いざカウンター攻撃

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ドイツ対スェーデンの試合を観た。代わり番このARDの晩だった。嘗てのように男カタリーナヴィットことギュンター・ネッツの名解説も無くなったのだが、ZDFにはオリバー・カーンも出ていた。彼がカムバックしなければいけないようなディフェンスだと思った。兎に角、最初のお得意の密集総攻撃で得点出来なかったので駄目だと思ったが、最後には辛うじて首を繋いだ。それでもこのチームが優勝争いに食い込むなどとは誰も期待していない。毎回最初は全く盛り上がらないのがドイツであるが、いつも知らないうちに優勝争いに食い込むようになって、首相の訪問日程が検討されるようになると燃焼寸前だ。それでも今回のチームに限っては政治日程には絶対のぼらないだろう。

なによりも興味深かったのは、あのボアテンの反則だった。最終的には赤紙が出されて退場となったが、最初の反則が取られていたならば完全に負けていただろう。彼の名を聞くたびにAFDの「もしボアテンがご近所さんだったら」発言とその反響を思い出す。まさしく修正主義的なこの手のポピュリスト政党の常套文句で、皆が「そのような人種差別などは恥と考える」その裏側でなにか本音のような邪悪な感情に呼びかけるのがこ奴らの手段で、それは世界中変わらない。

勿論多くの人はそのようなスローガンに自問自答してみて、やはりそのような発言や手法は許せないと思い、実際に上の場合もボアテンに部屋を貸したいというオファーが沢山出された。この辺りは、所謂カウンターと呼ばれる運動に近い。そこで最も重要なのは、その手の連中を許さないことを示す活動で、政治活動として認めないもしくはピアニストのイゴール・ヨベットのように果敢にカウンター活動をすることだろうか。

兎に角、彼に任せるしかないチーム事情を考えると悲観的になってしまう。一体ああしたAFDの連中はこうした現実をどのように思っているのだろうか。こうしたナショナルチームのみならず、世界中の優秀な管弦楽団なども同じような塩梅で、それこそが現実で各々の人材を其々に活かすことにしか道は無いのである。

涼しい週末となって、寒冷前線で気温摂氏10度から20度ぐらいで気持ちが良い、というか眠くなる。走るのも気持ち良く、先日までの滝のような汗が嘘のように、軽く掻いた汗も気持ちよく乾く。来週は週末の30度へと再び上昇するようだ。初日が木曜日のミュンヘンはライフが予想されていて最高気温が20度以下のようだ。それならば十分に着込んでいても暑くは無いだろう。気温によってはディナージャケットも考えてみようか。よく考えるとオペルンフェストの初日は初めてだ。まあ、たとえ赤絨毯が引かれていても私は駐車場から入るので関係は無いのだが。

「パルシファル」一幕は一通り観て、感想もメモしておいた。週末中に二幕と三幕を片付けて仕舞いたい。流石にバーデンバーデンの初日の前からすると積み重ねが増えていて、結構いいところまで来ている。木曜日までに満足するほど把握出来るようになるだろうか、限が無いのは分かっているのだが。



参照:
身体の使い方や鍛え方 2014-02-22 | 雑感
スカンポンなカメルーン西瓜 2010-06-15 | ワールドカップ06・10・14


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# by pfaelzerwein | 2018-06-24 20:22 | ワールドカップ | Trackback

「プロシア的」の情けなさ

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週末は木曜日の初日へ向けての準備である。色々と調べた結果やはりベルリンのフィルハーモニーでの「パルシファル」を批判してしまわないとならないようだ。メトでの演奏は既に批判したので繰り返す必要もない。なるほど演奏会での演奏はバランスが悪いが、管弦楽演奏上の問題点はハッキリする。それほどラトルの指揮がこの曲には向いていると感じたからだ。

それに比較するまでもなくマーラーの六番はやはり駄目だった。そもそもマーラーにおけるテムポ変化などのアゴーギクの細かさは、ご本人の関心とは別にサイモン・ラトルのブルックナーほどには向かない。最終公演二日目のデジタルコンサートも観たが、ラトル指揮フィルハーモニカーの全てを曝け出した演奏だった。メスト指揮クリーヴランド管弦楽団との比較で、合奏が合うとか合わないとか上手いとか下手とかの問題ではなくて、音楽的に勝負にならなかった。後者があまりにも精細に演奏していてメストの演奏解釈があそこまで今日的なマーラー解釈になっているとは想定外のことだったが、そもそも譜読みの精度が大分違う。

ラトル指揮では複雑な個所になるとた横に流すだけの演奏しか出来ていない。記憶からするとフィラデルフィア管弦楽団を振っていたMeTooのレヴァイン指揮などと同じでしっかりと各声部各音符の音化が出来ていない。多声的とその音楽構造とはまた違うのだ。恐らくラトルが客演でクリーヴランドをフィラデルフィアを振ってもそれほど変わらないと思う。つまり一つ一つの動機などの表情付けがそこではなされていなくて、選抜された箇所のみをプローベで表情づけしているという感じで、そもそもその精度が全く異なる。あの年代はあれで通っていたのだ。それがクリーヴランドの管弦楽団の特徴などではないことは過去のアーカイヴで流されるセル指揮のその楽団の音楽性を現在のそれと比較すれば分ることで、そもそも駄目なリズムとかだけではないところでの多声部での表情付けの細やかさはセル時代には求められていなかったものである。

少なくともマーラーのような大編成でのその細やかなそれは嘗て無かったもので、ベルリンでのそれを容易に切って捨てれない理由でもある。少なくともヤナーチェック「女狐」でのその音楽的な実力差は、ベルリンの方が曲に慣れていなかったからのディスアドヴァンテージだと思っていたが、マーラーでは指揮者も含めてクリーヴランドにそれほどアドヴァンテージは無かっただろう。

二日目の映像を観ていて気が付いたのは半数ぐらいはラトル時代の最初から在籍していた人で、可成り年配も多くアバド時代の人が多そうだったことだ。コンツェルトマイスターのスタブラーヴァはクスマウル以降で最もソロを聞きたい人であるが、どうして、徹底できていないのだろう。その中の半分ぐらいは定年も近いようなのでペトレンコ時代にはどんどん変わっていくと思われるが、想定以上に悪かったのは管楽器で、半数ぐらいは変わらないと厳しいと思った。特に木管でこの人というのは限られていて、アメリカのそれと容易には比較したくはないのだが下手である。

駄目な人は直についていけなくなると思うが、そうした競争のシステムとはまた異なるところで「プロシアの管弦楽だ」とか豪語している楽員を見ると、矯正のしようがないと思った。宜しい、その秩序だった文化を指すならば、当然なのだが、そもそも英語でインタヴューに答えるソリストなんて採るぐらいならば、もう少し音質的にも「プロシア的」を徹底しろと言いたい。なにかフィルハーモニカーのプロシアと言うのは肯定的には受け取れない。要するに、芸術的なローカリズムや伝統とは違って、感覚的に田舎臭いだけなのである。

エルブフィルハーモニーのサイトを見ると一日経過しても、ペトレンコ指揮のユーゲント楽団だけでなく、ネゼ・セガン指揮ベルリナーフィルハーモニカーの券が残っていた。つまりそろそろ皆が押し寄せる状況が終わって、一段落して来てぼちぼち正常化だろうか。そもそも早々に売れ切れていた世界の管弦楽団シリーズはやくざな主催者のもので入場料金も高いが、ベルリンのそれは良心的な主催者で価格も微妙だった。最低席の15ユーロとか50ユーロとかはお得で、最高額も190ユーロだから、ハムブルクからならばベルリンへと行くのとの天秤が掛けられることになる。私個人からすればハムブルクはベルリンより近いが、フィラデルフィアでなくベルリンからの管弦楽団のために旅行するには遠過ぎる。そもそも録音で聞く限り、評判ほどに若しくはテルアヴィヴほどにはエルブフィルハーモニーは音響が良くないと感じている。恐らく音響修正が必要だろう。



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-06-23 20:12 | 文化一般 | Trackback

配券された初めてのもの

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「マイスタージンガー」のティケットが早速配券された。「金に糸目は付けず」の力が伝わったのだろうか。但し日程は最後のものになったので他の都合をこれに合わせていくしかない。それほど期待している。

更にもう一つ買い求めた。第一希望はボストンシムフォニ―管弦楽団だったが、これは完売していた。そこで第二希望のペトレンコ指揮のユーゲント管弦楽団演奏会だ。前々日にルクセムブルクに行く心算だったが、先ずはこちらを確保した。既に問い合わせしていて断られたものだ。舞台の奥の席が10ユーロなので人にあげてもよいので購入しておいた。初めてのエルブフィルハーモニーである。行くのが大変だが、席を確保しておかないと他の計画も立てられないので、先ずは購入。

ペトレンコデビューの時はバーデンバーデンの「パルシファル」初日だったのでそもそも試さなかったが、購入は難しかったと思う。今回も窓口と別枠で発売したようだが、結構入るのが大変だった。いつものようにシステムのアルゴリズムを考えながらウェイティングルームに入ったが、番号は800番台だった。十五分ぐらい待っただろうか。先ずはボストン完売を受けて、何とか確保した。

舞台の奥に座った経験を考えると、大阪のシムフニーホールは珍しくて喜んで座ったが、記憶に残るのはロイヤルアルバートホールでのラトル指揮バーミンガム饗でのヘンツェの交響曲七番だったと思う。確かに前から見ていたのは覚えているが、それほど近くも無かったので、最後に作曲家と拍手しているのぐらいしか覚えていない。特殊な音響のそれは記憶にあるが、まあそれは構わない。ルクセムブルクでも被りつきにしようと思っていたが、ペトレンコの指揮を前から見れる機会とは思わなかった。

エルブフィルハーモニーでの初めてのショッピングだったので覚書としておこう。アルゴリズムや入り口の問題はどこのシステムでも共通している。ウェイティングシステムの開かせ方も若干異なるようだが、今もっともすっきりしていて公平なのはミュンヘンだと思う。その他は幾らかは癖があって、アルゴリズムを読まないといい番号が貰えない。まだ改良の余地がありそうだが、現在の需要過多の状況での目的からすると致し方ないだろう。

一度入れば30分ぐらい時間を貰えるようだが、最初だったので時間配分が分らなかった。向こうが選ぶ機能が見つからなかったのでいちいち座席表から探すと椅子取りゲーム状態になって中々取れないのはどこのシステムも同じで、最善の席からの配券でないと厳しい。それでも安全パイから確保していって決定したが、最初に焦ったのはログインで、なぜかパスワードの切り替えまでする必要が生じた。そうなると30分なんて殆ど消費してしまう。それでも何とかログインして、その後の決算でもエラーが出て電子メールで相談しろとまで出た。諦めずに証拠のショットだけ写して、繰り返すと何とかペイパル支払い準備まで行った。ここで再びエラーが二回ほど出たので、明らかにサーヴァーのパンク状態だった。ぺイパルに入ればこちらのものだった。それでも持ち時間を殆ど費やした。最後まで焦った。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
決してCPで負けない 2018-05-09 | 試飲百景



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# by pfaelzerwein | 2018-06-22 15:57 | 生活 | Trackback

再びマイスタージンガー

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我ながら嫌悪感に陥る、よくもこうもクラシックオタクのような事を毎日のように書いていられるかと思う。今年は例外としても毎年夏になると思考が鈍って、ボルダーリングのようなことを、森でマットに寝転んで空を見上げながら考えたり綴ったりしているのと変わらない。要するに暑さボケである。もう数週間もすれば夏も終わりだから仕方がない。

秋のオペラの券を発注した。九月末の記念週間の「マイスタージンガー」である。問い合わせまでに招待状も来なかったので仕方がない ― その間一通寄付願いが来ていて招待状かと思ったが違った。勿論寄付をしていれば招待された可能性が強い。寄付よりは安くつくので高額席を初めて発注した。招待日も入れて三日しか公演が無いので当たるかどうかは分からないが、注文を付けて発注した。その「マイスタージンガー」は2016年の初演シリーズ四日目に出掛けたが、立見席で音響的にも視覚的にも悪かったので、是非いい席で見納めておきたかったのである。その後のストリーミング放送も配役が悪く、ミュンヘンでのマクドナルド銃殺事件のために延長されてカウフマンは居なく、来年に再び撮影される事になっている。色々と条件が揃わないことが残念な公演となっている。

今回は記念公演で、通常公演枠乍ら配役が初日シリーズやフェストと同じぐらいに素晴らしい。カウフマンの代わりにフォークトが入り、ポーグナーもあのツェッペンフェルトの朗々とした歌声が楽しめる。そしてこの演出には最も重要なアイへのベックメッサーとなっている。なんと言ってもフォークトの風来坊にはカウフマン以上の当たり役が期待出来、コッホのザックスとの掛け合いも見もので、そこにアイへの小役人的な雰囲気が対するとなると、これまたハマる。また問題となっていたエーファもユリア・クライターという人が入っていて視覚的にも悪くはなさそうである。そこにツェッペンフェルト扮するBMWディーラーの親仁が存在感を放てば全く文句の付けようが無い。

だから来年の公演よりもこちらの方がいいのだ。映像で細かなところを観ていると、音楽至上で舞台ぐらいはどうでもよいと思って、天井桟敷からだとやはり片手落ちになっていると気が付いた。よく出来た演出の場合はその音楽的な価値と舞台がしっかりとシンクロナイズされているからだ。

そして今回は価格も穏やかだ。これも高額券を所望した理由でもあるが、なによりももうこれだけの公演がペトレンコ指揮で行われる機会はそれ程無いので、この辺りで特上席で体験しておこうと思った。これまで二回も通った公演は無く*、今七月の「三部作」が初めてとなるが ― これの二日目の券が再び六枚出ていて、内二枚は最前列コンサートマスター前あたりでこれはよかった -、券が入手出来ればそれに続くこととなる。今後通える公演となると「パルシファル」とか、今後あり得る「トリスタン」とかの限られたものとなりそうなのである。それに比較すると「ルル」などは比較的良い席で体験していて、充分に聞いているので、それほど視覚的な効果も無くどちらでもよい。

ツ・グッテンべルクの訃報が出ていた。晩年は氏の楽団と方々の音楽祭に登場して活躍していた。今年も多くのスケデュールがあった筈だ。古楽楽器団体という事になっているが、実際に氏がその方にどれほどの見識があったかは知らない。それでも嘗てはミュンヘンのカール・リヒターの楽団を率いていた。驚いたのはFAZにおいても文化欄に追悼記事が出ていたことだ。この新聞は息子の元防衛大臣を次期首相として推していた。グッテンべルク家はドイツで一番古い家系の一つで、ニュルンベルクからも遠くないバイロイト郊外の十三世紀からのグッテベルク居城に、故人も住んでいた。そのような家系の跡継ぎとして、来週の「パルシファル」初日に臨席するバイエルン国王ヴィッテムベルク家の騎士に名を連ねていた。また大叔父さんはヒットラー暗殺計画の一人として有名で、父親も戦後はキリスト教社会同盟の創始者の家庭だった。死亡広告には息子さんの元大臣やその奥さんのビスマルク夫人などが長い名を連ねている。我々にとってはダイデスハイムのフォンブール醸造所のオーナーとして馴染みだった。

*実際には二月の「神々の黄昏」は二度目だった。



参照:
寿限無 食う寝る処に住む処 2010-12-13 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-21 19:45 | 生活 | Trackback

叶わなかった十八番

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サイモン・ラトルのラストコンサート初日を聞いた。マーラーの第六は十八番にしている。昨年バーデンバーデンで聞いたが、その時の演奏よりは力が随分と入っていた。当然だろう。それでも先週末に再放送された楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の演奏とは残念ながら比較するような演奏ではなかった。なるほど昨年も生でも確認したが、二楽章のアダージョなどとても素晴らしい箇所が続出して、「演奏解釈」自体はとても立派であり、それが演奏実践として成果を上げている。

しかし演奏技術的な事に触れなくても、その細部における音化だけでなく、最強音での鳴りでもラトルのフィルハーモニカーの限界がはっきり出ていた。良くも悪くもラトル時代を代表する演奏だったが、いつになく力が入っていて、可成りリスキーなところで演奏していたのは最後だからでしかない。その全体のプログラムの解釈にしてももはや古風にしか聞こえないのがなによりも問題なのであって、それゆえのラトルの指揮であり管弦楽であったという事になる。寧ろ先日のブルックナーの九番の方が新鮮に聞こえるのである。結局生で聞いたベルリオーズの「ファウストの業罰」やブルックナー四番や「パルシファル」、そして放送では「グレの歌」やリゲティなどがベルリン時代の代表的な演奏だったと思う。バーミンガム時代はマーラーのクック版などの名演が記憶に残っているが、そうした出来はベルリンでは叶わなかった。

恐らく、オーケストラトレーナーとしてバーミンガムでやれたようなことは出来る筈も無く、殆どなにも出来なかったのではなかろうか。アバドの時よりはアンサムブルは良くなったのだろうが、それ以上ではなかったという事になる。次期のキリル・ペトレンコが課題曲を出して幾ら練習させても、直ぐに完成する訳ではなく、徐々にメムバーの交代などが完了するまで数年はかかる筈だ。フィラデルフィアやクリーヴランドなどでは絶対聞けない音楽を奏でるようになるまでは時間が必要だ。

それにしても楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の録音はどれほど補助マイクを入れたのだろうか。あれだけ大掛かりな管弦楽団が細部まで綺麗に聞こえるのは合奏の腕だけではない筈だ。ヴィーナーフィルハーモニカーは話しにならないとしても、先日のブルックナーをベルリンのフィルハーモニカーが演奏した録音とは全然異なった。まさしく指揮者の世代も異なり、ラトル指揮の管弦楽と比べると今は昔の趣が強い。当時ラトル以上の適任者がいたかと考えても、もう少し若手では誰が居ただろうか?年代からするとサロネンやヤルヴィなどの世代なのかもしれないが、後者は無名で前者はより古臭くお話しにならなく、彼に相当するような人材がいなかったという事だ。ヴェルサー・メストにしてもここまで偉くなるとは誰も思っていなかった。ラトルが「ランチにカラヤンが呼びに来る」というのは、ブリテン作曲「ネジの回転」ではないがまさしく自身の中にあったカラヤンの影だったのだろう。二日目は、デジタルコンサートやハイレゾ放送などがあるようだ。まだしばらくはラストコンサートが話題になるのだろう。



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-11 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-20 21:04 | 文化一般 | Trackback

これからの大きな期待

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ネットの高速化が完了した。最高速度で51Mbps出ている。アップでも10Mbpsだから先ずはスタンダードな高速化は果たせた。何年ぶりのスピードアップだろうか。WLANの方も殆ど設置完了した。後は追々端末を組み入れていくだけだ。気のせいかルーターの伝送速度が速いのでキャスティングの音に実体感が増してきたように感じた。とても良い音がする。デジタル伝送のパケット化などでの有利性があるのだろうか?

