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歓喜へ歌への対照と構成

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一日中血圧上がりっぱなしだった。しかし無事乗り越えた。なんと言っても合唱付き楽章に尽きる。なるほど一楽章の弦楽器の柔軟性は樫本の業であり、四楽章でもフレージングの弓の扱いが聞いているだけで確かで、あの月並みなメロディーが新鮮に意味を持って聞こえた。何よりもそれによって自然なアゴーギクのダイナミックスへと大きな弓使いを、それゆえに切れば切るほど律動感が発生する。樫本がマイスターを務めることは分かっていたが、二番にスタブラーヴァを入れたのは意外だった。なるほど最後のオープニングコンサートであるから、特にベルクが入っていたのでぜひ入って貰ったのは分かるが、もう一つのプログラムのシェーンベルク・チャイコフスキーと掛け持ちになる。

二楽章はもう一度聴き直さないといけないが、基本的には拍を合わせる事での凝縮感が、頭を合わせたフルトヴェングラーなどと同じで、見事だった。三楽章の弦などはもう少し繰り返すとよくなるだろう。フルトヴェングラーの場合は、その和声のヴェクトルを重視する訳だが、ペトレンコの場合はそうした圧縮無しに正しい音を合せることと自由自在に歌わせることが出来ることから、同様の効果が生じている。

木管楽器陣のアンサムブルも復活祭の延長で見事になっていて、金管との合せも更に改良されていて、フィラデルフィアとまではいかないでも、もう一息である。それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦の強い線の歌はこの曲には無くてはならないと思う。昼間の放送でもフルトヴェングラ―の戦前の録音との比較が流されたが、明らかにそこへと戻っている。

ルル組曲は、全く全曲演奏とは異なった。何よりもテムピを押さえているので完璧に演奏させられていて、システム間の出入りが、あるがままで、稀に見る演奏となっていた。しかしこれこそ繰り返さないとまだまだ本領発揮とならないだろう。しかしこの精度での上演は不可能で、組曲は別と考えるべきだろう。曲説明は先日ミュンヘンで挨拶したクラースティンク博士が担当していたが、そのドラマテュルギ―とは少し違うと思う。その話しの終わりに組曲を交響曲として更に歌曲付きの交響曲からマーラー、そして第九と繋ぐのは一寸違わないか。キリル・ペトレンコのブレーンでもあるので間違ったことは話していないと思うが、さてどうだろう。ペーターセンの歌も到底舞台の上では無理な精度で、初登場で十二分にその実力を示したと思う。

合唱付きにおいても「ミサソレムニス」同様に見事な歌で、それどころか映像を見ていると、合唱に合わせて口ずさんでしまっている。表情の豊かな人だから考えていることがそのまま出てとても面白い。兎に角、器楽的にも歌える人で、中々比較できる歌手はいないと改めて思った。ペーターセンに見つめられていたバスのユンも準備万端で最高の歌唱を聞かせたのではなかろうか。ブレゲンツでの「千人の交響曲」ではそこまで立派な歌では無かった。

23時過ぎの批評にもあったように、二楽章がそのもの戦争シーンだとするのも、例えばブルックナーの蒸気機関のカムとの対照でもあり、当然四楽章と対照となっている。まさしくクラーシュティンク博士が述べていなかったドラマテュルギ―であり、一楽章冒頭のフォルテと共にとても強い対照の構成を示したことになる。ペトレンコ自身による解説では、英雄交響曲を逆転させた形で、英雄を奪い逆行させたのがこの一楽章となる。その意味で四楽章が大成功しているのだが、通常の演奏ではその対照が疎かにされている。まさしくミュンヘンのミサソレムニスの演奏からそのような明白な対照と構成が示されると予測していたところである。

総じてフィルハーモニーの聴衆は、ブレゲンツの千人の交響曲の時の様に本当のスタンディングオベーションまでには至って無かった。様々な理由は考えられるが、マーラーとベートーヴェンではやはり古典の曲はより古典的な教養も必要という事ではなかろうか。

これでブランデンブルク門でのオープンエアーでの第九に関してはなんら心配もいらない。それにしてもこれほど明白に歌詞が歌われたことは無いのではなかろうか、初めてその言葉が聞き取れた。放送合唱団も想像していたよりも遥かに良かった。



参照:
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-24 06:38 | | Trackback

ダブルヘッダーの予定

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アマゾンから今日中に発送のお知らせが無ければ、土曜日には配送は難しい。チキンレースである。なれば発注をキャンセルしてやる。今時在庫があって一週間先にしか配達しないというなら潰れてしまえ。幾らでも代わりの良心的な業者は存在する。向こうの罠に掛からないように発注状況も見ない様にしている。それにしてもあれ程までに会員にさせたいのには罠がある。上顧客に対してああした態度を取ることが許されない。

ミュンヘンから早速ティケットが届いた。日程が決まったので気になっていた他の日程を再びチェックした。ミュンヘンでの前後のゲルハーハーの歌う「ヴォツェック」とフォークトの歌う「ローエングリン」は、「死の街」で配券された入場料の高価さ183ユーロに、断念した。これ以上劇場に献金する必要も無く、宿代までを入れると大変なことになる。ストリーミングで無料で見るのが一番お得だ。月曜日19時始まり22時終了ならば、何とか日帰りで安全に帰宅できるだろう。

そこで気になっていた12月の日程が空いた。フランクフルトのオペラである。もう行かないと六月に言っていた舌も乾かぬ間であるが、マルヴィッツ指揮のCDの出来に彼女が新シーズンに二回振る新制作の一つに出かけたくなった。もう一つのバリコスキー演出の「サロメ」は来年の日程に拘わらず殆ど売れてしまっているが、暮れと年明けのフォーレ作曲「ペネロープ」は比較的良い席が空いていた。しかし問題は殆どミュンヘンの日程と重なっていて、そちら如何でダブルブッキングになりそうだった。だから買い控えていた。そして改めて見て行くと、ダブルブッキングになる筈の同じフランクフルトのアルテオパーでロンドンフィルハーモニーが指揮者ユロスキーとの最後の欧州ツアーの12月15日は15時30分に始まって、18時頃に終了することが分かった。つまり一度フランクフルトへと車を走らせれば両方行けたことに気が付いた。東京の音楽ファンがよく書いているダブルヘッダーと言うやつで、フランクフルトでは初めてだ。

終了時刻から開演時刻まで一時間を切っており、車で移動して距離的には数分だが駐車場の出し入れで20分以上考えておかないと駄目である。地下鉄も歩くのも11分ほどで、自転車だけが車よりも早い。さてどうしたものか?

いよいよベルリンでの祝祭的演奏会が迫った。ここでもう一度その中継の体制をもう一度まとめておこう。あまりにも様々な情報が出ていて混乱している向きがいるようだからだ。

先ず、23日(金)19時からフィルハーモニーでお披露目演奏会が開かれる。それに先立ってデジタルコンサートホールでは18時半前から中継が始まる。更に20時過ぎから独公共放送網ARDの各局ラディオで時差生中継が始まる。前者は有料、後者は無料で双方ともネットで流される。

翌24日(土)20時16分過ぎから、ブランデンブルク門の仮舞台でオープンエアーが中継される。20時からDCHで、又時刻通りにrbbTVが中継を始める。前者も後者も無料でネットでストリーミングとして放映される。

過密と過剰による転送障害なども予想される。23日のDCHも限界ではないかと思われる。どこまで流れるか期待したい。放送の方は九局ほどに分散されるのでこちらは問題が無いであろう。しかし曲によってネット配信の質が異なる。

24日に関しては、両ストリーミングに分散されるので、どちらが有利かは何とも言えない。rbbの方は公共放送なので前者の私立のものとはサーヴァーの容量が全く異なる筈だからだ。また後者は昨年お経験からすると生中継直後にオンデマンド化されるので比較的容易に観れる。音声48kHz,192Bits出ていたので、生中継は可成り音質も良いのではないかと予想される。



参照:
ブランデンブルク門を臨む 2019-08-21 | 歴史・時事
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-23 01:58 | マスメディア批評 | Trackback

プログラミングの決定権

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ザルツブルクの復活祭芸術監督ティーレマンがザルツブルク州に書面を出した。その内容が火曜日に地元紙で公開された。7月29日付けの書面である。

先ず、2022年以降の全体のプログラミングの決定権は、支配人に就任するバッハラーではなく、芸術監督にのみあることを明白にして、保証することを求めている。具体的には、「ローエングリン」をべチャラ、ジャクリーン・ウェグナーにエルザ、パンクラトーヴァにオルトルート歌わせるとするもので、2023年はカタリーナ・ヴァークナー演出の「エレクトラ」でパンクラトーヴァを使うという構想である。つまり今の時点で主要歌手と契約してしまわないと機会を逃すという事である。ざっと見る限り対抗馬のバーデンバーデンでは不要な陣容である。そもそもこれはバイロイトでの陣容ではないか。

それに対してバッハラーは、地元紙によると、ロマンティックオペラに限定してウェーバー「魔弾の射手」とか「タンホイザー」とか「オランダ人」を提案しているようだ。それに対して、例のジャーナリストのテイール氏などは「イタリアからのお客さんにはドイツ語台詞のものは拙い」とか書いている。つまり、今年の「マイスタージンガー」などの様に受けるものは受けるが駄目な演目は駄目だと。私などは、どこまで本気か知らないが、その器量にあった作品をやらせて最高の力を発揮させるのがプロデュースだと思うので、その提案は確かだと感じた。

そしてティーレマンは書く、芸術的な責任をもっている指揮者のプログラミングに対して外からちょっかいを掛けさすなどは以ての外だと続ける。

そこでいつもの根拠のない話が繰り返される。つまり「ペトレンコと一緒にべルリナーフィルハーモニカーがザルツブルクに戻る」という事で、それも不思議なことにいつも同じように「バーデンバーデンでは手に余るようになる」という予測が繰り返される。それどころか、「バーデンバーデンではフィルハーモニカーがギブよりもテークしているからだ」とおかしな根拠となる。勿論バーデン・バーデンは最初から喜んでこの条件を受け入れている。要するに、フィルハーモニカーは、合意したプログラムを最高度の音楽的な水準で示すために準備して、オペラ上演に日程を割くという事でしかなく、祝祭劇場がお膳立てを整える。つまりフィルハーモニカーにとってはザルツブルクに戻る必要などは全くないのであり、この契約条件は前任者ラトルの口からも発せられていて、悪い条件提示しか出来ないザルツブルク側が発する根拠とはなりえない。それどころかティール氏も、ザルツブルクはカラヤン時代にはベルリン市からの助成が出ていたが、それが無くなったために公的な援助を受けられなくなったとある。出て行くだけの要因はあった。

兎に角、9月17日にザルツブルク州の臨時総会が開かれるので、そこでこの問題について議論されるとしている。

余談ながら、指揮者のネルソンズのボストンでの契約が2022年に終わるとあった。そこで契約延長しない可能性は強いと思われる。ボストンはロート氏などを既に試している。もう一人の大物指揮者のヴェルサー・メストと共に去就が注目される。



参照:
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
敵はバイロイトにあり 2018-11-14 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-22 04:38 | マスメディア批評 | Trackback

ブランデンブルク門を臨む

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ベルリンで月曜日から練習が始まった。キリル・ペトレンコ指揮就任演奏会の練習である。その状況は今日明日にでも放映されると思うが、今回は二日目のブランデンブルク門での大イヴェントにも注目が集まる。

火曜日のベルリナーフィルハーモニカ―の支配人ツェッチマン女史の会見では、その準備に二年間も費やしたとあったようだ。NDRの楽団担当だったツェッチマンにとっては、今回放映パートナーのrbb支配人シュレジンガー女史は謂わば同僚だったようで、二年前から相談していたという。この間乗り越えて解決しなければいけなかった事項は35件に及んで、警察、消防など主に安全対策などの面からのお役所仕事の様である。だから当初から「新指揮者ペトレンコのお披露目の為には大規模な催しとしたい」と語っていた。曲目に関しては千人の交響曲ぐらいかなと思っていたが、第九だったのである。しかしそれもブランデンブルク門でとなるとオープンエアーでも通常とは異なる。

当日は三万五千人の聴衆が詰めかけると見込まれ、更に晴天が予想されている。全ての人が無料で、A3サイズ以下ののみの大きさの持ち込みと必要な手荷物検査の上、18時から場所取りが出来るようだ。しかし、その大きさから折りたたみ椅子などは持ち込めないので、演奏が始まる20時16分までは立ち通しとなるらしい。これは当夜のrbbTVで晩の「ターゲスシャウ」が終わって、rbbが「ブランデンブルク門へ」とアナウンスすることを以って始まるからのようだ。会場へはペットボルトなどは許されてもビンは持ち込めないので、そこの売店で補給するようになっている。様々な情報を総合すると、地元放送局などでも応募募集しているようにVIP席は設けられていて、門のところに若干座席を作るのだろう。

二人の支配人が窓から門を覗く写真を見るとアドロンホテルのその向きの部屋は皆観覧席となりそうだ。さて肝心の音響は、勿論PA無しには放送もPVも不可能であるが、rbbが責任を以って執り行う。60人体制で、60本以上のマイクをぶら下げて、11台のカメラが投入される。昨年のベルリナーシュロースの中庭での中継からすれば、勿論今回の方が遥かに条件は厳しいが、大いに期待できる。これで分かるように、例えば先月のミュンヘンでのアメリカンプロの節は弦楽器にミニマイクが付けられたが、今回は正攻法な集音となるようだ。施設する総ケーブル長は五キロメートルにも及ぶらしい。

そうした中で態々アルバン・ベルク作曲「ルル」組曲から演奏されるというのが俄かに信じられないのだが、これはなにも歌うマルリス・ペーターセンが得意としたルルの役の歌を歌わせるためだけに選曲されたものではないだろう。その心は、未完・補完版オペラ「ルル」を纏めた組曲の構成にあると見る。期待は膨らむばかりである。こちらまでが武者震いをする。

ベルリンの壁が崩壊して30周年。あの時、指揮者ペトレンコはシベリアの故郷の小さな町に居たのだろう。ツェッチマン女史はアビテュアーに合格して丁度アメリカに居たらしい。そしてそこでニューヨークタイムズのインタヴューを偶々受けたという。私も報道で冷ややかに見ていただけでベルリンには敢えて近寄らなかった。あの時のバーンスタイン指揮のそれとは今度は何もかもが違う。

もう一つ、この計画でキリル・ペトレンコが支配人に尋ねたようだ。「国立図書館に入れるかな」と、そしてそこに手書きの総譜の一つがあって、そのコピーも備に調べたという。その結果が出るかどうかは聞いてみないと分からないと報じている。ツェッチマン支配人は、自らのキャリアーにおいて最もやりがいの仕事の一つと語る。さて何もかも成功へと導かれるか?

