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語る価値のあるもの

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ドミンゴ指揮の「ヴァルキューレ」については語る価値が無い。それでも休憩時間のアニャ・カムペの話しは面白かった。面白いのは彼女が完全にゲラ症状を示していたからではない ― 暑さのためか、緊張と緩和で完全に交感神経が逝かれてしまっていたのかは分らないが、その谷間でそのようになる傾向のある人のようだ。役者なんてそうした空気抜きが付いていないとやれない仕事なのだろう。しかし笑い上戸の酔っぱらいでないので、話の内容は情報的だった。一つは、ドミンゴによって相手役のジークリンデとしてメト登場の機会を与えられたことで、キャリアのブレークスルーとなったこと、そしてその恩返しで今回もお手伝いをしたことが語られた。その前の他の歌手の話しにもあったが、リハーサルでもボロボロになっていたようで、何とか本番では破綻を生じないという援護体制だったのだろう。

だから、一緒に歌う歌手仲間との舞台上でのあんうんの呼吸の話しも中心となっていた。それでも有名なプロ野球選手の言葉ではないが「ベンチがアホやから野球できへん」ならず「指揮者があれでは舞台が崩壊する」のを避けるための協調作業にも限界がある。それでも管弦楽ですら如何に指揮者無しでは合わせられないかが良く分かる放送だった。更にあの特殊な蓋付きのピットと舞台の関係を考えるまでも無く、先週ミュンヘンで目撃した指揮者の役割は途轍もなく大きい。だからその指揮棒に合わせるしか大事故を避ける方法は無い。それはただ単に職人的な現場の技術の問題だと無視などできないのが音楽劇場の現実である。

もう一つ、ミュンヘンのオペルンフェストシュピーレでの反響の話題を振られていたが、まさしくそのことが語られた。その賞賛に対して、実際には至る所に傷があったのだが、それは平素とは異なり、練習を重ねるのが難しいというこのフェストシュピーレの特徴だと明言していた。これも興味深い。ネットでの「ヴァルキューレ」への反響を見ても一月の出来とは明らかに違ったことは分かっていたが、それ程傷があったとは思わなかった。

それにも関係するもう一人のヴォータンのルンデゥグレンがコッホのそれとの差異を語っていた。つまり二人の歌手としてのキャラクターの相違であり、声質がヘルデンか、リリックか、という事になる。確かに彼の言葉を待つまでも無くヴォータンはこの人の方が良かったのだろう、一方でコッホのさすらい人はハマり役だと今回再確認した。

オペルンフェストシュピーレが火曜日で終了した。最後の様子が報じられているが、その興行成績と共に素晴らしい。「パルシファル」で華やかに開催を飾り最後を締めた。その様子が公式ヴィデオで流れている。ピットから楽員一人一人が花を投げ込む様子だ。まるで夏休みを前にするセメスター終了の趣で、練習時間の制約のある過密スケデュールの中でよくやったなという感じがする。以前からペトレンコの棒の下では楽員が何とか意志に適うような演奏をしたいという気持ちになると語っていたが、終りが見えてくるようになって、それとは変わって得られるものを出来るだけ得たいというような貪欲な気持ちが各々の楽員に見えるようになってきた。それは技術的なものだけではなく、ムジツィーレンの喜びのような音楽的能力のある人がプロの音楽家を目指す根源的な欲求に近いものだろう。それを引き継ぐとすれば、次期音楽監督がとても通常の能力の持ち主では勤まらない所以だ。

この夏初めて蒸し暑い夜中を越した。バルコンで裸で寝転んでいる方が気持ちよさそうだったが、流石にそれでは風邪をひくので布団で寝たが布団を掛けると少し汗ばんだ。それでも暑い夏と比べると過ごしやすく、ここ数日だけだろう。来週になるとまたカラッとして放射冷却で夜が冷える。湿度が高いと言ってもシャワーの上の温度計で28度、40%程度だから知れている。それでも早く雷雨がやってきて欲しい。

コンセルトヘボーからのお知らせに2011年にブーレーズが振ったマーラーの七番があった。残念ながらMP4でAACの128kBtなので音響は期待できない。監督のガッティーのMeToo問題が出たところであり、さて収まるのだろうか?ガッティーに何かあると来年のバーデンバーデンの「オテロ」指揮が変わる。変わるとなると俄然興味が出て来る。



参照:
就寝不可能な昂り 2018-07-26 | 女



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by pfaelzerwein | 2018-08-01 23:06 | | Trackback

就寝不可能な昂り

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ミュンヘン近郊の氷河湖地域から帰ってきた。九月の宿のこともあるので、敢えて遠回りのメミンゲン経由で帰ってきた。つまりアルゴイ経由という事だ。渋滞を避けて上手く行った心算が最後の最後で、丁度先日スピード違反で撮影された区間で大事故が起こって閉鎖されていた。二十分ほど前のことだったろうか?救急車も聞かなかったがヘリコプターが着陸していた。一キロほどに三十分近く掛かって、遠回りして帰ってきた。バイロイト音楽祭の「ロ-エングリン」の本中継に間に合った。

泊まった宿は民宿のようなとこで、何一つ外に案内が出ていなかった。おばさんが一人でやっていて、掃除も自分でしているので、靴を脱がされた。他所の家に伺うようなものだった。帰りが遅くなって、ベットに入ったのは一時過ぎだった。夜食のところに四人組が遣って来て、顔を見上げるとアニヤ・カムペと目が合って、彼女も驚いたような顔をしていた。反対側のロージェにはいなかったが、何処にいたのだろうか? ー 彼女に面が割れていることは無いが、流石にペトレンコ本人には熱心な人と認識されてきているかも知れない、今回も杉良の流し目ではないが二度も上目遣いされたが、その心理を「アンタも好きね」と読んだ。日曜日に仕事は終わっていることは知っていたので、一寸意外で驚いた。その驚きが彼女にも波及したのだろう。二人の男性の一人は入って来て後姿がヴォルフガンク・コッホだったので確認できた。その奥さんらしきもずっとこちらに顔を向けていた。もう一人の男性は比較的細身で、コッホの作業着とは違いしっかり着ていたので誰か分からなかった。最初は北欧の二人のどちらかとも思ったが比較的優男で、Rがバイエルン方言のようにも聞こえたが、確認できなかった。但しワインのテースティングもコッホよりも慣れているようで、赤ワインのコルクも取り替えさせていた。

