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カテゴリ:歴史・時事( 232 )

ブランデンブルク門を臨む

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ベルリンで月曜日から練習が始まった。キリル・ペトレンコ指揮就任演奏会の練習である。その状況は今日明日にでも放映されると思うが、今回は二日目のブランデンブルク門での大イヴェントにも注目が集まる。

火曜日のベルリナーフィルハーモニカ―の支配人ツェッチマン女史の会見では、その準備に二年間も費やしたとあったようだ。NDRの楽団担当だったツェッチマンにとっては、今回放映パートナーのrbb支配人シュレジンガー女史は謂わば同僚だったようで、二年前から相談していたという。この間乗り越えて解決しなければいけなかった事項は35件に及んで、警察、消防など主に安全対策などの面からのお役所仕事の様である。だから当初から「新指揮者ペトレンコのお披露目の為には大規模な催しとしたい」と語っていた。曲目に関しては千人の交響曲ぐらいかなと思っていたが、第九だったのである。しかしそれもブランデンブルク門でとなるとオープンエアーでも通常とは異なる。

当日は三万五千人の聴衆が詰めかけると見込まれ、更に晴天が予想されている。全ての人が無料で、A3サイズ以下ののみの大きさの持ち込みと必要な手荷物検査の上、18時から場所取りが出来るようだ。しかし、その大きさから折りたたみ椅子などは持ち込めないので、演奏が始まる20時16分までは立ち通しとなるらしい。これは当夜のrbbTVで晩の「ターゲスシャウ」が終わって、rbbが「ブランデンブルク門へ」とアナウンスすることを以って始まるからのようだ。会場へはペットボルトなどは許されてもビンは持ち込めないので、そこの売店で補給するようになっている。様々な情報を総合すると、地元放送局などでも応募募集しているようにVIP席は設けられていて、門のところに若干座席を作るのだろう。

二人の支配人が窓から門を覗く写真を見るとアドロンホテルのその向きの部屋は皆観覧席となりそうだ。さて肝心の音響は、勿論PA無しには放送もPVも不可能であるが、rbbが責任を以って執り行う。60人体制で、60本以上のマイクをぶら下げて、11台のカメラが投入される。昨年のベルリナーシュロースの中庭での中継からすれば、勿論今回の方が遥かに条件は厳しいが、大いに期待できる。これで分かるように、例えば先月のミュンヘンでのアメリカンプロの節は弦楽器にミニマイクが付けられたが、今回は正攻法な集音となるようだ。施設する総ケーブル長は五キロメートルにも及ぶらしい。

そうした中で態々アルバン・ベルク作曲「ルル」組曲から演奏されるというのが俄かに信じられないのだが、これはなにも歌うマルリス・ペーターセンが得意としたルルの役の歌を歌わせるためだけに選曲されたものではないだろう。その心は、未完・補完版オペラ「ルル」を纏めた組曲の構成にあると見る。期待は膨らむばかりである。こちらまでが武者震いをする。

ベルリンの壁が崩壊して30周年。あの時、指揮者ペトレンコはシベリアの故郷の小さな町に居たのだろう。ツェッチマン女史はアビテュアーに合格して丁度アメリカに居たらしい。そしてそこでニューヨークタイムズのインタヴューを偶々受けたという。私も報道で冷ややかに見ていただけでベルリンには敢えて近寄らなかった。あの時のバーンスタイン指揮のそれとは今度は何もかもが違う。

もう一つ、この計画でキリル・ペトレンコが支配人に尋ねたようだ。「国立図書館に入れるかな」と、そしてそこに手書きの総譜の一つがあって、そのコピーも備に調べたという。その結果が出るかどうかは聞いてみないと分からないと報じている。ツェッチマン支配人は、自らのキャリアーにおいて最もやりがいの仕事の一つと語る。さて何もかも成功へと導かれるか?

ミュンヘンからコルンゴールト作曲「死の街」新制作初日の当選の知らせを受けた。最高金額公演なので他の公演日に比べて同じ席でも40から66ユーロも高い。何か特別にお土産がある訳でもないが、しかと見届けたい、音楽監督としては最後から二つ目の初日である。もうあとは初日だけ行ってもいいぐらいだ。



参照:
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-21 23:06 | 歴史・時事 | Trackback

Kawaiiからは遠い運命

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新聞文化欄にサイモン・メイ著新刊「ザパワーオブキュート」が大きく扱われている。所謂Kawaii現象つまり社会の幼児化趣向への社会学的な視点で綴った書籍である。それによると、トラムプの行動や2008年当時の日本の外務大臣麻生などが例に挙げられる。KittyやPokemonnやEMOJI流行は言うに及ばず、ETやバルーンドッグス、シュレットなどのキャラクターの目や口に注目する。

心理的には、幼児化現象として、まさしくグスタフ・マーラー作曲第六交響曲の幼児退行が思い浮かぶ。最も作曲家の現実環境があまりにも辛辣を極めれば極まるほど、そうしたきらきらピカピカの幼児体験に想った世界へと戻りそこに遊ぶという心理と同じである。

ドイツにおいてもそのようなトイレットペーパーが直ぐに売り切れたとされる。ハローキティ―などのそれがある程度定着していて、日本の時の外務大臣が後押ししたように漫画を中心にそうしたサブ文化的な影響はあるものの比較的キュート文化からは遠い社会であったのにも拘らずである。だからこうして高級紙の文化欄の最初の記事として大きく取り上げられている。

