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カテゴリ:音( 266 )

ここに定着する印象

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今頃になってルツェルンのコンサート評などを読み返す。昨年のように生中継も無かったので、番組での批評家のお喋りも無く、自分自身もその前のゲヴァントハウスから盛り沢山だったので若干混乱していて、あまり人の言うことが耳に入らなかったからだ。

しかし二日目8月29日の録音が放送されたことで、少し気持ちが落ち着いた。嫌が応でも印象を定着させなければいけなくなったからだ。序でに3月のベルリンでの放送録音を流す。DCHでの放映もあったので、マイクを通して三回、生で三回もフィルハーモニカーとの五番を聴いた。その内ベルリンでの三回とボンでの座付管弦楽団のホルンは同じデングラーで、今回比べても明らかにドールよりも上手い。確かに弱音をドールも頑張って吹いているが、二楽章を上手にこなしたのは復活祭の一日目だけだ。余りにもアヴェレージが低い。デングラーはミュンヘンの奈落でも安定していて、やはりベルリンに欲しいソリストである。フィラデルフィア管弦楽団のようにシェーンベルクはドール、チャイコフスキーはデングラーが吹くような体制を取るべきではないか。またフィルハーモニーの分析的でクールな音響はそれはそれでとても魅力なのだが、視覚や楽譜などがあればそれを補うことは可能である。そうなると最初の喰い付き程には音楽的魅力が薄い。

そしてなによりも、前半のシェーンベルクに於いての二日間で残した最も強い印象は、その録音にも新聞評にも記録されることになった。ノイエズルヒャー新聞にはミヨーのアンコールでは無くて、もう一度協奏曲を演奏して欲しかったぐらいだとある。現実的ではない希望にしてもその気持ちはこうして録音を聴くことで同じ気持ちになる。

シェーンベルクが終わって拍手が始まるまでのコパチンスカヤの不安そうな顔が印象的だった。前回に復活祭で演奏した時はお互いに見える位置で明らかに気の無い拍手をした私である。だからその気持ちがよく分かった。録音を聴くとやはり色々と変えてきていた。詳しくはじっくりとベルリンでの録音や録画と比較してみたい。次回の再放送までまだ一週間近くある。

20時からライプチッヒのゲヴァントハウスからの生中継がある。映像のストリーミングもあるので、シューマンフェストという事でこれまた愉しみである。さてどの程度の演奏をしてくることか。



参照:
ルツェルンでの視界 2019-09-04 | アウトドーア・環境
コンツェルトマイスター 2019-09-01 | 音
by pfaelzerwein | 2019-09-14 01:59 | | Trackback

管弦楽練習の立ち合い

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前夜は22時過ぎにはベットに入った。疲れていたからだが、朝五時ごろに目が覚めた。二十数時間後に帰宅しないのに不利だっと思った。明け方初めて指揮者キリル・ペトレンコの夢を見た。どこかで出会うのだが、声を掛けて自己紹介しようとすると、知っているよと言うようなことだった。なにも不思議な夢ではなかったが、覚醒してから一体ルツェルンなどには来ないのは分かっているのだが、なぜだろうと思った。

予定通り14時前に無人の国境を超えた。そこから高速に乗って、ベルン方面へと向かう。手っ取り早く現金を出して、音楽勉強とピクニックをしなければいけない。湖の近くの休憩所で車を停めようと思ったら秋まで閉鎖されていた。仕方が無いので湖の街に下りて、過ぎ近くの木陰を求めた。高台に出ると村のスポーツ施設の駐車場に木陰が出来ていた。山にもすぐに入れるところだ。

村は高台にあって湖へと絶景が開いていた。後で調べると前回ピクニックした場所の対岸に当たる。南向きなので夏は暑いかもしれないが、秋は気持ちが良いだろう。ピクニックをして早速音出ししながら楽譜を一通り捲る。眼を通すのは二回目なので、巻頭の文章を読まないでも曲の核心や構成は分かるようになる。同じプログラムのベルリン公演でのプログラムのPDFも持ってきたので、それにも目を通す。

こうした時に助かるのがノイズキャンセリングのイヤフォーンで道路脇の駐車場でも集中して音楽を聴ける。嘗ては本当に森の中でしか不可能だった作業が、状況によっては高速道路の脇でも可能となった。こうしたことの銘々の積み重ねが、人々の営みの積み重ねが二十世紀の古典の演奏の水準を上げて行くことになる。つまりレパートリーとして核となって行くことになる。その中でどのような作品が残っていくかは分からないが、少なくとも楽譜によってその創作意図が明確で、各々の演奏媒体に課題を与えるような作品は、定着していくように思われる。