しかしコッホだけがしっかり食べていたので、やはり歌手ではないのかもしれない。但しマネージャーでもなくカムペの新しい恋人でもなさそうだった。結局カムペは白ワインに留まるとしてお代わりを飲んでいた。二人とも映像やオフィシャルで知っているの通りの雰囲気で、カムペはドイツ女性としては十分にフェミニンで、コッホもあの通りの朴訥な感じで、仕事に満足した感じでとてもリラックスした感じで楽しそうに食事をしてそれほど声を張り上げずに話していた。二人とも通常のドイツ人に比べると、やはり言葉静かに話すタイプで、決して悪い感じはしない。

その様子を見ながらへレスのお代わりをしていたら遅くなってしまったのだ。一寸飲み過ぎで、車の運転は初めてのところなので、何事も無く戻れてよかった。勿論宿に帰っても興奮状態で充分に眠れなかった。だから帰路は夜中と同じように眠くて辛かった。特に渋滞では停まってブレーキを踏みながら何回も居眠りをしていた。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活



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by pfaelzerwein | 2018-07-26 02:38 | | Trackback

鋭い視線を浴びせる

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先ず断っておかないといけない。今回のプッチーニ「三部作」公演は初日シリーズとは違って木管などはエキストラが殆どで、それも昔この楽団で吹いていた奏者ばかりだった。例えばオーボエは辞めたらしい山賊兄さんで如何にも座付きらしいあまり繊細でない分厚そうなリードを吹き、クラリネットには「ティートスの寛容」でバセットホルンを吹いていた人が入っていた。要するにフェスティヴァルの陣容である。そして女性陣の弦ではなくお兄さんのコンサートマスターとアルメニア人など、あの女性だけの陣容を惜しんだ。それでも中々弾いていて感心した。

キリル・ペトレンコは、その晩も一幕の前にひっそりとピットに入って、ヴィオラと話しをしながら、右手首を振っていた。首だけでなくて手首も疲れる仕事なのだなと改めて思った。いつものように譜面台の楽譜の横にハンカチを縦に二つ折りにして置いてハンカチ王子の準備をしていた ― その後の写真を見ると山賊お兄さんの視線に睨まれていた。指揮者の背後のサイドにあるミニキューブみたいなのはヴェンチレーターのようで結構パウゼに強さを調整していた。

先ずは、一部「外套」で一番問題だったジョルジェッタを歌うヴェストブロックだが大分考慮して来ていた。ピアノで歌えないので、ジークフリートのヴィーンケのようにもう一度ボイストレーニングから遣り直す必要があるが、少なくともバカ声は大分無くなっていた。これならばヤルヴィと共演してももう少し上手く行ったはずだ。なによりもリズム的なパッセージもしっくりして来て、如何にもオランダ女らしいフガフガの口元を大分締めて歌っていた。すると母音も明確に出て来て、小さな声でも深くからの母音と一緒に音が伸びて来る。既にトレーニングを受けているのかもしれない。その証拠にヤホに負けないほど強くペトレンコを強く抱きかかえていたのにその気持ちが良く表れていたと思う。だから余計に今度はリーのバカ声を必死で押さえる指揮者の指示がしきりに出されるのだが、この韓国人には三つのフォルテと二つのピアノの間には何もないらしい。芸術的に程度が低い。どうでもよいが最後に挨拶で両手を頭の上で掲げるのはあれは韓国の儒教のそれなのだろうか、そうしたところにも如何にも朝鮮人の執念深い拘りを感じる。

そのような訳で、コッホとのデュオは見違えるように素晴らしく、押さえた声で高度な音楽的表現に至っていた。脇役で評判の良かったマーンケへの指示の細やかさも、管弦楽の鳴らし方で強調されたリズム打ちが無くなって、そのリズムの行間が更にドラマを語るようになって来ていた。しかし何といってもコッホの最高音でのベルカントの響きは、その管弦楽の筆致に揃って ― 最高音域でのその様々な工夫はプッチーニのベルカントへの一つの回答だと思う ―、まさしくベルカントの、オペラ芸術の頂点がここにあることを示す箇所だった。

二部「修道女アンジェリカ」のヤホのアンジェリカでの歌唱は期待通りで、残念ながら殆ど舞台を見ていなかった分余計にその声の音程など楽譜が手に取るように分かった。またペトレンコの指揮は大分更に進化していたと感じた。テムピがより遅く感じたが、実際にはホリが深くなったからだと思う。若しくは音符の一つ一つがより正確に精妙に演奏されて歌われることで印象は大分変わった。

私が経験した初演シリーズ二日目のようにヤホの声が出ていなかった時とは違って、無理して間奏を強奏することも無く、必要な点描的なサポートをしていた ー 座付き楽団の見事さよ。だからこれ見よがしのppp弱音とかの強調が無かったのは一部ともよく似ている。私などはこういう技術的な聴き方をしていたのでヤホの芸がどこまで泣かせたのかは分らなかったが、最後に錚々たるメンツの中で一人だけ圧倒的な大向こうの支持を受けていたのに効果が証明されていた。中継映像にもあったようにその時「本当?」という表情をしていたが、今度はその真意が良く分かった。

それは指揮から目を離さずに声の出方を聞いていたからだ。その要求が高いのは歌手陣が真剣に指揮を見ているのでも分かっていたが、あそこまで振り別けているとは思わなかった。だからレパートリーを十八番とするような歌手とのリハーサルが辛酸を極めるのは、卒倒してしまったらしいマルリス・ペーターセンの話でも分かっていたが、ヤホの歌がもはや初日の新派からギリシャ悲劇へと変わるかのような、音楽的に磨きに磨かれたものになっていたことと、それと同時に観客がより以上に喝采を浴びせることで、本人には分らないぐらいの完成度を確認したからだと思う。それもキリル・ペトレンコとの共演があってこそで、指揮者パパーノとのそれで満足していたならば全くこの境地には至らなかったと今度は気が付いたと思う。序ながら、初日シリーズで圧倒的な歌声で最も喝采受けたシュスターは調子が今一つだったのかそれとも芸術的配慮から押さえられていたのかそれほどまでには目立たなかった。そのせいかヤホの祝福への視線が役の悪おばさんのように鋭かった。

