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カテゴリ:マスメディア批評( 362 )

卒業宣言をする価値

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ザルツブルク州の結論が出た。現音楽監督はあと三回の復活祭登場のみとなった。2022年に希望していて、新支配人と争っていた演目は手切れの土産として「ローエングリン」が叶った。しかし実際にその公演が実現するかどうかは疑わしい。

舞台はザルツァッハからエルベ河畔へと移った。来年四月エープリールフールの元祖バイロイト音楽監督の誕生日までに辞表を出すとか書いてあるが、ティーレマンは辞表を出すなど一言も発言していない。要するに依願辞職の要請をメディア辞令で出して、この先は分からない。

そもそも契約当事者はザルツブルク州とザクセン州であると書いてある。するとこのメディア辞令に反応するのはザクセン州でしかない。ザクセン州は2023年以降も留まりたい意向を出している。つまり、ザクセン州の当事者であるシュターツカペレドレスデンとその指揮者ティーレマンの間で来年四月までに決着を出す必要がある。

バイエルン放送協会は、第一報でティーレマン自体がドレスデンのゼムパーオパーで新制作を殆ど振ることも無く、喜んでツアーに出てシュターツカペレを振りたいとしても欧州以外への演奏旅行は骨が折れるとして控えたいとしていると伝えている。そもそも欧州ではティーレマン指揮シュターツカペレは殆ど客が入らない。二千人近い大ホールでの演奏会は不可能となっている。よって、オペラ公演を中心とした復活祭上演も80%の座席占有率とはならなかった。

故に万が一シュターツカペレが首を据え替えても余程の人でなければ、例えばネルソンズ指揮ゲヴァントハウス管弦楽団よりも魅力があって、容易に集客とはならない。思い当たるのは指揮者ヴェルサーメストぐらいではなかろうか?勿論ドレスデンでも活躍しなければいけない。

だからバイエルン放送局は、元祖音楽監督はバイロイトに専任して、そこでもう少し活躍すればよいとしている。

要は、今後の焦点はザクセン州の反応と指揮者との攻防となる。管弦楽母体のシュターツカペレ自体の中にも様々な反応はあるだろうが、そろそろ指揮者との間でごたごたしそうな塩梅だ。こちらも首を据え替えてしまうならばエープリールフールまでにザルツブルクと新たに延長の契約を締結しなければいけない。少なくともザルツブルク側は様々な管弦楽団でと言っているが、実際問題として復活祭中に幾つかの催し物を複数の団体と毎年纏めるので容易では無かろう。

今回の騒動の第一次の勝利者は現バイエルン国立歌劇場支配人のニコラス・バッハラーである。そして勝利宣言、「巨人同士の闘争なんてなかったよ、そもそも巨人などではなく、争ったことなんてなかった。」。

録音しておいた先日引退したハイティンク指揮のブルックナーを流している。丁度一年前にチューリッヒで聞いた同曲の演奏からすると大分酷い指揮になっているようだ。あの時はそれ程慣れていないトーンハーレの楽団であったが、大雑把であっても崩れるところはなかった。その十日ほど前にルツェルンで聴いたマーラーの九番はそれよりも悪かったがコンセルトヘボー管弦楽団が崩れることは無かった。

既に昨年の春ごろから転倒続出で引退は見えていた。少なくとも自宅のある地元のホールに於いてマーラーの惜別の交響曲を最後として振りたいと卒業宣言していたので地元の皆はこの指揮者とのお別れをしたのであった。そしてやはり引退発表するようになってから余計に気持ちが折れてしまったのだろう。



参照:
限り無しに恨み尽くす 2019-09-03 | 女
プログラミングの決定権 2019-08-22 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-09-18 01:51 | マスメディア批評 | Trackback

お前はアホかの今は昔

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暑くなりそうなので早めに走り終えた。車中の放送が昨晩のベルリンのフィルハーモニーでの報告をするところだった。待ってはいれなかったので、車を離れて森へと入った。その内容はまだアップされていないが、それほどの批評ではないと想像する。どうも毎年初日は政治家やらドイツェバンク関係の招待が多くて聴衆の質も高くはないようだ ― 今年はG7でメルケル首相は来ていなかったらしいが、バーデンバーデンのパトロン代表の元副首相ショイブレ博士が居たらしいので少しは我々の為になるかもしれない。

そのような塩梅だから首都には芸術を理解できない下らない輩も多く、ジャーナリストもそのような話題を書いて糊代としている。何処の首都でも結局は取巻きは多くとも一流人は比率からしすればそんなにいない。終演後にレセプションが開かれて、そこの話しで、ペトレンコ自身が「前任者サイモン・ラトルの就任コンサートの会場に居た」とあったらしい。勿論「その時に17年後に継ぐなんて言ったらお前はアホか」とされたただろうと引用されている。

