カテゴリ:文化一般( 284 )

名門管弦楽団の演奏会

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ポストに案内が入っていた。ベルリンからかバーデンバーデンからかは分からない連名によるものだ。初めてである。要するに来る復活祭のプログラムが入ったご案内で、例年よりも売れ行きが悪いのかもしれない。昨年のプッチーニ「トスカ」後遺症があるのかもしれないが、そもそも後継者ペトレンコ指揮のコンサートの様に完売はなかなかしなかった筈だ。それでも今年はフィッシャー指揮とハーディング指揮などなかなか売れそうにないコンサートが二度もある。一昨年はより知名度の無いホーニック指揮でも結構売れていたのは「悲愴」だったからだろうか?最終的には市内で配るのだろうが、気になるところである。興味深いのはこうやってフィルハーモニカーの便箋でツェッチマンの名前と連名で、恐らくデジタルコンサートの名簿を使って案内を出すことで、これはより両者の一層の協調関係を示唆するようで、ペトレンコ体制へと一気に進めて貰いたい。

ライプチッヒからの中継を聞いた。バイエルンからは「利口な女狐」もあったようだが、そこの放送交響楽団がクリーヴランドのような程度で演奏出来るとは思わなかったのでどちらでも良かった。しかし21代目カペルマイスター就任演奏会には食指が向いた。一つは昨年生を聞いて「聞き直した」名門管弦楽団が様々な曲でどのような演奏をするか。もう一つはボストンと掛け持ちの真面に聞いたことのないアンドリス・ネルソンズ指揮の演奏を聞いてみたかったからだ。

昨年はブロムシュテット指揮でなるほど欧州でベルリンのフィルハーモニカーと並び称されていた意味は理解したが、今回は委嘱作品もあり、得意と言われる古典からロマン派までの音楽以外でどれほどの演奏が出来るかが知りたかった。一曲目のヴァンデルング好きの作曲家シュライヤーマッハーの曲は、その名の通り紗幕が掛けているような音響で放送技術的な問題かとも思ったが ― どうも会場のメインマイクロフォンの響きもそうなのだが放送のサラウンド放送のミキシングの悪影響がステレオサウンドに出ているような不満だ ―、少なくとも指揮は左右の手で振り分けているような流石に業界の評価が高い指揮者らしきは確認できた。BGMとして流していただけだが、その後のベルクの協奏曲が悪かった。これならばミュンヘンの座付きがペトレンコ指揮で演奏すれば遥かに素晴らしい演奏が出来ると思った。

なるほどボストンの交響楽団を率いての日本公演でもあまり評判が良くなかったように、就任演奏会で何も出来ていないのには呆れた。恐らく器用貧乏の指揮者で、大陸間の掛け持ちなどの時間的な制約よりも落ち着いてしっかり仕事の出来る指揮者でないのだろう。若干アスペルガー気味の才能なのだろうと思った。それでも楽員には評判が良く、ソロパートなどが表情をつけるとそれに合わせて振ってくれるというのである。それにはミュンヘンの座付きの楽員たちもころりと惚れ込んだようで、様々な次期監督候補者模擬試験で登場したヨロウスキ―やジョルダンなどとは一頭抜きんでて評判が良かったようである。

しかしアンサムブルの質やその方向性については導くような指導力が無いようで、シャイ―が残した成果に匹敵するものは残せる人ではないだろう。そういう音楽作りであるからオペラ劇場では成功する可能性があるのだが、恐らく指揮者としては超一流からは遠いと思う。やはりアルバン・ベルクの書法などを考えると、読み間違いとまでは言わないが、そこまでの深読みの出来るような能力の指揮者でないのだろう。一流の才能があって恐らく現在の業界で指折りの中に入っているような人だけにとても残念なことである。これではこの名門管弦楽団の素晴らしいのコンサートのプログラムに出かけるというようなことはなさそうだ。ボストン然りである。この指揮者には小澤征爾のような才能は見られない。そしてここ一番であの押さえつけたようなメンデルスゾーン演奏は一体なによ、これならば快活さが無いようなユロウスキー指揮の方が遥かに飛翔があるではないか。

「ペトルーシュカ」を昨年のラトル指揮の実況で聞いた。日本でも演奏したらしく、そちらの方が名演だったと囁かれていたが、なるほどそこまでは更っていなかったかもしれない。しかし関心ごとはその解釈と演奏実践である。ネットで落とした楽譜には二種類あったが、片方はとても悪いもので全く音楽が出てこないもので、想像するにストラヴィンスキーの書法を従来の西欧風に分かり易くしたものかもしれない。楽譜の版もあるらしいが、印象としては指揮者のお得意のストラヴィンスキーをソリスツの名妓を引き出しながらの計算された演奏実践のようだ ― 因みに私はラトルが青年時代にユース管弦楽団を振ったお宝「春の祭典」LPまで保持しているファンである。なるほど楽譜から音楽が広がるのだが、ここここは違うのではないかという疑問が幾つも見つかった。

主に弱拍での音楽の流れやアクセントの付け方なのだが、もっと端的に言うと後任者のペトレンコならば絶対流さないというところが頻出する。まさしくそこにストラヴィンスキーの音楽があると確信する。そのあたりはブーレーズは逆に上手く誤魔化して早いテムポでサクサクと進めるのだが、少なくとも誤らないような配慮が行き届いている。打楽器奏者出身のラトルが音楽を計算通りに作っているのは間違いないのだが、欠落しているものがあるのではないかと思った。日曜日のイスラエルのフィルハーモニカーが立派な演奏をするなどとは期待していないが、少なくとも何が欠落しているかを分からせて呉れるだろうと楽しみにしている。そのピアノを弾く王はとても重要なことを学ぶだろうと思う。



参照:
華為 or 羽佳!? 2018-02-23 | 雑感
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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by pfaelzerwein | 2018-02-23 22:54 | 文化一般 | Trackback

