カテゴリ:マスメディア批評( 307 )

蛇足を画策したのは誰

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雪の上を走った。土曜日の雪で音が鳴った。日曜日から冷えているからだ。先週書いた零下7.5は間違いであったことが判明した。ディスプレーの液晶表示が傷んでいるので0.5度を錯覚したらしい。街と森の間で5度差はおかしいと思っていたが、間違いだった。朝はその零下0.5度の森だ。

路面等は開いているのだが氷結していて、坂を走って上がれるかと思ったが、森に入ると雪が乗っていて比較的問題なく走れた。陽が当たる部分は殆ど雪が無かった。下りは日向が続くので助かった。曇天で気温が下がらなかった分比較的気持ちよく走れた。それでも流石に駐車は少なく、樵作業が沢沿いで始まっていた。代替コースを検討しておかないといけない。

前日に頂上を目指さなかったのは正しかった。走っていたら積雪量と氷でとても苦しいことになっただろうと思う。無理をして身体を壊していた可能性もある。疲れて、終日タブレットの修理どころではなかっただろう。それでも雪の上を30分近く走ると芯から冷えてしまった。

ベルリンのフィルハーモニーでの演奏会評が新聞に載っている。来シーズンに先駆けそこでデビューする指揮者などがズビン・メーターの休演で続いている。注目されたのはヴァイオリニストのミヒャエル・バレンボイムであるが、そのシェーンベルクに関しては既に書いたので、改めて紹介する必要はない。一流の奏者である。そこに合わせた指揮者がまたデビューで、このデビューは蛇足だったと書かれている。日本で人気のあるペトレンコである ― SNS上ではサクラも沢山いるのだろうが。勿論キリルではなくヴァシリーである。その指揮に関してYouTubeで盲目らしきピアニストと共演しているのを少し見たので分かっていた。その通り、一流ヴァイオリニストと共演して一流交響楽団にデビューするような事が蛇足だというのだ。

フィルハーモニカーの反応も明らかに怠く、受け身でしか無く、適当でいい加減な「伴奏」ではこのソロに対応するにはどうしようもないと、将来が危惧されている。しかし、もう一人のペトレンコがいるからと閉じる。要するにこのデビューは、二人のペトレンコの紛らわしい状況を、コミュニケーション戦略的に見れば、もう一人のペトレンコを場外に送り出すことで解消したことになる。ラヴェル作品では少し改善されて、不器用な若者の、気分に乗って病気の如く空を掻き回わす指揮者の潜在能力を見せたと精々書かれている ― なんて潜在能力だ!。私には流石にここまで辛辣な内容を綴る力はない。流石ドイツでトップの高級紙だけのことはある。

要するに会場のお客さんにもはっきりしたということだろう。ファンにも本人にも気の毒なことなのだが、悪いのはその周りで銭を毟る業界であり、皆ご本人たちがその業界のお陰で自己実現をしているのだから、こうした無謀なサドンデス興業も断れないのだろう。そしてこれだけ叩かれると便利屋さんにもなれない。容赦ない罠に引っかかったのは誰だ?

同じような若々しい容姿の指揮者もいてメディア産業が市場を開いているが、それは丁度身障者の芸がコミュニケーションテクニック上脚光を浴び易く、それによって知名度が出て市場が開けるという構造と全く同じである。それが商業メディアによる主な仕事であり芸術とはあまり関係ない芸能界なのである。そもそもオペラ歌手などの世界はまた別の世界であるが、そこには身障者はなぜかあまり出ない。それでもまだ容姿が良いとか身障者ならば分かり易い明確な市場が開けるのだが、豚のような男がメディア戦略に乗ったのがどうしても解せないのである。要するに紛らわしいのである。

個人的にはこれを読んで、2018/19年はまだ知られていない若手がフィルハーモニーの指揮台に立つとされているが、本当に30歳代で将来を期待出来る人がどれぐらいいるのだろうかと訝るのである。キリル・ペトレンコにしても30歳過ぎには気鋭として既に注目されて無名ではなかった訳だから、20歳代ぐらいの経験の薄い人しかありえないと思う。要するに残りは二流の指揮者しかいないということになる。新聞ではないが、大丈夫だろうか?



参照:
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
零下7.5度の寒さを超えた 2018-02-17 | アウトドーア・環境
論評できない異次元 2018-02-12 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2018-02-21 04:37 | マスメディア批評 | Trackback

論評できない異次元

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承前)オペラの世界に引導を渡す天才指揮者と、何かを更に繰り返していこうとする愚鈍二流オペラ指揮者との世界を同次元で論評することは不可能だ。こうした高級一般紙が紙面を割いて伝える場合は同じジャンルの話しと見做されてしまうのが具合が悪い。

なるほど高級紙として、楽匠が考えていたような開かれた世界が911以降に変わったと書くが ― ティーレマン指揮をベルリン時代から何度も聞いてきたと言い ―、この指揮者が変わったなんてことはあり得ない。その後のPEGIDAへの参加など以前に、この新聞紙などと挙って我々は彼を攻撃している訳だから、そんなものではない。

しかし先の南ドイツ新聞の内容と、FAZの内容を一方の批評に充ててもそれほどおかしくはないのである。例えば今まで気が付かなかった管弦楽団のラインをとか、歌声と一体になった管弦楽とか、プッチーニなどベルカントと違わない感情的な音楽などであるとかである。最後のは例えばそれをドイツ的感情とすればアンナ・カムペ示したジークリンデの歌唱そのものだ。しかし、「嘗ての戦車仕立てとは違って傷つきやすいメランコリーと柔らかく流れる音楽を奏でる」と評されるオペラ劇場指揮者と、天才指揮者のそれを入れ替えようがない。「全ては総譜である」としても、結局はシュターツカペレの専売特許に乗っかっているという風にも読み取れる。要するにこの書き手は音楽を知らないクラオタのようなジャーナリストに違いない。そもそも、よりによって、「ヴァルキューレ」の死の予告の前の所謂「運命の動機」に纏わるところを挙げて、そこはヴァルキューレの騎行や森の囁きやラインへの旅のような管弦楽の目立つところではないなどとぬけぬけと書ける程度の音楽教養しか示していない。