時間が出来たので夕方早速デジタルコンサートホールに入った。一週間券を購入してから二月以上になるが、ネットの伝送速度が遅かったのでライヴはおろかオンデマンドでも最高速度では観れなかったからだ。そして先ずは来週までの参考資料として「パルシファル」のサイトを開いた。なぜか幕ごとに別れておらず、DLするのを断念して、一週間のうちに必要なだけ観ようと思った。それならばと4月のワンとペトレンコの協演のコンサートをDLした。そして、二つのインタヴューを含めて一通り観た。

とても良い出来だった。恐らく、昨年の「悲愴」のプログラムを含めて、ペトレンコ指揮のものでは秀逸だと思う。昨年の「名曲プログラム」もバーデンバーデンではよかったのだが、ベルリンではそこまでの出来ではなかった。なによりも今年は昨年のミスを招くような緊張感は無かった ― 指揮者の方は緊張していると語っている。そして前日初日ではワンも調子が悪く、演奏の精度もまだまだだった。

なによりもフランツ・シュミットの交響曲四番は圧巻だった。ヤルヴィ指揮のフランクフルトの演奏も前日のラディオ放送も知っていたが、弾きこめば弾きこむほど壮絶な演奏になる交響曲だとは気が付かなかった。特に二部の葬送行進曲はチャイコフスキーの悲愴やマーラーの六番と比べるまでも無く、若しくはベルクのヴァイオリン協奏曲など以上に直截でこれほど胸を打つ交響曲を知らない。七月に再演されるヤホの歌での「三部作」も同様、ペトレンコによって喚起され、長く忘れていたこうしたエモーショナルな音楽のあり方というのを再認識している。

ペトレンコ指揮の楽員への表情付けを待つまでも無く、フィルハーモニカーがこれほどセンシティヴに演奏するのを初めて見た。その後にバイロイトでヤルヴィの演奏をしているのでなるほどと思った。ペトレンコは短時間にラトル時代の硬直を一挙に解してしまっている。それほどオーソリティーがあるという事にほかならないだろう。そもそもこの曲はフィルハーモニカーへの課題練習曲でもあるのだ。

同様に二曲目のプロコフィエフでもまだまだやれるのは管弦楽団で、多くの批評でワンのピアノについての批判があったが、私は現時点で批判しようとは思わない。ワンのこの曲は完全に出来上がって仕舞っているからだ。これ以上、「棘とか何とか」勝手なことを書くが、二楽章のどの和音をどのようにという事だろうか?インタヴューで彼女は其れに関して予め語っていて、三楽章なんて簡単だとハッキリ言明している。批判するジャーナリストは具体的な例を挙げていない。

インタヴューをしているクラリネットのオッテンザムマーへのワンの返答が電光石火で、彼女の教育の高さを示している。それどころか「ハ長調だから簡単ってことは」とまで、ペトレンコの全体のプログラミングのカギについての議論にまで一言でコメントしていてその切れ味は鋭い ― 私と全く同じ言い方をしている。そしてペトレンコに関しては、「イスラエルで何回も協演したから、私のテムピを知っているから」とその主導権を言明していて、インタヴュアーは「我々管弦楽団がお邪魔するんだ」と突っ込んでいて、「その課題」を明白に言語化している。

これらのことは現場を少しでも分かる者ならば誰でも感じるのだが、どうも二流のジャーナリストと称する人種は、殆どシナ人ワンへの先入観念のようなもので音楽を聞いていて、なにもそこで行われていることに耳が開かれていない人が多いようだ。勿論その欠けるとされるものが本当に楽譜に書かれているのかどうかも確かめなければ批判とはならない。カーティスのような世界の頂点で揉まれてきたような人たちとその辺りのドイツの教育を受けた連中と比較するのが間違いかも知れないが、高尚な芸術を報じるならば少なくとも虚心坦懐に臨んで欲しいものだ。

一曲目のぺリを含めて、八月からの第二ラウンドが楽しみになるプログラムであり ― 「ラぺリ」にファンファーレの一曲が新たに加わる ―、ベートーヴェンプログラムの方が話題性はありながらもどれだけの成果を出せるかは分らないが、このシュミットの曲の絶対的な成功とプロコフィエフでの更なる精妙さはエポックメーキングなコンサートになると予想される。

インタヴューでペトレンコがフルトヴェングラーに言及しているのを初めて知った。こちらのインタヴューの方はそこが味噌だったが、ハルトマンとヒンデミットを挙げていて、それらは初演曲となるのだろうが、それらが核レパートリーとして顧みられていないことに言及すると同時に、フィルハーモニカーの本来の伝統という事について示唆している。これはここ暫く強調しているように管弦楽団で言えばカラヤン世代によって破壊されたドイツ音楽の伝統なのだが、先日のラディオ番組に聞かれたようにそこへの共通認識に欠けている現状がドイツにおける最も怪しいところなのである。兎に角、今回の映像を観て、来年以降は年間何週間かはベルリンで過ごすことになると確信した。



参照:
解像度が高まると 2018-04-14 | 音



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# by pfaelzerwein | 2018-06-19 19:01 | マスメディア批評 | Trackback

そのものと見かけの緊張

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マルリス・ペーターセンのハナはとても見ものだった。歌は音域として下が低過ぎると語っていたが、全く無理は感じさせなかった。上も精妙さで聞かせ、踊って芝居しての全てが揃っていた。ダニーロのサモイロフも立派でもう一つのペアーも申し分なかったが、主役が無くてはやはり成り立たない舞台だったと思う。新聞には、言葉がハッキリしない歌の中で彼女だけが留意をしていて、劇中劇構造の中でハナのドイツ語とマルリスのドイツ語を別けるなどの完璧さも指摘されていた。厳密にやればやるほど大変な事になるのだが、その微妙さがこの大ヒット作にそもそも隠されていたようだ ― 大ヒットするには中々分析不可能なものが隠されているとみるのは科学的だろう。

数か月後にニュルンベルクの音楽監督に就任するヨアナ・マルヴィッツの柔軟乍ら運動性の高い音楽には満足したが、その指揮技術以前に、今回のレハールの音楽をとても直截に聞かせてくれた。そもそも今回の演出の最初と最後は「ばらの騎士」のそれに相当するのだが、まさしくその響きは音楽的な複雑さではなくて、その時代の意匠をしっかりと羽織っていて ― プッチーニとはまたジャスカンデュプレとも共通する本歌取りの効果もあり ―、彼女が語るようにシムプル乍らとてもダイレクトでパワフルな効果が素晴らしかった ― 秋には「オネーギン」でミュンヘンデビューを果たす。

その一方、ミュンヘンへ通うともはや通常の座付き管弦楽団は我慢出来なくなる。なるほどマンハイムなどとは違って丁寧であるが、管楽器などは座付きでしかない。女流がオボーエを吹くと、その太っく鳴る、趣の無い音を奏でられ、ホルンも制御出来た音ではない。勿論田舎の劇場とは違って、外したりバラバラに鳴ったりはしないのだが、そこの音楽監督の腕の程度が分る。そのヴァイケル氏は日本で上から二番目の交響楽団の監督になるというが、オペラ指揮者に一体何を期待しているのかとも思う。二十年近く前に三島の作品を聞いた時にはもう少しヘンツェの音楽が綺麗に鳴っていたと思うのだが、こちらの要求が高くなっただけだろうか?少なくとも会場はミュンヘンの三分の一ぐらいの空間しかなく、その点では表現の幅も可成りありそうなのだが。

例えば「ヴィルヤの歌」のアテムポのところでもしっかりと言葉を置きながらの歌唱だったのだが、管弦楽団はそこまで音を落とせなかった。典型的な超一流との差で、音は大きくするよりも通る音を抑える方が管弦楽団にははるかに難しい。改めてミュンヘンの力を思い直させると同時に、オーボエの辞めた人などは丁度上で触れた女流のように強くブーブーと吹くことでオペラを支えていて、もし同じような音の出し方でコントラバスなどと合わせるとジンタになるのである。まさしくそれこそが繊細さに欠ける座付き管弦楽団の骨頂である ― そこからキリル・ペトレンコがやっていることの意味が分かる筈だ。やはりこの辺りの一流の歌手になると超一流の劇場で歌わなければ中々力を出し切れない。

当日のプログラムを読んでいると、シェーンベルクのレハールを絶賛する言葉とアドルノの「オペレッタのアラベスク」が度々引用されていて、まさしくこのレハールの巧妙でよく練られた音楽へと関心が集まる。レハールの家に行った時のこと思い出すが、あの室内の華美と瀟洒の混ぜ合わさったような独特の繊細は印象に残った。まさしく彼の音楽そのものである。それはドイツ語で言うところのSein, Scheinつまりそのものと見かけの緊張を並行して見ることの面白さで、そのもの劇場空間ではなかろうか。先日言及した開かれた作品としてのバーンスタインの作品の価値もそこにあるかもしれない。今回は特に劇中劇としたことで余計にその効果が高まった。キリル・ペトレンコも「微笑みの国」をベルリンで上演していてヴィデオも手元にあるが、あれなどは当地でのもっとも代表的な成果ではなかったのだろうか。

なるほどフランスでのオフェンバックの上演などのような薫り高いレヴュー感覚も悪くはないのかもしれないが、税金で上演される音楽劇場でオペレッタを上演して唸らせるのにはこうした上演形態しかないとさえ思わせた。



参照:
「彼女のためなら…」 2018-03-20 | 雑感
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-18 22:42 | | Trackback

ショックのUバーン体験

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フランクフルトから早朝帰宅した。フランクフルトも久しぶりだが、更に地下鉄に乗るのも久しぶりだった。そしてカルチャーショックを受けた。同じような体験はミスタービーンではないが、嘗て初めてのロンドンの地下鉄のセントラルラインか何かに乗って、こんなに沢山の人種がいるのかと驚いたのだった。しかしフランクフルトのライン4は遥かに甚だしかった。

少なくともロンドンでは英国人が沢山乗っているのだが、ライン4は殆どドイツ人らしきを見ないか、その比率が異常に低く精々三割ぐらいとみた。アフリカやアジアの人種だけでなく、トルコ人やイタリア人や南欧の人だけでなく、EU内でも様々な顔を見た。金融関係の人も沢山住んでいるようで、言葉のインターナショナルも甚だしそうだ。それでもドイツ語が堪能そうな人も沢山いるようで荒れている感じはあまりなかった。旧欧州中央銀行の前が市立劇場という事もあるが、そのまま中央駅に抜けるので、丁度彼のセントラルラインに似ている。

人の雰囲気よりもかなわないなと思ったのは、地下鉄独特の焦げたような据えたような匂いで殆ど息苦しくなった。普段あのような空気を吸っていないので余計にひどく感じるのだろう。あれでも毎日乗っていると慣れて、丁度BASFに勤めていたならば工場勤務でなくても知らぬうちに肺が侵されているようなものだ。街の活気と健康はそのもの反比例している。

我々郊外にで生活している者からすると、なるほど仕事はあるのだろうが、ちっとも住みたいなとは思わせない不健康さである。車で走っているとその渋滞や町の喧噪で嫌になることはあっても、公共交通機関のごった煮の雰囲気は無く、アルテオパーのコンサートや美術館に出かけている限りは、今回のようなショックを受けることは無かった。少しインターナショナルな空港の街ぐらいにしか感じなかったのである。

やはり、ミュンヘンとは全然違うなと思うのも、ミュンヘンに慣れるとあれがドイツの代表的な大都市で、ベルリンは特殊で、それ以外はとぐらいにしか思っていなかった。やはりミュンヘンの方が一寸違うのかなと思った。

朝は朝で6時になる前から離陸する飛行機が相次いで大空に飛んで行くのが、静かな日曜日の早朝だけによく聞こえた。街の中でも飛行機の音がしているのも知らなかった。普段は騒がしいから気にならないのだろう。街の中で仕事をしてタウヌスの山の懷から通っている人も少なくないのだろうが、車の渋滞ぶりを考えるとウンザリする。

久しぶりに劇場の駐車場に車を入れたのだが、あれも入り口が分かり難い。余分に一周してしまった。マインの岸まで出なければ入れないのを忘れていた。丁度ロートシルト家屋敷の裏口ぐらいになるのだろうか。

出掛ける前にテレコムのサーヴィスの人が電話を掛けて来て、色々試してみた。先方ではやれることはやっていたようで、ルーターの調子がおかしい可能性もあるという事で、無駄な人件費を払わないで済むように、一度試してみることをアドヴァイスされた。二時間ほど順調に動いていたのでそのようなことはないと思って話していたが、念のために他所の家に持ち込んで試してみた。初めは上手く行かないので、これは故障の可能性が出てきたと思って、リセットしてみた。すると上手く行った。これで自宅で上手く行かなければ完全にテレコム側の問題だと確信した。そしてリセットをして試してみると上手く入れた。

その後調整に時間が最もかかったのは、クロームキャストであった。そもそもAudioの方はどのようにセットアップしたか記憶に全く無かったので、色々と試してみた。全く覚えていなかった初期化の方法は、横にある小さなスイッチを押すことだった。それも電源を入れて点滅してたりしたのを見て初めて気がついた。通常の映像キャストの方は昨年セットアップした記憶にあったのだが、購入して最初の時は初期化の必要が無かったので全く気が付かなかった。そもそもクロームに相当するサイトがなかなか見つかり難いのも具合が悪い。あまりPCで使うことなどは考えていなかったのだろう。

これで週明けからのラトル指揮のものも綺麗に観たり、デジタルコンサートホールをダウンロードするのに好都合な時期になった。「パルシファル」も資料にしたく、キリル・ペトレンコ指揮の四月の公演もこれで心置きなく観れる。



参照:


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# by pfaelzerwein | 2018-06-17 23:40 | 歴史・時事 | Trackback

祭り会場から一時避難

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峠を攻めてきた。涼しい方だったが結構汗も掻いた。土曜日は肉屋も一時間早く店を開けているので助かる。兎に角早めに朝食をして、昼寝して軽く食べて出かけたいのだ。峠を走りながら、「メリーウィドー」のことも考えていた。折角、一時間も車を走らせるのだから、その間にイヤーフォンで先頃のヴィデオを聞いてやろうと思った。出かけるときはミニSDカードを外して出掛けるので、本体に必要な音源と楽譜を落としておかなければいけない。一寸手間が掛かるのだが、車に乗っている時の静寂性と有効利用が両立するのが嬉しい。