バーデンバーデンへの想い

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ニューヨークのメトからの放送を聞いた。「パルシファル」初日に続いて二度目である。初日は劇場のネット配信音声だったが、今回はラディオ放送だった。結論からすると、録音してよかった。相変わらずタブレット修繕で忙しいので、危うかったのだが、時間を作った甲斐があった。音質が全く異なり、高音も伸びて、使い物になる。ハイレゾ仕様の価値がある。これで初日のそれはきっぱりと消去できる。演奏も更に良くなっていたようで、ルネ・パーペのグルネマンツのふにゃふにゃな歌唱には不満があったが ― ミュンヘンではどれほど修正してこれるだろうか -、あとは大分よくなっていたと感じた。片手間で流していただけなので、詳しくは再生して聞き返してみないと分からない。

それでもナゼセガンの指揮は初めてまともに聞いたが、一流の指揮者で、オペラ指揮者としては前任者のレヴァインより才能があるように感じた。メトに乞われるのだから一流は当然であるが、この指揮の難しそうな曲をこれだけ振れる指揮者が世界に何人ぐらいいるだろう。あれだけの指揮をする人だからベルリンでも候補者になっていたのだろう。指揮が上手いから、この引き摺りかねない曲を上手に捌いていた。テムポに関するインタヴューではメトロノーム以外の音響を含めたものに指針を求めているとあったが、やはり早めには感じたがどうなのだろう。

最近のペトレンコ指揮ではテムポとそのアーティキュレーションの間にとても大きな可能性を秘めていて、テムポを上げてもとてもゆったりと歌わすことが可能になって来ているが、流石にそこまでは行っておらず、指揮の技能的にもそこまでは行かないのかもしれない。フロリアン・フォークトのインタヴューもよかったが、この曲はこうして聞いてみるとやはりヨーネス・カウフマンの登場を期待させる。「マイスタージンガー」では容姿的には当たり役だったが、まだカウフマンの歌の真骨頂までは経験していないからだ。

さて、サイモン・ラトルはどの程度この曲を指揮できるだろうか。「トリスタン」で経験しているので、そのオペラ公演での指揮の技能とは別に、どのようなヴァークナー演奏をするかは分かっている。ベルリンのフィルハーモニカーとしては成功している方であるが、明らかに交響楽団の楽劇演奏で、落ちているものが痛い。中継を流しながらベットで復活祭のプログラムに関してラトルが語るバーデンバーデンからのマガジンを読んだ。

そこで、まるで小澤征爾かのように「子供の時から熱心だったが、大人になって指揮者としては劇場のポストに就いたことがなかったので経験が薄く、上演不可能なグライボーンでもコンサートで振っていて」とか語っているので大丈夫かなと思わせる。更にアムステルダムで「ペレアス」を振ったことで歌手のロバート・ロイドの勧めで「パルシファル」に移行したことを語り、その両作品の関連性に言及する。そのことはドビュシーへの影響として触れてきたが、要するに反対方向のヴェクトルと言うことだ。

実際に久しぶりに全曲を放送で流してみると、ここ彼処に「ジークフリート」以降の書法が聞こえてくる。二幕の魔界の「ラインの乙女」だけでなく、最も顕著なのはトレモロのクラスター風の響きやその他ミクロの動機などでの表情がそのままのところがある ― 勿論劇的には誰でも知っている「ローエングリーン」ではなく「タンホイザー」との関連にも気が付く。以前は、ラトルが語るように「巨鳥が海面すれすれに飛翔」するような「低音から自由」な無重力感のある和声でぐらいしか分からなかったが、楽匠の無意識層へと飛翔して、声と管弦楽の協演が可能になったとしているのも興味深い。

これらのことは、ペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践を通して、またその準備を通して十二分に学んだ。そう思うといつものことながらキリル・ペトレンコには感謝に堪えないのである。ラトルは言う。低空飛行を楽しむために、祝祭で「パルシファル」の券を何の心の準備も無しに購入するとは思わないが、バレンボイムが言ったように、「聴衆がやり遂げられるかどうか」と、指揮するのは問題ないが座っているのはきついと話している。まさにそこがミュンヘンに通うようになって初めて分かったことなのだが、質の高い音楽劇場では音楽祭でなくても歌手の質が揃って、とても劇的な盛り上がりがあっての劇場なのだ。

ラトルのインタヴューに戻ると、そもそも「パルシファル」は前任者のアバドがザルツブルクで「ホヴァンシチーナー」の予定をしていたのが急遽「パルシファル」に変更になった曰く付きで、2013年に備えて新たに準備をしていたのだが、バーデンバーデンへの引っ越しが決まって、ザルツブルクが少なくとも作品の権利だけを保持しようとしたので、「魔笛」になったということだった。当時のコメントは、大きな作品にはキャスティングが容易に集められないということだったが、こうした背景には気が付かなかった。ペトレンコへの移行もそのことを思っていたので、少し情報量が増えた。

もう一つオーガナイズのことについて語っていて、バーデンバーデンが全てお膳立てをしてくれるのでとても助かるといううことだ。これは、内部事情としてとても重要で、要するに歌手との交渉が含まれるだろう。当然のことながら、ペトレンコ体制になるとレヴィン事務所が係ってくるのは当然であるが、同時にバーデンバーデンもスタムパが新任するため、新たな関係が付け加わる。少なくともオペラ分野では顔が広くなり、間違いなく配役の水準は上がるだろう。

そして、ザルツブルクの聴衆とは違ってバーデンバーデンは多様性があり、町中で様々な公演が出来て、その広さよりも身近にあるピットと舞台など、フィルハーモニカーにはザルツブルクよりも向いていたと語る。同時にザルツブルクは座付き管弦楽団が良かったのだろうから、ティーレマン指揮のシュターツカペレが入って、それをゼムパーオパーに持ち帰れる。フィルハーモニカーには、「バーデンバーデンはそれどころか唯一の選択であった」と断言する。その漸くの実現を楽しみにしている「パルシファル」を午後と晩の稽古でやってしまうというからディータ・ドルンが驚いていたというのは当然だ。この点は、ペトレンコ時代になったら是非ベルリン公演を前に持ってきて欲しい。そこで録音でもするなら兎も角、真面目にスーパーオパーを遣るというならば、幾ら舞台との距離感が近いと言っても、逆でなければ不可能である。ペトレンコには妥協して欲しくはないところで、ペトレンコの仕事ぶりを知っているならばベルリンからバーデンバーデンを訪れる人も出て来るだろう。

