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索引 2017年12月


カウンターテノール?! 2017-12-31 | 文化一般
暮れの夜のロココ劇場 2017-12-30 | 生活
いったいどこに行った 2017-12-29 | 生活
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音
「キリストは神の子」41% 2017-12-27 | 暦
旨味を引き立てる香味 2017-12-26 | 料理
また泣いちゃったよ 2017-12-25 | 女
フルトヴェングラーの響き 2017-12-24 | 音
クリスマスの買い溜め 2017-12-23 | 暦
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
不覚にも嗚咽が漏れる 2017-12-19 | ワイン
迫るミュンヘン初演 2017-12-18 | 音
覗き込んだ世界の裏側 2017-12-17 | 歴史・時事
祝脱文鎮化、興奮の夜 2017-12-16 | テクニック
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
年の瀬はロココ劇場へ 2017-12-13 | 文化一般
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
室内で汗拭う週末 2017-12-11 | 生活
待降節は四拍子だろうか 2017-12-10 | 生活
足風邪をひきそうになった 2017-12-09 | 生活
趣味の悪くない劇場指揮者 2017-12-08 | 文化一般
いつも同じことの繰り返し 2017-12-07 | マスメディア批評
神無しに美は存在しない 2017-12-06 | 文学・思想
一寸した大人の味 2017-12-05 | 女
じわじわ迫ってくる感 2017-12-04 | 生活
次世代への改良点 2017-12-03 | アウトドーア・環境
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
クリスマス向きのリスト 2017-12-01 | 文化一般

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by pfaelzerwein | 2017-12-31 23:59 | INDEX | Trackback

2018年ごみカレンダー

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ジルフェスタ―には何を開けようか?先ずは、シェーンレーバー醸造所のリースリングゼクトを冷やした。もう一本は何か?食事を考える。スーパーで塩サケ用のものを購入しようと思ったら二切れほどしか余っていなかった。それも色合いがもう一つだった。それでも仕方がないと思って注文したら、いつもは不愛想なおばさんが、「こっちの方がいいよ」と勧めてくれるのはおろしてある鮭だ。いつも燻製ものだと思っていたが、皮付きの生だと知った。「こちらの方が骨が無くて、安売りしているのでお得だよ」と強く勧められる。そこまで勧めてくれるならとそれを購入した。

さてこれと横にあったホタテ貝が年末年始のメインになるのだが、今年最後の峠攻めを走っている間にも考えていた。調べてみると、富山の鱒寿し風にできそうなのだ。そもそも野菜の煮物ぐらいを考えていたのだが、これならば少し多めに寿し飯でも作っておけばいいかとも思った。材料は十分にある。それならばワインも少し濃いめのシェーンレーバー醸造所の「ハロガンス」2015年でも良いかと思った。若干コクがあり過ぎるのだが日本食には良いのではないか。

クリスマス以降には、同じナーへのデーノッフ醸造所の最高グランクリュを開けた。自宅で開けるのは初めてだ。今年は同じ年のグランクリュ「デルヒェン」を開けたが、今度は2014年産「ヘルマンスヘーレ」である。恐らくナーへワインの最高峰だろう。調べると前者の方はスパイシーさとそれどころか蜂蜜香があったようだが、これは最後に苦みとしてミネラルが出るぐらいで、梨や黄色い果実と木などヘーゼルナッツ感など欠点が見つかり難い。価格も少し高かったが、これは流石だ。

金曜日に待ちかねていたカレンダーが届いた。カレンダーと言っても昔二月一日に割引を購入していたような美術カレンダーではない。ごみの日程が書いてある地元のごみカレンダーだ。これが無いと不便で、必需品であるばかりでなく、最近は自身のメインアジェンダになって来ている。そこにはオペラの日程から放送日程、券の予約日程までが書き込まれるのだ。集配日カレンダーである。清貧カレンダーと呼んでもよいかもしれない。



参照:
ピリ辛感が残る最後 2017-08-22 | ワイン
石橋を叩いての樽試飲 2015-06-08 | 試飲百景
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by pfaelzerwein | 2017-12-31 21:52 | | Trackback

カウンターテノール?!

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承前)ロココ劇場でのニコラ・アントニオ・ポルポーラ「ミトリダーテ」のドイツ初演は可成りの価値があった。ドルトムントに移る支配人のナポリ楽派を取り上げるシリーズの最後を飾る初演だったようだが、これだけの作品がイタリア語での初演となるとやはり驚く。これだけという中にはその芸術的な価値が最も大きな意味を持つのだが、その音楽的な批評よりも、むしろ美学的な社会的な批判によってそれほど顧みられていなかったと思う。

その事情は初演当時のロンドンのオペラ事情とも深く関わっているが、一時はヘンデルのオペラ団に圧勝したもののその後には作曲家自身も貧困の中で一生を終えるような所謂時代遅れになってしまった背景がある。勿論去勢した歌手が少なくなった時代では、また現在のようにカウンターテノールブームでどこにでも替えがいるような時代になっても、その裏声よりも女性のアルトの声の方が望ましいという人も少なくない ― アルトも中性的な可笑しな声の歌手はいくらでもいるが。要するにこれらの作品などが際物と捉えられた社会的な背景もあるのだろう。その前に時代遅れになって廃れたこと自体がやはりこのエポックを際物にしている。

