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カテゴリ:音( 249 )

交響曲四番の真価

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チューリッヒに出かけてよかった。その価値のその一はなによりもアイヴスのその曲を体験したことである。昔からブルックナーやマーラーなどの巨大編成曲は到底オーディオでは体験できないとされていたが、その双方ともある程度経験を積めばHiFiでも想像はつくようになる。それでもこのアイヴス交響曲4番はやはり経験しないとその価値が読めなかった。理由はハッキリしていて、何よりも楽器の定位感が無いと曲の構造も分からなくなるという事でしかない。ブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカーでのベアヴァルトの交響曲の実演ではフィラデルフィアからの放送程にも効果が出ていなかったが - そもそも座付楽団にそれを表現できるだけの腕が無い -、流石にケントナガノの棒でのスイス最高の交響楽団は少し違った。

第一楽章の室内楽バンドを合唱席に讃美歌のコーラスの下手に置いて弾かしていた。この時に第二指揮者のイツェン・リは挨拶してから急いで上に駆け上って指揮をするとガイダンスで話していた通り、その時には上に居た。急いではいるものだから、心拍数が上がらないかと気になったが、ドアの締まる音が笑いを誘い、その指揮振りも良く見えて、とてもその後の展開の参考になった。つまり第一指揮者のテムポに合わせて自分のリズムを刻むというそのやり方である。ガイダンスでのインタヴューでそのドイツ語もこなれていて驚いたが、同楽団で第一ヴァイオリンを後ろの方で弾いているとは思えないほどの能力は明らかだ。

そのあと再び舞台に下りてきて、ケントナガノの左横で第二指揮者を務める。こちらは最前列の齧り付きからはあまり良く見えなかった ― そもそも前三列が継ぎ足して延長した舞台のために潰されてしまっていた。席が空いていたので真ん中に移動しても良かったが、出来れば同時に見たいとかの色気もあって、横から見ていた。大きく振る所だけは見えたのだが、女流としてはとても叩きがよくて感心した。ヴィーンで習っている筈だが誰の弟子とも書いていない。既にSWRでもデビューしていて、パルマでオペラも振っている。嘗てバーンスタインのところで同曲を振っていたようなティルソントーマスなんかよりも出来そうである。

楽団の方は、一曲目のピンチャーの1997年にザルツブルクで委嘱初演した「五つの管弦楽曲」スイス初演だったが、そこでも気が付いたが弦楽の後ろまでが超一流のように合わせられない。スイスであるからある程度の力の者が集まるにしても、更に個々に力があるベルリンのフィルハーモニカーのように合奏の神経が最後まで通ると最早追いつきようがない。特に特殊奏法などでの遊んでいるようだともはやお話しにならない。それでも顔ぶれも比較的若く、いい指揮者がアンサムブルを作ればよくなる。しかし現在のパーヴォ・ヤルヴィではあまり期待できないかもしれない。ヴァイオリンがN響に劣ると言われれば、そうですかと言うしかないのである。

予想よりもよかったのは、二曲目のラヴェルの「シェーラザード」を歌ったパトリシア・プティボンという歌手で、これは儲けものだった。昨年ラトル指揮でガランチャのそれを聴いていたものだから期待していなかった。しかし会場の大きさが違うと言ってもニュアンスの豊かさはこちらの方が上で、ラトルとナガノの合わせ方の上手さも影響したと思う。反面、ナガノの指揮でここというときの表現を思いとどまる寸止め感がこの曲では感じられて、小澤などとは違うまたもう一つの遠慮深さを感じた。

ピンチャー曲でのケントナガノの指揮は見事に尽きると思う。その分余計にここ一つの表現があればと、要するに指揮台上でのカリスマ性の欠如を感じた。特に客演などではプルトの最後まで神経が張り詰めるぐらいでないといい演奏は出来ないだろう。どうしても後任者のペトレンコと比較になるので気の毒なのだが、まさしくそこが最大の弱点で、さもなければ顔色のおかしな写真を使わせないと思う。マネージメントの問題であると共に、やはりあれだけの実力者であるから本人が周りを変えれた筈だ。その指揮振りを見ていてもとても知的な冴えがあって、技術的な洗練が、ややもすると学者風になってしまって余計にカリスマ性から離れる。ミュンヘンでも人気が落ちていたのは事実だろうが、バッハラーと本気で戦えなかったのがいけなかった。

そうした愚痴が出るほどに、アイヴスでの指揮は見事だった。生で少しだけでも第二指揮者の指揮を見ると ― 第三指揮者はパーカッション付きで全く見えなかった -、この曲の構造がとても分かる。どんなに立派なHiFiを使ってもステレオ再生ではその表現に限界がある。確かに「千人の交響曲」においても発声源の奥行きが深まると各楽譜システムごとの差異が手に取るようにわかるようになるが、ここではパラレルで進む遠近感が、所謂オペラでバンダとされるものとは大違いの空間を生じさせるために不可欠な表現となる。合唱も思ったよりも小振りであったが、差異は良く出ていた。(続く)



参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-06-16 21:53 | | Trackback

グラデーションの綾

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承前)シマノフスキー作曲「王ローゲェ」にはその舞台に関して事細やかにその光の扱いまでが指示されているようである。今回の演出では男性の裸踊りも無く飽く迄も抽象的に扱われた故に余計にその音楽に耳が向くことになった。すると合唱は兎も角、ピットからはどうしてもそのアンサムブルの核と質が問われることになるのだが ― 現在の第二カペルマイスターの位置にはアシスタントとしてタケシ・モリウチと言う人が就任している ―、残念ながら市立劇場の管弦楽団は、ペトレンコ指揮のミュンヘンのアンサムブルの様には到底いかない。因みにキリル・ペトレンコは、ここで浪人中に新制作を二つも振っているが、こけら落としなどで余程のことでもないことには戻ってくることは無いであろう。