調べるとじっくりじっくりと券が売れていて、残りが六枚になっている。最後から二枚目の最高クラスの席はとても良いのだがなかなか売れなかった。こうなると完売も数時間以内の時間の問題ではなかろうか。最終日は完売している。金融の町フランクフルト市民でも135ユーロ、114ユーロとなると躊躇する人も少なくないのだろう。いろいろとみていると私のような器楽ファンだけでなくても、バルコンなどの方を好む人も少なくないのだろう。なにも特別な管弦楽演奏でなければピットの中を覗き込む必要はないのだが、劇場などによってはごもごもとした音になるとただでさえ長いオペラに清涼感が無く、退屈で暑苦しくなる。そもそも涼しげな声などは少ないのだ。

テレコムの契約改正でのグラスファイバーが未だに使えていない。先月末に設置は済んでいる筈なのだが、もう一つの番号移転を含めて、月初めになってもオンラインになっていないのを苦情した。24時間以内にオンラインにしないと契約違反なので返事をしてくるが、結局また10日ほど日が流れた。そこで苦情した。前の苦情処理はどうなっているかというと、ルーターが何とかで復旧していることになっている。また独テレコムお得意の誤魔化しである。その一方契約最初の請求書が出されて、訳の分からぬ賠償金が払い込まれている。金のことは後回しにして、先ずはいつまでに完全に使えるようになるか問い合わせているのだが、24時間以内の返答は来ていても、返答がない。そこで再び、前回の苦情処理が出来ていないことを苦情した。兎に角、月末から全くオンラインになっていないことを記録に残しておかないと、本当の意味での賠償を勝ち取れないからだ。

独テレコムで口座引き落としにしておくと謂われない金を引き落とされて閉口したことがあるので、一部は送金にしていたのだが、今回まとめて引き落としにした。また問題がこじれたら早期にに切り替えないといけなくなる。兎に角、小まめなことが出来る会社でないから、民営化しても株価も下がったまま上がらない。小株主で損害を受けたので余計に腹立たしい。民営化した企業はどこも駄目だ。



参照:

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# by pfaelzerwein | 2018-06-16 23:19 | | Trackback

残席から探るランラン状況

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一日避難の準備に入る。とはいっても、祭りが始まる前に買い物を済ませて、夕飯の準備をして、明くる日の服装とお泊りの荷物をするだけだ。そして土曜日も朝からパンを取りに行って、走って、肉屋に寄るので変わらない。但し早目に済まして、一眠りしてからフランクフルトに向かいたい。峠攻めを走るとそれなりに疲れる。

少し暑苦しいがルクセムブルクに着て行ったのと同じもので、シャツは今回で洗濯屋行きだ、ミュンヘンの初日は違うものを着る。七月もそれが使えるだろうか。兎に角、夏は暑いので可能性も限られる。蝶ネクタイの方が涼しいのだが、もう少し色も揃えておきたい。七月向けにバーゲンで買えるかもしれない。フランクフルトの劇場などは普段着でよいのだが、少し良い席などを取るとどうしても目立つのでやはり考えてしまう。立見席の便利なところはそこにもある。

興味深いのは残券の状況だ。ここでも急激に売れ始めたと思ったら、新たな券が10枚以上放出された。とてもいい席は劇場がリザーヴしていたものの感じだ。その他も定期会員の戻しか団体の戻しのような感じもある。公的な劇場であるから、いい加減に決まり無しに券を都合することはない。それでもこうしてどんどん出て来る。直前に思い出して行けなくなったのを届ける定期会員もいるのだろうが、興味深い。

気になるランランのカムバック、調べてみると昨年と同じような連弾のようなものが二週間先に催される。それには登場しても驚かないが、ルツェルンを超えて態々ウィリアムテルの故郷まで来て演奏するのだ。よほどスイスに金を預けているのだろう。それどころか同じ演奏会の枠でラべック姉妹はアンデルマットのゴンドラ駅まで行って演奏するようだ。大した建物ではないが、これもよほど金が眠っているのだろうか。ランランが立ち寄るコンサート自体はその山の上でなくて、湖の登山用品で有名なマムートの本社のある近所で、私が最初に音楽祭のためにホテルを予約した町の近所である。六週間ほどすると車で30分ほどのルツェルンでカムバックを飾ることになっている。そしてその初日の売り切れていた席が四つ並びで出ている。ちょっと不思議な感じがする。舞台の反対側だが蓋の開け方によってはそれほど悪い席ではない。一体どこの法人からの提供なのだろうか?そしてその意味は? ― しかしその後数時間でそれらは捌かれていた。

不思議なことにランランは11月に日本でヴィーナーフィルハーモニカーと演奏することになっているが、こちらでは演奏しないので川崎の前にどこで合わせるのだろう。一方ワンはその直前三日前にパリで共演している。少なくとも日本公演は代われるようになっているが、その後のシナではダブルブッキングになって、日本でミュンヘンの交響楽団と演奏することになっている。もう一人アジア人の代わりが必要そうなので、なんとも言い難い。

兎に角、その後の予定はバーデンバーデンになっていて、それも一月以上前に完売していた。昨年のペトレンコデビューの時も直ぐには完売しなかったので、そのネームバリューの大きさは恐らくこの業界ではピカイチであろう。どうも欧州に比較すると日本ではそれほど人気が無いようだ。

燃料も20リットル入れた。138セントほどでここ暫くの高騰の中で比較的安かった。フランクフルト往復は全く問題がない。久しぶりのフランクフルトである。その間ミュンヘンへは十回ほど往復していると思う。それはバーデンバーデンよりも多いだろう。嘗ては、我々のバッハの会があったので定期的に出かけていたが、その時は殆ど満タンにして走っていた。今からすると無駄なことをした。高速だから重くて高速安定性もよいと思っていたが、燃費は街乗りも含めてかなり悪かった。それがミュンヘンへと通うようになってから省エネ走行が身について感覚が磨かれてきた。つまり100㎞は比較的中距離でも10リットルで計算して走れるようになった。だからフランクフルト往復も以前よりも安くつくようになっている筈だ。



参照:
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-06-16 02:52 | 雑感 | Trackback

祝杯の無い幸福

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ワイン祭り第二週が始まる。穏やかに一週間目を乗り越えて、一日出掛けることもあって、天気が良くなって晴れても来週明けには解放される。ワールドカップもあることであり、変に祝杯などが重ならないようなので大丈夫だろう。それよりもなによりもソニー様のお陰だ。

そのノイズキャンセリングイヤフォーンへの批判を読むと出来上がりが悪くクウォリティーコントロールがなっていないというのがあった。第三国で製造している限りは限界があるだろうと思う。少なくとも私の手元に届いた製品に関しては欠陥は見つからない。中には音が割れるというのがあったが、最初に感じていたものは無くなった。何かが当たっていたのかとも思う。曇った音も感じなくなっている。それでも通常のモニターヘッドフォーンに比べるとあまりきれいに高音が伸びない感じはする。

SWR2の夕方の討論番組を聞いた。とても下らなかった。他の話題の時は下らないとは思わないのだが、やはり音楽関係はあまりにもばからしい。学ぶことが殆ど無いからだ。これに比較すると先のインタヴュー番組の方が遥かに優れていて示唆に富んでいた。

メモしていて、一番良かった一言はfazから日曜版に追い払ったおばさんの言葉だ。話しの流れから指揮者のそれによって音楽が異なるというよりも、時の芸術として同じ演奏家が今日と明日昨日と今日では違うという一期一会の話しが最も印象に残った。つまり同じ創作の楽譜から、現在の管弦楽は指揮者が整理するだけで十分な演奏が出来る訳だが、それを指揮者が変化をつけるというよりもその時その時の演奏の違いの方が興味深いという考えだ。これは示唆に富んでいる話しである。

つまり、指揮者の特徴とかその音楽とかいうのは商業的なイメージ戦略でしかなく ― まさに放送を流しているSWRの選択した冒頭に写真を出している指揮者ギリシャ人カラヤン二世のことを暗に批判していて、実際録音では彼について一切言及されていない ―、そのことを最近時間を掛けて話したベルリンの音楽監督バレンボイムが嘆いていたというのである。つまり現場の職人的なもの以上に何かを指揮者が表現できるというのは可成り慎重に審査しないといけないという事だ。それでも仕事柄つまらない演奏会ばかりに最後まで居座られて、月に一回ぐらいは出合うのが喜びだという。

演奏家を代表して嘗てのベルリンのフィルハーモニカーでクラリネットソリストだったカール・ハインツ・シュテフェンツとういう指揮者がルートヴィッヒスハーフェンやワイン街道のノイシュタットでの経験などを話していたが、所謂二三流の指揮者の話しを聞いても仕方がない ― 今この道をオーボエのマイヤーが追っていてこちらで仕事をしている。それでも、指揮者が居なくても演奏は可能だが、合わせるのに指揮者が居ないと話が纏まらなくて、五回の練習が五十回必要になるという話しはよかった。まさしく指揮者の仕事はそこにある。経済である。

指揮の歴史からハンス・フォン・ビューローの話しが音楽学者女史から出て、それが歴史的にオーケストラビルダーとしての教育者であったことと、同時に聴衆をも教育したという事で、キリル・ペトレンコに期待されているのはまさにそこだと簡単に言い切った。これも正論で付け加えることはない。なるほどペトレンコが、先駆者としてビューローを挙げていて、そこから導いた話としても、メムバーの若返りや強化と同時に期待されるところだ。

勿論カラヤンについてはペトレンコが触れるわけがないが、ファンのおばさんがしっかり話してくれた。それはアバドの人当たりの身近な小父さん的存在と昔の威張った指揮者は違うという話しから、それは厳密には正しくないという事を力説していた。そこでは、「アバドは音楽的に旧世代という事で、ラトルは新世代」という事になっていたが、この人々が話しているのはどうも20世紀の後半の管弦楽しか知らない世代の妄想だった。そこが分かっていないとキリル・ペトレンコの指揮の管弦楽芸術的な価値はいつまでたっても分からないであろう。そもそもカラヤンがいつの間にか「ドイツ的響きの旧世代」になったのだろう。専門家を名乗るのもおこがましいパネラー達だった。流石に亡くなったカイザー氏ならば、フルトヴェングラーの響きもよく知っているので、そんなバカげたことは言わなかっただろう。

キリル・ペトレンコを世紀の指揮者とするラディオ放送のインタヴューから座付き管弦楽団の最新メムバー表を見ていると、オーボエの一番はグヴァンツェルダッチュがそのままで、副に宮本のお弟子さんのユキノ・トムプソンが繰り上がっている。つまり山賊風のお兄さんが居なくなっている。ターディと言う人でカラヤンアカデミーに在籍していたフルートの一番と兄弟だと思うが、フランスの楽団にでも移ったのだろうか。良く吹けていたと思うがフランス人にしては若干重いリードの感じで如何にもオペラを彩るという響きだった。



参照:
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
原典回帰というような古典 2016-10-20 | 文化一般



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# by pfaelzerwein | 2018-06-15 04:28 | マスメディア批評 | Trackback

権威の向こう側

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「メリーウィドー」をざっと観た。予想以上に出来が良かった。ストーリーは、藤山寛美の松竹新喜劇と大差はないのだが、流石にレハールの狙いは決まっている。今で言うとヒット曲メーカーのような渾身の主題と、それを上手く使って全曲を構成している。シュトラウスファミリーのあとの世代としても、やはりその音楽的な力は大分異なる。

参考に通したのは、先ごろ日本で話題となった、ヴェルサー・メスト指揮の2004年チューリッヒ公演らしい。音楽的には、主役ペアーも脇もそれなりで、この辺りの出し物としては充分なのだろう。主役に関してはフランクフルトの公演に期待している。演出はオーソドックスというか、公演の大落ちは、狂言回しの親仁がピットに入り指揮棒を持って答礼に出たメストに踊らせるというものだ。あの面白味の無いメストに踊らせるのが味噌なのだろうが、やはり舞台裏落ちになっているには違いない。そもそもこの手の音楽劇場はレヴューとの境が無いので、態々そうしなければいけなかったことが関心ごとなのだ。その光景を見ると、先日ヴィーンからの報告でその指揮姿から「マリオネット」と称されたように足をしっかりと固定してその両手を前上方で上下させるのを思い出して吹き出してしまった。それにしてもラインダンスになると、見事に足が高く上がっていて、余計に異質感を与えるのがこの人のキャラクターだ。彼のドナウ訛りをしっかり理解していてもこうだから、あの人が指揮台で英語でおかしなことを話していると違和感しか感じない人も多いと思う。同じように見ものだったのは先にも「大蝦米」と紹介したティーレマンの指揮姿であるが、これもシュトラウスファミリーのニューイヤーコンサートを来年飾ってくれる。今から腹を抱えての初笑いが待ち遠しい。

そこで思い出したのが初めて座るロージェの「プロシェニウム」自体が舞台の枠組みのことを指すので、劇場空間の舞台とこちら側を分かつ形式としても存在する。上の舞台を奈落まで繋げることで丁度その緩衝空間の境界を脅かすことになる。

SWR2で「独裁と謙虚の間で ― 音楽における権威」と題して、指揮者の其々をアルブレヒト・マイヤーなどを含む楽士さん達にインタヴューを録った番組が流された。先ずはペトレンコに関するところをつまみ聞きした。第二フルートを吹いているハンガリー生まれのアンドレア・イッカー女史が語る。三代の音楽監督に仕えて、ご本人は翻訳家としても活躍していることから、その音楽的な創造性が刺激されないような指揮者の下で廃業寸前になっていたのだという。それがペトレンコが現われて、レパートリーを始めからやり直したという。三回やっても容易に追いつかないようなアイデアが出されて、それを成し遂げる喜びとまたさらなる一歩から積み上げていくペトレンコとの仕事へと駆り立てられることを語る。オペラ指揮者というのは、そもそもコンサート指揮者とは違って舞台とのコーディネーションが必要なので大変なのだが、それを成し遂げるだけでも大変なのに、安定したその演奏実践と演奏に拠っての喜びという事を成し遂げているというのだ。だから、それがあり得るというのならば、「彼の指揮技術や身体の動きは、彼を世紀の指揮者にしている」と断言する。

この話題で付け加えておきたいのは、フィラデルフィアの演奏旅行で見せたネゼセガンがどうも同じ飛行機に乗って旅行していたことだ。これは指揮者としてかなり楽員と危険な関係にあるようにも思え、指揮者の権威がどのようなものであるかに関して、番組の冒頭であった話が浮かぶ。シュトュツガルトからチェリビダッケに付いてミュンヘンで第一ホルンを吹いていた楽員は、「指揮者が幾ら虚勢を張っても駄目なんだ、音楽家なんて普通ではなくてそういう事には感性の強い集団だからね」とご尤もなことを語っている。その意味では若い楽員たちとそのような付き合いが出来ることは若さなのかもしれないが、どこかで事情は変わってくるのではなかろうか。

この番組は一時間もので最後にパーヴォ・ヤルヴィが登場する。ブレーメンでのそれこそ室内管弦楽団との関係なのだが、そこからこの指揮者の本質的な可能性が述べられているかどうかは通して聞いてみて触れてみたい。そして明日は夕方の討論会で、ラトルのあとを観て、「大指揮者の意味」が話される。あのおばさんが一体なにを



参照:
業界のダークホース 2018-05-16 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-06-14 03:28 | 文化一般 | Trackback

Don't we trust him?

