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カテゴリ:女( 162 )

脚光度ピカイチの女性

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放送局のサイトを覗いていると初夏に出たCD批評があった。昨年のフランクフルトでのオペレッタ「メリーウィドー」の生録音だった。六月に発売されていることは知っていたが、そもそもライヴ録音ものには興味が無いのですっかり忘れていた。しかし先月末になって、2021年からバイロイトの音楽祭に女性指揮者が登場と告げられて、一体誰かという話題になった。その多くはヴェテランの女性指揮者でハムブルクの音楽監督になっていた人を挙げる。経歴的には間違いが無い女性である。それどころかミュンヘンではキリル・ペトレンコの代わりにヴァークナーを指揮していて、地位としては全く文句の無い人選である。しかし、その指揮の刻むリズムやら、明らかに才能が無いのである。

次に挙がっているのが、フィンランドの指揮者で、こちらは昨年の同様の記者会見に同席していたという事で、予想されている。しかし肝心のヴァークナー指揮の経験が薄いという事で、一体何をしにそこに居たのか分からないというようにも書かれている。恐らく可能性は薄いだろう。

しかし話題性という事では上のオペレッタを客演指揮したヨアナ・マルヴィッツに勝る人は居ない。その名前からポーランド系だろうが、ここ一二年の脚光度はピカイチだった。このシーズンから、バイロイトに最も近い大都市ニュルンベルクの州立歌劇場の監督であり、人気地位共に急上昇の女性指揮者である。

昨年の公演を聞いた記憶では技術的には課題があるとは思われたが、今回編集した生録音の抜粋をYouTubeで聞くと、修正されてある事もあるが、記憶以上に素晴らしい。客演であり、フランクフルトの座付管弦楽団ではどうしても音楽表現が至らないところもあったが、二三回の収録で修正していったのが伺える。その後に生で聞いたのだが、その時は全てが上手く行かなかったのもこの程度の楽団の常としては当然だったかもしれない。音楽監督であれば人員も調整できるのだが、それは客演での制限あっての成果でしかなかったろう。

こうして録音を聞くと、最早バイロイト初の女性指揮者としての実力には疑いようがない。元祖音楽監督ティーレマンでは出来ないことが沢山出来るのは間違いない。ざっと才能の無いドイツ出身の男性の指揮者を見回しても中々これだけの指揮をする人は居ないので、脚光を浴びていたのは当然と言えるかもしれない。人事権は、その人達にあるので、バイロイトの件は憶測の域を出ないが、どちらにしてもこの人がその人達の人事権では左右されない立場になることは自明だ。

YouTubeの連続演奏で殆ど聞けた。AMAZONでは19ユーロで出ている。二枚組でもう少し安くなってくれれば、記念に買っておいてもいいなと思うぐらいだ。ベルリンの放送局での評価も大変高い。但し、そこでも語られているように、演出のクラウス・グートの各人へのキャラクター付けなどが分からずに、音だけでは分からないところがあるとするのも正しい。残念ながら映像制作ではないので残念だが、映像であると今度は更に音の編集が大変になっただろう。

この作品の名録音として、シュヴァルツコップの二度にわたる録音がレファレンスとして論じられていて、それとは異なるというマルリス・ペーターセンの歌も演出に依存する。しかし、その比較で聞くと、シュヴァルツコップの鼻へと抜けて殆どボカリーズになって仕舞う歌唱とは異なり歌詞が確りと出ていて、最近の歌手の例えば「最後の四つの歌」のディアナ・ダムローなどと同じで如何に技術的に優れているかが分かる。嘗てシュヴァルツコップやフィッシャーディースカウなどが教師として君臨していた時には、まさか今の様に現代的な歌唱技術を保持した歌手が出てくるとは全く想像もつかなかった。相手役のルーリ・サモイロフも大健闘していて、素晴らしい。

マルリス・ペーターセンは、月末の合唱交響曲、11月のコルンゴールト、来年4月のフィデリオと当分聞き続けることになる。2016年の新制作「ルル」時に殆ど卒倒してしまったようで、ペトレンコが「彼女の言うことはもう何でも聞く」と語っていたが、その音楽性は全く以ってキリル・ペトレンコが求めているそのものであって、フィデリオが特別難しい課題とされる意味も更に分かって来た。

しかし、彼女の話題を扱ったりフェースブックにリンクを張っただけぐらいの付き合いしかないのだが、なぜかオパーフェストの時に石階段下の暗闇で写真を写していて、視線を特別に貰ったのはなぜだったのだろう。SNSだけで特定されることは無いと思うのだが。



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
by pfaelzerwein | 2019-08-08 04:08 | | Trackback

怖気づいた伊人の実力

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デンマークからの放送のストリーミングはとても音質が良い。そして評判の演奏は最初の「仮面舞踏会」序曲から程度が低かった。少なくとも私が長く所持している全曲盤の程度に遠く及ばない。制作と生の違いではなく所謂アインストュディールングが成っておらず、指揮者が何も分かっていない。今調べるとブロムシュテットが指揮していた楽団と同じようだ。つまり指揮者が悪いということになる。

指揮者は私自身スイスの作曲家から推薦されて初めて知ったファビオ・ルイージという名のイタリア人であって、二月始めに初めてそのオペラ指揮を聞く予定にしていた。しかし、指揮者のキャンセルで叶わなかった。昨今は、自分のために誰それが指揮してくれると確信している人がいるが、私がチューリッヒのオペラの初日に出かけると知って、どうもこの指揮者が怖気づいたようだ。そう信じて疑いが無いが、そもそもイタリア人指揮者などを信じるのがいけない。しかしまだファビオから取り繕うメールは入っていない。