なるほど、その場面を楽譜以上に強調する可能性はオペラ劇場ではあっても決しておかしくはない。そこが問題なのである。名曲をそれらしく鳴らしたり、大衆の期待に沿うように響かせることは罪ではないのだが、議論はまたそこにある。つまり最高品質の娯楽を提供するような指揮者ムーティなどがセンス良く響かすものへの許容と賛辞との大きな差異、またソニーレーベルの才能あるカラヤン二世が非音楽的に響かせることへの拒絶以上に否定し容易いものでもないことが、まさしくAfDなどの修正主義紛いの政治主張を否定することの難しさと相似なのである。

それでもバイロイト初代音楽監督の四部作を聴き通した感想として、宇宙の一部となり、漏らすことなく全てに合一化されるという感覚はキリル・ペトレンコのそれからは生じないだろう。ミュンヘンの方はドレスデンとは違って、場合によれば、上手く行けば行くほど醒めていく感覚も無きにしも非ずで ― 誰かが東京公演に接して漏らしていた感想でもある ―、必ずしも熱狂渦巻くということではありえない。コンサートの純音楽的な興奮とオペラ劇場のそれは違うということである。

宜しい、高級紙にも拘らずシュターツカペレから昨年は16人の弦楽奏者と3人の木管奏者がバイロイトの奈落に入っていたとか、どうでもよいことで貴重な紙面を汚しているのだから、それ以上には期待できない。しかし、なにも市場としてのオペラ劇場だとか、社会的な音楽劇場だとかの考察とは別にして、この人たちつまり少なくないこうした演奏行為を支持する人々の存在こそが書くべきことなのである。それは政治的に言えばやはりAfDとかの支持層に重なるものであり、要するにその人達の文化的感性であり、好意的に見ればライフスタイルの問題なのである。

なるほどそこで書かれていることの幾つかはなるほどオペラ劇場が音楽文化として伝えてきたもののひとつであることも間違いなく、それが19世紀のビーダ―マイヤー風であったとしても一概に否定されるべきものではないであろう。しかし、そこには社会の病理がある。なるほど、キリル・ペトレンコが今回ミュンヘンで示したことは、ある意味終焉してしまっているオペラ文化の発掘作業に近いものかもしれない。そしてそのような素晴らしいシステムが存在したなんて誰も信じてはいない。その一方その連中のやっていることは、「美しいxx」とか、まるで嘗て存在したかのようなことを言明して、それを実現化しようとしている妄想であることとの差が大きい。

それはもしかするとクリーゲンブルク演出のフクシマ禍であり、「文殊」のような永久システムの将来と過去をパラレルワールドとして境界を接して繋ぐものかもしれない。最終日を待たずにこうして結論までを書くのもポストモダーンの批評態度かも知れない。高級新聞は書いている、「ハンディ」電話の世界は違うと。



参照:
Geborgen in einem Kokon aus Klang, GERALD FELBER, FAZ vom 7.2.2018
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
MTBには負けないぞ! 2016-08-29 | アウトドーア・環境
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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by pfaelzerwein | 2018-02-11 23:00 | マスメディア批評 | Trackback

GeliebtGehasst

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月曜日の夜はミュンヘンの劇場からの中継があった。それ意外にも二種類のコンタクトがあった。一つは「パルシファル」公演予約のキャンセルの申し出の確認の個人的なメールで、もう一つは昨秋日本にも帯同してツイッターでコンタクトのあった広報責任者の名前でのアンケートのお願いだった。オペラフェストの特別販売でのアンケートだった。なるほどこちらもノウハウが蓄積されてきたが、あと四つか多くても五つぐらいの新制作を残すぐらいで、キリル・ペトレンコと同じようにフェードアウトする心算である。しかし劇場はスタッフも充実しているが、SNSなどを使って独自の広報活動を積極的に繰り広げていて天晴だ。ヴィーンのように観光客目当ては夏のフェスティヴァルだけなのだが、同時にこうして常連さん対策も欠かさないのは偉い。

ネット中継は音量が最初あまりに絞ってあって、また二幕で誰かがマイクに息を吹き付ける事故があったが、それ以外は素晴らしいサウンドで放映された。やはり専門のバイエルン放送局の方がドルビーサラウンド対応でステレオには難がありそうだ。そして前回の「三部作」の時にはアジア向きにもライヴを流していたが、誰も見ていなかったのだろう、今回は取り止めになっていて、その分本放送のキャパシティーが上がったようで、ストレスの無いストリーミングが可能になっていた。但しこちらのネット事情でHD1080Pは再生は不可能なので落とした形で、録音を主体に流した。録音はどうも完璧なようで、映像も今回から48000kHzFlac対応にしたので音質は上がった。あとはオンデマンドで高品質映像が落とせれば完璧である。最初の音量がどのように修正されているかも気になる。

次シーズンのプログラムお披露目の話しが出ていて、個人的には先週末にこの夏までのシーズンの予定が立ったところなのだが、既に次シーズンへと関心が向けられている。なにか劇場の広報戦略と言うよりも音楽監督ペトレンコの芸術的思考形態などをどうしてもそこに感じさせる。今回の「指輪」から「パルシファル」への流れと同時にどうしてもベートーヴェンの第七交響曲がそこに繋がってくるのである。