そもそも劇場の指揮者カムブレランの指揮の冴えもその域を超えないことから、例えばサイモン・ラトル指揮や先日ヴァイオリン協奏曲を指揮していたネルソンズ指揮のボストン交響楽団とは比較のしようが無い。なによりも物足りなく感じたのは、全音階であろうとも調性であろうとも、またはクラスターの響きであろうともそこでの管弦楽上の差異を付けれるようなアンサムブルには至っていなかったことで、同じ条件でもペトレンコが指揮を担っていたならば少なくとも三回目の上演となれば努力目標として解決可能なグラデーション付けへとまでは全く手が付けられていなかった。恐らくこの指揮者がSWRの交響楽団でも出来ていなかった面では無かったかと思う。それは終演後の指揮者への拍手を見てもよく分かったが、恐らく読響での様に鳴らしても本場の劇場の聴衆は殆ど喝采しない。その手の管弦楽が受けるのは日本におけるそれの需要の歪であって、同時に二流楽団ほどにはピッチの落ち着いたビックファイヴなどがそれほど人気が無い事にも矛盾していない。

しかしこのミストリウムにおいても情感的な裏付けが不可欠であって、さもなくば何も語りかけることも無く、こうした指揮者の劇場感覚がとても重要である。この指揮者を聞くのはザルツブルク時代から久しぶりだったが、流石にその指揮も並の劇場指揮者とは違い、確かに指示がよくなっていると感じた。

因みに、各放送局などの批評にもあるようにキャスティングに穴が無かったのも賞賛されている。特にタイトルロールのルーカス・ゴリンスキはこの役のエキスパートであり、ポーランド以外では殆ど歌っていなかったようで、来年にはコヴェントガーデンでのマルチェロなどが入っている。王の妻を多くはヴォカリーゼで歌ったシドニー・モンツェソーラも良かったのだが、牧童役のゲラルト・シュナイダーに役ごと喰われて答礼の順番を変えられて若干気の毒だった。その役作りに関しては、もう少し両性的なものが出ないかと感じたのは前夜に散々カウンターテノールを聞かされていたからかもしれない。

さて、オリエンティーリングにもあったように、この劇場作品のフィナーレを体験するとすっきりせずにもやもやした気持ちになるとしたのは、この楽曲における主題がオリエンタルな主題を散りばめ乍らも異国情緒とはなっていないことにも関係する多文化主義的な要素と、今回も小さな鏡が演出として使われていたがそれが自己投影するという創作動機がそこにあるからだ。

カトリック教会が国民統合の中心に君臨していて、今日現在のヴァルシャワ政府が教会を基本文化として仰ぐポーランド社会にとっては、ここに見る両性具有のような牧童が体現するエクスタシーは、その社会からすれば異物でしかない。異文化とするそのこちら側にはドグマティックなキリスト教文化圏からの窓が開いていて ― 舞台では背後の壁の上から牧童が手前で繰り広げられる様を覗き見るような演出になっていて丁度こちらからとは反対の視点が存在している ―、ここで主役の王ローゲェはそこに踏みとどまることになる。その視点の微妙さこそが、聴衆に訴えかけることとなっている。まさに今日のEUの視点をそのまま映し出しているからである。音響的なグラデーションがそこに求められている楽譜となっているのは想像が付くのではないか。

一つ空いた席の横に居た爺さんが、暗転から明るくなると同時に喉を鳴らしつつブラヴォー第一発を出していた。やるだけやって早めに席を立って帰って行ったので、その真意を聞くことは無かったが、ミュンヘンなどとは異なり劇場的な価値観がまたシュトッツガルトのアンサムブル重視ともまた違うものを感じた。

逆にそうした客層から、前晩のヘンデル作曲「ロデリンダ」公演の人気と、その公演最終日の聴衆の反応をもう一度思い出してみたい。「王ローゲェ」に比較して、どうしてここまで人気があるのか?ヘンデルのオペラの上演はどこの劇場でも日常茶飯であり、他のバロックオペラに比較すると若干ヘキヘキとする傾向があるぐらいだからだ。勿論今回は「ユリアスシーザー」以来のフランクフルト出演のアンドレアス・ショルの歌にクラウス・グートの演出という人気は無視できなかった。そして実際にその演出もとても後を引く印象を残した。(続く)



参照:
早くも秋の気配の夏休み 2011-07-22 | 暦
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
by pfaelzerwein | 2019-06-12 02:57 | | Trackback

沸々と、ああ諸行無常

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承前)第二部、今まで以上に音色旋律的な扱い方、つまりギーレン指揮の演奏などでは聞き取れなかった楽器間の動機の受け渡しがあって、それに伴う音色の出方が、可成り原色に出るところがあった。まるでそれが故マゼール指揮のように思え、それが演奏者のアンサムブル上の妥協なのかどうかは判断しかねた ― そもそもペトレンコがどんなに合唱付きの難しい楽曲であろうと当夜のようにアメリカ楽器配置にするなどは通常は考えられない。なるほどその早目のテムピと共に全く以って間延びするどころか、直ぐに次の緊張の線が描かれる。そして楽想、動機毎のイヴェントが築かれる。

罪深き女と罪を悔ゆる女との対照が明らかとなる。我々が思っていたよりもこの第二部はマーラーの名作であることがよく分かるところだ。そもそも第一部の展開部で明確に楽想を定義していたため、ここではそのセマンティックな展開を楽しむという知的にもとても高度な楽しみ方が出来て、まさしくゲーテの「ファウスト」というホッホクルテュ―アが展開される最高度の芸術音楽となっている。そこまで来れば到達先も見えてくるが、そこからが終演後にも話題となった愛の主題における歌いぶりであり、第一部のテムピの早さがあった故の余裕を以っての第二部内での大きなテムピ上のメリハリが可能となった。会場の方を向いて先ずはバルコン席の上の歌手を指揮して、最後に再び下の金管が深々と吹奏されると、もはやその三次元的な音響効果と共に付け加えるものの無いフィナーレとなる。まさしく諸行無常が大きく歌いあげられるのだが、その指揮振りの憎いこと。これに匹敵するほどのペトレンコの指揮は限られていて半神たる所以だった。ベルリンではまだ一度も見せていないからこそ、バイエルンでの様にはコッミシェオパー時の馴染みのように扱われて、まだまだ神になっていないのである。