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早起きしてシンガポールからのライヴ中継の一部を観た。なによりも印象に残るのはやはり金主席の若くその真剣な発言だろうか。トラムプの方も国際的なビジネスマンのようにしっかりと相手の表情や真意を追っているのが見えて面白かった。まさしく、交渉相手として信用のおける人物としての金のいで立ちだった。その姿をこまごまと動く妹と共に見ていると、やはりこの独裁者の夢は朝鮮半島のスイス化だと思うに十分だ。朝鮮の統一は中立化しかないと感じるようになってきた。シナの分割がありえない限りは、EUのような共同体は不可能なので、朝鮮半島が新絹の道の終点となることで大きな意味を持ち得ることは朝鮮民族の存在意義を大きくするからである。

様々な生中継を観た。ABCの作りが比較的スマートだったが、速報性には欠けるが意外にドイツェヴェレの英語放送が良かった。そこで日本のネットでも話題になっていた日本の写真家の写真集やその個展、撮影風景などが紹介されていてよかった。政治課題として到底そこまでは上らないのだが、こうした表現者などの感性は統一からその後を見据えていて当然であり、「手遅れにならずに記録してよかった」というのは理解出来る。

月曜日も広場でライヴをやっていた。激しい雷雨から雨が降っていたので盛り上がりは無かったので、それほど続かなかった。なによりも涼しくなって来て窓を締めれるようになったのが嬉しい。そのお陰で夕食のサラダパーティーが一寸寂しかった。塩じゃがだけは暖かかったがコールドミールがあまりに涼しかった。それにしても夕刻の雷雨は激しく、綺麗に車を洗えた。頭も濡れた。

週末の「メリーウィドー」の残席が50以上あったのが僅か一晩ぐらいで高価な43席のみに減っている。水曜日の分は安いので早めに売れていたが、土曜日の方が最終的に掃ける勢いである。フランクフルト市内の勤め先などでの口コミによる売れ方である。前日のワイン祭りの喧騒の中でも時間が出来ると思うが、先ずは楽譜を落として良さそうなヴィデオを通して観ておこうと思う。

引き続きミュンヘンの「三部作」の残席が新たに放出されている。その席の塊り方からスポンサー筋の戻り券としか思えない。恐らくBMWが確保していた座席だろう。そこに個人の戻り券などが混じっているような感じだ。一日目の出方と二日目の出方が全く異なるのも面白い。12月に座ったような91ユーロの席も一つ出ている。ペトレンコ指揮となると完売まで時間が掛からない。

YouTubeで有名な「NHKから国民を守る」の政治活動が、またもや安倍昭恵によって潰されかけている。多くの視聴者の支援を受けてワンイシューで以って地方自治体選挙で党勢を伸ばして、次の国政選挙に狙いを定めていた政治団体である。昭恵との付き合いから、更に部落出身者への偏見を放送し、私などを含めて多くの違反報告が出されてアカウント停止となった。それどころか今回は暴力事件を起こし、その被害者が三宅洋平の応援をしていた大袈裟太郎で、奇しくも三宅の政界進出挫折と似たような状況になっている。



参照:
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
お手て繋いで夜道を行く 2018-04-29 | 歴史・時事


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# by pfaelzerwein | 2018-06-12 20:42 | アウトドーア・環境 | Trackback

暴漢に立ち向かったBASF社員

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パンを取りに行って、森へ向かう。車中のラディオはマコン大統領のその思想からそのEU政治を解いていた。大統領が今やEUを世界を動かす政治家であり、それだけ優秀な人物であることは知っていた。しかし彼が「エリーゼ宮のモーツァルト」と呼ばれていたとは知らなかった。「浪速のモーツァルト」という人も健在なので、レコーディングもあるヘルムート・シュミット独首相を完全に超えていて、本当に神童だったのかどうかも知らない。嘗てはポーランドかにもピアニストの元首が居たり、クルト・マズーアでも大統領候補に挙がっていたこともあるぐらいだから驚かないが、フッセール哲学などを深く学び、更に少年ピアニストとしても優勝しているとすれば、この人物の青少年時代の生活が知れよう ― 臨床医者の家庭で父親は教授らしい。必ずしも知的な政治家が立派な政治家とは限らないが、少なくとも「回想の政治」からの理念の政治は、それが議論の叩き台となる。現在のように知的水準が低く場当たり的な政策をぶち上げる為政者が権力を乱用する世界となれば、フランスが価値基準とする民主主義の基本である議論すらも成り立たなくなる。

内田光子の弾き振りの録音を聞いた。2007年の録音で一曲目の無指揮者の立ったままで演奏したディヴェルティメントを聞くと、昔風の演奏で、この程度ならばベルリンの楽団でも間違いなく弾ける程度だった。その後の内田光子のピアノと演奏も悪くは無かったが、現在のこの楽団から期待するほどの演奏ではなかった。指揮者の問題だけでなく、現在のように統一や徹底がされていない様子である。要するにセル時代のようなそれは期待出来なくて、現在のそれはその時から継続していなかったという事になる。こちらでも話題になったのはその後のツアーだった。

新幹線で暴漢にあって亡くなったのはBASFの日本法人の人のようだ。プラスティック関連の人のようだが住まいからすると大阪勤務だったのだろう。太陽電池関連とするとやはり顔料なのだろう。38歳というからまだこれからこちら本社ルートヴィヒスハーフェンでの研修などもあったと思う。ネットで見ると女性に切りつけた暴漢に挑みかかったという事だが、勤務柄跳ね上がり者はあまり居ないので、防御と正義感で暴漢に立ち向かったのだと想像する。進行方向の二列後ろで突然そのようなことを感じたらなので、容易に逃げられなかったのかもしれない。二人の女性への犯行途中であったとすれば猶更だろう。なるほど反社会的な気持ちの強い容疑者にとっては、それほど草臥れていないような様子の勤め人というだけで、殺ってしまう決意が湧くのも分からないではない。

それにしても、こうした被害者に落ち度があったのかどうかが話題になっていたようだが、なにかそこに如何にも日本社会の鬱屈のようなものを感じる。そして容疑者の名前が公表されていて、その家族などにインタヴューするというのと、被害者の名前を挙げて色々と詮索するのとは全く同じ様に暇な日本人の悪趣味な関心ごとなのである。このような容疑者をも罪に問えるという前提がそこにあり、被疑者を死者として弄ぶ日本社会の風土がとても醜い。一体そこのどこに公共性などがあるのかと思われるむら社会には何時ものことながら辟易する。

シカゴからの放送は、ストリーミング自体がAAC‐LCで256kbs出ている。これは決して悪くはない。タイマーで録音したのだがやはりこれも最初が音無しで、50分過ぎから70分ほど録音されていた。原因は引き続き鋭意調査中だが、前半は吹っ飛んで、不思議なことに後半のサミュエル・アダムスという作曲家の新曲から綺麗に録れていた。偶然かも知れないが、その前の解説部分に中断などがあったので何らかの技術的な作動があったのだろう。調査の重要な資料になる。録音自体は昨年の三月のもののようである。だから翌週の放送のプログラムも昨年バーデンバーデンで聞いた「はげ山の一夜」が含まれている。

さて、関心ごとのシカゴの交響楽団の出来であるが、プログラム次第のシューマンの交響曲四番はそのまま先日ルクセムブルクで聞いて、フィラデルフィアでの実況放送録音もあり、フィラデルフィア管弦楽団との聴き比べとなる。さっと聞いたところ、呟きなどでの下馬評の「シカゴが上」は証明されなかった。そもそも昨年のバーデンバーデン、ルクセムブルクのクリーヴランド、フィラデルフィアと比べて、シカゴにはアドヴァンテージは殆ど無いことは分かっていたが、やはり気になったので態々放送を録音したのでもある。

なるほどこのクラスの大管弦楽団の比較になると容易に甲乙が下せないのは当然だろう。例えばアダムスの曲ではまるでロンドンのシムフォニカーのようなパリパリとした響きがムーティ指揮で鳴り響くのだから驚いてしまう。しかしシューマンなどを聞くとその指揮がたとえネゼセガンのように振れていないとしても、中低音部へのアンサムブルのあまい弦楽だけならまだしも管楽器との掛け合いでフィラデルフィアの様には全く合わせられないことが良く分かる。「ロマンツェ」のチェロソロはこちらの方が上手いぐらいだからソロスツクラスはより優れているのだろう。しかし指揮の技術だけでなく、またサウンドの問題でもなく、純粋に管弦楽がどれぐらい楽譜を正確に合奏出来るかという点では現在のシカゴは低迷しているというのが正直な感想である。だからキリル・ペトレンコをマエストロの引退後にと狙っていたのだろう。



参照:
遮断される聴空間 2018-05-20 | 雑感
マンハイム、対岸の火事 2016-10-19 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-06-12 02:51 | マスメディア批評 | Trackback

またまたオタクな生活

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喧噪の二晩目をやり過ごした。ノイズキャンセリングのお陰で精神状態は正常に保たれている。これだけ気温が高くて窓を閉めるとなると発狂するところだ。ご近所さんもバイエルンのチェコ国境へと旅立った。二週間して戻ってくる。避難する人は少なくない。そのような中で正常な精神状態で居座るのは大変だ。先ずはキャンセリングのお陰で窓を開けて生活して就寝時にだけ閉める。

そのお陰で20時からの放送を聞き逃した。イヤフォーンでじっとしていて脳内の視界が開かなかったからだ。皆に知らせておきながらカウフマンの「オテロ」を聞き逃した。それでも三幕の「柳の歌」からは聞いた。デズデモーナも悪くなかったが、なんといってもパパーノ指揮のコヴェントハウスの座付き管弦楽団が見事だった。ミュンヘンのそれでは可能だろうかと思わせるピアニッシモなどの歌いぶりが見事でスカラ座よりも上手いかもしれない。テムポを落としながらも自然と流れる指揮にも感心して、オペラ指揮者としては五本の指に入るような指揮者であることを再確認した。それでもそれに続く器楽部分がなぜかジンタのようになって、まるでこれがイタリアのオペラの歴史だと言わんばかりなのだが、どうしてもこうしたところにこのオペラ指揮者の自己顕示欲を感じて仕方がない ― ヴェルディ解釈の本質的な問題をここに指摘するには暮れのペトレンコ指揮を聞いてからにしたい。そしてお待ちかねのカウフマン、流石に細やかなところも音楽的に正確に読み込んでいて、その声のコントロールと共に金の取れる芸術家だ。ペトレンコ指揮での暮れの実演を期待する前に、先ずは月末への期待が膨らむ。

夜中二時の録音をセットしたが目が醒めていたので見ると、なぜかクリーヴランドからの生中継のソースが落ちていて ― 研究課題である ―、既に始まっていたバーンスタイン自身のインタヴューは充分に聞けなかった。マニュアルに切り替えて録音した。1970年7月9日の録音で、その月末に監督セルが亡くなる前の演奏会だ。だから予想通り一楽章での一糸乱れずの弦の合わせ方も後のシカゴのそれとは異なり柔軟で美しく、当時のニューヨークのそれとは透明感が全く異なる。弦ほどには管などは現在ほど細やかな演奏は出来ていないが、ホールによって養われたそのアンサムブルの特徴は変わらない。バーンスタインの解釈はLPの録音と変わらないが、あのクールな管弦楽団が演奏することでとても興味深い。今晩の内田光子の弾き振りと、シカゴからのムーティの伴奏が益々楽しみになって来た。

晩年にもイスラエルフィルやニューヨークフィルだけでなく、欧州でもヴィーナーやコンセルトヘボーなどの暑苦しい管弦楽団でマーラーを指揮することが多かったが、ベルリンでの演奏などもとてもその解釈の細部が分るもので、学究的な興味を引くものだった。それと同じような細部がここでも聞き取れる。そして、恐らく細かく聞くほど、何か似ているものを思い起こすのである。演奏実践の方法は異なるが、どうもバーンスタインの解釈に最も近いのはキリル・ペトレンコのそれだと気がつき出す。バーンスタイン節の効果ばかりが印象に残るのだが、その実はマーラールネッサンスの本質にこの指揮者の読譜が寄与するところが多いだろう。要するにペトレンコのあのバカ丁寧な読み取りを想起させるものは、もう一方の大きな市場を獲得したショルティー指揮の大音量に結びつく演奏実践と相まって車の両輪となっていた要素だろう、そのことがルネッサンスのもう一面であったという事になる。

ミュンヘンで評判のマーラー演奏実践のもう一つの雄であるヤンソンス指揮放送交響楽団のヴィデオをイヤフォーンを付けて観た。ここ暫く世界の頂点の管弦楽を立て続けに聞いた後ではなんともその差は埋め難い。指揮者の責任だけではなく、やはりドイツの放送局の中では少しマシという程度で、その楽員の顔ぶれも老齢化している。先ずはホームグラウンド会場が出来て十年ほど経たないと駄目だろう。トュッティ―も弦楽も管楽も強引な指揮でよさそうに聞こえるが、実際のアンサムブルはオスロフィルに毛が生えた程度でしかない。少なくともクーベリック監督時代の昔からその傾向や程度はそれほど変わっていない。

注文したティケットが早速届いた。数が出ないイレギュラーな発売なので手が空いていると見える。アムステルダムのハイティンクも購入しなくてよかった。日曜日はまた代役である。前回はペトレンコのキャンセルで捨てたので64ユーロ寄付となった。今回は、ジョルダンのコンサートにしろ、ブロムシュテットやハイティンクにしても行かなかっただけの費用で、ノイズキャンセリングの購入費が賄える。やはり片道二時間以上かけて出かけるとなると、よほど価値のある出し物でないとリスクだけが高まるだけだ。



参照:
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-10 22:39 | | Trackback

祭りの喧噪もなんのその

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ワイン祭りの週末は腹を据える。夜中まで騒がしい時であるから、夜中に合衆国からのネット放送に備える。管弦楽団が日本旅行を終えたクリーヴランドからはアーカイヴ録音である。土曜日午後八時つまりこちらで日曜日午前二時から、バーンスタイン指揮でマーラー復活交響曲、日曜日午後四時からつまりこちらの日曜日午後十時から、内田光子弾き振りである。それに続いて、シカゴからの日曜日午後八時からつまりこちらの午前三時からムーティ指揮内田のピアノでベートーヴェンハ短調協奏曲とこれまたシューマンの交響曲四番だ。どれを起きていて聞くか、タイマーにして録音するかは分らないが、月末には出掛ける初日の留守録をしないといけないので、テストも何回かしておきたい。

ワイン祭り初日にノイズキャンセルングを試した。結論からすると、これは使える。ブルーテュースでPC再生で使っている音源を流した。音を出さない状態でノイズキャンセルにすると戸外で楽音が流れているのは聞こえるのだが、小さな音の音楽を流すことも可能だった。遮音の悪い音楽ホール並みには外の楽音をキャンセルしてくれた。アンドロイドではその深さを変えれるのだがPC対応のソフトはまだ見つからない。もう少し遮音を強く出来たならよい。つまりなにかを聞いていないでノイズキャンセリングだけしていると不自然感がある。

PCのブルーテュースが古くて使えないので、アダプターで使っているが、その機能ではあまり飛ばない。具体的に調理をしながらであるとブツブツと切れる。これは送信側の問題である。タブレットならだとあまり問題とならない。最も問題になったのは食事の時に噛み合わせを動かすと、耳の圧力が変わって違和感が生じることだ。飛行機の旅を考えると食事ばっかりなので大丈夫だろうか?

そこで耳を澄まして聞いていたのは、パリの「パルシファル」一幕である。前夜に触りを聞き直して本腰を入れて聞き通した。場合によっては指揮者ジョルダンのコンサートに出掛けようかと宿までを目星を付けたので、聞き分けに熱も入った。因みに同じように出かける検討をしていたコンサート二日目に指揮者ハイティンクが倒れたようだ。引き続きどうなるのかは分からないが、予定していなくてよかった。全く同じどころか、一曲が始まる前にカエルのように前のめりになって倒れたのはあのダンディーでならしたイタリアのジュリーニだった。その無様な姿を見せられた私の方がショックだった。無事予定通り振り終えたコンサート直後には亡くならなかったが二三年してから訃報が飛んだ。

先ず前日に注目したのは、アダム・フィッシャーやハルトムート・ヒェンヘンらの指揮で決まらないリズムとテムポ運びが比較的上手く進んで適度に推進力があることだった。同時に楽譜の指定も比較的綿密に読み込んでいるのが分るところだった。しかし更に進むにつれて、先ず何よりもリズムもしっかり定まっていない要素が強くなってきた。印象としては拍打点が定まらず所謂メリハリ効いたリズム取りになっていないことと、同時に楽器間の音程が定まり難そうで、様するに座付き管弦楽団の実力も発揮出来ていない鈍らな指揮が目立つ。劇場での下積み上がりの人のようだが、到底コンクールなどでは予選落ち程度で、父親の名字が無かったらバレンボイムの助手にもなっていなかったのではとも思われる。ぼろ糞に言われるもう一人のロシアのペトレンコの才能よりも明らかに落ちそうであるが、劇場で破綻無く振り切ることを習って来た人のようである。日本でもコンサートで事故を起こしていないことでもその実力は証明されているようだ。但し、親父さんの書き込みが加わった楽譜なのか、遺言か何か知らないが意味不明のアゴーギクなどを付けて音楽的才能の欠如を補う傾向があって、なにか聖金曜日への音楽でもサウンドトラックの化け物が出て来るような伴奏を振っていて、到底ラトル指揮のその音楽実践に比較可能な読解力はこの指揮者からは求められない。ネゼセガン指揮の批判をした方が価値がありそうだ。

音楽的に不器用であっても一向に構わないのだが、少なくともサウンドトラック指揮者でなくて指揮者の顔が出るようなタレントイメージで売り込みに堪えるような才能は皆無だと思った。そしてこの程度のどんな地方にもいるような程度の指揮者を国立劇場の監督にするヴィーンとはどうしたものか?無能な日本の二世三世政治家のような指揮者であるが、この世界でしか生きる可能性を見出さなかったのかと不思議に思える。よほど、音楽以外には教養の無い家庭だったのだろうか?