面白いのは、上のアンケートの回答者に抽選で入場券が当たるのだが、2018年9月下旬10月初めに掛けて劇場200年祭「ゲリープト・ゲハスト ― 愛されて、憎まれて」のフェスト週があり、ペトレンコ指揮「マイスタージンガー」再演のあることが分かった。ペトレンコは、ベルリンのフィルハーモニカーと8月末には七番「舞踏の神化」を振る。そして、ロンドンには6月にマーラーの「夜の歌」で登場するので、結局一度参加を断られたプロムスには参加しないから ― BBCのバカバカ! ―、9月はそこまでお休みなのだろう。しかしヴァルターを誰が歌うのか、エーファーには誰が入るのかとても気になるところだ。コッホのザックスは間違いないだろうが、ベックメッサーにアイへが入るかどうかはあの演出では大きい。

更に気になるのはアニヤ・カムペの任命式で、宮廷歌手になるとミュンヘンに現われなくなるという笑い話で、次の「トリスタンとイゾルデ」での彼女の登場は欠かせないと思われるのだが、それは意味深なのである。いずれにしても、「マイスタージンガー」に続いて春に「トリスタン」があるだろうか?「トリスタン」でヴァークナーは打ち止めだとすると、その他三つは一体何が掛かるのか?コンサートの方でプロコフィエフとデュカとシュミットが入っているのが気になる。劇場でリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」はあるのかどうか、それよりプフィッツナー、ブゾーニやヒンデミットの辺りがあるのか。

ストリームの映像を観ていて、やはりクリンゲンブルクはそのアイデアに関しては別にしても技術的にはとても職人的に程度が高いと思った。金曜日の公演に関して書き忘れていたが、とても小劇場的な音楽とそのセリフならぬ歌の細やかさは、アップにした映像からはあまり伝わらなかったが、左右に分かれたペア―の間を黒子が取り持つなど中々上手い解決法をしていた。劇場では細かな黒子などは殆ど背景に沈んでしまうのだが、ズームするとそれに気が付く。

秋からSWR放送管弦楽団に就任するカラヤン二世の演奏会評がフランクフルターアルゲマイネに載っていた。いつものように疑問しか湧き起こさない状況が報告されている。逐一、散々に叩かれている。 仕事とはいいながら態々シュトッツガルトまで出かけて、無駄な活きない批判をするのもご苦労様だ。ブルックナーの第九で最初からクライマクスを作ってしまうのであとは喧しいだけで、カトリックのこの作曲家のそれがまるでフォイヤ―バッハ風に料理されて、指揮者ご本人は音楽哲学的と自称しているからと嘲笑されている。あれが自称精神的で、今やその意味が変わっているのだろうかと、この新聞を読む各世界のリーダーにこのまやかしものの正体を見せつける。ソニーの広報の資金がどのように交際費として処理されているか知らないが、SWR文化波などは州の重要な文化の泉である。この指揮者が就任しても長持ちする可能性はないと思う。これだけはっきりと書けるということは当日のリーダーハーレの会場の反響にそれほど反してはいないと言うことだろう。放送局自体がその関連で大きなスキャンダルとなりそうである。次はバイロイトで「指輪」指揮か、能力の無い初代監督とは比較にならないぐらいの才能と魂胆があるからこそカラヤンの本当の後継者である。



参照:
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2018-01-24 00:04 | マスメディア批評 | Trackback

ヤホに表現の可能性を

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承前)ミュンヘン行の準備は大体整った。燃料も128セントだから受け入れられる価格だ。66Lで85ユーロであるから標準的な価格である。買い物帰りに入れたので、少々の雪道でも満タンで往復は出来るだろう。あとは購入する食料品を入れるアイスボックスを忘れないようにするだけである。

粘度が上がっていてエンジンオイル注意が出ているオイルを少しだけ入れておいた。200CCで効果があるかどうかは分からないが、帰宅まで注意表示が出なければそれはそれで気持ちがよい。少しだけ粘度が下がるだけでも走りやすい気持ちになるだろうか。燃費がよくなってくれると嬉しい。

FAZにプッチーニ三部作の批評が載っていた。それほど専門的でもないが、少なくとも以前のおばさんからすると、演奏者が読んだ時にそれが何かを語るかもしれない。演奏者とは何も音楽監督キリル・ペトレンコを特に意味しないが、全体のアンサムブルとして何らかの成果と聴衆のその受け止め方をそこに読み取れるのではなかろうか。

通常ならば少なくとも以前は公演前には敢えて目を通さなかったのだが、生中継を聞いていれば音楽的な成果は十二分に分かり、生で聞いて確認することはあまりない。ただしこうした音楽劇場作品は実際に体験してみないとその音楽劇場的な意味合いは実感できないものである。勿論演出自体はいくら写真を見ていても分かる訳でもないが、それに関してはこうした批評などを読めばある程度は想像がつく。それならば態々出かけて何を体験するのか?

