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エルブのバーンスタイン

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エルプフィルハーモニーからの中継録音を聞いた。前日に生中継されるものだったが、技術的にならず一日遅れの録音中継となった。先ず何よりもいつものフィラデルフィアからの中継とは音質が違う。会場のアコースティックではなく、録音の機材なども異なるという事だ。バーンスタインの最初のクラリネットの部分ではまるでアナログ録音のようにサーノイズが目立っていたが、後には目立たなくなった。音量調整をしていたのだろう。また、音響とも関係するが客の咳がとても喧しかった。同曲をバーデンバーデンで聞いた時は私も大変だったので、ハンカチで押さえて自分自身で窒息しそうになっていた。最近は会場で態々布で口を押さえてとかのまるで日本のような注意が表示に出るが、ハムブルクではないようだ。嘗てのドイツの会場の雰囲気を思い出した。

暫くすると、エルプフィルハーモニーのアコースティックが浮かび上がってきた。NDRの録音であるが、なによりも放饗とは比べられない超一流管弦楽団のしっかりとした歌い口や、更に指揮者とピアニストが最小音を駆使しているのが手に取るように分かった。その分ダイナミックスが広がるが、低弦も適当な硬さがあって、さぞかし会場で聞くと抜けた透明な響きがするのだろうと予想可能だっだ。ティボーデーのピアノはジメルマンとは異なって、とても細やかで感受性に富んだ音で弾いていて大変良かった。フィラデルフィアからの放送では到底聞き取れなかった細やかさは会場のお陰であり、管弦楽団の鳴りも素晴らしいに尽きた。

ハムブルクでの二日間の評も出てきているが、阿保親仁が主幹のヴェルト新聞は若手もクラオタク程度としても、地方紙の程度はバーデンなどと同じで大したことが無い。だからシューマンの弦におけるフレクシブリティーへの更なる希望と管とのすれ違いに関しては何とも言えないが、少なくともそれはルクセムブルクではベルリンのフィルハーモニー程度のアンサムブルの比では全くなかった事は既に記した。しかし弦楽陣のその批判は理解出来て、大なり小なりビックファイヴのアインザッツが揃う弦楽陣にはその傾向がある。嘗てのシカゴのような細い針金を束ねたような弦楽は最早どこにも無いだろうが、あのアジア系の多いヴァイオリンなどにはそれを感じるのも事実だろう。しかしそれでも斎藤記念とかの程度と比べるまでも無く、中声部の動きなど見事で、コンセルトヘボーのそれとは違うがやはり第一級であることは間違いない。

後半にチヤイコフスキー交響曲4番が演奏されたが、夜も更けて22時過ぎていたので窓が開け放たれたところで小さな音で流し乍ら楽譜を見ていたが、最後には居眠りをした。それでも指揮者の特徴も発揮して、また新聞が書く様に「名人技に、気の入った木管陣」も見事で、そのソロだけでなく繋がりにも惚れ惚れした。なるほどネゼセガンは、キリル・ペトレンコのように瞬時にテムポアップ・ダウン可能な技量は無いが、その分二三小節前から準備する昔通りの「演奏解釈」のアゴーギクを駆使していて、それ故に余計にそのシューマンをしてまるで「カラヤン世代の鳴り」のようだとも書かれている。これは記者が全く楽譜を見ていない証拠で、カラヤンがネゼセガンのように細やかに楽譜を音化していた試しはない。これをして如何にハムブルクの音楽水準なんてこんなもんだと思わせるに十分だ。

再び「不安の時代」に戻れば、そのジャズのイデオムとか変奏の構造とかとは別に、また具体的な「ホテルのバーとかの情景」などではなく、この曲の持っているハリウッド映画的な効果、つまり作品から客観的な、またそれとは別な視点からの自身の環境への覚醒が生じるという事から、この曲の入っているプログラムばかりをこれからヴィーン、イスラエルから執拗に生中継するというとんでもないプロジェクトへの理解が生まれてきた。つまり、私たちが生中継から感じるのは決してその日の演奏の出来不出来ではなく、その会場と聴衆を取り巻く環境であるかもしれないと気が付いた。些か馬鹿げたプロジェクトにも思えたが、もしかするとこの政治・倫理問題でもあるツアーへの決意やそのプログラミングの真意がそこに明白に示されるような気がしてきた。そしてこのバーンスタインの曲自体がそのように開かれた面を持っていることにも気付いた。もしかすると、この日もアンコールとして演奏された「(世界が必要とする)愛の挨拶」と共に、その通りネゼセガンが語っていた「記念碑的」な演奏ツアーになるかもしれないと思うようになった ― 因みにハムブルクでのもう一つのプログラムは後半にブラームスでパリなどとは前半と後半が入れ替わりアンコールが無かったという。

