カテゴリ:音( 211 )

濃くなる縦波の密度

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寒くなった。車内温度を19度に設定しているのでヒーターが効くが、雷雨が予想されて、生冷たい風が吹くと肌寒い。久しぶりの厚めのTシャツを取り出した。一月以上薄いTシャツなどしか着れなかったからだ。ジーンズに履き替えて、猿股を洗濯とする。湿気が50%ほどあるので快適ではなく、夏の疲れが出て来る。ここ暫く居眠りがちな時間が少なくなかった。洗濯ものが乾きにくいかもしれないが、まだ気温が摂氏20度を超えるので大丈夫だろう。

歯医者に出かける前に身体状況もメモしておこう。気候の影響もあるかもしれないが、左上歯茎の炎症が収まってくると、右の鼻の奥もより大人しくなった気がする。要するに殆ど分らないぐらいになっているのだが、時々違和感もある。歯茎から炎症が無くなると鼻も完治するのかもしれない。全身に与える影響も少なからずあると思うので期待したい。

その他では、右足の親指の付け根が痛くて歩けないぐらいになったが、駄目かと思って走ってみると治った。そして椅子に座っていると同じように痛くなった。左手の指先が痺れるのも机の高さまで左手を上げて体を捩じっていると痺れる。どうも座業の弊害のようでもある。

ルツェルンの準備の為に先ずは古いべルリナーフィルハーモニカーの録音を聞く。SPのCD化されたもので、DGの古い録音が集められたものだ。1927年から1943年前の録音が並べられている。私達にとっては実際に体験したことの無いサウンドで、当時一体どのように鳴っていたのかの貴重な資料となっている。一緒に収められているクライバーのシュターツカペレなどの豊穣のサウンドと比べると如何にも骨皮のような印象を得るが、その傾向は今でも座付き楽団と交響楽団と差異であり、しばらく聞きこむと如何にシュターツカペレとはいいながらリズムを刻むとジンタになってしまうのだ。これは致し方ない。現在もその傾向は全く変わらない。

ニキシュ指揮の録音は有名だがあまり分らなかった。想定以上に良かったのは1924年録音のブルーノ・ヴァルター指揮の「フィンガルの洞窟」で、録音の制約に拘わらず明確なアーティキュレーションでダイナミックスも正確に付けている。その読みの明確さが意外にキリル・ペトレンコにも共通する。勿論バッハにも影響されている古典的なメンデルスゾーンであるから低声部の発音も歯切れが良い。クナッパーツブッシュ指揮の「ヴァルキューレの騎行」が1928年録音である。やはりこの人の指揮は劇場向きな印象で、それほど上手く行っていない。

さてフルトヴェングラー指揮は1935年録音で「魔弾の射手」序曲で流石に低声部から中声部へとコントロールしている。そして1942年録音のフォン・カラヤン指揮「ツィゴイナー男爵」と比較できるようになっている。驚くのは客演でも完全にカラヤン節が聴かれ、問題の低音のにじみを上手く使っている。そして気が付くのはまさしくそうしたサウンドこそは座付き管弦楽団の妙を機能化したものだという事だ。まだ完全に完成していないからそれが分かったのだ。名録音と誉れ高いフィルハーモニアでの一連の録音では全く消されてしまっている過去の軌跡ではなかろうか。

勿論私たちが今キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのサウンドとして期待しているのは、交響楽団としての立派な響きであり、メローな座付きサウンドではない。引き続きフルトヴェングラーのSP録音から運命交響曲を聴いていきたい。七番交響曲の響きがどのようなものであるべきかの示唆がそこにあるかもしれない。兎に角、フルトヴェングラーのそれは拍の頭のアインザッツから次への落とし方が本懐であって、そうした音の密度の縦波が和音のグラデーションとして鳴ることをして和声の機能としていたので、カラヤンのようなずらしは無かった。ペトレンコが振るとその精度が三倍にも四倍にもなる為に演奏精度もそれ以上に高くなる。一度の本番では中々到達不可能な領域である。

今時大管弦楽団のベートーヴェンが本質的な関心を持って演奏されるとは思わなかった。少なくとも戦前の新生交響楽団の名声を取り戻すだけの成果は期待はしたい。それ程バーデンバーデンでのラトル指揮のそれは無意味な演奏行為だった。フランツ・シュミット4番交響曲の晩は大分掃けたがそれでもまだ余っている。四月とは比較にならないほどの名演が体験出来るのに惜しい。



参照:
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-08-14 02:56 | | Trackback

サチって仕舞う音響

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流石にこの二日ほどは暑くなった。それでも時折吹く風が涼しい。夜中は窓開け放たれると布団が気持ち良い。前日に走れなかったのでゆっくりと峠を往復してきた。徐々に摂氏22度へと上がって行くとやはりつらく汗だくとなった。車の燃料のボードコムピューターが0から上がらないので焦っていた。前日の晩には3l残っていることになっていたので、それが一挙に利かしてしまうことは無いだろうが、少なくとも燃料計測の重しのところにはなかたっとみられる。そのまま結局スタンドの前を通って自宅まで帰って車庫入れしたが、週明けに本当に動くだろうか?最悪の場合はまた前回のように暑いところをポリタンを持ってスタンド往復だ。水曜日までの我慢だ。木曜日に最後のサマーカットにして、そして涼しくなる。

クリーヴランドからの放送を夜中に録音しておいた。結局途中で目が醒めているのだが、途中から入力を落とすほどには覚醒していない。なので強音では完全にサチって仕舞ったが、とんでもないダイナミックレンジで収録されているようだ。そもそも歌手を高みにおいて、最小音から完全に鳴らせ切れない会場一杯の強音までだから、可成りマイナスに伸びている録音で、そのようなマイクロフォン設置なのだろう。通常にスピーカーで鳴らす限りはそれほど歪感は感じない。こちらの録音上の不備よりもこの管弦楽団の特徴とその会場の問題が良く分かった。それが丁度この楽団の限界にも通じる。音資料にはなりそうだ。

具体的には指揮者のメストが語っていたように、アメリカの楽団の特徴として棒が振り落とされた瞬間に音が出てしまうので、同じ拍で声を出そうとしても息を貯めるまでの一瞬遅れる。だから欧州の座付き楽団は音がなかなか出ないようになっていることで、この「トリスタン」二幕でも高台から歌うシュテムメらの声の指揮は、昨年の「子狐」のルクセムブルク公演の時のように合わせたのだろう。基本は声の方が棒を早めに見て合わせていたと記憶する。あの曲は難しい。