ミュンヘンからコルンゴールト作曲「死の街」新制作初日の当選の知らせを受けた。最高金額公演なので他の公演日に比べて同じ席でも40から66ユーロも高い。何か特別にお土産がある訳でもないが、しかと見届けたい、音楽監督としては最後から二つ目の初日である。もうあとは初日だけ行ってもいいぐらいだ。



参照:
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-21 23:06 | 歴史・時事 | Trackback

予備の電球を探す作業

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ルツェルン滞在の準備である。車の車幅灯、前の左側が切れている。全く走るには問題が無いが、そこは国境を超えるので、直しておかないと停止させられると面倒だ。少しでもその不安要素を無くして置かないと話しにならない。近所でも買えるだろうが、早めに確かめておかないと発注するようになると間に合わない。それよりも以前にネット発注した節に電球を二つ購入した覚えがある。それが使えれば完了だ。

先ずは電球が切れているのかどうかを確認する。流石に車も廃車間近になると大抵の所は自分で弄っているので、問題なく電球にアプローチ出来た。取り外してみるとなんともなっていない。ハイビーム灯だと直に気が付いて、その下の電球を引っ張り出すと切れていた。

しかしその電球の予備がどこにあるか?先ずは車のダッシュボードを探してみた。探しているうちに包んであってもそんなところでは壊してしまうので、きっと違う場所に違いないと気が付いた。そして頭の中で思い描くと、仕事机の封書箱に違いないと思った。ビニールのプチプチで送ってきたそのままに入れたことを微かに思い出した。その箱をひっくり返してみると案の定出てきた。一球はそれを注文した時に使った。恐らく反対側の車幅灯なのだろう。

早速、ガレージに戻って試した。なぜならば他のものを急いでアマゾンに発注したいからで、旅行に間に合わせたいものばかりである。すると何もなかったように点灯した。これで修理は終わりだ。序でにエンジンオイルをチェックする。下に落ちている訳ではないが、徐々にエンジンオイルの消費が激しくなってきた。最後に購入したのが4月で、その後一リットルを消費したことになる。燃えてしまった分も大分あるのだろう。廃車まで繋ぐだけだ、九月には一度点検させる。

発注したものの中に二種類の接着剤が含まれている。一つは木工プラスティック用で、厨房辺りを宇個し直しておかないといかない、もう一つは靴底の接着用で、これも靴を買いに行く時間が無いからだ。応急処置で普段履きを部屋用靴と共に持っていく心算である。街をふら付くことも無いと思うが、今回は一日余裕の日がある。出来れば山の上に上がりたいが時間などがもう一つ分からない。

序でにキャノンのプリンターの三色色物インキを発注した。黒と交互に購入していたが、如何も最後に購入したのは2017年6月のようで二年以上購入していない。固まってはいないのかもしれないが、全く使えなくなると面倒なので購入しておく。

通常ならば木曜日に届く筈なのだが、一つだけ時間が掛かるとして一週間もかかるような嘘情報を流して来る。本当にそうならばキャンセルする。これほどのお得意さんでも会員にしようと圧力を掛けてくる。24日までに届かないなら要らない。アマゾンがその気ならこちらも他所で買ってやる。

ルツェルンと言えば、ハイティンクが最後のコンサートでヴィーナーフィルハーモニカーを振る。個人的には昨年二回も聴いたので、あまり関心は無いのだが、それでも売り切れていた残券が出るとなると興味を引く。150フランの券が出た。直ぐ売れたようだが、半分の価格なら冷やかしに買っていたかもしれない。



参照:
週末の片づけもの 2019-08-10 | 生活
許容範囲だろうか 2018-12-13 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-20 23:30 | 生活 | Trackback

指揮科教授のバイロイト

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2019年バイロイト音楽祭のプログラムをぱらぱらと見る。150頁近くあるが三か国語なので内容は薄い。肝心の演出に関しては関心零なので、指揮者ブシュコフのインタヴューを読む。中々興味深い。要するに彼の指揮した演奏を彷彿させる受け応えをしているからだ。取り分け重要なのはテムポに関しての質問とその指針について指揮科教授らしい答えを示している。

先ず、実演を聞いた私の印象は、拍をそれほど数えてはいないが、ブーレーズよりもペトレンコよりも遅いという事だった。ここで記されている数字は、全曲ブーレーズ、ペトレンコ、其々3時間38分、3時間50分に対して、4時間14分で、大体予想した通りだった。因みにトスカニーニが4時間42分で、序でにラトル指揮がコンサートで3時間39分で、私の印象からすると復活祭上演ではもう少し長くかかっていただろう。

要するにブュシュコフ指揮は明らかに遅い。しかし原典、つまり前盛期の初めごろまで祝祭劇場使っていた楽譜を参考にすると、その後は段々と遅くなってきたと言明する。それがクナーパッツブッシュ指揮やトスカニーニ指揮の演奏だったのだろう。指揮のシュトラウスが「私が早くではなくて、皆が遅くなったのだよ」と語っているという。同時に楽譜の細かなところに注目して冒頭の一弓の四拍、もしくは最初の五小節に亘るフレーズに注目する。若しくはどの言葉が正しく発せられるかによって、それを基準として全体のテムポが定まっていると、正しいテムポはどこを基準とするかの教育者らしい発言となる。勿論、その時の歌手の歌に合わせて変動するものでありということで、メトロノームなテムポがどこにあるかということになる。

同時にダイナミックスへの言及になって、ポコフォルテがフォルテがピュウピアノがどこに掛かっているかをつぶさに判断して、更にどの楽器がメロディーラインをそれを音程の高低によって出し方が変わり、同時に歌手の声が浮かび上がるように配慮するという。何か手の内を明かしているようなお話しなのだが、こうした具体的な話を読むと流石に教鞭をとる人だなととても感心する。

そうした舞台の上とのやり取りと出し入れで、音楽を作っていくのがよく分かる演奏であった。そしてその面白さは転生して行く音楽にあって、小節内でも起こる変容に言及する。自身のメモを読むと、最初のアンフォルタスの出だし後の管弦楽の受け渡しなどとても見事であって、放送で是非確かめたいところが幾つかあった。

そして、この指揮者が最初にパルシファルを祝祭劇場で経験した逸話が、全く私が言及していることに相当する。前から三列目に座っていたようで2004年の私よりも前かもしれないが、つまり最初の音が出る前から振動を感じてどこからともなく始まるというのだ。私が言及した箱鳴りにも相当していて、前記したようにこの舞台神聖劇へのスタンスは祝祭劇場での体験がどこに行っても付き纏い、それに限りなく近づけようとしたとある。それはある意味ラトルが、バーデンバーデン祝祭劇場の親切な音環境にバイロイトを意識しながら指揮したことともあまり変わらない。

恐らくこの指揮者はこの二十年でブーレーズ、ペトレンコと並ぶ名指揮者だとは思うが、結果は両幕中間部ミステリウムでの舞台に合わせた外しなど、あれ程クールで早いペトレンコ指揮に比べても効果が出ていなかった。余りにも配慮した演出の責任かそれとも教師然としたこの音楽家の限界か。逆に同じテムポでも深く掘れるかほれないかなどよっては楽団がどれぐらいの力量かなどで全く効果が変わる。如何にベルリナーフィルハーモニカー級の楽団がこの作品には必要か?(続く)



参照:
アホをギャラリーする 2019-08-17 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-19 21:36 | | Trackback

次元が異なる名演奏

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20時15分を待って、3Satを観た。三カ国参加の放送局であるから、当然のことながらARDは自局のサイトでも中継している。それどころかZDFでも同じように中継していた。ドラマなどをやっているときにその質をつまり音質の品定めをした。数値的には同じようなもので若干3Satが落ちていて、あとは耳で比較するとZDFが上シャラ系の音がしていたので、それに決めた。録画と録音は別のネットで同時に進めた。BBCのプロムス生中継は断念した。ミュンヘンの後任のユロスキー指揮のロンドンのフィルハーモニカーは12月に聞く予定になっていて、興味あるプログラムだったが別に再放送でもいい。

実際録音してみて、オンデマンドのMP4とは若干異なるかなと思ったが、所詮はTVの副音声で、印象からするとAACの音質で、128kBit出ているかどうかだった。要するに先日前半が放送されたラディオとは明らかに音質が悪かった。しかしあまりあるのが視覚的情報の動画で、何回も観ると更に色々なことが分かるだろう。バイヤー氏の制作姿勢は、指揮者と楽員との繋がり方に主点が置かれていて、一寸したドキュメントになっていた。実際にユジャ・ワンの部分はインタヴューとロケを入れて別枠でポートレートが制作されていて、それもとても秀逸だった。

お目当てのフランツ・シュミット交響曲四番を観た。やはり記憶にあった以上に凄まじい演奏をしていた。音楽表現へと全身を投げ打っているベルリナーフィルハーモニカーの表情が備に捉えられていて、南ドイツ新聞はこれのことを書いていたのだと分かった。自分自身の席からは視力のこともありそこまで細かな表情などは窺えなかったが、音楽的には本当に満足だった。定期公演での演奏とは一つも二つも次元が異なっていた。映像を観てもこの日にここまでの演奏が出来た状況はそれほど浮かばない。

ユジャ・ワンのピアノと管弦楽の絡みでも近接マイクを通したものは異なり、会場ではピアノがどうしても埋まる傾向にあったので、録音を聞くと想定以上にいい演奏をしていたことに気づいたが、それ以上に一曲目の「ラペリ」からとても完成度の高い演奏会となっていた。ペトレンコ指揮演奏実践では、復活祭における「悲愴」と、また座付管弦楽団とのボンでのチャイコフスキー交響曲五番を挙げたいが、この演奏はフィルハーモニカーの歴史の一里塚となっていると思う。終演の喝采に映されたヴォルフガンク・リームが奥さんらしき人の横で両手で眼を押さえているのが印象的だった。

秋のコルンゴールト作曲「死の街」の券を発注した。初日に当たるのではないかと思っている。なんといっても高い。それはそれでいいと思う。初日は、「ルル」、「サウスポール」、「パルシファル」で、それでも一時は、中継放送もありその演奏の質などを考えて、初日公演を避けていた。しかしここに来て、ペトレンコ指揮での初日は「サロメ」などにみるようにとても質が高くなっている。放送も雑音交じりのBRクラシックは留守録音で充分で、金額は嵩むとしても少なくとも歌手が日程を合わせてきていて、あの独特の緊張感は得難いと思うようになった。理想は、放送二回とは別にもう一度生で聞くことであるが、もうそこまでは求めない。当たるとすれば月曜日ぐらいにお知らせとなるだろうか?