それにしてもネットでの反響からしてこの程度の放送管弦楽団よりもN響の弦が冴えないとすると、明らかに二流以下である。その元首席指揮者ブロムシュテットのキャリアが示すように、大体バムベルクなどと同程度の実力であることは三小節も聞けば玄人なら直ぐに分かる。なるほど日本ではミュンヘンの放送交響楽団が世界屈指の楽団のように扱われている意味がこれで分かる。要するにマナスルどころか、六千メートル級の無名峰でも麓から見ればチョモランマと変わらないように高く見えるという状況らしい。感動する聴衆には何も罪は無いのであって、いけないのはジャーナリズム不在である。

それにしてもルイージという指揮者は思っていたよりも程度が低い。これならブロムシュテット指揮の方が嬉しい。間違いなくフィリップ・ジョルダンの方がまともにコンサートを振れると思う。その通り、そのキャリアの地位でもう完全に追い抜いている。あれほど才能の無い指揮者と思ってもやはりルイージよりは良いだろう。昨年ルイージを聞きに行くと言ったら「全然駄目」と吐き捨てた彼の指揮をよく知っている友人に来月再会することになっているが、これはその話で大変盛り上がりそうだ。

勿論ジャーナリスムと言ってもこのように単刀直入に元も子もないことを書くと誰も特に感動したがりのターゲット聴衆には全く届かない。しかし、先日のランランの新譜発表を受けてのFAZマガジンのようにあまりにも鋭く真実を書いてしまうと誰も反論できなくなる。つまり、その新アルバムはピアノを習い始めたシナの四千万人の若者のための曲集で、その中で最も難易度の高いメンデルスゾーンの「糸紡ぎ」の曲でも、才能の無いピアノの学生でも弾け、嘗てのようなアクロバチックなピアノを弾かないようになったとだけ客観的な事象を書けば全て事足りる。一体ものを書いて糊代を稼いでいる者がその程度の綴り方も出来ないでどうしようというのだ。それにしてもデンマーク語の子音の朝鮮語のような音やシナ語のようなイントネーションはなんだろう。スェーデン語の方がもう少し深く発音してこのような弾く子音は少ないように思うのだが、馴染めないと思った。

木曜日の文化欄にベートーヴェンフェストのニケ・ヴァークナーの発言が載っている。ミュンヘンの音楽大学長だったジークルリート・モイザーに関しての発言で、一度は学内での女性暴行で有罪が確定したピアニストにフェストに参加を計画したが、市民の反対に合って取り止めたことについてである。それどころか新聞に「職業女性は天使ではいられない」とMeToo運動を真っ向から否定するような発言をしていて、それについては撤回しない一方、フェスティヴァルのことを考えてもうこれ以上は発言しないとしている。要するにお友達のモイザーを擁護しているのだろうが、この優柔不断な態度は全くよくなかった。音楽関係でも歌手のエリザベート・クールマンなどは、指揮者のグスタフ・クーンの復帰を強く糾弾している。そしてドレスデンのシュターツカペレにはガッティ―が登場する。

ヴァークナー博士のような見識があっても、やはりキャリアーなどとは全く関係の無い女性たちと同じで、また「使われるものの悲哀」などは全く分からない人なのだなと思う。MeToo的なポピュリズムとは異なるコンテクストで事象が見れないとすると、もうそれは仕方がない。ボンでの経営収支も悪くなっていて、何処となく黄昏感が靡く。そのように思うともう一人のパスキエ女史が昨年の「ヴァルキューレ」で最後まで拍手していたのにも拘らずもう一つ冴えなかった表情を思い出す。何か不満でもあったのだろうか?



参照:
都市文化を再考する 2019-02-04 | 文化一般
いつも同じことの繰り返し 2017-12-07 | マスメディア批評
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
私にとって、それは神だ 2017-11-27 | アウトドーア・環境
by pfaelzerwein | 2019-03-15 21:10 | | Trackback

陽の当る女、影の無い男

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週末はストリーミングで多くを経験した。日本語SNSに目を通すと、「CDでなければ判断しない」という極論まであって驚いた。確かに半世紀前の日本ならばLPで云々謂う人はあったかもしれない。そしてレコード芸術という名の雑誌まである国でどうしてこうした言説が今でも生じるのか?実は私自身も知らぬうちに囚われていて、音楽家のメインレパートリーという表現をキリル・ペトレンコにも容易に使っていた。これも良く考えると、メディア産業がカタログのレパートリーからこの人にはこれというような区分を付けていたころから生じた概念だと気が付いた。なるほど苦手な作曲家やエ ポックがあるとペトレンコ自身も語るように、またロシアものをという必然性はあっても、例えばシェーンベルクをメインにするとかいうようなカテゴリー付けはカタログ分類だと気が付いた。レパートリーと芸術的な活動は密接な繋がりがあっても、そこから発生する活動の広がりこそが重要なので、一枚のディスクに収まるようなものではないということだ。

「レコード芸術」という言葉がある通り、それは独立した芸術であって、必ずしも音楽家の芸術的な活動とは一致しないということが半世紀前から常識として認識されておらず、今こうしたストリーミングでそうした再現芸術からまた切り離したところでのライヴ感を居ながらにして味わうことが可能となっている。嘗てのラディオ中継とも変わらないところもあり異なるところもある。しかしここではそれ以前に芸術的音楽的活動をどのように捉えるかという更なる根本へと遡る。