やはり一種の社会の閉塞感という事なのかもしれないが、日本における芸術的な文化的な趣向と言うのをそこに見れば、現実逃避的な要素はとても強いと感じる。特に日本における西洋芸術音楽需要の核にある心理であって、西欧19世紀におけるフランス革命以降の市民の勃興を契機とする市民の「人生の苦悩」がそこでは最たる関心事となっている。

偶々見つけたDW放送の記事で、「運命交響曲」の命名自体が同時代のシンドラー絡みの運命の動機への言及であって、その後の浪漫派時代には揺るぎない文芸的な意味を保ち続けたというのはその通りであろう。それどころか1960年代のフォンカラヤン指揮全集録音における世界への西欧音楽文化の波及として、世界の隅々まで同じようにマスに働きかける「人生の苦悩」としての運命主題として定着させたことはあり得ることだろう ― まさしくそれを更に一歩進めたのがチャイコフスキーらであり、そこからマーラーへもと受け継がれる。

これを見れば、なぜ通俗名曲と呼ばれるものが、こうした「人生の苦悩」を土台として、そしてそれが複製芸術として市場を形作っていったかが明らかになる。なるほど心理的にはマーラーへと進むとひねてはいるが、その延長線上にある心理であることは間違いなく、次点として日本では売れる曲、プログラムとしてそれらが挙げられる ― つまり日本人の歓心を得ようと思えば「人生の苦悩」しかないようだ。

そこで放送記事で取り上げられているように、ロート指揮のレシエクレなどのオリジナルサウンドを求める楽団の演奏では、もともとフランスでは自前のフランス革命精神から演繹的に「運命の動機」つまり「勝利の歌」としてのハ長調のフィナーレからイメージが定着するとして、なるほどその「運命の動機」への意味づけが変わってくる。革命前には、そうした職業の選択権も移住の自由も結婚の自由さえも無かった「人生の苦悩」などは存在しなかったので、楽聖には健康上の問題はあったにせよそれを超えたチャイコフスキーのような苦悩を当て嵌めるのは誤りであり、精々ベルリオーズなどをそこにおけば足りるのである。こうすることで、その後の浪漫的な芸術への創作意志などがより浮かび上がってくることになるだろう。

その面の右下に、バイロイト出演予定のアナ・ネトレブコがローエングリン出演をキャンセルして、来年もデビューは無いことが発表されたと代役の発表と共に短報してある。来年以降も出ないという事で、「疲れた」と言うのは結局エルザへの挑戦が上手く行かなかったという事になりそうだ。



参照:
Der Schrecken der Verniedlichung, Melanie Mühl, FAZ vom 9.8.2019
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
無酸素で挑む運命の先 2019-07-23 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-11 02:33 | 歴史・時事 | Trackback

破壊された壁画への観照

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承前)聖書の「サロメ」からキリスト教の影響を取り除く作業は、既に中世から盛んだったようだ。そこでは、異教的な魔女として親子が扱われる。ヨハネ祭の所謂ヴァルプリギスの夜の魔女である。これもまたグリム兄弟によって纏められていて、19世紀のドイツ語圏での伝説となっている。それが丁度世紀の変わった20世紀の新生国家ドイツにおいて、文化立国における共通認識の一つとなっていたとされる。つまり、オスカー・ワイルドの原作をリヒャルト・シュトラウスがオペラ化する時の時代背景がそこから考察される。

大きな要素は、ニッチェの「神は死んだ」神無き社会であり、それは丁度ヘロデの国と重ね合わされて、同時に終末思想と救済つまり死と生が隣り合わせの社会気風が表徴されているとされる。そこではサロメの踊りのヴェールこそは剥ぎ取られても何もそこにはないとされる虚無となる。第一次世界大戦後の変容は知られるところであり、またオカルトとして大戦間にあった動きも知られるところである。

同時にハインリッヒ・ハイネによる「アッタトロール ― 夏の夜の夢」におけるサロメの性化が俎上に上る。勿論ハイネの興味はキリスト教に教化され変化させられた信仰対象ではなく、そのもの民俗学的に粗野な営みとなるとされる。

前者においてはヨハナーンはタンホイザーとは反対にキリスト教原理主義者として、後者においてはサロメはアリアドネ神話などと同じ妖精のカタログに組み込まれるようだ。それらを総合して、ヨハナーンの首へのサロメのデュオニス的歓喜とされる。

こうした歴史的そして創作の時代的背景を前提として、映画「愛の嵐」にヒントを得て今回のヴァリコフスキーの演出となった。前回観劇した「影の無い女」においても演出家の最終的な視点は「死への扉が開くサナトリウム風景」だった。つまり、比較対象として「タンホイザー」を若しくは昨年ザルツブルクで「サロメ」を演出したカステルッチの沢山の記号を組み合わせたパズルのような謎解きではなく、寧ろ観照に富んだ演出をする。今回の演出においても破壊されたシナゴークにおける壁画のアニメーションが最も美しい情景となっていた。

ヴァリコフスキーの語る視点は「終末思想と救済」の対象化にあって、まさしくキリル・ペトレンコが作曲家の後年の芸術的な意思を音化したことに相似していた。死が何も意味を持たないその営みこそがこの舞台で問われた。ユダヤ人の集団自殺こそはまさしく、ナチスによって追いつめられながら、ガス室への道を歩んだユダヤ人の姿として象徴された。このことは誰も書くことは許されない。そしてある意味とても健全なブーイングとしてそれは意思表示された。