しかし今回準備としてモーツァルトのそれなども比較して、カウンターテノールの問題は残るのだが、決して初期の子供のモーツァルトの作品より芸術的な価値が低いとは思えないのである ― まさしくこのロココ劇場でサマーセミナーを受けるまでのつまり前古典派の啓蒙を受けるまでの神童の作品にどれほどの名作があるのだろうか。どちらの作品に劇場上演する価値があるかと言えば必ずしもモーツァルトではないと言えよう ― 初期の作品でそれ程真面な演奏はなされている様子が無い。寧ろ、ハイドンの先生でもあったポルポーラの技法にエポックを観察する方が面白いのではなかろうか ― 同時代の重要な作曲家はハッセなど沢山存在する。

さて肝心のカウンターテノールであるが、今回の主役のミトリダーデを歌ったデーヴィット・李という人は世界的な活躍をしている人のようだがその声の質もイタリア語のリズム感もカナダ人とはいいながら韓国人らしかった。先日のミュンヘンでも韓国人歌手を聞いてその充実ぶりは凄いとは思うのだが、この人の声は駄目だった。本物のカストラートの力強さとも声が違うのだが、そちらの方の声で売っているらしい。最後の死に直面する歌だけは聞かせたが、何かそこに粘着質な歌いぶりがあってこれも好ましくなかった。

今回は、我がツイッターのフォロワーであるレイ・チャニスという今売り出し中のカウンタテノールに誘われた形で出かけたのである ― 際物のカラヤン二世クレンツィス指揮のパーセルでジュネーヴでデビューしている。若い歌手であり、ヤコブスやショルの世代と比べて、どの程度歌うのかは全く未知であった。結論からすると、技術的にも安定しているだけでなくその声の軽やかさと肌理の細かさは今まで聞いたことのない質の声だった。特に今回の役柄はその声質の主役との対比においてとても得難かった。出演自体も飛び入りしたようで準備が充分でなかったのか、初日などは声が小さいなどの批評も読み取れるのだが、彼の歌う最終日では全くそのようなことが無かった。身体が反映するとかいう批評もあったが、それならば彼の胸膜の方が李よりもよく鳴る筈だとハッキリ分かった ― 本番の腹ごしらえはオムレツでするということだが。要するにいい加減な批評は幾らでもある。

彼とデュオを歌ったヒロインは、スカラ座のプロジェクトでアダム・フィッシャー指揮で夜の女王を歌ったヤスミン・オェツカンで、ドイツのトルコ人系女性のようだが、この二人のペアーはなかなか良かった。若さだけでなく技術的にも安定していたからだ。ソロに続くその変奏のようなデュエットの様式感が重要であるからだ。声の威力からするとまだまだなので、オペラ界で一流になるのかどうかはまだ分からないが、注目に値するだろう。管弦楽も俄然真面目に演奏していた、まるで当時のロンドンのようだ。

そのほかにもユダヤ女性、韓国人、シナ人、アメリカ人などもいてインターナショナルなアンサムブルになっていた。丁度舞台の作り方も夏のピーター・セラーズのそれを彷彿させる有刺鉄線なども戦争シーンで出てきており ― 軍靴だけが戦場シーンで置かれているのも「タンホイザー」のカステルッチにも似ていて ―、黒人がいなかったぐらいの違いである。それゆえにどうしてもタイトルロールをティートュス役のラッセル・トーマスと比較してしまう。

この作品上演の価値があったのは、このシフラ役に適役の歌手がいるかどうかに尽きるようだ。彼のファリネリのライヴァルであったセネシーノの役であるから、当然である。それゆえに32分音符、16分音符の鮮やかさだけでなく、その後にヒロインとのデュオが続くなど技術的にも音楽的にもそして何よりも声がものをいう。独特の軽やかさとその抜けの良さと、アリア「ローマに対して」の力強さにも欠けなかったのだが、本物のカストラールのあの胴声となるとどう鳴るのだろうかとも思う。すると上の韓国人のようになってこれまた困るのである。



参照:
モーツァルトを祀り上げる 2006-10-03 | 音
生きてる内にもう一度! 2007-10-03 | 文化一般
バロックオペラのジェンダー  [ 音 ] / 2005-02-20
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by pfaelzerwein | 2017-12-30 20:12 | 文化一般 | Trackback

暮れの夜のロココ劇場

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シュヴェツィンゲンから帰宅した時には11時半を回っていた。最近はミュンヘンのそれも早めに終わり、帰宅走行時間で三時間以上長く掛かってもそれほど遅くはなっていないことを鑑みると、11時近くまで公演が続いていたのは珍しい。イゴール・レヴィットのレートナイトコンサートに近い。車を停めて正門から入場したのが19時前だったろうか。だから駐車料金も4.80ユーロになった。田舎の町としては比較的高額だ。