ああした途轍もない大きなクライマックスは容易には築けない。なるほど途上のフォルテッシモではもう少し音が解放されればと思わないでもなかったが、緊張と緩和で十二分にコントラストが築かれていて、音楽的な効果は申し分なかった。楽譜を見れば気が付くように、マーラーの交響曲においては楽想の誇張によって咆哮したり情動的に泣きわめいているようでは、このように作曲家のペン先から紡ぎだされるような音響とはならない。その音楽から決して内声を聴くことも叶わず、それはグロテスクと陳腐さに終始する。

いつものように放送枠の関係から週明け月曜日から二週間に別けて放送されるようなので、先ずはそれでもう一度じっくり確認したい。余談ながら、昨年の第七交響曲は放送を待っていたのだがされなかった。許可が下りなかったに違いない。よって、その前に録音しているのは第五交響曲で、日本公演で指揮する準備ともなっていた。週明け月曜日の放送の予告はされていて、先ずは中止はなさそうである。オンデマンドもいつものようにあるが、残念ながらMP3の128kでは音質的に厳しい。

スタンディングオヴェーションは何度も経験したことがあるが、当夜のものだけが本当のそれだった。なにが違うか?近しいところではハイティンク指揮の演奏会後の一斉に立ち上がるそれであったが、その切っ掛けや間が全く異なった。多くの場合は前が見えなくなるとか、帰る序でに腰を浮かすかの両方の混じった形で徐々に殆どの人が立ち上がり、その間に座ったままのお年寄りがいるというような塩梅である。しかし今回は残響が鳴り止んで二三秒で拍手と同時に前列数列が立ち上がり、様子を観察した私がその二秒後に立ち、周りが総立ちになるのに更に二秒ぐらいしか掛からなかった。

そして管弦楽団よりも合唱団に、合唱団よりも独唱陣に更にペトレンコへと沸いたのを見てもそのスタンディングの意味するところは明らかだった。それが何回か繰り返されるコールの間座り直す者も殆ど居らずに永遠と拍手が続くのは嘗ての人民公会堂でもなかったほどである。そこで独唱陣が下がっても下がっても、更にまたふつふつと沸き上がる感じで拍手が継続されて、彼らが袖から出てくるのを待ち続けて更に盛大に拍手された。多くの場合は呼び出しの拍手へと移っていくのだが、ここではあくまでも静かに沸々と沸く感興だった。(終わり)



参照:
Radio Vorarlberg Kultur Das Konzert, ORF Voralberg, 27.5.2019
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
by pfaelzerwein | 2019-05-25 03:19 | | Trackback

身体に精神が宿るとき

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少しづつ気温が上昇してきた。印象からすると今年ほど涼しい春は無かった。このまま推移するとそれほど暑くはならないと予想する。空気が充分に冷えていて、陽射しの中でのランニングも気持ちよかった。当然月が替われば気温は上昇するだろうが、長袖が必要な五月は久しぶりだったのではないか?五月の気持ちよさが今一つで、六月、七月と快適だったらよいと思う。但し六月は例年の如くヴァインフェストで騒がしくなる。

承前)最初のハイライトであったドッペルフーゲに関しては既に言及した。フォルテシモの頭出しの付け方とアクセント、到底今までの演奏では出ていなかった頭出しとそのカノン、残念ながら合唱ほどには管弦楽団に十分なアクセントが付けられていなかった。全てはコンツェルトマイスターの責任だったが、楽団は実力なりにしっかりと弾いていた ― 最後の喝采において管楽器奏者も何人も立たせた、しかし同じ楽器群でも立たせない楽器の一番二番の奏者もいた、それはペトレンコがいい演奏をこそ誉めるという矜持であって、ラトルのだらしなさとは正反対である。こうした対位法的な扱いにおけるペトレンコの腕前は劇場でも何回となく経験しているが、劇場作品ではこれほど凄まじく立派な楽譜は無い。

しかし、今回の八番の恐らく最も成功していたのはそこへと繋がると同時に第二部の素材となる楽想や動機の扱い方で、私が注目していたのはこの交響曲の展開部に相当するところでのその力感である。早いテムポにおいて第二主題部を上手に運んだのは当然なのだが、この第一部においては誰が指揮しても降臨する第一主題部とその他の部分へのあまりにものコントラストが難しい。

そして展開部の流れの中で、特に既に第二部での準備となっているところは、なにも楽譜が頭に入っていなくても予習に繰り返し音源を聴いている耳には、ミサ的に「インフィルマノストリ」と聖霊(精神)が宿るのは明らかではなかったかと思う。それほどの場の劇性こそが、ペトレンコ指揮では、ギーレン指揮者や小澤指揮などと同じようには音楽が淀んだり流れてしまわない所以である。

管弦楽の実力も影響したかに思えたのは、今まで聴いたどのペトレンコ指揮の音楽よりも、ややもすると説明的に感じたからだ。つまり対旋律などの当て方がで残念ながら上手く出てこなかったところがあるからだろうと想像する。反面、主旋律がアクセントをもって出てくるので見通しが良過ぎるぐらい流れが分かり易い。この点に関しては一年後のミュンヘンの劇場での公演でも完成しようが無さそうなので、ベルリンでの演奏が待たれるところである。恐らくマーラーのこの代表的な交響曲の本格的な回帰へと繋がり、バーンスタインのルネッサンスを漸く乗り越えることが可能となるに違いない ― 晩年にもう一度振ることを拒絶して「何も新たにすることが無い」と敗北宣言を捨て台詞とした指揮者アバドの無能力さを改めて回顧する。