それで、そして夕刻のザルツブルクからの「魔笛」から、決して悪くは無かったラトル指揮のDVD化されているバーデンバーデンでの最初のそれを思い出したのだが、そもそも最後の「パルシファル」でも全く舞台の上を見上げずに振っていた事が話題になったのを思い出した。歌手も直後のインタヴューでなにも指示が無いから勝手にやらして貰っている旨を語って、直ぐにネットではその部分がカットされていた。

あのペトレンコでさえ「ジークフリート」では歌手に対して逐一と指揮していたのは其れこそマーキングしてある要所要所だけで、「三部作」との大違いに驚いたのだが、ラトルは顔さえ殆ど上げなかった。それでも「魔笛」となるとザルツブルクでのヴィーンのなんとなく合わせる妙技とは違うので少なくとも管弦楽団は見事に弾き切っていて、歌手の問題も殆ど無かったと記憶する。そして「パルシファル」でも最終的に破綻は無かった。

次に日本に滞在する機会があったら是非そこの管弦楽を聞いてみたいと思っている。「東京・春の祭典」のヴィデオが出ているようなので少し見てみた。都饗は昔黛の番組に出ていたかどうか知らないが殆ど聴いたことが無い楽団だ。N饗でもどこでも似ていると思うがやはり日本のそれらしい音が響いている。初めは会場や録音の特徴かなと思ったが、やはり独自の響きがある。最近は中声部のヴィオラ陣がとても気になるのだが ― なにもヴィオラ弾きの恋人がいる訳ではない ―、そこの弾き方次第で管弦楽がどのような和声を響かしているかがよく分る。MeTooデュトワとN饗のフランクフルト公演でその辺りが欠落していると指摘した時には、第二ヴァイオリンとヴィオラを同じぐらいにしか捉えていなかったが、今は後者の具体的な問題として認識する。しかしこれはなにも日本の楽士さんをバカにしているのではなく、先日もミュンヘンの座付きの課題であったり、ベルリンのフィルハーモニカーのそこがフィラデルフィアやクリーヴランドに比べるまでも無く、ゲヴァントハウスやコンセルトヘボウと最も異なるところだと考えている。そこにも留意して第七交響曲イ長調も勉強しようと思う。

なんだかんだ文句をつけながら女流指揮者が振った演奏会を最後まで流してしまった。モーツァルトのト短調交響曲はよく弾けていて、シュトッツガルトのSDRでも中々こうは弾けないだろう。なるほど訳の分からない東欧の楽団などを興業させても東京では入らない筈だ。そして日本人の几帳面さがリズムや謡いまわしなどによく表れていて、それが良くも悪くもある特徴となっていて、私はバッハの楽団で世界的な新鈴木メソッドとそれを呼んでいる。やはりこの四半世紀で日本の音楽市場事情は変わっていることは間違いなさそうで、歌曲の会にしてもある種のプログラムでは欧州ではなかなか成立しないような充実があるかもしれない。さて、日本滞在の節は、何処の会場で何を聴こうか。



参照:
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-08-05 23:42 | | Trackback

干ばつの毎日の驚愕

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「ドンファン」のバーデンバーデンでの演奏を聴いた。サイモン・ラトル時代のフィルハーモニカーの演奏の特徴が良く表れていて、聴かせるようにはなっているが、ネゼサガン指揮のフィラデルフィアと比較すると指揮も荒く、演奏もその通りでしかない。フィラデルフィアも楽譜を見ながらだと、ここはそこはと解決しなければいけないところが次々と出て来る。所謂キリル・ペトレンコの眼鏡を通した楽譜の読み方をするとチェックポイントが沢山出て来る。

それでも最後のところで木管がハーモニーを重ねるところの響きは驚愕以外のなにものでもない。管弦楽を称してオルガンの響きとか比喩的に評することは多々あるが ― 先日のローエングリンの響きを称してアマルガムと称するのと違うのか? ―、ここでのように本当にオルガンの響きを聞いたことは無い、今まで世界中の数多くの管弦楽団を聞いてきたがこんなのは初めてだ。一体どのようにして音程を合わしているのだろう。

クリーヴランドからの「トリスタン」放送後、タイマー録音でシカゴからのそれを録音したが、残念ながら時差を一時間読み違えていて3時始まりを2時として二時間後に終えたので、バーデンバーデンで聞いた「展覧会の絵」を録り損ねた。それでもドヴォルジャークなどがあって演奏程度はよく分かった。正しく評価するとベルリンのフィルハーモニー以下でも以上の交響楽団ではない。つまり今や頂点とは大分離れている。来年日本でヴェルディのレクイエムを演奏するようだが、バーデンバーデンでのフィルハーモニカーを指揮するよりもいい演奏するとは全く限らない。寧ろいつもの最高品質のエンターティメントの域を出ないことは分かっている。なにかこの二つの交響団が結構似て来ていて、今の状況から抜けるには指揮者の指導しかない。ムーティーには求めようが無いもので、ペトレンコにしかない。

ドイツは干ばつと言われている。その被害が農作物に出ていて、朝のニュースも農林大臣のクロックナー女史が先ずはEUを待たずに連邦共和国内での農業補償を八月末までに出すと声明した。三分の二減ほどの不作が予想されていて、未だ嘗てなさそうである。少なくとも室内で過ごしている限りはとても気持ち良い夏で、夜中の冷え込みが気持ち良い、しかしここ二週間ほどは窓を開けないと眠れない。そして冷えて来るのか昼間に補給した二リットル以上の排水が必要になる。それでも布団の中で汗を掻くよりは気持ち良く眠れる。

干ばつの被害は農業だけでなく、原子力発電所にも出ていて、ご近所のフィリップスブルクの最後の一機もラインの水温が上昇して冷却水の温度が上がり、一割方の操業制限がなされるとあった。どのように調整するのか知らないが、制御棒を一部に下ろすという事なのだろうか。そんなに器用なことが出来たのだろうか。その他の稼働中の原子力発電所にも操業規制が掛かったという。



参照:
行きたくない火星が光る 2018-07-29 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-07-31 23:21 | | Trackback

「ドンファン」の新録音資料

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パリからのフィラデルフィア管弦楽団の中継録音を聞いた。BGMで流しただけだが、予想以上に価値があった。その演奏会は欧州イスラエルツアーの三日目で、ルクセムブルクで聞いたプログラムとは一曲が「ドンファン」に差し替えられている。そして放送ではグラモーが弾いたブラームスが除外されている。これはグラモー事務所の方針なのだろう。だからギーレン指揮以外の演奏はヴィデオなどもネットに存在しないようだ。仕方がないが、それでCD等を買うということも無い。その演奏は記憶にだけ留めておこう。

