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黒い怨念と恍惚の絶頂感

先日の校内外大量殺人事件で狙い撃ちされ銃殺された五人の生徒の親御さんらが共同で抗議文を認めた。加害者の名前や写真をメディアは金輪際出すなと。

その通りである。被害者の氏名や詳細は一切出さないのが罪のない死者の尊厳から当然であるが、加害者のそれも出すべきではない。世界中で流行している所謂劇場型犯罪は、こうしたマスメディアに踊らされて犯罪を犯している。犯罪コンピューターゲームと同罪である。

こうした報道やネットでの扱えさえなければ、自殺志願者の劇場犯罪は成立しないと、社会学者は説く。そしてマスメディアはこれを話題にして商売をして、広告会社はスキャンダルな事件をネタに喜んで広告料を勘定して企業に売りつける。

そもそも三面記事と呼ばれるような社会記事というものは一切無用で社会の害悪なのである。偶々事故や犯罪に巻き込まれた人の不幸は、全く他人事であり誰にも関係がない。そこにどれだけの社会性をみるか、一般性をみるかはまた別な問題である。一体、その広告料や版権からどれほどの金銭が被害者や被害者の家族へと「出演料」として支払われているのだろうか?

被害者家族の「公序良俗に反するような復讐怨念」発言を広報する極東のマスメディアやそれを喜んで権力の行使に活かす司法権力においても、上のような広告料は重要な経済的要因となっている。

それならば、支払能力があれば殺人であろうが如何なる罪も金銭として代償出来るに違いない。もともと、経済故に成立している社会現象は経済的に解決されるのではないか。劇場型犯罪の犯人は必ず考える。「おれを見縊るな。きっと ど で か い 事をやらかして、世界中が俺の事に注目するさ」ととても立派な大志を抱いているのだ。そうした若者を支援育成しているのがマスメディアや厳罰を擁護して誹謗喝采を浴びせる野次馬的同世代の連中に違いない。

厳罰への誘惑は、セバスチャンの恍惚の興奮と同じく、マゾヒズムの黒い炎がむらむらと燃え上がり、三島由紀夫ならずともオーガズムの頂点へと登り詰めるのである。敵討ちの怨念のどす黒い炎と、それが車の両輪となって火花を散らすのである。

知的水準の劣る民族の性的倒錯者よ、そのような経済に荷担するならば、それによって被害者を救済しなさい。


追記:めそめそとしながら、「才能もなにもない私に」と「堀ちえみのスチュワーデス物語」のような事を仰る小沢次期首相候補のVIDEOをみたが、まさにその選挙民に見合った政治家でよいのだろう。それともそれを、日本国の決して乾いていない心情と文化の偉大さの正直な発露と評するのだろうか。



参照:
Sein Name sei nicht mehr genannt, Christian Geyer, FAZ vom 23.03.09
月並みな自己表現の自由 2009-03-13 | マスメディア批評
月並みな生劇を広報するTV 2009-03-12 | マスメディア批評
聴視料徴収に検察権力発動 2009-03-19 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2009-03-26 00:45 | マスメディア批評 | Trackback
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