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聴視料徴収に検察権力発動

聴視料徴収の話は一度したかと思う。嘗てはややこしい時期もあって変則的な払方をしていたのだが、今はスタンダードな払い方をしている。理由はPCに対しても徴収する姿勢と、自身その聴取料からその内容ばかりか多少なりとも放送権料を回収しているから、これを払わなければ具合が悪い。

TVを観なくても、車を持っている限りラジオを聞いている事になり、払わないのは不可能なのである。それでも、TVを好きで観ながら払わないでおこうとする人はいる。

そうした人の話である。アパートメントに頻繁にパトロールのおじさんが来るのは当然だが、それを永く追っ払っていても、文書による回答をしたしなかったかなどで、今度は「郵便物が盗難にあったかどうか」と警察が訊ねて来ているらしい。その警察官にも応対しなかった事から、起訴するかどうかと脅かされているという。

ある種別件による捜査が用意されている雰囲気である。もちろんTVが室内にあって、それを大きな音を出して視聴していることやケーブル回線料を支払っている事などは近隣や関係者の事情聴取などで証拠を挙げているに違いない。それをして、今度は郵便物の失踪を楯に警察に要請したようで、こうした案件における強制捜査の方法として巧妙な方法が用意されているのである。また過去に遡って徴収出来るのかどうかは判らないが、少なくとも不正申告や虚偽の記載などについては訴追できるのだろう。

些か事大主義に思われるが警察権力や国の権力などはそれが個人に向けられるとき、それが如何なる公人であろうとも私人であろうとも凄まじい圧力として襲い掛かる。為政者だけがその権力構造の頂点にいる事を忘れてはならない。

そうした民主権力を有効に活かして最大公約数的に社会のためにすると言う考え方が社会主義であって、それを悪用する事で独裁主義にも全体主義にもなる。それに対して、個人の権利や保護を優先にした自由主義社会では、なんらかの民主的な摂理や倫理が働かない限る他人の自由を侵さずに個人の自由を最大限に活かすことは難しい。

TVを観ないのは自由である。しかし、公共放送を自らの手においておく事と同時に市場競争とは異なる社会においておく事はなによりも重要である。公共放送に市場論理を持ち込み、その聴視料を強制的に巻き上げることが如何に間違っているかはこれだけ考えても分かるだろう。



参照:
役目終えたTV放送の私物化 2009-03-01 | マスメディア批評
ああ、私の愛しいお父さま 2007-01-27 | 雑感
伝統文化と将来展望 2004-11-13 | 文化一般
綾織の言葉の響き 2005-04-12 | 音
by pfaelzerwein | 2009-03-19 07:42 | マスメディア批評 | Trackback
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