シューマンの演奏も私が聞いたものよりも会場のアコースティックが明晰で、恐らく本拠地のそれよりも、それどころかエルブフィルハーモニー中継とも異なった。この録音を聴けば、この管弦楽団がシカゴのそれよりも機能的な事が分るのではなかろうか、クリーヴランドよりも管との混合があり、そのパレットは遥かに広い。私自身も今までの放送からどうしてもパートの分離性という事ではこのアンセムブルの特徴から限界があるかなとも思っていた。しかしこのアンサムブルの基本精度から何でも出来ることが分る。それにしてもなんという管と弦の合わせ方だろうか。今までこれに近い印象はショルティー指揮のシカゴ交響楽団しかなかった。

最も関心があったのは、三月にバーデンバーデンでベルリンのフィルハーモニカーの演奏で聞いて、そして来月にはルツェルンで聞くリヒャルト・シュトラウス作曲「ドンファン」の演奏だった。そして聞いてしまってしまったと思った。たとえキリル・ペトレンコが指導しても短期間にこの精度のアンサムブルがフィルハーモニカーには期待出来ない。そしてそこから配合していくときの音色の微妙さとしなやかさは嘗て無かったような管弦楽となっているようだ。

たとえネゼセガンがシュトラウス的な指揮が出来ていないとしても、このような演奏をされると、現在フォンカラヤン指揮のそれを貶すのはいとも容易いが、文句の付けようがない。嘗てムラヴィンスキー指揮の演奏に文句が付けられなかったのと変わらないが、全くそのキャラクターが異なる。ユージン・オーマンディ指揮のそれを無視出来てもやはりこれは無視出来ない。

どこかに本拠地の録音があると思って探した。同じツアー準備の演奏会で、その時の前半は「不安の時代」だった。その録音を流してみてはっきりした。ホールのアコースティックが大分違うので、特徴の弦管のミクスチュア―以上に低弦の影響で倍音成分が聞き取り難い。先日のローエングリン初日のためのバイロイト初代監督の話しを思い出すが、蓋付きのピットでの混ざり合わせと楽譜に基づいたアンサムブルのやり方はまた別な問題だろう。今回の「ローエングリン」は、他の演目と違って、その指揮はとても評価されているが、エルザを歌ったアニャ・ハルテロスの話しが面白かった。つまりいつも違ったようにしか演奏しないので合さないといけないというのだ。勿論この初代監督が同じテムポで振る基礎技術が無いとは思えないが音楽を作る時にどうしてもアゴーギクに頼らざるを得ないのだろう。

勿論ここで触れている管弦楽団の世界は全く違う世界の話題で比較のしようがないのだが、会場の音響で弾きにくい弾きやすいもあり、それがどのように聞こえるかはまた違う話しだ。少なくともこのパリのホールのフランスの放送局の収録は明晰そのもので、これを聴けば間違いない。それにしても演奏の端々が修正されているようで、まさかペトレンコのような細部を詰めてはいないと思うが、楽譜を広げて聴き直してみなければいけないと思った。回数重ねればよくなることは確かにしても、もし演奏旅行中に修正するような指揮をしているようならば本人も成長する可能性が強くて、仕事さえ絞るようになれば、その活動から耳が離させなくなる。今回の放送はオンデマンドでも聞けるようだ。



参照:
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
MP4映像よりWAV録音 2018-04-03 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-07-27 23:38 | | Trackback

入念な指揮指導の大成果

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ペトレンコ監督下のミュンヘンでの最後の楽劇「ジークフリート」について語ろう。結果からすると二月の課題は悉く解決されていた。少なくとも管弦楽においては遣り尽した。それどころか大きな問題となっていた最終シーンでのフォイルの雑音が、素材がエステル系かに代えられていて、殆ど邪魔にならなくなった。以前は材質の音だけでなく反射の影響も大きかった。あれだけの大きさの軽い素材となると可成りの予算を使ったに違いない。その価値は充分にあった。だからフィナーレにも違和感が無くなり、普通に楽しめるようになったと思う。比重が増して波は出来ていなかったがそんなことはどちらでもよい。ケントナガノはそれ以上に大きな音を出していたのだろう。

先ずは聴きながらメモを取っていた三幕のメモを解析しながら最初から見て行くと、一場のエルダとさすらい人のディアローグではヴィオラがこれまたDolceで演奏するところがある。Bで例のザックスが父性を歌うように「勇敢な若者」と来て、「恐れを知らないからだ」とさすらい人のモノローグの中である。どうも課題だったようで、上手くヴィオラが絡んでいた。確かここでOKサインが出ていたように思うが、金管にもドルチェが付いているので高みから識別し難い。兎に角ここは2015年のバイロイトではその前の小節のディミヌエンドからpになっているのにも拘らずヴァイオリンが出て仕舞っている。2015年は2014年と違って演奏が粗かったので特に三幕は評判が悪かったが、実際に録音を確かめるとその調子の演奏程度であった。

キリル・ペトレンコの演奏実践の特徴は、こうした殆ど学術的と呼べるような細やかな譜読みとその演奏実践能力から、初めて創作の意図を明らかにするという事でしかない。その能力が特に表れていたのが二場である。ジークフリートとさすらい人の変わりばんこのディアローグであるが、一幕の超絶ほどには目立たないのだが、指揮を見ていたらそのテムピの切り替えの見事さにあっけにとられた。楽匠は細かく設定しているのだが、一体どこの誰がここまで完璧に指揮をしただろうか?歴史的にも今まで居なかったと思う。バイロイトの時と比較するまでも無く、この変化のさせ方が見事になっているのは手兵の管弦楽だからに違いない。ここだけでも成果なのだが、Dのブルックナーの交響曲のように響くseligeOedeとなる三場でも木管のアンサムブルにOKサインが出された。中声部のヴィオラと同じように、聞こえるか聞こえないような音量を保ちながら、音楽の核を支える。木管の場合は特にそのまま音色に係ることだ。そして管弦楽全体がスタッカートを刻む。

二幕における演奏は、ホルン主席のヨハネス・デングラーが不調だった様でもあり二月における演奏水準には至らなかったかもしれない ― 三幕でそちらをもっと音を出してみろと鼓舞していたのが分かった、演奏者のリハビリまでを遣ってしまうのか、この音楽監督は。そもそも「ヴァルキューレ」も「神々の黄昏」ツィクルスAで可成りの程度で完成していたのだが、この「ジークフリート」だけは音楽監督の意思からするとまだまだの気持ちが強かった中でも、二幕は既に域に達していた。