想定よりも早く「パルシファル」の三日目の券が出た。第二候補の日の公演だったが、結局買わなかった。数は二ケタ以上出ていた。目ぼしいのはバルコンの左右の端で四枚以上出た。価格は293ユーロだ。躊躇させたのはその席と私が半額で購入した42ユーロ席との視角、音響とも差異がそれほどないことだった。それ以下のクラスは平土間最後尾のバルコンの下あたりだった。それにしても纏まってこれだけ並んだような席が出る理由は分からなかった。団体か定期会員用にデポしてあったのだろうか。価格の割に良い席ではなかった。バルコンは決して悪くはないのだが、同じ金額ならば他の席の方が良かった。「三部作」で出ていた前から三列目正面なら買っていたと思う。一時間半ほどで全て完売した。



参照:
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-06-09 18:41 | | Trackback

プロシェニウムロージェ

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窓を閉めて就寝した。熟睡してよかったのだが、明け方若干汗ばむ感じだった。先週から半袖にしたのである。目が醒めて、PCを早朝から立ち上げた。朝起きて就寝前の音楽鑑賞が気になりだした。土曜日の過ごし方に係るからだ。

プッチーニ「三部作」の券を購入した。夏のミュンヘンオペラフェスティヴァルの公演だ。その初日公演シリーズは昨年12月に二日目を王のロージェの横で観た。お目当てのヤホの声も弱く、その点で不満もあり、もう一度聴いてみたいと思っていた。先日から夏の二日目の公演の戻り券は出ていたのだが、一日目のものは出ていなかった。流石にオペラ通いの人は歌手にとっての一日目と二日目の違いなどが分かっているのだろうと思っていた。管弦楽は後の方が良くなるのはペトレンコ指揮の特徴だが、歌手はTV撮影ぐらいが入らないとやはり声の出方が違う。

オペラフェスティヴァルの切符は寒い時に並んだのでどれでも買えたのだが、その時は「パルシファル」しか購入しなかった珍しい人間である。先ずは其れを確保して、半額になる分はホテル代の足しにのつもりだった。それでも一枚しか買わなかったので足が出た。7月の計画が立たなかったこともあるが、その後にヤホの「蝶々夫人」の公演予定などを見てもやはりこの「三部作」ほどの魅力は無かった。更にペトレンコ指揮で歌う可能性は先ず今回が最後であり、あの絶妙のピアニッシモはやはりこの組み合わせでもう一度確認しておきたかったのだ。そしてその一日目の戻り券が五枚出た。

三列目正面二席とバルコン一席、後方平土間サイド二席、そしてプロシェニウムロージェだ。最初のは明らかに招待席で余ったのだろう ― 私の発注後、バルコン席と同様比較的早く売れた。最後のは関係者に配られて、楽員関係者などは大抵そこになるのだろう。今回のはその最上階で、ペトレンコがパスキエ女史を招待する時の下部ではない、だから視界もそれほど良くない割に二つ目のランク価格なので躊躇した。しかし二月に撮った写真を研究すると王のロージュの高さでそれほど高くないことに気が付いた - 実は「パルシファル」初日の座席も比較的似ている視角なので写真を撮っておいたのだ。それどころか指揮者を前から見るような位置でこれは面白いと思った。舞台は映像を含めてその奥も分っているのだから全く構わない - そもそもあのタイムマシーンの中や逆づりシーンは網膜に焼き付いている。上から歌手の言葉が聞き取れれば問題はない。なんでもよいからペトレンコにしっかり指揮して貰えばそれだけで価値がある。兎に角全部で22席しかなく、指揮者に招待される予定もなく、ペトレンコ指揮で売りに出るのは更に限られているので、これは初日シリーズでは買えない席であり決心した。ミュンヘンで購入した最高金額143,50ユーロの券である。今年は計画が立たないという事は逆に短期的に縦横無尽に動けるという事でもある。これはこれで結構楽しみになってきた ― またヴァイオリンは女性陣が引っ張るのか。

就寝前にパリからの「パルシファル」を楽譜を前に聞き始めた。夜更けだったので最初の数十分だったがBGMで流していた印象よりも真面目に演奏していた。少し気になってきたので、思ったよりもじっくり聞かないといけないかもしれない。歌手よりも否応も無く指揮者ジョルダンの手腕を詳細に見ていくことになる。バイロイトの「マイスタージンガー」でガタガタになっていたのでここまで細かく楽譜を読んでいるとは思わなかった。但し、それがどこまで指揮出来ているかが疑わしいのがこの指揮者で、引き続き懐疑の念で聞き進めよう。それでもラトル指揮とも全く違う、丁度ネゼセガン指揮解釈との比較対象でとても良い資料になりそうだ。ワイン祭り中にそれをイヤフォーンで確認できたら幸せだ。



参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音


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# by pfaelzerwein | 2018-06-08 18:42 | 文化一般 | Trackback

管弦楽への圧倒的熱狂

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エルサレムからの放送を聞いた。これでフィラデルフィア管弦楽団の問題となった欧州イスラエルツアーが終わった。「不安の時代」ではテルアヴィヴでの演奏が最も優れていた。最終日は三千人収容と多目的ホールのためか楽器の繋がりが再び元のように聞こえた。音響の影響で、クラリネットを支える木管群がマスキングされてるかどうかで、会場の良し悪しは其れではっきりした。エルブフィルハーモニーからの放送が今一つな理由は不明だ。演奏自体も残響の程度によって合せているので、その差が良く分かった。会場に合わせた演奏に関しては放送でも話題になっていて、こうしたツアーの特徴としてホームグラウンドでないところに短時間で合わせていく経験が積み重ねられるようだ。演奏の精度も含めてツアー中のそれには限界があったとも思うが、生で聞くとやはり期待通りの演奏をしていて、アメリカを、世界を代表する管弦楽団であることは分かった。昔から放送に乗り難い楽音と乗り易いそれとかが議論されるが、フィラデルフィアサウンドは後者だと思い込んでいたが全く間違っていた。クリーヴランド管弦楽団の時も放送の音質と生のそれには当然ながら差があったが、寧ろそれは「生で確認する」作業に近かったが、こちらの方が「生でなければ分からない」要素が多かった。

その要素としてバスからの積み上げのピラミッド構造とその細やかさはHiFi機器で再生し難いもので、それを重々承知でいい加減な読譜とその音響を作り上げたのがフォンカラヤンの芸術であって、そこにバランスを取ったレガートラインを乗せて世界的なヒットとしたという事になる。奇しくも先日、話題のフランツ・シュミットの曲を録音していたのはカラヤンとジェームス・ラストだったというのは偶然ではないかもしれない。メディア産業が懲りずに目指すところはそうした大衆受けの良い音響の消費活動の促進である。今回の欧州イスラエル公演でのネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽は、イスラエルでは殆ど無い熱烈なスタンディングオヴェーションのみならず、ハムブルクでもヴィーンなどでも状況は変わらず熱狂的喝采を受けた。しかしジャーナリズムは文字に出来ていない。その背景はなにかと想像すると、やはり二十世紀後半の管弦楽を批判的に解析出来ていないという事にほかならないと思われる。「カラヤン風」という評があったぐらいだから、ネゼセガンの指揮はその譜読みや打拍が間違っていてもカラヤン世代のような誤魔化しは全くないのだが、そこが確信出来ないまま、より広範な聴衆を熱狂させるサウンドを駆使しているのを目の辺りにして当惑しているとしか言いようがない。

今まで生で最も多く聞いている楽団がヴィーナーフィルハーモニカーで、その次が頻繁になりつつあるベルリナーであるが、フィラデルフィアにおいては音楽の核になっている中声部や第二ヴァイオリン陣の充実は下から上までの木管群の色彩感と相まって特筆すべきで、コンセルトヘボーの弦楽合奏やゲヴァントハウスのヴィオラ陣などとも異なる中核を作っている。嘗てのオーマンディー時代のオーディオ水準やムーティ時代の精度からするとその録音と生の音響の差は少なかったのかもしれないが、やはりネゼセガン指揮の精度ではそれだけでは済まなかった ― 大管弦楽での室内楽的な合奏を奨励している。

フィラデルフィアのプロテストの呟きなども覗いたが、やはりイデオロギーをそこに感じて、イスラエルをボイコットするだけでは解決しないものへの視点が欠ける気がした。抗議は大切だが、それを含めて何らかのメッセージとして、芸術分野においては特に音楽の情動性が聴衆に、社会にどのように作用していくか、そこが注目点である。ツアーが終了しても本来は様々な予定があったようだが、そそくさと帰宅準備のようで、面白かったのはコンサートマスターのキムがお土産などと語っていることだろうか。「フィラデルフィアは二度とイスラエルには演奏旅行しないだろう」という一方、イスラエルフィルハーモニカーを招待することなど、如何にイスラエルとの関係は複雑で、その管弦楽を何も知らぬ顔で招聘して歓迎する日本人のバカさ加減が浮かび上がる ― 演奏会場の前での抗議すら聞いたことが無い。放送においてもガザとの関係だけでなく今回政治利用されようとしたトラムプの大使館移動問題などが言及されていて、ここでまたどこかの国の首相が嬉しそうにイスラエルを訪問するバカ顔が思い浮かぶ。

個人的には、本拠地ではシューマンで魅力的なインタヴューをしていたユミ・カンデールが乗っていなかったことが残念だった ― 彼女はヴィーンから合流したようだ。そしてなによりもテルアヴィヴからのバーンスタイン交響曲の録音放送の出来だった。永久保存版にしても良いもので、久しぶりにバーンスタインの真価を堪能した。これで漸く月末のための「パルシファル」のフラッシュアップへと進める ― そもそもその音楽が細かく入っている訳でもなんでもないのだが。



参照:
不安の時代の闘争 2018-06-07 | マスメディア批評
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-07 21:43 | 文化一般 | Trackback

不安の時代の闘争

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週末は雷雨勝ちとある。気温も上がるが夜間は18度だから窓を閉めれるだろう。それでも土曜日は天候が落ち着くようで、日曜日は30度を超える。ワイン祭りをどのように乗り越えるか?日曜日にはマーラーの九番の演奏会もあり、土曜日も無いことはないのだが、避難にどこまで逃げて幾ら掛けるかだ。宿と入場券で最低100ユーロ近くになる。コンセルトヘボーでハイティンク指揮を聞こうと思えば、それだけで150ユーロを超えて、燃料代もそれに近くなる。その価値はない。涼しい時期ならば屋外で過ごすのも良いが、陽射しが強いと不快でしかない。目的地が地中海沿岸ではないからFKK海水浴ともいかない。やはり、諦めて、先頃購入したイヤーフォンのテストネズミになっていようか。そのためにも投資したのだ。騒音の中でノイズキャンセリングで問題なく音楽が聞ければ閉ざされた中でこれほどの愉悦は無いのだが。

テルアヴィヴからの中継録音は素晴らしかった。フィラデルフィアの一行はイスラエル中で大歓迎されるのは言うまでもない。イスラエル人で今イスラエルへと特使として出向くことの意味を解さぬ者はいまい。世界中でどのようにイスラエルが批判されているかが自覚されているのは当然で、その中でももともと現在の政策に批判的な層も少なくはないだろう。そうした背景はイスラエルの英字紙でも読み取れる。

一曲目のバーンスタインの交響曲二番「不安の時代」の演奏はいつになく素晴らしかった。印象としては、拍を深く刻んでいるためかテムピが遅く感じられたが、新聞などはいつもほど間延びしてなかったとある。実際に一部冒頭プロローグのクラリネット合奏からとても間をもたせている。しかしなによりもこの木材をふんだんに使っているとされる会場の音響が素晴らしい。生では双方とも知らないのだが、このブロンフマンアウディトリウムのマイクロフォンセッティングは、エルブのそれとは異なり、とても魅力的な響きを伝えている。それはまるで同じ豊田のエルブについて語られるディテールまでが聞こえるそれで、なぜかエルブのNDRのセンターマイクロフォンでは細部がマスキングされてしまっているのだ ― 正しいメインマイクロフォンセッティングがまだ定まっていないようだ ―、細部が手に取るように聞こえ乍ら全体が綺麗に鳴っている。まさしくそれが生で聞くフィラデルフィアサウンドの繊細さで、微細なクリーヴランドの鳴りとはまた異なる本格的なものだ。但しとても興味深いことにここでの響きは湿り気があって、あの乾いたアメリカ管弦楽団の響きがここでは殆どイスラエルフィルのそれのようにウェットなのだ。

私は特にその第二部を聞いていて、バーンスタインが指揮する「カディッシュ」を、あの広島での公演の情景を思い出してしまった。あの夏の暑く重い空気感を、上着の色の変わっていく汗の滲むバーンスタインの背中を思い出した。そのアンダンテ―コンモートの盛り上がりはバーンスタインがマーラー解釈で聞かせるものなのだが、イスラエルの普通のジャーナリストがそれの聞こえ方を綴っている。

「この曲を通して、バーンスタインで問題になる針が落ちても聞こえるほどのそれが、最後には鼓動が聞こえるような高揚へと掻き立てられた」 ― 実際にその前に会場で携帯が鳴っていたのは放送で確認した。「それがイスラエル社会の ― 実はどの社会のもであるが ― 希望を思い起こさせるような演奏で、どの社会でも上手く行っていないことは神の知るところで、希望はそこにあるのだ、そしてバーンスタインそれ自身がイスラエルの文化歴史のカギとなっていて、暗示しているようだ」と、「闘争はいつも厳しく、秩序と制御、記録と予言、愛と苦悩を齎す」と書き、「その闘争それ自体が全てだ」と纏めている。ピアノのティボデーなどが語っていたが、まさしく音楽は宗教ではないところかもしれない。

ネゼセガンが繰り返しアンコールで音楽的に表明する、ややもするとキリスト教的と聞こえる「愛」がどのようにイスラエルでは受け取られているかは分らない。しかし、テルアヴィヴまでは国歌演奏も無しに進行して来ていて、その背後には関係者の配慮があるに違いない。最後のエルサレムこそは注目されるが、国歌の演奏で再び批判を浴びるまでに音楽家を追い込むのは間違いだ。バーンスタイン後に鳴りやまぬ拍手に答えてラヴェルのパヴァーヌがピアノ演奏された。さて今晩は最終日の中継録音放送である。



参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-06-06 20:43 | マスメディア批評 | Trackback

不安の時代に最高の言語

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またもやフィラデルフィア中継のテルアヴィヴからの生放送が中止になった。ストリーミングのサーヴァーの問題だろう。このプロジェクトからするとライヴ感が欲しいのでとても残念である。容易に翌日に順延して、翌日の最大の山となるエルサレムからの放送も翌日に順延した。

放送中に様々なSNSの紹介やらしていて、放送局の書いたものを見ると、先日ここで言及していたこの同一プログラムを四回も放送するという馬鹿げたプロジェクトについて記している。私見の通り、話題にして貰って議論して貰うことを想定している。当然のことその背後には、現実的な制約があり、グラモーとのライヴはCD化するとかのメディアの安物な商売があるのだろう。それをも含めての聴者の観測が味噌なのだ。

放送が始まるのを待って、中々始まらないとか、実際のコンサートはまだやっているかなとか考えるのもそこに含まれる。バーンスタインの「不安の時代」のフィナーレへと浄化されていく高まりは、その指揮でのマーラーの演奏などでも馴染の物であり、第三交響曲「カディッシュ」で更に浮き上がってくるものだ。その交響的世界に投影されているものは?