批評では、アムステルダムのオフで活躍するロッテデベール女史は、コンヴィチニーの弟子らしいが、音楽劇場演出には批判的ということで、今回の演出もそうした新機軸とか何とかで批評されていない。その慎ましさはキリル・ペトレンコの音楽実践にも通じるということになる。面白いのは、この文章がペトレンコを取り巻く業界事情を暗喩して始めているところだ。

つまりペトレンコの様な芸術の徳は嘗ての話しで、今はコンクールなどに代表されるこれ見よがしの芸を飾り窓に入れて、更にアヴァンギャルドとして売るというのが新世界だというのである。それに比較するまでもなく、この音楽監督は美学的露出なんて言うことには全く興味がないようで、ミュンヘンのプッチーニ三部作においても、世界中がこれは新機軸だとか格別だとか喝采するようなことは殆ど強調しないとなる。

この前半の業界におけるその在り方は別にして、後半の芸術的なそれに関しての今回の公演でのコメントは、少なくとも体験するまでは敢えて反論も保留しておきたいと思う。そして、その具体例として「外套」における永遠に続く12拍子の印象を、もはやそこではセーヌ川の街はずれの騒々しい環境ではなくて、そこにまるで母親の胎内の羊水に浮かぶ胎児の遊泳の子守歌をイメージしている ― これはあまりに舞台に捉われた印象ではないかと思うが。要するに作品の本質に迫ろうとしているのだが、音楽的に導かれた結論ではない。

しかし音楽実践面に関しては、「歌手たちはペトレンコ指揮で歌えるのは幸福」であってと、音楽的核心の「修道女アンゲリカ」のエルモネーラ・ヤホに表現の可能性を慈しむかのような保護を与えたのはペトレンコ指揮の管弦楽団で、「メッツァ・ヴォ―ツェで歌い通して、最後に修道女のその安然の姿に火山の噴火を表現できたその効果はあまりに巨大だった」という。要するに管弦楽が音を潜めて演奏し得たということだ。

その他の二つほどの記事をリツイートしておいたら、ヤホ女史が見つけてくれて、今度は私の引用付きのものをリツイートしてくれた。フォローワーになるのは生で聞いてからと思っていたが流石にこれは外せなくなった。フォローする12人目のツイッターとなった。彼女の7010人目のフォロワーになったが、あまり反応が無いのは軒並み有名人をリストアップしている人だけの人が多いのかもしれない。昨日はオフの日に楽譜勉強のツイートが出ていたが、これは公演中に次の仕事となるとイメージが悪いと思ったのか消去したようだ。オフの日に気分転換に次の準備をしているのが興味深かったが、それを敢えてリツイートするのは避けていたのだった。(続く



参照:
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
心地よいだけでは駄目だ 2016-03-18 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-12-20 06:09 | マスメディア批評 | Trackback

いつも同じことの繰り返し

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毎年同じころに同じことをしている。昨年9月に購入したNASの容量が一杯になってきた。2TGの容量に倍増したので二三年は大丈夫かと思っていた。その後ストーリミングの動画をコピーするソフトを常用するようになったので、録画が飛躍的に増えて、予想を超える勢いで保存するファイルの容量も増大した。

そこで、ノートブックのHDDを交換したのもその後の11月だった。NASの中にはバックアップが終了した2016年12月までのファイルが入っていた。幸い乍ら壊れたHDDもデータを取り出しだけならまだ使えそうなので、それ以前のファイルのコピーは消去しても構わないと結論した。これで180Gほどの容量が開くので、再びバックアップとしての容量が獲得できるだろう。

同時にHDDに入っていて不要なファイルを消去した。ザルツブルクの「アイーダ」とかバイロイトの「マイスタージンガー」とか、「アンドレアシニエ」などをどんどん消去する。消せなかったのは酷い音楽が流れていた「ティートの寛容」ぐらいだろうか。デジタルコンサートホールのものをNASにアーカイヴに入れてHDDから消し去る。こうしてバックアップすべきファイル容量が削減可能となる。

結局1.8Tの半分以上を消去した。これで、1TのHDDのバックアップは完全に叶いそうだ。ただしHDDの容量自体がそれほど余っていないのでこちらもできる限り早めに整理しておかないとバックアップが済んだところでNASの容量もやはり一杯になる。

序に、NASの外付けHDDもスキャンチェックをしてデフラグを掛けた。一部修正が必要で、更にフラグメーションも7%ほど進んでいた。バックアップが壊れていると用をなさないので、早めに修正しておいてよかった。

タブレットのアンドロイドの方も調子が良い。なによりも改善されたのはパーフェクトヴューワーという画像ソフトで、NASからの呼び出しにストレスがなくなった。その他にもNAS対応のアプリケーションも増えて使いやすくなってきた。二年前とは状況が大分変わってきている。やはりこれは、WLAN内でのコマンド等の端末が主力商品になってきていることと関係していて、ソフトも洗練されて来ているのだろう。音源もタブレットでコマンドを与えておくと、タブレットをダウンさせても音が鳴っているようになった。

NASに必要なファイルを入れておけばPCなどにはファイルを貯めておく必要が無くなり、次期ノートブックなどもHDDからSDDへと移行し易くなってくる。なによりもメカニックなストレージがなくなることで動かしやすくなるのも、ノートブックのドッキングステーション化とは別方向での可能性が高まる。

新聞の文化欄にジェームス・レヴァインの件が触れられている。未成年者へのセクシャルハラスメントだが、三人の一人は17歳のセントポ-ル室内管のベーシストでクリス・ブラウンというらしい。なるほどこのような具体性があると、四月に告訴されたミュンヘン高等音大の校長だったジークフリード・モイザーと殆ど変わらない。パワーハラスメントにもなっている。昨年NYから強制送還されたゲヴァントハウス弦楽四重奏団のシュテファン・アルツベルガーのような単純な婦女暴行とどうしても比較してしまう。新聞にもあるように音楽の世界も芸能界であり、学生として教えを受ける方も、授ける方にも一種の合意があるということになる。何も音楽学生の経験談などを聞いてみる必要もないことだ。その一方で、昨年の写真家のデーヴィト・ハミルトンなどのように自殺へと追い込まれるような大事になるのは、80年代では到底考えられなかったような未成年者保護への意識が厳しくなった世論背景がある。全く好悪の問題ではない。