三部「ジャンニ・スキッキ」でもヴィオラが重要な働きをするところが出て来る。始まる前にヴィオラのトップと指揮者がなにやら話をしていたが、熱心なのは奏者の方で課題を持っているように見えた。実際に一部での箇所もヴィオラがもう少しアンサムブルで中核に入ると、こうした書法の場合は繋がりが良くなり、ゲヴァントハウスのような若しくはシュターツカペレのように音色が磨かれるのだろう。確かにここでハッキリするのはスキッキが出て来る前から、ヴァイオリンが高音部へと移るのにつれて中声部が支えるところが出て来る。特に若い二人の最初のデュオなどは典型的で、例えば放映された日の演奏と比較すると顕著だ ― 当日はリヌッチョの代役が袖から歌う事となって難しい状況だったのだが、またそれとは異なるだろう。今回はそこが見事に決まって、最後のデュオへと繋がった。放映の日は気の毒にお相手のロレッタを歌ったローザ・フィオーラが割を食ったが、やはりこの歌手は天下を取る人だとこの日も感じた。高音での管弦楽との輝かしいDesへの階段はここだけで称賛に価した。勿論のこと主役のマエストーリの声の至芸は指揮者も握りこぶしを回して楽しむかのように「やってくれ」の指示が出ていた。最後の大団円での風格も素晴らしく欠かせない大役だった。

しかし今回の公演は、初日シリーズ二回目で彼が胴を取ったのとは違って、本当のベルカント、声の芸術まるでギリシャ彫刻のようにそれが彫塑されることで、歌っている肉体からその歌声が飛翔して、その通りそうした声の存在こそが天恵であるのだが、まさしく天使の歌声とされるような託宣であることを実感させる芸術の極致の表現であった。それに比べれば如何にヴァークナーの世界がつまらなく ― 無神論者なら当然なのかもしれないが -、まさにそこでのベルカントの必要性を更に裏打ちすることとなっていた。そしてこれ以上のプッチーニ上演には当分出合わないことも確かだ。
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参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般



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by pfaelzerwein | 2018-07-16 06:53 | | Trackback

LadyBird、天道虫の歌

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疲れが残った。金曜日は殆ど仕事にならなかった。初日のメモを見乍ら忘れないうちに早目に纏めておきたいが、録音があることで安心して仕舞っている。それ以上に少しパンク状態かも知れない。最近のペトレンコ指揮の演奏は、あまりにも新機軸が多過ぎて、それを聴衆が消化するのに時間が掛かる傾向がある。四月のフランツ・シュミットの四番然り、オペラ上演然りで、こちらが咀嚼して想いを新たにする頃にはご本人は先を行っている。その意味からベルリンのフィルハーモニカーで二つの目のプログラムを時間をおいて繰り返すのは聴衆にとってだけでなく、演奏者にとってもとても教育効果が高い。週末に纏めたい。でないとストリーミングの次放送が近づいてしまう。

ストリーミングまでにPCの容量を開けるべく外付けのHDDを発注した。なんと3TBである。最初に買ったのが750MGぐらいで、二つ目からは東芝の1TB、2TBと増えて行った。価格も90ユーロほどまで落ちていたので買い時だ。古いデーターは何重にも記録されているので安全で、そこに新しい分も二重に記録すると、PCのDディレクトリーのここ一年半ほどのものをばっさりと消去可能だ。

英国からお知らせメールが入っていて、サマーセ-ル商品を発注した。来年はもう税金が掛かるかもしれないので、そろそろ買い溜めしておかないと行けないかもしれない。昨年はピンクを購入したので、三割引きで淡いブルーのシャツを発注した。先に欲しかったのはあんちょこバタフライで、上手くシャツなどが合えば二週間後にミュンヘンで使いたい。テントウムシの意匠である。暑くなる可能性が高いから棒タイよりは幾らか涼しい。送料を15ポンド取られるので、小さなものだけでは勘定が合わない。

その時に座る劇場のロージュの舞台脇のところを見ていたら、許可を受けないと入れないようになっていた。反対側は楽屋に通じているから当然なのかもしれないが、舞台の向こう側とこっち側の中間なのだなと改めて思う。音響に関しては決して良くは無いことは今回も分かった。見通しもそれほど良くないだろうが、今回の価格とは大分違うので、どうだろう。指揮に関しては今回も足元まで見えて、それは更に前から見る形で近くなる。

オペルンフェストの初日は初めてだったが、可成りいい席がぽつぽつと空いていた。平常の初日にはないことで、やはりフェスト期間中は企業の招待や世界からの訪問者などが多いのだろう。かなりもったいない。

ゴルダ・シュルツ出演のBRクラシックの番組はとても良かった。ゲストがお気に入りの録音を持ち込むという番組だ。その一時間足らずの番組構成で、インタヴューアのノイホッフ氏がいい感じでシュルツ嬢に絡んでいた。先ず一曲目の「フィガロの結婚」の序曲から始まって、その一日の始まりの素晴らしさの表現を、お勧めのネゼセガン指揮で流す。仕事をしてみたい指揮者という事で、今後のメトでの仕事の時には当然だろう。そのキャラクターも確かに合いそうで、彼女のプロフィールの話しとなる。ジャーナリスト志望の秘書職への道を歩んでいたことは知っていたが、父親は数学の教授で母親も看護師で、理論と実践の家庭だったという。そして子供は芸術家。なるほどと思ったが、楽器を片っ端から習っていて、父親の助言もあって楽士さんへの道は諦めていたらしい。ジャーナリスト志望とは文化波のBRのようなところでの仕事のことだったようだ。

現在はアウグスブルクへと引っ越したという事で、内向的な沈思黙考の生活がしたいという事で笑わせるが、とても嬉しい路上で声を掛けられるミュンヘンの街中の生活だけでは無くてという事らしい。正直には家賃が安くてという理由を明かす。