その世界の一部をYouTubeでフィラデルフィア管弦楽団が伝えている。今回のとても政治的な構造の中で、これまたある意味とても政治的なのだがイスラエルとパレスティナの子供たちが共に学ぶ施設を、音楽監督のネゼセガンと四人の楽員が訪問して音楽大使を務めている。その施設やその背後関係などは我々同様に彼らもそこまで詳しくはないかもしれないが、そんなことよりも大切なのは何らかのメッセージを出すことである。誰も現在のガザ地区やイスラエルの状況を解決することなどは出来ないのだ。まさしく不安の時代そのものなのだ。

私たちこうした芸術音楽に何かを期待する者は、こうした度々表面的にしか見えないようなメッセージやその活動を軽視するどころか、自らの美意識に反していると軽蔑することすらある。多くの場合は政治的として毛嫌いされる対象である。だから、ネゼセガンが「音楽は、幸福、自由、平和のための最高の言語」だと子供たちの前で語ってもどこか表面的にしか思わない。しかし、先日のベルリンでのアマチュア―楽団の催し物風景がドイツェヴェレで紹介されているのを観ると、少し考えが変わるかもしれない。

そこに世界中から集まってきた趣味の音楽家たちを紹介しながらのフィルム化になっていて、用心深い人はここでもメディアによって作られた世界に警戒する。同時に美意識の高い人はそこでなされる音楽実践は、あくまでも楽屋落ち的であって決して芸術的な審美眼に敵ったものではないと考える。そしてそこで再びサイモン・ラトルがそれこそが音楽だと力説すればするほど、その違和感が広がるかもしれない。しかし、そこで展開する演奏実践を、世界中のどの文化や未文化にでも見られる根源的な声を唱和したり音を揃って出したりする協調作業の視点から観測すれば、もはやそこになにも疑念は生じないだろう。つまり、世界言語としての音楽の力は議論の余地が無い。同じようなものに会食などがあるが、これは固有の文化に根付いていて、中々インターナショナルとはならない。

森を走っていると林道の先に小鹿のバムビを見つけた。久しぶりに子供を見た。横切るような場所も大体同じだ。獣道は我々が感じるよりも明らかな合理性があって、そこに道が出来ているのだろうか。大掛かりな山狩りをしてから見かけなかったバムビであり、しっかりと生息していることも分った。

日曜日のブルックナー九番のコンサートも悪くは無かった。ベルリンのフィルハーモニカーが黄金のザールにどれほど慣れているのか慣れていないのかは知らないが、フィラデルフィアのそれとは大分異なり、音響を活かした音楽づくりと同時にその明晰さも立派だった。アメリカの管弦楽団では聞けそうもないような音が出ていて驚いた。楽器の問題であるよりも、やはり木管を中心とした技術や独自の音色へのイメージが異なるからだろう。そもそも九番はベルリンのあの高弦の強靭さに合っている曲である。三楽章のあとの四楽章にも違和感が無くなって来て、四楽章の動機もしっくり響くようになってきている。それでも終止を待っておかしな声が会場から聞こえた。ナインと叫んだように聞こえたが、やはりそういうパトスをブルックナーに求めている狂人が態々四楽章版を聞きに来ているのだろうか。ある程度の教養のある人間ならば初めから分かっていて来るのであるから、やはり目立ちたがりの跳ね上がり者なのだろう。



参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-06-05 21:41 | | Trackback

大蝦米とは何のこと?

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パリの「パルシファル」を流した。管弦楽も想定内の出来だった。BGMとしての印象は、下手な座付き管弦楽団の割には、バイロイトの批判されたアダム・フィッシャー指揮のように引き摺るとされるような事は無く、先頃振っていたヘンヒェヘン指揮よりもリズムがしっかりしていたと思う。それでも、売り込もうとしているフレッシュでダイナミックなタレントイメージの指揮では全くなくて、鈍くて冴えない印象は拭えない。問題点は楽譜を見乍ら詳しく指摘していくことで、正しい楽譜の読み方を終りまで辿って行きたい。可成りのチェックが入ると思うが、ヘンヒェンの場合のように指揮の技術の問題ではなく読み込みの問題があるとすると最後まで付き合えないと思う。少なくとも魅力のない指揮で、本当にこの人がヴィーンで何年も勤まるのかのか疑わしく感じた。指揮技術的には二流であろうが、オペラ指揮者としては、下積みを積んでいるようで、それでもいいところがあるのかもしれない。

オペラ指揮者といえば先日ネットで見つけたバイロイト初代音楽監督ティーレマンの動画を見つけた。リンクをシナ人のところに送ったら面白いイムプレッションが戻ってきた。何ら先入観念を与えないように観て貰ったのだが、感想は一言。大蝦米、一体どういうことかというと、大きな海老を指す言葉で、その指揮ぶりが祖奴らと一緒だというのだ。なにか鈍そうなガタイで不器用にもがく感じを指すらしい。先ごろベルリンのフィルハーモニカーにデビューしたもう一人のペトレンコに対して、新聞はまるで宙を掴むように闇雲に指揮棒を振っていると報告されていたが、オペラ指揮者もコンサート指揮者もそのレヴェルではよく似たものなのかもしれない。こうなると本当に間抜けな職業にしか思えない。

日曜日の夕食前に一仕事した。電気コンロのスイッチが壊れていたからだ。症状は先ず火力調整の切り替えが回らなくなった。布巾を巻いて無理して回していたらいつの間にか壊れた。消火も出来なくなったぐらいだ。以前にも内部が焼けて場所を取り換えたりしていて使っていたのだが、これで壊れるのは二カ所目だ。スイッチは四個しかないので、使う二個を維持するべく修理に入った。前回の時はアースの関係か電気ショックで肩まで震えてしまったのであまりやりたくなかったのだが仕方がない。240Vはやっぱり怖い。無事スイッチを取り替えてヒューズを上げるとショートした。二三度繰り返した。ショートしている場所はその壊れたスイッチのところだったので、接触場所を除去するためにスイッチを破壊した。残りは二つである。冷蔵庫もコンロも古いものを無理して使っているのは遠くないうちにアパートメント全体をリフォームしようと思っているからで、車と同じで最後まで使い果たすべく我慢して使っている。それでもまだ二年ほどは使えると思う。流石に一口では料理の可能性が限られてしまう。

就寝前にソプラノのゴルダ・シュルツがお勉強を遣り直すことを書いていた。誰かが次聞く機会を楽しみにしているとかコメントしていたので、空かさず「パルシファル」のクリングゾールの娘を楽しみにしているとコメントしておいた。朝一番で返答してくれた。それによると、「ダークアンドビューティフルスタッフハプニング!で楽しんで仕事をしている。」ということだが、舞台で通常以上に色々動きがあるという事だろうか?やはりバゼリッツの色彩という意味か。音楽自体からするとどうかととも思うが、間違いなくテムポも可成り早いと思うので通常の動きは可能ではなかろうか。早速彼女を漸くフォローしておいた。

そもそも彼女が出していた写真は歌曲の楽譜だったから、書いてからチョイ役のことで悪かったかなとも思った ― 後で調べると声を痛めていてドクターストップが掛かっていたようだから復帰の準備だったらしい。しかしその乙女役などの名前を見るとテラ・イロートなど新制作「ティートュス」でも歌っていたり、若手とはいいながら制作録音のそれのように結構役者が揃うのがミュンヘンの実力だ。

週末時間があっておかしいなと思っていたら、試飲会を完全に忘れていた。最近は試飲会を忘れることが増えている。理由は、カレンダーの書き込みに従うような計画的な生活が出来ていないことであり、忙しくスケデュールが一杯に詰まっていたならば逆にそうした遊びの予定も淡々と熟していける。要するにここ一年ほどは計画が立たない生活をしているからだ。この間一体幾つの予定を逃したことだろう。こうした生活は性格に合わず、とても気分が悪い。

今晩は再びテルアヴィヴから生中継だ。バーンスタインがどのように聞こえるか?流石にこれだけ聞き返すと、楽譜が無くても大分曲が入ってきた。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
オペラ座の怪人は何処 2018-04-01 | マスメディア批評
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-04 22:47 | 雑感 | Trackback

非パトス化の演奏実践

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人に紹介しただけでラディオ放送を忘れていた。それでも20時過ぎ始まりなので思い出して、結局最後まで聞いてしまった。プッチーニの「三部作」だ。初日の演奏にはそれなりに物足りなさもあり、生中継の技術的な問題もあったので、それほど重視していなかったのだが、珍しい上演という事で放送も重なり、録音も数種類も重ねてしまった。生中継は不安定乍らその新鮮な音響は録音となるとデジタル録音でも差異が感じられるのだが、問題のORFのそれとフランクフルトのARDアーカイヴからのHR2でも音質が大分違っていて驚いた。但し「三部作」が別けてリストアップされていて三部に別ける放送体制は変わらない。つまりオリジナルの一部の後の拍手はカットされる。やはりORFのネットストリーミングは高音が伸びていない感じで、MP3的な美化が感じられる。歪感が少ない分一寸聞きには如何にもヴィーンの香りとまで感じて、そのナレーションのハリボを噛んだようなヴィーン訛りと共に独特だ。

翌朝にはベルリンからのゲストがそこの楽友協会でラトル指揮で演奏する。前々日にはフィラデルフィア管弦楽団が演奏して生中継されたばかりなので、その差異も注目される。そしてなによりもブルックナーの交響曲9番の四楽章版が楽しみだ。ラトルの指揮はマーラーよりもブルックナー向きだと思っていると同時に、その初演風景をネットで見て、繰り返して演奏する必要を感じていたが、幾らかは手慣れてきただろうか。この版が上手く定着すれば、将来的にラトルのベルリンでの代表的な成果になる可能性があると思う。その可能性を感じている。

週明けになるとワイン祭りの準備で落ち着かなくなる。暑くなるようだから快適さも無くなるが、そろそろ「パルシファル」の復習をしておかないといけない。先ずは四月のパリ公演の中継録音を聞いて録音しておこう。ジョルダン指揮であるからまともに演奏出来ているとは思わないが、その前のメトロポリタンでのネゼセガン指揮との比較になるだろうか。バーデンバーデン復活祭での域には遠いとしても、ここらあたりで一度ガラガラポン混ぜ合わせして、新たなお勉強にしないと月末の初演への心掛けが出来上がらない。正直、もはやペトレンコ指揮のオペラは彼の才能の浪費でしかないと、将来思われるようにしか、考えなくなっているが、それでも「三部作」初日の録音を聞き返すとその徹底した美しさは特筆すべきで、改めて大変なことをしていると再確認する。最後に聞いたのが二月の「指輪」の上演で、それでさえ遣り過ぎと思ったが、「三部作」でのバスの鳴らし方なども徹底している。やはり和声のベースになっていて、対位法的な扱いにおいても歌の中声部を飛翔させるのもその正確さである。

そして夏のベートーヴェンを考えると、先ほどの東京の「フィデリオ」の評判から、まさに非パトス化の枠内での「舞踏の神化」へと想いが募る。現在日本ではクリーヴランドの管弦楽団がプロメテウスと称した演奏会を開いているらしいが、それならばそこで何故この非パトスが囁かれないのかは大変謎だ。そもそもベートーヴェンにヴァークナーの「死による救済」を暗示する点で美学的評価の余地がない。日本における根強いベートーヴェン人気は研究対象だと思うが ― 毎年演奏される第九の不思議と共に、だからどうもオペラだけでなく、そうした市場への支持はサブカルチャー化したもので、ただ単にライフスタイルでしかないと予想される。そこからまた合衆国における管弦楽活動なども関連していく。

そこでベートーヴェンの演奏が如何にパトス化を避けながら大交響楽団で演奏され得るかという問いかけがなされる。一つの方法としてクリーヴランドでやられているように例えばその八番の交響曲などでの軽妙さと洒脱さの晩年の「バガテレ」などに通じる演奏実践もあるが ― その意味からも後期弦楽四重奏曲を取り上げた時点でコンセプトは定まっていたようだ ―、その点で先日のバイロイトでのヤルヴィ指揮の演奏は、その音楽的コンセプトがブレーメンの室内楽団でやるの同一であるとしても、やはりとても大きなエポックを刻むものであったと思う。いずれにしても七月から来年の二月の「フィデリオ」、「ミサソレムニス」までは「べート-ヴェン研究」を続けることになる。アルフレード・ブレンデルのベートーヴェンツィクル以来だろうか。

その傍証として、復活祭のラトル指揮のそれを見れば明らかで、カラヤンの影に怯え続けたこの指揮者が、結局はフィルハーモニカーの特徴である発し発しとしたその演奏形態から一歩も逃れえる事が無かったその演奏実践を挙げれば事足りる。晩夏に演奏される第七交響曲の演奏へと向けてヤルヴィ指揮の功績は過大評価過ぎることはないと思う。それにしてもラトル体制の最後でこれを入れたツェッチマン支配人のアーティストプロデューサーとして才能と人間関係構築の手腕には首を垂れたい。これはキリル・ペトレンコのオーケストラ芸術への新展開へのハードルを大きく下げてしまうような大功績で、サイモン・ラトルとのミュンヘンでの会合でも話題になった課題でもあったのだろう。



参照:
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-03 23:36 | 文化一般 | Trackback

「抗議するなら今しろ!」

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承前)楽友協会黄金のホールからの中継を聞いた。結局一時間の時差では間に合わずに一時間半のディレーとなって、9時始まりだった。フィラデルフィアのローカルの放送局であるが慣れていないところもあるのだろう。香港からの中継はどうだったのだろうか。少なくとも香港の放送局の映像も残っていて、先日再放送された音質も悪くは無かった。今回の内容も想定以上に興味深かった。

楽団も無事飛び立ったことだろうから、そのテロ対策に関しての情報もネットと自身の体験から纏めておきたい。まだ新聞等に出て来るだろうが、大きな危険性はそもそも無かったのだろう。パリでの動きを見ると最終的に分かるだろうが、テロ危険情報が発生していなかったという事だ。ヴィーンでも可成りの警備態勢が取られていたようで、主に会場外での抗議行動への牽制で、初日には二人が、二日目には誰も抗議しなくなったとある。それでも跳ね上がり者が居ないとは言えないので情報にも管制が敷かれていたようだ。ルクセムブルクでは、全くコントロールが無かった ― 券が無くても潜り込めそうだった。その代わり当初からつまり一般ネット発売の時からPC印字での発券はしていなかった。つまり身元が分かる者にしか発券していなかった。その数も数十枚位程度で、顧客以外の初めての購入者も身元調査が出来るぐらいの数だったろう。それでも顧客や定期会員から見ず知らずの者への券の譲渡はあり得ると思うが、制限を設けていたのだろうか。そのようなことで全く警備が見えなかった。券があっても欠席して空いていた席の数も数十までいかなかっただろう。今回の欧州ツアーで95%の入場率だとあるので、何処も同じようなものだったようだ。完売は、ルクセムブルクとエルブフィルハーモニーのみで、後者は返却券を求めて長い列が出来ていたらしい。

ブリュッセルで発生したような抗議活動予防処置として、演奏前に挨拶があり、「抗議をするなら演奏が始まる前にやってくれ」と言うのはとてもいい効果がある。そのような会に集う聴衆の多くは様々な事情を考察しつつ最終的には「管弦楽団の判断を尊重しよう」とする人たちだろう。しかし、やはりそこには釈然としないものを感じている人も少なくない筈だ。だからフィラデルフィアで行われていた激しい抗議行動も認めつつ平和裏に意見を促すという方法はやはり合衆国の民主主義ではなかろうか。その中でもフィラデルフィアはリベラルな土地柄と認識している、だからこうした方策でそのもやもやとしたものが吹っ切れはしないか。

地元紙が様々な楽員にインタヴューをしている。その中にはブリュッセルでの中断劇をして「アップセットするぐらいでトリートメントなんて」と語るように、やはりたとえ二人のテロ行為であって、受ける方は予想だにつかない。もし「アラー」とか叫んでいたら一瞬で人々が吹っ飛んでいたかもしれない。またその一方今回のツアー自体に「政治的なもの」を感じていた楽員も幾らかいたようだ。現実に舞台上で、それも指揮者となると的になり易くとても怖いと思う。情報は合衆国外交筋から得ているだろうが、それほど信頼関係が必ずしもある訳ではない。安全の確かさを値踏みするだけであり、不慮の事故は避けがたい。この点も過小評価してはいけないと思う。

そのような環境の中で放送された音環境はとても価値があった。この会場で座付き管弦楽団が演奏するのはしばしば聞かないでもないが、いつものORFの放送とはフィラデルフィアのネット放送では音が違った。あの鼻詰まりのような音ではなく綺麗に抜けていたから、余計にその会場の角の落ちた丸くなる音響を再確認した。ネゼセガンはリハーサル中に楽員に向かって、「ソフトになればなるほど、ウォーマーに」と、「歌に気をつけて」と座席の音響を確認しながら要求したようだ。そして、「ドンファン」の強い響きになると、「それじゃあまりにもソフト過ぎるんだ」と冗談を叫んだようだ。

その音響効果は放送でも明らかで、バーンスタインではあまりにも輪郭が鈍ってしまっていて、ハムブルクで響かしたようなクールでありながらも繊細な演奏はピアノも管弦楽も難しそうだった。その分、エルプからの放送ではつまらなかったチャイコフスキーが飽きさせなかった。音楽的な取り扱いでは不満も少なくないが、少なくとも楽器の棚卸のような演奏ではなく、歌の効果が表れていて有機的な効果を上げていた。そこでの楽器群の合わせ方がやはり興味深かった。どうしても我々はそこをホームグランドとする座付き管弦楽団の音楽作りとか音質とかを考えてしまう。

こうして比較対象があると、あの座付き管弦楽団の音楽は決して音楽の伝統を継承しているのではなくこのホールの響きを継承しているのだと確信した。まさにキリル・ペトレンコがNHKホールで「明白に」と言ったように、そのように対処した音楽をやることでそのバランスを取っているのだと気が付いた。そしてそれがいつの間にかにヴィーンのヴィーン古典派の演奏実践の伝統になっているようだ。あそこでいつも弾いているとああいう風になってしまうのだろう。