それでも手元のメモに従って幾つかの点だけは触れておかねばならぬ。一場ではさすらい人とアルベリヒとのデイアローグとなるのだが、勿論一幕におけるミ-メとの問答ほどではないが、ここでも二人のセリフの尻を噛ませる部分などで、その変化を見事に付けていた。二場になるとファーフナーの死へと向かい、ここでもピチカートから三連符となる巨人の動機の対旋律が低弦で奏される一方ヴィオラに受け継がれたりするのだが、大抵はティムパニ―に消されて誰も気が付かない。やはりここでもヴィオラ陣がモノを言う。三場のミーメとアルベリヒの争いはシークフリートとミーメの対話に繋がるが、その中でもミーメの歌う「Wilkommen」の後のヴィオラのパッセージとクラリネットは見事で、前回も印象に残ったアンドレアス・シャーブラスは更に吹き込んでいるようにも感じた。その他、オーボエのジョルジュ・グヴァノゼダッチ、ファゴットのホルガー・シンコェーテそしてバスクラリネットのマルティナ・ベックシュテッケマンなど座付き楽団以上の腕の冴えがあった。皆に共通しているのはブラームスの交響曲などの時とは違って最後の締めまでをしっかりと吹けていて、有り得るのはペトレンコの棒がより丁寧になっているとしか考えられなかった。それとは別に、巨人の動機に関与するピチッカートをアクセント強く弾かせていて吃驚した。その根拠は巨人の動機なのだろうが、2014年の名演は比較的そうなのだが、可成り乱れた2015年の方は全くしっかり弾かれていない。最後の年はよほどの練習妨害活動があったとしか思えない ― ペトレンコは、本当は下りるところだが、皆の為に我慢すると語っていた。

秀逸な木管器奏者群や向上心の強いヴィオラ陣について触れたが、その出来が結集して皆が終演を待たずに大喝采する出来となったのが一幕であった。この幕の音楽の特殊性については既に書いたが、明らかにその想定の上を行く演奏だった。一場における殆ど室内楽的なアンサムブルに続いて、二場でさすらい人のコッホが歌い出すと更に空気が変わった。やはりそのベルカントの声が高く尚且つ柔らかく響くことで、ミーメの歌との対照が際立った。二月には非常に良かったミーメ役のヴォルフガンク・アプリンガーシュネーハッケの歌は不調だったから余計だ。その柔らかさはまさしく指揮の技術によっても形成されていた。二場における鍛冶場でのそのハムマーを下ろす重力加減がそのまま指揮の「叩き」と「抜き」に顕著で、「指揮とはこうするものだ」と謂わんばかりで、技術的にも超一流の指揮であるのはそれだけでも明らかなのだ。しかしその技術の卓越だけで終わらずに、鋭い叩きと素早い自由自在の変化、まさに私がルツェルンで楽しみにしている「舞踏の権化」の彼の指揮であり、あれを実体験すると超一流の技術を超えた天才の仕業でしかないと納得した筈だ。それが異様な一幕後の大喝采として表れた。

私などは前方からそれを見ていたものだから息が止まりそうになった。百年に一度の卓越した指揮者であるとそれを目撃したならば多くの人が納得すると思う。拍の変化で指揮台で後ろ飛びまでしてしまうのは、効率云々よりもそれほどの大きな断層を「一振り」の中に組み込むにはあれしかないのだろう。それに適うような演奏を座付き管弦楽団が遣らかしたことも驚愕であり、観客同様に二幕では少し息を抜いたのは仕方がない。まさしくそれが楽匠の書いた楽譜である。しかし、印象としては、より拍を深く取っているのか、バイロイトでの演奏などよりも余裕があって、表現の幅が明らかに広がっていた。恐らくテムピとしては変わらないのだろうが、それだけ管弦楽が弾き込んで来ていたという事ではなかろうか。この辺りの課題の作り方や合意形成や目標の置き方が凄いと思う。勿論それは私が期待していたことそのものにほかならなかったのではあるが。それでも終幕最後の小節が終わって拍手が始まると同時に若いコンツェルトマイスターに業務連絡をしていて、その内容は冷めないうちの「今後の留意点」だったかもしれない。なんと恐ろしい人だ。

もう少し細かいところは楽譜を見返してみなければ確認して詳細として語れない。そして個人的にはルツェルンでの二つのプログラムの方へと意識が向いている。それでも今回とても勉強になったのはヴァークナーの楽劇における指揮というもので、大分プチーニにおけるそれとは指示の出し方が異なっていて驚いた。勿論正確な拍子を打つのだが、プッチーニに置けるように歌手と管弦楽の二段構えは流石に阿修羅ではないので無理なようで、必要なキューを小まめに歌手におくる以外は管弦楽を細かく指揮していた。その必要がある編成であり、音楽であると同時に、歌手の声を押さえるところは極限られていて ― ミーメにだけであった ―、科白の中でその拍節が守られれば、管弦楽に合ってくるという事でしかなさそうだ。そもそも歌手がどこの音に合わせて歌っているのかさえも不明なところも多々あった ― ピアノ譜と合わせてみないと分からないか。大管弦楽のオペラの難しさであろうが、その分歌手に任されることも多そうだ。

タイトルロールのフィンケの声は、先日の韓国人ほどではないが、こちらが管弦楽のソロを聞き取ろうとしても声が大き過ぎて被ってしまって喧しかった。逆にそれ程舞台で何が聞こえるかというのは楽劇の特殊な技術的な話題であろう。同じロージェの隣に座ったのはオーストラリアからの人で「ヴァルキューレ」では王のロージュの一列目に居たらしい。彼は演出云々で不満のようで、もう一組のミュンヘン近郊の夫婦も音の時差と視界の制限を苦情していた。それほどあのロージュは特殊で、もう少し安くしてもらうと嬉しいが、私はその金額以上に素晴らしい体験をした。全く見ていなくてもしっかり聞いているのでブリュンヒルデのシュテムメも二月よりも良いと思った。コッホのさすらい人については既に書いたが、間違いなくヴォータンよりも当たり役だ。ペトレンコの指示は恐らくピアノ稽古からのその協調作業がそのまま表れる出し方で、歌手によって構い方が異なるのは当然なのかもしれない。



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女


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by pfaelzerwein | 2018-07-27 02:22 | | Trackback

ジークフリートへの音色

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最も安く車の燃料を満タンにした。50リットルで68,45ユーロは決して悪くは無い。前回先に入れた時の方が少し高かった。これで一泊しても往復は問題が無い。宿賃は払ったので、朝食代を現金で渡すぐらいか。現金が必要なのは劇場内のメムバー表と喫茶だけだ。ピクニックの内容は考えていない。帰路が要らないから寧ろ果物などを主にしようか。

