カテゴリ:音( 227 )

客演のための課題曲

d0127795_00030313.jpg
ヴィーンからの生中継を聞いた。先ず後半のブラームスはソファーに座って真面目に聞いた。悉くミュンヘンでの表情記号が無視して演奏された。勿論同意の上だろう。テムピも明らかに二割ほど遅めに感じたが、実際はアコースティックと間の取り方が大きいと思う。強弱記号まで無視されていて全く異なるバランスで演奏されたので驚いた。ここまで妥協するには明らかな意思が働いていた筈だ。そもそも一昨年のデビュー定期公演からして今回の再演がありえないと思っていたが、キリル・ペトレンコは腹を括っていたのだろう。放送で「好きなようにやらせた」というその通りだった。

我々などは、あれだけルーティンで演奏するなら、指揮者無しで演奏会をすればよいと思う。しかしそうはいかないのだろう。そのように考えると、ああして素人相手のように指揮してくれる人がいるとやはり正確に演奏するようになるということらしい。その辺りはペトレンコも意識していて、ヴィーン流で何が出来るかを考えて振ったものと確証する。客演指揮者としてそれ以上のことは不可能で、同地でオペラに客演していた時も同じだったろうと思う。その意味からしてもこの曲の正しい演奏は待たなければいけない。素人交響楽団には無理だ。一昨日放送されたハムブルクで客演で指揮したNDRの放送交響楽団が少なくとも同じような年齢でバイエルンでデヴューしたフルサ指揮の放送交響楽団よりも遥かに上手に演奏していたので、座付管弦楽団と交響楽団の差や指揮者の仕事がよくわかる事例となった。

話しによるとこの曲と集中して練習したのがルディ・シュテファンの曲だという。これはペトレンコは2012年にベルリンで指揮している。曲想自体も後期ロマン主義的作品なので独自のサウンドが欠かせない。その意味からヴィーナーでの演奏を期待していたが、それなりの価値はあったと思う。少なくとも六年前のベルリンより良かったのではなかろうか。ベルリンのコンツェルトマイスターサルヴァータの演奏も決して悪くはなかった。

さて二曲目のリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」の演奏は、嘗ての日本の映画評論家淀長さん的に一点だけ誉めておきたい。最後の葬送の和音が出るところでこれはとても良かった。あとはヴィーナーフィルハーモニカーに課題曲を与えたようなもので、弦楽陣だけでもこれをしっかりと音化出来るようにならなければ、幾らペトレンコが今後振っても詮無いことだという宣言にもとれる。あの会場でどのように響きと線をしっかりと響かせるか。全く独自のアンサムブルの問題でこれに簡単に手を突っ込める指揮者はいないだろう。少なくとも客演はさっさと逃げ帰った方がよい ー 既にキリル・ペトレンコは帰宅しただろうか。天気も悪いので自転車にも乗れず、精々疲れを残さないようにして欲しい。

キリル・ペトレンコが継続的に客演する楽団は今までも限られていて、ベルリンに移れば更に絞られるかもしれない。イスラエルフィル、RAIトリノと並んでヴィーナーフィルハーモニカーとなるかどうかは分からない。フォアアールベルクの交響楽団だが、これはマーラーシリーズが終わるまでだ。因みにラディオでも親父さんがそこで活躍したとあったが、楽団の前身とを考えると若干複雑だと思う。

但し今回は前回とオーストリア放送協会の紹介の雰囲気が変わっていた。つまり、最初から「ともに音楽をすることが、そこで報われることが」と始まり日本での記者会見の内容を二三度繰り返していた。要するにお言葉拝聴から始まるという如何にもオーストリアの公共放送第一らしい敬意の表し方だ。前回はまだまだヴィーンで修業したフォア―アールベルクにやってきた移民音楽家の倅の腕を見てやろうぐらいの扱いだった。やはりベルリナーフィルハーモニカーのザルツブルクでの登場が扱いを変えたと思う。



参照:


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-12-10 00:04 | | Trackback

論理逸脱にドラマあり

d0127795_23420837.jpg
ひょんなことで急に楽劇「マイスタージンガー」を聞くことになった。九月の記念公演で堪能したのだが、最終稿とはならなかった。ハンスザックスの急遽の交代もフォークトの体調も両方とも制限があったからだ。それでも自分の書いたものを読み返すと思い出すことも多い。だから本当はほかの演奏を聴くのは厄介なので、三幕だけを訪れる。出来れば楽譜を復習しておきたい。理由は正しく批判するためである。どうも中途半端に悪くはなさそうなので気になるからだ。

しかし、こうして思い出していくと2016年からペトレンコの指揮は厳しいものなのだが、そこまで管弦楽団も徹底出来ていなくて、歌手もそれに乗っているので、九月のもしくは最後の「指輪」公演のような厳しさが前面に出るものではなかった。どうしてもやり足りないとメローな方向へと傾き、音楽劇としてもう一つ上の芸術的な価値を引き出せないところがあるものだ。特に放映されたものは歌手の見た目さえ隠しておくとヴァルターの声も美声であり、余計に甘い方へと突き進んでいる。

三幕二場のベックメッサーが登場する三場へ入る前の経過部分においても今はとても厳しい音楽になっていたと記憶する。要するに「愛されてから憎まれて」への転換がある箇所で実際に長い経過となっていて、見事な筆捌きだと思うが、この辺りだけでもしっかりと示してくれる演奏の素晴らしいことに言葉がない。

三場における加速減速する常動風の動機もまさしくコムパクトに演奏されることで初めて独襖系の音楽の響きの核となるところである。要するに叙唱のそれから歌へと変容、ああいうところをしっかり振れない指揮者は、ベルカントで歌えないイタリアオペラを振る指揮者と同じである。それによってはじめて息の長い歌も歌えるのだ。

それにしても四場へと五重唱への流れの書き込みの素晴らしいこと、こうした楽譜を前にしてやっつけ仕事でやってしまう指揮者などがいるのだろうか?暗譜などと見せびらかしている者は芸術を冒涜しているのではないかとさえ思う。情報量の問題でもあり、ベートーヴェンのような論理性ではなく、豊富な限りないニュアンスが書き込まれている限りは、そのようなものが全て音化つまり暗譜されていると思うのは横暴でしかない。つまり音符の数が多いことがその情報量とは必ずしもならないということになる。まさに論理から逸脱するところにしかドラマは生じないとなるか。何かこのようなことをしていると来年のフェスティヴァル公演にも手が出そうになる。