フィラデルフィアの音もどこまでもソフトで且つあまりに豊かに ― 少なくともスピーカーで聞くとその後ろに居並ぶ低弦がぶよぶよになってしまっていて、生で聞いたのとは著しく異なり、要するにリズムよりも旋律、和声の音楽づくりになってしまうのである。しかしやはりここでも注意しておかなければいけないのは昔の録音どころか、和声構造から全てを演繹的に処理していったフルトヴェングラーの指揮でも決してそのようには響かないことも付け加えておこう。

放送や新聞が伝えるヴィーンのスタンディングオヴェーションの嵐の熱狂は通常では見られないもので ― エルプフィルハーモニーでもロックコンサートの如きと報じるも、その意味をどのジャーナリストも書き込めていない ―、勿論最後のアンコールの「愛の挨拶」まで、今回の欧州イスラエルツアーのイヴェントとして考え尽されたプログラムであることを考えれば当然のことであったかもしれない。まさしく楽員が言う様に「一寸緊張感があるんだ」というのが勿論その環境を形作っている。益々、イスラエルからの中継から耳を離せなくなってきた。新ホールはやはり本田氏の音響設計らしい。(続く)



参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-06-02 21:53 | マスメディア批評 | Trackback

マイクロフォンセッティング

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夜中の雷雨で目を覚ました。バルコンの日除けや机などを退避させた。それほどでもないと思ったが、動かす良い機会だ。翌日もそれほど強い陽射しは予想されていなかったからだ。そのように始めて窓を開けて就寝していた。夜中の最低気温が下がっていなかったからだ。そのような理由で朝早く目が醒めたが二度寝してしまった。曇りがちで世間は前日の祝日に続いて休みがちとなるとぐっすり寝坊した。寝坊できることは幸せなのだが、腰に張りが来た。遅くなったが仕方なく走りに出かけた。

沢沿いの向こうからあまり顔を見ない若いお兄さんが走って来てすれ違った。その足取りは馬のように感じた。背丈も190㎝ぐらいだががっしりしていて、ランニングタイプではないのだが、運動能力が高そうだった。ああいうのを見るとこちらは幾ら走っても牛の走りで牛歩ではないだけだと気づく。勿論足元が悪いのでスピードは出ないのだが、やはり普段は見かけないああした走りを見ると違うなと思った。

そんなことで幾ら汗を掻いても仕方ないようなものなのだが、少なくとも目が醒めてすっきりした。このBLOGで誰かが訪問したページのタイトルなどを見ていると、一体何を自分が書いたのかなと興味津々で覗くことがある。誤字などを見つけて直すのが面倒だなと思う時もあるが、思わず内容に引きこまれる時もある。要するに書いた時の自身の考えとかとは異なり読者として読まされるものも無いことは無い。そうした投稿はやはりいいのだと思う。タイトルと関係ない時もあれば、なんだと思うときもあれば、なるほどと納得する時もある。様子するに完全に書いた本人が忘れている内容も少なくないのである。そしてそれが丁度一年前であったりして、同じように窓を開けて就寝したなどと書いてあると、これまた面白い。

演奏家が自身の古い映像や録音などは見たくも聞きたくもないというのはそれが自身のレパートリーであって、今も進行形でよりよいものを目指していれば過去のそれの出来ていないことを良く知っているので振り返りたくないのは当然なのである。それでも聞く側にとってはよほど同じ演奏家を追っかけていない限りそのような差異はそれほど感じない。

金曜日の夜は再びヴィーンからの生中継があるが、先ずはいつものORFの録音にしてもそのネット配信が異なるので今までは聞き取れなかった黄金のホールの響きが聞けるか楽しみだ。繰り返してエルプフィルハーモニーからの録音を流しているが、NDRの録音はまだまだこのホールの真価を示しているとは言えない。マイクロフォンのセッティングなどのノウハウが足りない。少なくともルクセムブルクで聞いたような弦楽陣の分離感と管との重なりなどが綺麗に収録されていない。黄金のザールからの中継もいつもの座付き管弦楽団の甲高い響きとは違って落ち着いた凄みのある響きが聞こえるかどうか楽しみである。チヤイコフスキー交響曲4番の演奏は、ペトレンコの言葉ではないが西欧で演奏されるそれは全てキッチュな演奏になるとしても、このネゼセガンの「演奏解釈」では精々管弦楽の木管陣の名人芸を楽しむだけになってしまって些か退屈である。オーボエ首席三代目のリチャード・ウッダームスは、二代目デュランクルを引き継いで40年、ツアー後にリタイアーという。興味深いのは百年の歴史で三人しか主席がおらず、それだけ永く勤め上げるようだ。合衆国のような世界では、遠縁の内科医師も全米を転々とよりよいポストを求めてと聞いていたので、こうした世界で終身雇用が存在しているのが面白い。伝統を守るという事では合理的かもしれない。それに引き換え指揮者が世界中を旅行して回っていて楽譜も十分に読め込めていないとなると幾ら技能が高く活躍していてもやはり駄目だ。(続く

バービカンホールでのコンサートが気になる。時間あれば行ってもよいかと思ったぐらいなのだが、まさかこれほど売れていないとは思わなかった。如何に管弦楽コンサートというのは有名交響楽団でないと入らないかが明らかだ。そういう自分でもミュンヘンのアカデミーコンサートには一度しか出向いていない。欧州ツアーのボンまで出かけただけだった。フランクフルトの35ユーロが高過ぎると感じた。ロンドンの最上の55ポンドは、会場は知らないが、まあまあではないか。BBCでさえ数年前には無名の指揮者の座付き管弦楽団という事でプロムス出演を断ったぐらいだから、その程度だろう。嘗てはEMIもあったので欧州音楽市場の中心であったがこれでEU脱落と共にその地盤低下は激しいと思う。エネスコフェスティヴァルのブカレストなどのように音楽市場も東欧へと少しづつ動いて来るかも知れない。



参照:
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-06-01 22:53 | 生活 | Trackback

エルブのバーンスタイン

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エルプフィルハーモニーからの中継録音を聞いた。前日に生中継されるものだったが、技術的にならず一日遅れの録音中継となった。先ず何よりもいつものフィラデルフィアからの中継とは音質が違う。会場のアコースティックではなく、録音の機材なども異なるという事だ。バーンスタインの最初のクラリネットの部分ではまるでアナログ録音のようにサーノイズが目立っていたが、後には目立たなくなった。音量調整をしていたのだろう。また、音響とも関係するが客の咳がとても喧しかった。同曲をバーデンバーデンで聞いた時は私も大変だったので、ハンカチで押さえて自分自身で窒息しそうになっていた。最近は会場で態々布で口を押さえてとかのまるで日本のような注意が表示に出るが、ハムブルクではないようだ。嘗てのドイツの会場の雰囲気を思い出した。

暫くすると、エルプフィルハーモニーのアコースティックが浮かび上がってきた。NDRの録音であるが、なによりも放饗とは比べられない超一流管弦楽団のしっかりとした歌い口や、更に指揮者とピアニストが最小音を駆使しているのが手に取るように分かった。その分ダイナミックスが広がるが、低弦も適当な硬さがあって、さぞかし会場で聞くと抜けた透明な響きがするのだろうと予想可能だっだ。ティボーデーのピアノはジメルマンとは異なって、とても細やかで感受性に富んだ音で弾いていて大変良かった。フィラデルフィアからの放送では到底聞き取れなかった細やかさは会場のお陰であり、管弦楽団の鳴りも素晴らしいに尽きた。

ハムブルクでの二日間の評も出てきているが、阿保親仁が主幹のヴェルト新聞は若手もクラオタク程度としても、地方紙の程度はバーデンなどと同じで大したことが無い。だからシューマンの弦におけるフレクシブリティーへの更なる希望と管とのすれ違いに関しては何とも言えないが、少なくともそれはルクセムブルクではベルリンのフィルハーモニー程度のアンサムブルの比では全くなかった事は既に記した。しかし弦楽陣のその批判は理解出来て、大なり小なりビックファイヴのアインザッツが揃う弦楽陣にはその傾向がある。嘗てのシカゴのような細い針金を束ねたような弦楽は最早どこにも無いだろうが、あのアジア系の多いヴァイオリンなどにはそれを感じるのも事実だろう。しかしそれでも斎藤記念とかの程度と比べるまでも無く、中声部の動きなど見事で、コンセルトヘボーのそれとは違うがやはり第一級であることは間違いない。

後半にチヤイコフスキー交響曲4番が演奏されたが、夜も更けて22時過ぎていたので窓が開け放たれたところで小さな音で流し乍ら楽譜を見ていたが、最後には居眠りをした。それでも指揮者の特徴も発揮して、また新聞が書く様に「名人技に、気の入った木管陣」も見事で、そのソロだけでなく繋がりにも惚れ惚れした。なるほどネゼセガンは、キリル・ペトレンコのように瞬時にテムポアップ・ダウン可能な技量は無いが、その分二三小節前から準備する昔通りの「演奏解釈」のアゴーギクを駆使していて、それ故に余計にそのシューマンをしてまるで「カラヤン世代の鳴り」のようだとも書かれている。これは記者が全く楽譜を見ていない証拠で、カラヤンがネゼセガンのように細やかに楽譜を音化していた試しはない。これをして如何にハムブルクの音楽水準なんてこんなもんだと思わせるに十分だ。

再び「不安の時代」に戻れば、そのジャズのイデオムとか変奏の構造とかとは別に、また具体的な「ホテルのバーとかの情景」などではなく、この曲の持っているハリウッド映画的な効果、つまり作品から客観的な、またそれとは別な視点からの自身の環境への覚醒が生じるという事から、この曲の入っているプログラムばかりをこれからヴィーン、イスラエルから執拗に生中継するというとんでもないプロジェクトへの理解が生まれてきた。つまり、私たちが生中継から感じるのは決してその日の演奏の出来不出来ではなく、その会場と聴衆を取り巻く環境であるかもしれないと気が付いた。些か馬鹿げたプロジェクトにも思えたが、もしかするとこの政治・倫理問題でもあるツアーへの決意やそのプログラミングの真意がそこに明白に示されるような気がしてきた。そしてこのバーンスタインの曲自体がそのように開かれた面を持っていることにも気付いた。もしかすると、この日もアンコールとして演奏された「(世界が必要とする)愛の挨拶」と共に、その通りネゼセガンが語っていた「記念碑的」な演奏ツアーになるかもしれないと思うようになった ― 因みにハムブルクでのもう一つのプログラムは後半にブラームスでパリなどとは前半と後半が入れ替わりアンコールが無かったという。

ネゼセガンがグラモフォンと契約更新する風景が報じられていたが、それやこれや管弦楽団が世界一巧いかどうかとかなんかどうでもよいことで ― ドイツでも現場を知らないジャーナリストなどに限ってアメリカの音楽文化などとしか理解していないのかもしれないが ―、こうした音楽活動がどのように、なにをしようとしているのかの表現をしっかりと見極めることこそがジャーナリズムなのである。

床についてティッターを見るとスペインのフォロワーさんがYouTubeに出たばかりのマーラーの七番のフィナーレの演奏風景を紹介していた。寝て居れずに起き上がって、ダウンロードして、あまり券が売れていないバービカンホールでの演奏会を紹介しておいた。折角HDでダウンロードさせてくれたのだからそれぐらいはしよう。素晴らしい映像で、想定以上に楽団も良く弾いていて ― 恐らくこの間のエルプフィルハーモニー、カーネギーデビューの経験の上乗せがあるのだろう ―、そしてペトレンコの指揮を見て、やはりこの人は天才だと改めて思った。何処の世界でもそんなに天才なんかいない、だからそれを基準にしたってしようがないのだ。



参照:
プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-05-31 21:19 | マスメディア批評 | Trackback

索引 2018年5月

プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活
準備万端整え、いざ 2018-05-26 | 雑感 TB0,COM2
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感
ルツェルンの想い出?? 2018-05-24 | 雑感
またもや因果な商売 2018-05-23 | 雑感
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
降臨しないケントの棒 2018-05-21 | 暦
遮断される聴空間 2018-05-20 | 雑感
ラインガウワーの印象 2018-05-19 | ワイン
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
五桁ほど違う経済 2018-05-17 | 生活
業界のダークホース 2018-05-16 | 雑感
トレンドは冷えた「神の雫」 2018-05-15 | 試飲百景
リツイートされた影響 2018-05-14 | BLOG研究
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
習うより慣れた判断 2018-05-11 | 試飲百景 TB0,COM2
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
決してCPで負けない 2018-05-09 | 試飲百景 TB0,COM2
二日間の試飲の旅 2018-05-08 | 試飲百景 TB0,COM2
着陸コースの空の下 2018-05-07 | 試飲百景
生誕二百年祭の日 2018-05-06 | 暦
生誕二百年記念式典前 2018-05-05 | 暦
元号廃止などと昔話 2018-05-04 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
WLAN構築準備開始 2018-05-01 | 生活

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# by pfaelzerwein | 2018-05-31 15:08 | INDEX | Trackback

プロテスタント的批判

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エルプフィルハーモニーからの生中継がならなくて残念だった。準備万端整えていたのだが、技術的障害とは想定外だった。そのために一時間の時差を置いてあった筈だ。ラディオ番組の放送時刻もあったのかもしれないが、一時間あればどのような方法でも可能だった筈だ。今時音声データーの精々3GBほどの転送に技術的問題など考えてもいなかった。録音側はNDRが受け持っていたのだろうから、そこに問題があったとは思えない。やはりストリーミングするサーヴァー間の問題なのか。ARD内ならばいつでも使えるサーヴァーがある筈だが、外部なのでそれは使えないからだろう。

録音するだけならば後日の追加放送で構わないが ― NDRの放送日は7月29日である、次の予定のヴィーンも6月1日で同じプログラムだけなので、先ずはエルプフィルハーモニーでの初めてのフィラデルフィアサウンドを聞いてみたかった。こんなことならばもう一つのグレモーのピアノのプログラムの方を流して欲しかった。

一方ミュンヘンではキリル・ペトレンコ指揮でマーラーの交響曲七番が演奏されていた。この二日目を終えてロンドンデビューである。南ドイツ新聞は、プラハ初演でのプローベを語る弟子の指揮者オットー・クレムペラー伝を引用して、シェーンベルクがマーラーに「あなたは私にとってある種クラシッカーだと思っていましたが、どうでしょう、お手本ですよ。」と首を垂れた事に言及している。これを読めば今回の演奏がどのようなものであるかが良く分かる。

先日亡くなった作曲家ディーター・シュネーベルの訃報記事に目を通した。ベルリンを代表する作曲家とはなっていないから、まだ誰が居るのだろうと思ったら、なるほどまだ生きている老人をそこに数える訳にはいかないのだろう。ベルリンにだけでなく、ミュンヘンはおろかプファルツにもと書いてあって、一体どこで誰に教えていたのかなと思った。マインツか?オルテナウのラー出身だとも知らなかったが、プロテスタンティズムの懐疑が心情と書かれている。そもそものその神学における、そしてピューリタン的な偶像廃止への懐疑が、当初はアドルノの影響を受けて「シェーンベルク」で学位を取ったもののダルムシュタットでのセリアルとは距離を置かせるとなる。

キーワードとしてブレンドヴェルクと、建築のファサードの装飾を挙げて、そのオーラを放出する表面とその創作を指す。そこから同時にポストモダーンの形へと流れ込まないのは当然であり、ヴァルター・ベンヤミンの言葉を使って、「目標は、将来へと再び否定されるところのものとなる」とあくまでもプロテスタント的な批判がなされる。ここでその音楽に深入りする前に ― もし夏休みの時間が取れたなら楽譜が手元にあるので、改めて楽曲アナリーゼをしてみたいとは思うが、その演奏の録音を今流して、その成果を再確認している ―、ここでもう一つのキーワードである学究的若しくは逐語的への批判を一考する。

ミュンヘンでマーラーの交響曲七番演奏へのとてもよい批評から、恐らくマーラー解釈のスタンダードになって行くだろうとされる丁寧な動機の扱いの積み重ねだと思われる。その基本にはキリル・ペトレンコの楽譜そして第一次資料への拘りがあり、否定される余地がないものなのだが、この辺りでそうした姿勢にも批判的な視点をも確保していきたいと思っている。述べている通り、もはや歴史的評価の定まったペトレンコの芸術を称賛していても始まらない、面白くもないからだ。可能ならば批判が止揚されるような批判こそを願いたい。その端緒として、その「逐語的な楽譜解釈における批判精神の欠如」が挙げられるのではなかろうか。演奏実践の解像度を上げていくことでしか到達可能でない領域に入ってから、そして初めてその批判領域に入っていくのだろう。