水曜日は先ずバイエルンの放送局で8月29日の演奏会中継が放送される。恐らく最も難曲であるシェーンベルク作曲ヴァイオリン協奏曲作品36の歴史的な演奏が流される。初演者を除くと録音だけでも幾つかの試みが残っているが、そのどれもを凌駕して、復活祭で同じ演奏を聴いた時にもミヒャエル・ギーレン指揮のミヒャエル・バレンボイム独奏の名演を超えることは無かった。しかし漸くある水準の演奏が成し遂げられた。

ある水準とは月曜日に管弦楽練習の立ち合いを終えた作曲家のハンス・アブラームセンの言葉を借りればその定義が出来よう。つまり細かなところを修正して、創作意図を伝えることが出来るかどうかに尽きるのである。作曲のシェーンベルクは半世紀前に亡くなっていて、その示唆を直接受けることはできないが、数多くの研究と文献もあり、その意図を正しく音化することは全く不可能ではないのである。



参照:
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
彼方の閃光を目指して 
by pfaelzerwein | 2019-09-11 04:07 | | Trackback

ラトルファンの嘆き

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夜中一時過ぎに帰宅した。最後のスタンドに入ったが寝ることなく、直ぐに帰宅を急いだ。車庫出しが二十二時の二分程前だったので、所要時間三時間十分ほどだろうか。往路は小さな国境通過路で、十四時前で偶々誰も居なかった。帰路はバーゼルを通過したが三四人組がコントロールしていたが、一礼で済んだ。先月のスイス人によるフランクフルト中央駅での事件以来コントロールするようになっている。

さて音楽的な成果はどうだろうか。サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団は初めてだった。少なくとも演奏に関しては、40年以上ファンとして通い続けたこの指揮者のコンサートやオペラの中でワーストの出来だった。ベルリナーフィルハーモニカーとのベートヴェンの第七交響曲と双璧だった。何よりもメシアンの解釈には期待していたが、とてもではないがカムブレランの様には楽譜も読み込んでおらず、リズムの処理もお粗末だった。本人としては管弦楽団の力量として言い訳を用意しているのだろうが、少なくとも辞任に際してフィルハーモニカーよりもラトルを支持していた私のようなものには通らない。

サー・ラトルは明らかに都落ちをした。ロンドンの交響楽団の技術程度はドイツの放送交響楽団程度である。マイクを通しては気が付かなかったが弦楽陣は下手である。コンサートマスターから後ろまで各々皆水準に達していない。管楽器陣は大編成の為にエキストラがたくさん入っていたとしても、例えばオーボエのコッホ嬢でも、音合わせは安定していたのであれと思わせたのだが、マイヤーの後釜に座るほどの力はなかった。フルートの首席も一人祝福されたが、到底パユと比較する訳にはいかない。金管はコントロールも効かないのでブラスバンドの様で、たとえベルリナーフィルハーモニカーが何だかんだと言っても、それはとても音楽的に制御されている。

ロンドン交響楽団の芸術的な価値は、アメリカのビッグファイヴの中からの指折りの楽団とフィルハーモニカーの三分の一ぐらいだ。実際に今回の演奏会はジーメンス財団の特別演奏会ツアーだが三分の一以下で個人的には30フランしか払っていない。彼らのコンサートに超一流と同等の入場料を払うのは全てラトルの知名度に払うと考えてよいだろう。

アブラームセンの「(オルフェ―リアの)レットミ―テルユー」の再演でのバーバラ・ハニンガムの歌の技巧に対応できない管弦楽とは一体どういう事だろうか。なるほどコンサート前のリハーサルに手間取って作曲家がガイダンスに現れるのが遅れた。サウンドチェックの心算が音楽的に重要な技術的な修正へと追い込まれたのはよく分かる。会場の音響を使い切れるだけの楽団では無いからだ。

本当のラトルファンが、ロンドンでの活躍で期待するのはベルリンでは出来なかったコンサートでありそこでの音楽表現である。しかし今回のを聴くと、メシアンなどは振るかどうかは別にして、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーで演奏されると全てが塗り替えられてしまう。まるでラトル指揮の演奏はペトレンコ指揮によって塗り替えられるために存在するかのような趣になって来た。