そして件のフーゲを超えて、更に大きな合一のフィナーレへ、勿論ペザンテからのテムポの運びも、どうしてもこうしたペトレンコ指揮の専売特許として注目してしまうのだが、例えば指揮者ヤルヴィなどだと地団駄踏んでギアを入れ替えるところを一瞬の体の屈伸で見事に大フィナーレと運んだ ― 例えると昔のミッションの五足ギアと、最新式の九足のフルオートの相違であろうか。第一部の残響が捌けたところで拍手が来るかどうかと構えた。最近の傾向からすれば大都市圏ならばここで湧き起ったと思うほどの圧倒的な出来だった。

しかし流石にそこはローカルな地方都市の住人であって、そこまでトレンドに影響されていない。明らかに一部のドイツの都市からすると聴衆の平均年齢も高かった。そこに楽譜に指示があって、ヴィデオで見るロート氏のように会場を振り返って受けを狙わないのは当然だが、兎に角早い動きで大指揮をしたので汗だくだったようだ。いつも以上に長い時間を掛けて汗を拭いていた。(続く)



参照:
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-05-24 19:14 | | Trackback

宇宙の力の葛藤

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イヴェントでグスタフ・マーラー作曲「千人の交響曲」が演奏された。演奏規模として最大級のものであり、この名前が付けられている。待ち構える満席聴衆の前に表れたのは合唱団からで、最初から拍手が送られたために合唱団が一通り並ぶまで絶え間なく拍手が続けらて、管弦楽団がまた大きいので長い強い拍手が続いた。途中で止められないのも身内がいるからかなとも思ったが、どうもその拍手の大きさが違った。

そして330人へとなる独唱者陣がぞろぞろと出て、最後に指揮者のキリル・ペトレンコが出てくると更に活気が付いた。地元の定期が核になっているにしては「待ってました」という感じでもなかった。そして指揮台に上がると勿体付けることなくいつものように上段に上げた手を振り下ろした。すると、それまで、どうだこうだと想像が吹っ飛ぶ。やはりぺトレンコが読む楽譜と我々が聴いていたりして想像する楽譜の風景とは何時も異なるのである。そもそもその通りならば態々出かける必要もないのだ。

最初のVeniの前奏からして異なる。その音響もあるが、そこで影響しそうなメディアが伝えるこの演奏会でのその特別な場のそれではなく、とても毅然とした研ぎ澄まされた響きだったからである。前回の放送で聴いた第五交響曲においては最初がトラムペットでのソロもあって、ナイーヴさもあり、続く葬送行進曲も弦を鼓舞するかのような指揮振りだったが、今回は曲想の違い以上に練習の成果も見えた。しかし同時に前日にTVインタヴューで見た通りコンツェルトマイスターの実力はとても限られていて、楽団の程度がそこに反映されていた。なるほど音取は管と単独で合わせて、それを弦のトップに次いで、更に後ろにまで特別に聞かせるというような雀の学校のようなやり方をしていたが、例えば嘗てのシカゴのような低弦から合せていくというような哲学は見えなかった。

比較すれば、如何にも同族的ななれ合いの響きがする斎藤記念などの音響が特殊なのである。往路では小澤征爾が指揮したタングルウッドでの録音を聴いていたが、思ったよりも静的な指揮で、それゆえに楽譜が見えてくるところもあって面白かった。その意味からすれば、ペトレンコ指揮がどこまでもの楽譜の音化つまりミヒャエル・ギーレンの「この曲では音響を形造るところが指揮者の何よりもの仕事」がそこで実証されていた。

それにしてもここまでの激しい音響は今まで誰も想像しなかったに違いない。弦楽器はチェロだけで10艇もあり、通常以上に合わせるのは難しかっただろうが、明確に拍毎の音響が出ており、大きな破綻が無かった。その分、この楽譜ではとても激しいことになる。特に展開部のフーガの辺りは、大管弦楽団で様々なものも聴いてきたが、ペンデレツキなどよりもある意味厳しい音響となっていた。なるほど作曲家自身がこれほど難しい曲がなぜこう簡単に人気を博するのだと不満げに訴えていたのもこれで理解できよう。如何に平素の演奏では、そうした激しい対立がずらされることで誤魔化されているかが分かる演奏で、惜しむらくは対位法的な対旋律の線が綺麗に繋がるには管弦楽が明らかに非力であった。

兎に角、想像以上にテムピも早く、この第一部における力感、つまり聖霊の降臨からそれへの対峙としての二部の「ファウスト」に繋がる宇宙の力の葛藤が対位法的に描かれている訳だが、ここまでその対位を明確に響かさないことには何も表現されないのに近い。作曲家自身が、若いブルーノ・ヴァルターとオットー・クレムペラーを助手にしてミュンヘンのフィルハーモニカーの前身を指揮して、歌はヴィーンから楽友協会ライプッチッヒからと寄せ集めても叶わなかったに違いない。

その合唱団がとても健闘していた。初日には控えめだったという少年少女合唱団にも特別にペトレンコが鼓舞していたので全く問題は無かった。ミュンヘンでは劇場の自前で行くのだろうが、ザルツブルクからの大人の合唱団と共に、ミュンヘンの初演でも楽友協会を引き連れたように、とてもいい結果となった。

しかしなによりも新聞では「まるでバイロイト級のペトレンコが選んだ歌手陣」とあったが、過剰な表現と思ったが、確かに今まで知るクラウディア・マーンケよりも声が出て存在感もあり同時に技術的にも安定していた。感心していたのだが、ミュンヘンのマイスタージンガーで批判されていたヤクビアックに代わって入ったサラ・ヴェークナーは発見だった。今まではケント・ナガノ指揮などで歌っていてオペラは少ないようで、今年東京でリゲティで登場するようだ。なるほどヘルヴェッヘで歌っているのでフランクフルトで聴いている筈だ。そして表情もあるのだがなぜかオペラ界ではそれほどキャリアを積んでいない。この人が放つまさしくプンクトな一声は第二部でも光を放っていて、トッティーの中でも通る声は私の知るソプラノの中では最強だった。(続く



