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いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
都合のよいアルコール 2017-10-30 | ワイン
ふらふらする冬時間始まり 2017-10-29 | 暦
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
腕次第で高くつくかも 2017-10-26 | 料理
広がるリビングからの視界 2017-10-25 | 生活
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活
世界に憲法改正へ速報 2017-10-23 | 雑感
「三部作」お勉強の下準備 2017-10-22 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
阿呆のメニューを公開 2017-10-20 | 料理
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
黄金の10月に一杯 2017-10-18 | ワイン
針が落ちても聞こえるよう 2017-10-17 | マスメディア批評
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
無いとなると想う有難味 2017-10-14 | 雑感
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
教養ある世界一の聴衆 2017-10-11 | 文化一般
なによりもの希望 2017-10-10 | 歴史・時事
嘘のベーシックインカム 2017-10-09 | 雑感
ブラームスの交響曲4番  | 音 2017-10-08
BIのユリノミクス? 2017-10-07 | 歴史・時事
カズオ・イシグロで馴染み 2017-10-06 | 雑感
トップニュースは柏崎刈羽 2017-10-05 | 歴史・時事
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
統一の日に為すこと 2017-10-03 | 暦 TB0,COM2
想定を超える大きな反響 |  マスメディア批評
「働けども働けども」の独逸 2017-10-01 | 雑感

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by pfaelzerwein | 2017-10-31 20:33 | INDEX | Trackback

いぶし銀のブルックナー音響

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承前)初演をしたゲヴァントハウス管弦楽団の奏でたブルックナー作曲交響曲七番ホ長調の響きは正真正銘のブルックナーサウンドなのだろうか。

一楽章の再現部で、第二主題が展開されるとき、木管や他の弦とカノンするヴィオラに魅了されてしまった。これに近い弦楽部を聞いたのはシャイ―指揮のコンセルトヘボーぐらいで、ベルリンのフィルハーモニカ―のように自己主張するまでもなく、しっかりと和声の中声部を支えるだけでなく、これだけしっかりと仕事を果たしているヴィオラ群を聞いたことがない。そしてその合わせ方がまた座付き管弦楽団風なのだが、その響きの鋭さとアンサムブルはヴィーンやドレスデンの座付きとは異なる交響楽団のそれなのだ ― 英ファイナンシャルタイムズ紙などは、この特徴こそはブロムシュテットの後任の前監督シャイ―がなしたものだとしている。

そしてシュターツカペレとの録音とも最も異なっていたのは、デミヌエンドから続くコーダの「アラブラーヴェ」のテムポである。まるでチェリビダッケ指揮のそれのように十二分に落として大きなクライマクスを築いて、もうこれだけで十分と思わせるぐらいだった。

同じようにアダージョ楽章の三拍子モデラートの第二主題の第一ヴァイオリンでの旋律の繰り返しの歌いまわしは今までの録音よりも明白なイントネーションを与えていた。殆ど具体的な意味を持っているかのようで興味を引く部分で更にそれが繰り返されている。

また再現部でのブルックナー特有の第一主題を中心にしたクライマックスへの昇りでも ― やはり当日のガイダンスで、蒸気機関の大きな弾み車が一つ一つと回転を増して行き雪だるま式に巨大な確信へと昇り詰める、これが特徴であるとした ―、ヴィオラが楽章冒頭にも現れた付点四分二桁符八分の動機を管との間でユニゾンで合奏するのだが、これがまた絶妙なのだ。その他の弦とのバランスの良さは指揮者が簡単に作れるものではない管弦楽団の合奏能力でありサウンドである。かつて日本公演などでも「いぶし銀の響き」と称されたが、まさにこのことだったのかもしれない。そして、例の「ヴァークナーの葬送」がテムポを落として奏される。このデミムエンドに続くテムポ設定に関しては楽譜を見ていてもよく分からない。

三楽章のトリオは更に美しく、管と弦が別途に合奏をするのだが、ここでもヴィオラを中心に弦の織りなす綾の美しさは、まさしくこの楽団の弦楽四重奏団のある意味古典的な最上のアンサムブルを弦楽合奏に拡大したように上質なのだ。正直全く想定以上の高度な演奏だった。このような弦楽楽団奏を聞くのはいつ以来のことだろう?