参照:
彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-09-10 19:57 | | Trackback

adagio molto e cantabile

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承前)第九についてプログラムに高名なヴァークナー研究家のフォス氏が独語解説を受け持っている。また公演前のガイダンスではシュテール女史が味のある解説をしていた。多くの人が感動したようだが、個人的にはまた独自なことに感じ入ってしまっていたかもしれない。なんといってもベルリンでの初日の演奏もあまりにもセンシビリティーに富むもので、楽聖の「心から出でて心へ入る」の「ミサソレムニス」に付けた言葉が浮かぶしかなかったからだ。

二月にミュンヘンで「ミサソレムニス」を体験していたので、その作曲背景も楽聖の考えていたことはとてもすんなりと理解可能なのだが、その時代背景やその環境に関しては勉強不足もありどうしても隔靴掻痒の感がある。古典芸術を愉しむということの意味は多少の差があれどそいうことではなかろうか。

ガイダンスの話しは、それこそ子供の頃に読んだような伝記に載っている聴障害が1818年には完全に来ていてというところから、その手紙などを紹介していたと記憶するが、「ミサソレムニス」に於ける状況つまり「フィデリオ」を含んで全ての交響曲を全て抱合してしまうような時間的なスパンを考えることで、更に第九における作曲状況をそこに繋ぐことが可能となる。まさしく楽聖の世界観であり、その聴世界へと少しづつ近づけることが出来たと思う。

ルツェルンでの公演では第三楽章を皆が絶賛するように、ベルリンやどうもザルツブルクでは無し得なかった深みへと大きく踏み出していた。その会場の音響が大きな後押しをしたことは間違いなく、たとえ本格的な録音が存在しなくとも全ての人に今後とも大きな影響を及ぼすに違いないと思われた。

最後のシーズンを迎えたコンツェルトマイスターのスタブラーヴァが二人目で弾いていて、その後ブカレストでインタヴューとしてその三楽章と後期の四重奏団との関連について、最早メロディーではない語り合いとしての音楽について、楽聖の内声について語っている。そしてEsホルンによる追想も演奏後に特別に賞賛されただけの価値があった。

ベルリンでの演奏ではペトレンコの指揮するアダージョモルトエカンターヴィレの踊りが余りにも軽みを以ってややもすると軽薄な感じさえ与えて、最も疑問とされたところであると同時に最も改善される可能性のあったと見越したところだが、ルツェルンの音響ではどこまでも優しい低弦の支えと対旋律がデイアローグすることで、比較するものは正しく後期の作品群でもその調性を超えて例えば同時代の30番のピアノソナタの飛翔を思い浮かべるしかなかった。軽やかな歩みを以って雲上の散策となる。そこの表現は恐らく嘗て今までなされたことの豊かさだったのだが、全ては基調として準備されていたことになる。兎に角、一楽章のあまりにも具体性を持った音楽は、「ミサソレムニス」のコーダの戦争シーンにも劣らず迫真に満ちているだけでなく、二楽章に於いても独伝統的配置でのフモーアに溢れる楽想があり、三楽章のパラダイス寸景へと踏み込む。

三楽章の所謂後期の作風のアンダンテ動機そしてテムポIで戻って来ての16分音符の刻みが、その舞いが主なベルリンでの批判点が、これが精度を上げて右の第二ヴァイオリンの上に第一ヴァイオリンが乗って、またはヴィオラが呼応して、クラリネットが絡んで、Es管のホルンが楽譜通りに、第一ヴァイオリンが32分音符の刻みが音価を保ってと想像して欲しい。確かにベルリンでは浮ついてしまっているのはその精度が全てを語っている。

ベルリンでの録音を聞けば拍の掘りとかいう以前にどうしても走りかけているのは致し方ないかもしれない。それが回数を重ねることで音価とリズムが揃い精度が上がるだけでその音楽の表情が悉く活きてくる。音楽演奏実践とはそういうことをいうのであって、如何にルーティンでなく新鮮な気持ちで正確に合せて演奏するということが難しいかということに過ぎない。ここはとても好例だと思う。ルツェルンではこの楽章の演奏がどれほど素晴らしかったかがこれで想像できるかと思う。なにもキリル・ペトレンコでなくても、幾らでもやることはあるのだ。それによって少しでも楽聖の心の中に入って行けるのである。合わせるということは、四重奏曲のようにというのは、そのことでしかない。(続く



参照:
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
by pfaelzerwein | 2019-09-06 16:22 | | Trackback