その範疇ながらも少しだけ面白い表現を見かけた。rbbの記事だがペトレンコの指揮姿をして江南スタイルとまで書いたものが出てきた。なんでもいいが、そこまでしてポピュラリティーを目指す必要があるのかなと疑問に思うところである。

昨晩の録音録画は一先ず順調に行ったようだ。しかしラディオの方や雑音が第九の後半で聞こえるようになる。原因は不明であるが、中々ストリーミングの難しいところだ。そもそも中継を聴き始めたのが実際の中継が終わってからであるから確か二楽章だったと思う。結構時間を掛けてARDのどの曲から受信しようかと調べた。ホーム局で品質の良いSWR2はHPの衣替えでよさそうなリンクが消えてしまった。以前はAACでも出しているので嫌いなMP3を録音する必要もない。しかしどうも容量が小さくなって使い難くなった。探すとWDR3が最も容量が多そうでそれを試した。音質自体は悪くはない。以前はここもMP3で320kbps出ていたようだが、どうもそこまではなさそうだ。

さて生中継のDCHの方は映像こそ光量も落としてあってそれほどでは無かったが、配信も比較的安定していた。最後の拍手時に小停電になったようで音が途切れたが、画像は終止順調に流れ、音質も満足のいくものだった。映像はアーカイヴになれば充分な品質であり、とやかく言うまでもない。

さて今晩はどうなるか?rbbは公共放送局なので容量は大丈夫だと思うがどうなるだろうか。天気も最高気温摂氏29度で20時には24度まで下がる晴天だ。ブランデンブルク前でのオープンエアーの第九生中継へと否が応でも期待が高まる ― オンデマンド提供中

芸術監督ティーレマン問題は、SWRの報道によると、バッハラーが例の「ローエングリン」や「エレクトラ」案を拒絶したとある。それならばもうこれでティーレマンは辞任するか、それとも「魔弾の射手」か「オランダ人」を受け入れるかしかないのだろう。恐らくこれでティーレマンが辞職、スュターツカペレドレスデンはザルツブルク復活祭で指揮をする指揮者を探すとなる。



参照:
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
ダブルヘッダ 2019-08-23 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-24 23:20 | マスメディア批評 | Trackback

ダブルヘッダーの予定

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アマゾンから今日中に発送のお知らせが無ければ、土曜日には配送は難しい。チキンレースである。なれば発注をキャンセルしてやる。今時在庫があって一週間先にしか配達しないというなら潰れてしまえ。幾らでも代わりの良心的な業者は存在する。向こうの罠に掛からないように発注状況も見ない様にしている。それにしてもあれ程までに会員にさせたいのには罠がある。上顧客に対してああした態度を取ることが許されない。

ミュンヘンから早速ティケットが届いた。日程が決まったので気になっていた他の日程を再びチェックした。ミュンヘンでの前後のゲルハーハーの歌う「ヴォツェック」とフォークトの歌う「ローエングリン」は、「死の街」で配券された入場料の高価さ183ユーロに、断念した。これ以上劇場に献金する必要も無く、宿代までを入れると大変なことになる。ストリーミングで無料で見るのが一番お得だ。月曜日19時始まり22時終了ならば、何とか日帰りで安全に帰宅できるだろう。

そこで気になっていた12月の日程が空いた。フランクフルトのオペラである。もう行かないと六月に言っていた舌も乾かぬ間であるが、マルヴィッツ指揮のCDの出来に彼女が新シーズンに二回振る新制作の一つに出かけたくなった。もう一つのバリコスキー演出の「サロメ」は来年の日程に拘わらず殆ど売れてしまっているが、暮れと年明けのフォーレ作曲「ペネロープ」は比較的良い席が空いていた。しかし問題は殆どミュンヘンの日程と重なっていて、そちら如何でダブルブッキングになりそうだった。だから買い控えていた。そして改めて見て行くと、ダブルブッキングになる筈の同じフランクフルトのアルテオパーでロンドンフィルハーモニーが指揮者ユロスキーとの最後の欧州ツアーの12月15日は15時30分に始まって、18時頃に終了することが分かった。つまり一度フランクフルトへと車を走らせれば両方行けたことに気が付いた。東京の音楽ファンがよく書いているダブルヘッダーと言うやつで、フランクフルトでは初めてだ。

終了時刻から開演時刻まで一時間を切っており、車で移動して距離的には数分だが駐車場の出し入れで20分以上考えておかないと駄目である。地下鉄も歩くのも11分ほどで、自転車だけが車よりも早い。さてどうしたものか?