その演出のストーンは、ザルツブルクで「メデー」を演出したところで、その批評などを読んでいるとどういう方向に行くか何となく分かった。復活祭の「フィデリオ」演出のコレツニックがオパーフェストで「ファルスタッフ」を演出する。ミュンヘンは規模も大きいだけに目ぼしいところは直ぐに手を付けている。



参照:
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-18 23:51 | マスメディア批評 | Trackback

聴衆の一体感を再確認

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いよいよ一週間を切った。ブランデンブルク門でのオープンエアーは来週の土曜日だ。天気予報からすると晴天となりそうだ。イヴェントが盛況になって欲しい。そこには色々な意味合いがあるが、出来るだけ多くの人が近代の理想主義をもう一度振り返ってみることは大切である。まさしくそこに古典文化の意味がある。ハイカルチャーである。

その前日にはフィルハーモニーでのシーズンオープニングコンサート、こちらも今後を占うとても大切な演奏会であり、先ずはDCHで中継を観て、その後ラディオ生中継を録音したい。今回は一度しか演奏されないので、生中継もアーカイヴも少なくとも映像はカメラワークぐらいが変わるぐらいだろう。

そこで週末にはお勉強を始めないと落ち着かなくなる。いつもここまで引っ張らないと始められない。再来週は週明けから出かけて三泊四日なので逆算して計画しておかないと片づけものも済まない。忙しい週末になりそうだ。

そうこうして新聞を見ると、なんと昨年のルツェルンの音楽祭のハイライト、キリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの二日目の演奏会の全編放送の予定が載っていた。どれだけ待っていたことか。当日はそこに居てラディオ生中継放送も録音出来ず、勿論TV放送は全く観ていなかった。しかし今年になって、ARTEでその中からユジャワンのソロのプロコフィエフの演奏がプロフィール番組として流された。そして今月になってラディオではハイライトとして、前半のみが再放送された。特にデュカ作曲のファンファーレからラペリの大名演を初めてマイクを通して確かめられた。これは音質も良かったので大喜びだった。今まで聞いたベルリナーフィルハーモニカーの生中継として断トツに素晴らしかった。そして残るはこれまた大名演のフランツ・シュミット作交響曲四番がどうしても聴きたくなっていた。

そして全編放送だ。既にMP4の期間限定オンデマンドとしてダウンロードできるが、残念ながら画像は美しくても音質が44kHz,96kBit毎秒であまりにも物足りない。そこで一縷の望みを繋いで生のストリーミングを放送時間まで待ってみることにした。生憎同時刻にARTEで他のオペレッタが放映されるが、こちらはMP4で全く構わない。

肝心の「ラペリ」の指揮振りも前からは初めて観たが、いい指揮をしていた。そして私の並びの人のフライング気味の拍手とその時につられた私の拍手の反応が気になっていた。観ると拍手を切ってある様子も無く顔つきからは全く何事もなっていない。そしてペトレンコの満足そうな表情を見ていると全く問題の無い拍手であることも確認した。一年近く気になっていたことなので胸のつかえがとれた感じであるとともに、むしろ新聞で話題になったような会場との一体感を再確認した。確かに天井を見上げ、手を下ろすところで拍手を始めたのは私の列だった。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
決定過程を明白にする 2019-02-21 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-08-17 23:36 | マスメディア批評 | Trackback

アホをギャラリーする

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バイロイト行は色々と価値があった。先ずそもそも現在の執行部のアホの巣窟になってから初めての訪問で、それを確かめた。明らかに前回訪問の2014年から痴呆が進んでいた、それも顕著だった。しかしそんなものを確かめるために交通費は仕方がないとしても高額の入場券を支払う価値が無い。そこで思い掛けない20ユーロの券を都合して頂いた。10ユーロで買えた隣の席は空いていたが、そんなものを買うために態々出かけられない。

今回の「パルシファル」はネット発売で150ユーロ相当のものは買えたが、その差額120ユーロは交通費と駐車場、プログラムを入れても御釣りがくる。燃料代は渋滞で損をしたがそれでも60リットルほどの消費なので85ユーロは掛かっていない。駐車料金5ユーロとプログラム7ユーロで、12ユーロである。

先ずはなによりも初めてのギャラリー席。バルコンやロージュは申し込んだことがあるが、ギャラリーは第一クールにはさぞかし暑そうなので申し込んだことは無い。そこの音響に興味があった。結論からすると一度は確かめるべきポイントだった。なにが一番異なるかと言うと、第一ヴァイオリンが右から聞こえて、管楽器が深くから聞こえることだ。つまりこの劇場の奈落の庇の効果が一番確認しやすい席となる。特に声の乗り方は抜群で、これは流石のバーデンバーデンでも絶対無理と思った。

驚いたのは今更ながら字幕が無い事で、平土間では全く感じなかったが、上から見ると気が付く。そしてそれ以上に歌詞が正しく歌っている限り明晰に分かることだ。これも他所の劇場では到底得られない。ミュンヘンで「ペトレンコ指揮に言葉の明白さを求めようとしても」とかの声を聞いたが、バイロイトでずっと振っていればそんなことは言われなかったろう。

慣れている平土間との大きな相違は、ファンダメンタルなバスが出ない分軽い音になる事、逆に平土間のそれも前方になると ― ブーレーズ指揮は比較的前で聞いたが ―、あの奈落が箱鳴りのようになって前奏曲のチェロ音でも若干胴音気味になり、全体で明瞭性に疑問があった。その鳴りを全て解決したのが、ペトレンコ指揮のバイロイト音楽祭管弦楽団の演奏で、奈落を浅くしたのかと思うほど本当に驚愕した。その分上の音響は声と管弦楽の溶け合い方が理想的で、そして弦楽も比較的素直に響く。この劇場の為に創作された作品はこのパルシファルだけという事を改めて思い起こす。

視角が切れている三列目の席だったが、中央は見えて、上手が切れるだけだった。つまり奥も含む中央一帯から左は完全に見えた。どうもどこの劇場も同じだがバルコンよりも天井桟敷の方が音響が良いという事はあり得ることだ。音響は音楽表現に深く係るので、改めて述べたい。

アホの巣窟への変化で最も明白なのは、当該の「パルシファル」の演出から齎された警備体制だろう。駐車場入りには検閲はなかった。市の駐車場であるから有料になっただけが変わった。あの演出のための損害は如何に?券の交換は結局身分証明書の名前を手書きで写してスタムプを押すだけだった。それも昔からいる爺さんがポンポンやっていた。なるほどあれならば名前の書いてある本人が表れて席の取り合いをした場合は本人が勝ちと言うルールが分かった。落としたら苦情しない限り人のものになるという事だ。また書いてあった10%の20ユーロまでの手数料も取らなかった。逆に20ユーロ程度では割に合わないから委託買い取りもしないと話していた。なるほど。要するに転売するのはそれ程難しくは無い。

全てが低い知能から運営されているのがよく分かる。標準以上の知能があって少しセンスのある人ならば、ここに出かけるとそこはアホが支配しているとよく分かるだろう。しかし、途中から気になったパルシファルの舞台枠の上のフィギュア―は元祖音楽監督としか思えなかった。もう片腹痛い、森川信のおいちゃんであれば「馬鹿だねー、ああー、嫌だ、ああー嫌だ、サクラ枕持ってきて」と言いたくなるだろう。元祖の駐車区画の写真を撮ろうとしたら通り抜け禁止と警護していた。



参照:
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-08-17 01:24 | 文化一般 | Trackback

近くて遠いバイロイト

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先ずはいつもの小旅行記。近くて遠いバイロイト。帰宅は眠くなければ3時間で帰れた。記憶通りとても走りやすい。真っ直ぐではなくカーヴともいえない流れなのだが、スピードを出してもハンドルを取られない程度である。何よりもニュルンベルク・ハイブロン間は上下が少なく、薄っすらと下っている。これがとてもいい。だから疲れない、眠くなる前に、飲み食いしながら運転可能となる。夜間のトラックも少ない。

そして往路は上りながらも比較的走りやすかった。やはり平坦なのがいい。交通量最大ニュルンベルク環状も越えて、これでと思った。14時に市内で待ち合わせで、その時点で12時を少し過ぎていたぐらいなので、残り80㎞程なので、時間にして一時間見ておけばよい。つまり途中で一時間のピクニックで時間調整となる予定だった。そもそも道中の「パルシファル」の録画再生がまだ二幕までしか進んでいない。最後まで通して聞くのは難しいかなと思った。

そして10㎞ほど進むと待機帯側にトラックが並び出した。国境でもないので検問でもしているのかと思ったが、どうもアウトバーンを下りる車の列だったようだ。その列を横目にどんどん進んだ。二キロぐらい進んだところで渋滞となった。万事休すだった。十分ほどで後ろから桃色の長い車が来たと思ったら霊柩車だった ― それで10歳にもならない女の子が運ばれたことになる。そこから事故渋滞で数キロ走るのに二時間以上掛かった。今まで巻き込まれた事故渋滞でベストファイヴに入る酷さだった。その内一回はスコットランドからイングランドへの五時間以上のM1での大渋滞、もう一回はバイロイトに向かうハイルブロン周辺での大渋滞だった。なぜこうなるのだ。

その事故の報道を読むと既に9時過ぎに事故は起こっていて、結果横を通り過ぎた霊柩車でその場で死亡した小さな女の子が、41歳の親父と息子がヘリで輸送された。その場で蘇生を試みたようだが、写真を見ると車内から引き出すのに時間が掛かったのだろう。霊柩車が通ったのは12半頃で、そこから二時間だから、何をやっていたのか?記事によると事故検証に時間が掛かっていたとある。

事故自体が車に何かが起こって待機帯のトラックにぶつかったとあるが、トラックもなぜ止まっていたのか?車のタイヤの薄さからするとチューンアップしている感じもする。タイヤの破裂がもっとも起こりそうだが、それならば見分けがつく。

なによりも不可解なのは、警察が誘導しなかったことなのだが、下ろして迂回させる交通量を捌ける国道等が無かったのだろう。要するに居残ったものには二時間以上待たせるという方法が選択されtらことになる。ナヴィゲーションが果たらなかったのが幸か不幸かは分からないが、結局待ち合わせの場所に着いたのは15時10分過ぎだった。

また、完全にストップしてしまうと歩き出す人が増えるが、雨も降っていたので、小用に出るものぐらいだった ― 霊柩車を見た者はまるで弔いに居並んだようなものだと感じただろうか。10分おきにストップアンドゴーに数十メートル進むというのがまた燃費を悪くした。踏んだり蹴ったりだった。



参照:
バイロイトへの道程 2019-08-15 | アウトドーア・環境
アウトバーンでの救急車両 2017-07-06 | 雑感
# by pfaelzerwein | 2019-08-16 21:13 | 雑感 | Trackback

バイロイトへの道程

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燃料を満タンにした。リットル1,323ユーロで、残り56.60リットル補充して、77,49ユーロ支払った。走行距離675㎞程になるので、60リットルほどの消費になるか?ミュンヘンへとバイロイトへとの相違は、ミュンヘンが標高519mに対して標高340mなので高低差は途中の山間部を含めてバイロイトのあるオーバフランケンに向かう方が小さいことだ。少なくとも出発点と到着点の高低差が200mも無い。つまり往路と復路の燃料消費の差は飛ばし方の方が大きい。往路はゆっくりと進むので渋滞さえなければ半分以下の消費になる筈だ。ここが山へと上って行くミュンヘン行とは大きく異なるところだ。勿論渋滞場所が上り勾配なら余計に燃費が悪くなる。

渋滞は、それほど走っていないが、要注意個所も幾つかあって、特にニュルンベルクの環状辺りが引っかかりそうだ。アウトバーンは、ハイルブロンからニュルンベルクまでは直線に近く一山二山あるがそれほどの上り下りではない。ここは夜間ならば飛ばせるので、ミュンヘン・カールツルーヘ間のアウグスブルクまでの直線に似た感じである。さあどうなるか?

ピクニック並びに移動食として、安売りになっていたハリボとステゥーデンテンフッター(学生の餌)を購入した。高速で走りながら眠気覚ましに口に出来る。果物はアプリコットとネクターを準備した。更にミニトマトである。飲み物は二種類のハーブティーを、温冷両方2リットル、あとは食事を二食分。ゆで卵二個等。

天気は予想されたよりも不安定なようだが、それほど悪くはならないと思う。帰路夜間に降られるのが、走り難くなり、スピードが落ちるので一番嫌であるが、往路は大丈夫だろう。ピクニックに車に戻るときに降られるのも嫌である。

衣裳は、厚めの古いシャツにした。いつも復活祭前の聖週間に着ていたものだ。もう草臥れて着れないので、今回ぐらいで引導を渡そう。アンチョコ蝶ネクタイで、適当に誤魔化そう。暑くは無いので、なんでもよい。



参照:
記憶を呼び起こすために 2019-08-12 | 雑感
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-15 05:51 | 試飲百景 | Trackback

ちょっと自慢な光景

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お出かけの準備で燃料を何時入れるか?満タンにしてからも一度走るとなると元は取れないかもしれない。それでも一杯一杯入れておけばバイロイト往復は可能なので、考えるところだ。涼しくなったので衣裳は楽になった。それどころか月末とは別に分厚目のシャツを下ろしても良いかもしれない。しかし月末もそれほど暑くならないとすれば、二着を九月と別けて数日間で着て回せる。

バイロイト名物のピクニックをどうするかだが、果物等を余分に準備しておけばよいだろう。それほど暑くはないので、それほど難しい話しではない。以前ならそこまで準備しなかったのだが、事情が分かって、最小限の時間で往復しようと思えば準備万端整えとかないといけない。帰りの睡魔も計算に入れて夜食の心掛けも必要になる。

嘗ての様に夏の間に二三度ザルツブルクを往復した頃とは多くが変わっていて、オペラが終わってからシナ料理で一杯引っ掛けて我武者羅に500㎞を四時間を割るような時間で走ったような状況にはない。交通量も多くなって制限速度も多くなり、交通規制も厳しくなった。

朝の一走りは、一寸違った。外気温が摂氏15度を下回ると、走っている途中で急に力が入る瞬間が出てくる。落ちる一方では無くなる。秋になると気持ちよく走れるようになるのはそれゆえだろう。それでも復路で陽射しのあるところで上りになると汗が噴き出す。

