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知性に劣る民を卑下する美徳

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ジョン・ラーベの映画と討論会は大変有意義であった。ネット上でも「日本では上映させない」とかネット右翼が叫んでいるようだが、共同制作であるから中共はこれを受けざる得ない訳で、日本でこの映画の上映が問題になるようでは明らかに中共よりも日本の民意は劣るという事になる。

この映画が立脚する事実関係は「ラーベの日記」であり、それはネットにて批判対象となっているものであるので、大変問題が多い作品かと思っていたが、上手に教育的な視点を持って大日本帝国軍の罪が完全に相対化されているのである。この典型的なハリウッド風の娯楽映画に事実関係や告発や真相と深層を期待するのは間違っているが、少なくとも多くの人に客観的にその時代を実感して貰うようなつくりとなっている。

個人的には、東京裁判の路線を継いだ朝日新聞や左翼の所謂自虐史観の教育を受けた世代として、述べたような「南京の虐殺」を実感するにはあまりにも物足りなかった。少なくとも突発的に起きたであろう婦女暴行や市民に対する人道に反する帝国日本陸軍の暴走が十分に描かれずに、それは脇に追い遣られて、「本質的な戦争犯罪」こそが描かれるに留まっていた。

つまり、婦女暴行は、一人の娘への未遂と二人の暴漢の日本兵が子供に打ち殺されて、娘がインターナートへ逃げ返ったところへ日本の兵隊がやってきて、寝床から起こされた居並ぶ娘達を真っ裸にして家宅捜査する「DVDマニアに魅せるシーン」としてのみ暗示されていて、その他は「インタナート娘を都合しろ」と迫る日本兵の要求する場面だけに「現在も日本で盛んな抑圧の性犯罪」が美学的に代えられて表現されている。だから基本的に「皇軍」は紀律正しく描かれていて、それはラーベの日記に岡少佐との会話として残されている日本軍との関係に影響されているのだろう。

逆に司令官であった陸軍中将朝香宮鳩彦は、皇族として東京裁判での絞首刑を逃れたゆえに、この映画においては「捕虜の保護の条約を無視」する最大級の戦犯として描かれていて ― 恐らくその事実関係も正しいだろうから ―、ここに日本人に対する教育的なメッセージが隠されている。要するに、討論会であったように政治学の専門でもある日本学のザイフェルト教授が言う「日本での研究は、当初から熱心に行なわれて大変進んでいて、犠牲者の数の問題などはもはや重要ではない」と、中共が誇大な数でプロパガンダをしようがどうでも良いと言うのだ。学術的に重要なのは、「人道的な犯罪へと至るそのメカニズムであり、それは皇軍独自の服従の構造なのか、はたまたそうした抑圧が暴発したからなのか、そうした軍事教育が問題なのか」を考えて行く事で、七十年前の真実よりも今に通じる問題の方が遥かに重要なのは尤もである。

それでは、未だになぜ修正主義者は七十年前の「真実」とかに拘るのか?なぜこれほどに穏やかな映画すら日本での上映に問題が起ると予想されるのか?極右と言われている輩は一体なにを恐れているのか?これらについて明確な回答を他の質問に答える形で教授は示してくれた。

それは、先般も驚くほど知的程度の低い自衛隊の制服組の最高幹部が示したような、第一次中華事変から太平洋戦争までの総てを、反西欧主義のアジアの植民地からの解放として扱い、侵略戦争としての否定面を一切認めないと言う主張の存在である。更迭されたその男が講演会を開いて生計としていることが示すように、ある世代からあとの若い日本人は管理教育と呼ばれる「卑下する国民」として養成された一方、僻みと裏腹な空威張りの愛国教育がなされた現在の日本の社会基盤がそこに存在するからである。それは、江戸時代から戦前の社会まで綿々と続いた「為政者が被支配者の下卑た精神を庶民に植えつける事によって支配する方法」への教育であったのだが、そうした被支配者層が高学歴化への道を歩み、戦前はある種のエリート層のみが国際的関係を持ったのとは異なり、「卑下する庶民」が世界と直接繋がる事により、一種の逆人種差別というような風潮が蔓延しているのは一目瞭然なのである。そうした風潮を戦前の西欧化への試みの教育と重ねるところに、現在のネット右翼と呼ばれるような、もしくはろくでもない発言をする日本社会の指導者層の精神構造が浮き彫りとなる。

それゆえかハイデルベルクのザイフェルト教授は、「日本社会党の村山首相が謝罪を示した以上に、ドイツ首相ヴィリー・ブラントが地面に跪いたような態度をとる必要などない」と断言的に説く。ただし、日本は、大日本帝国がドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の真似をして中国において「人道的犯罪を犯した史実だけを認めれば良い」のだという。もちろんそこには、ここで再三扱ったコールハンマー教授が説くように、また本日も話題となったように、日本の教科書の南京虐殺の記載についてその文部省の検定が「広く社会で議論されるが、中共などはそれも全くない訳」で、朝鮮にしろ中共にしろ日本のまともな議論の相手ではないという事情が横たわる。

それならば、ああした日本の極右翼と呼ばれる連中や、もしくは自虐史観や親中・親米を売りものにするマスメディアなどは、「一人前の国際関係を築くための思想集団やジャーナリズム」などでは到底なく、為政者にとって都合の良い対抗軸を築くためのプロパガンダの方棒を担いでいるだけなのである。

たとえ国民の平均化によって戦前よりも現在の日本人の知性が劣っているとしても、例えば中共の人民へと直接語りかける可能性は当時と異なり手軽に幅広く存在している。南京出身者の話に ― その国策教育で植えつけられた感情を取り除いた所で ― 耳を傾けると、我々がネットで見せられているような虐殺行為よりもなによりも、映画で描かれていたような南京絨毯爆撃こそが主な南京市民が被った大日本帝国によって引き起こされた実際の戦争体験なのである。それはベルリンで多くの女子がロシア人に強姦されたように「月並みな戦争状況」なのである。つまり昨日書いたようにそれらは月並みな戦争体験と言っても良い。全くドレスデン市民もそれと変わらない。それどころかザイフェルト教授も、ヴェトナムでの米軍とシナでの皇軍を比較する。それならばと、ハイデルベルクの今回の主催者グループらが音頭をとって、南京市と広島市の姉妹都市交渉を進めているという。ベルリンの寺岡大使もそれに賛意を示したようだ。

こうして将来へと向けて、特殊なイデオロギーを持つ一部の為政者連中とは一線を隔して進んで行くことが出来よう。そうした関係を、対インドネシア、対オランダ、対朝鮮、対ロシア、そして対合衆国へと各々と築く事となる。先ずは、オバマ大統領に広島訪問を期待する前に、日本の選挙民が自らの知性で正しい判断を下す事ではないだろうか?

そこに感情的な市民の被害妄想など必要ないのだ。日本国内での社会的な関係を国際的なそこに結び付けて得をするのは一体誰なのか?

非ナチ化裁判後のラーベへのジーメンスの援助などの質問があったが、その質問の背景にある問いに答える背後状況は残念ながら明らかとはならなかった。また記録映画として現存して挿入されている米国製のフィルムの素性すらなかなか分からないらしい。討論会後、会場の近くのベルクフリートホッフにマックス・ヴェーバーやヴィルヘルム・フルトヴァングラーの墓参りに行ったが今回は残念ながら見つからなかった。



参照:
タイタニックかあ・・・。 (たるブログ)
「南京事件を描いた映画「ジョン・ラーベ」の日本公開を求める署名 」
歴史を導くプロパガンダ 2009-04-05 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2009-04-06 05:04 | マスメディア批評 | Trackback
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