更に今回のプログラムについて、エリーナ・ガランチャの声で何を聞きたいかということでラヴェルとべルクになり、同時に「ドンファン」と「ペトローシュカ」が対になっているようだ。またバーンスタインの「不安の時代」はロンドンシンフォニカーで作曲者と共演したジメルマンの勧めで入れたという。子供の時に父親が公務で出かけた合衆国からLPを持ち帰ったのだが、成人してから振るのは初めてだという。

そして最後に「バーデンバーデンの復活祭に再び帰って来られますか」との質問に答えて、「残念ながらノーです。16年間も家を不在にしましたから、家族と過ごします。」と言うことだ。ペトレンコの下でのラトルの登場は間違いなくあるだろうが、バーデンバーデンは無いということになる。一体誰が出るのだろうか?


写真は、昨年バーデンバーデンで自ら「パルシファル」の鐘を試すサイモン・ラトル。



参照:
細部から明らかになる 2018-02-14 | 音
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活

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by pfaelzerwein | 2018-02-18 19:21 | 文化一般 | Trackback

腰が張る今日この頃

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雪が残っていて、外出は億劫である。なによりも走るとなると足元が悪い。柔らか過ぎても、硬過ぎても、腰に負担が掛かる。怠けているかと言うと、先週も沢往復と峠攻めが出来ているので、それほどサボっていない。週末に出かけるとなると、三回走るのが時間的になかなか厳しいだけだ。

それでも急に空が明るくなった。日が射すとかなり眩しい。その分放射冷却で冷える。左の腰に張りがあるた。スキーをしていないでもこうなる。車に座って、劇場で同じ姿勢を取り続けたからだろうか。そして寒いところで走ったからだろう。酷くならないようにしたい。入浴して温めてみよう。そう言えばローティーンの時に山の本などを読んでいる時に炬燵に入っていたのか、とんでもないぎっくり腰になった記憶が鮮明だ。やはり寒さが直接影響するらしい。

教えて貰ったニューヨークのメットからの中継を録音した。丁度夜中になるのでPCを動かし続けた。どうも完璧に録音されたようだが、その音質は何とも判断がつかない。そもそも劇場の響きを生は当然のこと録音でもあまり知らない。ストリーミング中継はある程度の情報量はあると思ったが、如何にも劇場的な丸まった音である。暗雑音も高音が出ていないような籠った感じである。WDRでも中継があるらしいから比較してみよう。

第一印象は、管弦楽団は流石に上手いと思ったが、典型的な座付き管弦楽団で、指揮者も技術は高いのだろうが、そのアンサムブルを変えるようなところまでは行っていない。ストリーミング技術的な音質の影響もあるかもしれないが、やはりかったるい。テムポを数えてみないと分からないが結構早いにも拘らず弛緩している感じで、バイロイトの「指輪」でも成果を上げた指揮者アダム・フィッシャーがこの曲では引きづってしまって評判の悪かったことを思い出す。また一昨年かのバイロイトでのヘンヒェン指揮のそれに比べるとやはり腕が違うのも確かである。リズムとテムポの維持が難しいのだろう。だからピエール・ブーレーズが得意としていて、今回もその一回目のバイロイト出演と二回目のシュリンゲンジーフ演出時の録音が、ハンス・クナパーッツブッシュ指揮の名盤などと共にレフェレンス録音として音資料になるに違いない。これに関してもキリル・ペトレンコの独壇場だが、サイモン・ラトルがどのように纏めて来るかが興味深いところである。要するにこの曲ほど下手に指揮すると禅のように退屈する曲もないだろうということで、メルケル首相も来ていたケント・ナガノ指揮のバーデンバーデンでの公演もその域を出なかった。バーデンバーデンで今回歌うことになっていたヘルツィウスが歌っていることにも興味があった。

合わせるのが難しいまたは容易ということでは、「神々の黄昏」の序幕を調べたが、やはり「ジークフリート」などよりは容易に感じた。そもそも曲自体が材料が手元に出揃っていて、あとはそれを組み立てて、少し新しいものを入れてといった感じだから、未完のものを弟子が完成したような風合いがこの第三夜にある。要するにそれほどの創作上の飛躍はあまりないとしても間違いではないのではなかろうか?(写真:2015年12月19日「神々の黄昏」)

どうでもよいことだが新聞にマンハイムの演奏会評が載っていた。指揮者はベルリンのフィルハーモニカーのソロオーボイスト、マイヤーである。地元のプファルツ管弦楽団のレジデンス音楽家になっているようだ。所謂地元の劇場などを回って演奏をしたり時々コンサートを開く楽団で、連邦共和国では放送局の交響楽団と並んで公的な州立管弦楽団である。但し対岸のマンハイムのような歴史的な市立オペラ劇場ではないので、何件かの劇場を回って演奏をする。本拠地はルートヴィッヒスハーフェンのプファルツバウであったが、州都マインツの劇場との合弁で今後動くのだろう。それでも以前は日本でも有名だったクレーとか、髭のセーゲルシュタムとかエシェンバッハ、知らなかったがグシュルバウワーとかスイトナーとかコンヴィチニーとかが音楽監督を務めているからN饗クラスか?マイヤーはラインガウフェストにも出るようで、奥さんがプファルツの人なのかどうかは知らないが、後任のソリストにはどのような人が入るのだろうか興味深い。まだ辞めるという話しは出ていないようだが、時間の問題のような感じで、ペトレンコが就任する2019年以降のシーズンには居ないと想像している。



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
カーネギーホールなど 2018-01-27 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2018-02-07 01:52 | 文化一般 | Trackback

ごついのはこれからじゃ

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承前)第二夜「ジークフリート」一日目の公演の評が載っていた。歌手の調子もあって、二日目とはフィンケへの評価は控え目なようだが、管弦楽へのつまりキリル・ペトレンコへの賞賛と、アンドレアス・クリーゲンブルク演出の効果に関しては正しい。