終楽章の第三主題部の練習記号Kからのヴァイオリンの先端でのボーイングとまたヴィオラの同音進行がこれまた効果的でそのあとのトレモロがとても活きてくる。弦楽ばかりについて称賛したが、管楽器も、決してベルリンのそれのように名人技で例えばホルンが楽曲を先導するようなことはなく、そのような輝かしい響きではなく飽く迄も地味で座付き管弦楽団のような響きで以て、しかしとてもコントロールされていて、ヴィーンのチャルメラオボーエや派手な響きを奏でることもない。勿論先日のミュンヒェンでのそれとは全く異なるのはやはりコンサートホールのホームグラウンドの響きがあるからだろう。まさしく嘗てのゲヴァントハウスを東独時代に日本の青木建築が新しく建てた空間で養われた合奏が管と弦の間でも銀糸のように織られていたのだ。

備忘録のようなことばかり脈略のないことを書いたが、再びコンサート前のガイダンスに戻ると、ブルックナーの楽曲構成についてのおさらいとなる。その対位法的な主題と動機の扱い方に関しては改めて目新しいことはなかったが、用語的に各楽章の主題が最初の一分ほどかかる第一主題の反行のみならず韻律上の変形であり、そのデモフォルメであるとの意識を広げた。

更にいつもの解釈であるが、ブルックナーの三つの主題の三位一体の構成感にも思いを巡らす。そこでは既に扱った例えば第三主題などのリズム的にも旋律的にも廻旋する動機の扱いが繰り返される度に、丁度弾み車が螺旋を描いて大きく広がっていく様こそが、産業革命後の蒸気機関による世界秩序の新たな創造という信仰的な信念から導かれ、その典型的な表徴として19世紀の工場の教会を形作った建造物が挙げられる。またあの爆発的な音の束縛からの開放こそは、人力を超えた力の表徴であるということになる ― これは先頃の合衆国からの論文におけるマックス・ヴェーバーから導かれるブルックナーの社会的危険性ともなる。その点を理解するかしないかがブルックナーへの愛好の大きな分水嶺になるというのも面白い見解である。そしてそのような工業との繋がりというよりも、音の開放自体がもはやグスタフ・マーラーには表れないというのもとても興味深いだろう。

そこで最初の命題に戻ってくる。「ブルックナーの響きとは」となり、今まではヴィーナーフィルハーモニカーのそれが本場ものと考えていた。しかし、上のような音楽的特徴をあの楽団が表現出来ているかというととても否定的にならざるを得ない。そもそもその表現力を身に着けていない。その意味からすると、ブロムシュテット指揮のブルックナーは隅々まで納得が行くものであり、その表現をドレスデンのシュターツカペレよりも正確に交響楽的に表現できていたのは、このゲヴァントハウスの管弦楽団である。今までブルックナーの交響曲を何度も生で聞いてきたが、ここ十年ほどでもメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカー第八番、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―第四番、ギーレン指揮SWF第九番、ティーレマン指揮シュターツカペレ第五番、そして五月のヴィーナーフルハーモニカ―第四番など、そしてこれほど充実した交響楽を満喫したことは一度もなかった。

何よりもベルリンでは期待できない音色であり、シュターツカペレでは聞けない交響楽的なアンサムブルと、楽譜を読み込んでいる卒寿の指揮者の実力に他ならなかった。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はブルックナールネッサンスに近いと思う。それほど立派なものである。

もしキリル・ペトレンコ指揮からこれ以上の効果を期待しようと思えば、やはりフィルハーモニカ―の音質を充分に深みのある音へと各々の楽器が努力していかないと駄目だと思われる。サイモン・ラトル指揮のブルックナーはとても素晴らしいと思うが、この点で明らかに物足りなかったのであった。(終わり)



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-30 21:13 | | Trackback

都合のよいアルコール

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風雨が強く、眠くて、寒くて、パン屋にも行けなかった。午後になって晴れ上がって余計に寒くなった。そこで金曜日に購入したブルゴーニュを開けることにした。同時に購入した海老と貝を使ってのパエリアに合わせるためにである。

今回は次回のバーデンバーデン訪問まで期間もあり、ドイツの2015年物もまだ入手していないので、三本購入することにした。五月に購入したものは売れ切れていた。流石に良いものはスーパーでも一気に買う人もいるのだろう。そこで先ずは2015年物を探してみた。