10時前に出れば14時には宿に着く。宿から劇場まで30㎞37分、15時過ぎに駐車場に入れるとすると厳しく、無駄な時間は無い。やはりピクニックの準備が要る。なにを持って行こうか?それならば時間に余裕が生じる。朝食をゆっくり取りたいので、また宿を探すのに時間が掛かるだろうから、これしかない。気温も高そうで、冷房の効いている車から直ぐに劇場入りしたい。

さて「ジークフリート」三幕についても触れておこう。と言っても拍手もそこそこに急いで帰って来たのだからまともなメモは無い。但し、二幕の最後においてもpをしっかりと演奏しているのでも分かるように、三幕のフィナーレも舞台の雑音に消されて爆発的な愛の歓喜とはならない。なぜ態々言及する必要があるかと言うと、バイロイトの所謂蓋付きの演奏実践の録音を聞くとその強烈な爆発は蓋無しのミュンヘンでは採らないからだ。これを先に知っておく必要があるのは、私のように最終日の「神々の黄昏」に出掛けない者の心掛けかもしれない。如何にも「ごついのはこれからじゃ」と新聞評にもあったようにドラマテュルギー的にもそのように演奏される。通常の劇場で演奏する場合の限界であるかもしれない。もう一度一幕に戻ってはみたいが、この三幕のフィナーレの演奏実践は将来バーデンバーデン劇場ではどうなるだろうかと言う問いかけは残る。

しかし何よりも今回とてもよく分かったのは、「ジークフリート」の二幕におけるナイーヴなまでの母性へのイメージと三幕のデアヴァンダラーとジークフリートの掛け合いに楽匠の父性への印象がそのまま楽譜化されていることだ。三幕になると更にここそこに「マイスタージンガー」のそれを聞き取れるのだが、これほど直截な表現があったとは気が付かなかった。音楽的発展の断層をこの楽劇内に認識するのは常識だが、その技術的な問題ではなく、「ワルキューレ」娘との惜別とここでの表現の差異は、美学的には近代的意思表現の相違となるのだろうか。恐らく久しぶりにコッホの歌で聴いたので、丁度ザックスのその舞台と重ね合ってしまった。そして二月には北欧の歌手が歌っていたので全くこの効果は生じなかった。楽匠の息子の名はジークフリートだったなと思いだした。

コッホのように柔らかくこれを歌う歌手は他に居ないのではなかろうか。正直2014年のヴォータンには違和感の方が強かったのだが、デアヴァンダラーのこの掛け合いまで来ると、しっくりいったのだった。これを聴けるだけでも今回の訪問は歌手に関しては価値があると思う。まあ、管弦楽がどこまで根つめて演奏するかに掛かっている。とても楽しみで、まだまだミュンヘンまでの走行中にタブレットの楽譜を確認しないといけないことが多々ありそうだ。


写真:二幕二場のドルチェなホルン「im Wald hier daheim?」、今回も吹いて貰わないと困るヨハネス・デングラーがアバド時代に過渡期のフィルハーモニカーで吹いていたことは知らなかった。助っ人だったようで試傭期間ではなかったようだが、リヒャルト・シュトラウス家の伝統のこともあり、公務員待遇の劇場のポスト以上に魅力的だったとは思われない。



参照:
流石の配券状況 2018-07-23 | 雑感
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-07-24 14:40 | | Trackback

ペトレンコのマーキング法

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現在もミュンヘン歌劇場で掲示中の2016年欧州ツアー写真展のヴィデオの答え合わせをしておこう。正直何が何だか確認不可だったが、推測してみた。2016年のツアーのみならずキリル・ペトレンコ指揮の楽曲の多くはその楽譜に目を通しているので、覚えてはいないながらもどこかに記憶がある筈だと思った。特徴的な音形は最初のページの運命の動機風のものと次のページのヴァイオリンの逆山なり音形である。ツアーのプログラムを考えるとチャイコフスキー五番しか浮かばなかったが、そんなスケルツォだけでなくそんなページは見つからない。そこで楽譜を逆さにして詳しく見るとシステムの数が多いところと少ないところがあって、編成の大きな作品だと分かった。そして楽譜の分厚さからオペラと推測可能だった。すると作品数は限られている。シュトラウスとヴァクナー以外にありえないが、シュトラウスの書法ではない。そこまで来ると早かった、運命の動機の「神々の黄昏」の三幕だ。そこで漸く気が付いた。似たような角度で映したヴィデオが存在していたことを。しかし一体どこにあったかは皆目思い出せなかった。楽譜を捲っていると見つかった。愈々大詰めのブリュンヒルデの自己犠牲に入るところだった。なるほどあのツアーの前に制作された前年2015年暮れの私が出掛けていた時のクリップを宣伝に使っていた。あの時はブリュンヒルデを歌ったぺトラ・ラングのあまりにもの非力さで台無しだったが、管弦楽自体は素晴らしい演奏をしていた。しかし今はもっと先に行った演奏をする。それに来週はニーナ・シュテムメがそれを歌って、ペトレンコ指揮のミュンヘンでの「指輪」の最終公演となる。

ここでの赤いマーキングはホルンの5,6、7,8に点いていて、弱い奏者が落ちると大変不味いのでキュウ出しを忘れないようにという事だろうか。その直前のグルトルーネとブリュンヒルデが絡むところで、テムポに続いて「私は妻よ」と激情的にクレッシェンドで三連符へと繋がるところは赤マーキング、その小節後半に黄色マーキングとなっていて、ディムニエンドの小節へと繋がる。更にグルトルーネがAchJammerと叫ぶと、今度は動機が戻リディムニエンドする前に黄色マーキングである。どうも黄色マーキングは振り注意の意味の感じだ。

更にその前のジークフリートの最後の言葉「グリュース」から葬送行進曲に入るところがある。ホルンの合奏に黄色の紙が貼ってある。色が違うのは、これは自身への覚書で、電車の運転手と一緒でテムポのコントロール点と思う。赤い付箋は開く前から分かるので、先からテムポを準備して運んで行く箇所ではなかろうか。要するに早過ぎたり遅過ぎたりしないためのデッドポイントとなるか。

もう二ページほどあるかもしれない。もしどなたか興味があれば、ヴィデオ内でペトレンコが指揮しながら頁も捲っているので、他のページも写してみてはどうだろうか?指揮の動きだけでなくマーキングの使い方ももう少し研究できるかもしれない。