そのお陰で予定していなかった公演前のガイダンスを聞けた。話し手はハイデルベルクの劇場の支配人で、ざっとした作品に纏わる話とあらすじそして出演者についてであり、無料で最後の一つを貰ったプログラムの内容を超えることはなかった。しかし反復することでより頭に入る。とは言っても訳の分からぬ出場者の何人もの名前を把握するのはいつも厄介だ。昔から日本では翻訳本のそれもロシア文学などについて語られるカタカナの名前というものがあるがそれはアルファベットでもあまり変わらないように思う。特に異なる言語圏発祥の名前は覚え難い。

ロココ劇場の定員は500名ほどらしいが、ガイダンスにはそこに既にいる人はほとんど入ってくるので、大広間が一杯になった。流石にどこの大劇場もこのような大スペースは持っていないので全く並べられた椅子の数が違う。

幕開けまではそれほど時間が無かったが、一口口を濡らして、劇場に入る。久しぶりの入場で記憶にはあまりなかったが、少なくとも椅子や床は改良されていて、ギシギシなるような事は無くなっていた。2004年ほどに大きな改修工事が行われたようだ。これならば古楽器演奏団体などはもう少し使えばよいと思う。但し、今回の席も柱の裏で足が長過ぎる人は困るかもしれない。視界は目の前が塞がれるが、左側から右サイド舞台縁を除いては問題が無かった。そもそも奈落はほとんど見えないのは、何もここだけでなく昔の歌劇場では最前列を除いては同じである。

だから昔の広島カープの監督古葉さんのように柱の陰からそっと見てといった感じなのだが、決して音響は悪くはなかった。一度だけ右端に立って歌っているのか左端なのかが確認するまで分からなかったぐらいである。会場の大きさと収容人数からすると全く問題が無いのである。休憩時にいろいろと覗いてみると、むしろバルコン席の四列目なのの方が天井が低い分音響はよくないかもしれない。

私の三列目は正面横乍らその柱のお陰で20ユーロしかしなかったが、隣の席は36ユーロともう少し高かった筈だ。ミュンヘンの劇場と比較すると、勿論出し物も違うが立ち見の17ユーロとどちらが価値があるかということになる。

管弦楽は、キリル・ペトレンコ指揮のものに馴染むと古楽であろうがなんであろうがなかろうが、あまりにも下手で歌手はいったいどこに合わせているのかと思うときが少なくないが、やはりよくはなかった。それでも歌手が上手く歌うところだけは断然更っているようで聞き違えるほど緊張感のある演奏をしていた。ドイツの劇場で仕事をしているフェリーチェ・ヴァナンツィオーニという人だが可成りのお調子者のようである。やれば出来るらしい。(続く



参照:
いったいどこに行った 2017-12-29 | 生活
年の瀬はロココ劇場へ 2017-12-13 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-12-30 00:26 | 生活 | Trackback

いったいどこに行った

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夜更けから要らぬ仕事をした。先ずは、先のミュンヘン行で問題になったナヴィゲーシヨンのCDRを焼き直した。しかしオリジナルからではなく、コピーのコピーだ。オリジナルは未だに行方不明である。ISOイメージを焼き付けた。早速車で試そうと思ってパジャマの上にコートを羽織ってガレージに行く。寒いので早く終わらせたかったが、上手く読み込んでくれない。そもそもオリジナルのコピーではないので不安があったが、やはり駄目だった。二枚目は別のコピー指令で焼いたがこれも駄目だった。

そこで冷えた物置で探す。秋にそこに移動させたCDの箱の中にお目当てのケースも、後に購入したパリでの仕事の際にお世話になったフランス版も見つかった。なぜかドイツ版が見つからない。CDのスピンドル類も探したが見つからない。想像がつかないのである。17年も経過しているから、当時はWIN95を使っていたかもしれない。つまり最初のコピーはWIN95で焼いた可能性が強い。それが手元にあり、読み取りが悪くなっている。試しにXPでコピーしたが上手く行かない。

再びオリジナルを探すが、なぜ箱から出て保存されているのかが分からないのだ。こうした場合PCのCDROM読み取り機に飲み込まれている場合もあるのだが、そもそも傷むのが嫌で最初からコピーを使っていたぐらいだから、用が無いのに読み取ることはなかった。オリジナルの箱だけが仕舞ってあるということは、やはりそれよりも安全なスピンドルか箱に収められている筈だ。もう少し捜索を続けてみるしかないが、ありそうな場所は一通り見たので、次に探すとすれば要らぬCDROMを処分がてらにゆっくりと一枚一枚整理するしかなさそうだ。何を維持するべきかは判断が難しい。今更古いシステムのアプリケーションが必要とは思わないのだが、不可逆になって困ると嫌だ。