アプリカシオンより上のものもいくつか出ていた。マルサネもあったので先ずはこれを18ユーロで一本。それ以外にもオート・コーテ・ド・ニュイのものも12ユーロと安かったので購入した。もう一つはコートドボーニュでこれは2005年もので15ユーロだ。

この中から簡単にアルコールも12.5%と軽く早飲みそうな単純なオート・コーテ・ド・ニュイを開けることにした。開けて味見するとこれが決して悪くはないのである。最初から開いているのである。恐らく2015年の完熟の葡萄のおかげだと思う。

その中でも早摘みだろうからか酸も快く効いていて、この価格帯にありやすそうな鈍重さは全くない。それどころか開いて来るうちに立ってくる黒コショウのようなものがあり、そしてニュイらしいトロピカルフルーツの味わいが軽やかだ。そして舌には石灰的な粉っぽい感じもあってミネラルを感じさせる。

このボージョレ―ヌーヴォーの四倍ほどの価格で買えるブルゴーニュでこれほど楽しめるならば、到底ドイツのそれでは太刀打ちできない。2015年産を直接比較しようと思うが、この軽やかさはドイツのシュペートブルグンダーにはあり得ないと思う。アルコールの12.5というのがここではとても都合が良い。



参照:
シルヴァン・パタイユのマルサネ 2017-08-08 | ワイン
つまった苦味に合わせる 2013-12-18 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-10-30 02:47 | ワイン | Trackback

ふらふらする冬時間始まり

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ルクセムブルクから帰ってきた。思ったよりもトリアーから車で結構な距離があった。だから二時間では無理で二時間二十分ほど掛かる。但し今回は折からの工事などもあって短いコース取りをしたので片道200㎞に至らなかった。要するに燃料を節約できる。フライブルクに行くのと同じぐらいの感じである。

ネットで調べておいた通りに車を走らせると、左側に貝殻のような建物が見えたので、見当をつけて地下駐車場に車を入れた。生憎それは裏側の共同駐車場だったので一度外に出なければ行けなかったが、駐車料などは比較的割安だった。

一時間ほど早く着いたので会場の周りの美術館の周りを見たり、フィルハーモニーを一周して写真を撮ったりした。目抜きのケネディー通りは街に入るまでは大学や郊外型のショッピングセンターなどがあって、丁度ミュンヘンの新しいホールの界隈のような感じで、殆ど工事中でベルリンか東ドイツのような感じがした。正直金があるのかどうか分からない。

それでも国境を越えてからあまり整備されていない高速道路を随分走ったので、ドイツで例えれば丁度選帝侯の領地ぐらいの大きさだろうか。思ったよりも広いと感じたが、思ったよりも人は少ない感じがした。

大ホールも1300席で丁度中ホールと小ホールを足したぐらいの規模である。ヴィ―スバーデンのクアハウスの大ホールも同じぐらいである。ルートヴィヒスブルクにあるフォールムの大ホールに匹敵する。そこで聞いたサイモン・ラトル指揮バーミンガムの交響楽団のマーラー作曲交響曲10番が今まで一番小さいところで聞いた大管弦楽団だった。同じ大きさのヴィ―スバーデンのクアーハウスでは、ベルリンの放送交響楽団をアシュケナージが振ったショスタコーヴィッチ作曲交響曲4番であろうか。

それらに比較すると、今回は楽器編成も異なったが、アコースティックは前者よりも遥かに明瞭で、後者よりも残響も美しく癖がなかった。シナ人徐教授の音響設計のようだが、少なくともその容量からしてこの程度の編成ではベストではないかと思った。

そこで聞けたものに関しては改めて纏めるとしても、これだけは予め言及しておかないといけないのは、聴衆の質だ。今まで経験した中でも最低クラスだったと思う。何も出入りがあったり飴玉の包装紙の音があったりとかいうよりも、その程度が悪かったという印象だ。それはこうした小公国では人材がいないということで仕方がないのかもしれないが、なるほど今回の作品とその上演からして通向きだということはあっても、その反応の鈍さは致し方がなかった。サクラも入っていないのかもしれないが、もう少し耳のある人が多くてもよいと思った。少なくともその点からやはりももう少し近くのシュトッツガルトやフランクフルトもしくはケルンなどで同じプログラムが演奏されていたならと思わないでもなかった。