今回初めてペトレンコの表情を観ながら前から指揮を観察していて分かったことは幾つかある。先ずは、兎に角、懇切丁寧にキュウ出しをすることだ。他の指揮者はそこまで準備していなくて余裕が無いのに暗譜していると威張っているとしか思えない。同じように今回も弦が上手く響いたところで、「いいね」を出すように、この天才指揮者がそこまで楽譜から予期していた顔をするよりも我々凡人と同じく構えずに「いいね」を出せる権威主義に頼らない実力を見せつけた。上の赤のマーキングのように二三流の指揮者が稽古場で音出ししてから云々を語っていたのではお話しにならないが、そもそも議論の余地の無い和声的な芯を読み込んでいれば、音出しを止めて口で説明するよりも適格なキュウーを出すぐらいで造っていかないと無駄な時間が流れる。それが懇切丁寧な指揮であり技術的な勝利なのだろう。そして何よりもテムピが思いのままなので、指揮棒で多くのこと指導出来る。同じぐらいのことが出来てもギリシャ人のカラヤン二世ならば、上のような趣味の良い鳴りを引き出して、それを音楽にすることが出来ないのだ。要するに音楽性が無いという事でしかない。これはいくら努力しても教育を受けても身につかない。

もう一つはカウフマンが語るように、それほどの要求を課しても実演ではとても楽しそうな表情をして指揮をする。それは音楽的な内容を奏者に伝える技術であると意識するようになったと語っているように、昔は違ったようだ。その反面きっちりと楽譜に正確に問題点を記憶している。記録していないだけで、まさに視覚的に楽譜へのチェックポイントを暗譜していくという事だろう。場合によっては角を折っているかもしれない。マエスローリへの指示を見ていたが、ああいう風に乗せられると自然に歌手も意気が上がり、そのような表情をする指揮者もとても肯定的にチェックポイントを確認しながら修正を積み上げていくことが可能なのだろう。



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-07-16 23:35 | | Trackback

見所をストリーミング

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早めに床に就いた。夜中は摂氏15度ほどまで下がる予報だったので窓を閉め切って熟睡体制にした。それでも前日の時差のためか四時前には目が醒めた。そのまま白んできたので、パン屋に行く前に峠を攻めた。誰もいない森は清々しい。坂をのぼりながら、夕刻にストリーミング中継のある「パルシファル」を頭の中で繰った。見どころを纏めたいからだ。私には、やはり悲愴交響曲などと違って、これは難しい。仕方がない。真っ当に振れる指揮者が殆ど居ないような曲だから難しくて当然だ。比較的リズム的にも単純なのは聖金曜日の音楽辺りで、そこは鐘を鳴らしておけば直に足の歩みに合わせて繰り返される。下りてきても温度計は15.5度しか指していなかった。丁度いい感じだった。パン屋に寄って、ブロツェンではなく週明けに食せるように、聖金曜日のそれのようにワインに、ブロートを買おうと思うと全く焼いてなかった。翌日からの休暇に残る危険があるからだろう。いつもそのことを忘れている。

承前)バゼリッツ氏が最初の前奏曲で全てだというのは名言だ。この曲はフルトヴェングラー指揮の戦前のSP録音復刻LPは私のデフォルトなのだが、今やっとその前奏曲版の意味が分かってきた。冒頭の所謂「晩餐」主題のG-C-Esが「痛み」動機でがモットーなのだが、その前の始まりの上昇が意識の中でどうしてもあの単純なブルックナーの七番の上昇主題に繋がってしまうのだ。この主題が出ればあとはモットーへと引き継がれていく。類似していても比較的単純な「聖杯」の動機を超えて、今度は「信仰」の動機と呼ばれる三拍子系へと移る。

前夜「ローエングリン」の中継録音放送を聞いていたので、再び「タンホイザー」の方へと意識が戻っていた。あの時の信仰は「巡礼」であった。大体これぐらいを押さえておくと、この舞台神聖劇の聴き所を外すことは無いだろう。大きな劇構成も三部のシンメトリーで比較的簡単だ。しかし、やはりリズムは難しいと思う。それでも一幕におけるグルマネンツの語りから寸止め、またはクンドリーの溜息、なんといってもアンフォルタスの痛みはこれで音楽的に抑えられる。

二幕においては第一部での乙女のアンサムブルが気になるところだが、シュテムメとカウフマンのデュオは今年最大の音楽劇場の山場を見せてくれるのではないかと期待している。そしてその音楽的な成果を待ち構えればよい。三幕でのアンフォルタスの歌唱と演技が一幕の「科白」に続いて過剰かどうか?これは演出とその音楽的な意味を吟味すればよい。その名歌唱を披露するゲルハーハ―に言わせるとこのカルト集団はまさしく吸血鬼で、血を吸い求めるとなる。これも演出を批評する点でとても参考になると思う。敢えて聴き所で付け加えておきたいのは、合唱である。この合唱団は、なぜか日本公演では批判の対象となっていたのだが、今回の公演では「タンホイザー」や「マイスタージンガー」のように活躍しないが、「バイロイトのそれには及ばないが」と最大級の評価もされている。今回の歌手陣の中で全く遜色ない存在感があったことだけは確かである。

個人的にヴァークナーの作品の中でなぜか最も「パルシファル」を一番多く実演で経験している。偶然ではないと思うが、そしてこの作品が今でも一番難しいと思う。内容的というよりも音楽的に難しい。如何にまともな上演が今まで為されていなかったかという事で、私たちは今晩のストリーミングで再初演のようなものを体験できると思う。そしてこの作品があのバイロイトの蓋付きの劇場のために創作された唯一の作品であるのがなんとも秘儀じみている。子供の時にクナッパーツブッシュ指揮のフィリップスのバイロイト実況録音に本当に打ちのめされて未だに大きな音楽体験になっている筈なのだが、それこそ、それが秘儀を通した体験だったからであろう。それを乗り越えるだけの認知力が働き覚醒が生じるかという事でもある。

コヴェントガーデンの「ローエングリン」の感想も手短に述べておこう。結論から言うと大きく期待を下回った。それでも三十四年ぶりぐらいに一通り聞いてよかった。前回聴いたのはハムブルク劇場の日本公演の1984年らしい。ヴォルデマール・ネルソン指揮でユルゲン・ローゼ演出、歌はジョーンズという人が歌っているが、グルントヘーバーが王を歌っていたようだ。今まで気が付かなかった。

兎に角このロマン歌劇は長くて、最後まで座り続ける苦行なのは今回の放送でも変わらなかった。なによりも期待したパパーノの楽団をネルソンズがそこまで振れていない。タングルウッドの初日で気が付いたように不明なダイナミックス特にピアニッシモを突然入れたりするのは皆目理解に苦しむ。楽譜の読みに関してはとても粗くて、指揮者ネゼセガンとは比較にならない。オペラ指揮者としてそれを多めに見ても、ひたひたと流すのを得意としているようだが、リズムの切れがとても悪い。これでは座付き管弦楽団でこの長たらしい曲を演奏してもこちらが苦しむだけだ。敢えてそうした指揮をしているのは分かるのだが、あまりにも鈍く、34年前の演奏の方が木管の色彩感などもあって聞かせ、コヴェントガーデンの楽団がとても貧相に響いた。流石にタイトルロ―ルのフォークトの歌は危なげないが、皆が言う様に少なくとも現在ではタンホイザー役よりもローエングリンの歌の方が向いているなんてとっても思えなかった。とても存在感が薄くなる。ツェッペンフェルトの朗々とした歌は見事なのだが、なにかこの指揮者の下ではもう一つ充分に歌わして貰えていないようで歯がゆい。もう一つ気が付いたのはネーティヴのイングリッシュスピーカーがエルザやエファーを歌うと幕が進むにつれて同じように歌がフガフガになるのに気が付いた。これは口角筋が発達していないからだろうか。

