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循環する裏返しの感興

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谷を歩いて戻って来た。気持ち良く食事をして気持ち良くいつものように十時過ぎには床へ向ったが、飲み残しだけでは足りずに新たにシュペートレーゼを開けたのが悪かったのか、夜中二時に目が覚めてトイレへと駆け込んだ。胃腸の具合が悪い。良く考えれば昨年の今頃も試飲会で苦しんだ事もあった。ストレス性の消化障害とも思うが、どうも花粉症による影響もあるようだ。兎に角、ここ暫らくまだ十分に身体に力が入らない。

映像作家で、バイロイトの音楽祭でもエポックを築いたクリストフ・シュリンゲンジフが年男である昨年、肺癌のために片肺を切り取った事はファンならば良くご存知かもしれない。そして、先日の映画賞の審査委員としての選考も終わり、今闘病生活を描いた日記が発刊された。昨年の秋には、残っている方の肺にも転移が見つかった事から、決して穏やかな日々を送っている訳ではないだろう。

しかし新聞記事を読むと、その内容はとても面白そうなのである。題して、「ここほど天は素晴らしい筈がない!」と闘病生活を描いているのだが、新たな視座が開ける喜びに溢れているようである。

当然の事ながら、明日にでも腸に少しでも不調が感じられた時点で、全く異なった視座が用意されている訳で、懐疑・情念・歓喜・怒り・押さえつけられたデモーニッシュな期待・機知・押さえきれない理知が隣り合わせていると言うのだ。

そうした感興を把握することがどれだけ大切であり、各々の感興が相対的なものであり他のものの裏返しになっているから、思考において安定した座標が存在しない事になり、循環する思考がその根拠を見い出すと言うのである。そして闘病がシュリンゲンズィーフ氏に齎した最大の成果は、思考と感興の絶頂の真っ只中においての自らの価値基準からの解放であると言う。

同じように、麻酔から醒めた彼が得たのは、自らの存在に対する不思議ではなくて、身近な近親な者達が自分をどのように待ち受けているかという全くの客観視であると言う。そのような成果を踏まえて、「クランクウントアウトノーメン」という病人同盟組織だけでなく、手術傷を付けて裸で森を彷徨うヴィデオを制作しているようだ。

五十年前ほどに、自殺した作曲家ベルント・アロイス・ツィンマーマンが残した遺作「若き詩人のためのレクイエム」がベルリンのフィルハーモニーで上演されたようである。そこでは、様々なテープ音源などがコラージュされて唯物的な鏡が当時のありのままの社会を映し出している。そして、そこに何一つ希望は残っていない。一体なにゆえにこうした曲が創造されて、そして今演奏されるのか?殆どの客は途中で会場をあとにしたという。ライヴエレクトロニクスなどは前世紀後半の楽曲では日常茶飯であり何一つ避けられるものではないが、まさに作曲家自身が否定した自らの戦中までの作品だけでなく、「そこで否定されている世界そのもの」がそこに映される。僅か52年の生涯で希望を断ち切ったケルン出身の作曲家もカトリックの家庭に育ったのであった。

上の新刊、実に月並みな境遇ながら世界に百万人と言われる闘病の人々に連帯を示しつつ、その百万人から取り残された人達にも同じように大変面白そうだと感じさせる。ただ惜しむらくは、こうした形でなく彼の著書を開きたかった。



参照:
Ich gehe mit meiner Narbe spazieren, Christian Geyer, FAZ vom 23.04.09
Endzeitmusikgetuemmel, Jan Brachmann, FAZ vom 25.04.09
蕎麦アレルギーに冒されると 2009-04-11 | 料理
ゴーストバスター請負 2007-12-18 | 文化一般
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2009-04-27 04:25 | 雑感 | Trackback
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