ナチスによるユダヤ人抹殺計画は政治的に決して相対化されるものではないとするのは、ドイツ連邦共和国の理念にも等しい。しかしこうして恐らく芸術化によって歴史化への道を進んでいると思われる ― まさしくアドルノの「詩を読めない」に反抗している。少なくとも十数年前には考えられなかったことである。上で見たようにユダヤ主義の思想もドイツ文化の一部として強い意味を有していて、文化的には必ずしも加害者被害者の視点が明白ではないという事でもある。

今回の演出の過激性はまさしくその観照の視点にあった。首の入るべきブリキ箱には強制収容所で命を落としたとされる人数らしきものが書き込まれ、プログラムには同じ箱が積み重ねられた金庫室のような写真が挿入されていて、「死んだスイス人」の題のクリスティン・ボルタンスキの1990年の作品とある。こうして同時に強い政治的な主張ともなっている。

最早、嘗ての様にコンヴィチニーに代表されるような左翼イデオロギーの作為ある演出が何らかの意味を語ることは無くなった。ここまで腑分けしてしまうと、最早、作曲家によっても否定されるようなメローなリヒャルト・シュトラウス演奏が許される余地は無い。キリル・ペトレンコ指揮での新制作も数えるほどしかなくなった。支配人バッハラーの仕事として、バイエルン国立歌劇場のスタンダード作品「サロメ」としての制作として大成功だったと考える。そして今シーズンの大モットーこそ「歯には歯を、眼には眼を。」であった。ニコラウス・バッハラーの意志は固い。

1906年5月16日のグラーツ初演での新聞評がプログラムに載っている。書き手はブルックナーの弟子のデクセイと言うユダヤ人で、お手本のようなアナリーゼにブルックナーとの音楽的比較などもして、この作品の価値を問うている。そしてその初日に集まった名士マーラー夫妻、プッチーニ、ベルク、ツェムリンスキー、ヴィルヘルム・キェンツルのみならず若いアドルフ・ヒトラーが居たという事だ。(終わり)



参照:
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
バラの月曜日の想い 2018-02-16 | 暦
真夏のポストモダンの夢 2005-06-25 | 暦
闇が重いヘクセン・ナハト 2005-05-01 | 暦
by pfaelzerwein | 2019-07-13 02:06 | 歴史・時事 | Trackback

オペラが引けて風呂と酒

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承前)演出家バリーコスキーはマガジンの対談で語っている ―

クシュトフ・ヴァリコスキーと立場を共にするので、この「サロメ」においては反対に最後にとても気分が悪くならないようでは失敗だ。人々が出て行って、「ああよかったわ」叫ぶとすれば、たとえそれが当たっていたとしても、何かが上手く行かなかったという事だ。こういうオペラが引けた後で必要なのはシャワーを浴びることで、自分自身の場合はヴォトカと風呂だよ。それに引き換えアグリピーナは、言えば鮨と吸い物だよ。

なるほど、彼はバイロイトで「マイスタージンガー」の後でブーイングがなかった意味も分かっているのだろう。確信犯だ。

しかしヴァリコスキーがここまで単刀直入な演出をするとは私は予想していなかった。新制作「サロメ」のプログラムには事細かな情報が満載されている。そしていつものドイツのオペラ評論がそれについて深入りしていないことも想定内だったのだろう。再びフランクフルターアルゲマイネの演出に触れた部分を読み返す。

なるほど、劇中劇の「サロメ」がゲットーの中で催されている事、多民族ではなくユダヤ民族の集団となっていて、影響をしたパッソリーニの映画以上に価値ある芝居となっていて、青酸カリでの自殺へとその枠組みが崩れていくことを評価してポストドラマとしている。パッソリーニの映画をよく知っている人にはあのブーイングの意味が分かるのかもしれない、しかし私には分からなかった。

ヨハナーンが入って、死神との踊りが繰り広げられる真ん中の谷は、ポーゼンに2011年まで使われていた室内プールで、ラファール・ヤコヴィッツのヴィデオがモデルとなっている。1940年4月4日にザイルで屋根の星が弾き倒されたシナゴーグの内壁がそのまま内装となっていたプールである。

一体そこまで具体性を以って演出家はなにを言いたかったのか?ヴァリコフスキーは対談で、そもそもこの話しには裏が取れていなくて、オーソドックスユダヤとそうでないユダヤ、そしてナザレと議論をさせていて、ビッグブラザーの様にそれ覗いている我々は何者なのだ?と疑問を呈している。それを面白おかしく歴史的事項として扱っているキリスト者に疑問を投げかける ―

「綺麗な手でここから逃げられない。今観たリヒャルト・シュトラウスは語り草だよ、指揮はもの凄く、サロメは嘘の様で、ヨハナーンは素晴らしかったとは」。

一体、今日の誰に対して語っているのか?なるほど恐らくポーランド人に対してでもあり、ドイツ人に対してでもある。しかしガイダンスで、指揮者ペトレンコの右腕であるドラマテュルークのクラースティンク博士の話しの内容はそれを遥かに超えていた。そして恐らくプレスが語れないそして勘のいい者ならば誰でも気づく記号がこの演出には隠されている。少なくとも私が知る限り、ヴァリコフスキーと言う演出家の仕事はそこから始まっている。