但し、モイザーやアンスベルガーの数多くの録音を楽しめるかどうかはその罪状や噂とは関係ないだろう。駄目なものは最初から駄目なのだ。因みに個人的には、充分にあるバーンスタインの録音以外にもレヴァイン指揮のも幾つかある。なにも今後ともそれに手が伸びるかどうかは変わらないが、そもそもそれほど有難味を感じているものではなく、最近はほとんど関心がなく元来優秀な管弦楽の演奏録音として興味があったもので、デビュー当時から知っていても生で聞こうと思ったこともない指揮者である。モイザーの録音もご近所のヘルシャーとの録音ぐらいだろう。演奏会もそれを聞いたが、あまり琴線に来なかったこともそうした面の表れともいえる ― その時は健在だった彼の宰相メッテルニッヒのお孫さんと一緒に聞いた。アルスベルガーはその活動からして箸にも棒にも引っかからなかった。要するに演奏実践に全てが表れるというような妄想を持ってはいないが、少なくともまともな音楽をしている人物かどうかが分かるぐらいでないと、聞き耳とは言えないのではなかろうか。音楽愛好家に言うのではなくジャーナリストと称する連中に言いたい。シュターツカペレを指揮したマーラーがどうだったとかいう前に芸術を報じろと、それが仕事である。そうすることで、1980年に逮捕されていたとか、1997年にはミュンヘン政界で話題になっていたとか、ミヒャエル・プレトノフへの言及など要らぬ言い訳を書く手間が省ける。



参照:
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般
ドナウヴェレという菓子 2016-02-12 | 料理
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-12-06 20:42 | マスメディア批評 | Trackback

大人ではない子供の世界

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プッチーニの三部作第一部の「外套」を見た。なるほど子供の時には関心がなかった筈だ。痴話物で、「道化師」などは分かってもこれは流石に幾らませていても分からなく関心がなかった筈だ。流石にであるが、若い嫁さんをもってという前提となると、また今少し揺すぶるものがある。

イタリア語の「外套」の意味は分からなかったのだが、恐らくこの日本語訳はそれほど決まっていないと感じた。細かくテキストを見ていくともう少し真っ当な訳が浮かぶかもしれない。少なくともその「外套」は嘗て若い嫁さんを温めて、そして最後にはその愛人の死体を隠しているというだけの意味ではなかろう。文学的に二人の関係がタイトルとしてしっかり表れているような和訳でなければいけないと思う ― 歯に衣着せぬの反対の感じになるのか。

音楽的には、最後のドラマティックな殺人シーンよりも丁度中間の浮気シーンが中心だと思った。その前後の流れでが全体の三部作に繋がるのではないかと感じた。更に最初の12拍子や三拍子系が当然のことながらセーヌの流れや舟唄に通じるのは在り来たりだが、その後にヴァルツァーに持ってくるなどの工夫が面白い。更に歌の線とユニゾン楽器などの書法がメロディーの線を重視するとともに、それが歌い易いだけではなくて、厳密に合わせていく必然性を感じる。

ダウンロードしてあったシャイ―指揮のスカラ座の演奏では、あまりにもお手のもののスカラ座の管弦楽団をそこまで厳密に振ろうとしていないようで、明らかに歌に合わせるような指揮をしているようだ。それはそれで本場物の感が強く大変な強い効果を上げているのだが、なにか手持無沙汰な感がするのは、クラウディオ・アバドがあまりプッチーニを得意としていなかったことと似ているような気がする。イタリア人にとってはあまりに日常過ぎてこの作曲家の書法に関心を抱くほどの距離感がないのかもしれない。(続く

ペトレンコ指揮の「子供の不思議な角笛」と「ヴァルキューレ一幕」を無事に鑑賞した。ラディオで聞いていたから改めてとは思うが、前半の「角笛」は四回目のミュンヘンでの本番とは大分異なっていて、動画を見ると上手く行っていない部分が見て取れた。管弦楽団の精度も異なるが、歌手のゲーネの方も流石に合わせてきていたので、上手く運んでいたところもNHKでは全く駄目だった。熱心にマーラーの歌曲を歌っているようだが、どこまで読み込んでいるのか疑問に思われ、この歌手の本領は「ヴォツェック」の様なオペラの狂人の役ではないかと思う。更に、それなりの音質なのだが、カメラアングルが歌手に集中していて重要な音楽的な情報にも欠けていた。資料的な価値はある映像かもしれないが、芸術的にはあまり意味ない映像だった。それに引き換え後半の方はやはり興味深いところが更に前半でも見つかった。NHKのカメラディレクターもマーラーの歌曲よりは「ヴァルキューレ」の方が曲に馴染みがあるのだろう。



参照:
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-11-28 23:58 | マスメディア批評 | Trackback

「ヴァルキューレ」一幕後半の放送

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キリル・ペトレンコ指揮「ヴァルキューレ」一幕後半の放送を観た。コンサートのヴィデオは無駄という持論だが、予想以上に興味深かった。先ず何よりもラディオ放送のそれとは、少なくともオンデマンドにおいて、音響が異なっていた。ミキシングが変わっているのかなと思ったぐらいだが、恐らくドルビーサラウンド放送もしているのだろうから、2CHでのそれは変わらないと思う。しかし視覚的な錯覚とは別に明らかに高音も低音も伸びているようで、前に出てくるとともに定位感があって、低弦やティムパニーの迫力などはラディオでは全く分からなかったものだ。全コンサートをしっかりと観たいと思っている。