復活祭のバーデンバーデン市立劇場の公演完売を確かめた折に座席表を探すと知らないページが出てきた。予約するときには見つからなかったが、なんと3Dの準備までは整っていなかったが、座席からの光景が分かるようになっていた。こうなれば自慢で自分が予約した席からの視覚を紹介したい。場所はバルコンである。前回ブーレーズ生誕九十周年の際は上の方の階だったのでこの距離感が嬉しい。

ロージュも家族連れなどではよさそうだったが、大分遠くなる。出し物も室内オペラなので大した音が出ないことも分かっていて、兎に角、この機会とばかりに近くに寄ってみた。どこのオペラ劇場でもバルコンは最も舞台に近い場所となるが、この500人規模の劇場であると本当に近い。当日は、近くのカジノのパユの出るベートーヴェンのトリオから駆け付ける。合せて50ユーロ、これが更に嬉しい。

ルツェルンのこの十年の番組第五回目を流した。思っていたのとは異なったのは、ユジャ・ワンデビューのアバド指揮の演奏風景は一楽章の一部しか出なかった事。その分細やかに昨年の演奏との比較が話された。端的に言うと、デビューの時からアルゲリッチを超えるようなアジアンスポーティーをだけでは無い技量だったが、昨年は熟成した演奏をしたという事だ。

ドイツの二流新聞の評のように 何かが足りない、もう少し苦みを、風刺をとかいうような指摘が全く的を得ていないことを比較することで明らかにしていた。実際その弾き方の違いと管弦楽の合わせ方の違いを見れば、この女流ピアニストが如何に弾けるかというのが誰にでも分かる。

話しの中にもあったが楽譜をそのまま音にすることでデビューというような低次元のものでは無くて、ルツェルンのフェスティヴァル管弦楽団のパユを含むソリスツとも自由自在にコムボしているのを見れば驚くばかりである。

そして昨年は、徹底的に引いたり出したりのペトレンコがバックを付けていて、両者とも驚くばかりの妙技となっているのだが、あまりにもピアノも管弦楽も見事に一心同体の様になり過ぎて、それこそ比較してみないとどこまでの演奏家が分からないぐらいの出来だったのだ。

放送ではその堂々振りがとの話しだったが、正直私の座席からは殆んど楽曲の一部と化していた。やはりワンはリサイタルを聴かなければいけない既にトップクラスのピアニストであろう。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-14 00:20 | 生活 | Trackback

一万回も呟いたか

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いつもながらのブルーマンデーである。中々仕事が捗らない。日曜日のスイスからの放送は疲れて忘れて、眠ってしまった。スイスの中継VPNがダウンしているようで中身は確認していないが、ユジャ・ワンの音楽祭デビューである2009年のクラウディオ・アバド指揮のプロコフィエフ三番と、昨年のキリル・ペトレンコ指揮の演奏が比較されて放送されたようだ。後者はARTEのものを落としたので、それとの質の比較となる。その後先日ラディオ放送されたのでそれほど関心は無い。前者の者も他所では観れるようだが、文字通り比較してみたい。

呟きが一万件を超えた。最初はBlogの更新お知らせのようなものだったが、知らない内に回数が増えた。それでも二つのBlogと放送などのお知らせ情報が主で、その他はコメント程度しかない。それでも数は増える。

ザルツブルクからの「イドメネオ」生中継を流した。流石に無料では切ってくる。だからまともには観れない。この機会を狙って制限を掛けてくるのは商売としては正しい。しかしそこで再読み度に流れるロレックスの宣伝は馬鹿だ。イメージを悪くするだけで、そもそもロレックスの高価な時計を買おうという人はそんなケチな考えは持たない。無料で見ようとする人は見識がある。だから悪いイメージしか植え付けない。少なくともロレックスのお蔭で30分ほどご覧くださいと流す方が有難味が湧く。ぶつぶつ切られると逆恨み感情しか湧かないだろう。それでも気にしない私は概ねの骨子を掴もうと読み込みを繰り返す。

ざっと一幕を観た感じではやはり大分「ティトュス」とは異なる。舞台も平面的で、緊張感も生まれていない。個人や合唱の演技自体はあまり変わらないが、同じ暗めの舞台でもハイライトがあまり当たっていない。全体の演出からそのようになっていると思われるが、細かな感情が演技として活きない。ソロスツにもキャラクターを示すだけの存在感が欠ける。一人の歌手の眼が大きく表情豊かだっただけでも前回は違った。何よりも欠けるのはドラマテュルークの構成で、可成り不味い。その大きな責任は音楽にあるのは間違いなく、舞台関係者が性格を正確に研ぎ澄まして強化していくためには音楽的に能弁でないと駄目なのだ。責任は指揮者クレンツィスにある。

音楽でドラマを作れない限り演出が何をやっても駄目なことは明らかだが、この舞台を見ていると悪いウィルソンのそれよりも冴えない。逆に復活祭の様にメータ指揮でドラマの骨子が出来上るとそれでもとても説得力が出てくる。二幕、平土間で歌わせて何を得ようとしたのだ。

因みに歌の一人一人は全然悪くない。評価がされにくいラッセル・ト-マスでも「ティートュス」の時よりも単調ではなくなってきている。残りはこれもオンデマンドになるならば一通り観れるのではなかろうか。



参照:
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-13 05:21 | SNS・BLOG研究 | Trackback

記憶を呼び起こすために

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ミュンヘンの「パルシファル」のストリーミング録画を鳴らした。先ず眠たくて仕方がない。朝起きして一走りしてきたからだ。夜中の最低気温は摂氏16度ほどで起床後窓を開けても涼しい。だから森の中も15.5度だった。しかし陽射しに当たって走ると直ぐに暑く感じた。夕方には27度にまで上がる予報だ。なんとか峠まで上がって下りてきた。体調はあまり良くない。下りに脇腹のぜい肉を感じた。先日摘まめるのを確認した贅肉である。どうも夏場は無暗に筋力を使わないようにしているので、脂肪が離れるらしい。離れると脂落としは容易である。今までの経験上この脂が運動で邪魔になると感じれば、落ちるのは時間の問題である。漸く夏太りからシェープアップへの季節となって来た。今夏は冷たい食事をして胃腸を弱らすことも無く過ごしやすい夏となった。

帰宅、シャワー後にニューヨークフィルの放送を聞くと、新曲をヤーパァン・ズヴェーデンが振っていて、いい音を出していた。なるほど力のある楽団だと思った。観客も沸いていて、これは来年の欧州ツアーが楽しみになって来た。昨年九月の演奏の一部であるから、直前の準備の中継録音放送は大分先になりそうだ。

2018年7月8日のストリーミングの録画を流してみた。前奏曲が始まって「あれこれは」と思って流していると一挙にこっくりと居眠りして、アンフォルタスの声で目が覚めた。急いで楽譜のページを捲ると、やはり気が付くことがあった。初日の演奏の記憶をもとにあれほどダイナミックスや表情記号を丁寧に演奏してと考えていたのが、いつものペトレンコのこれでもかと言う細かな拘りが、次から次へと抑えられているのを確認。

気になって、自身の当時の記事を読むと、フランクフルターアルゲマイネの批評に「特に一幕において、独自の控え目さが目立った」とあるではないか。初日とはまた違う筈だが、ここではまさにその通りの所に気が付いた。更に先日のミュンヘンのティール氏ではないが、「続く」と書きながら筆を留めている。実は当夜の記憶を呼び戻そうとしている。最終的にはもう一度初日の留守録音を聴き直したいが、それ以前に自分自身の不満がどこにあって、続きを掛けなかった理由と、初日のカーテンコールの情景を思い浮かべたい。

不満の一つに座席の音響が今一つよくなかったことがあるのだが、当夜のメモを再び解読してみないといけない。留守録音自体もじっくり聴いていない。記憶を上書きしたくはないのもあるのだが、それだけでは無かったかもしれない。勿論素晴らしい演奏だったが、引っかかりはどこにあるのか?

帰宅後に、「サクサクと進んだが車庫出しで21時20分」書いた。始まり16時で予定終了時刻が21時15分であったから可成り淡白に出てきたことになる。確か帰りに下の階で拍手をしたぐらいの程度だったのだろう。やはり満足度は低かったのか?

しかし一幕以上に二幕、三幕と満足度は上がっていたようで、必ずしも音響の問題では無かったという事なのだろう。同時に、ストリーミングを聴くとここはベルリナーフィルハーモニカーなら更なる表現になるだろうという個所は直ぐに出てくる。そもそも蓋付のバイロイトの祝祭劇場の為に創作された舞台神聖劇であり、思うように響かせるためのファクターは幾つもある。

バーデンバーデンの復活祭の残券状況をチェックした。何よりも驚いたのは、ハルトマン作曲の室内オペラ「阿呆物語」三公演が完売していることだ。歴史的な小劇場の座席数は500席なので、延べ1500席が売れたことになる。延べニ割強は出演者の家族や関係者としても千席以上は通常に売れたことになる。なるほど入場料は一律25ユーロと格安なので地元の人が多く買ったかもしれない。少し出遅れたが初日だけでもいい席を押さえておいてよかった。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-08-11 23:41 | 雑感 | Trackback

Kawaiiからは遠い運命

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新聞文化欄にサイモン・メイ著新刊「ザパワーオブキュート」が大きく扱われている。所謂Kawaii現象つまり社会の幼児化趣向への社会学的な視点で綴った書籍である。それによると、トラムプの行動や2008年当時の日本の外務大臣麻生などが例に挙げられる。KittyやPokemonnやEMOJI流行は言うに及ばず、ETやバルーンドッグス、シュレットなどのキャラクターの目や口に注目する。

心理的には、幼児化現象として、まさしくグスタフ・マーラー作曲第六交響曲の幼児退行が思い浮かぶ。最も作曲家の現実環境があまりにも辛辣を極めれば極まるほど、そうしたきらきらピカピカの幼児体験に想った世界へと戻りそこに遊ぶという心理と同じである。

ドイツにおいてもそのようなトイレットペーパーが直ぐに売り切れたとされる。ハローキティ―などのそれがある程度定着していて、日本の時の外務大臣が後押ししたように漫画を中心にそうしたサブ文化的な影響はあるものの比較的キュート文化からは遠い社会であったのにも拘らずである。だからこうして高級紙の文化欄の最初の記事として大きく取り上げられている。

やはり一種の社会の閉塞感という事なのかもしれないが、日本における芸術的な文化的な趣向と言うのをそこに見れば、現実逃避的な要素はとても強いと感じる。特に日本における西洋芸術音楽需要の核にある心理であって、西欧19世紀におけるフランス革命以降の市民の勃興を契機とする市民の「人生の苦悩」がそこでは最たる関心事となっている。

偶々見つけたDW放送の記事で、「運命交響曲」の命名自体が同時代のシンドラー絡みの運命の動機への言及であって、その後の浪漫派時代には揺るぎない文芸的な意味を保ち続けたというのはその通りであろう。それどころか1960年代のフォンカラヤン指揮全集録音における世界への西欧音楽文化の波及として、世界の隅々まで同じようにマスに働きかける「人生の苦悩」としての運命主題として定着させたことはあり得ることだろう ― まさしくそれを更に一歩進めたのがチャイコフスキーらであり、そこからマーラーへもと受け継がれる。

これを見れば、なぜ通俗名曲と呼ばれるものが、こうした「人生の苦悩」を土台として、そしてそれが複製芸術として市場を形作っていったかが明らかになる。なるほど心理的にはマーラーへと進むとひねてはいるが、その延長線上にある心理であることは間違いなく、次点として日本では売れる曲、プログラムとしてそれらが挙げられる ― つまり日本人の歓心を得ようと思えば「人生の苦悩」しかないようだ。

そこで放送記事で取り上げられているように、ロート指揮のレシエクレなどのオリジナルサウンドを求める楽団の演奏では、もともとフランスでは自前のフランス革命精神から演繹的に「運命の動機」つまり「勝利の歌」としてのハ長調のフィナーレからイメージが定着するとして、なるほどその「運命の動機」への意味づけが変わってくる。革命前には、そうした職業の選択権も移住の自由も結婚の自由さえも無かった「人生の苦悩」などは存在しなかったので、楽聖には健康上の問題はあったにせよそれを超えたチャイコフスキーのような苦悩を当て嵌めるのは誤りであり、精々ベルリオーズなどをそこにおけば足りるのである。こうすることで、その後の浪漫的な芸術への創作意志などがより浮かび上がってくることになるだろう。

その面の右下に、バイロイト出演予定のアナ・ネトレブコがローエングリン出演をキャンセルして、来年もデビューは無いことが発表されたと代役の発表と共に短報してある。来年以降も出ないという事で、「疲れた」と言うのは結局エルザへの挑戦が上手く行かなかったという事になりそうだ。



参照:
Der Schrecken der Verniedlichung, Melanie Mühl, FAZ vom 9.8.2019
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
無酸素で挑む運命の先 2019-07-23 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-11 02:33 | 歴史・時事 | Trackback

週末の片づけもの

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そろそろ来週の準備をする。同時にそれが終わるとルツェルンまでにもうあまり時間が無くなって来た。もう一度楽曲を整理すると、急遽来週の一曲が増えて、次のようになる。