声楽も20歳からで28歳になってオペラを始めるのは女性では遅過ぎで、その声の形成からキャリア的に厳しいとされたが、ジュリアード終了時にロンドン等で面接で落ちて、三度目に初めてバハラー支配人に採用されたという。

三年先の計画を立ててレパートリーを確立していく世界だが、実際には月々の請求書を払う生活という。そもそもヴァークナーは遅咲きには難しいようだが、叫び続けなくてもよいので「黄昏」のフローラなどは容易で好きな役で、今回の華の娘も合うという。そして目を瞑らないでカウフマンとの絡みもしっかり眼を開いて観て呉れと、演出の不評を覆すかのような話をする。

途中、大人になってから知ったマーラーの作曲とそのアバド指揮の涙が毀れる二番などに挟まれて、二曲ほどポップスが流されて、マイルス・デーヴィスが何であんなにトラムペットが上手いのだろうと発言。最後に自身の歌うスザンナの夜の歌をメスト指揮で締める。素晴らしく構成された放送だった。



参照:
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
Crazy soprano!!! 2018-01-13 | 女


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by pfaelzerwein | 2018-06-30 21:07 | | Trackback

そのものと見かけの緊張

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マルリス・ペーターセンのハナはとても見ものだった。歌は音域として下が低過ぎると語っていたが、全く無理は感じさせなかった。上も精妙さで聞かせ、踊って芝居しての全てが揃っていた。ダニーロのサモイロフも立派でもう一つのペアーも申し分なかったが、主役が無くてはやはり成り立たない舞台だったと思う。新聞には、言葉がハッキリしない歌の中で彼女だけが留意をしていて、劇中劇構造の中でハナのドイツ語とマルリスのドイツ語を別けるなどの完璧さも指摘されていた。厳密にやればやるほど大変な事になるのだが、その微妙さがこの大ヒット作にそもそも隠されていたようだ ― 大ヒットするには中々分析不可能なものが隠されているとみるのは科学的だろう。

数か月後にニュルンベルクの音楽監督に就任するヨアナ・マルヴィッツの柔軟乍ら運動性の高い音楽には満足したが、その指揮技術以前に、今回のレハールの音楽をとても直截に聞かせてくれた。そもそも今回の演出の最初と最後は「ばらの騎士」のそれに相当するのだが、まさしくその響きは音楽的な複雑さではなくて、その時代の意匠をしっかりと羽織っていて ― プッチーニとはまたジャスカンデュプレとも共通する本歌取りの効果もあり ―、彼女が語るようにシムプル乍らとてもダイレクトでパワフルな効果が素晴らしかった ― 秋には「オネーギン」でミュンヘンデビューを果たす。

その一方、ミュンヘンへ通うともはや通常の座付き管弦楽団は我慢出来なくなる。なるほどマンハイムなどとは違って丁寧であるが、管楽器などは座付きでしかない。女流がオボーエを吹くと、その太っく鳴る、趣の無い音を奏でられ、ホルンも制御出来た音ではない。勿論田舎の劇場とは違って、外したりバラバラに鳴ったりはしないのだが、そこの音楽監督の腕の程度が分る。そのヴァイケル氏は日本で上から二番目の交響楽団の監督になるというが、オペラ指揮者に一体何を期待しているのかとも思う。二十年近く前に三島の作品を聞いた時にはもう少しヘンツェの音楽が綺麗に鳴っていたと思うのだが、こちらの要求が高くなっただけだろうか?少なくとも会場はミュンヘンの三分の一ぐらいの空間しかなく、その点では表現の幅も可成りありそうなのだが。

例えば「ヴィルヤの歌」のアテムポのところでもしっかりと言葉を置きながらの歌唱だったのだが、管弦楽団はそこまで音を落とせなかった。典型的な超一流との差で、音は大きくするよりも通る音を抑える方が管弦楽団にははるかに難しい。改めてミュンヘンの力を思い直させると同時に、オーボエの辞めた人などは丁度上で触れた女流のように強くブーブーと吹くことでオペラを支えていて、もし同じような音の出し方でコントラバスなどと合わせるとジンタになるのである。まさしくそれこそが繊細さに欠ける座付き管弦楽団の骨頂である ― そこからキリル・ペトレンコがやっていることの意味が分かる筈だ。やはりこの辺りの一流の歌手になると超一流の劇場で歌わなければ中々力を出し切れない。

当日のプログラムを読んでいると、シェーンベルクのレハールを絶賛する言葉とアドルノの「オペレッタのアラベスク」が度々引用されていて、まさしくこのレハールの巧妙でよく練られた音楽へと関心が集まる。レハールの家に行った時のこと思い出すが、あの室内の華美と瀟洒の混ぜ合わさったような独特の繊細は印象に残った。まさしく彼の音楽そのものである。それはドイツ語で言うところのSein, Scheinつまりそのものと見かけの緊張を並行して見ることの面白さで、そのもの劇場空間ではなかろうか。先日言及した開かれた作品としてのバーンスタインの作品の価値もそこにあるかもしれない。今回は特に劇中劇としたことで余計にその効果が高まった。キリル・ペトレンコも「微笑みの国」をベルリンで上演していてヴィデオも手元にあるが、あれなどは当地でのもっとも代表的な成果ではなかったのだろうか。

なるほどフランスでのオフェンバックの上演などのような薫り高いレヴュー感覚も悪くはないのかもしれないが、税金で上演される音楽劇場でオペレッタを上演して唸らせるのにはこうした上演形態しかないとさえ思わせた。



参照:
「彼女のためなら…」 2018-03-20 | 雑感
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-06-18 22:42 | | Trackback

「モノを言う朝鮮人の女」

Asie
à Jeanne Hatto

« Asie, Asie, Asie,
Vieux pays merveilleux des contes de nourrice,
Où dort la fantaisie
Comme une impératrice
En sa forêt tout emplie de mystères,
Asie,
Je voudrais m'en aller avec ma goélette
Qui se berce ce soir dans le port,
Mystérieuse et solitaire,
Et qui déploie enfin ses voiles violettes
Comme un immense oiseau de nuit dans le ciel d'or.