そろそろ今週末辺りから「オテロ」のお勉強の始まりだ。前回聞いたのはドミンゴが歌いカルロス・クライバーが振るというものだったから、そろそろ時効である。カウフマンがドミンゴにとって代わる筈はないが、あれだけの楽譜からそれ以上にものを引き出してくれるペトレンコ指揮の下で期待出来るだろうか。



参照:


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-11-10 23:44 | | Trackback

無色透明な音の世界

d0127795_05270667.jpg
床屋にやり手婆しかいなかった。入ったのも遅かったが、男女一人づつを相手していた。初めは待っているといったが、お気に入りの髪結いさんも誰も居らず、これは退去した方がよいと思った。待ち時間よりも同じ金を出すなら上手い人にやってもらいたい。来週来るわと言ったら、午前中ならまだ誰かいるからと言っていた。やはり暇な時にお暇を出したのだろうか。朝一番で行くしかない。

床屋となると年末年始だけでなく一月のチューリッヒ訪問辺りまでを計算に入れる。どの時点で散髪して次はどの時点かなど可能な限り計画を立てておく。つまり暖かくなった今行くと混んでいる年末には行かずに、年始の床屋の休み明けまで伸ばし続ける。遅くとも一月月末に間に合えばよい。前回はバリカンで大分駆られたので、それほど今も煩わしくないのだ。流石に冬場はバリカンでの剃り上げは嫌である。

思い立って、GPS腕時計の電池を交換した、入手したのは夏前だったので、大分長く放ったらかしていた。半田付けが面倒なのと、裏蓋のパッキングを綺麗に収めるのが厄介だからだ。細かな仕事でも一時間も掛からなかったと思う。最後に苦労したのは外のターミナルと内側のところの合わせが上手くいかずに再び蓋を開けてやり直しする必要があった点だ。それでもGPSの一時間の狂いも夏時間を手動で合わせていたからであり、GPSだけでは正しい時差を調整出来ないことが分かった。要するに車のGPSの狂いもどうもその辺にあるようで、やはりナヴィのソフトが壊れているようだ。無事完動するようになったが、予想していた電池の残り時間が10時間しか出ない。オリジナルは11時間だった。仮に入れていた小さな電池は10時間だった。しかし今度はその容量の表記からすると12時間30分と出る筈だった。なぜ正確に反映しないのか。一つは電池の表示とその能力が著しく異なる場合、もしくは最初の充電では二割以上少なくしか充電できていない可能性だろうか。後者を期待しているが暫く使ってみないと結果は分からない。

N饗の生中継を聞いた。ノセダという指揮者が振っていて、2021年から現監督ルイージを継いでチューリッヒの監督になるようなので名前は知っている。しかし、放送を聞く限りあまり感心しなかった。客演の程度だから仕方がないのかもしれないが、もう少し技能が高くてもよいと思う。しかしこうして色々な指揮者でN饗演奏会を聞くと、何よりも感じるのはあの会場が形成したアンサムブルからのサウンドの貧弱さを感じずにはいられないことだ。あの会場の録音の影響かと思って、昨年のペトレンコ指揮の座付管弦楽団の録音を聞き比べると、その真相が分かる。アンサムブルに起因するものは致命的で一朝一夜ではどうしようもないが、それに合わせるようにソロ楽器の響きも独特な艶消しなサウンドに統一されている。比較対象が座付管弦楽団だから木管も若干個性が強いが、金管でもその鳴りの差は大きい。

偶々週末に東京の管弦楽団で演奏していた人に会うのだが、昔から同じことが語られていて、今こうして直接比較して聞くようになると、その落差は殆ど埋まっていないのを感じる。どうしてもその話に言及してしまうのは仕方がないだろう。それはドイツ風とかフランス風とかアメリカ風とかというのとはまた違う次元であり、日本の聴衆は見ざる聞かざる物言わずに徹しているのだろう。さもなければやはりああした無味乾燥な響きが素晴らしいと思う独特の趣味があるのだろう - 風の音も水音も無色透明だ。要するに反響がない、音が共鳴しない、つまり西洋近代音楽的には音色の無いモノトーンな音の世界である。その対極にヴィーン風なものへの憧れが存在しているとすると文化的な響きへの錯覚も可成り重症である。その点ではボストン饗は、欧州から見るとあまり関心はしないが、独自の伝統的なサウンドを有している。

生演奏は映像収録もされているというからにはマイクロフォンもしっかりと設置されていた筈だがあまりにもお粗末だった。ピアノの響きも取り立てて言うほどのものではなく、一体これは東京では交響楽団ごっこをやっているとしか思えなくなってきた。なるほどこうした客演指揮者が振るよりもブロムシュテットなどが振って音が出てくる方が受けがいいのは理解できた。



参照:
批判精神無しに育たない 2018-10-20 | 文化一般
音響の文化的な価値 2018-10-14 | 音



[PR]
by pfaelzerwein | 2018-11-10 05:28 | | Trackback

「パルシファル」動画集

d0127795_22244182.jpg
キリル・ペトレンコ指揮バゼリッツ画オーディ演出「パルシファル」2018年7月8日生放送動画断片の纏め。

断片が大分公式公開されている。しかし編集も無くブツ切りにされているために感興を削ぐのかあまり人気が無い。そこで折角の断片なので纏めてみた。


先ずは有名な前奏曲、最初から劇場の空気を支配して決めてしまうようなヴァークナーの前奏曲の中でも、晩餐から信仰そして救済へと流れが示されて、如何にも聖週間のような趣が支配する。そして最後の木管の上昇による救済の澄み渡ろうとする美しさこそは、まるで日曜日の薄暗い教会に射す重い扉の向こうの明るい新緑の陽射しへの一条の光のようだ。

一幕三部のアルフォンタスの苦悩、アンフォルタスを歌ったゲルハーハ―の歌唱と芝居はこの制作で最も劇的で劇場的に成功していたとされたが、三幕での大きな動きに比較してここではより細かな演技と歌が披露されていて、映像で観ると圧倒される。自らフィッシャーディースカウの亜流と自虐的に言うが、これだけの歌唱と演技は元祖には出来なかった。演技の大きさよりも歌唱の細やかさとその表現の大きさに驚くばかりだ。そのゲルハーハ―自体がペトレンコの指揮だからこそ引き受けて、可能だというのも、なにも他の指揮者をバカにしているのではなく、そこまで合わせた抑えた指揮は前人未踏という事でしかない ― タンホイザーでのヴォルフラムの歌然りである。しかしあの腰に巻いているものは家にある敷布のケルトである。出血で汚れているのはリアルだが、炬燵布団でなくてよかった。