但しそこでは、その陰影に富んだ響きやプリズムを通されたような音色、瞬時の色変化をして、額縁に収まったようなワーグネリアンの幾らかが喜ぶようなルーティンな喧しくフェットな音がこの偉大な国立管弦楽団からは一切響かないと評する。それは、その劇内容に想起され、コメントし、対照化される殆ど実験音楽である素材をペトレンコは示しているということになる。

その一つとしての森の囁きであり、一幕での弦のクラスターと同じように、上の言及の具体例とされてもよいだろう。二場ではそこに旋律が乗ってくる訳だが、ソロヴァイオリンのオブリガートから管楽器間での鳥の囀りの呼応があって、フライヤの動機由来の三連符など出て来る。それが丁度その前のミーメとジークフリートとのディアローグに対応する形となって、その歌における受け渡しの秀逸さが、ここに改めて楽器間の受け渡しとして呼応してくる。恐らくここは楽匠が書いた最も美しい場面であると思うが、正しいテムポをしっかりと刻んで、そこに各々の奏者が制御されたソロを披露しないとこの場面が活きてこない。一幕では一番のホルンにはいつもと違うおじさんが座っていたので訝ると、二幕からはいつものデングラーが座った。舞台裏での吹奏での移動なのだろう。勿論ここでのソロなどは、注意して目指す響きを出すだけなのだが、やはり声に寄り添うような響きは格別であり、交響楽団の響きではこうした効果は出ないと改めて思う。今回は第二夜までは目立つ音外しは「ラインの黄金」のフィナーレのトラムペットぐらいでその他は万全に進んでいる。

一場におけるファーフナーの登場も演出上とても目立つ舞台仕掛けなのだが、信頼のおける舞台職人であるアンドレアス・クリーゲンブルクが、敢えてバスのファーフナーを上から歌わせたことを聞き逃してはならないだろう。これを、新聞にあるように効果とみるか、四部作創作の核心へと迫るかの評価の仕方で大きな違いだろう。なるほどポストモダーン的な舞台解決とするのは正しいかもしれないが、そこで思考を停止してしまうとこの作品への理解は特に音楽的には深まらないと思う。蛇足乍ら新制作としてこれを指揮したケント・ナガノの音楽ではそこまでは深まらないことは確かで、殆どファンでもあるだけに、天才というものが存在する世界ではあれだけの超一流オペラ指揮者が哀れにさえ見えるのである。

三場におけるミーメ、アルベリヒ、ジークフリートの絡みとの並行関係が管楽器におけるそれにも表れていて、ペトレンコ指揮の技術的な秀逸がそのアゴーギクとリズムの組み合わせにも明らかだ。チェロが柔らかな音色でカンタービレで歌いと、カラヤン指揮の抒情的なベルリンのフィルハーモニカーのスタディオ録音でも到底出来なかった細かで豊富なニュアンスで、そして一際ダイナミックを下げながら終えるフィナーレまでの流れは神業であった。

それゆえに、三幕での演奏が、到底座付き管弦楽団ではとても実現不可能な次元である限界を改めて認識させたと述べておこう。なによりも不満が大きかったのは例のハイライトへと繋がる山なりの一節がクリーゲンブルクの演出のフォイルの漣の雑音にマスキングされてしまったことで、これは看過できなかった。ペトレンコは、少なくとも再演として、それを受け入れた訳だ。もし舞台一杯に広がる透明フォイルを他の材料で調達しようとしたら可成りの費用が予想されたのでもあろうが、音楽的にこれを受け入れたことも留意しておく。いかんせん、この三楽章の大変奏曲のような音楽はベルリンのフィルハーモニカーとのバーデンバーデン公演を待つしかない。バイロイトでも独占的に行わなければ難しく、これだけの精度を要求するとなると殆ど演奏不可能な感じさえする楽譜である。何時かの楽しみに仕舞っておくべき三幕である。

まさしく、南ドイツ新聞の見出しにあるように、そこで「ごっついフィナーレはまだこれからじゃ」となる。このように恐るべき舞台祝祭劇の上演となって来ている。木曜日に第一日目となるが、その第三夜に関してはお勉強を始めると同時に、2015年の印象を下ろしてきて夢想することになる。その時のダイナミックの頂点は「ジークフリートの死」にあった訳だが、それは今回も変わらないだろう。それを思い出すだけで胸の動機が高まる思いだが、楽譜を最初から最後まで見てそのダイナミックの音楽的な根拠が読み取れるだろうか。少なくとも最初の「三人のノルン」や「ラインへの旅」のそれは分かっている心算だ。

当日の観客の反響は、第一夜「ヴァルキューレ」に比較して、より多くの人が数回後のカーテンコールでも残っていた ― 平土間前半の人々がそこまで熱心に喝采するのは珍しい。同じ回数で第一夜には二ケタだったのが、第二夜には三桁以上の人が残っていて、それも300人を軽く超えていたかもしれない。その後いつものように二回続いたのだが、私は前夜祭と同じく最後の最後は駐車場に急ぐべくロージュまで降りていた。



参照:
Das dicke Ende kommt noch, Harald Eggebrecht, SZ vom 1.2.2018
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2018-02-05 23:24 | 文化一般 | Trackback

素人に分らない世界

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ミュンヘンで購入してきたヴェ―レヴルストの写真である。名物の白ソーセージの中身である。これが通常の焼きソーセージならばブレートと称する。これはここでも二回触れている。その肉自体がメットと呼ばれるもので、それを焼くからブラーテンするブレートである。プファルツはバイエルン王室の一つの親元にもあたるが、行政的には属領であったり、フランス領であったりした。そして白ソーセージの食の歴史は伝わっていない。同じようにザウマーゲンはバイエルンには無い。

だから、この白ソーセージの中身は知らなかった。ビアホールで食したことがあるかどうかも記憶にないが、白ソーセージだけでなくこれをお土産にするだけでも、一寸変化が出る。白ソ-セージはヴィーナーと同じように焼かないのに対して、これは通常の焼きソーセージのように焼くからである。いつも食するとなるとつまらないかも知れないが、時々食すると旨い。