そうこうしているうちに物置に使っているアパートの横のバスルームの水漏れの音が気になった。お馴染み便所の浮き問題である。その格好で寒い暗闇に電灯を照らして水仕事となった。不完全な形で止水したがなんかの拍子に外れると大変なことになると夜も易々と寝れなかった。結局明るくなってから同じ方法でもう少し水が噴き出すことのないようにしておいたが完全な修理ではないので適当な時にもう一度弄らなければ安心できない。さもなくば元栓を閉じて貰う。

そのようなドタバタやら未明の仕事を考えているうちに、夜鍋の寝不足となった。時間があれば、ポルポーラの「ミトリダーテ」の準備をしたかったのだが、殆ど叶わなかった。せめてモーツァルトの同曲を観て比較対象にしたかったが、それも精々流すだけだ。少し横になる時間が取れるだろうか。自宅を18時前に出れば間違いなく30分前の19時にはロココテアターで寛げる。駐車場の細かいコインも用意しておかなければいけないかもしれない。

ナヴィが使えない可能性が高いので、知っている場所とはいいながら ― そこに住もうと思ってアパートを探したこともあり、城前のホテルに滞在したことがある、ネットで調べると三通りぐらいのお勧めが出てきたが、やはり自分が一番なじみのあるルートを取るだろう。距離は40キロほどで所要時間はそれも40分弱である。駐車場から少し歩かなければいけないので夕刻から晴れて冷えてくるようだ。足元が濡れなければよい。

時間の都合がついたと思ったら、振替を忘れていた。クリスマス前に出来たのだが、不注意で伝送番号表の入れ替えを行わずにいたので、使えなくなっていた。クリスマスを挟んで本日初めて郵送されたので、これも済ましておかないと年内決算が不可能になる。朝一番で済ましてしまう予定だったのを完全に忘れていた。イライラすることばっかりの一年だ。残りのものは帰宅後にやっておくしかない。今年は29日が金曜日というのが大きい。



参照:
年の瀬はロココ劇場へ 2017-12-13 | 文化一般
クリスマスの買い溜め 2017-12-23 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-12-28 23:07 | 生活 | Trackback

天才も実践から学ぶ

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承前)「修道女アンジェリカ」のフィナーレへの流れを聞いている。改めて興味を持ったのは、ミュンヘン「三部作」イタリア語初演での三日目の映像についての様々な意見を目にしたからだ。一つは、アンジェリカを歌ったエルモネーラ・ヤホファン側からそのカメラの切り替えに批判的な声が上がっているからだ。要するにヤホからキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽団へと切り替わってしまうことへの不満の声である。映像のカメラアングルに関しては永遠の問題で、マルティチャンネル映像にならない限り解決されない。音声のようにベストアングルが無い。

そこでヤホの歌うコヴェントガーデンのヴィデオを見つけて、更に今回の初日の音声を比較する。これはとても面白かった。こうでもしないとヤホ女史がインタヴューで語り、自らもそのインタヴューをリツイートするヤホの芸術「感情を人に伝えることが何よりもの喜び」からの呪縛から逃げ無くなれるからである。彼女は舞台でその感情を偽って作ってもそれは直ぐにばれると、それを改めて広報するのだから、可成りの拘りの人のようである。

先ず先日インタヴューで語っていたこの役に初めて挑んだ時のヴィデオを聴くと、恐らくパパーノ指揮で間違いないだろうが、全く異なる歌唱で、その演出にも関連しているのだろう可成りおとなしい ― その後よりドラマティックになったと自ら語っている。管弦楽は下支えするかのように思い切って鳴らしているのはこの指揮者の特徴のようだが、更に声が小さく聞こえる。丁度今回の二日目にペトレンコが鳴らしていたのを彷彿させるのだ。再び、三日目の音を聞くとやはりその表現の強さは全く異なっている。そして音にフィルターを掛けられたヴィデオも消去されるまでは観れる ― いずれは部分だけでも劇場からオフィシャルで出して貰いたい。

そして初日の録音を聞くと、可成りテムポもリズム取りも変わっていて驚いた。印象からするとヤホの歌の正確さをチェックしないといけないと思っていたのであるが、実際は異なった。この初日の歌は比較的コヴェントガーデンのそれに近く、自身のレパートリーとしてものにしている楽譜だった。そしてペトレンコ指揮のそれがせかせかしていて十分な拍が取れていない。歌のアーティキュレーションを見れば明らかなのだが、ペトレンコは出来る限りセンティメンタルにならないような拍打ちとテムポを意図したとしか思えない。それゆえに余計にヤホが頑張ったというのが初日の成功だったようだ。そこに聴く側は一種の危うさの様なものを感じていたのは間違いなかった。

そして再び三日目のそれに戻ると、管弦楽が歌にしっかり寄り添うようなつけ方に代わり、その三拍子の弱起の拍が強調されることで全く異なった。するとアーティキュレーションを超えて、リタルタンド、ラレンタンドなどがまた別な意味を持ってくる。歌詞の表現の幅が広がるということだろう ― この点に関してはイタリア語がそれほど得意ではなさそうなこの指揮者への僅かばかり残された気になる点だった。そうした拍打ちをすることで明らかに歌の流れが良くなっている。それと同時に思いがけないほどの表現効果が生じていて、まさしく印象主義から表現主義へとの流れを「パルシファル」以降の直接のそれとして実感させることになる ― 恐らくこの辺りもこの指揮者のレパートリー選択に関連していることなのだろう。勿論、リヒャルト・シュトラウスや「春の祭典」初演のプッチーニの体験などが強く影響していることは改めて言及する必要はないだろう。