参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-05-20 20:30 | | Trackback

忘却とは忘れる事なり

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承前)日曜日のショパンについて書き留めておかなければいけない。ゆっくり楽譜を見ながら歴史的録音を比べてとか思っていたが、いつものことで到底時間が無い。マルカンドレ・アムランのリサイタルは来年行くので、手短に感想としておこう。

バーデンバーデンでのガイダンスがとても程度が高く充実していたことについては触れたが、その内容はとても示唆に富んでいた。講師はポーランド人なので、ショパンとなると何時にもなく熱が入った。全体のプログラミングに関しても言及していて、若書きと最晩年の作品が合わされたという特徴を伝えていて、一曲目のベートーヴェン最後の四重奏曲と同様にファンタジーポロネーズを扱った。正直ショパンを自分で弾く訳もないので、ただの名曲でしかなかったが、それどころかショパンの作品で最も重要な曲だと言われて驚いた。

つまり簡単に聞き流してしまえばそれだけの曲でしかないが、下降線におけるあまりにも大胆な和声展開のはじまる最初の変ハのアコードからの、それに続く分散される音形、一体それはなにか、一向に表れないポロネーズのリズムの主題。それが謎解きされる。

つまり下降形でアコードとくるところが追憶となる。そしてなんとそのあとの分散音形をして泡だという。泡、このポーランド人が勝手なことをと思うと、洗礼だと断言した。すると当然、前の下降は水に浸けられて、丁度「青いサンゴ礁」のブルック・シールズが水に潜り、そして浮かび上がるときの泡である。なるほど潜在意識化にあるカトリック信者の若しくは人類共通の羊水の中の記憶かもしれない。ここまで聞けば如何にこの曲が通り過ぎる中で何が起こっているかに気付かせてくれるが、本当だろうか?

二つ目の主題、そしてポロネーズが漸く出てくる。実際、この主題やらトリオに出てくるそれなどが気に成っていたのだが、コラールなどだけでなく、繋ぎが挟まれるところで不明確になると同時に終止形が置かれ曲としての体を整えている。それがどのような意味を持つのか、要するにクラシックな叙述法からすれば一体何だと疑問が呈されるところで、次のように説明された。

だからロマン派と美学的にされるところで、丁度当時の小説類を比べてみたらよいというのである。つまり、ポロネーズという主題が曲の途中から消えてしまうのだ、それは主人公が途中で死んでしまう話しと同じで、その為の展開の準備やドラマテユルギー上の工夫がそこで為されていて、一番単刀直入なのは読者につまり聴者に主を忘れさせることなんだという。全くクラシックの技法とは反対で、忘却から次が展開する。

そこで、大名言が発せられる。反クラシックつまり反啓蒙思想の忘却の話法となる。つまり、「過去に覚えが無いことには習わない」、思わず声が出そうになった。歴史認識、その流れをはっきり把握して構築的に合理的に、指揮者のブロムシュテット爺ではないが、今日より少しでも素晴らしい明日があるという希望とその態度こそが啓蒙の思想であり、そこでは人々は少しづつ開眼されて、覚醒して賢くなっていく。浪漫的とはその反対で、覚醒してはいけないのである。いつも眠っているのである。それどころか忘却の彼方へとひたすら歩むのである。勿論ポロネーズというような舞曲はポーランド人にとっては潜在心理のような土着の心理に働きかける要素である。

日本人がドイツのホッホロマンティックに明け暮れる信条は、見ざる聞かざる言わざるの三重苦の人生観と世界観でしかない。その日本市場でベートーヴェンが演奏されて好まれるという矛盾はここにあり、正直未だにその人気の秘密が私には分からない。確かに何もかもを忘れるための音楽需要と言うのもあったような気がする。

さて、肝心の演奏はどうだったか。今ホロヴィッツのややデフォルメが過ぎる演奏と比較してルービンシュタイ演奏の細やかな感情の襞のようなものは嬉しいのだが、やはり惚けるところ少なくなく常時忘却へと進みそうである。その点アムランのピアノはやはり飛び切りの名人で極力歪になるのを避けていてペトレンコの指揮に相当するような拘りが激しい。要するにあるべき音符を正しくその語法の中で鳴らせば真意は自ずと伝わるという按配でペトレンコも以前は仏頂面の指揮をしていたらしい。

そして、座ったまま拍手をさせずに二曲目へと少し間をおいて進んだ。スケルツォである。こちらは更にその傾向が強く、あまりにもの音符の波に暫し忘却の彼方へと睡魔が押し寄せてきた。フモーアを超えて夢魔である。こうして当代を代表する名人の演奏を聴くと如何に普通のピアニストが楽譜を土台に自己表現にばかり鍵盤を鳴らしているかが分かる。その鍵盤での自己表現のセンスがよいかどうかだけの相違である。

ガイダンスに戻れば、これはと言う面白いことを言った。メモは取らなかったが、その意図を考えると気持ちよかった。このような超名人を祝祭劇場のマティーネーに迎えることは殆どなくて、それもアムランがとなると待ち遠しくて待ち遠しくて溜まらなかったのだという。本当にLangLangだったのだと言った。恐らく、当日の聴衆の半数ぐらいは先日のランランのピアノを聴いたであろう。本当の名人を待ちわびたというのがその旨だった。確かに笑い話にしかならないピアノだったが、あれでも何だかんだと書く記者がいるのだから、全ては忘却へと深い眠りへと沈んでいく。(終わり)



参照:
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
悦に入る趣味の良さ 2017-03-09 | ワイン
by pfaelzerwein | 2019-05-14 21:27 | | Trackback

楽章間拍手が意味すること

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ベルリンからのSACD発送の知らせを金曜日に受けた。結局それだけでDHLのピックアップは週明けだろう。こんなことならコードも何もついているならjpcで買ってやればよかったと思って、サイトを見る。同じ価格で国内送料無料だが、一週間ほどかかるというから、こちらから注文が入ってからベルリンへ注文するということだろう。しかしそのおまけに関しては言及がない。それならば手を出さない。