ブカレストからの生中継

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ブカレストでのエネスコ音楽祭生中継を聞いた。時差が中欧とは一時間あることは今回知ったが、それでも23時過ぎまで演奏していたのだろうか。音質は、少なくともイタリアのraiによるスカラ座中継よりは普通だったが、盛んにクリップさせる。収録に慣れていないのだろうか。更に会場の雰囲気が分かり難いので、舞台以外は可成りオフになっている感じがする。それでも残響は分かった。

仕事をしながら離れながらだったが、リヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」全曲のコンサート形式演奏会生中継で印象は得た。まず最初の音からしてアタックも弱く引き締まりが無い。ベルリンでの演奏などは前任者ヤノスキーの傾倒を受けて高度なとかあるが、どうもベルリンには前任者への信心があるようだ。あの最初の和音だけで明らかにミュンヘンのペトレンコ指揮とは比較できないばかりか、ナガノ指揮のハムブルクの座付の方が鋭いかもしれない。

そこからすればユロスキーがペトレンコの後任としてミュンヘンで振ってもそれほど上等な音とはならないと予想する。なるほど楽団がネルソンズ程ユロスキーを欲しなかった要因は何となく見えてきた。少なくともコンサート指揮者としては頂点にまでは至らない人だと認識した。

しかしである、この問題の多い作品をコンサートでここまでドラマティックにそして心を揺さぶらせる指揮をするのには改めて魂消た。ペトレンコ指揮演奏の場合は楽譜を確認しようとさせるが、この指揮者の場合は楽譜を見るまでも無く、その核になる部分を拡大鏡で拡大して光を当てるような指揮振りが分かる。しかしそれでいて全体の中での部分が綺麗に収まるのはこの指揮者の稀有の特技で、それは管弦楽曲を振っても全く分からないように次の部分へと綺麗に受け渡される。

こういうのを聞かされると、支配人が確りしてプロジェクトコンセプトが立派ならば如何ほどの劇場的効果が得られるだろうかと胸が一杯になる。ペトレンコ時代には得られなかった本当の劇場的な感動が体験できるかと思うと今から感動してしまう。

述べたようにコンサート指揮者としては頂点に出る人とは思わないが、音楽劇場指揮者としてはその才能からすればピカイチではないだろうか。パパーノも確かに悪くはないと思うが、その音楽的な作りの輝きはとても比較にならないほど素晴らしい。バーデンバーデンやザルツブルクは次を見るならばネルソンズよりもこのユロスキーに話しを付けておくべきだろう。

これでまたミュンヘン通いが続きそうな塩梅になって来た。一方でペトレンコがベルリンだけの定期演奏プログラムでは古典やロマン派の恵まれない曲の実験をするというのであるから、余程の曲でない限り態々出かける必要はないだろう。そもそも年に14回を超えるようなプログラミングは必要ないとされているので、少なくとも前任者ラトルの時のように頻繁に指揮台に君臨するという事はなさそうである。2020/2021年シーズンにおいても2022年6月にはミュンヘンのオパーフェストを最後に振るとなれば、実質九カ月未満しかベルリンでは振らない。2020年11月は東海岸でのお披露目なのだろうか。記者会見風景を改めて観ると2020年8月のオープニングツアーは、スークとバレンボイムとの協奏曲が第二プロでまず間違いないだろう。第一プロは「千人」だろうが、「ミサソレムニス」をどこに入れてくるのだろうか?



参照:
オーケストラがやって来た 2019-03-12 | マスメディア批評
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
by pfaelzerwein | 2019-09-05 19:34 | | Trackback

コンツェルトマイスター

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承前)ベルリナーフィルハーモニカーのコンツェルトマイスターは各々個性もその技量も異なる。今回は樫本とスタブラーヴァの二人でオープニングツアーをこなした。前者はペトレンコのお気入りの日本人で、後者は最後のシーズンを迎えているポーランド人である。ペトレンコが発言したように世界中からやって来ている各々のオリジンをその音楽性を、フィルハーモニカーの核となるレパートリーと共に土台にしていきたいと、自らが遠くシベリア生まれであると付け加えた。

必ずしも人種やその文化が各々のコンツェルトマイスターの音楽性を左右する訳ではないが、樫本が同業者には高く評価されても通常の音楽業界ではそれ程は評価されないのにはやはりその音楽的な特徴もあるだろう。同じようにスタブラーヴァの弦に物足りなさも感じたり、逆に艶っぽさと強い弦を感じることもあるのも特徴である。そして初日には前者が、二日目には後者がリードした。しかしその個性だけでなくて、それは楽曲に合わせてきていた。