誰かが書いていたが、オペラ指揮者としても今一つのようで、座付き楽団の評価とはまた大分隔たっている。そもそも楽譜の読みが充分でなく、リズム的なメリハリが今一つとなるとコンサート指揮者としても辛い。総合的にネゼセガンとネルソンズでは明白な差があった。この指揮ならば、初代バイロイト音楽監督ではないが一寸アドヴァイスしてやろうという気になる。もし「パルシファル」を予定通り振っていたら、あの演出を含めて結構批判も出たと思う。あれほど才能がある人の筈なのだが、欠けているものが大きい。

そのようなことで余計に昨年の「タンホイザー」公演の意義や如何にミュンヘンでのヴァークナーの水準が全ての点で並外れていて記念碑的なものかを改めて認識するに至った。放映の始まる夕方まで寝過ごさないように午睡でもしようか。ネット環境が高速になってからは初めてのミュンヘンからのストリーミング中継である。送り出し側に問題が無ければ綺麗にダウンロード可能な筈だがこれは試してみなければ分からない。月曜日の昼からはMP4が落とせるので資料には困らないであろう。永久保存になりそうな高水準の上演が期待される。初日と同じぐらいに期待が高まる。今回は初日からそれほど問題は無かったのだが、それでもかなり修正してくると思う。



参照:
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-07-08 19:11 | | Trackback

アマルガムの響きの中

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新しい外付けハードディスクを購入した。先ずはノートブックのデーター類を現行の2TBのディスクにコピーする。今度はその殆ど一杯になっているディスクを清掃して、新しい3TBにコピーすることになる。つまり新たに1TB以上の容量が出来ることになる。ノートブックを調べると写真類だけで40GB以上、音楽が300GBほどあった。それ以外のヴィデオは殆ど整理可能だ。ドキュメント類は4GB越えと桁が違う。Dディレクトリー833GBから新たにどれほど空けられるだろうか。現在空き容量100GBぐらいなので、400GBほど空けたい。

承前)ミュンヘンの「パルシファル」は日曜日の二回目の公演を終えた。三回目は木曜日でその夜の券が出ていたが、やはり買わなくてよかった。初日には舞台は三分の一は見えなかったが日曜日にヴィデオで観れる。なによりも木曜日までに初日のそれが充分に消化できない。繰り返し経験しても混乱するだけだ。なるほど290ユーロのバルコン席の視界は半額42ユーロの席とはやはり違っていたことも分かった。

やはり音楽的にはこのオールスターキャストの公演は今までの経験した中で最も新機軸に富んだものだった。だから新聞評などもかなりその評価が散っている。ドイツ語の老舗新聞ノイエズルヒャー新聞もニューヨークタイムスからもその焦点を絞るのに苦労している苦慮しているのが読み取れる。演出や美術に関して書き込んでも歌手陣について書いても指揮者と管弦楽団や合唱団について書いてもまだ足りない。

二幕が始まる時には、お決まりのようにバイロイトの見えない奈落に倣って一幕では拍手を受けないように最初から指揮者が入っていたのだが、いつものように出て来るとかなり強い拍手が沸き起こった。その指揮もこの幕は見せ所沢山で、歌手と管弦楽団へのパルス的なキューだけでなく、困難な重唱のアンサムブルを捌いていたが、その鮮やかさに寧ろ奈落に隠されていてその音だけを聞いていたバイロイトでの指揮を思いこさせる。それはその視覚的な指揮自体が楽曲の書法を語っていて、音楽を見せる指揮になっている。その部分が今度は全体の楽曲構造の中でどのような意味合いを持つかまでを認識しないと楽曲への理解は深まらない。指揮者の職人的な見事さに感心しているようでは本質的なものを見落としかねないところである。

それでも最近は不調とされたヴォルフガング・コッホの存在感を楽しめたのが何よりで、ヨーナス・カウフマンのベルカントと共にとても面白い配役で、まさしくキリル・ペトレンコの新機軸に相当する歌唱であった。この二人の歌唱を過小評価するのは間違いだと思う。ベルカントのヴァークナーと言うのはペトレンコの解釈に相当するからである。序ながらインタヴューでカウフマンは「トリスタンは二年以内」と言明していたので、これでペトレンコ指揮の最後の新制作は分かった。

そのカウフマンの発声とその歌唱に関しては批判の対象ともなっている。しかしシュテムメの見事なクンドリーがカウフマン曰く「クンドリーと称されるべき」神聖劇の歌とそのパルシファルの関係は決して誤りではない。この劇の構造は三幕で明らかになるのだが、先ずはそこを明白にしておく。カウフマンの歌唱に関しては「マイスタージンガー」にてそれほど必然性は無かったのだが、ここでは間違いなく掛け替えの無い役作りとなっている。その点はストリーミングで確認したい。

公演前にロビーで行われた公開放送にコッホ氏が出て来ていた。途中から聞いたのだが、このオペルンフェスト期間中最も活躍する歌手と紹介されていて、「有り難い指摘」と感謝していた。つまり、クリングスゾール、ミケーレ、ヴォータンそしてオランダ人と八面六臂の活躍なのだ。今回も声もしっかりしており、恐らくバイロイトの三年目以上の歌となるのではなかろうか。そもそもバイロイト三年目でもあまり感心しなかったのだが、こうしてカウフマンと並ぶとその歌唱の価値が新たに評価される。個人的にはこれで秋の「マイスタージンガー」の要であるザックスは期待出来ると思った。

音楽的にはコッホから始まって、難しいアンサムブルとなって、やはりシュテムメのクンドリーが引き締めた。特にハ長調からの口づけ、パルシファルの悟達へと三幕へと繋がるドラマが起こる。ここでのデュオが今回の公演の核心でもあることは間違いないのだが、恐らく公演を重ねてストリーミングの時には更に出来上がるのではなかろうか。管弦楽がイングリッシュホルンだけでなくアルトクラリネットまでがとても重要な音を出していて、歌手に寄り添う形となっているのだが、ここは逆に蓋付きの劇場のためにどのように考えて創作したのだろうかという微妙さが際立つ。それでいながら弦との掛け合いにおいて決して原色な音響とはならないように書かれているところなのだ。勿論「救済」されるまでという事であり、この幕の前半から後半へと、丁度そこがターニングポイントとなるのは周知の通りである。