日曜日は半分忘れかけていたハイティンク指揮のブルックナーの四番交響曲の生放送を見た。前回はガーディナー指揮で情けない放送になっていたロンドン交響楽団の演奏会だ。なんといっても第一ホルンを吹き切った若いケティ・ウーレィーがアンサムブルを支えていて、先日のベルリンでのデングラーに続いて管弦楽の芯を作るホルンの技を堪能した。全くその年齢も性別も経験も異なり音楽性が違うが両者ともゲストの立場でとても大きな影響を与えていた。重なる音程関係の基礎になるという意味では、ベルリンで有名なソロホルン奏者ドールなどが浮いてしまいかねないのだが、特にこの若い女流のそれはこの交響楽団の演奏法に合わせているような器用そうなところを聴かせていた。基本は独特の弦合奏にあると思うが、面白いことにハイティンクがここでは独伝統配置で演奏させていた。益々、コンセルトトヘボーやトーンハレやBRでは曲にもよるかもしれないがより安易な楽器配置をさせているのだろうかと思った。見事な弦合奏にミュンヘンのコンクールから出てきたこれまた女流のコッホのオーボエなどが綺麗に合奏して、上手に合わせるそれがまた聴きものだった。

前半のモーツァルトの協奏曲はベルリナーフィルハーモニカーの小編成に適わなく、交響曲四楽章では底力と音響の広がりがブロムシュテットのヴィーナフィルハーモニカーや自身の振ったトーンハレの鳴りには適わなかったが、それ以上に美しい緩徐楽章があった。この管弦楽団の美点はいたるところに輝く。チェリビダッケ指揮以降聴いていなかったが、今年はチャンスがあると思う。ドイツでの公演回数も多くて売れっ子楽団であるが今まではそのプログラムなどで食指が動かなかった。

件のウーレィはコンセルトヘボーの首席に決まっているようで写真は見たことがあったが、ロンドン交響楽団で吹くとは思っていなかった。コンセルトヘボーに行けば行ったでそれに合した音を出せそうで、深い音も出していたので、若干細い感じはしたが、芯がある音であれだけ吹かせれるならば、より合わせた音を出したとしても問題は無く吹けるのではなかろうか。

ここでどうしても考えてしまうのが、試験で本番にアムステルダムでも何回か乗っていた筈だが、その時はあのMeTooのガッティ指揮だったのだろう。いづれにしても彼女があれだけ吹ければ、コンセルトヘボーが契約するのは全く不思議でもなく、上手く採れたなと思う。

ドレスデンからのシュターツカペレドレスデンのプログラム発表中継を見た。最初から場所もVWの車両引き取り社屋で、口上で多様性を強調され、真ん中に陣取る音楽監督は檻に入れられた飼い猫のようだった。メストがツアー同行など完全に断ったようだが ― 何か一悶着あったか? ―、あれだけ包囲網があれば本人の自爆を待つだけだ。「グレの歌」の20人を18人に減らされてとか愚痴っていればよいだろう。その男がシューマン交響曲全集などをソニーから出すといい、如何にも今更のようなことを口に出し3Bとか幾ら話しても影が薄い。まさしく去勢されたような「影の無い男」だ。



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2019-03-12 06:00 | | Trackback

謎多い麗女が決めるもの

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ネットを見ていると、アカデミー賞の話題のようだ。関心が無いので流していたら、バーデンバーデンでデズデモーナを歌うソニア・ヤンツェヴァが何かを呟いている。どうもアカデミー賞でベストドレッサー賞を貰ったようだ。映画女優でもないのでオスカーとか意味が分からないが、先日来復活祭のマガジンを見て、メトからの声を聞いて、どうなんだろうと思った。音楽の世界もやくざだが更にやくざな映画界となるとなんでもありなのかどうか?

ブルガリヤの人で個人的には彼女より幾らでも綺麗な女性を知っているが、15歳でモーツァルトのオペラに出合って、ピアノを普通に弾いていた少女がオペラに目覚めたという。それを母親が直ぐに全面協力したという馬鹿話が大きな実を結んだようで世の中分からない。ノルマとかとても厳しい声の役柄をこなしていて、自然にそれが出来ているというのが金の取れるオペラ歌手のようだ。そこに天性の直感で役作りをしてしまうというぐらいでないと、あれだけ若くして世界の頂点には立てないのだろう。

デズデモーナの役作りで、オテロなんてか弱いよそ者よとなる。これまた自己決定の強過ぎる女を歌うようだ。相手役のスケルトンの性格の弱さからすると完全に女性上位の舞台で、そのような音楽をメータが指揮することになる。そして、68年後のフリーセックスから現在のMeTooを通して、謎の多い魅力的な女性が征服されたいのかそうではないのかを自己決定するものと言われればご尤もとなるとインタヴューは締めくくっている。

ユロウスキ―指揮のベルリン放送交響楽団の演奏会があった。初日は放送されたがアルペン交響曲の頂上で中断した。放送局の言い訳のアナウンスが如何にもドイツの小役人らしい。なんと「デジタルの時間を調整していなかったので、その通り予定の次の番組へ」とぬかした。あれは放送事故扱いにならずに、つまり予定通りの生中継だったのか?そもそも新曲が18分と長く続き、そのあとも無理に日本公演の準備に押し込んだモーツァルトの協奏曲が演奏された。休憩を入れて優に2時間15分程の演奏会となった。ジャンダルムマルクトの会場にいた人はお得だったに違いない。