つまり初日には制約されたヴィヴラートを樫本が、二日目には分厚目のスタブラーヴァが請け負った。それに関しては復活祭では、シェーンベルクの管弦楽には線の明晰さが欠けていた ― しかし特筆すべきは、復活祭では感られなかったシステム間の繋がりなどと同時に対抗配置の音響的な秀逸としばしばユーモアも体験できた。これはとても勉強になる貴重な体験だった。

またソロのコパンチスカヤのヴァイオリンも下手であった。楽器が全く鳴っていなかった。しかし今回は会場の音響に助けられるばかりか、楽団と共に表現がより幅広く大きくなっていた。そして音量感と音色が前日とは全く異なった。確かにスタブラーヴァは前任者ラトル時代の20世紀モダーンなレパートリーでなくてはならないコンツェルトマイスターだった。そして今回も後半にチャイコフスキーをもリードした。当然のことながら初日の後半の第九とこの第五ではヴィヴラートが変わってくる。

これが既に試し弾きのコントラバスにも徹底されていたのだろう。これが大きな相違だった。これによって何が得られたかと言うと、初日から二日目へと大きなダイナミックスの変化であり、その音楽のよりどころとなるバスの響きだった。つまり最終に掛けて音量も増していく、尻上がりの状態を、決して少なくない核となる二晩通う人たちに感じられるようにもなっている。昨年はフランツ・シュミットの交響曲四番の前の「ラペリ」にハイライトがあった。

二日目のプログラムが決まった時点では私達には知らされていない初日のオープニングのプログラムと同時に総合プログラミングされていたという事であり、決して思い付きでこのような演奏と演奏形態がなされているという事ではないのである。そしてそれによってシェーンベルクの世紀的な名演がなされた。

なるほどチャイコフスキーの交響曲五番の終楽章はベルリンの三日間は全て把握できていないが、今回初めて「涅槃」へと近づいた。それでもと言うかフィルハーモニカーはどこまでも喰い付いて来る。マイクが入っているとなると尚更だろう。ジャーナリストが好んで使う表現を借りれば鞭が入った。ゲネラルパウゼ前の最終コーナーである。現在のペトレンコと楽団の関係においては限界まで行ったと思う。今までで一番多く生演奏を聞いた管弦楽団はベルリナーフィルハーモニカーだと思うが、今までは二番目に多かったヴィーナーフィルハーモニカーの方をいつも愛しく思っていた。しかし今回初めてそれが変わった。

その反面、二楽章や三楽章は復活祭演奏の二回の一日目ほどの精妙さと表現の多彩さには至らなかった。二日目の演奏には今回一楽章は至っていたと思うが、若干分厚く響き過ぎた感があって、若干スラブ色が強く出ていた。そうした大フィナーレへの準備は、繰り返すが、初日から周到に進んでいたのだった。(続く



参照:
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
次元が異なる名演奏 2019-04-15 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-09-01 19:24 | | Trackback

「一聴瞭然」の蟹の横歩き

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ルツェルンでのコンサート評も出た。まだ最後のブカレストでの〆は分からない。ザルツブルクでの批評もざっと読んだ。様々な批評や印象を総合すると、同じような反応が初日の「ルル組曲」で起きていて、その分第九で喝采となっている。

ザルツブルクとルツェルンの聴衆を比較する心算は無かったのだが、日本からの旅行者がルツェルンのそれが冷たいとしていたので少し想像してみた。同じことは批評の中にもあり、ザルツブルクの聴衆は「パユやらマイヤーとかオッテンサムマー、ドールなどを初めて生で聞く人が多くそれだけで感動する」としている。これはある意味正しいだろう。実際私自身がパトロンをしていた時にもザルツブルクではオペラだけで、大管弦楽団コンサートは祝祭劇場では一度招待で出かけただけだった。要するに少し聴衆が異なるという事だろう。そもそもヴィーンの人がザルツブルクで態々コンサートを訪れる必要も無く、ミュンヘンのホールの無いコンサート難民が主となっていると思う。

だからあのルツェルンの人材派遣業者が招待したような場違いな人が沢山いた初日のルツェルンの晩と事情は変わってもその質はさして変わらない。それでも「組曲」が受けなかったというのにはまた別の理由がある。