ここからは勝手に想像するだけなのだが、キリル・ペトレンコの喝采を受ける映像の様子を見ていると、上から改めてピット内の恐らくコンツェルトマイスターリンに業務連絡をしているようでもあり、気になることを頭で反芻していたようでもあり、何か完成という顔付では全くなかった。この楽曲なども加味して三回目の公演での放映を決断していた訳だが、どうしてまだまだ課題が解決されていないということなのだろうか?確かにこの部分の初日から三回目の変化を見るだけでも、想定以上の変化があった。

本題の歌手と指揮者に関して言及すれば、その喝采を受けている舞台での様子を見ていてもその両者によっては緊張関係が見て取れる。それゆえに、ヤホが三回目に想定以上の反響に驚いた表情を示している事情が読み取れないか?その結果、歌手も指揮者も想定していなかったぐらいの音楽芸術的な成果が生じたのであると思う。彼女のこのレパートリーにおける表現は完全に深まったに違いない。今回のイタリアオペラに関しては、ジークフリートを歌ったシュテファン・フィンケなどの歌手自身のイメージとの齟齬などの発言とは違って、イタリア言語であることも考えれば、天才指揮者でさえ実践を通して学ぶことが少なくないのではないかと思った。いずれにしてもこうして初めてプッチーニの音楽的価値を学術的な評価から抜け出して完全に実践で示したのではなかろうか。まさにこれが哲学用語としてのAufhebenである。(続く



参照:
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-12-27 23:35 | | Trackback

「キリストは神の子」41%

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クリスマス二日目の休日だ。頂上まで往復してきた。日の出前からベットの中で様子を窺っていた。陽射しが出てくると思い切りが付いた。靴紐をしていると足音が聞こえて爺さんが目前でUターンしていった。あの爺さんと並走するのかと思っていたがよかった。それでも息が落ち着いていたのでこれはと思っていたのだ。久しぶりの山登りでゆっくりと爺さんにあやかって息を上げないように走った。上部に至ると霧雨の様な感じになって来て、遅くならないでよかった。それでも足が疲れた。本日は洗濯しなければいけない。クリスマス前の新聞に載っていた調査が面白い。キリスト教への意識調査結果である。

戦後直ぐには90%の教会加盟率だったのが、統一の時には40%の東ドイツ人を合わせて72%だった。そして今は55%に低下している。これは外国からの移住者によるのではなく教会離れが激しいからで、教会に属していてもその三分の二しか教会にはいかない。つまり国民の三分の一以下しか時々も教会に行かないのである。その殆どがクリスマスか、冠婚葬祭だろう。

1986年には56%の人が「キリストは神の子」と信じていたが、西ドイツで現在41%しかいない。「神は世界の創造者」は47から33へ、「復活によって神の国」は38から28へ、「三位一体」は39から25へ、カトリック信者でも34%しか信じていない。このような数字を見るともはや謂わんかなであるが、それでも63%が「ドイツはキリスト教の国」とみている。

この間の推移をある程度体感してきているが、一番合点がいくのは、「キリスト教の国」の意識が2006年ごろに一旦落ちたが再び上昇傾向にあることだろう。信仰を意識することで、実際に「超絶の存在」を48%の西ドイツ人が信じていて、僅か6%のモスリムを含めて一神教的な思考形態は根付いている。増加している22から30への「天使信仰」が面白い。漫画か何かの影響か?

新聞には新旧合体の教会運動の影響も触れられているが、やはり2006年ごろのマルティカルチャーブームの洗礼を受けたともいえる。このアンケートはどうもそれこそ一神教的な視座からの設問しかないようだが、ここから外れた東ドイツのマルキストを除くと多神教特に仏教の影響はかなり多いと思う。その他西ドイツの58から46へと減少した無神論者でそのうちカトリック者の69から65に対してプロテスタントでは51から54へと増加していて、脱プロテスタントとその集中化に言及される。恐らく、世界的な傾向での原理主義者と隣り合わせなのだろう。

要するにクリスマスの飾りつけも何もかもが、日本の初詣やクリスマスケーキなどとあまり変わらない家庭がかなり多いということである。23日の夕食は冷たい食事だった。ミュンヘンで購入したテリーヌ類を片付けた。今年の賞を獲得した2015年産のゼーガー醸造所のピノノワール「シュペルメン」を開けた。二日掛けて飲み干したが、やはりまだ開くには瓶熟成が必要だと認識した。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
民主主義を叫んだ独裁体制 2016-07-22 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-12-26 21:44 | | Trackback