いよいよベルリンでの祝祭的演奏会が迫った。ここでもう一度その中継の体制をもう一度まとめておこう。あまりにも様々な情報が出ていて混乱している向きがいるようだからだ。

先ず、23日(金)19時からフィルハーモニーでお披露目演奏会が開かれる。それに先立ってデジタルコンサートホールでは18時半前から中継が始まる。更に20時過ぎから独公共放送網ARDの各局ラディオで時差生中継が始まる。前者は有料、後者は無料で双方ともネットで流される。

翌24日(土)20時16分過ぎから、ブランデンブルク門の仮舞台でオープンエアーが中継される。20時からDCHで、又時刻通りにrbbTVが中継を始める。前者も後者も無料でネットでストリーミングとして放映される。

過密と過剰による転送障害なども予想される。23日のDCHも限界ではないかと思われる。どこまで流れるか期待したい。放送の方は九局ほどに分散されるのでこちらは問題が無いであろう。しかし曲によってネット配信の質が異なる。

24日に関しては、両ストリーミングに分散されるので、どちらが有利かは何とも言えない。rbbの方は公共放送なので前者の私立のものとはサーヴァーの容量が全く異なる筈だからだ。また後者は昨年お経験からすると生中継直後にオンデマンド化されるので比較的容易に観れる。音声48kHz,192Bits出ていたので、生中継は可成り音質も良いのではないかと予想される。



参照:
ブランデンブルク門を臨む 2019-08-21 | 歴史・時事
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-23 01:58 | マスメディア批評 | Trackback

プログラミングの決定権

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ザルツブルクの復活祭芸術監督ティーレマンがザルツブルク州に書面を出した。その内容が火曜日に地元紙で公開された。7月29日付けの書面である。

先ず、2022年以降の全体のプログラミングの決定権は、支配人に就任するバッハラーではなく、芸術監督にのみあることを明白にして、保証することを求めている。具体的には、「ローエングリン」をべチャラ、ジャクリーン・ウェグナーにエルザ、パンクラトーヴァにオルトルート歌わせるとするもので、2023年はカタリーナ・ヴァークナー演出の「エレクトラ」でパンクラトーヴァを使うという構想である。つまり今の時点で主要歌手と契約してしまわないと機会を逃すという事である。ざっと見る限り対抗馬のバーデンバーデンでは不要な陣容である。そもそもこれはバイロイトでの陣容ではないか。

それに対してバッハラーは、地元紙によると、ロマンティックオペラに限定してウェーバー「魔弾の射手」とか「タンホイザー」とか「オランダ人」を提案しているようだ。それに対して、例のジャーナリストのテイール氏などは「イタリアからのお客さんにはドイツ語台詞のものは拙い」とか書いている。つまり、今年の「マイスタージンガー」などの様に受けるものは受けるが駄目な演目は駄目だと。私などは、どこまで本気か知らないが、その器量にあった作品をやらせて最高の力を発揮させるのがプロデュースだと思うので、その提案は確かだと感じた。

そしてティーレマンは書く、芸術的な責任をもっている指揮者のプログラミングに対して外からちょっかいを掛けさすなどは以ての外だと続ける。

そこでいつもの根拠のない話が繰り返される。つまり「ペトレンコと一緒にべルリナーフィルハーモニカーがザルツブルクに戻る」という事で、それも不思議なことにいつも同じように「バーデンバーデンでは手に余るようになる」という予測が繰り返される。それどころか、「バーデンバーデンではフィルハーモニカーがギブよりもテークしているからだ」とおかしな根拠となる。勿論バーデン・バーデンは最初から喜んでこの条件を受け入れている。要するに、フィルハーモニカーは、合意したプログラムを最高度の音楽的な水準で示すために準備して、オペラ上演に日程を割くという事でしかなく、祝祭劇場がお膳立てを整える。つまりフィルハーモニカーにとってはザルツブルクに戻る必要などは全くないのであり、この契約条件は前任者ラトルの口からも発せられていて、悪い条件提示しか出来ないザルツブルク側が発する根拠とはなりえない。それどころかティール氏も、ザルツブルクはカラヤン時代にはベルリン市からの助成が出ていたが、それが無くなったために公的な援助を受けられなくなったとある。出て行くだけの要因はあった。

兎に角、9月17日にザルツブルク州の臨時総会が開かれるので、そこでこの問題について議論されるとしている。

余談ながら、指揮者のネルソンズのボストンでの契約が2022年に終わるとあった。そこで契約延長しない可能性は強いと思われる。ボストンはロート氏などを既に試している。もう一人の大物指揮者のヴェルサー・メストと共に去就が注目される。



参照:
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
敵はバイロイトにあり 2018-11-14 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-08-22 04:38 | マスメディア批評 | Trackback

