可能か?」の問いかけは異なる視点を与える。

法治国においては、拷問の禁止を護るためには広島・長崎以上の犠牲も厭んではいけないとなる。要するに拷問禁止は、人命よりも法治国では重要となる。警察は答える。「時間が無ければ、無垢の生命の犠牲は止むを得ない」。つまり、拷問禁止は殺人よりも重要なのである。それは、なぜか?

殺人は国の権力によっても個人によっても世界中で日常茶飯であるが、拷問は現代では許されないからである。そして、人類学的な更に聖書からの見地から智恵を得る。

淘汰においては、予測可能の条件において種の殺戮が自然で通常の性質として起こる。それは、それほど近親ではないが直接の競争相手である同種に対して、充分な自己の遺伝子情報が、平均を上回り再生されるときに殺戮を生じさせる。

この世は人を堕落させるから不幸だ。堕落は避けられないが、それを起す者は不幸である。もし手か足がお前を堕落させるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足で生命を受けるほうがよいのだ。もし目がお前を堕落させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両目の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、片目で生命を受けるほうがよいのだ。(マタイオスによる福音18章)

これをして、遺伝子情報こそが個人の生命よりも重要で、その規格こそが五体の満足よりも優先される。しかしこれは倫理の問題ではなく、生命の固体の重要性を根本から崩している。こうなれば、「生命とは何ぞや」の問いかけは不要となると書いている。要するに、それは科学の自己否定ではないのか?

問いは既に回答されているが、テロとの精神的な対峙は係わらず継続して、原爆テロリストが上の精密な規格を尊重して、「法治国と死」の条件下に行動をするのかどうか。しかし、どちらにせよ、その回答で市民の安全性が高まる訳ではないが、市民はその回答で少なくとも安心することが出来るとしている。



参照:
Das Leben ist der Rechte höchstens nicht,
Gerd Rollecke,
FAZ vom 1.Dezember 2007
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
正当化へのナルシズム [ 歴史・時事 ] / 2007-11-29
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
by pfaelzerwein | 2007-12-06 02:45 | 生活 | Trackback
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