しかしハイライトでも視覚的に座付き管弦楽団の面子だけでなくて、その表情などがとても面白かった。一番気が付いたのは昨年の欧州ツアーにも乗っていたピッコロの女性の好奇心溢れる視線だ。今回は第三フルートを吹いているのだが、やはり手持無沙汰になると会場の様子を窺っている - 私個人的にもこれを見ていて気になるのは東京の聴衆である。特に音楽が静まってくる時も聞き入るような雰囲気があって、どうしてもどのような顔をして静まり返っているのだろうと気になるのだろう。

クラウス・フォークトが語る「日本人のヴァークナー愛」は舞台裏での話題になっていたことは確かなのだが、それを受けて歌手としても、熱心なファンにもいいところを見せようと、一生懸命に歌っていることがひしひしと伝わってきて、パントラコーヴァ―が絶叫で想定以上の大見えを切ってしまったものだから、ペトレンコが「あれあれ、仕方ないな」となって、それがコンツェルトマイスターリンの表情にも反映されたりしていてとても面白い。

指揮者は暗譜をすることでアイコンタクトを楽員と取れるというのがあるが、チェリビダッケの凝視するようなものとは全く異なるコンタクトがとてもしばしば取られているのを見て、教壇の先生と生徒の様なものだと感じた。特にトュッティ弦楽器などでもコンツェルトマイスターよりも指揮の一撃を見るような俊敏で精妙さがこの演奏の価値を表している。

指揮者本人もこうした形での上演は本望ではなかったであろうが、これだけのタイムレスの歌手とのアンサムブルは舞台ではありえないので、一月の最後の「指輪」での特に「ヴァルキューレ」が益々楽しみになってきた ― そもそもこれのためにツィクルス券を購入した。こうした精妙でリリックな演奏が可能となれば所謂蓋無しの上演での極致を示してくれる可能性がある訳で、それによってようやくこの楽劇を心底楽しめることになる可能性が生じてくる ― アンニャ・カムペのジークリンデの弱音での発声も「マクベス夫人」で実証済みなのでこれまた楽しみである。

この東京公演での「ヴァルキューレ」は、音楽監督が長らく振っておらず、最後に指揮したのは2015年のバイロイトであり、その前の公演では管弦楽団が音を出し過ぎていて評判が悪かったので、また楽団も演奏するのはその秋のシモーネ・ヤングの指揮以来なので、どのような演奏を短時間で纏めてくるのかにとても興味があったのだ。楽団は慣れているとはいいながら少しの練習時間で天晴としか言わざるを得ない ― この練習風景が一番見たかった。

やはり座付き管弦楽団は基本的に舞台の上でオペラを演奏することがないので ― シャンゼリゼ劇場公演やカーネギー公演などを除くと ―、なるほど指揮者が語った「明るい音響だから、いつもよりも明白に演奏してください」の意味を考えさせられるのだ。四週間ほどの演奏旅行で一部の楽員は交代で帰国していたようだが ― 第三オーボエもべルリンフィルでソロで共演した奏者が吹いている ―、疲れも見せずにここまで覚醒して演奏しているのはやはり上手に動機付けが出来ているということなのだろう。

余談であるがヴィデオでこそ感じた印象は、特に女性団員がホテルの美容院かどこかでやってもらっているのだろう、なんとなくその髪の扱い方に東京の美容師のそれが見える。カメラが入るとなるとやはり準備するのだろう。一方まだ熱気の残る東京でお髭を手入れするかと思ったが結局はむさ苦しいままに通したようだ。

それにしても放送のカットなど、少なくともこのヴァルキューレ一幕のハイライトに関しては、最初のマネージャーらしきの口止め風景なども含めて、とてもよく出来ていた。このハイライトだけでもとても貴重な映像となっている。



参照:
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-11-23 21:08 | マスメディア批評 | Trackback

針が落ちても聞こえるよう

週末は、暖かかったのだが、運動が出来なかった。とても時間も余裕もなかった。次のコンサーツも二週間後に迫っていて、二種類のプログラムもお勉強しておかなければいけない。一つは、バーデンバーデンでのゲヴァントハウス交響楽団の演奏会で、ブルックナーの七番とメンデルスゾーンのヴァイロリンコンツェルトである。両方とも比較的問題の無い曲なので時間は掛からないと思うが、先ずは無難に後者はブライトコップ社の楽譜をDLしておく。

このコンサートの個人的な聴きどころは、何よりも初めてのゲヴァントハウス管弦楽団の生体験なのだが、この管弦楽団が本格的な由緒のある本格的な交響楽団なのか、それともその大規模所帯で当地のオペラ劇場で弾いている座付き管弦楽団なのかである。今まで考えたことが無かったのだが、今回ツアーの指揮を執る九十歳のブロムシュテットに言わせると、クルト・マズアーが残したその楽団に苦労した話しや、今年になって聴いたコンヴィチニー指揮「タンホイザー」の録音を聞くとどう見ても地方の座付き管弦楽団としか思えないからである。

ミュンヘンの座付き管弦楽団が舞台上でも向上しようとしているようだが、現在のそれと比較してゲヴァントハウスは全く違うのか、似た方向にあるのかなど知りたいと思う。少なくとも指揮者リカルド・シャイーが長く留まるような管弦楽団ではなかったようで、後任指揮者アンドリス・ネルソンズもどこまでやれるのかなどと、とても疑問に思っているからである。

もう一つのクリーヴランドの「利口な女狐」が結構厄介である。楽譜はピアノ譜を落としたので、音源として週末土曜日にデジタルコンサートでライヴで流された土曜日のベルリンのフィルハーモニーからの映像がULされるのを待つ。それを落として一通り確認しておきたい。ピーター・セラーズは今度はどのような仕事をしているのだろう。そして、ベルリンのフィルハーモニカ―とクリーヴランドのそれを直接比較出来るのが何よりも嬉しい。