次期ミュンヘンの監督になるオペラ指揮者として頂点を目指せる指揮者の日本公演が成功してくれることを望むが、日曜日の諏訪内が弾く実況録音の放送日程までが変わったことで、そこに何か疑惑を抱かせるようなことになってとても残念である。

日本公演のプログラムに関しては既に言及して、足代顎代節約のためにアルペン交響曲を持っていけないのは分かるが、更に日本で人気のありそうなアンスネスと称するピアニストを込みで売り込むのが徒になりそうだ。初日のその演奏が肝心の放送交響楽団までの足を引っ張っていそうである。実際に放送を聞くとまるで顔面を蒼白にして演奏しているようで、二種類の評が書く通り気持ち悪い感じが強い。アンコールのモンポーで何とかの意見もあるが、それもおかしな演奏だ。一寸同じ国出身の頭の悪そうなフォークトという人にも似ていて北欧風なのだろうか。繕うためにメディアはきっとお門違いのレパートリーでの出演だったのだろうと口をそろえて言う。しかしこれではランランより悪い ― 聞くところによると故障上がりという、全く同じだ。そしてこの曲を持って日本へと向かうということだから、プログラム変更のようだ。この演奏ではミュンヘンの放送交響楽団を凌駕するところではないのは明らかだ。



参照:
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活


by pfaelzerwein | 2019-02-26 03:24 | | Trackback

「私のこと考えてくれて」

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三月のベルリナーフィルハーモニカーの放送予定が出ている。シェーンベルクの協奏曲のプログラムで場合によっては大きな話題になるに違いない。先ずは3月7日(木)初日にラディオ生放送である。金曜日を空けて再び最終日の土曜日に今度はDCHで放映となる。ラディオ放送があるので無理して生で見る必要はないのだが、アップロードされる時期などが確実でないと資料にならないことがある。やはり一週間券をそこで購入しよう。その一週間前のメータ指揮コンサートはその次の週ぐらいにアップされるだろうか。そろそろ復活祭の準備である。ベートーヴェンも考え直し、後期の作品群へと同時に目を向けさせてくれるのも指揮者のキリル・ペトレンコのお蔭だ。

ペトレンコの場合、それをプロジェクトとして差し出すことは無いのだが、オペラも含めて絶えず関心の矛先が明確にあって、私のように並行してお勉強するものには僅かばかりでもその環境に触れることが出来る。嘗て小澤征爾がどこかでオペラを取り上げる前に態々日本語で日本で上演していたのとは一寸違うプロセスだ。とても音楽芸術的に核心を垣間見ることになる。しかしそこに夏のプログラムのルル組曲がどのように係ってくるかはまだ分からない。またトリノで指揮する「英雄の生涯」はこのところのロート指揮のそれやユロウスキー指揮の「アルペン交響曲」のように明らかにリヒャルト・シュトラウスの作品が今漸くやっと本格的に理解されるようになってきた。ユロウスキー指揮の演奏は残念ながら中断されてしまったが、頂上前まででも多くの示唆を与えるもので、指揮者が語っていた本来のニッツェ交響曲的様相は確認できた。時間が空いた時にもう一度の放送までに楽譜を片手に詳しく検証するに値する演奏だった。

ブロムシュッテット指揮のクリーヴランドでの演奏会ライヴを録音した。なぜかスコットランド交響曲のコーダで落ちてしまっていた。余分な繰り返してもしたのだろうか?それは冗談として、その前のメトからの「ファルスタッフ」も録音失敗したので注意していたが原因は分からない。そこでロールデビューするゴルダ・シュルツ嬢は私のことを覚えてくれていたようで、寝起きに一言呉れた。どういう関係にしても「私のこと考えてくれてありがとう」と若い女性に書かれると内心穏やかではいられなくなる。スケベ心で男は皆、「俺に気があるのかな」とかいい加減なことを考えるのだ。なにも舞台で目線を貰う必要などは無い。

結構彼女のこと呟いているのだが普通のあの年代の女性として、おっさんらしきが書いたものなどには興味が無い。それでも昨年彼女が出演していたBRクラシックの番組に呟いて、ホストのノイホッフ氏が反応したことがある。あれは彼女にとっては記憶に残るに十分だったと思う。やはりファンがいて番組に反応するというのは鼻が高く、局にも大きな顔をできる。その二週間後ぐらいに今度はロート氏が出ると呟いていたが、私は放置しておいた。実際番組も聞かなかった。理由はハッキリしていて、ロート氏のドイツ語ならあまり聞いて楽しいとは思わなかったり、一部で囁かれるように「出来る係長のオヤジ」には興味が無い。そもそも人の関心を引こうとしてSNS活動をしていない。兎に角贔屓目なしに彼女の出た番組は良かった。

そのようなことで私が放送を録音して何かに気が付けばコメントするべきだと思っていたのだ。そして何かを書き込む限りは、私の沽券もあり、彼女に為になることを書かなければいけなかった ― また来週二度目のチャンスがありそうだ。しかしそこまでいくとSNS活動も無料の範囲を超える。それでなくても「所属タレント」を多く抱えると彼ら彼女らを追うだけで大変なのだ。それはフィンレー氏やロート氏のように頻繁に反応してくるのは当然で、ペトレンコは隠れているだけで、とても大きなヴォランティア活動になっている。それも私などのように業界の動きが分かっていると、何が不足して何が効果があるか分かっているので無料でこうした人が助けてくれればタレントはとても助かる。所謂ファンクラブのお遊びや自己満足とは異なるところなのである。