これも白ソーセージと同じように蜂蜜入りの辛子が合うのかもしれないが、油が混じっているだけにあまり拘らない。付け合わせには作ってあったザワークラウトを、残りの黄色のピーマンを一緒に炒めて、とても上手く行った。また次回も買いたいと思った。

2016年産ゲリュンペルを開けた。これは試飲無しで特別に六本だけ譲って貰ったもので、初めて試すものだ。先に開けた2014年産の二年経過後の出来とその最初の時点を思い起こすと、どうしてもまだまだ若いことが分かっていながらも勉強のために開けておきたかったのだ。

一言でいうと、酸は十分に鋭く、まだまだ寝かさないといけないが、ザールなどのワインと同じように2016年産はとてもとっつきやすい個性がある。逆に、2014年のような開いていない塊やミルキーさなどが無く、ミネラルが強く香り、炒った青っぽいナッツ系の味もあり、果実風味もいつののように拮抗している。印象としては2014年ほどは長く楽しめなくても10年経過までは慌てなくても楽しめる。それが分かるだけでこの価格はお得である。それゆえに飲食業者などの業界が先を争って購入するのである。毎年何パーセントづつか販売価格を上げていけるからである。要するに投資対象でもある。それが保証されていることが商品価格を押し上げるという構造を素人の数寄者は考えない経済なのである。どの世界でも同じだが、如何に素人と言うのが、その玄人の世界に気が付かずに生きているかというのが分かるような話しである。



参照:
ロールキャベツを食せば? 2009-08-09 | 料理
符丁に酔って、芥子を落とす 2005-08-02 | 料理
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
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by pfaelzerwein | 2018-02-01 00:15 | 文化一般 | Trackback

予定調和ではない破局

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舞台神聖劇「パルシファル」の美術を担当するゲオルク・バゼリッツの特別展が開かれている。ミュンヘンのピナコテークかどこかに常設展示があると聞いていたが、2月18日まで特別展示がピナコテークデアモデルネであるということで、計画している。それが終わるまでには、この土曜日「ジークフリート」と翌週の「神々の黄昏」の二日しか機会が無い。日曜日の安い日に出かけようかと思うが、17時始まりの楽劇だけでも長く、その前に早く出かけようと思うと20時間近く頑張らなければいけない。

天気さえ良ければ、ゆっくりと往復するだけなのだが、肝心の楽劇に集中力が欠けないようにと思うと、無理は出来ない。土曜日に出かけても交通量も多く、日曜日よりも無駄が出そうなので、楽しみにしている「ジークフリート」が疎かになるのも嫌である。もう少し考えてみようと思う。

承前)その「ジークフリート」二幕へとお勉強を進めると、新たに感動してしまった。つまり一般的にこの幕は様々に分類された指示動機が次から次へと巧妙に組み合わされて、三場がかなりくっきりとコムパクトに収められているように思われるのだが、もしその指示動機と称する分類から更に解体していくとなると、それどころでない音楽的な面白さが浮かび上がってくる。今回は2015年暮れに「神々の黄昏」を見たからかもしれないが、逆戻る感じで、例えばアルベリヒの場面を見ると、とても簡単に何々の動機などと識別していられなくなる。流石に第二夜になると様々な動機と情景などがオーヴァーラップするだけでなく、音楽的な背景へと思いが移る。やはり第二夜「ジークフリート」が四部作「指輪」の芸術的な頂点であると思う。なるほど「神々の黄昏」の序幕をつけた構成とその音楽的な伸展は比較しようがないが、音楽自体が謂わば「ラインの黄金」ではないが何もないところから出でて、入ってくることを考えれば、「神々の黄昏」の予定調和的な流れは音楽的にも然りだと思う。要するにこの「ジークフリート」ほどの創造性を第三夜には感じなくても決しておかしくはないと思う。兎に角、霊感に富んでいるところとその匠さに感動する。正直この残された短時間にそうした高度な音楽把握が上手に出来るかどうか自信が無くなってきたが、新たなヴァークナー認知への道が開けてきたような気もする。それは「パルシファル」への道だろうか?

先日教えて貰ったハムブルクの「フィデリオ」新制作の放送を少し聞いて、レオノーレ序曲の始まりの最初のテーマは古楽器演奏の技も使いながら上手く行っていたなと思ったら、二つ目の主題でこれは駄目だと思った。そのまま一幕だけでは台所に立ってBGMとして流していたが、二幕は切って、「ジークフリート」勉強に移った。本日のフランクフルターアルゲマイネの酷評を読むと、ケント・ナガノ監督がこのまま務まりそうが無いほど大失敗だったようだ。確かにあの序曲を聞けばこの人はもうドイツ音楽を演奏しないといけないドイツでの活動は難しいと思ったので、ある程度正論だと思った。本当にこれがあのケント・ナガノであるかと、新聞も問うているが、背後事情はいろいろあると思う。私個人的には、やはりキリル・ペトレンコのオペラ革命と言うかスーパーオパーへの移行が大きな影響をしていると思う。まともな指揮者ならばそれまでのように交響楽的な管弦楽を奈落で鳴らしているだけでは済まなくなったからである。新聞の筆者は必ずしもその水準をペトレンコ並みに上げている訳ではないと思うが、半拍づつ遅れる歌とか、日常のオペラ劇場では常の事でも流石に名門のハムブルクの初日では許されないようで、この程度なら北ドイツの地方劇場の方がマシと書いている。終演後のブーイングも凄かったようで、カタストロフが管弦楽と指揮者までに及んでいるようなので、ケント・ナガノ危うしである。そもそもナガノのオペラは交響楽的な管弦楽演奏との批判も初めからあったのだが、ここに来てベートーヴェンなどを気が利いた風に演奏しようとして大失敗となった。しかし、ミュンヘンでの今進行している再演「指輪」の初日シリーズのヴィデオを観てもとてもその音楽は受け入れ難く、稚拙でさえある。ペトレンコのような外国人が訛り無しに上手に熟していくのが当然で、それほど鳴らさないでも素晴らしく存在感のある奈落の管弦楽団とのアンサムブルに慣れてしまうと、多くのものが受け入れられなくなる。ヨーナス・カウフマンが評すように「なんでも簡単にちょこちょこと解決してしまう」天才などなかなかいないからだ。