兎に角二日続けて音楽会に行くと疲労困憊する。運転距離は350㎞ほどだったのでミュンヘンへの片道ぐらいなのだが、コンサートは疲れるのに二日も続けて更に当日まで予習のお勉強をするような塩梅で厳しかった。夏時間が終わって初日はまだまだ頭がふらふらしていて眠い。



参照:
なんと、やはり生演奏会 2017-10-28 | 文化一般
広がるリビングからの視界 2017-10-25 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-10-29 23:31 | | Trackback

なんと、やはり生演奏会

パリでの公演「利口な女狐」のヴィデオを観た。ざっと流しただけだが、バレーを上手く使って、動物と人間世界の差が不自然でないような印象を受けた。そしてパリの管弦楽団が素晴らしい音を響かしていて、流石に座付き管弦楽団とは違うなと思わせ、指揮者の譜読みを綺麗に音化していると思う。それだからといって歌を邪魔しているようには聞こえない。それでも一幕の鶏の革命騒ぎのとこらでのアンサムブルは名座付き管弦楽団のようには行っていないようだ。

一幕で更に気が付いたのは二拍子系と三拍子系が上手に組み合わされていて劇的なアクセントを付け加えていることと、そこに三連符、四連符、五連符が散りばめられることで、言葉の抑揚も綺麗に収まっている。そして管弦楽は独奏的に中々難しそうだと改めて感じた。

更に二幕三幕と細かなところを見て行く前に、上の公演の全体の印象は、決定版かといわれると少なくとも演出面でも折角フィナーレで弧を描くように輪廻する筈が、その意図や効果は見当たらない。これは、ヤナーチェックを十八番とした指揮者マッケラスの譜読みにも係わっているのかどうか、より詳しく見ていかないと判断出来ないだろう。

少なくともヴォーカルスコア―を見る限り、チャールズ・マッケラスは楽譜にない何かを根拠として演奏しているところがあり、そこに正当性があるのかないのかを検証しない限り、手放しでは称賛し難い。一度流したぐらいではその根拠は見出せなかった。

土曜日のルクセムブルクでのコンサートには、ベルリンでの公演のヴィデオは間に合わなかった。そもそも演出ものであるから映像と音響の編集に普通以上に手間がかかることは予想できたのだが、生放送では真面に再生可能かどうか心許なかったので、生では観なかったのが間違いだった。年内のお愉しみとしよう。

金曜日のバーデンバーデンでのゲヴァントハウス管弦楽団の公演はネットを見るとがら空きのようである。ほとんど売れていなかった90ユーロの席に滑り込んだ。因みに私が購入したのは19ユーロのサイドのバルコニー席だった。四割りほどの入りで、よほどゲヴァントハウス管弦楽団は西ドイツでは評判が悪いのかなと思った。案の定メンデルスゾーンのヴァイオリニストも、最近話題のカラヤン二世指揮者のお友達のような音楽的に最低の奏者で、メンデルスゾーンでさえ子供のように弾けずに殆ど下手な学生オーケストラの奏者のようだったが、それが調子に乗ってバッハのパルティ―タをアンコールするものだからとても酷かった ― 明らかにサクラが入っていたようだった。それに合わすかのように、楽団はミュンヘンの同僚とは比較にならないほどの下手な合わせで、卒寿のご老体も適当に振っていたので、これはどうしようもないと肝をくくったのだった。ドレスデンやベルリンどころか、到底小編成のNHK交響楽団程度に及ばないと感じたのだが、ブルックナーの大編成になると全く事情は異なった。吃驚仰天した。あのメンデルスゾーンでの分厚いようなリードのオーボエに代表される鈍重な音は一体何だったのか?(続く



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-10-28 07:17 | 文化一般 | Trackback

新鮮な発見に溢れる卒寿

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ブルックナーの交響曲七番のお勉強である。ブロムシュテット指揮シュターツカペレの録音を聞くと、二分の二拍子の一楽章第三主題のアクセントのアレグロモデラートの中での躍動感で、いつも田舎の踊りのように聞こえていた主題なのだが、ここではもっと洗練されて軽快に奏される。これをこの楽譜の見た目通りに「組み合わせカムが連なって動いているよう」に印象するのが頓珍漢かどうかはまた改めて考える。