その前に、注意しておかなければいけないのは、オスカーワイルドそしてシュトラウスの「サロメ」のその時代背景であって、それは詳しくプログラムに掲載されている。この手のプログラムにはあまりにも枠組みが沢山記述されていて、態々読んでも仕方がないと言う内容が冊子の三分の二近くに及ぶというのが普通ではないか。今回も144ページに36ページに及ぶ写真が挟まれている。舞台写真、歴史的サロメ像、そして残りはイスラエルから提供されたプロジェクターにも映されたポーランドのシナゴークの壁画の意匠などユダヤ関連の写真である。

つまり、二十世紀へと世紀が変わったところでの歴史視点から、演出家が語った今日ではヘイトとされる事象をもう一度洗い直す作業となる。(続く



参照:
Kopfloses Geschlurfe, blutiges Gekuschel, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.6.2019
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
未だ嘗て無いような合致 2019-07-01 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-07-10 22:40 | 歴史・時事 | Trackback

どこが面白いかと言います

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天才漫談家林家三平のことを思い出した。先代か先々代かは知らないが初代と呼ばれるらしい。先月日本からの放送でハンス・ロットの交響曲演奏を聞いて思い出した。その後のネットでの評判を見ていると肝心のことを誰も書いていないことに気が付いたからだ。要するに、頭の上に手を当てて、「こうやったら笑ってください」と同じようにそれを解説している節が無いからだ。

ハンス・ロットの何が面白いか、それはパロディーとか元歌取りいう概念を通してしか通じない話として「このネタのどこがおもしろいかと言いますと」と、それを説明しなければいけないのだ。それを誰もしていないように思える。勿論出版屋さんからの資料を旅路の飛行機で目を通しながら珍しい曲を探しているような指揮者はそれを言わない。それをするのが評論家や音楽ジャーナリストと呼ばれるような人の仕事である。

既に結論は述べているが、具体的にロットの曲を今誰が見てもブラームスか誰かのように突き返して、出版屋が相手にしないのはそれは変わらない。それでも演奏する価値があるのは、グスタフ・マーラーがいて、アイヴスのような作曲家とその作品が知られるようになっているからだ。

パロディー云々で話題になるのが、その時制的な前後関係だろうがお構いなく、少しでも科学的にものを考えれば分かるのである。我々今その曲が演奏される今日の視座からそのロットの作曲された時点を振り返れば、もはや途中で起こったマーラーやアイヴスの創造の痕跡無しには評価できないということである。これが歴史というものであって、修正主義論者のような第一次資料云々とはまた別な現実である。

つまりマーラーやアイヴスを通してしかそのロットの「駄作」が評価されるしか他にはないということである。そしてそれがもう一度俯瞰した歴史認識に繋がるところが味噌である。こうしたクラシックと呼ばれるような芸術を論じていて、時間の感覚や歴史的な意味を感じさせないような論評などは全く意味が無い。故人の吉田秀和や小林秀雄に一緒にどこかへ持って行ってもらうものだったのだ。如何に日本人がそうした未来永劫の時制の無い世界観を持っているかに相似している。

丸山真男が書くように政治学で言えば「プティングの味は食べてみなければわからない」状況と同じく、「革命」をやってみた後ではその前の状況で「創造」するのとは変わっていて、歴史は不可逆な時制の中で流れているので、戻った時点の視座では考えることが出来ないという原則がここにも当てはまる。

ここで三平さんはおでこにげんこつを当てる。評論とか何とか大袈裟なことではなく、ジャーナリストであればこのようなことは一時限目で学ぶことではないのだろうか?要するになんら教育を受けないでも、ごく普通の世界観を持っていれば誰でも分かることなのである。



参照:
市民を犠牲にやってみた 2008-09-01 | SNS・BLOG研究


by pfaelzerwein | 2019-02-28 05:34 | 歴史・時事 | Trackback

マグナカルタの民主主義

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Brexit関連の記事を読んだ。暮れの記事だが気になったので脇においたのだ。見出しは「脳があるなら離脱する」で、残留派の牙城ケムブリッジに取材している。ここに来て国民投票の再実施など残留派の声が高まる中で、学内では僅かな声が離脱として新たに隠されているというのだ。つまり離脱派の発言をするとその学者の地位まで失いかねない状況で、匿名の論文などが出されているらしい。

その発言をする一人はフランスの歴史を専門とするトムブ教授で、もともとが独自の文化保全から全面的なEU派でもなく、ここに来て改めて表明した。氏の出自が所謂指導層や知識層ではなくて、左派リベラルにとって無教養で知能の弱い過半数の国民に属し、その声に耳を傾けない姿勢を批判している。そこには英国特有の歴史があって、大陸のように啓蒙された市民による民主主義ではなく、マグナカルタで保障された英国の民主主義があるという。

つまり、各層の指導者の声がオピニンリーダとなってとなるが - 私がここで昔から言及しているドイツにおけるオピニオンリーダー指導層と変わらないではないか ―、国民がそのようにして選挙をして国民投票で決めた事情を聞かずに、再実施となった場合は英国の歴史で初めてそのシステムの機軸を失うときとなるとしている。そのことこそがポピュリズムであるとしている。

そして英国政府の交渉が自らの道を示すことなく、EUの出す条件との闘争となっているのが問題であり、EUに関しては現在のユーロ圏に留まって更に集権化していく行くのではないかと予測している。