ラトル指揮の最後のツアーへのコンサートの様子が報じられていて、ブルックナーのフーガではラトルが執拗に弦を煽るのに対して、管が付いていけなかったりと通常ではありえないぐらいに最後の数メートルへのひと押し状況になっているらしい。昨年の春の祭典での力のぶつかり合いが引き合いに出されているが、復活祭でのルーティンなマーラー交響曲などを見ると、想定外の力の入り方のようだ。そこで16年前の最初の頃には、「古楽奏法を教えてやった」と語り、管弦楽団を「ビックフット」と笑っていたのだが、ここに来てまるで指揮者が偉大か管弦楽かを示すかのような競演になっていて、若者のための普及などの貢献を通して、彼自身が最後には管弦楽に合わせて「ビッグフッド」になっていると書いている。そしていづれにしても管弦楽は新たなものを求めていて、キリル・ペトレンコ指名への決断こそが、「学究的」な管弦楽育成であるとしている。まさしくその「学究的な」ことこそが ― 「サーカスの猛獣使い」とこれが同義語になるのが「日本の学界」のようだが ―、今後の展開で建設的な批判の焦点になるのだろう。そこで話しの発端へと戻ると、その二つ目のキーワードこそが、「プロテスタント的な言語的定着」であり、その中で一つ一つ正確に熟していくというシュネーベルの仕事ぶりが述べられている。まさしく、余談ながら日本の学問において、たとえそこに漢字的な定着があったにせよ、Akribischと逐語的が結びつかないところであろう。

奇しくもベルリンのフィルハーモニカーの管楽陣と弦楽陣間のアンサムブルの傷に言及しているが、次期体制へと変化していくところが示唆されていて興味深い。フィラデルフィアサウンドなどを照査すると、そうした管弦楽団の原点のアンサムブルの形態や様式などにどうしても関心が向かうのであり、なにもそれは合うとか合わないの問題では全く無しに演奏様式を超えて、レパートリーや管弦楽団の存在意義についての考察となる。



参照:
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-05-30 23:03 | 文化一般 | Trackback

「八十八夜とは氷聖人の日」

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ここ暫くのランニングは厳しかった。気温が高いからだ。少し負荷を上げると汗が噴き出す。下りて来てタンクの水を浴びてクールダウンする。思う存分朝から汗を掻くので午後は眠くなるが室内では暑くて困ることは無い。まだまだ乾燥しているから盛夏のような暑さではなく、夜中は締め切って就寝可能だ。

京阪の温室で摘んだ新茶を飲み終えた。僅かな量だったので六回ぐらい煎れただろうか。上手く出せたのは二三杯だった。温度も管理して急須も温めてと苦労したのだが、それぐらいのアヴェレージだった。水自体は通常の煎茶で問題が無く、可成り柔らかい筈だが、新茶のお湯の温度が難しい。玉露並みに冷まし過ぎると上手く出なかった。玉露のお湯加減の方が簡単だ。しかしうまく出ると、苦くも甘くも無く、フレッシュさが漂う清涼感が何とも言えなかった。夏にもこうしたお茶が飲めると嬉しい。

新茶の「八十八夜」を調べると、いつもレープホルツ講話に必ず出て来る「アイスハイリゲ」との共通性に気が付いた。前者は立春から88日目となっていて、後者は幾つかの聖人記念日の五月前半となる。つまりこれらは太陽暦でほとんど同じ時期で、その意味も遅霜が下りる時期であり、これを超えると作物は一安心となる。奇しくも温帯地方の日本のお茶とドイツのワインなどの作物が同じ時期に霜被害を受ける可能性があるとはとても不思議だ。

ワイン祭りが近づくので、イヤーフォンのイヤーピースを調整してみた。付属品として四種類の大きさの二種類の材質のイヤーピースが付属している。丁寧に開けて、それを観測して試してみる。先ず大きめのにすると押し込む形になって駄目だ。小さいと隙間が多くなる。するとMのもう一つの素材を試してみる。もともとついていたのは固い素材のピースで、それを捥ぎ取るのにも気を使った、回せと書いてあるように見えたが到底動かないので、爪でこじ取った。一体どれぐらいの人がこんな細かな仕事に耐えられるのだろうか。それほど器用でないことは自覚しているのだが、状況さえ確認可能ならば対応可能だが、なにも分からないで手探りで作業を行うことになる。壊すことも無く取り換えたが、扱い難い。

柔らかい混合素材の方にして耳に押し込むと圧迫感が少なくなった。アウトバーン走行中の経験からその素材と気圧の変化の問題は別だが、耳のあたりを重視した。それで密閉度が足りないのかどうか試してみたい。しかし音が出ているスピーカーの前で試してみても楽音は殆ど漏れてくる。波形のシャープなものはノイズキャンセルでは対応しないようになっているのだろう。ワイン祭りの戸外の音楽はサラウンドになると言っても距離があるので雑音としてキャンセルされることを願っている。

自動車の騒音もタイヤのロール音が大きく、あれが消えるならば楽音のバスの喧しいようなものはキャンセルしてくれるのではないかと思うが、そこに乗っている倍音成分は消えるだろうか?ピースの素材による音質の変化などは今のところ全く考えられない。そこまでの音質が得られているのかどうかもまだ分からない。兎に角自分自身の耳の中の音響自体にまだ慣れておらず評価を下すまでに至っていないからだ。少なくとも固い素材は柔らかい素材よりはシャープだとは思う。

プラスティック素材では、欧州からストローや綿棒の芯、カクテル棒、お皿類の発売禁止の法案が纏められようとしている。環境団体からは木を使う様になればそれはそれで問題があるとされる。少なくとも食料のテークアウト用のその手のものは無くなると思う。あれが無くなると、精々アルミ素材のお皿ぐらいが残るのだろう。寿し類などはフォイル処理した紙箱しかないだろう。可成り影響は出ると思われる。個人的には綿棒とストローぐらいなので発売禁止になる前に少し買っておけば用が足りる。キャムプ用などには今まで以上に紙素材のそれが使われるようになるのだろう。



参照:
トレンドは冷えた「神の雫」 2018-05-15 | 試飲百景
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-05-29 23:07 | | Trackback

尊重したい双方向情報

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承前)余話となるが、フィラデルフィア管弦楽団の手元の録音を流している。数は少ないが何枚かはディスクがある。こちらではザヴァリシュ指揮のツアーが最も注目されていたがプログラムがつまらなかった。手元にはその頃録音された初代監督ストコフスキ編曲集がある。ムーティ指揮もあるが、気になったのはショスタコーヴィッチ全集で10番と11番を担当しているヤンソンス指揮の録音だ。少し流して気が付くのは、96年の録音だから現在メムバーとは殆ど重ならないだろうが、この指揮者が振ると急に余裕が無くなってしまう。指揮者自身が心臓に来るのは当然というような鄧小平が新幹線を「後ろから鞭が入っている」と評したように、如何にもソヴィエト文化らしい演奏だ。この水準の楽団になるとこの指揮者には振らすのがやはり惜しい、精々オスロやミュンヘンの放饗ぐらいどまりの指揮である。

その点、現監督のネゼセガンは知的程度も高いようでコミュニケーション能力にも秀でている。なんといっても指揮技術的には優れているので、成長が期待される。反面それだけに目立ちがたりであるのは指揮者の本性で、その指揮に批判が集まるのはその点である。技能的にはギリシャ人のカラヤン二世の方が高いのかもしれないが、フィラデルフィアでのつまらない録音も楽団のためと言うならば理解されよう。そして今回のようなプログラミング作りは、その能力の一つとして十分に誠実さを窺がわせ、舞台捌きも決して悪くはないどころか、広い聴衆に訴えかける力も有している。プロテストについて一言付け加えた前夜に続いての同曲のアンコール「愛の挨拶」までのプログラミングもである。

今回のイスラエル建国70年ツアーに際して、その抗議活動も含めて、やはりこの活動に注目したい。まさしくコメントされたように、今回のツアー実施への裏表をも全て含めての決断への「尊重」である。この点では、生誕年と言うだけでなく、そのバーンスタインの交響曲「不安の時代」の演奏が先ずは火曜日にエルブフィルハーモニーから一時間時差で生放送される ― 既にフィラデルフィアからは放送されている。この指揮者の音楽的な実力もその限界もある程度は把握出来たと思うが、彼自身が語っているようにバーンスタインは指揮者としての手本となっていて、その点でもこれはこの指揮者の知的な芸術活動に期待するところでもあるのだ ― 至らないまでもその活動は北アメリカからの一つの指標とはなるのではなかろうか。

休憩後の二曲目は新曲のオルガン協奏曲だったが、これはフィルハーモニーのオルガンも聞けて良かった。そして管が各々にそこに絡む訳であるから、もう一つのプログラム曲「ドンファン」よりも管弦楽団のショーウィンドーとして熟慮されている。編成も大きく、その管の繋がりだけで一聴に値した。またオルガンのポール・ヤコブのペダルテクニックも見ものだった。

さて愈々三曲目のシューマンの交響曲四番であるが、そのままの大編成で、既に書いたようにプリンシパルの奏者などが出て来るのだから、そのサウンド自体にも初めから期待させた。放送であったように大編成でありながら室内楽的なアンサムブルを目指していて、管と弦もとてもよくコントロールされている。まさしく指揮者の腕なのだが、それは上のザヴァリッシュ指揮の録音で全く出来ていないことが可能となっている面で ― メゾフォルテと呼ばれたその指揮者でもとどのつまりカラヤン世代であることを思い起こさせるに十分な脂ぎったサウンドで嫌気がさす。ムーティの方が遥かにおしゃれだろう、しかし日曜日に放送されたラヴェル編曲「展覧会の絵」をネゼサガン指揮で聞くと、現在シカゴとフィラデルフィアではどちらが音楽的に機能的かは明白で、シカゴが苦戦している ― だからキリル・ペトレンコを尊重したのだが、フルトヴェングラーと同じようにベルリンには負けたのである。同時に終楽章では編成に見合うだけに十分なダイナミックスを準備しているのだから、シューマンの交響曲らしからぬ熱さもある。それでも例えばロスフィルのような金管が響く訳ではなく、なるほど欧州の趣味ではそれほど熱い支持は得られないかもしれないが、十分に会場は湧いた。勿論シューマン解釈へである以上に管弦楽への絶賛がその拍手にもよく表れていた。その意味ではより洗練されたクリーヴランドよりは湧きやすいかもしれない。

それに関してはやはりフィラデルフィアからのネット中継の効果が大きく、少なくとも奏者の名前や膨大な量の情報がフランコーネの指揮者や演奏者の口から齎される威力は、それが英語であることを含めてとんでもない広報効果となっている。ルクセムブルクに集まった何人がその放送を聞いているかは分らないが、遠来の客にしては身近に感じさせる効果が大きい。つまり演奏会などの催しにしても、こうした双方向のコミュニケーションがインターアクティヴな新たな形で生じる可能性は、まさしくベルリンでツェッチマン支配人などが行おうとしていることなのだ。

幾らかそれに関連して独仏文化TV局ARTEが正式なアンケートをネットで取っていたので返答した。質問項目以外に、「あなたが局長になったら」という問いに、「独仏国境領域での更なるダイレクト中継、最後ではなくてバーデンバーデンの祝祭劇場から、例えば復活祭」と書いたので、局がベルリンのフィルハーモニカーのメディアパートナーになって今後の具体策を出すときの後押しになると思う。兎に角なんでも機会があれば少しの時間を割いてでも意思の表明をしておかないと始まらない。インターアクティヴの形は数があり、文化におけるそれはまだこれからより具体的な成果になってくると思われる。(終わり)
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参照:
荒野に生えた葡萄 2005-04-29 | 歴史・時事


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# by pfaelzerwein | 2018-05-28 19:05 | 文化一般 | Trackback

ビッグファイヴの四つ目

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ルクセムブルクでのフィラデルフィア管弦楽団演奏会は私にとっても大きな出来事だった。昨秋のクリーヴランド管弦楽団とはまた異なる体験だった。後者はアメリカのそれとしては変わり種で「細いピンセルで」とホームグラウンドの会場の音響ゆえに決してグラマラスな管弦楽にはならないのだが ― 恐らくジョージ・セルの芸術はそうした環境によって形成さられたのだろう ―、それに反してこちらはゴージャスそのものでフィラデルフィアサウンドとして知られている。要するにビッグ5の中でも最もアメリカ的と考えられているが、私の関心のありどころはそのサウンドにあった訳ではない。

それに関してビッグファイヴの解説をプログラム冊子で試みている。書き手の見解では各々の管弦楽の創立年代を併記すればその特徴が浮き上がるとなる。ニューヨーク1842、ボストン1881、シカゴ1891、フィラデルフィア1900、クリーヴランド1918となる。つまり輸入?音楽のその目的に敵った編成、形態や機能がサウンドを形作っているという事になる。欧州のベルリン1882、アムステルダム1888をそこに並べてみるとどうか?欧州の場合は創作活動の場と演奏実践の場が重なり影響し合うので変化が伴うが、アメリカの場合は輸入文化としてある程度固定される可能性が強い。さて具体的にはどうか。

だからメトで活躍のネゼセガンの指揮への期待でも、エレーヌ・グリモーを聞きたかった訳でも無かった。もう少し複雑で、ムーティやレヴァイン指揮でその録音を聞いていて、最近中継放送で聞き始めたこの管弦楽団の機能性と現在の水準を確認したかった。だからネゼセガンのような力のある指揮者が常任として振っている事が欠かせなかった。その意味でバーンスタイン指揮でしか知らないニューヨークのそれは未だに確認できていない。

肝心の実力であるが、演奏旅行という事で一曲づつ少なくとも管楽器はベストメンバーが配された豪華さで、一曲目のブラームスや休憩後のオルガン協奏曲にはバス―ンのマツカワが出ていなかったので残念に思っていたぐらいだ。ダニエル・マツカワはその楽器の名人のようで、フィラデルフィアからの放送でも最も多く名前が発せられる。だから残念に思っていたが、二曲目よりも編成の小さなシューマンで登場となった。そしてこの名人が吹くことの意味を確認した。この人の名前を知るようになったのは放送を聞くようになってからだが、どうして頻繁に名前が挙がるのかはシューマンを聞けば一聴瞭然だった。この人が入ると管弦楽の響きが変わるのだ。その吹いている様子を見ているとバスラインをコントラバスやチェロなどと一緒に支えている。金管と違うのはその音色で、一吹きすると合奏の弦楽器の音が変調する。

まさしくゴージャスなフィラデルフィアサウンドになる。そして放送で聞き取れなかったのはやはり音の揃ったコントラバスの締まり具合で、キリル・ペトレンコが先頃の「指輪」ツィクルスの特に「ヴァルキューレ」で聞かせたような触れたら切れそうなそれには到底至らなくとも同じ方向であり、クリーヴランドのあの乾き切った音ではないのも、正しくバス―ンが綺麗に重ねているからだ。オーボエのリチャード・ウッドハムズも立派な音が出ていた。フルートのジェフリー・カーナーも良かったが、クラリネットのリカルド・モラーレスがマツカワの横で芯のあるクラリネットを響かすという腕利き揃いだ。モラーレスも ― レヴァインに悪戯されていないのだろうか? ― 、彼らの名前は放送で知っていてもこうして写真とHPを合わせて初めて顔を認識した位だが、それらが一曲目ブラームスでは休憩をしていて、中入りからトリとなると揃ってくるのだから千両役者勢揃いの横綱相撲のようである。

そこからすると一曲目のブラームスの協奏曲では、前日ブルッセルでは「フリーパレスティナ」の抗議行動で演奏を中断・再開しており、この日も指揮者登場前にフィルハーモニー支配人が一言述べたように、聴衆も演奏者も一寸した高揚と緊迫感があった。ネゼセガンに期待される正確な読みと指揮技術はその通りだったが、若干ピアノをマスキングしてしまうぐらいな音量を出していたのは残念だった。メムバーもプリンシパルが若干落ちた編成で演奏していて、音量コントロールが儘ならなかったとも思われない。少なくともグレモーのあのピアノにはもう少し丁寧に合わせてもよいと思った。言うならばそこがこのメトの次期監督が、キリル・ペトレンコ指揮の「ばらの騎士」のカーネギー会場で習わなければいけないと指摘されるところだろう。もう一つ危惧していた二楽章などでの合わせ方は、これはよく辛抱していたと思う。三楽章はピアノもコントラストが付いていたのでとてもうまく運んだ。違う会場で、合わせものを演奏する難しさもあったかもしれない。つまりネゼセガンがそこまでコントロール出来ないのか、若しくはペトレンコのブラームスの様にそこまで合わせようとしないのかの疑問は指揮者に向けられるもので、管弦楽団の技術的な問題とはまた異なる。(続く



参照:
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-05-27 19:16 | 文化一般 | Trackback