同時に第九に関しては軒並み高級新聞等もそれを批評するのに苦心していて、バイエルン放送局のライポルト氏が正直に「(第九終了後の)その観客の反応には驚いた」つまりもう少し古楽器風の演奏をして欲しかったからだと言うように話している。また他のオーストリアの新聞は「三楽章は、木管楽器も休み、気持ちよく過ぎてしまう」と明らかにルツェルンでの演奏の様には行かなかったことを示すと同時に四楽章が合唱ソリスツとともに素晴らしかったことを伝えている。特に独唱陣がデクレッシェンドできる制御を賞賛している。

そうした初日に比較して二日目のシェーンベルクがハイライトだったとライポルト氏。この曲がなぜより容易な筈の「組曲」に比して大成功したかは、人によればコパチンスカヤの演奏を挙げるがそれはそれ程正しくないのはバーデンバーデンで同一プログラムを聞いて知っているからだ。但し管弦楽団があの時よりも更に上手に付けていたのは、ルツェルンを聞けば明らかだった ― 11日のラディオ放送で確認可能である。しかし実際にはルツェルンの近代的なシューボックス型のホールの音響によって格段に表現の可能性が広がったのも明らかなのである。

これがどれほどこの楽曲の本質を知るために重要だったかは体験すれば「一聴瞭然」であり、疑いの余地が無い事実である。そして僅かの残響の音の尾に次の拍の音を綺麗に重ねるつまり縦横に繋がるという事でしかないが、いかに正確に拍から拍へと移していくかの必要性が知れる。所謂点描的な扱い若しくは音色旋律的な扱いが12音楽法での管弦楽技法で重要になる。その意味からもベルリナーフィルハーモニカーの管楽器陣は見事に一言に尽きる。勿論弦楽陣の対位法の歌わせ方や反行などの表現は息を飲むばかりで、とてもではないがここまでの表現意欲はフィラデルフィア管弦楽団にはない。彼のゲヴァントハウス管弦楽団の内声の様にではなく、重要な線として出てくるところの合わせ方はここの積極的なヴィオラ陣の魅力でもある。

またもや昨年と同じように二日目の始めから大名演を繰り広げたのを思い浮かべ、またコンツェルトマイスターの相違について囁かれたのを、朝の森の中を走り乍考えた。そして水曜日から気になっていたコントラバスなどの試し弾きの音からして昨年とは異なっていたことのその不思議に一つの仮説が浮かび上がった。

具体的には昨年よりは格上の座席で尚且つ初日と二日目は若干席が横に五つほどずれたのだが、二日目には昨年と同じような響きが戻ってきた事への不思議の原因である。この仮説は、同時に「組曲」の「カニの前後上下」への動きの鮮やかさの方が遥かに誰にでも分かる筈なのだが、あまりにも理解されなかった不可思議の回答にもなっている。そしてその仮説がいよいよ確からしくなってくる。(続く



参照:
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
次元が異なる名演奏 019-08-18 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-08-31 22:53 | | Trackback

歓喜へ歌への対照と構成

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一日中血圧上がりっぱなしだった。しかし無事乗り越えた。なんと言っても合唱付き楽章に尽きる。なるほど一楽章の弦楽器の柔軟性は樫本の業であり、四楽章でもフレージングの弓の扱いが聞いているだけで確かで、あの月並みなメロディーが新鮮に意味を持って聞こえた。何よりもそれによって自然なアゴーギクのダイナミックスへと大きな弓使いを、それゆえに切れば切るほど律動感が発生する。樫本がマイスターを務めることは分かっていたが、二番にスタブラーヴァを入れたのは意外だった。なるほど最後のオープニングコンサートであるから、特にベルクが入っていたのでぜひ入って貰ったのは分かるが、もう一つのプログラムのシェーンベルク・チャイコフスキーと掛け持ちになる。

二楽章はもう一度聴き直さないといけないが、基本的には拍を合わせる事での凝縮感が、頭を合わせたフルトヴェングラーなどと同じで、見事だった。三楽章の弦などはもう少し繰り返すとよくなるだろう。フルトヴェングラーの場合は、その和声のヴェクトルを重視する訳だが、ペトレンコの場合はそうした圧縮無しに正しい音を合せることと自由自在に歌わせることが出来ることから、同様の効果が生じている。

木管楽器陣のアンサムブルも復活祭の延長で見事になっていて、金管との合せも更に改良されていて、フィラデルフィアとまではいかないでも、もう一息である。それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦の強い線の歌はこの曲には無くてはならないと思う。昼間の放送でもフルトヴェングラ―の戦前の録音との比較が流されたが、明らかにそこへと戻っている。