パルシファル
ト長調K453
「ラメール」
「火の鳥」組曲1919
ルル組曲
第九
シェーンベルクop.36
チャイコフスキー五番


これ以外に室内楽が十曲ほどあるが、準備しておくほどの楽曲は見つからない。

「パルシファル」は、昨年二度も勉強したが、完全に忘れてしまっている。もう一度ペトレンコ指揮の演奏を聴いて、細かな箇所をチェックしておこう。正直復活祭での上演に比較するとそれほど全体的に強い印象は無い。寧ろ細かな場面が思い起こされて、若干全体の見通しはラトル指揮よりも悪かったかもしれない。理由は様々なので一概には言えない。その点も調べてみたい。

前奏曲からBGMで流すと、一体これは楽譜上はどうなっているかなどの細かなところが気になって来た。その指揮の明白性によって、しばしば楽譜に還って確かめて行かなければいけないのがキリル・ペトレンコの芸術ではある。そしてその手間を厭わない音楽ファンは、その確証に満ちた指揮に拠って、初めてその創作の真実を知ることになる。しかし、それでもその強弱や濃淡もある事であり、また楽劇の場合などは演出に合わせて表現されるために若干やり過ぎになることは当然あり得る。その辺りに評価をしたいと思った。

バルトークの三番に代わったのでK453ではあまり興味が無くなった。「火の鳥」も今更組曲ではと思い、どちらかと言えば「ラメール」に集中したい。ルル組曲も第九も音源は再来週末の中継を待つとしても、特に第九の方は先ず幾つかの楽譜を比べてみよう。まだ必要なら注文する時間もある。後の二曲は復活祭の続きなのでまだ直ぐに戻れる。



参照:
修正される中継録音 2019-08-04 | 生活
「パルシファル」動画集 2018-10-17 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-08-10 02:09 | | Trackback

巨匠ショルティの美意識

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夜間は冷えた。夜中は久しぶりに窓全閉で就寝した。しかしそれ程寝起きは良くなかった。適当に裏山を駆けた。車中のSWR2で面白い話しが出ていた。大指揮者ゲオルク・ショルティがスウェーデンから出演依頼を受けて、ベルヴァルト作曲交響曲三番の指揮を打診されたという。

恐らく電話で、「一体どのように鳴るんだ」とショルティが尋ね、四度の連続の主題であることを知って、スウェーデンに着いて、その場で歌ったという。そして「やはり指揮するのは止す」と断った逸話が紹介された。

ショルティの美意識もさもありなんで、この私でもDLした楽譜を見ていて、このような曲に本当に音楽的な価値があるのか?、まるで自分が子供の時にブルックナーを真似で作ったセクエンツと変わらないではないかと思った。

そして、ブロムシュテットがヴィーナーフィルハーモニカーを指揮して演奏するのでバーデンバーデンの祝祭劇場に出かけた。そこでのいつものシマンツキー氏の解説は良かった。その四度の動機の扱いで、ピーポーピーポーの救急車音としての作法から、このあまりにもユニークな楽曲の遠近法としてのアイデアが紹介された。残念ながら91歳のスウェーデン人指揮の座付管弦楽団には到底そうした遠近感の妙は表現出来なかった。後半のドヴォルジャークの七番交響曲と共に「金返せ」程度の酷い演奏会だった ― とは言っても始めから分かっているので30ユーロも払っていないが。

そしてその後フィラデルフィアからの同曲の生放送を聞いた。いつものようにネゼセガンの解説も秀逸だったが、なるほどこういう演奏は到底座付楽団では出来ないと思った。ああした柔軟なフィラデルフィア管弦楽団の弦楽はベルリンでもとても難しいと感じた。当然ショルティがシカゴ交響楽団を振ったとしても困難だったと思う。

ベアヴァルトの交響曲この演奏は、恐らく最も優れた演奏で、ネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏としても可成り突出していたと思う。ネゼセガンがどのような指揮者かと問われれば、この演奏指揮を代表としたい。たとえその後のカミングアウト後の更なる音楽への集中度、指揮の卓越が感じられるとしても現時点ではこのユニークな交響曲の演奏を挙げたい。



参照:
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-08-08 23:44 | | Trackback

脚光度ピカイチの女性

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放送局のサイトを覗いていると初夏に出たCD批評があった。昨年のフランクフルトでのオペレッタ「メリーウィドー」の生録音だった。六月に発売されていることは知っていたが、そもそもライヴ録音ものには興味が無いのですっかり忘れていた。しかし先月末になって、2021年からバイロイトの音楽祭に女性指揮者が登場と告げられて、一体誰かという話題になった。その多くはヴェテランの女性指揮者でハムブルクの音楽監督になっていた人を挙げる。経歴的には間違いが無い女性である。それどころかミュンヘンではキリル・ペトレンコの代わりにヴァークナーを指揮していて、地位としては全く文句の無い人選である。しかし、その指揮の刻むリズムやら、明らかに才能が無いのである。

次に挙がっているのが、フィンランドの指揮者で、こちらは昨年の同様の記者会見に同席していたという事で、予想されている。しかし肝心のヴァークナー指揮の経験が薄いという事で、一体何をしにそこに居たのか分からないというようにも書かれている。恐らく可能性は薄いだろう。

しかし話題性という事では上のオペレッタを客演指揮したヨアナ・マルヴィッツに勝る人は居ない。その名前からポーランド系だろうが、ここ一二年の脚光度はピカイチだった。このシーズンから、バイロイトに最も近い大都市ニュルンベルクの州立歌劇場の監督であり、人気地位共に急上昇の女性指揮者である。

昨年の公演を聞いた記憶では技術的には課題があるとは思われたが、今回編集した生録音の抜粋をYouTubeで聞くと、修正されてある事もあるが、記憶以上に素晴らしい。客演であり、フランクフルトの座付管弦楽団ではどうしても音楽表現が至らないところもあったが、二三回の収録で修正していったのが伺える。その後に生で聞いたのだが、その時は全てが上手く行かなかったのもこの程度の楽団の常としては当然だったかもしれない。音楽監督であれば人員も調整できるのだが、それは客演での制限あっての成果でしかなかったろう。

こうして録音を聞くと、最早バイロイト初の女性指揮者としての実力には疑いようがない。元祖音楽監督ティーレマンでは出来ないことが沢山出来るのは間違いない。ざっと才能の無いドイツ出身の男性の指揮者を見回しても中々これだけの指揮をする人は居ないので、脚光を浴びていたのは当然と言えるかもしれない。人事権は、その人達にあるので、バイロイトの件は憶測の域を出ないが、どちらにしてもこの人がその人達の人事権では左右されない立場になることは自明だ。

YouTubeの連続演奏で殆ど聞けた。AMAZONでは19ユーロで出ている。二枚組でもう少し安くなってくれれば、記念に買っておいてもいいなと思うぐらいだ。ベルリンの放送局での評価も大変高い。但し、そこでも語られているように、演出のクラウス・グートの各人へのキャラクター付けなどが分からずに、音だけでは分からないところがあるとするのも正しい。残念ながら映像制作ではないので残念だが、映像であると今度は更に音の編集が大変になっただろう。

この作品の名録音として、シュヴァルツコップの二度にわたる録音がレファレンスとして論じられていて、それとは異なるというマルリス・ペーターセンの歌も演出に依存する。しかし、その比較で聞くと、シュヴァルツコップの鼻へと抜けて殆どボカリーズになって仕舞う歌唱とは異なり歌詞が確りと出ていて、最近の歌手の例えば「最後の四つの歌」のディアナ・ダムローなどと同じで如何に技術的に優れているかが分かる。嘗てシュヴァルツコップやフィッシャーディースカウなどが教師として君臨していた時には、まさか今の様に現代的な歌唱技術を保持した歌手が出てくるとは全く想像もつかなかった。相手役のルーリ・サモイロフも大健闘していて、素晴らしい。

マルリス・ペーターセンは、月末の合唱交響曲、11月のコルンゴールト、来年4月のフィデリオと当分聞き続けることになる。2016年の新制作「ルル」時に殆ど卒倒してしまったようで、ペトレンコが「彼女の言うことはもう何でも聞く」と語っていたが、その音楽性は全く以ってキリル・ペトレンコが求めているそのものであって、フィデリオが特別難しい課題とされる意味も更に分かって来た。

しかし、彼女の話題を扱ったりフェースブックにリンクを張っただけぐらいの付き合いしかないのだが、なぜかオパーフェストの時に石階段下の暗闇で写真を写していて、視線を特別に貰ったのはなぜだったのだろう。SNSだけで特定されることは無いと思うのだが。



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
# by pfaelzerwein | 2019-08-08 04:08 | | Trackback

鳴かぬなら突いてやろう

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ミュンヘンの劇場に出入りしているマルクス・ティールと言う音楽ジャーナリストがいる。ここ暫く音楽祭ゆえかコンサートについていつもの地方紙に幾つか回して書いているようだ。先日気が付いたのはクレンツィス指揮に関してはもぞもぞと逃げたような中途半端な文章でいい加減な投稿をしていたが、今回はネゼ・セガン指揮の地元の放送交響楽団演奏会について書いている。そして明らかに任務放棄をしている。それどころかばかげた結論を書いていて、これは突いてやらなければいけないと思った。

今更の如くネゼセガンについて驚愕しているのはプレス関係者としては不味いが、東海岸に頻繁に飛ぶような立場の人ではないから良しとしておこう。それにしてもSNSの映像を観て、行かなかったプロムスでの成功振りを予想して、如何にこの指揮者が同じように代行の指揮者マルキとは異なるかを強調している。因みのこの人の書き方からすればヤンソンスは休養ではなく病気となっていて、これは逆にこの人の情報の確かさの方を感じさせる。

この人はショタコーヴィッチの第五の演奏をとても評価している。それによると二重の意味とかそうしたものを演奏実践で実体化させているからという事になる。つまり、何だかんだ叫んだり、嘆いたりしてもその演奏自体が実体感を持っていなければ意味が無いという事になる。恐らくこの人の脳裏には先日同じ会場で体験したレニングラード交響曲の演奏があって、それについて書きたくても書けなかったという大人の事情が見え隠れする。まるで極東の国の音楽ジャーナリストのような斟酌や忖度の心掛けがある人なのだろう。奥さんは日本人か?

そして私が評価したベートーヴェンの二番の方は少し落ちるがそれでも素晴らしい演奏で、普段の余裕を持った放送交響楽団の演奏に胡坐をかかさないのがよく分かったとしていて、そこまで分かったなら放送交響楽団が指揮の水準までまだ弾けていないことを指摘しなければ片手落ちだ。恐らくこの人はもう一晩「ローゼンカヴァリエ」組曲まで聞いているのだろうが、流石にオペラジャーナリストとしては迂闊に書けなかったのだろう。と言うか、この人の綴り方を見ていると、「私は議論になるような面倒なことは書きませんよ、私の紙面を読む読者に向かって書くのですから」と地方紙の程度を言い訳に仕事をしている人なのだろう。

やはり年寄りは駄目だと思わせるのは、若い人ならば組曲に少しコメントすれば間違いなく交響楽団のみならず指揮者も目を通すことが分かっているので、少しでも影響を与えることになると思って、上手に批評しようとするだろうからだ。

豚に成り下がった人間は、ネゼセガンをその実演での集中度を齎す相違で、ハーディングやネルソンズとは大きな溝を開けていると番付を試みるが、精々私のブログでも翻訳機で訳して読んで置くが良い。そしてその相違がどこから来るかなどと言う科学的なジャーナルを一切試みない。なのにそれは確信しているというとんでもないことになっている。

そしてこともあろうに、八月の終わりにペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーが来て、お手並み拝見となるが、もしやするとその厳しさに喘いで、ネゼセガンに浮気するかもしれないぞと、とても破廉恥なことで駄文を結ぶ。ショスターコヴィッチでの現象としては楽員がソロもテュッティ―も一緒に息づくようになってとか書いているが、それならばこの人はペトレンコ指揮でミュンヘンでも一体なにを聞いているのだろうかと訝らざるを得ない。

これだから、我々音楽ファンは、歌芝居の世界などには近づきたくないといつも叫んでいるのだ。来年はバーデンバーデンでこの二人の競演もあるので、この親爺のどこかに書き込んでおいてやろうと思う。カーネーギーホールでは「ペトレンコとセガンを一緒にするな」と書き込んでいた人がいたが、私はもっとネゼセガンの指揮を勉強しなさいと言いたい。しかしそれでも、欧州に一ついいポジションがネゼセガンにも欲しいと話しを振って、放送交響楽団と言い出さないのは流石にトウシロウとは違う。ヤンソンスとネゼセガンのグレードの差もそれとなく上手に表現した ― 恐らくこちらの方がこの地元ジャーナリストの要旨だったのだろう ―、それならば楽団に向かって指摘することを指摘しろともう一度言いたい。そういういい評論家や聴衆が居ないから地方の放送交響楽団はそこまでなのだ。



参照:
Yannick Nezet-Seguin und das BR-Symphonieorchester: Die Seitenspringer, Markus Thiel, Merkur vom 5.8.2019
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-06 17:21 | マスメディア批評 | Trackback

今は昔と感じること

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パン屋が開いた。店内は列が出来ていた。毎日行かない人でも夏休み終わりとなれば、ホームメードの本物が恋しくなるのだろう。特別なパンを焼いている訳ではないが、やはり手焼きは違う。その証拠に雨が降ってくるとぼさぼさとなっていた。職人の腕が直ぐに表れる。経験が表れる。それでいいのだ。