だから私などは初めから言っている。オペラ劇場などは潰してしまえと、同じように二流の交響楽団なんて要らない、そんな贅沢な娯楽なんて出来る筈がない。ネットでの情報が収斂すると、そうした無駄なものは淘汰されていく。どんどんと引導を渡してやれ、肝心なのはそこから新たなものが生成されていくかどうかだけなのだ。



参照:
Dieser „Fidelio“ ist eine Katastrophe, JAN BRACHMANN, FAZ vom 30.1.2018
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
引導を渡す線香の刹那 2016-08-08 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2018-01-31 01:56 | 文化一般 | Trackback

伝承される文化の本質

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第二夜「ヴァルキューレ」二日目の放映が迫っている。一日目の記憶だけを書き留めておかないと、混同してしまう。細かな音楽的なポインツはメモしたもの以外には楽譜を見て行かないと書けないが、大まかなことだけでも挙げておく。

先ずは、聴衆の反応だが、「ラインの黄金」よりも熱かった。歌手陣も健闘したが、やはり最終的にはキリル・ペトレンコがいつものことながらみな持って行った。しかし細かく観察するとやはり前夜祭とは異なった。端的に言うと前夜祭は管弦楽への熱い反応と指揮者が五分五分の感じだったが、第一夜はやはり指揮者への熱い支持が圧倒的に聞き取れた。つまり、そこまで「演奏出来ましたね」以上にそこまで「やりましたか」と言うような、恐らく新聞紙上などでのそこまでの「必然性への質問への回答」を多くの聴衆が実感したということだろう。私を含む一部の聴衆は最後まで頑張ったので、明らかに控室でシャワーでも浴びようかとしていたニーナ・シュテムメが一人遅れて出て来る有様だった。その夜のスターだったカムペは一緒に直ぐに出てきたのと対照的だったので、その日の出来具合によっての楽屋裏での雰囲気がよく分るシーンだった。

やはり最後は数十人だったが、戻ってくる者も少なくなく、明らかに聴衆側の強い支持が感じられた。タンホイザー二日目よりも知的な支持だったと感じた。オペラ劇場の聴衆でどれほどの人が所謂音楽通かは中々計り難いが、その人達の音楽的な趣味の良さは素晴らしいと思う。その人達にとって、三回目の夏の上演は残っていても、一先ずオペラ劇場での「ヴァルキューレ」上演の到達した演奏実践への支持を聴衆の間でも確認しておく必要はあったと思う。フルトヴェングラーがベートーヴェンの演奏実践に終止符を打ったように、ペトレンコはヴァークナーの「指輪」の演奏実践に終止符を打つと考えていたかもしれない。とは言っても、第二夜「ジークフリート」そして第三夜「神々の黄昏」を通さなければと、私などは思うようになったが ― まさにそのように考えてペトレンコは指揮をしている、これは間違いない ―、恐らく後ろの二つに関しては前の二つほど2015年との差異はないだろうと思っている者も少なくないかもしれない。そもそも私自身もこの夜に賭けていた根拠はそのあたりにも存在する。

同時に夏に上演される「パルシファル」を考えるときに、先に書いたようなつまりクロード・ドビュシーが聞いたヴァークナーの楽劇の音楽的な真価を、その芽吹きをこの第二夜までに見つけたとすれば、これはこれでとても大きな演奏実践の成果と言えるかもしれない。キリル・ペトレンコのプロジェクトは、サイモン・ラトルのとても気の利いたプログラミングとはまたそのスケールの大きさで異なるのを、オペラからコンサートに跨り明らかに2018年はその芸術的比重が半々になっているような時、恐らく殆どが専門的な音楽通はそれを徐々に実感してきていると思う。オペラ上演では2017年がキリル・ペトレンコの頂点であったと思うようになった。

前半二つを終えて、楽匠の音楽歴史上の成果を、その劇作家としての匠と同時に、まさしく「過剰な分析」と言われるほどに示してくれたことに最大限の感謝するしかないのである。それは、一夜の娯楽な熱狂や昔話となる記憶ではなく、私たちの財産そのものである。なるほどその芯にあるのは、もはや録音されたり録画された記録の追体験ではない聴衆や演奏者の肉や血になるつまり伝承されている文化であり、やはりそれが音楽芸術のその芸術文化の本質だと思う。ペトレンコが「ライヴに来てくれ」と言うのは、まさにそうした伝達でしか伝わらない文化でしかなく、メディアの記録とはまた別な口移し的な演奏実践的な伝授を意味しているからだ。ラトルの若者への働きかけやその社会文化活動は知的文化的にも素晴らしかったが、ペトレンコのそれは楽譜の読み込みから始まって途轍もなくスケールが大きい。それをして本当の天才と言うべきだろう。



参照:
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2018-01-22 22:18 | 文化一般 | Trackback

熱心なもの好き達

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ミュンヘンから帰宅した。午前2時になった。レジデンスの駐車場を出たのが17時だったから9時間を要した。前回の「ラインの黄金」帰路は3時間しか掛からなかったので三倍の時間だ。雪の事故と渋滞で本当に3時間ほど停まったままだった。ストップアンドゴーでもなかった。一度は雪雷が光った後にウルムとシュトッツガルトの間のアウトバーンの坂を下っていて、降雪に何もかもは乱反射して車線だけでなくて何もかもホワイトアウトとなり、徐行して緊急停止ラムプを点滅させた。真ん中か端が、退避帯を走っているのかさえ識別しかねた。急いで次の出口で一般道に出ると、ABSが効き続けた。除雪が全く追いつかない状況だった。