旨味を引き立てる香料

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毎年のように栗入りザウマーゲンを食した。ザウマーゲンと言っても小さな量なので膀胱入りだ。ザウブラーセンというのが正しいだろう。そとの包装ごと温めたので味は抜けなかったが、逆に膀胱の尿臭さが少し出た。日頃から腎臓などを食しているので気にはならないが、客人に出すときには注意した方がよい。そのままお湯につけたらそれは抜けてしまうが、味も少し出てしまう。やはり胃袋の方がいろいろな意味で有利かもしれない。とは言っても二回目以降は焼くので全く気にならない。シナの食膳風に言えば、これで膀胱も元気になる。しかし久しぶりに明け方にトイレに起きた。

ワインはいろいろさがした挙句、まだ早いのだがエティケットをナメクジにやられたウンゲホイヤーの2011年物にした。2011年産は分厚くて過熟気味で、リースリング愛好家には駄目な年なのであるが、それゆえに期待が出来ないことから後回しになっていた。初日の感じでは酸が弱まってきているので飲み頃かとも思った。充分に熟成した旨味はデキャンタ―で出てきているので、二日目以降が楽しみだ。流石にウンゲホイヤーはスパイシーさもあって分厚いだけの単調にはならない。

その前に開けた2013年のボェーイックがまだまだ酸が効いていて、熟成となっていなかったことから、もたないとされる2013年が意外に長寿しそうな印象がある。やはりリースリングは陽射しよりも、果実の健康だけで暑い年のものは駄目だとはっきりした。2003年、2005年、2011年、2015年などは駄目だ。要するに赤の良い年度である。

栗が今年は特別に大きなのが入っていて満足だった。ヴィルシングはいつもは白菜などで代用しているのだが、大振りに切って長く火を通すと思いがけない甘みで驚いた。炒めるときに若干焦がしたので残念だったが、おいしくする調理法が分かってきた。これだけ甘みが出ればナツメグが合うのは当然である。白菜の倍以上の価格だけのことはある。まだ中の柔らかい部分が残っているのでもっと上手に調理してみよう。

食事の時には、前日に生中継録音して、また翌日にDLしたヴィデオの音源などを内容確認に流した。オンデマンドからDLしたのはMP4で3時間13分で5.9Gしかないので心もとないが、動画が4000kBit/sのHDで通常のストリーミングではDL出来なかったのだが、MP4としてDL出来た。5時間ほど掛かった。やはりネット回線を良くしないと生では流れない。それでも個人的には画像は二の次なので、音声の48kサムプリング189kBit/sでは足りない。因みに生で録音したものは48kサムプリングなので3GBを超え、録画の方は11GBを超える。生放送録画は、6923kkBit/sながら画像は悪くても、44.1kサムプリングながらFLACでの音声なのでこちらはCD並みで悪くはない。

MP3ならば最低320kBit/sは欲しい。クリーヴランドの放送のアーカイヴとしてピエール・ブレーズ指揮のメシアンとラヴェル、ドビュシーのプログラムが上がっている。この放送局の面白いのはストリーミングの方がオンデマンドよりも音質を落としていることだ。

朝から頂上を目指そうかと思ったが、腰などに違和感があるのでもう一日延ばすことにした。天気も良くなりそうだ。食事さえ食べ過ぎなければ大丈夫だ。そろそろポルポーラの「ミトリダーテ」も調べておかないといけない。資料は限られていてイタリア語のリブレット以外にはあまりない。それならばモーツァルトのそれに耳を通していた方がよいかもしれない。

ミュンヘンからの中継のサイトにオペラアワードのノミネートのリンクが張られていたので書き込んだ。上から合唱は、タンホイザーの圧倒的なそれでバイエルン国立歌劇場合唱団、指揮者は更なる進化を導いたキリル・ペトレンコ、女性歌手はいまだ嘗て経験したことのない歌唱を聞かせてくれたエルモネーラ・ヤホ、演出家にザルツブルクでのピーター・セラーズ、男性歌手にはこれまた高度に歌詞の響きを追及した歌唱のクリスティアン・ゲルハーエル、制作は「タンホイザー」か迷ったが、想定を超えた大反響ということで「三部作」、管弦楽は今回も未知の領域へと大きな進化を披露したバイエルン国立歌劇場管弦楽団、若手歌手にはザルツブルクでの名唱と「ばらの騎士」での口パクを聞いたゴルタ・シュルツとした。このブログで言及したことばかりである。



参照:
胃袋がザウマーゲンに 2012-12-27 | 料理
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音

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by pfaelzerwein | 2017-12-25 19:35 | 料理 | Trackback

また泣いちゃったよ

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承前)「おいちゃん、また泣いちゃったよ」と寅さんなら泣きべそをかきながら言うだろう。プッチーニのオペラで涙するなんてつい先日まで思ってもみなかった。あんなセンティメンタルなお話しで、それも今回は三つの一時間ドラマでしかない ― 「泣いて堪るかよ」程度のものである。