第一、第二主題、そして展開部、再現部、終結、更にラシドの動機などとても重要な働きをしているのは交響曲の構造として当然なのだが、この交響曲における対位法手法からの逆行・反行などの動機のカノンなどを対旋律として浮かび上がらせるではなく正しく配置されるかどうかは、特にこの交響曲の価値を吟味する場合にはどうしても重要な視点に違いない。兎に角、素人感覚では最も簡単で単純に見えるこの一楽章の二拍子をしっかり振れている一流指揮者があまりいないことに気が付いた。

二楽章の主題も昔から風変りと思っていたのだが、四度、五度の跳躍などが四分の四拍子の中でうまく組み合わされて七度の跳躍へと繋がり、例の都会的で装飾的な三拍子の第二主題と組み合わされている。後に第九交響曲へと広がりゆくのが目に見えるほどだ。

三楽章は、一楽章を試みた後に、このトリオのスケッチ、総譜が完成していったという。いつものブルックナーのトリオなのかもしれない。スケルツォのスタッカートのついた動機的な関連や二連桁の動機などがそこに見られる。

結局同じく二拍子の四楽章の第一主題で二楽章での動機や、また第二主題のコラール対旋律に二連桁などがまたまた用意されていて、それが第三主題へと次から次へとネタバレのような推移になっている。そこが、少しいつものブルックナー作曲とは違うという感じがするのかもしれない。しかしその直ぐ後の主要主題を想起させた後の「農民踊り」のような節は今度はトレモロまでを伴って明白になっている。それどころかこれは牧歌的なホルンを鳴らす経過句となっている。この提示部のぐっと圧縮したような構成はそれぞれに絵を描こうとすると殆どコラージュ紛いなのかもしれない。そのあと一気呵成にクライマックスへと辿り着いてしまうので、この曲がコムパクトというような印象を偏に与えているのだろうか。

評価の高いオイゲン・ヨッフム指揮のベルリンでの全集からのこれも聞いた。テムポも早めであるが、充分に音化されていない印象もあった。その他の多くの評価の高いブルックナー指揮の演奏も比較したが、結局この指揮者の制作録音が最も楽譜を反映していた。やはりこの作曲家の交響曲を熱心に勉強する指揮者は殆どいないということなのだろう。もしくは真面な演奏をして録音できるような環境にいる指揮者が殆ど存在しないということらしい。その数少ないギュンター・ヴァント指揮の録音がただただ喧しいだけでコントロールされていないので使い物にならなかったのは大変遺憾だった。

90歳のヘルベルト・ブルムシュテットは、最近ブルックナーを熱心に取り上げており、昨年のバムベルクなどでの出来の悪いものもあるが、管弦楽団が上手ければ楽譜の情報を充分に音化してくれると期待する。さてゲヴァントハウスはどの程度の交響楽団なのだろうか。

未だに楽譜を勉強していて初めて気がつくがあると感動した面持ちで語る指揮者である。なるほど芸術音楽とはそうしたものなのだろうが、その一方で暗譜で指揮するこの老指揮者に一言疑念を呈したくなることもある。一般的に老人になると記憶が薄れる。するとこの暗譜で指揮する指揮者が毎日のように同じように新しい発見をして毎日のように忘れているとしても決しておかしくないであろう。それでも毎日が新鮮な発見に溢れているとすればやはりそれほど素晴らしいことはないだろう。



参照:
Klassiker der Woche: Löm-tödödöm-po-popfff(Tagesanzeiger)
腕次第で高くつくかも 2017-10-26 | 料理
齢を重ねて立ち入る領域 2017-07-01 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-10-26 22:52 | 雑感 | Trackback

腕次第で高くつくかも

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先週末に開けたシュペートブルグンダーの印象を書き留めておこう。クリストマン醸造所のオェールベルク2011年である。購入直後に開けて満足しており、恐らくそれ以上に今回は満足した。風味がより強く出ていて、薬草やら藁などに2011年の果実風味が乗っていて高級感があった。25ユーロ以上出しているので、フランスのピノノワールでも近いものはあるかもしれないが、ドイツの可憐さがフランスのそれよりも品が良いかもしれない。ヴィンテージからして大手を挙げて称賛することはできないが、この程度の年度でこれだけの飲み甲斐があるのは見事だと思う。