再びコッホ演じるクリングゾールが登場してパルシファルの聖剣にその世界は崩れ去るのだが、倒れたところに上から現存する作家として四番目に高価と言われるバゼリッツの描いた緞帳が下りてくる。それを待ち構えていたコッホが体を捩じって幕の内側へと寝返りを打って入るところで少し苦笑が漏れる。如何にも目指したような昔の劇場風景という感じでなかなか得難い初日の光景だった。もう少し全体的に手作り感を強調しても面白かったかとも思う。演奏もそうした職人的な風情を強く感じさせていて、なにか座付き管弦楽団の歴史的演奏実践のような感じさせて、室内楽云々と評しているようではまだまだペトレンコ指揮の新機軸にはついていけていない表現だろう ― ニューヨークタイムスが「ざらざらした弦の響き」と評するのはMETに比べるまでも無く当然だろう。私もこうして漸く続く三幕へと繋がる流れを掌握して来たように感じる。(続く

先日の実況ノイズの問題を再び洗った。対照実験して分かったのは同じ現象で再生されるのはBRクラシックだけで、他のARDストリーミングや海外局では起こらない。BRのそれの音質自体が可成り高速転送な印象は受けるのだが、昨年の12月時点では起こっていなかったので、何か規格が変わったのかサーヴァーが変わったのかは分らない。ただしそれはARDのまとめサイトでも中継を挟んでも同じなので、ラディオ放送でも同じ可能性もある。明らかに量子化歪のような音なので転送する前にエンコード時点で雑音が出ているのかもしれない。アップサムプリリングされていても雑音があるとなるとやはり問題だ。何時までも変わらないようならば問い合わせ苦情する必要もあるかもしれない。こちら側の機器やネット環境とは関係なさそうなことが分かったので先ずは気が休まった。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-07-02 21:51 | | Trackback

緑の原をミストリウムへ

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ミュンヘン行の準備万端を整える。燃料は138セント弱で入れた。昨年からすると10セントほど高くなっているが仕方がない。その中で安く入れられてだけでよかった。こちらは快晴でどんどん気温が上がり摂氏30度に近づくようなのだが、午前中早く出て、アルプス地方で雨に合うと20度を下わまる。朝食のパンは購入したが、ピクニック用にはやはり握り飯を一合と果物などだろうか。帰りのこともあるので、昼飯を摂っても何かを準備しておかないと眠くなる。肉屋でサラミも買いたい。

涼しい日々から週末、週明けに掛けて真夏になるので先に汗を掻きたかった。森の中は時刻も遅くなったので、気温は20度前後ながら、とても苦しかった。空気が急に重くなった感じだ。前夜に窓を開けて就寝したので体が重くて早起きが叶わなかった。

途上のタブレットに楽譜とラトルのパルシファルを準備したが、もう一つラディオ中継の録音準備が済んでいない。アウダシティーのタイマーは問題ないと思うが、バイエルン放送協会のストーリーミングが上手く流れ続けるかは少し不安だ。もう一度テストしてみよう。もう一つはPCのセッティングで、僅か一年半ぐらいで1TB近い容量を消費している。七時間回して録音しても、7GBにしかならないが、Dディレクトリーは80GBしか残りが無いので要らぬものを消去して整備したい。どうせ年内には新しいPCを買わなければいけない。

承前)三幕はこれまた冒頭から対位法的な進行となって、どうしても交響楽団の演奏としてもう一つ上の精度を期待してしまう。このような書法はコンセルトヘボー管弦楽団などがお得意とするところではないか。これも合う合わないの問題でなくて、アンサムブル文化の相違だろう。そしてこの始まりは、「マイスタージンガー」三幕トリネコの音楽から遥々と辿り着いたという感が強く、クンドリーの呻き声で我に返る。山なりの音型が上に下へと漂い、まさに程よく浮揚して、ラトルに言わせれば巨鳥が海原を飛翔すると、ミステリウムの聖金曜日の音楽否その前に緑の原を行くことになる。緑の木曜日だ。この美しさと優しさは、このラトルの演奏で格別で、二幕の秀逸さに続くものだ。

三幕の前に登場すると激しい喝采を受けて客席の方へと身体を向けた指揮者だったが、喝采はシュテムメに向けられたものだったろう。しかしラトル自身もその出来には自信があったに違いない。聖金曜日での鐘の音響などもバーデンバーデンの神秘には至らないが、二幕とは異なりこの三幕では合唱が出て来る頃になると全ては台無しとなっている。その歌わせる場所の効果や音響や合唱の質など以外に、ヴィオラ陣などが折角のところで配慮の無い音で弾いており、如何にこの楽団はそうした音色に拘るだけの質に達していないことが知れる。これだけの楽団にしてはあまりにも不細工な音を奏でている。そこにまたスケルトンのパルシファルが何ら配慮も無いような歌を披露していて、決して演奏の水準を上げるようなことは無い。なにもカウフマンを待つまでも無く、もう少し上手に歌える人はいる筈だ ― バーデンバーデンでのシュテファン・グールドは流石に違った。要するにこの歌手にとってはトリスタンもジークフリートもパルシファルも変わらないらしい。確かに板の上での歌唱なので管弦楽にマスキングされないような配慮が働いているのだろうが、このような舞台神聖劇の音楽をそのように演奏するのが間違いなのだ。最後に再び六拍子の効果などもあり、とても上手な作りを聞かせる演奏なのだが、やはり「救済」へとは至らなかった。(終わり)

インタヴューではゲオルク・バゼリッツの話しが面白かった。彼は奥さんに同伴してオペラに出かけるがあまり熱心にはなれないと言う。それほどの音楽ファンで、音盤愛好家らしい。要するにクラシックオタクである。そして「パルシファル」は最初の前奏曲の12分で全て終わっているのに、どんどん続いて素晴らしいと言っている。これは中々示唆に富んでいる言葉で、どれほど分析的なものか直感的なものかは分らないが、中々いい。

更に所謂演出劇場の読み替えをあまり評価していなくて、今回も寧ろその緞帳などの幕を作ることで古典的な劇に戻すのが狙いのようだ。だからト書き通りにものが登場するらしい。最終的には演出家の腕だが、あまり邪魔になるような演出にはならないのだろう。さてどう解決するのか?



参照:
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感


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by pfaelzerwein | 2018-06-28 14:15 | | Trackback