二週間ぶりに沢を往復した。高低差が無いので楽なのだが、それはそれで汗を掻いた。外気温は摂氏17度であったが、雨雲を避けて走った。

職人技と言えばロスアンジェルスからの中継録音を聞いて、どうしてもそれが見つからない。合衆国の管弦楽団の中の所謂ビッグファイヴの中でも最高に支払われている交響楽団であるが、全くそうした職人的な気持ちを感じさせないのがロスアンジェルスフィルハーモニー管弦楽団である。創立年度が新しいだけならばそうした特徴が花咲くのだろうが、受け継がれているものが悪い。ズビン・メータがガン治療後に復帰したコンサートからブラームスツィクルスを始めた。一回目のブラームスの第一協奏曲はルービンシュタインとの共演が有名である。ここではブロンフマンの演奏で、交響曲一番の前に演奏された。そして二回目の前半の第二協奏曲の始めは聞き逃したが、やはり大した演奏では無かった。それでも三楽章が終わって拍手が来る。ロスでの西欧音楽需要などはその程度なのだろう。流石にあれは西欧の普通の音楽会ではない拍手だ。その聴衆の程度がこの西海岸の高給取りの楽団の質を端的に表している。あとの四つの交響楽団でもファミリーコンサート以外ではありえないと思う。後半の交響曲二番はそれらよりも良かった。やはりこの指揮者の十八番なのではないかと思った。

それにしてもあそこで拍手する客も客だが、放送のアナウンスが「指揮者は腕をスイングさせるだけではないぞ、全ての楽器のことも知らないといけないのだ」とか話すものだから、どんな人を相手にしているか分かる。現在の音楽監督デュダメルのお客さんである。聴衆以上の音楽活動なんて存在しないという事だろう。

「ルツェルン音楽祭の10年」第四回目を観る。生では入れなかった。もう少し早く準備しておかないと無理なようだ。期待したユジャ・ワンはまだ出ない。軸はアバドの作った楽団という事で、今回もシャイ―とラトル指揮で各々祝祭楽団とベルリナーフィルハーモニカーでラヴェル聴き比べだった。初めて導入の話しを聞いたがスイス訛りでも流石に国内向きには字幕が入っていない。お蔭さまで、南ドイツに居てスイスでの仕事も多かったのでアレマン方言の一つとして、理解は全く問題が無い。アレマンに慣れていないと違和感だけでなく更に言葉も分かり難いと思う。

なるほどラトル指揮ラヴェルは勿論悪くは無いのだが、しかしその人気指揮者がメシアンの大曲を振るとなるとそれほど売れない。それが何を示しているかと言えばその人気に反してラトルの芸術がどこまで広く知られていたかと言うと大変疑問である。だからこうした番組でその演奏を評価していても、どこまで話し手は音楽が分かっているのかなと感じてしまう。やはりジャーナリズム的に科学的批判が出来ないところでは本当に正しくも評価が出来ないのに違いない。

我々長年のファンからすれば、何をいまさらと言う気もあり、またベルリナーフィルハーモニカーが標準型の楽器配置を採用していたこともあり、ルツェルンのシューボックス型の会場を活かしきれていなかっただろうという印象しか持たない。そしてしかもあんなにつるつるのベートーヴェンを指揮したものだと、今は昔の感が強い。昨年の復活祭のことであった。



参照:
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-06 03:02 | 雑感 | Trackback

嫌いなMP3の報復

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修正された「サロメ」初日中継録音は良かった。それでも途中から高音域の上が切れている事に気がついた。生中継では丁度変調ノイズなどが気になった域より上である。なによりも生での音の体験とは異なったので調べてみると ― 実際にソプラノの中域が固く響いた ―、中途半端そうなMP3を聞いて録音していたことが分かった。聞くときはPCの関係から44kHzでしか鳴らせないので、録音したものを96kHz再生して事情が呑み込めた。HR2は比較的車中などで聞いていて、馴染みもあるのだが ― 先日HR-Klassikへの移行が発表された ―、今まで気が付かなかった。迂闊だった。

なによりも驚いたのが、演出の最初の劇外音を全て切ってあったことで、なるほど視覚が無ければ役立たずである。よってその紹介とともにマルリス・ペーターセンの歌へハイライトが当てられてフランクフルターアルゲマイネの評が紹介された。その意味からはあのMP3で事足りたかもしれないが、こちらは不満足である。それどころか今年のARDフェスティヴァルシーズンはここが中心になっている。ならば対応処置を考えなければいけない。

先ずは今まで無精していて調べ上げていなかったストリーミングのそのネットの音源を洗っていく。そしてリスト化する。各局、生中継、通常ストリーミング、オンデマンド、ポッドキャストなど様々なものを出しているが、今ここで興味あるのは前の二つである。

一挙に全部は難しいので、徐々に継ぎ足して行こう。先ずは通常のLiveとされるストリーミング音源。

HR2, MP3
SWR2, AAC並びにMP3
BR-Klassik, MP3 128kb/s
DeutschlandKultur MP3 128kb/s
NDRKultur, MP3 128kb/s
MDRKlassik, MP3 128kb/s
rbbKultur, MP3 192kb/s
DRS2, AAC
WDR3, MP3 256kb/s
NPO Radio4, MP3
France Musique
RAI3
WRTI MP3
WCLV
NHK FM, M3U8

やはりこれを見ると直感的に違うSWR2などはやはり違った。数字が出ていないので容易に一番とは言えないが、聴覚上は上位で間違いない。rbbが比較的良いのはこれでも証明された。ドイチュラントクルテューアなどはそのままMP3でオンデマンドや生録音するのと差が無い事になる。最も音質が悪いと思っていたが、他のNDRやMDRも同様だと知って驚く。恐らくHR2は192kb/sには届かない。



参照:
超弩級の中継放送録音 2019-08-03 | 音
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-04 23:46 | テクニック | Trackback

修正される実況中継録音

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再び山登りコースを走る。前夜からジャガイモを食して備えていた。何とか完走した。一週間中に二回走ることは殆ど無い、それどころか間に20分ほど軽く走っている。距離にすれば合せて20㎞にもならず、高度差も千メートルも行かない。しかし充分だった。何よりも歯茎が炎症している状態では完走しかなかった。そして週明けからはパン屋が再開する。夜中の気温も摂氏16度ほどまで下がるので、最後のチャンスだった。週明けは谷沿いを走る。

出かけるのも少し遅れたので気温は低かったが、急坂で後ろから陽が射すなど必ずしも気分は良くなかった。前回よりも核心部で不安になった。それでも最後の頂上への急坂も上り終えた。上りは何度走っていても体調もあるのでやはり足が止まらないか不安になる。本当は下りにどれだけ運動できるかで消費カロリーは変わるのだが、そこまでは到底追い込める状況にはない。

兎に角、無事帰宅。体重計に乗ると73.6㎏で先月75㎏を超えていたことからすれば何とか留まっている。今夜は肉を食して、もう一度ジャガイモで栄養を補給しておこう。それでももう一つ体調も落ち着かずに、交感神経に少し来ていて具合が悪い。

再放送のある新制作「サロメ」初日の録音を流している。どうしてこうもBR-Klassikのストリーミングは音質も悪く安定しないのだろう。ネットを探してもこの問題はあまり出てこない。公式にはMP3しか提供していないことになっていて、Liveと言うのはそもそも受信機の代わりで流しているストリーミングでしかなく、その音質を問う話しにまでいかない。殆ど、雑音を入れて放送しているようなものである。

兎に角、いつものプツプツ変調音のようなものと、あまりにもダイナミックスを落としたことで音の実体感があまり伝わらなかった。更に小さなドロップアウトなどもあり、決して高音質放送とはならなかった。だからHR2の提供録音による調整された録音の放送が聞き逃せない。

さて今回の再放送で何がなされるかと言うと、録音スタッフとプロデューサーで音楽的や雑音などの編集の可能性を検討されて、どうしても必要ならばなされて、技術的には録音した音量を整えることが重要である。少なくとも初日の中継はGPでのテストがあった筈のなのだが、可成り音量が抑えられていた。二割三割方は上方へと修正されるだろうか。すると今度は音の実体感は浮き上がって来るかもしれないが、雑音成分がどのように目立つかだろうか。手間をかけて修正しないと、ARD内だけでなく海外の放送局へも提供することになるので、とても重要である。

改めて聴いていると、金管の響きなど、今までの公演の初日としてはとても粒だっていい。よく合わせている。そのあとの公演でも素晴らしかったが、初日から文句無しの水準に仕上げて来ていて、感心するばかりである。こうして特徴を挙げていくと、放送がとても楽しみになって来る。

すわ、バイロイトへという話しになって来た。「タンホイザー」も一度だけのゲルギーエフ指揮も興味深いのだが、ペトレンコの先生ビュシュコフ指揮の「パルシファル」も気になって来た。客観的にみて、今世紀にあそこで指揮した指揮者の中で、ブーレーズ、ペトレンコに続くのは、ネルソンズぐらいで、ビュシュコフが圧倒的な指揮名人である。あとは劇場指揮者の範疇を超えるようなのは殆どいなかった。昨年の評を見るとやはり一流で、今年の初日も更に良くなっていたようだ。歌手陣も声量たっぷりで穴が無いようで、つまらない演出を気にしなければ音楽的には高度だ。そもそも安い席しか興味が無かったので、観劇出来ても視覚に制限がある。今までバルコンを発注しても当たったことが無く、ギャラリーの柱の後ろで音だけでも聴いて来ようかと思う。恐らく自分でも好んで発注しない席である。何事も経験で新たな視野が開けるかもしれない。平土間の比較的前方で聴いたブーレーズ指揮の「パルシファル」、バーデンバーデンの鳥肌ものベルリナーフィルハーモニカーのシルクのようでまた官能的な音色、ペトレンコ指揮の精細な響きと比較することになる。特にブーレーズ指揮の音色はよく覚えているので、指揮者の相違での音色の相違が興味の向かうところだ。さて無事に一日旅行まで辿り着けるだろうか?前日か翌日に「タンホイザー」ならば一泊して当日券を狙ったが、中々そうはいかない。ビュシュコフ指揮ならゲルギーエフ指揮よりも遥かに素晴らしい音を聴かせてくれることを期待しよう。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-08-04 02:11 | 生活 | Trackback

超弩級の中継放送録音

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歯茎が炎症を起こして腫れてきた。死んだ歯根の所に血流が溜まったようだ。ぷっくりと膨らんでいる。すると内圧が高まって痛みとなる。流石に仕事が手に付かない。逆に痛みを確認して安心するぐらいである。患部がそこにあって手当の必要がある。具合が良くないのを承知でニンニクを大量に投入したので直ぐにその効果が表れたのだ。

19時30分前からスイスのDRS2でルツェルン音楽祭開幕前の景気づけに昨年のハイライトが流れた。2018年8月30日のコンサートの前半が流れた。マイクを通してその音を聞くのは、二曲目のプロコフィエフピアノ協奏曲三番のヴィデオに続いてで、ラディオでは初めてだった。音質も素晴らしく、ヴィデオでは分からない会場の雰囲気がありありと感じられた。励起した楽団と聴衆と言うその場である。

結論からすると、やはり記念碑的な演奏会だった。先ず何よりもマイクを通しても左奥に坐したコントラバスの音がどっしりと後ろに黒幕のように拡がっていて、その指向性が無く、バスになっているのを聞いて、会場ではどうしても視覚が邪魔してしまうことを感じた。所謂独伝統的な対向楽器配置とされるもので、キリル・ペトレンコが好んで敷く配置体勢である。更に一年前のモーツァルトと悲愴の時は通常配置を取っていたことも付け加えておこう。

下手前方に第一ヴァイオリン、その扇形の奥にチェロ、チェロの左後ろにコントラバス、真ん中から上手へとヴィオラ、右手前に第二ヴァイオリンとなる。これが本拠地であるフィルハーモニーなどのワイン棚型の演奏会場で演奏すると件のバスはこのようには響かない。端的に言うと薄くなる。音が跳ね返って回り込まないからでこの差は大きい。

この楽器配置が廃れていった背景には、通常の配置の方が合わせ易いという技術的な問題もあるが、同時にフィルハーモニーなどのワインヤード型の新ホールが増えたのと並行関係にあるだろう。なぜ、ヘルベルト・フォン・カラヤンがああしたバスラインに乗ったピラミッド型の音響を欲したかはその管弦楽の美しい鳴りのために必要不可欠だったからでもあるが、従来のシューボックス型では過剰になっていたに違いない ― 最後の日本公演でのザシンフォニーホールでの演奏をそうした専門的な興味も無く聞き逃したのはそれゆえに残念だった。

同じ曲を2018年4月の定期公演での放送中継録音と比較すると演奏内容よりも先にその音響が全く異なる。勿論バスラインが後ろに拡がることなく定位はするがあまり効かないだけでなく、全体的にあまり実体感が無い。フランス音楽だからその方がいいという人もいるかもしれないが、どうしても滲んで楽曲のシステム間の絡みが分からなくなる。フィルハーモニーは名ホールであるが万能ではない。分析的な音響のホールであるにも拘らず、意外とマスとしてしか聞き取れない。