ルル組曲は、全く全曲演奏とは異なった。何よりもテムピを押さえているので完璧に演奏させられていて、システム間の出入りが、あるがままで、稀に見る演奏となっていた。しかしこれこそ繰り返さないとまだまだ本領発揮とならないだろう。しかしこの精度での上演は不可能で、組曲は別と考えるべきだろう。曲説明は先日ミュンヘンで挨拶したクラースティンク博士が担当していたが、そのドラマテュルギ―とは少し違うと思う。その話しの終わりに組曲を交響曲として更に歌曲付きの交響曲からマーラー、そして第九と繋ぐのは一寸違わないか。キリル・ペトレンコのブレーンでもあるので間違ったことは話していないと思うが、さてどうだろう。ペーターセンの歌も到底舞台の上では無理な精度で、初登場で十二分にその実力を示したと思う。

合唱付きにおいても「ミサソレムニス」同様に見事な歌で、それどころか映像を見ていると、合唱に合わせて口ずさんでしまっている。表情の豊かな人だから考えていることがそのまま出てとても面白い。兎に角、器楽的にも歌える人で、中々比較できる歌手はいないと改めて思った。ペーターセンに見つめられていたバスのユンも準備万端で最高の歌唱を聞かせたのではなかろうか。ブレゲンツでの「千人の交響曲」ではそこまで立派な歌では無かった。

23時過ぎの批評にもあったように、二楽章がそのもの戦争シーンだとするのも、例えばブルックナーの蒸気機関のカムとの対照でもあり、当然四楽章と対照となっている。まさしくクラーシュティンク博士が述べていなかったドラマテュルギ―であり、一楽章冒頭のフォルテと共にとても強い対照の構成を示したことになる。ペトレンコ自身による解説では、英雄交響曲を逆転させた形で、英雄を奪い逆行させたのがこの一楽章となる。その意味で四楽章が大成功しているのだが、通常の演奏ではその対照が疎かにされている。まさしくミュンヘンのミサソレムニスの演奏からそのような明白な対照と構成が示されると予測していたところである。

総じてフィルハーモニーの聴衆は、ブレゲンツの千人の交響曲の時の様に本当のスタンディングオベーションまでには至って無かった。様々な理由は考えられるが、マーラーとベートーヴェンではやはり古典の曲はより古典的な教養も必要という事ではなかろうか。

これでブランデンブルク門でのオープンエアーでの第九に関してはなんら心配もいらない。それにしてもこれほど明白に歌詞が歌われたことは無いのではなかろうか、初めてその言葉が聞き取れた。放送合唱団も想像していたよりも遥かに良かった。



参照:
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
by pfaelzerwein | 2019-08-24 06:38 | | Trackback

指揮科教授のバイロイト

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2019年バイロイト音楽祭のプログラムをぱらぱらと見る。150頁近くあるが三か国語なので内容は薄い。肝心の演出に関しては関心零なので、指揮者ブシュコフのインタヴューを読む。中々興味深い。要するに彼の指揮した演奏を彷彿させる受け応えをしているからだ。取り分け重要なのはテムポに関しての質問とその指針について指揮科教授らしい答えを示している。

先ず、実演を聞いた私の印象は、拍をそれほど数えてはいないが、ブーレーズよりもペトレンコよりも遅いという事だった。ここで記されている数字は、全曲ブーレーズ、ペトレンコ、其々3時間38分、3時間50分に対して、4時間14分で、大体予想した通りだった。因みにトスカニーニが4時間42分で、序でにラトル指揮がコンサートで3時間39分で、私の印象からすると復活祭上演ではもう少し長くかかっていただろう。

要するにブュシュコフ指揮は明らかに遅い。しかし原典、つまり前盛期の初めごろまで祝祭劇場使っていた楽譜を参考にすると、その後は段々と遅くなってきたと言明する。それがクナーパッツブッシュ指揮やトスカニーニ指揮の演奏だったのだろう。指揮のシュトラウスが「私が早くではなくて、皆が遅くなったのだよ」と語っているという。同時に楽譜の細かなところに注目して冒頭の一弓の四拍、もしくは最初の五小節に亘るフレーズに注目する。若しくはどの言葉が正しく発せられるかによって、それを基準として全体のテムポが定まっていると、正しいテムポはどこを基準とするかの教育者らしい発言となる。勿論、その時の歌手の歌に合わせて変動するものでありということで、メトロノームなテムポがどこにあるかということになる。