面白いのは、購入者の批評で、「その場にいたが、評判ほどの指揮者で無かった」こと、「普通の出来だった」ことで、「チャイコフスキーもびっくりしないチャイコフスキーだ」と厳しい。そもそもこの人がどこでどのように評判を聞いて来たのかと思うが、概ねはサイモン・ラトル指揮のつるつるのサウンドでアインザッツの揃った管弦楽に期待して絶賛する手合いの人だと直ぐに分かった。確かにあれをよしとする人ならば、ロンドン交響楽団でも十分であり、残念ながらそれではラトルの音楽をもあまりにもつまらなくしていて、丁度ジョン・アダムスに感動する人たちとの重なりが殆どではないかと思う。

タカーチ四重奏団とアムランの演奏会は思いの外よかった。まず驚かされたのがガイダンスで、名人のトップ四重奏団だから、ピアニストのトップとの名人同士の共演だと紹介されたことだ。タカーチが三十年以上のキャリアーであることはしばしばその名前を聞いているので驚かないが、長いキャリアの中でそこまでの四重奏団とは一度も聞いたことが無かった。これには疑心暗鬼だった。そして今はハンガリーでなくアメリカの四重奏団だというのは冷戦後には有り勝ちなことなので、そうかと思っただけだ。写真で日系の女性が第二ヴァイオリンを務めていることも分かっていた。

そして一曲目のベートーヴェンの最後のヘ長調のOp.135を弾きだした。先ず何よりもこれは駄目だと思ったのがヴィオラの婆さんで、写真とは異なり、完全に年長組である。ヴィオラが外側でギコギコするのはいいが、何か固い。身体が固まっているようでぎこちない。細かな運弓が出来ていない。これはやはり駄目だと思った。この程度の弦楽四重奏団は幾らでもいると思った。しかし意外に日系の女性が爺婆に混ざった分写真よりも遥かに若く見えて、実際に音を聞いていても弾き方を見ていても、まるで老人ホームで働いているきびきびした若いスタッフのようにしか思えない。若い血の影響もあるのが楽章が進むにつれて、創立メムバーのチェロの爺さんも婆さんとの合わせ方が精妙になってくる。

なるほど世界的に一時は有名だったが、合わせ方が西側のそれとは大分違う。チェコのそれとも違っていて、一時はそれなりに売れていたのも分かった。チェロもそれほど胴音を出さない程度に制御されていて、なるほどと思うところが出てきた。一概にオールドファッションとは言えないが、アルバンベルクカルテット以前のヴィーンのそれらに比べれば完全に名人であろう。ズスケカルテットのような引っ張られるタイプでもなくて、創立メムバーとは異なっていてもある程度その塩梅が感じ取れた。そうこうしていると、温まって潤滑油が効いてきたのか、婆さんのヴィオラもそれなりに味を出すようになってきた。

お目当てのアムランのショパンの後で、プログラムのメイン曲ドホナーニ作曲弦楽五重奏曲ハ短調が演奏された。15歳の時の若書きであるが、中々聞かせる要素がある。何よりもアムランの上に下にのピアノが曲をしっかりと支えていて、精妙な合わせものとなった。そもそもこの四重奏団のアンサムブルからすればこうした五重奏曲の方が成功する。四重奏団が中々ほかのフォーマットでは力を発揮しないのとは異なり、この組み合わせは確かに世界を代表するとしてもなるほど言い過ぎでは無かろう。その証拠に一楽章が終わると拍手が来た。奏者も驚いたようであるが、その価値がある演奏だった。最近は室内楽でもなんでも楽章間に拍手があるかどうかが、曲によってはその演奏の出来のバロメーターになっている感じがある。要するに拍手している人がフライングしたという感じは全くなかった。

そもそもこの会に楽章構成の分からないような人はあまり来ていないと思う。それどころかガイダンスも完全に楽曲分析から美学的な意味づけにまで時間を延長した内容で、完全に音楽の通に向けての内容だった。その内容の程度以上に、四百人程度の聴衆に対して数十人が朝早くからのガイダンスに集まるその知的程度の高さに驚いた。

往路車中で考えていたのは、一体どのような客層がやってきて、復活祭のそれとどのように重なるかであった。逆に、日曜日の朝から詰めかける客層は今後の復活祭の核になれる層で、同時に今までの支配人体制には不足があった層であるに間違いない。(続く



参照:
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-05-12 23:26 | | Trackback

聖土曜日のレクイエム

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聖土曜日の奇跡だった。マエストロ、御免なさいと言いたい。リカルド・ムーティが最初の「アイーダ」の録音で大成功して、結局そのLPを買いそびれてしまっていた。しかし、このナポリターノの本筋はヴェルディのそれも後期の作品群だった。だから他のレパートリーではとても追いつかない境地を聴かせてくれた。手元にはそのLPも無く、CD類もあまりない。デビュー以降それほど決定打となっているヴェルディの録音も知らない。

しかし今回、前回この曲を聴いたベルリンのフィルハーモニーでカルロ・マリア・ジュリーニが指揮した1986年のベルリナーフェストヴォッヘでの演奏の記憶と比較すれば明らかだった。あのジュリーニよりも遥かにヴェルディをものにしていて、細部まで知り尽くしているのは明らかだった。そしてあのフォン・カラヤン時代よりも遥かにフィルハーモニカーのフレクシビレィティーは比較にならないほど高い。

往路のオンデマンドの一回目の録音を聴いて直ぐにダイシンがコンツェルトマイスターと分かった。彼が率いると弦楽陣は一ランク上がる。例えばフィラデルフィアのキムとの差は明らかで、弦楽陣の表現力が完全に上回っている。シカゴ交響楽団の演奏で聴いた日本の人には悪いが、何もガランチャが歌う歌わないだけでなく、到底その管弦楽団の表現力は比較にならないほど高い。またカラヤン当時の管楽陣と比べても全く引けを取らない。当時木管にもライスターやコッホなどがいたと思うが、今もパウが吹かないでも決して悪くは無く、金管はむしろ今の方がいいと思う。