それにしてもSNS活動は顔が見えないだけで、場合によっては結構な影響がある。一寸何かが変わったかなと思うのは、ザルツブルク復活祭への書き込みで、あれは結構業界では話題になっているのではないかと思う。初めは一般の反応が大きいかと思ったが誰も興味を以って独英の二面のサイトを見ていない。二か月経過時点で英語サイト700回で独語サイト1400回超え程度である。ざっと見積もって数百人が新演出のマイスタージンガーに興味を持ったぐらいである。そして三分の一ぐらいは業界人ではなかろうかと思う。ティーレマン本人の目にも入っただろう。勿論次期の支配人バッハラーも見ている。話題にならない筈がない。匿名とは言いながら、不都合なことも増えるのであまり旗色を明白にしたくはないのだが致し方が無い。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感


by pfaelzerwein | 2019-02-25 03:45 | | Trackback

「平和を」の心は如何に?

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「ミサソレムニス」最終日を聴いた。ガイダンスにオペラでもないのにも拘らず多くの人が集まった。比較的若い人もいた。私などが感じるのは、ミュンヘンであるから、そのミサ典礼文には馴染んでいてラテン語の知識も教育の高い人ならば楽聖以上に持っていると思う、それでもこれだけの人が何かを聞こうとしている。

音楽会について先ず手短に報告しておこう。先ず管弦楽の編成の大きさと合唱団が全員揃っていることは、情報を聞いており、更に今回の企画からして予想していた。コントラバスを並べて、大合唱団のバスを支えていた。そして歌手陣で驚かされたのはオッカ・フォン・デア・ダメロウで、最初に聞いたのがバイロイトのぶっといヴァルキューレであったが、その後重用されていて、メトでも活躍している。要するに便利ないい脇役さんぐらいにしか認識していなかった。それがどうだろう、コンサートであれだけの声量で、あれだけ細やかな歌を聞かせてくれるとは思わなかった。この分野では今トップクラスの人であると確信した。あの見映えで損をしているだけで、歌唱の実力は素晴らしい。ベルリンでも今後まだ引っ張られると思う。

ペーターセンの歌は難しい歌をこなしていて、重要な切っ掛けを作っていたが声の調子としてはもう一つではなかったか。マイスタージンガーでのダフィート役しか知らなかったブルンズも全然悪く無く、ナズミの低音も良く効いていた。

合唱は、なるほどソプラノの声質が十分に磨かれていなくて、なるほど歌劇場ではそれで通るが、大人数の合唱となると厳しいのだと分かった。考えれば分かるように殆どのオペラのソプラノは少人数の合唱が多く、ソプラノ歌手を差し置いて前に出てくることがそれほど多くは無い。その分、中域が確りしている方がいい。「タンホイザー」日本公演でも批判があったが、それはコンサート合唱団と比較すれば当然で、私がレフェレンス録音としているヘルヴェッヘ指揮のゲントの合唱団などのような特別な合唱団と比較すべきものではない。

その通り私がいつも言っているように管弦楽団も座付であれば、合唱団もアインザッツも更に遅い座付なのだ。どうしてもベルリナーフィルハーモニカーが弾いたらとか、第九はどうなるのかを考えながら聴くのだが、キリエにおいてもトレモロと対照的に必要なところはヴィヴラートを押さえ透明な響きを下敷きにして、クレドにおける情景の色付けやベネディクスなどの歌劇のようになるとこの表情が素晴らしく、あれは座付にしか出ないと思った。反面同じクレドにおいてのキリル・ペトレンコの指揮は遥かに厳しいもので、同時にそこにフォルハーモニカ―の響きを聴くと、とても物足りなかった。合唱もフーガをよくさらっていたが、歯切れのよい管弦楽にはスーパーな合唱団が必要となる。改めてペトレンコの音楽は劇場向きではないと思った。最後のアニュスディにおけるテムピのフィナーレの作り方も本格的な成果はフィルハーモニカ―との演奏を待つことになるだろう。

さてここからが本題である。そもそもこの曲を聞きに行くのに演奏者がどうだこうだという議論自体が誤りではないかという疑問がある。尤もな懐疑であるが、これは楽聖の音楽を考えるときの重要な議論となる。このミサソレムニスにおける完成までの経緯を考えれば見えてくるものがあり、予め言及していたこのミサ曲の形をとった創作が一体どのような作品であろうかという回答にも代わる。

ミサ曲として依頼を受けて、構想を練っているうちにとんでもなく規模が大きくなっていく、その創作の背景を見ていくと、例の第九の殆ど破廉恥な四楽章の意味も見えてくる。それどころかこの曲ではアニュスディに軍楽が出てきて更に平和を祈る。その意味の解説があった。それは一般的な社会情景の紹介つまりナポレオン戦争が欧州に落とした厭戦感でもある。丁度第二次大戦後の世界に似ていたという。大規模な破壊と犠牲者が出て、市民たちはもう二度とと思った社会情景である。