二幕のクライマックスである接吻の場である。ここでのカウフマンの熱唱は特筆されても良いと思う。ヴァークナーには向かないとか言われても、これほどセンシティヴな歌唱を知らない。それほど丁寧な管弦楽があるからだが、べルリナーフィルハーモニカーで演奏されてもこれに匹敵する歌声を誰から聞くことが可能だろうかと思う。クンドリーのそこまでのシュテムメの歌唱も見事だったが、それ以上にこの役には女性的な母性的なものと動物的な悲鳴に見られる幅の広さと、度量の良さというか受け身の、歌唱を超えた役で存在感はピカイチだったかもしれない。

三幕への前奏曲、「マイスタージンガー」での同じ位置の前奏曲と同じで、遅いテムポでもったいぶって演奏されると、ただ単に重苦しくなにがなんだかわからなくなるのだが、ここでも早めのテムポながら十二分に歌い込みながらその音楽構造がくっきりと浮かび上がる。まさに楽匠が呟いたように、その複雑な心象風景は劇場の皆が思い描く風景なのだ。思い描くのは決して指揮者の心象風景などではない。

三幕の山場となる聖金曜日の音楽、ここでのシュテムメ扮するクンドリーのうつ伏せ姿勢とカウフマンのもっこりパンツでの立ち姿、そこに後ろから重なってくる麻のような服を着たグルネマンツ、そして起き上がって今度はパルシファルによる洗礼である。その傷ついた血糊のある手は中々劇場では分かり難いが、映像であるとそれなりの印象があり、オーボエによる信仰の動機へと繋がる。当代随一のグルネマンツを歌うパーペのその手慣れていながら更に細かに注意を払った歌唱には引きこまれる。

フィナーレのパルシファルによる救済である。先ずはなによりもこの管弦楽の立派なバランスに驚く。正しく楽譜を演奏すればこれだけ清澄な響きが浮かび上がるという事でしかないが、ブーレーズ指揮のバイロイトの楽団でもなせなかった響きの美しさである。なるほどバーデンバーデンでの演奏に比較すると圧倒的な響きではないのだが、その声との得も言われぬ混ざり合いは合唱においてもフィルハーモニカーには難しいかと思われる。しかし、これほどの演奏をしても、10月に合席したゼムパーオパーファンのおばさんは「この座付き管弦楽団は話しにならない」と言えるのだろうか?とても不思議である。ペトレンコ監督になってから劇場特有のあのジンタから完全に決別してしまったという違和感の方が強いのだろう。まさにあれだから高度な音楽ファンは通常のオペラ劇場などからは益々足が遠ざかるのである。


こうしてこの制作の断片だけをしても、如何にこの舞台神聖劇における主題でもある「共感」無しにこの音楽が成立しないかが分る。楽匠におけるその社会性というのはとても興味深い一面である。それにしてもこの演奏の素晴らしさは、共感せずにはいられないベートーヴェン流に言えば心に入ってくる音の芸術でしかないところだ。抹香臭さや宗教的なドグマを極力排した演奏と、なにもしなかったと評判の良くなかった演出が、各々の歌手の演技や歌をこうしたヴィデオ撮影によって光を当てて、格別なハイライト集となっている。



参照:
興奮醒めぬ中継映像 2018-07-10 | 文化一般


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-10-16 22:24 | | Trackback

音響の文化的な価値

d0127795_23142321.jpg
この二三年探していた音源が見つかった。先日、昨年急逝した歌手ホロストフスキーのオペラハイライトCDが発売になって、その中に一曲入っていた「オネーギン」が探していたものだ。そのCDを購入するか一部を買って聞いてみるかなど考えていた。しかし、欲しいのは全曲であり、それならばと探した。今度は指揮者ペトレンコではなくて歌手の名前から検索した。すると簡単にYouTubeに昨年アップされていたものが見つかった。ラディオ実況録音であるから音質は二の次である。ヴィーンの国立劇場の演奏であるからその質には期待していなかったが、さわりを聞くとその通り酷い演奏なので、指揮者情報の信憑性が疑われたが、しばらくして総奏を聞いてペトレンコ指揮を確認した。小澤時代の座付き管弦楽団だが、監督が病に倒れて客演が振ればあんな程度だったのだろう。今はもっと悪いに違いない。

NHKホールからの生中継を聞いた。「NHKが欧州で貴重な聴視料を浪費しているのではないか」と書いた序に考えていた。日本での演奏を海外に輸出するだけの価値があるかどうかである。それも確かめたかった。指揮者のブロムシュテット爺の音楽は先日のバーデンバーデンのコンサートで昨年より大分悪くなっていることについては既に言及した。身体の元気とは裏腹に可成り脳などが老化していると思った。要するにもうお構いなしになっている。典型的な老人性の症状だと思うが、初期の頃は大らかにやらせる度量が大きくなるように思われるが、よいよいになって徐々にどうでもよくなって殆ど投げやりと変わらなくなってくる。

それでも爺のブルックナー解釈やその譜読みは今回の中継でも充分理解可能で、また間違っていることはやっていないと思った。先月聞いたハイティンクの指揮と比較すれば作為的ではあるのだが、とても分かり易くて、立派なものだと思う。その演奏を彩るのがその指揮で、そもそも大雑把なのだが、時々大きな動きを伴って何かが起こると言った塩梅で、この辺りが最も同僚のハイティンク指揮の棒とは異なるところだろう。前半のモーツァルトもいい勝負なのかもしれない。

最も苦になったのはコンサートマスターの音楽で、モーツァルトではよくもヴィーン紛いのような演奏になっていて、これだけでも到底輸出かのうなものではない。なるほど先日同じ指揮者の振った本家のヴィーナーフィルハーモニカーよりも明らかに良いところもあったのだが、偽物は偽物でしかなくGAT違反だ。これでは、廃棄処分で、価値など一切ない。

なによりも気になったのは日本を代表する交響楽団のアンサムブルで、総奏でなくても弦だけにおいても中抜けのしっかりした音が鳴らない ― 中継では奇しくも中声部のそれについてのメンションがあったが。勿論指揮者のアインザッツの問題があることは承知の上である。あの会場で演奏している限りはまるで枯れた竹藪のような音しかならないのだろうかと思った。続けて後半のブルックナーを聞いて更にこの問題が良く分かった。