食事に牛フィレのシュタインピルツソースを合わせた。いつものように残っていたコーヒークリームを入れたので固まってしまったが、味自体は最も美味いキノコの味がよく出ていて高級感溢れた。高級キノコもバリバリ食そうと思うと高くつくが、ソースにするぐらいの量ならば牛フィレよりは大分安い。

ブルックナー作曲交響曲七番ホ長調のお勉強は続いている。Youtubeにある録音等を聞き比べて適当に比較をして終わらせようと思った。それが益々良い録音を見つけて、楽曲への理解が深まって、簡単に終わりそうになくなった。最初から目星をつけていたブルックナー協会ドイツ支部長だったオイゲン・ヨッフム指揮でも数種類見つかった。EMIから出ているドレスデンのシュターツカペレの演奏が一筋縄ではいかなくなった。それ以前のベルリンでのDG録音を聞いている暇がなくなってしまった。しかし金曜日に聞くブロムシュテット指揮バムベルク響の演奏がお粗末過ぎるのでせめてゲヴァントハウス管弦楽団はそれ以上の演奏をしてくれないことには何をお勉強しているのか分からなくなる。だから私は超一流の指揮者で超一流の管弦楽団の演奏会しか行きたくないのである。全てが無駄になるからである ― シュターツカペレを振ったものが見つかったのでそれを聴くと、ブロムシュテット指揮のブルックナー演奏実践は、ヴィーナーフィルハーモニカ―では到底演奏出来ない程度のものだと徐々に分かってきた。



参照:
原発警備強化の物的根拠 2016-03-26 | ワイン
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-26 03:15 | 料理 | Trackback

広がるリビングからの視界

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リビングに入ると視界が広がっていた。バルコンの外の木が切られていたからである。去年既に切り込必要を管理者に伝えていたが、今年の夏は、切られないままで、そのお陰もあって幾分は涼しく過ごせたと思う。しかしこれで強風の時も安心して過ごせて、そして何よりも新春になれば部屋の奥まで入って来る陽射しが待ち遠しい。

昨冬はそれで幾らかは燃料費が増えたかもしれないのだ。また夏頃になれば緑が茂るので、涼しさが感じられることだろう。そして春の新たな梢の芽生えが楽しみになる。鳥たちも姿が見えるようになるだろう。遠景のワイン地所もソファーに座りながらでも観察できるので、これも嬉しい。

昨年まではモニターが古かったので反射が激しく、背中から差し込む陽射しで仕事にならなかったが、新しいモニターでその問題は殆んど無くなったと思う。待ち望まれるのは陽射しだけだ。

そんな日常の綾だけでないことが描かれているのが、ヤナーチェックが作曲した漫画が原作のオペラ「利口な女狐の物語」である。一時間半強の短めの作品なのだが、それでも交響曲とは異なって全体の形を見通すにはそれなりの時間が掛かる。

今回はピアノ伴奏のヴォーカルスコアーしかDL出来なかったので、それを使っている。必ずしもスケッチに近い訳ではないが、少なくとも骸骨図は分かり易い。所謂音楽劇場のコレプティトーアと呼ばれるような人達が、歌手や合唱やバレー団の練習の時にピアノで弾く楽譜である。アシスタントの指揮者なども含めてこうした楽譜を扱いなれているとやはり楽曲へのアプロ―チの仕方も変わってくると思う。

最初は第一幕などは比較的単純だと思っていたが、繰り返して見ているうちに分からない動機などが出て来て、徐々に細かなところへと意識が移って来た。そして第二幕の女狐の愛の場面も中々手が込んでいて立派な作品だと気が付きだした。五連符などでチェコ語の語りのアーティキュレーションを整えたり、なんといっても婚礼の場の民族的な素材の効果など主題ととても深く係っていることも理解した。アルザスの作曲家ケックリンなどにも共通するモードの利用も聞き落とせない。

参考にオランダで上演されたオペラ制作のヴィデオを観た。それほどト書きなどに忠実ではないようだが、全体の流れは上手に捉えられていて、人生哲学ドラマになっている。昆虫や動物に対してなのでどうしても擬人的な扱いになるが、あまりに過ぎると想像力が広がらない。特に性器を強調して具象的に扱うとなると、どうしても受け取る側は観念的にしか考えない。如何にもオランダの風土らしいと言えば元も子もないかもしれない。