初日のラディオ放送の演奏よりも全ての面でよかったと思う。完成度が高かった。ストリーミング放送の数時間前からちょこちょこと準備をしていた。途中初日の録音らしきが出力テストで使われていた。あまりにも管弦楽が微細で弱音で奏するものだから全体のダイナミックレンジのバランスを調整しておかないとクリップしかねない。実際に音声を録音すると、驚くことに一幕「外套」で最大のレヴェル―1ほどに達していた。浮気の二重唱の辺りらしい。

初日も二日目もただ一人不満のあったスターキャストのヴェストブロックもヴィヴラートを揃えてきたように感じた。この辺りの実力となるとハルテロスの時と同じでちょっとした指摘で調整可能なのだろう。少なくともヴィデオでの演技も含めるとリーとともに魅せていた。コッホの歌と演技で感動したが、管弦楽は二日目よりも更に巧妙になっている感じだった。

ピットが映されると明らかに二日目とは違う陣営が乗っていた。稽古の音から聞いていたので興味があったのだが、オーボエが山賊兄になっていて ― 二日目はベルリンフィルで吹いた人が入っていた、そして第一ヴァイオリン二番には若いシュルトハイスに代わって金が入っていて、後ろにはいつも彼女と並んでいる若いブロンディーヌが入っていた。そしてどうも上からは確認できなっかったがその音からコンツェルトマイスタリンが全公演を務めている様だった。要するに女性陣を並べたのがこの日の演奏で、その細やかさと共感に満ちた一糸乱れぬ弦合奏になっていたと思う。プッチーニのあのしなやかさは女性的だと思った経験がある。一幕の軽いステップ感も女性ならではだ ― 道理で彼女らが入ってくるとかしましの声が聞こえていた。

なるほどマイクロフォンを通した響きと更に画像に邪魔される視聴と生の体験は印象が異なる面があるが、生放送で音声の録音に集中したので少なくとも視覚的な影響つまりカメラワークの影響からは逃れられる。やはり聞き返すと演奏の細やかさがよりはっきりする。想定通り、本放送の映像がスムースに流れ難そうなので、ツイッターで教えてもらったアジア向きのアドレスに最初から切り替えた。そのお陰で完璧に ― 一か所三幕後半でスイッチングの放送事故があったが ― 音も映像も流れたが、映像は強制的な英語字幕なので字幕無しをオンデマンドで録り直さなければいけない。

それにしても確かに二幕「修道女アンジェリカ」でのヤホの声は大きくはないのだが ― ヤホ、ヤホというと何か美保とか瑞穂とか呼んでいる感じになるが、こうした放送で聞くと全く威圧的なシュスターの歌声と比べても決して引けを取らない。二日目の下支えする管弦楽よりもこのストリーミングでは声楽と並行して歌っている風で更に細やかな歌になっている。声も出ていたがアンサムブルとしてのバランスが向上しているだけでなく、ヤホの歌もより技術的に正確な方へと改善されている。やはりペトレンコ指揮の下で皆が学ぶのだ ― いづれオペラは振らないようになるといってもオペラ界にバーデンバーデン祝祭が恋われるようになるのだろうか。

三幕は最初から更にネジが掛かっていたが、残念ながら代役が袖で歌ったことから若干テムポ感が鈍った感じはした。代役の歌は全く問題なく、来年のオペラフェストでは彼が歌うのだろう。二日目に比べると全てにおいてアンサムブル重視の方向へとより繊細な方向へと舵を切っている感じだ。その意味では、カメラワークと代役の問題があり喜劇性は二日目の方が強かったと思うが、最後の落ちの辺りはとても素晴らしかった。やはり一幕二幕で完全に泣かせるぐらいでないとここまでの効果は出ない。

プッチーニがその効果を願ったというよりも、今の日本語流に言わせると共感力(EQ程度)が試されるということになる。演奏家自身がそこで効果を狙っていたならば決してこうした効果は生じない。キリル・ペトレンコは、この作品を取り上げるに際してあらゆる版の研究もしたという。プッチーニの創作の真意に確信を得るためには必然だったのだろう。楽譜台にはリコルディー版が乗っているようだが、そこまで研究しないと、こうした楽曲が如何に表面的なキッチュなものでお涙頂戴の効果を狙ったものでしかないのかどうかも分からないのである。(続く




参照:
"Il trittico" - Recording from December 23, 2017, The production will be available as VOD for 24 hours starting from Dec. 24, 11:00 AM (CET) until Dec 25, 11:00 AM (CET). (Bayerische Staatsoper TV)
不覚にも嗚咽が漏れる 2017-12-19 | ワイン
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-12-24 20:27 | | Trackback

フルトヴェングラーの響き

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これで漸くクリスマスのストレスから解放される。毎年のように暗い広場の市場で魚のテリーヌを入手して、パン屋に寄り、肉屋で注文のものを回収して、買い物が済んだ。水曜日まではこれで籠れる。その間に頂上まで一度二度走れれば満足だ。