なるほどコンサートマスターの弊害が捨てきれないのだが、弦楽と管楽の間の繋がりが悪く、弦楽器奏者はコンサートマスターに合わせるしかなくそれが最も容易だろうが、管楽器陣は戸惑っているような感じで、そのヴィーン風の乗りのお陰で、とても酷いリズムになっていた ― あんなヴィーンのようなボケボケのリズム取りをしていたのではプロの交響楽団として成立しない。「一害あって一利なし」の年金生活の小遣い稼ぎの老楽士さんの為に長年構築して来たアンサムブルを潰すつもりなのだろうか?私が最後に生で聞いたのMeTooのデュトワ指揮でのフランクフルト公演であるが、その時の弦楽器のアンサムブルのつまり和音の作り方の問題をヤルヴィ指揮の下で解決しているかに見えたが、こうした指揮者の下で更に弊害のあるコンサートマスターの下で演奏することで恥部まで全て曝け出されたような演奏だった。

スケルツォなどでも総奏の打ちが定まらないのは、リズムの作りが悪いからだ。そもそもモーツァルトで経過的な楽節でその方向性が定まらなくなって、まるで主題と主題の間が叙唱のようになり、嘗てスイトナーなどが振っていた時のN饗と変わらず、全く成長していない。繰り返すが、バムベルクなどの交響楽団よりも立派に正確に演奏する面がある反面、下手以前に音楽にならない面があって、同じ指揮者が同じような程度の交響楽団を振っていることには変わりない。

それにしても私のようなリズム音痴がこのようなことを芸大を出たような皆優秀な楽士さんの演奏に対して書けるなと我ながら思うのだが、そのように考えるとアウフタクトの感覚にしても以前からすると感覚的に異なっている。それはやはりまだここに来ても永続的にドイツ語の言葉のイントネーションやリズムで感覚的に習っているものがあってそれに関係しているようだ。つまりアウフタクトのリズムと言葉の出はよく似ていて、ヴィーン訛りが特に気になるのは私が吃音系のプフェルツャー方言が知らずに身について来ている事にも関係している。その身に付くものである筈の音楽におけるリズムが、あの手の指揮のみならず、コンサートマスターの雑音が邪魔になって、お里が知れるという事だろう。要するに少々留学した位では身につかないものらしい。

同じように管楽器が幾ら肺活量強化して頑張って吹いても全く凄みが出ず、また管と弦のみならず管並びに弦同士間においてもしっかりと和音を支えられる合奏が出来ないのは、音楽教育などを受けていないドイツ人兄弟が簡単に教会でハモってしまう事との大きな差である。

さて、そのドイツを代表するライプチッヒのゲヴァントハウス管弦楽団がリガの国立オペラ劇場で演奏する会が地元の局から生放送される。先日同じプログラムをフランクフルトで聞いたので失望することは無いだろうが、マイクを通した音として再びその鳴りを確かめたい。ブロムシュテット指揮では昨年とても素晴らしく、現カペルマイスター指揮よりも滔々と鳴るブルックナーの七番となった。先月のチューリッヒでのハイティンク指揮とはその楽団の質がその芸術的な価値が全く異なっていた。



参照;
東向きゃ尾は西に 2018-10-12 | 文化一般
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-10-13 23:17 | | Trackback

大関昇進を目指せ

d0127795_23465358.jpg
承前)休憩後のマーラーの交響曲と最初の新曲はほとんど同じ楽器編成だった。それでも鳴りが全く異なった。勿論違うように楽譜が書かれている訳なのだが、そのように両方を正しく演奏するのはとても難しい ― その交響曲の正しい響きかどうかはとても興味深い議論である。開演前は数十分前まではこの新曲を合わせていた。初演からよくなって来ているのだろう、中々力のある作曲家である。

今回久しぶりにアルテオパーで大管弦楽団を聞いた。前回はSWRフライブルク・バーデンバーデンでマーラーの交響曲6番そしてハースのピアノ協奏曲だったと思う。後の多くはバロック音楽だった。席は似たようなものだが、今回は最初から売れていなかった価格領域へと移動していた。フランクフルトのような典型的な銀行の街となると日曜日の興業はとても寂しい。五割かどうかといった入りだったろう。皆が立ち止まって凝視するポスターはベルリナーフィルハーモニカーがアジアに飛ぶ前に立ち寄る公演の告知である。なるほどフィルハーモニカーの方が音量は出すだろうが、ホルンなどでも明らかにゲヴァントハウス管弦楽団のような響きは無い。どちらがドイツ的で文化的な響きかというとこれはまた高度な判断となる。

本拠地ゲヴァントハウスを鳴らし切るのとアルテオパーを鳴らし切るとの差は分からないが、アルテオパーとしてはなるほど鳴り切っていなかった。21代カペルマイスターとゲヴァントハウス管弦楽団の関係はまだ始まったばかりなのだが、ペトレンコとべルリナーフィルハーモニカーにおける果敢な挑戦と比較するとやはり物足りなかった。今後どのように鳴らしていけるのかは未知だった。その分とても美感は維持されていて、19代カペルマイスターがバーデンバーデンでブルックナーで鳴らしていたのとは大分異なった。勿論ブルックナーとマーラーの書法が異なることも大きいのだが、ハイティンク指揮でコンセルトヘボー管弦楽団が全奏するのともまた異なる。面白いことにやはり力の抜けた爺さんの棒の方が大きな音が素直に鳴るのである。その正反対にサイモン・ラトル指揮などがあったが、アンドリス・ネルソンズもまだまだ若過ぎるのだろうか。

グスタフ・マーラーはライプチッヒで第二カペルマイスターだった。五つ年長のニキシュが君臨していたからのようだが、劇場で振る傍ら、病気の節に代わりを務めていたようだ。26歳というからやはりこの交響曲を作曲した時は充分に若い。今回のツアーの一つにこの曲が選ばれたのはこうした背景がある。その独自の組織構成から劇場の指揮者とカペルマイスターが上手く行くかどうかも問われているようだ。それにしても四楽章のヴィオラが引っ張るところなども創作にこの管弦楽団の優秀さと響きがそこにあったのではないかと思わせた。ドイツ配置の第二ヴァイオリンの働きも、またシュヴァルツヴァルト出身のコンツェルトマイスターのブロイニンガーもとても良い仕事をしていた。その風貌から突飛なことをしそうだが、とても丁寧な仕事をしていたように思った。やはり超一流の指揮者が振れば、たとえ自由度が増す指揮をすると言っても、自らの仕事に集中できる余裕が生じるのだろう。ブロムシュテット指揮の時とは全く違う仕事ぶりだった。ホルンの良さについても語ったが、管楽器類も、兎に角、世界最大の管弦楽団なので適格なメムバーを選択すれば可成り程度が高い。