それ故に第三幕のフィナーレなどは、歌唱もあってリヒャルト・シュトラウスからヴァークナーのようになってしまっている。それなりに見応えはあったと思うが、指揮者の演奏実践と共に少し違うとも感じた。どうしても可成り細やかなところまで音化しないとその芸術性が曖昧になるような気がする。そこでどうしても2009年のミュンヘンでのキリル・ペトレンコ指揮の「イェーヌファ」のトレーラーを流して見たくなった。

また昨年安売りで購入したヤナーチェックを十八番としていたサー・チャールズ・マッケラス指揮の詰め合わせCDで「女狐」組曲を流したが、決定版である筈のヴィーナーフィルハーモニカ―との演奏が全くデリカットの無いものでこれはどうしようもないと思った。せめてロンドンのフィルハーモニカ―ぐらいと録音しておけば歴史的に評価されたのではないかと、残念に思われる。要するに管弦楽団にとっては可成り難しそうだ ― そのように考えていたら凄いヴィデオが出てきた、パリ管をマッケラスが振ったもので、これならばクリーヴランドとの比較対象になるかもしれない。



参照:
ハイナー・ガイスラーの訃報 2017-09-14 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2017-10-25 02:51 | 生活 | Trackback

親しみ易すすぎる名曲

ブルックナー、メンデルスゾーン、「女狐」と並行してお勉強している。

ブルックナーの交響曲七番には実はそれほど親しみが無い。この曲は、不成功ばかりのこの交響作曲家の作品の中でも、初演、生前から成功を収めていた曲であり、現在でも最もポピュラーな交響曲として演奏回数も多い。その理由は、比較的コムパクトに構成されていることと、やはりなんといってもあの第一楽章の上昇旋律が永久に続くかのように響くことに加えて、第二楽章のヴァクナーヘの葬送のコーダーが書き加えられていることも、1884年ライプツィッヒでのアルテュール・ニキシュ指揮での初演時から注目されたのだろう。

それだからかは分からないが、そのホの調性と共にどうしてもリヒャルト・ヴァークナーの派手やかさのようなものを感じてしまい、更に二楽章第二主題での連桁の処理などの都会的で洗練された印象があるかもしれない。これは、どうしても時代的にユーゲントシュティールというのを憚るにしても、少なくとも髭文字活字的なもう一つ行くとジャポニズムの北斎的な彫塑の印象から免れられない。それらを締める葬送のコーダを入れてとても上手に創作されている。この辺りがポピュラーになる要因であり、ブルックナーファンにはよそよそしさのような印象を与えるのかもしれない。まさしくヴィーンの中央墓地の墓石などを想起させるのだ。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は名曲中の名曲で、好むと好まざるぬに拘わらずCD等が手元にある。先ずはブラームスの協奏曲のために昨年購入したムター独奏のフォンカラヤン指揮のものである。いつもこの20世紀を代表する指揮者の録音は楽曲勉強の参考にならないのは知っているのだが、協奏曲では更に酷かった。なるほど創作の書法のテクスチャ―までは描き出す必要も無く、「和声上の注意を促すだけでそれ以上に透明性を以って響かすなどは節度が無い」というような言い方も出来るが、この指揮者の手に掛かると全ては指揮者のために響いているようで、聴衆の関心が著作権者へと出来る限り向かないように尽力しているかのようにさえ聞こえる ― たとえ作曲者が小器用に筆を走らせていたとしても、そこに何らかの創造者の環境の反映があるということまでを読み取らなければ楽曲を解釈することにはならない。

これは、そもそもこの指揮者の専門である「名曲」というのは著作権者の手を遠に離れた、唯の意匠や素材でしかないということを立証している。時代性や趣味となどは別にして、やはりこの指揮者の演奏解釈はインチキでしかなく、それどころかベルリンのフィルハーモニカーの鳴りもその精度が想定されるほどには全く高くない。1980年当時のDG録音の評判の悪さと、その主要な管弦楽団の鳴りの悪さも無関係ではないように思った。

そのような使い物にならない録音と、それに引き換え全く期待していなかったネヴィル・マリナー指揮の伴奏でムロ―ヴァが弾いているものが思いがけなく良かった。その楽団にエキストラが入っているためか録音のための本格的な管弦楽団演奏になっていて、更に細かく楽譜を音化しているので、この故人になった指揮者を見直した。明らかにいつものセントマーティンの楽団の演奏とは違っている。