Je voudrais m'en aller vers les îles de fleurs
En écoutant chanter la mer perverse
Sur un vieux rythme ensorceleur ;
Je voudrais voir Damas et les villes de Perse
Avec les minarets légers dans l'air ;
Je voudrais voir de beaux turbans de soie
Sur des visages noirs aux dents claires ;
Je voudrais voir des yeux sombres d'amour
Et des prunelles brillantes de joie
En des peaux jaunes comme des oranges ;
Je voudrais voir des vêtements de velours
Et des habits à longue franges ;
Je voudrais voir des calumets entre des bouches
Tout entourées de barbes blanches ;
Je voudrais voir d'âpres marchands aux regards louches,
Et des cadis et des vizirs
Qui du seul mouvement de leur doigt qui se penche
Accordent vie ou mort au gré de leur désir.


Je voudrais voir la Perse et l'Inde et puis la Chine,
Les mandarins ventrus sous les ombrelles,
Et les princesses aux mains fines
et les lettrés qui se querellent
sur la poésie et sur la beauté ;


Je voudrais m'attarder au palais enchanté
Et comme un voyageur étranger
Contempler à loisir des paysages peints
Sur des étoffes en des cadres de sapin
Avec un personnage au milieu d'un verger ;


Je voudrais voir des assassins souriant
Du bourreau qui coupe un cou d'innocent
Avec un grand sabre courbé d'Orient ;
Je voudrais voir des pauvres et des reines ;
Je voudrais voir des roses et du sang ;
Je voudrais voir mourir d'amour ou bien de haine,
Et puis, m'en revenir plus tard
Narrer mon aventure aux curieux de rêves,
En élevant comme Sinbad ma vieille tasse arabe
De temps en temps jusqu'à mes lèvres
Pour interrompre le conte avec art... »

La Flûte enchantée
à Mme René de Saint-Marceaux

« L'ombre est douce et mon maître dort,
Coiffé d'un bonnet conique de soie
Et son long nez jaune en sa barbe blanche.
Mais moi, je suis éveillée encore.
Et j'écoute au dehors
Une chanson de flûte où s'épanche,
Tour à tour la tristesse ou la joie,
Un air tour à tour langoureux ou frivole,
Que mon amoureux chéri joue,
Et quand je m'approche de la croisée,
Il me semble que chaque note s'envole
De la flûte vers ma joue
Comme un mystérieux baiser. »

L'Indifférent
à Mme Sigismond Bardac

« Tes yeux sont doux comme ceux d'une fille
Jeune étranger,
Et la courbe fine
De ton beau visage de duvet ombragé
Est plus séduisante encore de ligne.

Ta lèvre chante
Sur le pas de ma porte
Une langue inconnue et charmante
Comme une musique fausse ;
Entre ! et que mon vin te réconforte...

Mais non, tu passes
Et de mon seuil je te vois t'éloigner
Me faisant un dernier geste avec grâce
Et la hanche légèrement ployée
Par ta démarche féminine et lasse. »




それをゴキブリ呼ばわりするのが日本社会らしい。一種の政治的なアピールとは思うが、発言者の女史はドイツに引っ越しとあった。何らかの財団か何かの招聘なのだろう。詳しくは分からないが、女史の「乗り越えネット」も貴重なネット発信でありその活動も都知事選挙応援の辺りから注視している。そしてそのパフォーマンスを見ていると病んでいると思った。朝鮮の民俗芸能かパンソリの感覚かどうか知らないがとても病んでいる。きっとそれは日本社会の病なのだろう。

そしてまさしくこれが朝鮮文化であり日本文化だと思う。個人的に上のような「パンソリ劇」を見ていて不快感を抱くのは、その陰湿な文化を必ずしも客観的に見れないからかもしれない。そして多くの日本小市民だけでなく真っ当な朝鮮小市民も同じような気持ちを抱くのだろう。要するに日本にも朝鮮にも「ゴキブリのような輩」が沢山いて、社会の病巣を担っているに違いない。在日どころか日本に住む先住民である土人も外人も同じ穴の狢でしかない。

なるほど女史が日本での様に郵便桶を開けて怯えることは朝鮮人植民地のフランクフルトでも日本人植民地のデュセルドルフのどこでも無いかもしれないが、多くの連邦共和国市民は郵便桶を怯えて開ける。予期せぬ請求書が投函されていないか心配だからである。またそれだけ納税をしている例えばトルコ系市民などが第二市民であり続ける現行の国籍法は憲法に抵触するような根本的問題を抱えている連邦共和国社会を象徴している。であるから当然の権利として多重国籍が推奨されても不思議ではないのである。

やはりそうなると在日朝鮮人は二重国籍で日本の選挙権を被選挙権を行使するのがなによりもの解決策だと確信するに至る。日本社会はどうしても植民地政策のつけを払い続けなければいけないのは見習った諸外国などと変わらない。幾ら朴が岸と談合していても何も解決しなかった。少なくとも女史の鬱陶しいパフォーマンスはこのことを明白にしている。

週明けから忙しくなりそうだ。週末に時間を割いて、バーデンバーデン復活祭の準備をしている。あまり知らない曲が二曲もあるのは珍しく、ベルクの「初期の七つの歌曲」もアルテンブルク歌曲などとどうしても混同する。音源はエアーチェックのカセットテープがあったと思うが、それ以外にもと思い探した、安売りCDになっているクラウディオ・アバド指揮でフォンオッタ―が歌っているものがあった。所謂作品番号が付いていない作品集で、シェーンベルクに習う前の、後に成功作オペラにおける変奏形式の見本となったポール・デュカ作曲「青髭」やヴェーデキント「春の目覚め」に出合った1908年とされる。

余談ながらデュカの管弦楽は四月に後任者キリル・ペトレンコ指揮で演奏されるが、今回改めて気が付いたのは復活祭のこのプログラム一曲目の「ドンファン」はこれまた後任者の指揮で八月に第七交響曲イ長調の前に演奏される。少なくともペトレンコに指揮される二曲はバーデンバーデンで前任者によって指揮されて、その後恐らく「ペトロ―シユカ」などの客演指揮中にそれらの数曲も繰り返されるのだろう。前任者から後任者への引継ぎの時にこのことが話し合われたのではなかろうか?つまり、本来ならばこうした直接の弾き比べ聞き比べはお互いに避けたいところなのだが、両者ともそのように決断したのではなかろうか。楽員の各々のさらい方は楽器によっても異なるから一概に言えないのだろうが、やはり何回か本番を重ねると指揮者が違っても底上げが出来るということなのだろうか。後任にとっては昨年の初日のようなフィルハーモニカーらしからぬ演奏はさせられないと考えても効率化を考えるのは当然ではなかろうか。