兎に角、あれだけの表現を出来る管弦楽団は座付でもなくシカゴやフィラデルフィアでないことは確かであり、ジュリーニ指揮の時にも感じた中低声部の素晴らしさは、ここに来て磨きが掛かり、高弦も完全に新たな次元に入っている。弦楽の表現力ではもはや世界一であろう。チェロ陣が弾いても胴が鳴らないあの精妙さには恐れ入る。カラヤン時代の12チェロよりもいい。

ホルンのドールなどが細心の注意で如何にベルカント表現についていくかに熱中していて、トラムペットの弱音の妙技やトロムボーンなど往時のシカゴを抜いてきている。もう少しだけ木管とのアンサムブルが出来上れば、全体のサウンドが出来上ると思う。もう一息である。

それにしても期待のガランチャが一回目に比較して声を押さえていて、その分レクラメの集中度が上がり、またテノールのメリの声が上に出て殆ど神懸っていた。今までパヴァロッティ以外はいいテノールも生で聴いていると思うが、イタリアの最高のテノールの声だった。あれだけで金を取れる公演だった。バスはバイエルン放送協会の合唱団と同様、充分な出来だっただけでそれ以上ではなかった。ガランチャが抑えた分ソプラノのイエオの朝鮮人らしい泣き節がイタリア文化にとてもマッチした。それにしてもメリの歌には指揮者も反応して歌わし切ったという感じで、中々ないことだと思う。

今回は予想通りカメラが入っていたのでラディオ中継と共に記録として残ると思う。恐らくムーティの指揮の記録としても残るだろう。一回目と比較すると最初は若干自由度が高く荒れ気味な印象があったが、管弦楽団とソリスツの音楽がお互いに干渉しながらより精妙な表現へと向かっていった。レクイエム・キリエが終わって拍手が起こりだしそうになったのもちょっと異常な感じだった。(続く)



参照:
聖土曜日の準備へと 2019-04-19 | 暦
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-04-21 06:11 | | Trackback

METを超えたオペラ

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承前)バーデンバーデン復活祭、前半を終えた。可成り疲れた。来年は日程的に更に厳しくなり、それが毎年続くようになる。

メータ指揮「オテロ」二回目公演を初日に続いて観た。文字通り空いていた、233ユーロの席に59ユーロから自主無料アップグレードした。来年は叶わないだろう。その差は何か?先ず演出を正面から観られることで、音楽的には一長一短かもしれない。少なくともコンサートにおける優位性はオペラでは音楽ファンには無い。オペラをその席で観るのは初めてだったので、メモしておきたい。

前列には地元のギムナジウムの生徒たちが一列陣取っていたが、希望者だけに格安で毎年出しているのだろう。これという女子生徒がいなかったので声は掛けなかったが、幾ら出しているのか興味が湧く。私が親ならば60ユーロは出してやろう ― 自分の払った額である。それ以上かというと、例えばミュンヘン劇場でその額を出せばそこそこのものが楽しめるからだ。実際に今シーズンからU30というのが半額扱いなので30ユーロで充分である。

さて一長一短は最前列ならばピットへの左右の視界が効くが、二列目以降では前の人によっては効かなくなる。音響的にも舞台上の管弦楽ほどには響かない。同様な例は、前日に一階ザイテンバルコンで話されていたように平土間でも舞台上の奥の管弦楽団後列へは同じような状況がある。

さてその舞台、初日と異なっていた。細かなことは曖昧だが、先ずは指揮者のズビン・メータが初日には歩いて出てきて間延びして拍手が割れた。改めて後ろ向きに拍手を浴びてから暗転となり幕が上がりプロジェクターの巨象の前に小象が舞台で横たわっていた。それはサイドからは舞台の上と背後のプロジェクターの差異がハッキリしなかった。しかし、今回は最初から入っていたので、ウィルソンが零しているようなざわざわ感は無く、比較的映画館のような緊張感が保たれた。これは修正点で、その他も手の動きや動作が初日よりも明白になってメリハリが付いた。少なくともサイドからでは合唱団のまるでセラーズの演出のような手の上げ下げは印象に残らなかった。私が指摘した通りに修正したのかもしれない ― 全て予の思うが儘である。

しかしそのメリハリを付けたのはドラマチュルクの仕事かもしれないが、それ以上に別人のように指示を出したのは指揮者だった。体調不良で代わりにペトレンコが入ったのかと思うほどの変わりようだった。音楽的には、ダイナミックスやテムポも遥かにコントラストが付けられても、アゴーギクでアクセントをつけるペトレンコ以上に安定していたかもしれないが、技術的に全く宗旨変えしたほど変えてきた。所謂オペラ劇場の職人的なキューを出し始めた。

逆に初日に何一つ必要なキューを出さずに棒も最小限にしか振らなかった意味は不可解であり、健康状態ではありえない豹変ぶりだった。恐らくベルリナーフィルハーモニカーを舞台で振るならばあれで通ったのだろうが、歌手の間合いなどをはかると直ぐにフライングしかねない交響楽団を甘く見たのだろう。ピットに入る交響楽団はロスぐらいで経験がありそうだが、どうなんだろう。要するに舞台上へのキューを殆ど出さなかったのが始終出すように変えてきた。また同時にピット内にも小まめに出しようになった。流石にブーを出されるようになったフィルハーモニカー側からも確認の一言があったのかもしれない。流石の同じところではフライングは無くなったが一か所だけ前のめりになりそうだった。あれは歌手の間合いを取れなかったのだ。しかしパウ、マイヤー、フックス、シュヴィンゲルトらが下手に、上手にはドールらが一生懸命に合わせようとしている、イングリッシュホルンのヴォーレンヴェバーの妙技など、必ずしも前日のオテンザムマーなどの個人の実力は評価できないのだが、また弦楽陣の鋭い表情と彼の世へと上り詰めるときの表情とともに合奏として表現しようと学ぶとき、もはやどこの座付管弦楽団も手の届かない境地へと至る。