次元が異なる名演奏

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20時15分を待って、3Satを観た。三カ国参加の放送局であるから、当然のことながらARDは自局のサイトでも中継している。それどころかZDFでも同じように中継していた。ドラマなどをやっているときにその質をつまり音質の品定めをした。数値的には同じようなもので若干3Satが落ちていて、あとは耳で比較するとZDFが上シャラ系の音がしていたので、それに決めた。録画と録音は別のネットで同時に進めた。BBCのプロムス生中継は断念した。ミュンヘンの後任のユロスキー指揮のロンドンのフィルハーモニカーは12月に聞く予定になっていて、興味あるプログラムだったが別に再放送でもいい。

実際録音してみて、オンデマンドのMP4とは若干異なるかなと思ったが、所詮はTVの副音声で、印象からするとAACの音質で、128kBit出ているかどうかだった。要するに先日前半が放送されたラディオとは明らかに音質が悪かった。しかしあまりあるのが視覚的情報の動画で、何回も観ると更に色々なことが分かるだろう。バイヤー氏の制作姿勢は、指揮者と楽員との繋がり方に主点が置かれていて、一寸したドキュメントになっていた。実際にユジャ・ワンの部分はインタヴューとロケを入れて別枠でポートレートが制作されていて、それもとても秀逸だった。

お目当てのフランツ・シュミット交響曲四番を観た。やはり記憶にあった以上に凄まじい演奏をしていた。音楽表現へと全身を投げ打っているベルリナーフィルハーモニカーの表情が備に捉えられていて、南ドイツ新聞はこれのことを書いていたのだと分かった。自分自身の席からは視力のこともありそこまで細かな表情などは窺えなかったが、音楽的には本当に満足だった。定期公演での演奏とは一つも二つも次元が異なっていた。映像を観てもこの日にここまでの演奏が出来た状況はそれほど浮かばない。

ユジャ・ワンのピアノと管弦楽の絡みでも近接マイクを通したものは異なり、会場ではピアノがどうしても埋まる傾向にあったので、録音を聞くと想定以上にいい演奏をしていたことに気づいたが、それ以上に一曲目の「ラペリ」からとても完成度の高い演奏会となっていた。ペトレンコ指揮演奏実践では、復活祭における「悲愴」と、また座付管弦楽団とのボンでのチャイコフスキー交響曲五番を挙げたいが、この演奏はフィルハーモニカーの歴史の一里塚となっていると思う。終演の喝采に映されたヴォルフガンク・リームが奥さんらしき人の横で両手で眼を押さえているのが印象的だった。

秋のコルンゴールト作曲「死の街」の券を発注した。初日に当たるのではないかと思っている。なんといっても高い。それはそれでいいと思う。初日は、「ルル」、「サウスポール」、「パルシファル」で、それでも一時は、中継放送もありその演奏の質などを考えて、初日公演を避けていた。しかしここに来て、ペトレンコ指揮での初日は「サロメ」などにみるようにとても質が高くなっている。放送も雑音交じりのBRクラシックは留守録音で充分で、金額は嵩むとしても少なくとも歌手が日程を合わせてきていて、あの独特の緊張感は得難いと思うようになった。理想は、放送二回とは別にもう一度生で聞くことであるが、もうそこまでは求めない。当たるとすれば月曜日ぐらいにお知らせとなるだろうか?

その演出のストーンは、ザルツブルクで「メデー」を演出したところで、その批評などを読んでいるとどういう方向に行くか何となく分かった。復活祭の「フィデリオ」演出のコレツニックがオパーフェストで「ファルスタッフ」を演出する。ミュンヘンは規模も大きいだけに目ぼしいところは直ぐに手を付けている。



参照:
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
by pfaelzerwein | 2019-08-18 23:51 | マスメディア批評 | Trackback

聴衆の一体感を再確認

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いよいよ一週間を切った。ブランデンブルク門でのオープンエアーは来週の土曜日だ。天気予報からすると晴天となりそうだ。イヴェントが盛況になって欲しい。そこには色々な意味合いがあるが、出来るだけ多くの人が近代の理想主義をもう一度振り返ってみることは大切である。まさしくそこに古典文化の意味がある。ハイカルチャーである。

その前日にはフィルハーモニーでのシーズンオープニングコンサート、こちらも今後を占うとても大切な演奏会であり、先ずはDCHで中継を観て、その後ラディオ生中継を録音したい。今回は一度しか演奏されないので、生中継もアーカイヴも少なくとも映像はカメラワークぐらいが変わるぐらいだろう。

そこで週末にはお勉強を始めないと落ち着かなくなる。いつもここまで引っ張らないと始められない。再来週は週明けから出かけて三泊四日なので逆算して計画しておかないと片づけものも済まない。忙しい週末になりそうだ。

