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非連続の鏡の中の逡巡

非連続の鏡の中の逡巡_d0127795_1941729.jpg秋に髭剃りを新調したことはここに書いた。その後も何度も充電して、尚且つ洗浄液で洗いながら使用している。二月経過した時点での感想である。剃り味は、幾らか刃が丸くなったのが新品の時分のシャープさは無くなった。それに髭剃りの時間も初めの時点より短く無精になってきた。剃り味が悪くなるとどうしても拘りが失せる。細かなところが面倒になる。それでも、ある程度時間をかけて少し圧力をかければ良く剃れるとは思っている。

しかし、どうも以前使っていた充電池よりも質が悪いような気がして来た。刃の動きが同じだとすれば、以前の物の方が一週間以上も充電が持った。毎週一回は洗浄をする時間はあるので、それ以上保つ必要はないが、せめて一週間は充電無しで動いて欲しい。

なるほど、新製品の発売時から継続して売り込む場合は、生産コストを押さえて行くのは工業家やそのエンジニアーにとっては当然のことである。しかし、充電池は中国か何処からかの買い付けであって、電圧の減衰データーを基にして、使用者に気が付かれないように「余分な能力」を削っていかなければいけない。自動車でも髭剃りでも同じである。その分、同シリーズの欠点も改良されている。

何れにせよ、髭剃り使用時間をあまり長くは懸けたくないのである。するとどうしても剃り残しが出てしまう。そうなると新品を買ったにも拘らずと、日中どうしても不愉快な思いをする。

髭剃りも髪の毛と良く似ていて、その「気になり方」が問題なのである。最近幾つかの記事を読んで、なるほど短すぎても長すぎても放っておいても手間をかけ過ぎても上手くいかないのである。

笑福亭鶴瓶の小ネタに、髭剃りのものがあって、髭を剃ってさらにモミアゲをモミアゲ剃りを当てて、更に剃りだすとその境目が判り難くなって、何処までも剃り込んでしまうと言うお得意の強迫観念ものがある。これも、もみあげの生え際とその延び方の一様でない形状と、自然にして置きたいが、その自然さが何処まで行っても追求できない不思議さがあり、それをモミアゲとして手入れする難しさにこの恐怖心が湧き起るのだ。

その点、髭を剃るのは容易で、何処までもツルツルになるまで剃ればよい。境目はハッキリしている。充電を使い果たさないように、少し圧力をかけながら執拗に剃れば良いのだ。

それにしても洗顔や歯磨き時にはあまり出ない一人喋りが髭剃りによく出るのはなぜか?決して怠慢な態度で鏡を見ている訳ではないのだが、どうしても小言かなんとかが出て来てしまうのである。なるほど歯の汚れとは異なり、髭の成長と言う連続した時の推移が髭剃りによって断行されるからだろうか?

するとどうだろう。区切りが分らないモミアゲこそが、連続性を表象しているのではないだろうか。しかしである。その連続性を何処かで断行しようとするから、ついつい強迫観念に襲われてしまうのである。

暦の上の一年の終りも、これに似ているかも知れない。その区切り自体は冬至のようになんらハッキリした区切りにはならない。しかし、なんとなくここで区切ると言う感じである。だから、カウントダウンなどするのと、モミアゲを何処までも剃り込まずにどこかで任意に線を引いて止めるのと、心理的に似ている。
by pfaelzerwein | 2007-12-31 19:06 | | Trackback
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