実際には、スケルトンが完全に復調していて、恐らくこの程度でないと到底METで主役は貰えない。なるほどピッチのためか最高音では若干厳しいところもあったが、外にも練習が聞こえてたように三幕の叫びなどは上手くこなしていた。カウフマンとは異なって中音域での幅の広さが役に合っていて、最高域でさえ上手く運べば当たり役だった。少なくともトリスタンとは違うのだが、共演もバカ声のウェスブロックや素人オペラ指揮者のラトルとは違って、とても良い刺激と支援を受けていた。そのヨンチョヴァは初日では新聞に書かれていたように緊張からか喉が詰まっていたが、解消していて、一か所だけが厳しかった。それでもそもそもの技量が違って、管弦楽はこのデュオを潰さないだけの伴奏を一生懸命していた。要するに、少年少女合唱団までを含めてメリハリがついてきた。ヴィーンの合唱団も圧倒的だった。(続く)



参照:
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-04-17 23:23 | | Trackback

フランクフルトにやってくる

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ベルリナーフィルハーモニカーのティケットを購入した。来年2月20日のアルテオパーでの公演だ。先に発表されたハノヴァーと同じプログラムのようで、ブラームスの「悲劇的序曲」から始めて、ベルント・アロイス・ツィムマーマンの「アナゴアーナ」休憩後にラフマニノフ「交響的舞曲」で〆る。上手く行けば初の国内ツアー公演なのでアンコールもあるかもしれない。比較的名曲プログラムだが、我々ペトレンコケンナーとしては可成り手強い。

今もフランクフルトのバッハの会員なのだが、それゆえにアルテオパーの催し物一斉発売の時に手を付けたことは一度もなかった。だからスクロールしていると欲しい出し物が出てくる。先ずは会主催のヘルヴェッヘ指揮のゲントのアンサムブル50周年記念公演である。これも外せない。そしてフランクフルトで行くことに価値がある。それは楽団との関係でもあり私もそこで色々と教わったからである。元々はアルフレッド・ブレンデルのリサイタルシリーズが目当てだったのだが、目ぼしいバロック奏者や歌手は一通りそこで聞けた。その間、大管弦楽団の演奏会は横目に見ていて単発でバーデンバーデンを中心に出かけていたぐらいだ。

そして今回、キリル・ペトレンコ指揮の初のツアー先として先ず手を付けた。他にどこを回るか知らないが、バーデンバーデンは無いので、近辺では精々シュトッツガルトかルクセムブルクだろう。後者の場合は音響的に考えるが、異なるプログラムでなければ前者のリーダーハレにまで出かける必要もない。有難いことである。更に入場料金も比較的お得で、音響にも全く問題が無いどころかどのように鳴り渡るかとても楽しみだ。

因みに二千人以上を開放するのはヴィーナーやベルリナーなどそしてラトル指揮ロンドン交響楽団、ユロウスキー指揮ロンドンフィル、サロネン指揮フィルハーモニアなどで、他の所謂一流下の管弦楽団はゲントのアンサムブル同様後ろを閉めて千数百人規模で公演する。ヤンソンス指揮BR放送交響楽団、フルサ指揮バムベルク、バーミンガム響、ティーレマン指揮シュターツカペレドレスデン、パパーノ指揮サンタチェチーリアなどは入らないからだ。ヤルヴィ指揮ブレーメン室内管のベートーヴェンツィクルスが大会場を四晩も抑えているのはレパートリーや企画性もある。

余分に購入したのは後任のミュンヘンの音楽監督ユロウスキー指揮のロンドンフィルハーモニで、ショスタコヴィーッチの11番とプロコフエフのピアノ協奏曲三番である。暮れのために買ったベルリンの放送管弦楽とはまた異なるものを聞いておきたかった。常連であるが前回は名曲プロで更に高価だった。今回は30ユーロでお手頃価格になっている。

ベルリンからの中継、初日を聴いた。先ず何よりもシェーンベルクがよかった。予想そのままで、コパンチンスカヤの独奏に寄り添う形がとられたが、あまりにも立派だった。手元のメモには10ヶ所くらいのポインツがリストアップしてある。殆どは肯定的な点である。二楽章の独奏も素晴らしく、カデンツァも特に三楽章のそれは聴き直さないといけないと思う。それ以外にもアダージョに入る前に思い切ったアッチェランドを掛けていて、恐らくこの曲の演奏史上最も表現が強かったと思う。

しかし何よりも声を上げてしまったのは、そのテーマが綺麗に透けて浮かび上がってくるところで、休憩時間に流れた独奏者のインタヴューではないが、本来ならば執拗に一定のテーマが聞こえてはいけないのだろうけどとはいうが、あの黄金の牛のようなメロディーなど重要なテーマは幾つかある。しかしそれが対位法の網目を通して浮かび上がると声が出てしまう。

流石にこのような網の目の浮かび上がり方はミュンヘンの座付管弦楽では難しいなと思った。それでも独奏者が語るようにペトレンコの魔法のような付け方であって、要するに彼女も驚いているのは確かだ。その一方入念に合していなかれば到底不可能な運びもあって、やはり昔の同窓生同士でよく打ち合わせが出来ている。

第一ホルンにリハーサル風景を見るとミュンヘンのデングラーが座っていたようで、最初に独奏者が登場してのオーボエの音合わせも含めて、大きな影響を与えていた。まさしく彼のホルンの音こそがキリル・ペトレンコが求めるベルリナーフィルハーモニカーの音だと思う。それは独歴史的伝統配置には必要不可欠なサウンドである。朝のベルリンの放送局での批評もその木管、金管のアンサムブルに言及していて、まさしく新生ベルリナーフィルハーモニカーに求められている世界クラスのアンサムブルなのである。

チャイコフスキーの五番に関してはとても名演ではあったが、確かにアゴーギクもシャープに入っていて、更にここまでやるか、根拠や何処にというのもフィナーレ前にあったが、まだボンでの名演には至らなかった。要するにまだはまっていないところがあって、手兵にはなっていないからだろう。土曜日に期待したい。



参照:
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音


by pfaelzerwein | 2019-03-09 04:05 | | Trackback