一方ルツェルンの方は、音の減衰が素直で音が滲まない。本当に美しいだけでなく、その舞台上の奥行き感がそのままマイクにも捉えられていて、放送録音としては超弩級ではないかと思う。そもそもこれだけ美しいベルリナーフィルハーモニカ―の生録音は聞いたことが無い。流石にこの演奏はネゼセガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団では難しいと思う。音の構造的な深みが全く異なる。流石にこの音を聞いてカラヤン時代の方が凄かったという人は居まい。音の情報量で月と鼈だ。それはペトレンコが確りと一音一音読み取って指揮していて、楽団もそれに応えているからに過ぎない。なにも強調などは一切していない。

最初の名手パウのフルートからして、春には吹き上げていたのを、しっかりと変えてきていて、これだけで感動させるに十分なのだが、そうしたモラールが楽団に全体に満ち溢れていて、嘗ての発止発止と演奏していた団体とは徐々に変わってきている ― いつかの日本人有名音楽評論家のようにこれをして猛獣使いと言うような下種がいるのなら最早芸術については絶筆して頂きたい。こうした芸術行為から私たちは本当に勇気を貰う。そうした行為が決して無駄な営みで無い事を認識する。就任一年前にこのような演奏をする組み合わせが今後どのような演奏を繰り広げるかは本当に青天井のような感じである。先ずは第九のオープニングである。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-03 03:11 | | Trackback

励起させられた覚え

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久しぶりにワイン山の上部を走り抜けた。走ると言っても駆け足に毛が生えたようなもので、復路のアスファルトで少し速度を上げただけに過ぎない。それでも20分運動をして汗を十分に掻けたので満足だ。日が昇ってから日陰の無いところで走ればそうなる。

ロンドンからのプロムス中継を聞いた。最初にシベリウスの交響曲一番を持ってきていたが、これまたミュンヘンの放送交響楽団の欠点丸見えの演奏で些か気の毒だった。金管が外したりというのは横着している訳ではなく仕方なく、ある意味交響楽団が代わりの優秀な金管奏者を探すことぐらいはそれほど難しい事ではない。しかし弦楽陣が指揮者の意図しているように歌えないとなるとやはり致命傷である。

元々BRの交響楽団はクーベリック監督時代も対向配置の難しさをそれほど克服していたような記憶もないが、ヤンソンス指揮になって強引なドライヴでどうもこの楽団の弦楽陣はとても悪くなった。今回のネゼサガン指揮でも弱弱しくなぞるのが精一杯で、普段から単純な合せ方をしているとこうなるのだろうと思った。流石にコンセルトヘボー管弦楽団辺りになると、そうした後遺症が生じているとは誰も語らないが、それでも今はシャイー時代よりも遥かに下手になっているのは確かである。カンフル剤は、どうも本人の心臓に来るだけでは無いようなのだ。

どうしてもフィラデルフィア管弦楽団が演奏していたらここはこうここはこうと理想的な響きが頭に浮かぶので、余計に下手に聞こえて仕方がない。そしてプロコフィエフのあとに持ってきたのが「ばらの騎士」組曲で、これは酷い演奏だった。ペトレンコがバイエルンの座付をカーネギーホールデビューの為に連れてきて、二回のコンサートを開いた二番目がコンサート形式の「ばらの騎士」でその時に客席に現れていたのがネゼセガンだという。しかしこの演奏を聞くと一体そこでなにを聞いてどのようなコンセプトで演奏することにしたのか皆目わからない。管がブロードウェーの様に叫び、とても品が悪い。これで全曲指揮しようとすれば可成り安物の上演になる。

さて今晩は昨年のルツェルンの音楽祭からベスト中継録音のアンコール放送がある。当日そこに居て未だに聴けていないペトレンコ指揮のポール・デュカ作「ラペリ」が楽しみだ。ファンファーレに続いて演奏されたこの曲は名演奏で、春にベルリンで三回、ザルツブルクで一回、演奏して五回目の演奏だと思うが完成度の高い大名演となった。だから私の席の並びの人がフライング気味にとは言っても指揮棒が振り下ろされてしばらくたってから拍手をし始めたのでついつい引っ張られた。映像も生放映されたのでその時の指揮者の表情を確認したいと思うのだが、今回はラディオ放送である。それでも楽しみである。

二曲目のユジャワンをソリストとしたプロコフィエフもここまで合わせるかと言う演奏で、こちらの方は映像を観たが、更に優れた音質で集中して聴いてみたい。後半のシュミットの交響曲四番がまた大熱演で聴きたいのだが、残念ながら今回は放送されない。お預けである。日曜日にスイス国内で放送されている回顧シリーズでもプロコフィエフのみのようだ。

ベルリンのフィルハーモニカーのサイトで確認すると、南ドイツ新聞の評が取り上げられていて、「とどろくイヴェント、ペトレンコの抑えることの無い音楽的情感と明晰な演奏実践は、管弦楽団と観客を励起した。」とある。付け加えることは何もない。あのオープニングシリーズで音楽的に頂点の晩だったと思う。



参照:
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-01 23:56 | | Trackback

初代改め元祖の方がよさげ

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新聞の音楽祭批評が続く。今度はザルツブルクからでなく、再びバイロイトからの批評である。次に血祭りにあげられたのは?想像通りだが、今度は私と同じような意見の書き手ではなくて他の人である。いよいよヴィーンの国立歌劇場音楽監督就任へと暗雲が漂う。そもそもジョルダン息子がたとえ父親よりは才能が豊かとしても、とてもではないがそのポストに付ける人ではないと確信していたが、誰もが本当の批判を慎重に避けていた。理由は、昨日書いたように大きな新たな市場へとの拡大の先導者になってくれるとの期待がそこにあるからだ。だから間違いなく政治的にも問題のある初代改め元祖バイロイト祝祭劇場音楽監督の方が実力もあり、従来のオペラファンを惹きつけられるにも拘らず、新世代へのその可能性に掛けていたかのように思われる。

そもそも件の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」新制作初日からして、酷いアンサムブルしか引き出せなかったこの指揮者にそれだけの実力が備わっていなかったのは明らかだった。しかし、パリのオペラなどは程度が低いのでどちらでもよいとしてもメトロポリタン歌劇場までが指揮に招聘する販促に加わったことから、益々正しい批評から遠ざかって行った。大体そうしたところが私の見る状況である。決してこの指揮者は政治的な問題がある訳でもなくペテン師でもないので、それなりの成果を期待したいのだが、如何せん実力の世界は厳しい。

つまり、昨年充分に指摘しておけばもう少しは修正してまともな指揮をしたかもしれないのだが、ジャーナリズムが放置したことで、「まるで追われているように、作品を通して、揺らせたり、畳んだり、ガタガタ言わせたりと、前日のティーレマン指揮の管弦楽団に比べるまでも無く全く以ってそれ以上のものではなかった。だから歌手は奈落を注視して歌わなければならず、それどころか初めから出てこない歌手までいた。」と「夜警が歌うところで一向に何も聞こえず、聞こえたのはプロムプターの声だけだった。」と「夜警が自分自身がお勤めせずに寝込んでしまった。」と書かれている。普通はありえないことで、そもそもあの歌は続く三幕でも大変重要な動機となっている。指揮者がまともに楽曲を把握して歌手に稽古をつけていればこのようなことにはならないのではなかろうか。

ミュンヘンでの「アグリピーナ」指揮の関しての見解が別れた。理由は、明らかに聴者のオペラへの興味や聴き方に準拠するという事が知れた。具体的には、歌を聴くか、作品を聴くかとなるのだが、その相違によって判断が変わるというものだ。具体的には改めてとしたいが、実は昨日の記事で、英国とイタリアでのデジタル化に伴うその新たな聴衆層の開拓の状況が異なるとあった。理由は、イタリアのオペラが昔からエンターティメントとしても広く愛されていることに係っている。この丁度対極にあるのがバイロイトのヴァークナー音楽祭で、最早そこでは歌を支える管弦楽ではなく、一体化しているからこそ楽劇と呼ばれるのである。明らかにジョルダンがそうした目的で楽劇を指揮することの矛盾が生じていて、新聞記者が上の様に批判するぐらいなら「ジョルダン指揮の楽劇など聴きに行く方が悪い、知らなかったなどとは言って欲しくない」と責めなければいけない。

BBCからプロムス中継でバイエルンの放送交響楽団ツアー初日を聞いた。もともとは常任指揮者のヤンソンスが指揮して、ザルツブルクへと回る予定だったが、衰弱の為のドクターストップからネゼセガン指揮で行われる。そして二日目にはプロコフィエフの協奏曲をリサ・バティシュヴァリと共演することになっていた。秋のフィラデルフィア管弦楽団日本公演の準備となっていたのが、健康上の理由で下りて、日本公演では昨年共演したばかりのチャイコフスキーの協奏曲へとプログラムが変更になったようだ。

さて初日の演奏は流石にベートーベンの交響曲二番ニ長調が見事で、このサウンドは手兵のフィラデルフィアでも出ない。管弦楽団が合奏の型を持っているようだ。しかし後半のショスタコーヴィッチとなると管弦楽の技量が一回り以上低い。フィラデルフィアの楽団が演奏すると大変な演奏になるが、放送交響楽団では限界が直ぐに表れる。下手ではないが上手に弾けない音形ばかりが出てくる。

流石に客演とは言いながら世界の頂点にいる指揮者がこうしたローカルの放送交響楽団を振ってもその限界まで簡単に突き進むことになる。ネゼセガンの指揮は益々よくなってきているようで来年の復活祭での競演が楽しみになって来た。



参照:
Gestern Nacht Kissenschlacht, Clemens Haustein, FAZ vom 31.7.2019
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
手取足取りのご指導 2019-07-27 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-01 00:05 | マスメディア批評 | Trackback

索引 2019年7月


クラシックな社会層 2019-07-31 | 文化一般
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想 TB0,COM4
手取足取りのご指導 2019-07-27 | 音
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
ストリーミング聴視予定 2019-07-25 | 暦
TVドラマのような視点 2019-07-24 | 文化一般
無酸素で挑む運命の先 2019-07-23 | マスメディア批評
サマータイムの清涼感 2019-07-22 | 暦
夏季の"I Got Rhythm" 2019-07-20 | 雑感
一昨年振りの金鳥の夏 2019-07-19 | 生活
すっきり気持ちの良い夏 2019-07-18 | 生活
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音楽祭中継一覧調べ 2019-07-16 | 暦
クレッヅマー風の音楽も 2019-07-15 | 雑感
少しは戻る潤い 2019-07-14 | アウトドーア・環境
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郷に入れば郷に従え 2019-07-04 | 雑感
一寸気持ちのよい夏 2019-07-03 | 生活
ある晴れた日の為に 2019-07-02 | 生活
未だ嘗て無いような合致 2019-07-01 | マスメディア批評

# by pfaelzerwein | 2019-07-31 19:25 | INDEX | Trackback

クラシックな社会層

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ヴェルビエールからの生中継を流した。今最も人気の高そうなエベーヌ四重奏団の演奏を初めて観た。既に来年のベートーヴェンマラソンの券を入手したが、まだ聴いたことも無かった。五重奏の演奏だったので、四重奏団としての実力は分からなかったが、映像だけに色々分かるところもあった。先ずはモーツェルト一楽章でチャラチャラと弾いていたので、なるほど名前の通りのアンサムブルだと思っていたら、そのあと奏法も変えてきていた。器用な人たちの様でなるほど多様に対応する柔軟性も人気の秘密なのかなと思った。しかし、後半の「フロレンスからの土産」も含めて、ベートーヴェンの四重奏曲を弾き切る四重奏団ではないと思った。共演するベルチャの方が名前からしてそれだけの表現力はあるような感じがしたが、実際のところは分からない。券が売り切れるだけの四重奏曲への入門を容易にする器量はあることを確認したが、人気程の実力でもないのも分かった。少なくとも弦楽四重奏をよく知っている層には飛びつくだけの魅力は無い。まあ、とにかく齧り付きで四曲づつ生で聴く価値はあるだろう。細かな技術的なところも判断できると思うが、ベートーヴェンの解釈に関しては端から期待しない。

マウスの電池が切れかかった。赤信号が出てからでも二三日使えている。ロジテックが保証している低エネルギー消費は証明されて、二年半ほども単三で使える。キーボードも数週間前に代えたところで、こちらは初めての交換かもしれない。否、2013年6月購入であるから、二回目とすると、三年使えることになる。その通りだ。つまり、次回の交換は2022年6月ごろとなる。マウスの方は2022年冬まで持つかどうかだ。大したものである。非接触型の発光装置の節電技術に違いない。キーボードもマウスもそれまでつまり十年近くはもちそうだ。前世紀には私たちの時代には益々科学技術的な発展が鈍化してと言われていたので、今のような工業技術の発展は予想されていなかった。しかしこの十年ほどで大きく変化している。

そのデジタルの発展の音楽的な社会影響に関して、スイスのベックメッサーことニフラー氏が新聞に記事を書いている。イタリアでのデジタル化時代のその活動の大歌劇場の将来の担当者などが集ったセミナーからの報告である。そして基本情報として、英国でのアンケートから、18歳から25歳の青少年の過半数が最も愛しているのは管弦楽団のクラシックサウンドだという驚くべき回答結果が発表されて、その背景を予想するとゲームソフトにおける音楽だというのである。それどころか14歳から34歳のメディアを利用する層では二割がクラシック音楽に興味を持っていると回答している。その多くはインスタグラムのプロダクションクリップのようである。