そうこうして新聞を見ると、なんと昨年のルツェルンの音楽祭のハイライト、キリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの二日目の演奏会の全編放送の予定が載っていた。どれだけ待っていたことか。当日はそこに居てラディオ生中継放送も録音出来ず、勿論TV放送は全く観ていなかった。しかし今年になって、ARTEでその中からユジャワンのソロのプロコフィエフの演奏がプロフィール番組として流された。そして今月になってラディオではハイライトとして、前半のみが再放送された。特にデュカ作曲のファンファーレからラペリの大名演を初めてマイクを通して確かめられた。これは音質も良かったので大喜びだった。今まで聞いたベルリナーフィルハーモニカーの生中継として断トツに素晴らしかった。そして残るはこれまた大名演のフランツ・シュミット作交響曲四番がどうしても聴きたくなっていた。

そして全編放送だ。既にMP4の期間限定オンデマンドとしてダウンロードできるが、残念ながら画像は美しくても音質が44kHz,96kBit毎秒であまりにも物足りない。そこで一縷の望みを繋いで生のストリーミングを放送時間まで待ってみることにした。生憎同時刻にARTEで他のオペレッタが放映されるが、こちらはMP4で全く構わない。

肝心の「ラペリ」の指揮振りも前からは初めて観たが、いい指揮をしていた。そして私の並びの人のフライング気味の拍手とその時につられた私の拍手の反応が気になっていた。観ると拍手を切ってある様子も無く顔つきからは全く何事もなっていない。そしてペトレンコの満足そうな表情を見ていると全く問題の無い拍手であることも確認した。一年近く気になっていたことなので胸のつかえがとれた感じであるとともに、むしろ新聞で話題になったような会場との一体感を再確認した。確かに天井を見上げ、手を下ろすところで拍手を始めたのは私の列だった。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
決定過程を明白にする 2019-02-21 | 女
by pfaelzerwein | 2019-08-17 23:36 | マスメディア批評 | Trackback

鳴かぬなら突いてやろう

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ミュンヘンの劇場に出入りしているマルクス・ティールと言う音楽ジャーナリストがいる。ここ暫く音楽祭ゆえかコンサートについていつもの地方紙に幾つか回して書いているようだ。先日気が付いたのはクレンツィス指揮に関してはもぞもぞと逃げたような中途半端な文章でいい加減な投稿をしていたが、今回はネゼ・セガン指揮の地元の放送交響楽団演奏会について書いている。そして明らかに任務放棄をしている。それどころかばかげた結論を書いていて、これは突いてやらなければいけないと思った。

今更の如くネゼセガンについて驚愕しているのはプレス関係者としては不味いが、東海岸に頻繁に飛ぶような立場の人ではないから良しとしておこう。それにしてもSNSの映像を観て、行かなかったプロムスでの成功振りを予想して、如何にこの指揮者が同じように代行の指揮者マルキとは異なるかを強調している。因みのこの人の書き方からすればヤンソンスは休養ではなく病気となっていて、これは逆にこの人の情報の確かさの方を感じさせる。

この人はショタコーヴィッチの第五の演奏をとても評価している。それによると二重の意味とかそうしたものを演奏実践で実体化させているからという事になる。つまり、何だかんだ叫んだり、嘆いたりしてもその演奏自体が実体感を持っていなければ意味が無いという事になる。恐らくこの人の脳裏には先日同じ会場で体験したレニングラード交響曲の演奏があって、それについて書きたくても書けなかったという大人の事情が見え隠れする。まるで極東の国の音楽ジャーナリストのような斟酌や忖度の心掛けがある人なのだろう。奥さんは日本人か?

そして私が評価したベートーヴェンの二番の方は少し落ちるがそれでも素晴らしい演奏で、普段の余裕を持った放送交響楽団の演奏に胡坐をかかさないのがよく分かったとしていて、そこまで分かったなら放送交響楽団が指揮の水準までまだ弾けていないことを指摘しなければ片手落ちだ。恐らくこの人はもう一晩「ローゼンカヴァリエ」組曲まで聞いているのだろうが、流石にオペラジャーナリストとしては迂闊に書けなかったのだろう。と言うか、この人の綴り方を見ていると、「私は議論になるような面倒なことは書きませんよ、私の紙面を読む読者に向かって書くのですから」と地方紙の程度を言い訳に仕事をしている人なのだろう。

やはり年寄りは駄目だと思わせるのは、若い人ならば組曲に少しコメントすれば間違いなく交響楽団のみならず指揮者も目を通すことが分かっているので、少しでも影響を与えることになると思って、上手に批評しようとするだろうからだ。

豚に成り下がった人間は、ネゼセガンをその実演での集中度を齎す相違で、ハーディングやネルソンズとは大きな溝を開けていると番付を試みるが、精々私のブログでも翻訳機で訳して読んで置くが良い。そしてその相違がどこから来るかなどと言う科学的なジャーナルを一切試みない。なのにそれは確信しているというとんでもないことになっている。