もう一つの「シェーラザード」も序曲とされるものを混同しやすい。実際にその最初期の管弦楽と関連していて、またテキストの詩を書いた作者がトリスタン・クリグゾールという人で、勿論ヴァークナーに毒されたフランス人である。そこまで知ると、ほくそ笑むサイモン・ラトルがこちらを向いるているようで、遣られたと思った。ラトルの遊び心にこちらもお付き合いすることになるのである。またその一曲目「アジア」などの壊れもののような管弦楽法を差し引くと、どうしても二曲目「魔法の横笛」や三曲目「対等」などのそのクリングゾールの仏詩に心が奪われてしまう。とてもインタィームで面白い。



参照:
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事

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by pfaelzerwein | 2018-03-11 22:20 |

音楽劇場のあれこれ

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州文化審議会の承認を受けて正式な発表となった。ベルリンでの政局が発表の時期を遅らせた。2021年秋からのミュンヘンの音楽劇場の人事である。人事内容は分かっていたのだが、来週月曜日の大臣直々の推挙お披露目の記者会見前に任命の日取りなども分かった。その他にも情報を合わせると見えることが幾つかある。

近々のことでは、この金曜日からの上演がペトレンコ指揮の最後の「ばらの騎士」になるかもしれないことである。成功し続けたオットー・シェンク演出も黴が生えたということで、新制作が次期音楽総監督ウラディミール・ユロウスキー客演で予定されているという情報である。来るシーズンかどうかは分からないが、そうなれば今回の棚卸が最後の上演シリーズになるということになる。初演指揮のカルロス・クライバーと共に過去のものになるということだ。

現音楽総監督キリル・ペトレンコは、2020年の夏に総監督の座を降りて、2021年のオペラフェストまでは客演指揮をするようだ。反対称的に来るシーズンを客演指揮者としてベルリンのフィルハーモニカー開幕公演で指揮する。正式就任は2019年シーズン開幕からなので、ミュンヘン専任監督としては来るシーズンが最後となる。つまり2019/2020年は間違いなくミュンヘンでの活動は少なくなり、多くても新制作二つぐらいではなかろうか。

セルジュ・ドルニー支配人に関しては、文化省の公式の発表においてもジェラルド・モルティエー博士監督の一員となっているが、氏の最後の書には名前は触れられていないようだ。そして、報道が伝えるようにザクセン州での不法解雇問題裁判などから、これで溜飲を下げたことになるとされている。我々モルティエー一派支持者からすると「バイロイトの敵をミュンヘンで討つ」となるのか?その意味から指揮技術的に前任者ペトレンコに勝るとも劣らずの後任者ユロウスキーがロンドンを引き払い仕事を絞って任にあたってくれれば、更なる積み重ねが期待可能となる。ノーノ作品の公演には出向かう心算だったが、たとえ「ばらの騎士」でも気になってきた。あとは「モーゼとアロン」をペトレンコが指揮するかどうかだけだ。それともバーデンバーデンで、若しくはドロニー体制下での方が良いだろうか?

朝、目が覚めるとまたまたヤホ女史からハートが飛んで来ていた。こうなるともはやSNS友ではないかと思う。彼女が「歌に生き」の歌姫であることは重々分かっており、インタヴューを幾つか聞くだけでもその歌唱だけでなく自己表現の可成り明白な女性であることも分かっている。その芸風を裏切らない強い個性である。その自己表現の反応にもとても関心を向けていて、時間があると細かくネットの声に耳を澄ましている。なぜ本人の余暇の楽しみになっているのを知っているかといえば、12月の初日期間中に投稿して引っ込めたその時にホテルでお勉強していた「タイース」の楽譜の写真からだ。流石に公演が続いている中で次の公演のお勉強をしていると思われると一晩の夢を求めてくる一般のオペラファンには不味いと思ったのだろう。その「タイース」はプラシード・ドミンゴと組んでシナ初演をした北京公演のためのお勉強だったのだ。そのことに関してもWDRのインタヴューで答えていた。

今回のハートは12月末に初日のFAZ評を引用したものだったが、その内容が気に食わなかったのか反応がないなと思っていたが、見つけられてしまった。対象となっている初日は音楽的にストリーム放送中継の三日目ほどには上手く行かなかったので、新聞は読んでいても引用の時期などを考慮していたのだった。メトなどでのアンサムブルを考えると、ご本人もミュンヘンでの「修道女アンジェリカ」の大成功を回想しているのではないかと思う。

昨今のオペラ世界は、三大テノール時代の一昔前とは異なって、指揮者のテムポとリズムで歌う技術を持っていない人はトップクラスには留まれなくなっていて、その意味からは器楽奏者出身でなくても音楽的な技量はとても高くなっている。その反面、万能の歌唱で声質や容姿以外での音楽的個性が益々薄くなっていて、取り換えの効く歌手となってしまっている。その中で、基本的な前提条件を満たしつつ、十八番としての「アンジェリカ」や「蝶々さん」で強烈な歌唱を披露する個性は、二十世紀後半には忘れられていた歌手の個性としての新たな在り方だろう。ある意味、この両面を発揮するのが現代の教育であり才能である。SNSでのインターアクテイヴ性を会場での直接の交感を補う形として操る歌姫としても彼女は天晴である。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女

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by pfaelzerwein | 2018-03-07 22:17 |

イスラエルからライヴ

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YouTubeLiveを観た。イスラエルフィルの中継で、10分前からオンしていたが、始まるのもミュンヘンの劇場並みに遅かった。テルアヴィヴはいつもあのような時計なのだろう、お客さんの動きが遅かった。そして携帯電話の警告アナウンスがあって、やっと始まる。キリル・ペトレンコが指揮台に上がろうかとするとき画像が止まって、これは駄目かと思った。その時に画像が一段落とされたようでその後は完璧に流れた。流石にYouTubeである。どのような契約になっているのかは知らないが、これならばどこの楽団も出せる筈だ。カメラワークも定まらなかったりしたが、徐々に落ち着いてきた。