日曜日が迫ってきた。足元が覚束無くなってきた。気を紛らわすためにネットサーフィンしていると、地元紙に日曜から始まる連邦共和国ユーゲント管弦楽団五十周年記念ツアーが紹介してある。ルクセムブルク公演は殆ど券が出た筈だと前夜確認していたので不思議に思って、改めて残券状況を見る。なんと舞台の作り方で今回は出ないと思っていた席が出ている。そもそもルクセムブルクに行くつもりが、途中でエルプフィルハーモニーの券が二枚入ったものだから、どちらでもよいと思っていた。売り出し開始の日に狙っていた席が出なかったので放っておいた。するとクリスマス前に予想通り割安席として出た。オルガンの下の席である。さもなくば最前列を狙っていたのだ。そしてそれが今回出た。要するに齧り付きだ。

しかし、向かい側を押さえたので文句はない。実はエルプフィルハーモニーもそれだったが距離が全く違う。今回はペトレンコの合図のティーンエイジャーへの目線が見所だ。勿論指揮もいつも以上に丁寧なキューが出ると思う、そして「春の祭典」の変拍子の深い拍。また特に初日の事故時の対応が楽しみだ。だから楽譜が頭に入っていないと面白くないのだが、私のような凡人には難しいと思う。オペラ劇場でもフィルハーモニーでも拝めないものを見てきたい。

通常はルクセムブルクの価格は割安なのだが、今回は割高になっていて、その辺りの管弦楽団と同じぐらいの価格で、フィラデルフィアやクリーヴランドより四割だけ安いのだ。だからまだ完売していない。北ドイツから親御さんが来るにも遠い。だから我々のような特殊な関心を持っている者が特殊な席に勢揃いするような気もする。これで同時にエルプへの期待は大分小さくなって、殆ど会場見学と翌日の観光、劇場行に重心が若干移った。初日と二日目のドルトムントの間での変化が三日目に出るのか、最終日のベルリンでなのか?

今し方バーデンバーデンからメールが入った。ランランが曲目変更を申し出て、フィルハーモニカーと復活祭が了承して、キリル・ペトレンコも即座に了承したという。ベートーヴェンの協奏曲三番から二番になる。楽譜をまだ見ていないので分からないが、印象としては三番の方が左手が重要な気がするがどうだろう。ここに来ての申し出だろうか、憶測を呼ぶ。ペトレンコの三番は既にレパートリーとして定着していたので、二番となると急遽更なる時間が必要だ。管弦楽団も指揮者にとっても負担は若干増える筈だ。調べると同様のものを世界中で弾いているので既に決まっていたようだ。どうして今頃になって発表になったのだろう。復帰後の演奏を見ているともう来ていらない。調子を崩して代わりに誰かが入ってくれる方が嬉しい。あの程度のピアノを聞いても自慢にもならないからだ。しかしペトレンコもよく引き受けたと思う。シェーンベルクの日が売れないからとそこまで譲歩する必要があったのか?こちらとしては思いがけず新たなレパートリーとしてベートーヴェン演奏を聞けるのはお得である。



参照:
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
興業師からのご挨拶 2018-12-21 | 文化一般



by pfaelzerwein | 2019-01-04 03:28 | 歴史・時事 | Trackback

「軍隊は殺人者」の罪

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月曜日のフランクフルターアルゲマイネ新聞裏表紙面に記事があった。新聞を手に取った誰でもが目に付く記事だ。ケムニッツ騒動に対して、極左翼ロックグループが大統領の援助を受けて開いたイヴェントに対する批判である。詳しい内容は想像しても仕方がないが、それに近い既に最高裁で侮辱として判例の出ている言葉で例示可能なようだ。「軍隊は殺人者だ」、それと同じように警察やジャーナリストを貶すのだ。それ故に大統領までが批判の対象になっていると新聞は伝える。

91歳の指揮者ブロムシュテットが指揮して、ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンの二つの管弦楽団が合同でこの土曜日にライプチッヒでコンサートを開く。その記事をリツイートしようかどうしようか少し考えた。理由はこうした示唆行為の意味を考えるからだ。シュターツカペレはご存知のようにPEGIDAで扇動した指揮者ティーレマンが音楽監督であり、その楽団の多くはその旨に賛同しているだろう。つまりAfD支持者が多い。そして、今回のお声に対して賛同してやってくるのは「両管弦楽団で20か国を超えるという外国人奏者」を中心に、反AfDの楽団員である。合同演奏会であるから双方共から共感しない人などが先ず下りて、最大シュターツカペレからは過半数以下が参加するのだろう。幻想交響曲演奏の人員であるからそれよりも更に低い割合だろうか。しかし東独時代から監督であったブロムシュテットが指揮するとあって、思想信条に関係なく参加しやすい。これは指揮者の人徳だと思う。

そのように考えていると、ステートメント等の提示があった。そして完全に納得した。ドレスデンの方は劇場が母体となっている。中々微妙なところでPEGIDA扇動指揮者ティーレマンとは関係が無い。一応双方の顔を立てたという事になるのだろうか。それでも11月にドレスデンでも同じように開かれることから少なからぬ反響と影響は出ると思う。実際既に独ネトウヨのネット攻撃が始まっているようで、抵抗を感じる人も少なからずいる。個人的には老指揮者の考えやその思想信条をある程度理解している心算なのだが、既に書き込みにあるようになぜ幻想交響曲なのか、その前にエグモント序曲が演奏されて、指揮者の言葉があるので、そこで言及があると思う。