ブロムシュテットが言うように、なるほどコンツェルトマイスターを先頭に思い思いに舞台に出て来ても、座らずにこちらを向いているものだから最後の楽員が出て来るまで拍手も止められない。律儀な人達だなと思わせると同時に、コンサートの作り方だけでなく教育にもなっている。流石に教会で毎日曜のお勤めをする楽団だ。空き席があったことから観光客のような、一楽章の後で拍手をする人たちが入っていたが、それも教育の一つである。

管弦楽団の全奏に関しても、シュターツカペレドレスデンも混濁して全く駄目なので、それよりはバランスを壊すことなく透明性を保っていて、ここら辺りはカペルマイスターの腕の見せ所かもしれない。この指揮者に任せておけば決して伝統を壊すようなことはしない安心感がある。つまらない噂話のように、シュターツカペレがバーデンバーデンでフェスティヴァルをするぐらいならばゲヴァントハウス管弦楽団でフェスティヴァルをして欲しいと思った。カペルマイスターの指揮でのオペラも決して悪くないのも分った。別れた嫁んさんと握手するぐらいならば、色々なスターと興業を打つ現体制のバーデンバーデンにはお誂らい向きだった。それほどに、この組み合わせで、今回のような興味深いプログラムならば今後も聞き逃せないと思う。現在欧州で否世界でも数少ない聞き逃せない音楽的なイヴェントを打って出れる組み合わせの一つであることは間違いない。

とは言っても、指揮者も楽団もまだまだ片付けないといけない課題があって、楽団からDNAを呼び起こす一方、指揮者がここでみっちりと音楽芸術をものに出来たなら、番付で言えば一人横綱体制の大関昇進もあり得ると思う。ヴィーンがこの指揮者を必要とするときが遠からず必ず訪れるだろうが、それからでも全然遅くないのである。(終わり)



参照:
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-10-09 23:50 | | Trackback

企業秘密の領域へ

d0127795_23023106.jpg
ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏を聴いた。二度目の体験である。一度目は昨年19代カペルマイスター、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ブルックナー七番ほかで、二度目の今回は現21代カペルマイスターのアンドリス・ネルソンズ指揮でマーラー一番他である。

先ず記憶にあるところから、初めての生ネルソンズ指揮を書いておこう。マーラーの交響曲では三楽章のコーダーで、再び冒頭の日本の幼稚園などでも歌われる「フレーレジャック」の短調版が「ディン・ドン・ダン」と戻ってくる。そこのテムポ運びが印象に残った。理由は最初の提示での基本テムポの遅さと、中間部での伸びやかな運びとの対照がとても強かったからだ。因みにアバドの録音を聴いてみると、そこは楽譜通りにその次の小節の急テムポのクラリネットがユダヤのクレッツマー音楽を強調している。寧ろここはバーンスタイン指揮ではあまり浮き上がらなく、その前のトラムペットの葬送の音楽と並行させている。アバドのマーラー解釈がそこで良く分かる反面、コントロールが効いていない可能性も無きにしも非ずだ。

今回は、最初の「ディンドン」のティムパニ―を倍速にしたようなのが印象に残っていて、明らかに次の小節の準備以上に、「ここからコーダですよ」というのを明白にしていた。同じような強調は二楽章スケルツォ楽章中間部トリオへの移行部で、楽譜通りならば二重線までのテムポで全休止が取られる筈なのだが、なぜかここでも次のホルンのソロに合わせたテムポ取りがされていた。先の三楽章とも合わせて和声の移り行きを上手に出すことがこの指揮者のモットーなのだろう ― まさしく新聞評の心はここにあった。

正直この辺りの指揮技術的な精査は出来ないのだが、テムポの移り変わりでの準備を丁寧にしているような印象もある。それが適切な楽譜解釈によるためか、若しくはキリル・ペトレンコまでの名人ではなくてもネゼ・セガンのような振り方が出来ないための妥協策なのかは判断がつきかねた。ペトレンコの指揮をこれだけ聞いているとそれが出来るものだとどうしても思い込んでしまっているのかもしれないが、よく分らない。

その他も色々と用心深く振っている印象があって、新聞評にもあったように、弱音域での表現の細やかさと音色的なイメージの適格さが素晴らしい。また就任演奏会での放送において良い印象を持てなかった新カペルマイスターのこの名門管弦楽団のアンサムブルや響きへの尊重も理解した。前回のブロムシュテット指揮に比較するまでもなく、細心の注意が払われていて、燻銀を超えて可成り渋い。それも楽曲様式や創作の性格によって、変わらないものもあれば、全く異なった管弦楽の性格を引き出してもいた。

見事だったのは放送でも分かっていたように、クラスターなどの入った新曲での演奏方針で、これは本当に立派で驚いた。今あの程度に現代音楽をこなす管弦楽団はドイツにどれぐらいあるだろうか?様式としては二十世紀後半でやや古めかしい部分と民族的な素材を利用する興味深い面を持ち合わせたアンドリス・ゼニティスの「マラ」と称する「交響楽団」のための作品で、先頃ライプチッヒで初演されたので、いづれ放送録音も出て来ると思う。ボストンとの共同での委嘱作品なのだが、ボストンでこれ以上に上手に演奏出来るとは限らない。それほどにシャープな響きも有機的に処理する機能性は連邦共和国のどの放送交響楽団も持ち得ていないと思う。確かにシャイ―時代に欧州屈指の指折りだったのが実感可能な機能的な交響楽団であり、座付き管弦楽団と比較などはそもそも無意味である。

その一方、それに続いてチャイコフスキー作曲のオペラピースが演奏されたが、これがまた得難いプログラミングとなっていた。要するにこの指揮者は生地の楽団でトラムペットを吹いていたというが、如何にもその思考自体が現場感覚の音楽家で、玄人に問うているようなプログラミングとなっている。先頃離婚した奥さんであるクリスティーネ・オポライスと登場する時こそ、態々この昔の旦那は第一ヴァイオリンとチェロの間を通って、それこそ主役から十歩離れて指揮台へと移ったが、指揮を振るや否や完璧に合わせて来ていた。兎に角、聞きもの見ものだったのはこの管弦楽団は奈落で演奏するように直ぐに切り替えて演奏するのだ。これには魂消た。初めてこのような状況を見聞きした。つまり、音が遅れて出て来るのだ。もうここまで来ると、企業秘密のような領域で、これ以上語れないと思う。「リサのアリオーソ」と「手紙の場」の間に挟んだポロネーズでも同じように演奏していたので、この不文律というか了解はどうなっているのだろうと思った。伝統と呼ばれるものだろうか?このプログラムでなければ、世界最大の管弦楽団ゲヴァントハウス管弦楽団の実力の真相が見えなかった。更にバッハでもアンコールすれば完璧だったかもしれない。(続く