また送り出し側では、九割以上が何らかのデジタルライヴ制作をしていて、オンライン、TV、映画館への中継が含まれているというのが英国事情のようだ。過半数がクリップとして、五分一がライヴ配信をしているらしい。

そもそもハイカルチャーをものとしているドイツでの需要社会層は小さく、それでも百五十年前の十倍規模になっていても、社会全体の7%から10%の少数派に留まる。しかし、デジタル情報のグローバル化でその数は世界で一億人が欧州のクラシック音楽に関心を持っているという事になる。

今話題の新制作「イドメネオ」のセラーズが訴えかけているのはこうした人々に対しての制作であり、まさしくクレンツィスを使ってソニーはこの層の市場を開拓しようとした。プロジェクトの背景はそこにあり、我々ハイカルチャーに興味がある者にも同時に働掛けようとするには所詮無理がある。私はむしろ、来月ブランデンブルク門でのオープンエアーでの本物のベートーヴェンの音楽の力に期待したい。嘗てはセラーズこそが、そのもの通常よりも少し難しいところへと聴衆の意識を啓こうとしたのではないか。



参照:
無線マウス二年半の実力 2015-11-28 | 雑感
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
ドルトムントに電話する 2019-05-17 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-07-31 02:40 | 文化一般 | Trackback

すわ、頂上往復か

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久しぶりに頂上往復コースを走った。調べると一年ぶりのようだ。外気温も摂氏20度を超えていたので厳しかった。完走だけを目指したので大分時間が掛かっているが、先ずはやり遂げた。次へも計算可能となる。もう一度、走りたい。それでも足の疲れも残った。解しに軽く走って来よう。

週末は幾つもの中継を見聞きした。日曜日の新制作「アグリピーナ」は圧巻だった。しかしストリーミングの調子が悪く、後半しかまともに鑑賞できなかった。それでも前半の序曲から聞き所は満載で息をつかせなかった。既に二週間限定のオンデマンドで出ているので、前半を通して見なければいけないと思っている。詳しくは改めるとして、シーンズンを通して世界で屈指のオペラ上演だと思う。特に管弦楽のベースに声楽が乗る和声の妙は、ドイツバロックの神髄のような響きを引き出していて、室内楽的に技術的に秀逸な演出と共に全く飽きさせない。

その他同時進行で録音していたロスアンジェルスからの中継録音はメータ復帰後の指揮で期待したが、あの交響楽団は音楽的に全くアイデアが無いようで、ビッグファイヴ一の給料を取っていても、その芸術的価値は完全に番外の程度だ。来週再放送されるもう一つのプログラムに期待しよう。

ヴェルビエールからの中継も試した。提供しているのはメディチTVなので無料でも一つメールアドレスのみを提供しなければいけなかった。それだけで生放送は見れた。あの山の上のコンサートホールや教会から中継される。日曜日の朝の生中継などかつては到底考えられなかった。あの坂道を放送局の車がベルンやジュネーヴから車を走らせるだけで大変なことだからだ。日曜日の朝のあの山の上の空気や陽射しを感じられる生中継はそれだけでとても気持ちのよいブランチだった。

カプソンとシフのデュオ、先ごろキャンセルの知らせを受けたシフも室内楽ならば問題なく弾いていて、想像していたのとはまた異なった。ベーゼンドルファーを弾いていたのも意外だった。

夜のコンサートの指揮者シャニはとりわけ期待が大きかったが、如何も駄目のようだ。イスラエルフィルでの断片を見たりすると、四十歳以下の世代ではピカイチの才能だと見えたが、ここでの室内楽団を指揮しても冴えない。共演のレーピンは悪くは無かった。幾らでも限られた時間でやれることはあると思うが、その痕跡が見えなかった。直さなければいけないところにメスが入っていない若しくは指揮上の工夫が無いように受け取られる。再びユダヤ系かと思ったが、キリル・ペトレンコクラスが直ぐに出てくるわけがない、明日現れるかもしれないが、二十年ほど出ないかもしれないし、一世紀待たなければいけないかもしれない。殆ど次の原発事故に大地震に備えるような、救世主を待つような塩梅である。



参照:
予想を裏切って呉れる 2018-07-12 | 文化一般
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-07-30 15:45 | 生活 | Trackback

無視にしか価しないもの

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土曜日のザルツブルク初日の新制作「イドメネオ」の新聞評が出ている。先ずはその〆の一節。

「エートスとしてこのような脅威的徒党は無視にしか価しない」

つまり、「ザルツブルクの音楽祭でモーツァルトの音楽へのヘイトであったり、それをごみとして取り扱うことを基本コンセプトとして活動することは要注意だ」としている節に続いている。勿論これは上出来だった演出家のオープニングでの温暖化に対抗する演説内容程に上手く行かなかったその演出内容についてでもある。

そしてまた二年前にトンデモ演奏を繰り広げたクレンツィスが今回は三か所しかスペクタルな演奏を指揮できなかったことについても触れている。つまり、状況の分かっているフライブルガーバロック合奏団を同等のパートナーとしたことで、分かり易く、多面に亘り、表現を聴けるようになったことに反してとなる。合唱の大きな功績や歌手の横においてという事である。

それでも前日のSWR放送管弦楽団演奏会時の出で立ちには至らないが、その足元は明らかに議会外運動家の様相だったとされる。そして、前夜には、そのショスタコーヴィッチの「レニングラード交響曲」を振るにあたって、服装などでその指揮者を絶対判断してはいけませんよと“Don‘t judge a girl by her T-shirt“と書いてあるのと同じだとメッセージを読み取る。

そこでは、そうしたお膳立てが「特別効果」となって、ドイツ軍の封鎖前のレニングラードの平安への賛歌に最初の攻撃的な唸りで以って鞭が入れられる。一体この主題はどのように歌われていた!指揮台の独裁者ムラヴィンスキーでさえ、レニングラードフィルハーモニカーの黄金の弦楽の音色で、戦時下やテロ下でさえ音響的なヒューマニティーを決して失うことは無かったのである。

クレンツィスは、世界大戦をショーにして、その侵略の頂点で弦楽奏者を立たせる。そして、対抗させて金管楽器群、木管楽器群と、その劇場においては、もはや人はなにも聴かないことが謀られているが、体験ジャンカーにとっては更なる刺激の増大が必要とされて、過剰で刺激が麻痺する様になることが謀られる。そしてまた緩徐楽章でも彼は留まることない。なぜならば、掻き毟り、騒ぎ立てる以外に、語り、感情的に表現する技術的な手が彼には無いからだ。

演出に関しては来月の放送で確認するしかないが、少なくとも音楽的には二年前の話題性も何もかもなく、残るのは無様な足ふみを繰り返すこのカラヤン二世指揮者の無能な指揮振りだけだ。恐らくザルツブルク音楽祭史上最低のモーツァルト歌劇による初日だったと思う。あれだけ批判された同じところで上演された小澤指揮の「イドメネオ」でも音楽的には天才作曲家に寄与する指揮であった。

正直なところこのテオドール・クレンツィスと言う指揮者はその指揮だけは一流だと信じていたが、今回序曲からその始終踏み鳴らす音は、まるでルイ太陽王の宮廷楽長リュリが長い指揮棒で自身の足を突いてそれがもとで亡くなった逸話を思い出すほどの無様さだった。勿論、リュリほどの人物では無い事は分かっているのだが、なぜあそこまでやったのかを考えている。前々日のバイロイトでの指揮者ゲルギーエフの鞭入れも不自然極まりなかったが、これはそれが効果として表れるどころか、その堅いベースラインを上書きするように、とても非音楽的な情報となって、この指揮者の基本的な音楽性の程度の低さを示すだけだった。こんなに硬直したリズムしか取れない指揮者とは気が付かなかった。この様子なら精々二流の才能の指揮者で、そのペテンの仮面がこんなにも早く一挙に剥がれるとは思わなかった。なによりもブラック労働で仕込む自身の管弦楽団が無くなったのが致命傷だった。ブラック労働抜きではそれ程しか表現の出来ない指揮者、一体誰だ、あんなものを仕掛けたのは!



参照:
Kein Müll auf dieser Bühne, Jan Brachmann, FAZ vom 29.07.2019
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
# by pfaelzerwein | 2019-07-29 22:08 | マスメディア批評 | Trackback

輝く時へと譲るべき大人

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今晩はザルツブルクからの放送がある。ピーター・セラーズ演出「イドメネオ」の初日である。オープニングには初めてオーストリア首相が挨拶していた。初日にも多くのリーダーが集うのだろう。セレモニーから地球温暖化問題をセラーズが取り上げたことで、完全に政治的な催しとなっていた。そして「イドメネオ」でもそれが扱われる。

特に注目されるのが「ありのままの私」が再びここでも強調されていたことで、モーツァルトの作品から不要と思われるものを削除してある。セラーズと指揮者のクレンツィスが同意して削除したようだが、同様な改変は昨年の「ティートゥス」にもあったので驚きには当たらない。寧ろその理由の一つとしてナショナリズム的な「国のために死をも辞さない」とする"No, la morte io non pavento" をヒトラーの1936年ではないのだからとして、ごみとして、そしてヴォルフガンクをファザーコムプレックから救い出してやる作業をしたとするところが興味深い。

元々リベラルのセラーズの主張であり、次世代の為にこれからの社会への決定権を子供に更に多くとする主張は先頃日本の参議院選でれいわ新選組の主張として安富歩がアピールを繰り広げたモットーそのものである。

さて木曜日のバイロイト初日の新制作「タンホイザー」の新聞評が載っている。まさしくそのリベラリズム派にそこで描かれたアナーキズムがあり、それに対抗するものとして法があるとしている。自由と安全、革命家と巨匠ヴァークナー、アップデートされるレジーテアターと歴史的様相の歌劇とを対置させてエンターティメントにしたのがクラッツァーの演出だったとする。ルガトーショコラのフィギュア―にフォイヤーバッハならずマルクスの資本論を読む。

当日13時19分にヘリが緑の丘のバス停に降り立った。デビューを飾った指揮者ゲルギーエフである。終演には盛んにブーの洗礼を受けた。筆者は、多くはプーティン一派としてのまたは反同性愛者への抗議の一つとして理解する。その通りピーティンの義兄弟であるシュレーダー元首相が珍しく赤絨毯に五人目の奥さんと現れたのも指揮者にも招待されたからであろう。こちらも明らかに親ロシアの政治的表明でもあった。

既にペテルスブルクの白夜祭でこのドレスデン版を振って準備をしていて、「軽く、柔軟性に富み、能動的に攻撃的なスイングで、狙った通りのアクセントを付けて聴かせ、熱を放った」と全くバイエルン放送協会のコメントとは正反対の評である。要するに私に言わせると前日の記者会見でのカタリーナの談話から印象操作がされていたというのが事実だろう。なんと言っても新顔に手解きをしようとして手ぐすねを引いて待ち構えていた初代音楽監督の指導の時間をすっぽかしてしまったのだ。どんな嫌がらせがある事か。若干リテラシーの低いジャーナリズムは乗せられるのだろう。公平に見て、ここ十年にバイロイトの劇場で指揮した中では、キリル・ペトレンコは別格としても、このゲルギーエフの程度に匹敵する指揮者が思い浮かばない。あとは皆二流の指揮者ばかりだ。精々、今年から指揮するビュシュコフが指揮技術的にも上回るぐらいだろうか。

そして歌手陣に関しては、後を引く歌唱でもリリックな歌唱でもない自らの葛藤を表現したアイへを最初に挙げて全く私と同じだ。会場でも声が小さいところは無かったのだろう。少なくとも放送では十分な声が出ていた。そして主役のグールド、勿論文句は無い。個人的な印象ではまだ期間中に更にいい歌が歌えると確信する。更に会場で一番湧いていた代役のツィドコ―ヴァの安定した狙いを定めた歌唱とその晩の名人芸を披露した燃えるメゾソプラノ。同様な持ち役となる「影の無い女」の染屋の女房をハムブルクで歌い大変評判の良かったアメリカ人歌手よりも同じタイプながらこちらの方が断然良かった。そして見つけものとして挙げられるのはエリザベートを歌ったリサ・ダヴィットスンで、こちらはミュンヘンで既に予行練習をしていて評判も良かったので驚かない。ハルテロスの役だが、断然こちらが声も良く才能がある。但し放送でも批判されていたように何回か歌ってドイツ語がもう少し分かるようにならないといけないだろう、恐らくその批判が正しい。

さて、ゲルギーエフ氏、ブーを受けた公演後に再びヘリでザルツブルクに向かったようだ。まだ数回往復しながら指揮をして来年はいつものようなドイツの地方の音楽監督に指揮を譲る。バイロイトが少しだけ音楽的にも輝く時かもしれない。



参照:
Glanz und Elend der Libertinage, JAN BRACHMANN, FAZ vom 27.7.2019
ホモのチャイコフスキーは? 2013-12-24 | 文化一般
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-07-27 23:38 | 文学・思想 | Trackback