細かなことは録音録画を再生してからにしたいが、お目当ての王は想定以上に良かった。チッラッと見たゲルギーエフ指揮でのミュンヘンでの中継でもただ単に叩くだけのピアノの印象があったがなかなか柔らかい感じでとても良いピアノである。才能も然ることながら可成り幼少期から立派な教育を受けたピアニズムだと感じた。北京にいたのではなせなかったのは明らかだ。

流石に七回も本番を経ているだけ指揮者との間合いも良く、オーケストラさえもう一つ上のクラスならばさらにスリリングな演奏が可能なのを確信した。4月にベルリンからの中継があるのでとても楽しみだ。ラぺリも初めて聞いたが、イスラエルフィル乍ら今までの指揮者では到底不可能な音楽を奏でていて、次元が違う。その分、「ペトルーシュカ」でも明らかに上手く行かないところが頻出するが、同時に期待していたような譜読みがなされていて、ベルリンでの指揮が待ち遠しくなる。だから下手な演奏と同じぐらいにとても素晴らしい曲に初めて触れるような美しい場面も目白押しで、これも期待以上だった。

王がピアノを受け持つようになっていたのだが、プロコフィエフの三番のあとで大きく息をついていたように、到底無理だと思った。その分アンコールを二曲弾いていたが、他所のホールでは「ペトルーシュカ」のピアノ版を弾いていたようである。繰り返すが、プロコフィエフの越後獅子は楽譜を見てみないと分からないが、きっとああいう風に書かれているのだろう、そして夏に再びザルツブルクからルツェルンへと回って来て同じ曲を演奏する時どんなにかスリリングな演奏になるだろうかと想像するだけで興奮してしまう。

それにしても、イスラエルでも楽員がペトレンコの表情を見て喜んでいたが、なるほどミュンヘンの奏者が語るように音楽の表情で指揮されているのが映像からよくわかる。ある時から出来る限り奏者に分かり易いように表情をつけるようになったとかインタヴューで話していたが、なるほどと思う。兎に角、ペトレンコが指揮することでインターナショナルな比較が容易になる。イスラエルフィルもヴィーナーフィルハーモニカーも国際基準での批判に曝されることにもなる。それはベルリナーフィルハーモニカーでも変わらない。

メルキュレ2015年を開けた。前日にステーキに合わせたのであるが、翌日もそれほど変わらなかった。どうしても御多分に漏れず色目も薄目でシュアロネーズの土壌の浅さのようなものを感じる。2015年産でなければこれで十分満足したと思うが、この辺り年ならばブエルゴーニュワインでなくてもドイツのシュペートブルグンダーでの同価格で更の複雑でチャーミングなものがありそうだからである。若干のタンニン風のそれも渋みに感じるだけで、要するに夾雑味感があるということになってしまう。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!? 2018-02-23 | 雑感
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般

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by pfaelzerwein | 2018-02-26 17:00 | | Trackback

蝶々さんのMorningCall

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目が覚めて小用に立った。ベット脇のタブレットのインジケートラムプが青く光っている。特別のアプリが点けっぱなしになっていたかなとか思ったが、テュイッターだと気が付いた。ベットに戻ってみると、ヤホ女史が先日出したものをリテュイートして呉れていた。今までの様子から気が付いてハートマーク位はとも思っていたが、メトからのWDRでの中継のお知らせで、既に誰かが出しているだろうとも考えていたので引用までは考えていなかった。

こうしたやり方はコミュニケーションテクニック上もとても効果のあるやり方なのだが、マネージャーがやる以上に、ご本人の歌姫としての生甲斐として、自分の歌の影響に人一倍関心を持っているという執着を感じさせる。新派か藤山寛美かは知らないが、兎に角「トスカ」ではないが「泣かせるのために生き」の感がある。そしてこうした中継があると普段は出せないほどの声を出すことも12月の「アンジェリカ」でもその二回の中継と一回の実演で経験済みである。そうしたとても合理的な精神が無いことには、あのような役を歌い演じあげることなど尋常には不可能だ。

特に今回はメトロポリタンからの「蝶々さん」ということで、どうも2010年の飛び入りした日本公演では途中放棄もあったようであまり評判が良くないために、余計に反応にも関心があるかもしれない。「椿姫」を「大物」歌手に代わったということでそもそもリリックな声の小柄な彼女にはその前提がとても厳しかったのに違いない。プッチーニがやはり十八番なのだろう。そしてプッチーニの芸術を考えると彼女のアプロ―チが一つの解決策であるということも間違いないのである。そもそも冷やかし気味にメトロポリタンからの放送を聞いてみようと思ったのだが、こうなると真面目に聞かなくてはいけないような気持になってきた。

先日のライプチッヒでの就任演奏会の評が新聞に出ている。結論からすると私が放送の音声上の問題かどうか結論を出せなかったことを断定している。つまり、彼の得意とする音響母体の腸をつかみ出して、そのコントラバスからの下の下から積み合されてその上に管楽器が乗る楽団の伝統的特産を引き出す一方、彼の掃く新しい箒はあまりにも細く、メンデルスゾーンの力強く生き生きとした面を犠牲にした嫌いがあると指摘している。まさしくラディオで聞いた通りである。更に、前任者のシャイーが最初から演説をぶって、最後にはあのような終わり方になったことを考えると同じようにはならないだろうとしている。良かれ悪しかれ、それほど大きな期待をしても仕方ないネルソンズ時代となることは既に述べた通りだ。それでも町中にNELSONSと赤色で書かれたプラカードが目を引くようで、協力関係が揺るぎないものになれば積極的にアンサムブルに係ってくるかもしれないが、本人の言う様に二年ぐらい様子を見てということだろう。