そしてこともあろうに、八月の終わりにペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーが来て、お手並み拝見となるが、もしやするとその厳しさに喘いで、ネゼセガンに浮気するかもしれないぞと、とても破廉恥なことで駄文を結ぶ。ショスターコヴィッチでの現象としては楽員がソロもテュッティ―も一緒に息づくようになってとか書いているが、それならばこの人はペトレンコ指揮でミュンヘンでも一体なにを聞いているのだろうかと訝らざるを得ない。

これだから、我々音楽ファンは、歌芝居の世界などには近づきたくないといつも叫んでいるのだ。来年はバーデンバーデンでこの二人の競演もあるので、この親爺のどこかに書き込んでおいてやろうと思う。カーネーギーホールでは「ペトレンコとセガンを一緒にするな」と書き込んでいた人がいたが、私はもっとネゼセガンの指揮を勉強しなさいと言いたい。しかしそれでも、欧州に一ついいポジションがネゼセガンにも欲しいと話しを振って、放送交響楽団と言い出さないのは流石にトウシロウとは違う。ヤンソンスとネゼセガンのグレードの差もそれとなく上手に表現した ― 恐らくこちらの方がこの地元ジャーナリストの要旨だったのだろう ―、それならば楽団に向かって指摘することを指摘しろともう一度言いたい。そういういい評論家や聴衆が居ないから地方の放送交響楽団はそこまでなのだ。



参照:
Yannick Nezet-Seguin und das BR-Symphonieorchester: Die Seitenspringer, Markus Thiel, Merkur vom 5.8.2019
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-06 17:21 | マスメディア批評 | Trackback

初代改め元祖の方がよさげ

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新聞の音楽祭批評が続く。今度はザルツブルクからでなく、再びバイロイトからの批評である。次に血祭りにあげられたのは?想像通りだが、今度は私と同じような意見の書き手ではなくて他の人である。いよいよヴィーンの国立歌劇場音楽監督就任へと暗雲が漂う。そもそもジョルダン息子がたとえ父親よりは才能が豊かとしても、とてもではないがそのポストに付ける人ではないと確信していたが、誰もが本当の批判を慎重に避けていた。理由は、昨日書いたように大きな新たな市場へとの拡大の先導者になってくれるとの期待がそこにあるからだ。だから間違いなく政治的にも問題のある初代改め元祖バイロイト祝祭劇場音楽監督の方が実力もあり、従来のオペラファンを惹きつけられるにも拘らず、新世代へのその可能性に掛けていたかのように思われる。

そもそも件の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」新制作初日からして、酷いアンサムブルしか引き出せなかったこの指揮者にそれだけの実力が備わっていなかったのは明らかだった。しかし、パリのオペラなどは程度が低いのでどちらでもよいとしてもメトロポリタン歌劇場までが指揮に招聘する販促に加わったことから、益々正しい批評から遠ざかって行った。大体そうしたところが私の見る状況である。決してこの指揮者は政治的な問題がある訳でもなくペテン師でもないので、それなりの成果を期待したいのだが、如何せん実力の世界は厳しい。

つまり、昨年充分に指摘しておけばもう少しは修正してまともな指揮をしたかもしれないのだが、ジャーナリズムが放置したことで、「まるで追われているように、作品を通して、揺らせたり、畳んだり、ガタガタ言わせたりと、前日のティーレマン指揮の管弦楽団に比べるまでも無く全く以ってそれ以上のものではなかった。だから歌手は奈落を注視して歌わなければならず、それどころか初めから出てこない歌手までいた。」と「夜警が歌うところで一向に何も聞こえず、聞こえたのはプロムプターの声だけだった。」と「夜警が自分自身がお勤めせずに寝込んでしまった。」と書かれている。普通はありえないことで、そもそもあの歌は続く三幕でも大変重要な動機となっている。指揮者がまともに楽曲を把握して歌手に稽古をつけていればこのようなことにはならないのではなかろうか。

ミュンヘンでの「アグリピーナ」指揮の関しての見解が別れた。理由は、明らかに聴者のオペラへの興味や聴き方に準拠するという事が知れた。具体的には、歌を聴くか、作品を聴くかとなるのだが、その相違によって判断が変わるというものだ。具体的には改めてとしたいが、実は昨日の記事で、英国とイタリアでのデジタル化に伴うその新たな聴衆層の開拓の状況が異なるとあった。理由は、イタリアのオペラが昔からエンターティメントとしても広く愛されていることに係っている。この丁度対極にあるのがバイロイトのヴァークナー音楽祭で、最早そこでは歌を支える管弦楽ではなく、一体化しているからこそ楽劇と呼ばれるのである。明らかにジョルダンがそうした目的で楽劇を指揮することの矛盾が生じていて、新聞記者が上の様に批判するぐらいなら「ジョルダン指揮の楽劇など聴きに行く方が悪い、知らなかったなどとは言って欲しくない」と責めなければいけない。