陽が射して室内にいると黄金の10月が漸くやってきた気がすると同時に眠くて眠くて仕方がない。(承前)そこで先日のミュンヘンでのコンサートでの二つの批評記事に目を通す。先ずは前半の「子どもの不思議な角笛」に注目して目を通すと、思わず吹き出してしまった。一つは南ドイツ新聞なので日刊紙の書き方でもあるのだろうが、もう一つはネットでのクラシック音楽サイトであり、何よりもマティアス・ゲーネの「高等な芸術」を報告している。

前者は、彼の声がまるで高圧に閉じ込められたバスの力強い声のようで、柔らかな高音も絶えず基音に脅かされているようだと書き、その雷音は、まるで国立劇場の壁を震わすようだと表現している。声の大きいドミンゴではないので、まさかNHKホールを共振させるようだと思った人はいないと思うが、こういう表現も日刊新聞向きで面白い。

後者での叙述は若干専門的になるが、基本は変わらず、なによりもこの歌手の風貌とその芸風が殆んど狂人的な雰囲気を醸し出していて ― それ故にウラディミール・ユロウスキー指揮のザルツブルクの「ヴォツェック」の名唱がボツになったことが惜しまれるのだ ―、ここでは狂気と信心が最早かわらず、彼が丁寧に歌えば、聴衆はこの歌手が言葉を忘れたのではないかと凍り付きそうになるというのである。

そしてその声をして、まるでくすくすと火が燻っているようで、「この世の営み」での„Und als das Brot gebacken war, / Lag das Kind auf der Totenbahr.“ を挙げて、そこでは殆んど無色彩の声が、「トラムペットが鳴り響くところ」の„Allwo die schönen Trompeten blasen, / Da ist mein Haus, / Mein Haus von grünem Rasen.“ では、ぱっと燃え上がっていたと書く。勿論そのような無防備な道すがらを伴奏して、ペトレンコは只の名人芸を超えて、色彩と影でゲーネの「高等な芸術」を可能にしたと書いている。

キリル・ペトレンコは、この後期ロマン主義的な管弦楽のマーラー作品を古典現代曲の室内楽的ばりに、丁度ショスタコーヴィッチのそれのように扱い、そこでは千変万化のリズム的自由自在だけでなくて、木管、金管、弦の合成で色彩的な「イディオム」で彩ったとして、そうしたマーラーの近代的な音述だけでなく、屡々オペラ的な繋がりを感じさせたと書く。

そして、「聴衆は、今晩はいつもの食傷気味の粉ものマーラーでは無いと逸早く察知して、曲間では肺炎のサナトリウムかと疑わせるような、言葉の綾ではなく針が落ちても聞こえるかのようだった」と興味深い記述があり ― 到底コンサートホールのそれには比較出来ないと思うのだが ―、日本の聴衆は今後ともこのような記述がある度にほくそ笑むのではなかろうか?(続く)



参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
"Petrenko beeindruckt mit Mahler und Brahms", Bernhard Malkmus, KlassikInfo.de vom 11.10.2017
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by pfaelzerwein | 2017-10-16 23:26 | マスメディア批評 | Trackback

逆説の音楽的深層構造

強い雨音で目が覚めた。明け方の雨で、その後晴れたが頂上まで走り上がる気持ちがすっかり失せた。休日明けのことを考えれば無理することは無い、一日お休みするだけだ。

ブラームスのお勉強をしなければいけないのだが、なかなか端緒につけない。朝から前日にネットに出た「タンホイザー」の朝日新聞の評の独タイトルを考えていると時間が掛かった。理由はとても短かな字数の紙面に内容を書き込もうとしているからで、その内容の要約に手間取った。朝日のネットに先ず無料ログインしてそれを読んでも何が言いたいのかよく分からなかったが、いざ要約しようとするとその最も分かり難い部分を読み解く必要が出てきたからだ。以下の部分になる。

「不条理劇のごとき演出に、ペトレンコの音楽は驚くほど一体化している。…とりわけドラマの深層の微細な心理…しかし深層において音楽の構造は完全に組み替えられている…」

新聞の見出しはこの「一体化」を引用しているが、それ自体も全く分からない。「不条理劇のごとき演出と音楽、驚くほど一体化」のその説明が更に難しい。「しかし深層において音楽の構造が組み替えられる」というのは、なにか作為的な演奏解釈によって劇的構造が変わったようにも読めるが、その直後に「決して奇をてらった演奏ではない」と断っていて、それならば深層がどこに掛かるかとなる。ここから学のある人ならばディープストラクチャーなどの用語が出て来て、すると組み替えられるのは、音楽的なマニエーレンとかそうした表層的なことではない、深層のことと理解するのかもしれない。これを訳そうとでも思わないと、そこまで読み解こうとは誰も思わない。すると完全に記号論やチョムスキーなどの用語となって来る。書いているのは音楽学者となっているので、古典的な楽曲分析のようなものを期待すると全く異なる。要するに大衆紙朝日新聞のこの小さな記事を読んで、肝心の箇所を理解できる人などどれぐらいいるのだろうか?