参照:
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-10-08 23:30 | | Trackback

職人の技が導くところ

d0127795_21492614.jpg
季節の変わり目で声が出なくなっている人も周りにもいる。しかし、今回のミュンヘンでの記念公演での降板騒動は本当にそれだけなのだろうか?生中継などが予定されそれだけ準備されて人手も掛かっていた。そして、なるほど身体を楽器とするオペラ畠では頻繁にあることでもあるが、通常以上にその対応に関心が向かった。舞台では前日の見学で一つのコーナーで話をしたアーティストマネージャーが舞台で、最も関心ごとであった主役のハンス・ザックスを当たり役のヴォルフガンク・コッホが病気降板して、前晩に「影の無い女」のバラックをベルリンで歌ったミヒャエル・フォレが当日にミュンヘンに飛んで来て三時間ほど合わせてから出るという話しを幕前にした。予定されていたストリーミング中継には向かないのは、記録として残したいコッホやカウフマンの配役ではなくなったからだ。しかしそれ以上に技術的にどのようにそれを解決するのだろうかと関心はあらぬところへと向かった。始めから期待していたお祝いムードではとてもなくなった。

最大の関心ごとはフォレのハンス・ザックスがどのようにこのデーフィト・ベッシュ演出に組み込まれるかだった。それは演技とか役作りではなくて三時間でどのように指揮者のキリル・ペトレンコとピアノで合わせたかである。そこに尽きると思う。結果からすると舞台で役作りは最低限の情報を与えられただけだったかもしれない。どのようにするのかは分らないが、前日の見学でも感じたように専門のスタッフが様々なテクニックを用いて短期間に、恐らく化粧中も指示するのかもしれない。皆目わからない。

音楽に関しては、それこそ音楽監督のアシスタントがバイロイトの上演から必要な点をピックアップして、合わせる箇所をピアノを弾くのではなかろうか。その上でペトレンコが指揮して必要なところを確認する。そのような感じだと想像する。ザックスが歌うところを全て合わせて、どれぐらいのトータルタイムになるのか?指揮者は全体の流れの中からチェックをする。先月のヴィデオで紹介された通り、配役によってその演出が変わってくるその妙が今回の公演の全てだった。そしてそれが、ペトレンコに未だ嘗てないほどの厳しく、激しい指揮をさせた。否、もしかするとその方向での模索がコッホの降板に繋がったと邪推するのはお門違いか?完成度が高く、それだけの準備をした映像を記録しようと準備していたようにしか思えないからである。幻の歴史的名演だった。

私のようなバイロイトに批判的な者でも、あの汚らしいバリーコスキーの「マイスタージンガー」でのフォレの名唱は耳に残っている。要するに楽しみにしていたコッホのベルカントのややもすると意志薄弱で殆ど「寅さん」のような靴親方像とは正反対にある、あまりにも傲慢なドイツの職人像で、その井手達も歌声もそのものである。これがどのようにこの演出に嵌め込まれるか。一幕ではまだまだ違和感があったが、二幕三幕とその歌の力で、ややもするとバイロイトのそれと二重写しになった。隣に座った南ティロルのおばさんはティーレマンファンで、ゼンパ―オパー一番のヴァクナー狂だったが、全然違うというのは管弦楽への違和感だった。

実際にはフォレの歌はテムポ等の合わせるしかないところ以外の細かな歌は変わっていなかったのではなかろうか、そしてその歌はあのとんでもない上演ではなくてこのベッシュの演出とペトレンコの音楽にこそ本領を発揮したと思われる。そして、この演出がコッホのザックスでは、ドラマテュルギー上、辻褄の合わないところが全て解決されていた。恐らくこの演出は初演地ミュンヘンを歴史的に代表する演出だった。そのようにペトレンコは指揮した。それが到底間に合わせではないと思わせるだけの彫塑と音楽的構成力が明らかだった。

第一幕の完成度は2016年度とは比較にならなかったが、テムポはどんどん早くなって行くかに見えても、例えば後拍での過去二回の録音にはないような強いアーティキュレーションもあり、明らかに歌い込みが強くなっていたので ― ここは楽譜を確認したい ―、その彫塑が深まり、楽想間の対比が対位法的にも明白になっていた。同時に横方向にもアゴーギクが強くなる傾向が明らかで、その早いテムポの中での自由自在が大きな表現を可能にすると同時に叙唱風の歌詞のアクセントが更に精妙になっていた。これはフォレの影響も大きかったかもしれない。しかしこのような人がマンハイムで歌っていたと知るとなるほど今でも登竜門の劇場だと要らぬところに感心する。

そしてそのような音楽運びから齎せる最大の効果は、アンサムブル上の例えばフーガにおける楽想の明晰さが生む楽匠の奇跡的な筆運びと、その奏でる音の意味合いが明白に浮かび上がらせることだ。一二幕と三幕では恐らく放映での完成度も考えての楽員の入れ替えもあり、総力戦で挑み、出来るだけ多くの楽員がこの記録的な演奏に参加することを目したかのように見えた。ドイツ配置?のヴィオラ群の秀逸さには目を見張ったが、コントラバスの運弓が齎すまるでドビュシーのような浮遊する和声やヴィーナーを超えるファゴットの響き、オーボエの適格なソロ、フルート、クラリネット、トラムペットの一吹き、トロンボーンからテューバまでとても更っていた。三幕に乗って来たデングラー率いるホルン陣はまさにこの音がベルリンに欲しいもので、多くの箇所で一流交響楽団が瞠目する演奏がなされた。しかし、これも隣のおばさんなどに言わせるとシュターツカペレドレスデンとは比較にならないようだから、勿論彼女の趣向は分かっても、結局聞く耳があるかどうかだろう。しかしそうした各々の演奏技術上の要素を議論しても、どのように表現してそれがなにを意味するかを考えないとお話しにならない。(続く