昨晩はミュンヘンのヘラクレスザールからのライヴ中継を聞いた。ブロムシュテット指揮のバイエルンの放送交響楽団の演奏である。食事のバラ寿司を作りながらなのであまリ真剣には聞けかったが、あまりにも不細工なジュピター交響曲の演奏なので録音していたものを直ぐに消した。なるほど同僚として挙げていたようにハーノンクールなどの奏法を取り知れていて、若返りを試みているが全くものになっていなかった。

日本などでは「この交響楽団は欧州有数」と恐らくその管楽器ポストなどがARDの優勝者の勤め先になっていることなどからか、それともあの強引なドライヴのヤンソンスの楽器になっているからなのかは知らないが、基本は昔から変わらず弦楽などのアンサムブルはあまりよくない。それがあまり上手くない棒で弾くとこうなるというお手本のようなもので、ヴィーナーどころかその面ではゲヴァントハウスなどとは比較にならないことを再確認した。流石にドサ周りのバムベルクの地方交響楽団とは違うが、遠くから出向いて聞くほどの管弦楽団ではないのは昔から変わらない。

老指揮者の管弦楽団次第の演奏は仕方ないのだが、その話しのインタヴューは聞き逃せない ― 体調はベルリンの時より大分良さそうだ。これほど話の巧い音楽関係者は他にいないと思う。流石の伝道師だ。今回もフルトヴェングラー話しが興味深かった。ブロムシュテットは、同じように自身で聞いたトスカニーニやブルーノ・ヴァルターとの比較でフルトヴェングラーを語るので、我々にとってはとても貴重な証言である。なによりも専門家であり、アメリカ人ならば他の指揮者と同時にフルトヴェングラーは聞けていないからである。

「フルトヴェングラーはロマンティックな音楽家で自ら作曲もして」と明らかに今でも通じるトスカニーニとは異なると断言している。これに関しては美学的な問題であるのでそのままは受け入れがたいが、それ以上に語り手の美学的な立場を反映している。そこで氏は、「自分自身はそもそも音楽学者志向」だからと述べていて、「フルトヴェングラーのテムポとか譜読みは最終的にその響き作りに最も都合のよいようになされている」とこれはとても重要な発言をした。そこで、例えばトスカニーニなどの譜読みとの比較になっていて、作曲家でもあるフルトヴェングラーの第二の創造であるというような意味合いと現在のブロムシュテット自らの立場を表明している。

メトロノームの半分しか刻まないフルトヴェングラーについてだけでなく、モーツァルトのテムポの可能性に関してもライポルト氏が質問していて、それに対して楽想ごとのテムポの相違とパウゼに関しても言及していてこれもとても面白かった。結局は最終的にキリル・ペトレンコの指揮のように技術が語ることの方が重要なのである。

我々がこの発言から驚愕するのは、やはりそのフルトヴェングラーの響きへの言及であり、まるで心霊写真かのように、なぜかフルトヴェングラー指揮の演奏録音は音がしっかりしない現象をいつも体験している人が「あれか」と思うその響きだ。この証言はやはりとんでもなく貴重だと思った。特に当時のドイツの音楽界を考えると、一方では新機軸のベーム指揮のシュターツカペレの様なノイエザッハリッヒカイトの響きがまさしくナチの芸術を音楽的に代弁していた訳だが ― 映像表現などともそのまま共鳴する、その一方でああした戦中から引き継がれる音楽芸術が存在した意味はあまりにも大きい。一体あの響きは何だったのか?

ブロムシュテットの譜読みの姿勢は、キリル・ペトレンコなどのそれにも共通する姿勢がみられるのだが、後半に演奏されたシュテンハムマーの交響曲二番においても87歳で初めて見つけて、それをやるか、やらないで終えるかの二者選択でやることにしたという、そのなんともこの人の人格を表しているのがまたその譜読みの姿勢でもある。これはある意味重鎮の音楽家にしてはとても危ういのであり、実際にその演奏にもそうした危うさが反映していた。

非常に実務的な態度であり、現場の空気をとてもよく伝えてくれる一方、その指揮の技術とか職業人としてのそれも可成り緩いな思わせるのだ。もう一域立ち入るとすれば、フルトヴェングラーのその響きというのは本人のエッセイなどを待つまでもなく、近代芸術音楽の構造の展開の根幹にある。一方では、和声関係からの所謂バロック音楽通奏低音に依拠する響きを古典的とする管弦楽運動が存在したことも事実であろう。この老指揮者が歌いそして解説するお話しが分かり易く格別面白いのは、まさしくそうした枠組みを一歩も踏み外さないからだ。それを芸術美学的に評価すれば、指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットがなぜ超一流から遠く、音楽先進国ではその話しの面白さに関わらずそれほど珍重されていないかの傍証になっていると思う。

今晩はプッチーニ「三部作」の三日目の中継である。日曜日にオンデマンドになるということもあり、映像はチェックだけにして音だけに集中して完璧に聞ければよいかとも思っている。今までの経験から動画の完全ダウンロードは難しいと思うからである。生放送の音だけでも完璧にDL出来ないだろうか。



参照:
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-12-23 20:26 | | Trackback