BBCからプロムス中継でバイエルンの放送交響楽団ツアー初日を聞いた。もともとは常任指揮者のヤンソンスが指揮して、ザルツブルクへと回る予定だったが、衰弱の為のドクターストップからネゼセガン指揮で行われる。そして二日目にはプロコフィエフの協奏曲をリサ・バティシュヴァリと共演することになっていた。秋のフィラデルフィア管弦楽団日本公演の準備となっていたのが、健康上の理由で下りて、日本公演では昨年共演したばかりのチャイコフスキーの協奏曲へとプログラムが変更になったようだ。

さて初日の演奏は流石にベートーベンの交響曲二番ニ長調が見事で、このサウンドは手兵のフィラデルフィアでも出ない。管弦楽団が合奏の型を持っているようだ。しかし後半のショスタコーヴィッチとなると管弦楽の技量が一回り以上低い。フィラデルフィアの楽団が演奏すると大変な演奏になるが、放送交響楽団では限界が直ぐに表れる。下手ではないが上手に弾けない音形ばかりが出てくる。

流石に客演とは言いながら世界の頂点にいる指揮者がこうしたローカルの放送交響楽団を振ってもその限界まで簡単に突き進むことになる。ネゼセガンの指揮は益々よくなってきているようで来年の復活祭での競演が楽しみになって来た。



参照:
Gestern Nacht Kissenschlacht, Clemens Haustein, FAZ vom 31.7.2019
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
手取足取りのご指導 2019-07-27 | 音
by pfaelzerwein | 2019-08-01 00:05 | マスメディア批評 | Trackback

無視にしか価しないもの

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土曜日のザルツブルク初日の新制作「イドメネオ」の新聞評が出ている。先ずはその〆の一節。

「エートスとしてこのような脅威的徒党は無視にしか価しない」

つまり、「ザルツブルクの音楽祭でモーツァルトの音楽へのヘイトであったり、それをごみとして取り扱うことを基本コンセプトとして活動することは要注意だ」としている節に続いている。勿論これは上出来だった演出家のオープニングでの温暖化に対抗する演説内容程に上手く行かなかったその演出内容についてでもある。

そしてまた二年前にトンデモ演奏を繰り広げたクレンツィスが今回は三か所しかスペクタルな演奏を指揮できなかったことについても触れている。つまり、状況の分かっているフライブルガーバロック合奏団を同等のパートナーとしたことで、分かり易く、多面に亘り、表現を聴けるようになったことに反してとなる。合唱の大きな功績や歌手の横においてという事である。

それでも前日のSWR放送管弦楽団演奏会時の出で立ちには至らないが、その足元は明らかに議会外運動家の様相だったとされる。そして、前夜には、そのショスタコーヴィッチの「レニングラード交響曲」を振るにあたって、服装などでその指揮者を絶対判断してはいけませんよと“Don‘t judge a girl by her T-shirt“と書いてあるのと同じだとメッセージを読み取る。

そこでは、そうしたお膳立てが「特別効果」となって、ドイツ軍の封鎖前のレニングラードの平安への賛歌に最初の攻撃的な唸りで以って鞭が入れられる。一体この主題はどのように歌われていた!指揮台の独裁者ムラヴィンスキーでさえ、レニングラードフィルハーモニカーの黄金の弦楽の音色で、戦時下やテロ下でさえ音響的なヒューマニティーを決して失うことは無かったのである。

クレンツィスは、世界大戦をショーにして、その侵略の頂点で弦楽奏者を立たせる。そして、対抗させて金管楽器群、木管楽器群と、その劇場においては、もはや人はなにも聴かないことが謀られているが、体験ジャンカーにとっては更なる刺激の増大が必要とされて、過剰で刺激が麻痺する様になることが謀られる。そしてまた緩徐楽章でも彼は留まることない。なぜならば、掻き毟り、騒ぎ立てる以外に、語り、感情的に表現する技術的な手が彼には無いからだ。

演出に関しては来月の放送で確認するしかないが、少なくとも音楽的には二年前の話題性も何もかもなく、残るのは無様な足ふみを繰り返すこのカラヤン二世指揮者の無能な指揮振りだけだ。恐らくザルツブルク音楽祭史上最低のモーツァルト歌劇による初日だったと思う。あれだけ批判された同じところで上演された小澤指揮の「イドメネオ」でも音楽的には天才作曲家に寄与する指揮であった。