参照:
記念劇場見学の日 2018-09-30 | 雑感


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-10-01 21:56 | | Trackback

至宝維納舞踏管弦楽

d0127795_23522183.jpg
ヴィーナーフィルハーモニカーは、ただのドサ廻りの座付き管弦楽団ではなかった、維納舞踏曲管弦楽団であった。今でこそべルリナーフィルハーモニカーが最も聞いているマイオーケストラかもしれないが、数年前までは最も生で聞いた回数が多い管弦楽団こそがヴィーナーフィルハーモニカーだった。だから、なんだかんだ言いながら半生の間ファンでもあったことになる。そして91歳になるヘルベルト・ブロムシュテット指揮でのこの楽団の演奏会は今まで数限りなく聞いたオペラ上演や管弦楽演奏会の中で最悪だった。日曜日の生中継でも可成り危ぶまれたが、八月のベルリナーフィルハーモニカーも生でなければ分からないことがあったことに衝撃を受けていたので、今回もそれを期待した。

演奏精度もキリル・ペトレンコ指揮のようにその都度直していくようなことも叶う訳も無く、そもそも練習をしない出来ない座付き管弦楽団に向上などを求める方が間違っている。それどころか二三日の旅行で疲れが出ているのではないかと思わせた。ガイダンスでは私の予想が外れてベアヴァルト作交響曲について面白い話が聞けた。

一楽章でのダイナミックスと管弦楽法に依る視覚的な遠近感の面白さ、システム間の空間での楽器の受け渡し、二楽章での典型的なロマンティックなメロディーの不明瞭な起承転結、風景画的な音の描写、三楽章超絶リズムの主題などどこをとっても独創性に優れた卓越した交響楽作曲家とされた。

このガイダンス以外の視点や若しくは反する視点があったとしても、そのどの点を取っても当日の演奏は程遠いものだった。ガイダンスにおいても指揮技術が要求される点に言及されたが、あの若い時から棒を持たないしかし当然ながらブーレーズのようなリズムを繰り出せる訳でもないこの老指揮者から何を期待できよう。期待されたのはその恐らく世界一この曲を振っている指揮者からのなにかであったが、全く聞こえてくるものは無かった。

同じようにドヴォルジャークの動機が信号的に各システム間で組み合わされるその音楽がどうして演奏できよう。そもそもチェコフィルによる野卑な演奏が苦手なドヴォルジャークの交響曲であるが、それに代わるだけのヴィーン的な洗練を響かそうと思えばそれだけ精妙なアンサムブルが欠かせない。かといって、一気呵成の民族的な演奏も出来ないとなれば、この定期公演からツアーへのプログラミングの心は、「ただ単に似た楽器編成の曲を合わせました」でしかない。

今更ブロムシュテット爺の指揮に関して文句をつけても始まらないが、あの指揮なら精々教会の合唱団を指揮していればよいのである。しかし、昨年のゲヴァントハウス管弦楽団も名演だったのは、やはり彼らが話していたように「ブロムシュテットの指揮は分かっている」という言葉にある。要するに指揮者シャイ―によって交響楽団として鍛えられた彼らの技量があってこその演奏水準だったのだ。それでもその前のヴィーナーフィルハーモニカーを指揮してのブルックナーの交響曲四番は決して悪くは無かった。するとその差異の理由は、今回のツアーの面子が二軍でしかなかったという事になる。

先ずはコンツェルトマイスターリンが酷かった。写真で見てその女性が率いることで不安があったが、あの人では精々フィリプ・ジョルダンのオペラ公演しか務まらない。ヴィーナフィルハーモニカーは首ではなかろうか。そもそも今回弦楽だけに限っても、態々ドイツ配置にして何のつもりだと言いたい。指揮者の指示かもしれないが人を馬鹿にするにも程がある。下手な楽団ならばもっと弾きやすい配置にしなさい。座付き楽団にコムパクトな演奏までを求めはしないが、それを思うとどうしても嘗てのヘッツェル氏の事故死が悔やまれる。若く優秀なキュッヒル氏が率いるようになってからは全くその世界から離れてしまったのである。

それどころか金管も軒並み村の民謡吹奏楽団のような音をぶち鳴らし、木管も精々二人の女性のフルートとファゴットはやろうとしたいことが分かった程度だ。それでもファゴット奏者のあれでは弱過ぎる。なにもフィラデルフィアのマツカワと比べようとは思わないが、せめてもう少しと思う。この窮状を救えるのは指揮者アンドリス・ネルソンズでしかないと確信しているが、ジョルダンが振るようになれば万事休すだろう。

それにしてもその歩みや指揮ぶりからすれば益々お盛んな老指揮者であったが、遠目に観察していて難聴になっているのではないかなと思ったぐらいである。その指揮ぶりとは反対にこの一年での変化は大きく、完全に逝かれていた。勿論楽団は分かっているのだろうが、それをカヴァー出来るほどにはブロムシュテット指揮を知らない。更に都合の悪いことに若返りが進んでいるのでヘボな指揮者を補佐出来ないのだろう。

なるほど会場の入りの悪さは、その程度の悪さを反映していた。それはパリでラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカーが入らないのと同じで、市場というのは神の手が働くのだ。この老指揮者と座付き管弦楽団ではティーレマン指揮シュターツカペレぐらいにしか入らないのである。その芸術程度も変わらない。それでも歓声を上げる如何にも何も分らないような、私と同じく99ユーロの席に忍び込んだおっさんたちがいる。

そしてハープ奏者が出て来て座る。ブロムシュテット爺が客席を振り返って「あんたがたにプレゼントだよ」と聴衆の反応を待ってから始まった。「南国のバラ」だ、最初の小節から引き付けられた。そして最後の小節の最後の音符の残響まで魅了され続けた。私の顔がその驚きと緊張で引きつるのが分かった。ヴィーナーフィルハーモニカーでヴァルツァーなどは聞いたことがあると思う。ベーム指揮の「青きドナウ」かも知れない。しかしこれに比較するようなものは聞いた覚えが無い。そもそもヨハン・シュトラウスの楽譜があのように鳴るなんて全く想像もつかなかった。毎年のようにその中継の音響や過去の録音を聞いてもこの生のそれとは別物だった。なによりも音色が違い、その精緻な演奏には度肝抜かれた。その録音と生の違いという事では八月のキリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの演奏に匹敵するかもしれない。そして一体何だこの浮遊するような音響空間は?薫り高いを超えて完全に浮遊している。しかし、このように精密にはノイヤースコンツェルトで演奏されていないのは分かっている。