しかし思ったよりも、ステートメントの内容は、具体的でその立ち位置がハッキリしていてよかったと思う。第一に外国人の居ないドイツの管弦楽団などあり得ないことでもあり、その団員への強い連帯と配慮は分かり易い。流石にAfD支持者でもこの点に関して異議を唱える聴衆や楽員は先ずいまい。そしてブロムシュテットの宗教者としての分かり易さは少なくとも地元民には反論が出まい。しかしそれでも其れゆえの強固なプロテスタンティズムに反感を持つ人も居るだろうが、そこも含めてステートメントに「世界観の相違に拠らず」まで加えたのはよかった。これは意外にメルケルなどの連邦共和国水準では出てこない言葉ではなかろうか ― 要するに連邦共和国という世界観は保持されなければいけないからだ。

車中のラディオがシュトッツガルトから、そこの新指揮者のお披露目演奏会とその前に抽選で招かれた人々のための吃驚演奏会の様子を伝えた。結局七番イ長調とか、「レボレアーデ」とかが指揮者無しや指揮者のカスタネットを鳴らしながら演奏されて、楽章ごとに拍手となったのは如何に違う層の人が無料コンサートに申し込んだかが報じられていた。流石にカラヤン二世たるゆえんで、欧州ではアンドレ・リュ―の演奏会と二分するエンターティメント王を目指している。前者はブルックナーの交響曲9番を指揮することが無いのだが、こちらはベートーヴェンにしろブルックナーにしろお構いなしに指揮して、その技量もある。それが「シュトッツガルトの笛吹男」になる怖さである。一体この男とソニーは善良な聴衆を何処につれて行くつもりか?やはり力のある音楽ジャーナリストがガツンと打ちかまして欲しい。

「オテロ」の希望ティケットの配券のお知らせがあった。102ユーロなのに回廊一でまあまあだ。価格上昇にも拘わらず格をランク4、5にしたので、競争で有利になった可能性もある。以前は5、6が多かった。ヴァークナーほどにはペトレンコのヴェルディには金を出さないという人も居よう。それでもこの価格で後にネット販売で競うと可成り難しいだろう。もう一つは一日ペトレンコが振らない日を入れて、カウフマン特需を落としてくれたのだと思う。さてその日に問題なく行けるかどうか。



参照:
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
南プファルツでの事件 2018-09-07 | 歴史・時事


by pfaelzerwein | 2018-09-12 03:28 | 歴史・時事 | Trackback

南プファルツでの事件

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週末は再び試飲会だ。しばらく続く。最初の日曜日には予約していたグローセスゲヴェックスを取りに行った。勿論試飲して来た。レープホルツ醸造所に夕方手早く出かけた。予約しておくと少しでも安くなるので欠かせない。逆に予約していないと手が出難くなる。それでも結局試飲してみると予約したものが一番いいのだ。

この醸造所には三種類の土壌とその傾向に各々三ランク以上の商品が用意されているが、自身のリースリング嗜好からすると雑食砂岩しかない。要するに石灰が混じっていると薄っぺらくなってその場では楽しめても飽きがくるのだ。そして貝殻石灰土壌では直ぐに黄色くなってくる。この辺りもフランスの柔らかいワインとの相違で、飽く迄もエッジの立った固いぐらいのリースリングが好事家には愛される。なにかこの辺りも独仏の両文化のイメージをそのまま反映しているようで面白い。

そしてもう一つが赤スレートに近いロートリーゲンデン土壌のその名もカスタニアンブッシュというグランクリュワインで、この醸造所ではリースリングとして一番高価なのだが、その系統は他所の産地に更に良いものがあるのでここでは買わない。実際に今週末にナーへで予約した六本を回収しに行く。

暑い夏の間忙しくて、あまりワインも開けないことからナメクジにやられた。グローセスゲヴェックスが軒並みエティケットを齧られている。それを発見してからもまだ犯人を特定そして捕獲できていない。それも合成ノリをあまり使わないような少量生産品から喰われた。以前は地面に滑りがついて光っていたりしたので、移動を掌握して塩を撒いたりしたのだが、今回は地面も乾いていて意味が分からない。恐らく暑さで活動が取り分け盛んだったのだと思う。二週間ほどで軒並みやられたと思う。オークションにかけるのではないからよいのだが、大事に寝かしているものをぐちゃぐちゃにされて怒り心頭だ。それでも不思議なことに表面でなくて瓶の裏側で舐められているのもあるので不思議だ。

マンハイムへの車中で南ワイン街道で昨年起こった殺人事件の判決が話題になっていた。殺人犯がわずか八年の判決という事で、「ドイツであり得ない」とか「終身刑でないと」とかの感情的な町の声がラディオで流れた。犯人が少年で、シリアからの難民で殺されたのはトルコ系のドイツ人だったとされる。その事件以降毎週カンデルではケムニッツと同じように練り歩きが行われるらしい。それを町の人が迷惑していて、これでは止まないと怒っている。典型的な今連邦共和国で話題になっている現象だ。勿論ケムニッツとは町の大きさも違い、東ドイツではない。それでも我々の北ワイン街道沿いとは違って、経済的にもあまり良くない場所がらで、ライン河対岸のカールツルーヘの者からはその車のナムバーだけで嫌がらせを受けるような地域なのだ。ダイムラーのトラック部門などは州境のこちら側なのだが皆がそこで充分に富を得ている訳ではない。要するにAfDに走り易いような自意識の低い層が多い。ここ暫く政治的にも注目されるかもしれない。