同時にダイナミックスへの言及になって、ポコフォルテがフォルテがピュウピアノがどこに掛かっているかをつぶさに判断して、更にどの楽器がメロディーラインをそれを音程の高低によって出し方が変わり、同時に歌手の声が浮かび上がるように配慮するという。何か手の内を明かしているようなお話しなのだが、こうした具体的な話を読むと流石に教鞭をとる人だなととても感心する。

そうした舞台の上とのやり取りと出し入れで、音楽を作っていくのがよく分かる演奏であった。そしてその面白さは転生して行く音楽にあって、小節内でも起こる変容に言及する。自身のメモを読むと、最初のアンフォルタスの出だし後の管弦楽の受け渡しなどとても見事であって、放送で是非確かめたいところが幾つかあった。

そして、この指揮者が最初にパルシファルを祝祭劇場で経験した逸話が、全く私が言及していることに相当する。前から三列目に座っていたようで2004年の私よりも前かもしれないが、つまり最初の音が出る前から振動を感じてどこからともなく始まるというのだ。私が言及した箱鳴りにも相当していて、前記したようにこの舞台神聖劇へのスタンスは祝祭劇場での体験がどこに行っても付き纏い、それに限りなく近づけようとしたとある。それはある意味ラトルが、バーデンバーデン祝祭劇場の親切な音環境にバイロイトを意識しながら指揮したことともあまり変わらない。

恐らくこの指揮者はこの二十年でブーレーズ、ペトレンコと並ぶ名指揮者だとは思うが、結果は両幕中間部ミステリウムでの舞台に合わせた外しなど、あれ程クールで早いペトレンコ指揮に比べても効果が出ていなかった。余りにも配慮した演出の責任かそれとも教師然としたこの音楽家の限界か。逆に同じテムポでも深く掘れるかほれないかなどよっては楽団がどれぐらいの力量かなどで全く効果が変わる。如何にベルリナーフィルハーモニカー級の楽団がこの作品には必要か?(続く)



参照:
アホをギャラリーする 2019-08-17 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
by pfaelzerwein | 2019-08-19 21:36 | | Trackback

巨匠ショルティの美意識

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夜間は冷えた。夜中は久しぶりに窓全閉で就寝した。しかしそれ程寝起きは良くなかった。適当に裏山を駆けた。車中のSWR2で面白い話しが出ていた。大指揮者ゲオルク・ショルティがスウェーデンから出演依頼を受けて、ベルヴァルト作曲交響曲三番の指揮を打診されたという。

恐らく電話で、「一体どのように鳴るんだ」とショルティが尋ね、四度の連続の主題であることを知って、スウェーデンに着いて、その場で歌ったという。そして「やはり指揮するのは止す」と断った逸話が紹介された。

ショルティの美意識もさもありなんで、この私でもDLした楽譜を見ていて、このような曲に本当に音楽的な価値があるのか?、まるで自分が子供の時にブルックナーを真似で作ったセクエンツと変わらないではないかと思った。

そして、ブロムシュテットがヴィーナーフィルハーモニカーを指揮して演奏するのでバーデンバーデンの祝祭劇場に出かけた。そこでのいつものシマンツキー氏の解説は良かった。その四度の動機の扱いで、ピーポーピーポーの救急車音としての作法から、このあまりにもユニークな楽曲の遠近法としてのアイデアが紹介された。残念ながら91歳のスウェーデン人指揮の座付管弦楽団には到底そうした遠近感の妙は表現出来なかった。後半のドヴォルジャークの七番交響曲と共に「金返せ」程度の酷い演奏会だった ― とは言っても始めから分かっているので30ユーロも払っていないが。

そしてその後フィラデルフィアからの同曲の生放送を聞いた。いつものようにネゼセガンの解説も秀逸だったが、なるほどこういう演奏は到底座付楽団では出来ないと思った。ああした柔軟なフィラデルフィア管弦楽団の弦楽はベルリンでもとても難しいと感じた。当然ショルティがシカゴ交響楽団を振ったとしても困難だったと思う。

ベアヴァルトの交響曲この演奏は、恐らく最も優れた演奏で、ネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏としても可成り突出していたと思う。ネゼセガンがどのような指揮者かと問われれば、この演奏指揮を代表としたい。たとえその後のカミングアウト後の更なる音楽への集中度、指揮の卓越が感じられるとしても現時点ではこのユニークな交響曲の演奏を挙げたい。



参照:
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
by pfaelzerwein | 2019-08-08 23:44 | | Trackback