そこまでの説明であると、楽聖が「平和を」と書いた音楽が平和主義者のイデオロギーのための音楽としか考えられない。それならばあの唐突な感じの軍楽はあまりに幼稚ではないかとも思われかねない。第九のそれに負けないほどの馬鹿らしさになる。私はそこまで考えてヘルヴェッへ指揮の全曲を往路何回か聞いて、漸くこの曲の全体のプロポーションとその効果を把握できるようになった。正直ほっとした。つまり楽聖がここでこのような音楽をどのように挟んで次はどう、そして最後はこうといった設計図を作りながら細部の叙述法を確認していくということになる。それを裏付けするような逸話がガイダンスで出たのであった。(続く



参照:
腰を抜かすような響き 2018-12-30 | ワイン


by pfaelzerwein | 2019-02-21 23:52 | | Trackback

決定過程を明白にする

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高速ネットが復旧した。電話を掛けてから数時間である。大組織もやればできるではないか。クレームの状況説明中に電話が途中で切れたものだからどうするだろうと思ったら調べてくれたらしい。先ずは助かる。こうなるとミュンヘンから午前様で帰宅しても早朝五時にはモニターの前に座って録画準備しなければいけない。それを切っ掛けで苦情したのだ。

その映像で私自身はどうかなと思ったがカメラの視角には入ってなかった。少なくともユジャワンの出番の時にはである。肝心なのは並びに座っていたフライイング拍手につられた時だが、その音は入っているに違いない。その時のペトレンコの表情は如何に。このコンサートの全編はラペリとフランツシュミットの曲で可成り芸術的価値は高い。是非全編を聴く若しくは観てみたい。

恒例のようにミュンヘン行の準備をした。先ずはヴィデオ資料と楽譜をタブレットにDLした。移動中に何回聴けるだろうか。燃料は127セントでそれほど安くはなかったが、よし。エンジンオイルも250㏄ほど足しておいた。今回のミュンヘン行で冬の市内への走行は終わり、次回は七月である。距離もあるために先ずは何とか無事に往復したい。余談だが、ルクセムブルクの帰りの記念撮影は未処理になったようだ。駐車中の車からの撮影であり、あまり綺麗に映っていな可能性が高い。数週間経ているので先ずは解決だろう。減点にはならないがブレーキの掛かりが悪かっただけで、何十ユーロか取られるだけでも腹立たしい。

今回はコンサートなので始まるのは20時だが、ガイダンスがあるので、結局早めに車庫入れする。18時から価格は夜間料金なので、そこに合わせる。そこから買い物も済まして、駐車料金も払ってから、劇場である。終演後21時半に車を出せるかどうかだ。その時間ならばなんとか居眠りにならない。

出かけるのが13時過ぎになるので、午前中は仕事も出来る。ゆっくりブランチを摂れる。問題は曲をもう一度通してみる時間があるかどうかだ。そのためには、お弁当もある程度準備しておきたい。肉屋で調達するか、さてどうしよう。

その「ミサソレムニス」の二日目にはマイクが入っていたようだ。恐らくバイエルン放送協会で批評をしていた人が確認したということで録音に踏み切ったのだろう。独立放送局といえども公的機関であり公的な資金を使うには役所的な決定過程がはっきりしていなければいけない。そもそものこのコンサートが放送対象になっていなかったのは放送楽団付の合唱団が存在するからで、なぜ他所の合唱団の演奏をとなる。だからその芸術的な価値を判断した上でしか決定できなかったのだろう。三日目も同じように録音すれば編集も可能であり、貴重な記録となる。決定過程さえ明白ならば評議委員のAfDの政治家が何と言っても問題とならない。ドイツの放送局の決定は全てそのような各政党の代表者が視聴者の代表として評議をする。

前回ミュンヘンへの途上ヴンダーリッヒの娘さんの声を車中のラディオで聞いた。彼女にお会いしたのは十五年ほど前のことだから、ピンと来なかったが、声の感じが確かにそうだった。但しあのころは娘さんで、流石に今は声が落ち着いていた。名前を聞いて気が付いたのも、フリッツ・ヴンダーリッヒ共演の録音も出てきていたからだが、番組自体はスイス出身のリサデラカーザの記念番組だった。そもそも名歌手の名前からスイスのチーズで有名なエムメンタール地域の出身とは気が付かなかった。リヒャルト・シュトラウスに直接見出されたのも知らなかった。アラベラの声はリサデラカーザだということになるらしい。ヴンダーリッヒの娘さんとお会いして話が出来たのもそもそものお里がプファルツであったことからで、確か当時はミュンヘン在住だったと思うが話しのネタがあったからだった。



参照:



by pfaelzerwein | 2019-02-20 20:20 | | Trackback

ハムブルクの夜の事

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久しぶりに峠まで走って下りてきた。先週末に為せなかったから日にちが開いた。開くと不安になる。寒さが緩んだが、それでも山道は薄く白いものが残ったままだ。峠に近づくと雪の上を走った。それでも気温が摂氏二度まで程で低い方で安定しているため凍っていないのがよかった。ゆっくりしか走れなかったが、下りてきたら汗を掻いていた。先ずはそれでよい。週末土曜日は外出でまた走れなくなるので、その分まで走ろうと思えば毎日休みなく走ることになる。無理をする必要はないが、気持ちが上向くかどうかだけである。

先日注文したジーンズと靴ベラをようやく開けた。一週間ほどおいていた。開けてみるとネットの写真よりも青かった。返品しようかどうか考えている。中々ネットの写真と実際の色が合わない。もう一度陽の下で見てから判断しよう。