放送では引き続き、イスラエルのラディオ局でヴァークナーの曲が流されて、始末書ものになったと報道があった。ヴァークナーが未だにナチの音楽であることに関連して、夜のベルリンからのコンセルトヘボー中継でもブルックナーの音楽の政治利用も話題になっていた。三番のそのメロディーもファンファーレとしてナチに利用されて、ゲッベルス博士のブルックナー賞賛の録音が流れていた。勿論ブルックナーのオリジナルの音楽だけでは到底プロバガンダには使い物にならないが編曲されている。だから注視しなければいけないのはそうした方向でのアレンジメントだったり、演奏解釈だったりのイデオロギーであろう。ニュースは、直接ヴァークナーの音楽で嫌な思いをした生き残りが生存している一方、ワーグナーを愛しているイスラエル人も少なくないと伝えていた。正直のところ、未だにこうしたニュースを聞かされて今更と思う反面、なるほどそうした音楽愛好の姿勢も存在するのだと再認識した。ブルックナー愛好家と称されるような人々がおかしな認識をしていないか、バイロイトの初代音楽監督の演奏実践やその発言の真意を引き続き監視して行かなければいけないと肝に銘じた。



参照:
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
脳裏に浮かぶ強制収容所 2016-10-11 | 歴史・時事



by pfaelzerwein | 2018-09-06 23:00 | 歴史・時事 | Trackback

ドレスデンの先導者

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日曜日の早朝の森の中は気温摂氏7度しかなかった。それでも陽射しがあるといい汗を掻く。これぐらいの気候が一番いい。水曜日、木曜日とルツェルンなので、週末から続けざまに走っておいた。これで週末再び体を動かせば十分だろうか。日の入りが早くなり、日の出も遅くなるので寝起きが辛い。

その森からの帰路、車中の文化波ラディオは、ケムニッツでの騒動などに関連してニュースを伝えていた。その前に米軍の沖縄と海外一位を競うエアーベースラムシュタインで30年前に起きた飛行機ショー事故の話題が流された。パイロットを含めて観衆が70人も犠牲になった事件だった。

ケムニッツの件は久しぶりに大事になった事件のようである。祭りの際に外国人との争いで刺殺されたことからケムニッツ市中が西部劇の街のようになっている。外国人とみれば襲撃して血祭りにあげろと騒いでいるので、日本の人種主義者グループと全く変わらない。サッカーのファンクラブのフーリガンやPEGIDAなども皆、根は同じである。西ドイツならばあり得ない光景であるが、二十数年前までは社会民主共和国だったところなのでそれほど驚かない。街中でドイツ人にも人権を認めろと騒ぐような爺さん婆さんは死ぬまで変わらない。洗脳教育とその反作用は怖いものである。それにしても、なぜあの手の無教養な連中は同じような言葉を使うのだろう。要するに逆差別がそこに存在して「ドイツ人にも人間らしさを」などとぬけぬけと言えるのか理解に苦しむ。世界中で同じような語法が流通している。ドイツのようなプロテスタンティズムの国でこうした意味の倒錯した言葉が使われるとは思わなかった。やはり行間を読んでいたような東ドイツ人民の表裏のある生活信条がそのような人を形成してしまうのだろうか ー どこか管理社会の日本人民に似ている。

それが安物の所謂日本で呼ばれるようなネトウヨ勢力の結集となって、ベルリンにおいても野党第一党になっているのが現状である。そして放送は伝える。ケムニッツだけでなくてドレスデンなどでも音楽家が先導していて、多くの親派とそれ以外の者の沈黙がそこにあると。勿論ここで名前こそ挙げられていないが先導者というのは指揮者クリスティアン・ティーレマンを代表とする。流石に「血祭りにあげろ」とは叫ばない。社会的立場があるからだ、そして明日から仕事が無くなるからだ。しかし、謂わんとしていることは今でも変わらない。「ローエングリン」の歌手がポーランド人になったことについてのコメントに関しても、ミュンヘンの劇場の広報部長などはその発言の主旨をしっかりと嗅ぎ取っていた。こうした人間がインターナショナルなニューイヤーコンサートなどに登場してよいものなのだろうか?少なくともそぐわないと感じて当然である。

一方、昨年日本でペトレンコと共演したユダヤ系移民ドイツ人ピアニストのイゴール・レヴィットも早速盛んにネット活動をしている。正直最初は彼のカウンター活動にはあまり共感出来なかったのだが、その考え方も分かってくると支援したいぐらいに思うようになった。その考え方は簡単である。PEGIDAのような主張や活動をその当然過ぎるような主張を放っておくと、AfDのような政党が野党第一党になり、取り返しのつかないことになりかねないということだ。つまり臭いものは元から絶たなきゃダメで、今回の件でも恐れているようでは余計に奴らを助長させて、本当に大変なことになってしまうという危惧である。だからネトウヨ同様の輩も片っ端からモグラ叩きのように叩いて行かないと手遅れになるという事になる。つまり広い市民層が、差別などは絶対許さないという強い姿勢で挑むことが必要になる。