YOUTUBEで今回聞く初演者であるゲヴァントハウス管弦楽団が、ムターに付けているものがあって、クルト・マズーアが明らかにカラヤンの影響を受けた西側の指揮者とは異なる指揮をしている。晩年の公演であろうが、ムターの強度のアゴーギクにも合わせていて、管弦楽団も流石にオペラでもやっているような感じがよく出ている。巨体でも甲高い声を出した連邦共和国大統領候補にも挙がった指揮者だったが、なかなか器用なところもありそうで、なるほど伊達にニューヨークの音楽監督をやっていなかったのだろう。当時よりも管弦楽団も上手になっているとすれば、ブルムシュテット指揮での演奏会が楽しみで、中々合わせものは上手い管弦楽団だと分かった。二年前にはベルリン、アムステルダム、ヴィーンに次いで四番目の管弦楽団とされていたが、しかしこのヴィデオの時期では到底そのような審査対象にもならない。そしてブルムシュテットとシャイーの二人の指揮者の薫陶でそこまでの域にまで達しているとも到底思えないのである。



参照:
正しく共有されない情報 2015-09-08 | 雑感
ユダヤ啓蒙主義者の社会活動 2010-08-25 | 文化一般
小恥ずかしい音楽劇仕分け法 2010-06-06 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-24 00:50 | 雑感 | Trackback

世界に憲法改正へ速報

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日本の総選挙開票予想で世界中に速報が飛んでいる。注目点は三分一越の憲法改正に至るかどうかということだ。直ぐには九条は改正されないかもしれないが、緊急事態条項を議論に出すことで、即臨戦態勢に道をつけるかもしれない。兎に角、合衆国の意向に沿う形で、好戦的な一部は日本をそれによってリセットしようとしているようだ。日本に難民が流入するどころではなく、日本から難民が出るようになるかもしれない。

いつものようにパン屋から峠を攻めて帰って来る。半ズボン半袖では肌寒く、足元も濡れていて、更に夜間の降雨と風で落葉が激しく、とても足元も悪かった。夏太り気味で74㎏を超えたままで身体も切れが悪く嘆かわしい。

先週あたりから、公共放送の役割分担による規模の縮小が話題になっている。簡単に言えば第一放送ARDを国内地方向き、第二放送ZDFを全国国際へと分けることで大きく改革する案である。最早大規模のZDFを観ている人は少ないと思うが、なぜかそこが国際網を残すとなると問題になっている巨大化が避けられない。その反対にSWRなどの海外特派などが全廃されるとなると高品質の日本情報などが車中のラディオで聞けなくなる。それでも巨大化したメディアの組織を圧縮していくことは必然だと思う。

席をネットで確保した翌日には郵便桶にミュンヘンからティケットが入っていた。またバーデンバーデンからは2018年リヒャルト・ヴァークナーと表する冊子が入っていた。ハルテロスのヴェーゼンデュンク、復活祭でのパルシファル、ゲルギエフのオランダ人などが、アルザスやシュヴァルツヴァルト、プファルツへのショートジャーニーの旅行パックとともに纏められている。やはり頼れるのはヴァークナー人気であり、稼ぐための鍵なのだろう。

「女狐」のBBCでのアニメと一幕の声楽譜を見た。BBCのものは演奏はケントナガノ指揮のベルリン放送交響楽団だった。演奏は音が悪くて今一つ分からないが、この指揮者のいつものように交響的に鳴り響くというものだ。アニメに関しての描き方は現時点では何とも分からない。一幕のピアノ譜を見る限り、主題に選定も厳選されていて、それだけにどうしても名演奏を繰り広げる必要性も感じた。

二日続けて、パリからとロンドンからのオペラ中継を観聴きした。前者のフランス語版の「ドンカルロ」は興味深かったが、管弦楽がガタガタで続けて聞いていられなかった。日本にもファンがいてヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダンの指揮はバイロイトに続いて二度目だが、いつも同じようだ。それに引き換え翌日に一部聞いたコヴェントガーデンでの「オテロ」はパッパーノという一流オペラ指揮者の仕事として響いていた。



参照:
「三部作」お勉強の下準備 2017-10-22 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
現代的聴視料の集め方 2016-03-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-23 03:15 | 雑感 | Trackback