靴ベラは今までは航空会社のおまけについていたプラスティックを使っていたが、先日無理に捻じ曲げて折ってしまった。家には金物の長いものを置いてあるが車に一つ置いておかないと不便なことが多い。そのために購入した。こちらは思ったよりも大振りだったが使いやすそうだ。

先日ミュンヘンの帰りには、行きに見当をつけていた道路の名前をナヴィに入れると行きと帰りを同じ経路で街を出入りできた。具体的にはアウトバーン八号から旧市街への経路である。旧市街へは、道標もあり、問題ないのだが、帰りはいつも迂回をさせられる傾向にある。過去から何十回と旧市街に出入りしているが今回のように全く問題なく脱出出来たのははじめてだ。その道路名もヴェルディシュトラーセでピッピングシュトラーセとの交差点を目指せばそのようにナヴィが導いてくれた。まだ何回も往復しないといけないので少しでも短絡出来るのは嬉しい。

ハムブルクの夜の事を書き忘れていた。劇場に入る前から気にしていたのは食事のことだ。初日はエルプフィルハーモニーのホテル内で済ませた。二日目の劇場は、街中なのだが、引けるのが遅い。これはこれでと探してもいたが、実際に下見をしてみると適当なところが見つからなかった。そこで劇場の案内のお姉さんに聞いてみた。というのはプログラムにイタリア料理が宣伝してあってその名もフォアデアオパーとかだったので、いいのかなと思ったからだ。そして聞いてみると、イタリアならば他にも横の筋を入って行けばあるよと教えてくれた。実際に探してみると中々開いているところがなかったのだが、駐車場の方に近いところにあった。

何を食したかはなぜかもう覚えていないが、そんなに悪いものではなかった。きっとサラダ類だったと思う。ビールを飲んだ覚えがある。記憶が不鮮明になるほど飲んだわけではないが、なによりも印象に残ったのは隣の机の若い女性だったからだ。それでもオペラ公演のことを忘れていないのはメモをしていたからに他ならない。しかし帰りには僅かなアルコールゆえかホテルへの道を間違って二十分ほど余分に走ったかもしれない。

何がそんなに興奮させたかというと、隣のテーブルでこちら側を向いて座っている彼女には直ぐに気が向いた。向かい側にこちら側に背を向けて座っている女性と喋っていたのはロシア語だとは分かるのだが、ウクライナ語との差は分からない。サンクトペテルスブルクのロシア女性とは暫く一緒に行動していたことがあるので何となく感じが分かり、またウクライナ女性も現に口説いているので、なんとなくその感じの違いを推測する。

そんなことでちらちらと彼女の表情を見ていたら、彼女がこちらのことを顎で指して、背中を向けている女性に伝える。一寸こちらを向いてというのがあって、更に耳を澄ませているとドイツ男性はという愚痴になってきた。そうだろうなと思って聞いていたら、店の者に「上に行くから」と言い出した。これは余程嫌われたかなと思って、凝りもせずに「上の方が気持ちいいかな」と立ちかける彼女に声を掛けたら、「どう、あなたもいらしゃいよ」と誘われた。

そう来るとは思ってなかったので「イヤー、それはありがとう」と重い腰を上げなかった。正直上の雰囲気も分からないので躊躇した。そして階段を上っていく彼女のお足もとを下から見るとなんとあの寒いのにミニスカートなのだ。これは気が付かなかった。最初からおみ足に気が付いていたら自制心無しに着いていくところだった。なにもチャラチャラした女性ではなく、ウクライナ女性に比較的あるような一寸知的な表情のある女性だった。横に掛けてあった彼女のコートも極真っ当な感じの学生のような装いだった。そして上階も出がけに見ると、彼女が階段の上でこちらに背を向けているのは、なんでもない健康なスペースだった。急に僅かなアルコールが回ったのを感じて店を出た。



参照:
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2019-01-30 04:05 | | Trackback

冷え性にならないように

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燃料を入れた。満タンではないが、45L入れたので余裕でルクセムブルクを往復可能。喜ばしいことに、前回のミュンヘン往復に比較するとリッターあたり二割程安い。実は価格を見ながら週明けでの月曜日でもよいかと勘違いした。ハムブルク行ばかり気になっているからだ。その前の日曜日の往復に必要だ。月曜日は満タンにしても往復不可である。それどころか移動を考えると二度の満タンが空になるかもしれない。結構な額である。それにホテル二泊。まだ食事のことは考えていない。

夜になってから切符を売ったおばさんからメールが入っていた。それによると、「売ってもらう公演は18時始まりだが、受け渡しのあなたが行く公演は19時始まり、早過ぎないでしょうか、取りに行くのはいつでもいいからどうでしょう」と書いてよこした。これを読んでお会いするのは若い娘ではないと確信した。だからこちらももう少し打ち合わせを書きたいと思っていたが先ず返事に「ご心配なく、大抵地下駐車場に早めに入れて、ガイダンスを聞きに行くことがあります。数日前にリメインのメールを貰えば、お互いに足元が冷えないように携帯番号をお知らせします。」と書いた。