SWRの情報波は、イライラを予想して、「永遠に動けないと思っているかもしれない人たち」に、ウルム警察の担当の電話インタヴューを録って流した。「雪状況で対応が儘ならないという」あまり癒されないものだったが、少なくとも状況が知れた。アウトバーンの雪道で雪上ジョギングする者、犬の散歩をする者などが表れた。私はアイドリング運転の燃料2リットルが堪えた。帰り道のカールスルーヘで安い燃料を探さなければいけなかったからである。それでもリッター137と充分に高かった。それが無ければ無給油で帰れていたか?今回は宿までミュンヘンの街中を少し走ったので雪道が無くても少し距離が増えていた。

そもそも目が疲れていた。前夜の観劇はよいとしても、翌朝の下見、その後の食事探し中の降雪やホテルまでの移動など雪まみれで厳しかった。結局木曜日の夕飯以来帰宅まで50時間以上温かい食事を口にしなった。50ユーロ近くするコンドミニアムで就寝したのも4時間以内で、滞在時間も5時間に満たなかった。価値があったのは劇場まで歩いて10分ほどしか掛からなかったことだろう。駐車料金24時間54分で34ユーロもお得だった。

今回は初めてキリル・ペトレンコ指揮の新制作がミュンヘンのオペラフェストで初日を迎えたことから、入券が今までのノウハウでは対処しようがなかった。そこで半額売りに並ぶことにした。その予定で「指輪」ツィクルス券も入手してホテルも10月中に予約しておいた。それでもそもそも音楽会ごときに並ぶなどは民音のスカラ座日本公演とかぐらいしか殆ど経験がないので、またミュンヘンのオペラフェストなどは1986年に行ったぐらいで関心の対象ではなかったので全くノウハウが無かった。今回も年間プログラム紹介で日本公演とこの半額発売の話しがあったなかでアンテナが伸びていて、問い合わせしただけなのだが、やはりノウハウが無いと厳しいことが分かった。まさしく半額提供は、努力賞と熱心な常連さんの認定と謝恩の様なもので、自らもその列に並びながらも「そこまでやるかなもの好き達が」と自嘲気味に思った。勿論私のように皆それなりの理由を挙げるのだろうが。

ベルリナーや朝からプッチーニの「ミミ」など無料で提供してくれてたいへん配慮をした方法を取っているのだが、そのSNNにあるように本当に天晴な客達でやはり劇場にとっては特に若い年齢層の人たちは重要なお客さんだと思う。最初の整理券は500枚以上出したようだが、最終的に購入しに来たのは四百数十名のようで、発売の列の中でも整理券を取りに来る人がいて、その数字を出していた。つまりその人達も20時頃までにはなにかは買えたようだ。

一番売れたのが次の比較では、「パルシファル」初日、プリンツレーゲンテン劇場でのハイドンのオルランド・パラディーノ、「三部作」、「指輪」ツィクルスとなっているようだ。私は、「パルシファル初日」には余りがあったので、一種類しかない「指輪」と思っていたが、違ったようだ。各上演ごとに立ち見を合わせてクラス5以下の400席が提供された。つまりここで長く立つが上演の時に立つかの選択か?私は今回はもう十分立った思う。兎に角、最前列に座らせてもらう。

結局人気のあった二日目や三日目ではなくて、初日にした。端の方だが、下の方の回廊の最前列は初めてになる。管弦楽も指揮もよく見えるだろうが、舞台の奥は切れるかもしれない。82ユーロの座席が41ユーロとなり、利鞘41ユーロしか出ないのだが、なによりも観劇を確実にしたことが大きい。金のことだけを考えている人は殆どいないと思う。これで今まで発注していた272ユーロまでの券を断るのでその差額は250ユーロ近くとなる。それよりも何よりも気が向けば明日からでもバーデンバーデンでの「パルシファル」初日のお勉強に精が出るのが嬉しい。これでベートーヴェン第七交響曲と「パルシファル」を数か月の中で二回づつ聞くことになり、お勉強の効率が上がり、認知が深まる。



参照:
普遍的なネットでの響き 2017-07-21 | 音
お得なバーデン・バーデン 2017-03-21 | 生活
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by pfaelzerwein | 2018-01-21 19:41 | 文化一般 | Trackback

習っても出来ないこと

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小澤征爾登場のNHKの朝番組を有料で観た。ベルリンに登場することになっていたが、誰も期待していなかった。前回のデジタルコンサートすら見ていない。ラディオ放送の内容で充分だった。しかしこのインタヴューには興味を持った。

小澤の語る拍子の難しさは、まさしく「とんとん拍子」と戦っている天才日本人指揮者の永遠の葛藤であり、喜歌劇「こうもり」序曲のニ分の二拍子の打ちは、今キリル・ペトレンコがミュンヘンで「コルセットの紐を締めるように」課題として指示しているものと関連していて、今し方聞いたバイロイトからの中継録音でも気が付いたことにも相当している。

なぜ先日の「ラインの黄金」であれだけ時短をしながらも反対にゆったりとしたリズムを刻めているかのまさしく歌手のアーティキュレーションを超えた音の流れでもある。それは後者では、「ヴァルキューレ」一幕で歌っているのは亡くなったボータであり、今週登場するカムペなのだが、カムペのまさしくテキストのデクラメーションと同じくする謡いぶりの相違でもある。要するにメトロノームは大切なのだが、それはただの基準であって、それだけで決まるのは大枠だけでしかない。

ヨハン・ボータを生で聞いてからもなぜあれほどに有名なのかは全く分からなかった。なるほど声もその質も役に合うのかもしれないが、既に2014年でも必ずしも充分ではなく2015年の録音も威力もない。なによりもここで話題になっている歌詞のそれがそこまでには至っていないので、言葉も聞き取り難く、カムペのそれと比較するまでもなく逆に自由度が全く取れていない。小澤が「度胸が要り、日本の音楽家などはおとなし過ぎる」と言うことになる。この場合は言語が絡んでいるので特に判断しやすいと言うか、それ以外にはないと言うことになり、オペラにおける歌手と指揮者の合わせ方の聴き所でもあり、ヤホの歌でも話題として触れた点でもある。まさしく、「オペラは、歌手の歌が上手いこと以上に、管弦楽が大事。」とする小澤の発言を奇しくもここ暫くここで触れているのだ。