提携紙である南ドイツ新聞のアーカイヴでミュンヘンでの「タンホイザー」初日やアカデミーコンツェルトの評を読んだりすると明らかにフランクフルターとは程度が異なる。この朝日新聞のようではなく、フランクフルターでは少なくとも三分の二紙面ぐらいは充てられるので、専門的な概念も一行では終わらせないので最低索引も想像がつくようになっている。それに比較すると明らかに音楽会短報とエッセイが混じったような形でとても無理をした紙面つくりの文章となっていて残念だ。

少なくともこの記事の要点は、今回のキリル・ペトレンコ日本デビュー公演で万人がその職人的なその腕に関しては認めたところで、その先の芸術的な意味合いについて深く切切り込もうと試みている事だ。その点に関しては、こちら本国でも、流石に最近は否定的な懐疑は見られないが、切り込んだ文章を読んだことが無い。この指揮者の譜面やその他の第一次資料へ考究的な矛先がその職人的な手腕によってどのように演奏実践として表れているかの言及は、こうした美学的な概念が上手く当て嵌まる。特に今後レパートリーとして耳にすることが増えるであろうシェーンベルクの演奏実践解釈などにおいては重宝することは間違いないのである ― ブラームス解釈はその点でも興味深い。

ベルリンの新任公演となったウラディミール・ユロウスキーの評判がとても良くて、ミュンヘンの次期監督候補にもその名前が上がって来ている。今夏のザルツブルクの「ヴォツェック」の放送を聞こうと思ったらボツにしたようで、これまたヴィーンの座付き管弦楽団の演奏では致し方なかったのかもしれない。指揮技術的には凌駕するようで、ペトレンコを除く50歳代以下の指揮者では断トツに業界での評判が高いようだ。今回もシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、運命交響曲をマーラー編曲の大編成で演奏するだけでなくノーノを集中的に演奏していて、マーラーの交響曲二番をダイナミックスを極力落として、優しい音楽としているから東京のペトレンコとも共通していて恐らくそれなりの共通とする根拠があることなのだろう。



参照:
バイエルン国立歌劇場「タンホイザー」 演出と音楽、驚くほど一体化、岡田暁生、朝日新聞
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
定まるテムポの形式感 2017-09-04 | 音 
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by pfaelzerwein | 2017-10-03 22:52 | マスメディア批評 | Trackback

想定を超える大きな反響

峠へと雨露が滴る森の中を駆け上がりながら、二週間前と同じように東京でのコンサートの響きを想い浮かべていた。YOUTUBEにあった「原光」が気になっていた。ネルソンス指揮の演奏があまりに浄化され過ぎているような感じがして、あの交響曲の一楽章と最終楽章のごつごつしたお上手にも芸のある作曲でない第二交響曲からするとおかしいと感じた。マティアス・ゲルネの選曲配置にしても、キリル・ペトレンコが指揮するとなるとそこにもあたって準備している筈だとか考えていた。

今回のアジアツアーの最終公演のこのプログラムの成果の行くへは最も分からなかったものだ。一つには、前半の「子供の不思議な角笛」はこれから一週間後にミュンヘンで演奏されるものであり、同時にNHKのマイクとカメラが入っているとなると、初めての本番でどのように纏めて来るのかは想像がつかなかった。もう一つは、「ヴァルキューレ」で、この指揮者にとっては最も評価が定まらなかった演目で、2014年のバイロイトでも指揮者よりも何よりもアンニャ・カムぺのジークリンデに喝采が集まり、2015年の上演で漸く他の夜と同様に評価を決定的にしたぐらいで、殆んどこの音楽監督には鬼門であった。

それ故にかどうかは分からないが、あのごたごたのあったバイロイトの後の2015年10月には指揮をシモーネ・ヤングに譲って ― その12月の「神々の黄昏」は名演だった ―、より気になっていたのであろう「ルル」の指揮を急遽受け持った。またミュンヘンでも所謂「蓋無し上演」においても完全な評価は得ていないのである。なぜこの楽劇だけがそれほど成功しなかったかにはそれなりの作曲上の理由がある訳であるが、これに関しては何度が言及しているので今は述べない ― しかしその内容を吟味することで音楽創造理解への端緒になることが多く、先月の台湾の作曲家女史の「演奏会に興奮しておらず、勉強しなさい」というのは正しい。その意味からもキリル・ペトレンコの演奏実践には汲み尽くせない教えがあるのだ。

そのようなこともあってミュンヘンでの最後の「指輪」上演で「ヴァルキューレ」だけは行きたいと思ってツィクルス券を購入したのだった。そして今までの日本公演での反響を見ていると、なるほど「蓋無し」でも上手く行く可能性が高まったと感じた。それどころかNHKホールでの反響を読むと、明らかにバイロイトの「蓋付き」では出来なかった譜読みをしているようで、更に一月公演に期待が高まった。実際、この作品では「蓋付き」が必ずしも有利な訳ではない。

今回のツアーの評価は、独逸からのジャーナリストの報告などを含めてもう少し時間が掛かるが、凱旋公演となる10月のアカデミーコンツェルトの演奏内容に表れてくると思う。マーラーは、私が聞くのは同じプログラムの四回目公演となるので今度は逆にこちらで間違いなく精度が上がっている予定だ。そこにキリル・ペトレンコにとっては新しい領域であるブラームスも管弦楽団の表現力の向上から期待が高まって来た。そもそもベルリンのフィルハーモニカ―よりもその個性からして音色的にも先ずは好演になりそうだ。そうなると念入りにお勉強しなければいけないのでとても時間が足りない。

放送予定の無いミュンヘンでのコンサートが終わった後でNHKホールでの公演はNHKラディオ放送で聴ける。TV放送の方は直接観れるかどうかは分からないが、先ずは聴けば今回の最終公演の意味合いが確認可能な筈だ。それにしてもバイロイト巡礼者をはじめとする日本からのオペラファンやそのNHKからの放送、そして専門家と称する人々が、今ドイツで起こっている現象を何人も体験しながら本当のことを充分に伝えていなかったのは、なにも個々のジャーナリストとしての素養だけでなく、やはり日本のそれが商業ジャーナリズムの冠をつけたものであるかを示すからではないだろうか。このメディア現象についても関心事なので改めて考察したい。



参照:
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-01 21:42 | マスメディア批評 | Trackback