カーネギーホールからの中継を調べていたら先日ヴィーナーフィルハーモニカーが演奏したものがオンデマンドで残っていた。少し聞いて、ベネゼイラ出身の指揮者の程度が知れた。もともとアインザッツのしっかりしない座付き管弦楽団だが、それがブラームスを言い加減に弾くものだから場末のサーカスのジンタのようになってボロボロである。あのような演奏をさせてぬけぬけとしているような指揮者は少なくともまともな市場では全く相手にされない。二流どころか三流指揮者である。初めてまともに聞いたが、話題性だけで名前が知れたようだが、我々の耳を汚すような音楽はあまり聞こえないところでやって欲しい。あれではヴィーナーフィルハーモニカ―はドサ周りの楽団にますます成り下がっていくだろう。だから前楽団長が解任された訳だ。伝統の恥さらし、極まる。

こうした中継の録音などが、嘗ての完成された制作録音など以上に、SNSを使った双方向のインターアクティヴなコミュニケーションを使って、会場での所謂ライヴとはまた違う方法でとても重要な表現方法になってきたことは否定できない。そうした新たな可能性は、たとえどんなに進歩史観が否定されようが事実であり、逆戻り出来ない歴史なのである。それぐらいのことは一流芸術家ならば皆百も承知なのである。


参照:
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音
旅先でよく働きそう 2018-02-25 | 生活

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by pfaelzerwein | 2018-02-25 23:28 | | Trackback

ミュンヘンのアラキー

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ピナコテークデアモデルンで、ゲオルク・バーゼリッツの特別展示を覗いた。記憶は無かったが1986年に訪問した。当時は所謂クラシックなものにあまり関心が無かったので、肝心のアルテピナコテークだけは入っていない。そして今回も時間が無かった。情けないが、駐車場や日曜日の割引を使えばミュンヘン詣での序に機会があるだろうか。

観光客も多いが、地元の人はアラキーを求めてきている人が多かったようだ。写真にあるようにアラキーのパネルにおばさんたちが見入っている。荒木と言えば我々世代には、ビニ本収集の小室直樹と同じように東京の深夜番組の常連だった。サブカルの人である ― そう言えば山本信也も中央線沿線で見かけた。おばさんたちがどのような感興でそれを見るかは知らないが、世界のアラキーになってからその受け入れられ方が分からなかったので、腑に落ちた感じで、アラキーの展示物を入り口で探し、それに見入るその人達の方が鑑賞対象になった。

その他の展示は、ロ-トレックやマティス、キルヒナー、ピカソなどに混じって、ボイスの展示もあったのだが、規模からするとヴィースバーデンのそれには到底及ばないような気がした。兎に角、昼飯の方が重要なので流した。やはり、バイエルン王室ヴィッテルスバッハ家の美術品は当然のことながら王権を失うまでのものでなければあまり価値が無い。例のルートヴィッヒス二世がどのような美術品の中で育ったかなどは、勿論レジデンスの方の展示にもあるのかもしれないが、家族の美意識はアルテピナコテークを訪問しなければ分からないかもしれない。

さて肝心のバーゼリッツのカビネット展示だが、結論からするとあまりにも小さなもので1ユーロの日曜日割引でなかったら文句が出たろう。それでも本物を見ることで印象はついた。連邦共和国の国宝法の強化に反対して、自らの作品のを引き上げて、ザルツブルクへと移住したという俄かオーストリア市民である。八十歳の記念にパトロンでもあるフランツフォンバイエルン公爵のコレクションが今回展示されたようである。6月上演の「パルシファル」の美術を担当したことで、今回も初日には公爵とバーゼリッツが王のロージュに並ぶのだろうか?私もディナージャケットを着て行かなければいけないかもしれない。

古い1960年代のものはモダーンで、輪郭がハッキリしないものなのだが、1980年代のものは文字が書き込まれている連作や、また色差見本のようなものがあった。当然オペラのそれは最新のコンセプトで来るのだろうが、文字だけはやめて欲しい。ただでさえ情報量の多い舞台神聖劇で更に文字情報が加わるのは御免だ。演出家もあまり信用の置けそうなことを語っていないので、その仕事ぶりには懐疑的なのだ。その点、バーデン・バーデンのディーター・ドルンの方が安心だ。

バーデン・バーデンで、ツェッチマン女史、クヌート・ヴェ―バーのベルリンのフィルハーモニカ―を迎えての記者会見があったようだ。第一報を見るとやはり2019年はオテロ上演で、指揮者は三月になって発表と言う。誰になるか分からないが、ムーティが断ったことまでは最初から知られていたが、それに匹敵する人でフリーの人は誰だ?イタリア人では浮かばない。ズビン・メータしか浮かばない。これならばと思う人も居ない。安ければとは思っても、主役を昔のドミンゴ以上に歌える人もあまり浮かばない。シャイ―ならばと思うが、時間がある筈がない。もしかすると先日メトで名前を見かけたロベルト・アバドぐらいなら一度聞いてみたいと思う。まあ、どちらでもよいなと思う。

肝心のキリル・ペトレンコは、どうも登場するようだ。それも「オペラ指揮者としてのバイエルン音楽監督は違う背景」を強調して、「新たな魅力」というのだ。それ以上は秘密で、ただ「ペトレンコは、祝祭劇場の音響にとても魅了された」と付け加えたのが味噌だろうか。

「違う背景」で余興でピアノを弾くとは考えられないから、また昨年同様の通常の交響曲を並べる訳ではないだろう。つまり音響を駆使した作品且つミュンヘンのアカデミー演奏会では取り上げないような作品となる。バロックなども片手間では出来ず、20世紀の作品ならばある程度モニュメンタルでなければ話題性にも乏しい。ああ、そうか、マーラーの八番はミュンヘンではやらないかもしれない!ギーレンの指揮で聞いた印象では音響的に問題ないだろう。「グレの歌」まで勉強する時間は無い筈だ。ここまで推論するのに三時間ほど掛かった。

すると、2019年4月21日の復活祭に「千人の交響曲」、その前の3月頃か、6月末に「トリスタン」上演か?またオペラフェストになる。また並ぶのか、仕方ない。カムペがベルリンで既に歌っていることからすれば、自然な成り行きだ。2018年8月末オープニング、小演奏旅行、9月末の「マイスタージンガー」に続いて、10月マーラー、12月暮れに一つ目の新制作か?インサイダー情報も何もないところで、これぐらいの予想が精々である。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
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by pfaelzerwein | 2018-02-14 19:14 | | Trackback