またブロムシュテット爺の好きなようにやらせる大雑把な指揮ぶりは、あの故プレートル指揮の瀟洒とは異なるが、恐らく振ったかどうかは知らないがブルーノ・ヴァルターのそれを想起させるようなその高踏なまでのヒューマニズムに、その気宇壮大さに打たれる。これでノイヤースコンツェルトをブロムシュテット爺がスケデュールを入れていることは分かった。しかし満92歳になってのカレンダーだろうか?来る年末年始のティーレマンの降板でも決まっているのだろうか、一刻も早く降ろして欲しい。

ブラームスか誰かが言ったかどうかは知らないが、その晩の響きなら私は臨終の席で聞いていたいと思った。彼らの賞賛ぶりが初めて分かった。このような音楽は他にはない。そしてこのような演奏が可能なヴィーナーヴァルツャーオーケストラこそは唯一無二の存在である。人類の宝である。



参照:
晩夏日和の忙しさ 2018-09-28 | 暦
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-09-28 23:54 | | Trackback

杖無しに立たせる指揮棒

d0127795_22214541.jpg
とても良かった。昨年のゲヴァントハウス管弦楽団の完成度やブロムシュテットの読み込みの明晰さは無いが、チューリッヒのトーンハーレ管弦楽団の演奏もハイテインクの指揮もブルックナーのある面をしっかりと聞かせてくれた。どちらかと言えばメローな歌い口と美しい和声を聞かせるのがこの指揮者の本望だが、マーラーの創作とは違い飽く迄もそのロマンの和声からの枠組みが聞かせ所だ ― その対極にあったのが12音語法的なブルックナー九番を聞かせたギーレン指揮とかだろうが、何度も書いているように作曲家の居た環境からその創造を追体験する方が創作の真に迫れる。

前半のモーツァルトは指揮もピアノも程度が低かった。ハイティンク指揮の悪い面が強調されたような大雑把さとメローさが目立って、なによりもピアニストのティル・フェルナーはチューリッヒで教えているようだが、如何にも教授程度で、クララハスキルコンクールの優勝者という事で、その程度が知れる。タッチもモーツァルトを弾くにはあまりにも雑で、ブレンデルの名前を出されて迷惑に思う。そして指揮もその程度で、仕方ないなと思い始めた。

ブルックナー七番の一番長い主題へのそのトレモロの冒頭からなかなか聞かせた。それは会場のアーコースティックが大きく貢献しているが、管弦楽団というのは入れ物あってのものである。まさにこの臨時の会場こそが今回の訪問の主目的だった。その主題の歌わせ方もヴァークナーの上昇旋律を想起させるような歌い口であり、その後の主題の特徴付け方も周知のようにこの指揮者では最小のコントラストしか付けられない。しかしそのお陰で見え聞こえるものが中々精妙であったり、ブルックナーの創作の本質でもあり得るのだ。そうしたブルックナー解釈であり、そのような指揮を観察した。

若干メローな歌い口もセンチメンタルとはならない節度と大雑把さが混ざり合っているようなところがあり、丁度宇野功芳の謂わんとする「森羅万象」や「寂寥感」には事欠かない。それが逆に上手いこと流れる。しかしカラヤン指揮のような流麗さで流されることはなかった。一つには管弦楽団がそれほど手馴れてはおらず、あの如何にも不親切そうな弦のポジション取りなどがとてもいい感じでコントラストを与えていた。一楽章のコーダはその特徴が良く表れており、アラブラーヴェの「落ち着いて始まり」が本当に落ち着いている。これがブロムシュテットの「滑走路待機でそろそろ離陸ですよ」の感じと違い、最後まであまり早くもならないのに典型的に表れている。そもそもここでテイクオフすべきかどうかは解釈の問題ではなかろうか。二楽章の第二主題や、三楽章主題また三十二分音の連桁などの扱いが四楽章最後まで活きる ― これも到底ヴィーナーフィルハーモニカーなどでは聞けなかったものだ。これらだけで適当な主題間の対峙が導かれ、勿論その和声的な緊張感は各システム間で対位法的な鋭さとして表れる。これは見事であり、この響きが表現されないことには精々「ジークフリート」や「神々の黄昏」の亜流でしかない。その意味からその大きな枠組みを超える緊張も十分に表現されていた。

勿論被り付きに座ったのだからそうした表現をどのようにあの指揮で引き出すのかを注視していた。やはり永い間の指揮技術の熟練と凝縮は私にも判ったが ― 特に棒のはねの使い方が面白かった ―、必ずしもヴィーナーフィルハーモニカーを振っては、こうした結果にはならないのは、コンセルトヘボーを振っても同じだろう。あまりに手慣れた管弦楽団であるとそのリズムとテムポを与えるだけでしかない、するとある種のぎこちなさから生まれる主題間の対立が生じないのだ。この指揮者はああした超一流の管弦楽団を振る人ではないのだろう。そしてブルックナーの楽譜はそうしたものが内包されているという事なのだ。それが最大の功績だった。昨年の七番と甲乙つけがたい価値があった。

トーンハーレはスイスを代表する管弦楽団であるが、管などは事故の起きやすい管弦楽団でそれほどの名手が集まっている訳ではなさそうで、弦の精度もN饗などの方が上なのかも知れない。それでも若い人も多く、ゴリゴリ弾けるだけの弦楽奏者を採用していて、恐らく日本などの奏法とは違う ― 昔からこの楽団やミュンヘンフィルなどにブルックナーの名演奏録音が多いのは偶然ではないだろう。例えば次期監督パーヴォ・ヤルヴィのHRなどの方が弱々しい。管楽器奏者は凸凹だが、やはり座付きの楽団とは違う。なによりもいいホールで合わせていればいいアンサムブルになるだろう。先月もNZZの人が「ベルリンのように古典的ドイツ配置だったらな」という意味もなんとなく分かった。そうした個性が出来ればもう一つ格が上がるだろうが、ヤルヴィ監督ではそれは難しいだろう。

クライマックスの後盛んな拍手の後で舞台の奥から立ちだした。結局いつものようにスタンディングオヴェーションになったが、今回は一切杖を突いていなかった。手にしていたのは指揮棒だけだった。それだけでも誉めてあげたい。結局年寄りも自宅から出てくれば元気という事ではないのだろうか。(続く



参照:


[PR]
by pfaelzerwein | 2018-09-20 22:24 | | Trackback