しかし小澤ほどの才能があり乍らも、まさにトウサイ先生の下でその楽譜の読み方を修行しても、未だに苦慮して、それでも儘ならぬことが存在するのだから「天才の世界」であるというその通りなのだ。凡人はこうした芸事にはそれも職業として手を出すべきではない。教えて、習ってどうにかなるものではない。

「ヴァルキューレ」一幕の録音なども聞き始めた。NHKホールでのそれは、持ち歌の声とは違うのかもしれないが、クラウス・フォークトのそれは格別素晴らしかったと思う。あれほど立派に歌うパントラーコーヴァのそれがその領域まで行かないことと対照的だった。なによりも言葉のリズム感が違うので、ドイツ語の特にホッホドイチュの小気味よい感じが出ない。まさしくツェッペンフェルトの良さもそこにある。それが管弦楽にフィードバックされるのだが、そこはまさにヨーナス・カウフマンがペトレンコを指して言うように「ちょこちょこっとやってしまう」能力が驚異なのである。なるほどボータのそれは演出的にも受け身で、能動的なジークリンデがリズミカルに切り込んだのと対照的だったのだが ― 恐らくそこがパスキエ女史のアーティストプロデューサーとしての腕の見せ所だったのだろう ―、今回はもう少し丁寧に更に制御されたカムペの歌唱が聴けるのではないかと期待する所だ。



参照:
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
とんとん拍子でない帰還 2016-04-10 | 文化一般
WalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2018-01-16 22:07 | 文化一般 | Trackback

ペトレンコが渡す引導

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承前)ミュンヘンに行かずにドレスデンに行く人の気持ちが分かった。キリル・ペトレンコは益々オペラから遠去って行く。もはや戻れないところに来ていると思う。自ら意識していると思う。十年もすれば口の端に上るだろう、「ペトレンコってオペラを指揮していたの、信じられない」と。今回の演奏を聞いてそれでも「キリル・ペトレンコはオペラの指揮者だ」なんて言う人がいるならば連絡して欲しい。

声楽と管弦楽の絡みだけでも、オペラという世界ではもはや無理な領域に入っていた。だからバイエルンで新聞評を書いているマルクス・ティールが1月11日の初日を聞いて「極度の分析で殆ど遣り過ぎ」とツイートしてそして新たに「コルセットで締め付けられているような一場二場で、更に空気が薄くなっていた」と私と同じような投稿をしているが、私は自身の座席での響きから「スーパードライ、絞ってももう何も出ない。」と表現しよう。

オペラにおいてこれに近い印象を得たのはクラウディオ・アバド指揮の「シモン・ボッカネグラ」でしか思い浮かばない。あの文化会館の響きのようなミュンヘンの劇場なんてありえない ― まだ自身の席のアコースティックの影響さえ疑っている。よくも低弦も管楽器もあんな音を出せたなと思う。しかし歌は前記のカプッチッリやギャウロフのようなあの枯れた渋い声を出せる人は一人もいなかった ― あれはあまり言われていないイタリア語の響きそのものだ。これではオペラにならない。そもそも楽劇はオペラだろうか?

私などはどうしても想像してしまうのである。先月のプッチーニで特にヤホの歌であまりにもウェットになったものだから、音楽監督としては「このままでは劇場にカビが生えてしまう、徹底的に乾燥させよう」と無気になったような感じさえ思い浮かばせる徹底である。

勿論、この四部作の前夜祭「ラインの黄金」はレティタティーヴらしきものが完全に音楽になっていて所謂楽劇にはなっているのだが、まだまだ管弦楽の響きと僅か乍ら殆ど地科白のような「魔笛」を継承するところもあって、その管弦楽と声楽の関係が一筋縄ではない。

それに関しては改めて纏めるとしても、キリル・ペトレンコの求める厳しい音楽はもはや完全にオペラを超えていて、声楽付きの管弦楽曲であり、ネットには室内楽的と書かれてもいたが、私に言わせれば丁度リヒャルト・ヴァークナーが作曲しつつ誰かに歌わせてピアノ伴奏で試演をしている時の響きそのものだった。室内楽の枝葉ではなく、殆ど骸骨のような音楽だった。創作者の指から出て来る響きだった。

しかしキリル・ペトレンコの音楽を指して「冷たい」と書いた向きも2015年のベルリンでの選出時にあったが、冷たくは決してない。寧ろその響きは密度が高くエネルギー量は高い。それとスーパードライとは全く異なる。寧ろ所謂「クール」で、そのドライ度はもはや危険領域に達している ― ムラヴィンスキー指揮の音楽よりもリズムなどは遥かに厳しい。正直第一夜「ヴァルキューレ」が恐ろしい。そして「神々の黄昏」のフィナーレは2015年暮れのような少し憂いた趣きとは違うものが予想される。ニーナ・シュティンメのそれを聞かずにはもういられない。

到底予想がつかなくなった。2015年の新聞評は全くあてにならなくなった。二日目の上演になったAツィクルスでの会場の反応は熱気に富むものだった。聴衆の中にはバイロイトの常連さんも多そうだったが、終演後もとても熱気があった。歌手陣ではアルベリヒ役のルンデュ・グレーンとエルダ役のフォンデアダメロウに喝采が集まっていたのをみてもヴァークナー聴衆が多かったようだ。それとキリル・ペトレンコへの大熱狂は全く変わらなかったので、とても不思議なのだ。なぜならば、あれほどドライなヴァークナーはバイロイトには存在しない。どこにも存在しない。オペラ劇場では存在しないドライさである。

詳細は後回しにして、この夜の上演で、もはやキリル・ペトレンコはオペラ指揮者ではなく、夏にベートーヴェンをどのように振るのかしか思い浮かばなかった。一つ一つ一振り一振りとオペラ劇場に引導を渡しているようにしか思えなかった。(続く



参照:
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2018-01-14 18:00 | 文化一般 | Trackback