焦って来た。先ずは燃料を満タンにしないといけない。スーパーも先に済ましておかないと午前様の帰宅の翌日が時間的に厳しくなる。服装も迷うところだ。もはや暑くはないが、小ざっぱりしたいと思う反面、遠くて映らないが二日目は実況中継で、場合によっては将来も残りそうな公演となる可能性が強いので、おかしな方に色合いだけでも目立ちたくはない。ホテルのチェックインは15時からなので、10時過ぎに出発して、年間通行券ヴィニェッテなどを購入して、ピクニックしながら走ればよいだろうか。ホテルで着替えて、一休みしてからでも十分に間に合う。コンサート後にしか食事をしないので準備しておかないといけない。そもそも最後のルツェルンの音楽祭訪問はクラウディオ・アバドの最後の年だったから数年前のことだが、車では頻繁に走っているので距離的な感覚は残っている。走行距離340㎞で、全くミュンヘンと変わらないが、道路状況は異なる。上手く走れば、交通量が少ないのでこちらの方が楽である。燃料も満タン一回で出来れば往復したいが、現地でどれぐらい走るかが今一つ計算できない。ホテル往復は7㎞以下と近いが、気持ちの良いところでお昼やお勉強でもしようと思うと未知の距離を走らなければいけなくなる。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事





by pfaelzerwein | 2018-08-28 22:46 | 歴史・時事 | Trackback

ベルリナーシュロース話題

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土曜日のイヴェントの案内が入っている。ベルリナーシュロースでの演奏会の歴史的背景について述べられている。1929年からこの企画が始まったのも、ベルリンでフェスティヴァルをそれもオペラフェスティヴァルを開いて世界中からの観光客を見越したからだとある。今のミュンヘンのそれに似ている。それに対して芸術的な意義が見つからないとして、このホーヘンツォル家のシュロースを歴史的遺産として使おうとして七回のコンサートが付け加わり、徐々にアトラクションとしての価値を増したようだ。

最初はシュターツカペレや市立劇場の座付き楽団がシュロース音楽隊とされていたようだが、1933年からフィルハーモニカーが登場してエーリッヒ・クライバーが、反ナチ政権の為1935年に亡命する迄ニ年間指揮した。その後、バロックからの作曲家末裔であるハンス・フォン・ベンダが場所に相応しいバロック音楽から古典派までの曲でオープンエアを指揮して人気を博したらしい。その理由は60ペニッヒで聞けるという社会的な使命もあったというから、今でいう何とかForAllというのと同じである。その意味からするとヴァルトビューネとも変わらない。その他戦後内部的に指揮指導をしていたレオ・ボルシャートの名前も挙がっている。さて70年ぶりにどれほどのイヴェントになるだろうか。予定通り隣のベルリナードームのあるルストガルテンでパブリックヴューイングもあるという。

プロムスからのチャイコフスキーを聞いた。ザルツブルクで名演を披露したリサ・バティッシュヴィリの音色を堪能したものだ。ロンドンでは、最初の音から弓が上手く走っていなかった。だからどうしても倍音が響かない。そして飛翔する筈のところがもう一つ行かないだけでなく傷もあった。本人の一時間の時差の影響もあるだろうが、ザルツブルクでの映像制作時のような演奏はいつも叶う筈がない。逆に安心したが、二楽章から三楽章などは挽回して、ザルツブルクよりも上手く行っていたところもあった。それでもラトル指揮でのドヴォルザークよりもいいところが出ていた印象だ。

ラトル指揮と言えばザルツブルクでのマーラー第九が話題になっている。評価が分かれているようなので興味を持った。勿論九月の第一週にそのラトル氏と一緒にルツェルンで同曲を聴く予定だからだ。バイエルン放送での評で大体分かった。大まかにいうと、ハイティンク指揮で期待されるような「白鳥の歌」に近いものではなく寧ろ三番などに近い「愛の音楽」が繰り広げられているという事だ。完全に解釈の問題で、その評価で批判もされ大絶賛もされてもいる。

個人的にはルツェルン音楽祭のHPでの紹介の仕方が本当に正しいのか、それともやや一面に偏り過ぎるのかに関しては疑問があった。少なくともアルマ・マーラーの想い出を見る限りそれほど諦念に満ちた曲ではありえないと思った。それを言えばすでに若い頃の曲でも行き過ぎ感はあるので、本当の表現はそうしたステレオタイプの文学的な解釈では導かれないものだと確信する。

なるほどラトルが得意とする交響曲10番のクック版などを前提とすると、今回の演奏実践は正しいように聞こえる。個人的な興味は、ハイティンク指揮の解釈のアンティテーゼである筈がないと期待させるところにある。私たちにとってはレナード・バーンスタインの呪縛から逃げることが先ず何よりもの関心なので、今回のラトル指揮のストップアンドゴーがゴムひもが伸び縮みするような物理現象的なイメージを抱かせるとしたらそれは格別面白いと思う。しかもラトル指揮の場合は入念にそれをリハーサルで仕上げてきている訳だ。そして四楽章の頭の触りを聞く限り、少なくともベルリンのフィルハーモニカーから期待されたような充実した響きでないことも確かだろう。ラトル指揮のコンサートに何を期待するかの違いだけである。本当のファンはこれからも支持するであろう、そしてただのミーハーにとってはペトレンコへと関心が向かってしまって、もはやロンドンのそれに関心を持つことなどは無いであろう。個人的には散々良い面も悪い面も聞き尽してしまったので、ハイティンク指揮の前の無料の「グルッペン」ぐらいへの関心が適当なのだ。そもそも同地のフィルハーモニアとは違い決して悪い管弦楽団ではないが、ロンドンのシムフォニカーやミュンヘンの放送交響楽団に金を掛ける方が間違いだ。米国の超一流に金をつぎ込んだ方が遥かに価値がある。



参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事


by pfaelzerwein | 2018-08-23 23:45 | 歴史・時事 | Trackback