正直なところこのテオドール・クレンツィスと言う指揮者はその指揮だけは一流だと信じていたが、今回序曲からその始終踏み鳴らす音は、まるでルイ太陽王の宮廷楽長リュリが長い指揮棒で自身の足を突いてそれがもとで亡くなった逸話を思い出すほどの無様さだった。勿論、リュリほどの人物では無い事は分かっているのだが、なぜあそこまでやったのかを考えている。前々日のバイロイトでの指揮者ゲルギーエフの鞭入れも不自然極まりなかったが、これはそれが効果として表れるどころか、その堅いベースラインを上書きするように、とても非音楽的な情報となって、この指揮者の基本的な音楽性の程度の低さを示すだけだった。こんなに硬直したリズムしか取れない指揮者とは気が付かなかった。この様子なら精々二流の才能の指揮者で、そのペテンの仮面がこんなにも早く一挙に剥がれるとは思わなかった。なによりもブラック労働で仕込む自身の管弦楽団が無くなったのが致命傷だった。ブラック労働抜きではそれ程しか表現の出来ない指揮者、一体誰だ、あんなものを仕掛けたのは!



参照:
Kein Müll auf dieser Bühne, Jan Brachmann, FAZ vom 29.07.2019
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
by pfaelzerwein | 2019-07-29 22:08 | マスメディア批評 | Trackback

無酸素で挑む運命の先

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日曜日夜中のスイスからの放送は観れなかった。中継サーヴァーが弱かったようだ。生放送も問題なく流す方法は習得した筈だが入れなかった。結局オンデマンドを観た。ルツェルンの音楽祭を振り返る番組で、アバド死後の2015年にネルソンズが振った時のマーラーの五番である。最後まで飛ばすと客席に今年最後の登場を控えるハイティンク氏がどうも奥さんと一緒に居て、拍手していた。

同じようにミュンヘンの劇場からの中継で地域ブロックの掛かっているアジア向けオープンエアー中継録画再放送が観れなかった。こちらも重すぎたようで入れなかった。入れたのは終わるころだった。それでもDLを試みたが転送速度が遅過ぎた。生放送と異なって無駄な時間が無かったので、色々やってみる時間が無かった。放送されたのはMP4で結局オンデマンドの質と変わらないことを確認した。そこでなにゆえにオンデマンドとしなかったか?やはり著作権の切れていない曲が絡んでいるのかもしれない。

週末にノイエズルヒャー新聞がペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の正式お目見えについて、ブロムシュテット伝を纏めたユリア・シノポラ女史が書いている。彼女のジャーナリストとしていいところは、インタヴューが取れないならば、その映像からでもしっかり文字起こししてその内容を吟味しているところである。ジャーナリズムも科学的でないとその伝えるものが何の意味も持たない。

既にプログラムお披露目で聞いている内容であるが、こうして文字にして「(合唱交響曲は)あまりに保守的なプログラム」でと謝りながらと綴るとその意味が出てくる。全人類の表現となると勿論我々は途轍もないその表現内容を否応なく期待してしまう。ハードルを上げているのはまさしくキリル・ペトレンコ自身であるから、大変な自信である。本人の言葉を借りれば「無装備でエヴェレストに挑む」人の言葉となる。

それに劣らずチャイコフスキーの解釈に関しても、その解釈は、自発性があり、息づいて、直截な響きと、間違ってはいけないのは、その自発性は、学究的な分析によって意味の明白化に寄与しているとする。そして月並みなマンネリズムに抗う練習を厳格に行ったと宣言している。

しかし続いてそれが決して楽譜尊重主義へと陥るのではなくペトレンコにとってのチャイコフスキーの全人格的なメッセージとなっていて、それがダイレクトに聴衆の心を鷲掴みにするとしている。この部分は若干不明確で、どこからどのようにメッセージを引き出しているかが楽譜だけではないとしても、それ以上に学究的な話になる。楽譜尊重とは異なっても結局文献尊重となる。要するに指揮者の知的な水準が問われ、科学的な判断が避けられないところである。

運命の動機のことに関して、そのプログラム化、イデーフィックスについての言及に続いて、その音楽が示す、如何に人は運命と共存するか、それは「意志の強さなのか、民衆の身近に於いてか、それとも自然の中に於いてか、それとも舞踏へ、踊りへ、ヴァルツァーへの逃避で以てか」。こうして考えて行くと、更に前半のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲との音楽的なプログラミング上での繋がりへと思考が進んで行く。勿論キリル・ペトレンコの中ではこの二曲はそれなりの意味的な繋がりがあって、バーデンバーデンでのプログラムにもその糸口を見つけようとする文章が載っていたが、シェーンベルクはマーラーとは異なるので答え合わせはそれほど容易ではない。



参照:
Auf den Mount Everest ohne Ausrüstung: Kirill Petrenko und die Berliner Philharmoniker, Julia Spinola, NZZ vom 20.7.2019
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-07-23 01:23 | マスメディア批評 | Trackback