恐らく、日時の誤解がないかとか、色々心配になったのだろう。こちらも当日に売り渡せないとただで放出してしまう可能性すらあるので確実に受け渡すことが肝心だ。冷え性にならないようにで笑いが取れたか?お互いにその気になれば確実にと心配になるのは当然なのかもしれない。勿論同じように都合するならそうした人に売る方が嬉しい。実際、ポータルの決まりがあって、「額面と証明の可能な手数料を加えて売却」とあったから、その購入確認メールを転送しておいた。それで十分だろう。未知の人と売り買いするのに不明確さがあってはいけないが、手渡しするのに細かな手数料2ユーロとかどちらでもよい、そんな話しではないと思う。

旅行の準備だ。先ずは、日曜日のためにクラフトのティムパニ協奏曲と自作自演のウェストサイドストーリーダンスズの音源を落とす。更に「春の祭典」のハムブルクでの録音と「影の無い女」を加えてタブレットにコピーする。また翌週に備えて帰路に車中で聞くベートーヴェンのハ長調交響曲をブレーメンでの演奏から、それにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲イ長調、まだまだ道中は長いのでメシアンではなく「フィデリオ」全曲を加える。最後のはベーム指揮のドイツェオパーでのフィルム。楽譜は「影の無い女」、ベートーヴェン二曲、モーツァルトをタブレットに、「春の祭典」は手持ち。

日曜日もパン屋がないのでブランチから夕飯までを計画しておかなければいけない。つまりお弁当である。現状況からすると握り飯になるか。帰宅は11時半ごろか?ヌードルでも食して、翌月曜日に備える。週明けに肉屋が開くので、それも考慮して、燃料を満タンにする。ハムブルク行はルクセムブルクから帰宅してからの事になる。



参照:
売り時にオファーした 2019-01-05 | 生活
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事


by pfaelzerwein | 2019-01-05 23:21 | | Trackback

血圧急上昇の晩夏

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胸が少しパクパクしている。最近は、この季節の変わり目の為が、心臓に負担が掛かるような気持がするのだ。そこにどうしても血圧に影響する新事実を知る。口説こうとしていた女性が、大学生でなく、ギムナジウムの生徒だと分かって血圧が上がった。なにも急いでどうこうの心算は無かったのだが、年齢からすると大学生の筈なのだが、まさかと思った。流石に年齢までは質せなかったが、あとで考えるとドキドキした。流石にギムナジウムの娘を口説こうとは思わないが、実際にそうだったのだ。二十歳前後だとみていたので、そろそろバッチュラーを終えて、グラデュエートにでも進むのかなと勘違いしていたのだ。いい機会を見据えようと思っていたら、少なくともアビトユーアまで一年あることになる。アビテューアのお手伝いぐらいならばできそうだが、ギムナジウムの女生徒はクライミング位でしか付き合ったことは無い。これは困った、想定外である。

夜中にシカゴからの放送を録音しておいた。偶々、アンネ・ゾフィー・ムターのチャイコフスキーの協奏曲演奏だった。最初からストラディヴァリウスの芯の通った最高級ボルドーのような美音が満開だ。そして進むと明らかに遣り過ぎの歌い口が耳に付く、印象させるのはフォンカラヤンなどのチャイコフスキー演奏で、それほど変わらないと思う。キリル・ペトレンコなどが指す「西欧のチャイコフスキー」であろう。フルトヴァングラ―の「悲愴」など歴史的に定着したものであろうが、今こうしてムターの演奏とムーティの伴奏を聞くと我々が期待するようなシカゴの機能的な響きよりも、如何にも脂ぎっていて、フレンチロココへの飛翔が全く期待出来ない。ムターの技術とその音量と貫禄は否定しようがないが、高い金を払って態々聴こうとは思わない。失望まではしないまでもこのようなチャイコフスキーならば御免だ。リサ・バテュアシュヴィリのグァルネリ・デルジェスよりも素晴らしいストラドサウンドで弾いてくれる人はいるかもしれないが、チャイコフスキーが少しでも分かってくるとそのハードルは高くなる。ハイフェッツなども生で聴けばよかったのかもしれない。

ミュンヘンの「マイスタージンガー」三日目が最上席3席を入れて残り17席になった。あとは視界が効かない席だ。サイドのバルコンは出るかどうか知らないが、多くの人は理想的な配役となりそうな舞台上の芝居もしっかりと生で観たいだろう。最上席も中々平土間前方が出なかったのはあのタッパのある舞台を知っているからで、視角を重要視したと思われる。だから「金に糸目を付けぬ、熱心な」私には中継の日のバルコン席の配券となったのだった。

ベルリンでのリハーサルが始まる。私は昨年台湾での第七番イ長調の練習風景を振り返る。ヴィーンで出会いのあった作曲家の述べるコンサート評も交えると、一楽章序奏と主題部のテムピの対比はメトロノーム指定に近いようで、序奏から八分の六ヴィヴァーチェに移りゆくところは最初の聴き所だろう。ヴィデオに残っているのは第二主題へと移るところの舞踏的な経過区だ。キリル・ペトレンコのベートーヴェンはこうした移り変わりの妙が味噌になりそうである。第二楽章のテムポも早く感じられたというので、メトロノーム記号に近いと思う。粘度を下げたボーイングで同時に持続性と軽さを増した演奏とある。この点から更に後半を大胆予想してみたい。

またまた興奮して来た。体調が心配だ。夏の終わりは毎年胃癌症状で体調を壊すが今年は一寸違う。冷たいものの摂取量は減ったが、水分補給量は増えて胃液も薄くなって気分も悪くなった。更に夜中の気温変化から血圧も上がり気味で、とても怖い。



参照:
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2018-08-20 23:37 | | Trackback