ネゼセガンがグラモフォンと契約更新する風景が報じられていたが、それやこれや管弦楽団が世界一巧いかどうかとかなんかどうでもよいことで ― ドイツでも現場を知らないジャーナリストなどに限ってアメリカの音楽文化などとしか理解していないのかもしれないが ―、こうした音楽活動がどのように、なにをしようとしているのかの表現をしっかりと見極めることこそがジャーナリズムなのである。

床についてティッターを見るとスペインのフォロワーさんがYouTubeに出たばかりのマーラーの七番のフィナーレの演奏風景を紹介していた。寝て居れずに起き上がって、ダウンロードして、あまり券が売れていないバービカンホールでの演奏会を紹介しておいた。折角HDでダウンロードさせてくれたのだからそれぐらいはしよう。素晴らしい映像で、想定以上に楽団も良く弾いていて ― 恐らくこの間のエルプフィルハーモニー、カーネギーデビューの経験の上乗せがあるのだろう ―、そしてペトレンコの指揮を見て、やはりこの人は天才だと改めて思った。何処の世界でもそんなに天才なんかいない、だからそれを基準にしたってしようがないのだ。



参照:
プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-05-31 21:19 | マスメディア批評 | Trackback

索引 2018年5月

プロテスタント的批判 2018-05-31 | 文化一般
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活
準備万端整え、いざ 2018-05-26 | 雑感 TB0,COM2
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感
ルツェルンの想い出?? 2018-05-24 | 雑感
またもや因果な商売 2018-05-23 | 雑感
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
降臨しないケントの棒 2018-05-21 | 暦
遮断される聴空間 2018-05-20 | 雑感
ラインガウワーの印象 2018-05-19 | ワイン
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
五桁ほど違う経済 2018-05-17 | 生活
業界のダークホース 2018-05-16 | 雑感
トレンドは冷えた「神の雫」 2018-05-15 | 試飲百景
リツイートされた影響 2018-05-14 | BLOG研究
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
習うより慣れた判断 2018-05-11 | 試飲百景 TB0,COM2
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
決してCPで負けない 2018-05-09 | 試飲百景 TB0,COM2
二日間の試飲の旅 2018-05-08 | 試飲百景 TB0,COM2
着陸コースの空の下 2018-05-07 | 試飲百景
生誕二百年祭の日 2018-05-06 | 暦
生誕二百年記念式典前 2018-05-05 | 暦
元号廃止などと昔話 2018-05-04 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
WLAN構築準備開始 2018-05-01 | 生活

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by pfaelzerwein | 2018-05-31 15:08 | INDEX | Trackback

プロテスタント的批判

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エルプフィルハーモニーからの生中継がならなくて残念だった。準備万端整えていたのだが、技術的障害とは想定外だった。そのために一時間の時差を置いてあった筈だ。ラディオ番組の放送時刻もあったのかもしれないが、一時間あればどのような方法でも可能だった筈だ。今時音声データーの精々3GBほどの転送に技術的問題など考えてもいなかった。録音側はNDRが受け持っていたのだろうから、そこに問題があったとは思えない。やはりストリーミングするサーヴァー間の問題なのか。ARD内ならばいつでも使えるサーヴァーがある筈だが、外部なのでそれは使えないからだろう。

録音するだけならば後日の追加放送で構わないが ― NDRの放送日は7月29日である、次の予定のヴィーンも6月1日で同じプログラムだけなので、先ずはエルプフィルハーモニーでの初めてのフィラデルフィアサウンドを聞いてみたかった。こんなことならばもう一つのグレモーのピアノのプログラムの方を流して欲しかった。

一方ミュンヘンではキリル・ペトレンコ指揮でマーラーの交響曲七番が演奏されていた。この二日目を終えてロンドンデビューである。南ドイツ新聞は、プラハ初演でのプローベを語る弟子の指揮者オットー・クレムペラー伝を引用して、シェーンベルクがマーラーに「あなたは私にとってある種クラシッカーだと思っていましたが、どうでしょう、お手本ですよ。」と首を垂れた事に言及している。これを読めば今回の演奏がどのようなものであるかが良く分かる。

先日亡くなった作曲家ディーター・シュネーベルの訃報記事に目を通した。ベルリンを代表する作曲家とはなっていないから、まだ誰が居るのだろうと思ったら、なるほどまだ生きている老人をそこに数える訳にはいかないのだろう。ベルリンにだけでなく、ミュンヘンはおろかプファルツにもと書いてあって、一体どこで誰に教えていたのかなと思った。マインツか?オルテナウのラー出身だとも知らなかったが、プロテスタンティズムの懐疑が心情と書かれている。そもそものその神学における、そしてピューリタン的な偶像廃止への懐疑が、当初はアドルノの影響を受けて「シェーンベルク」で学位を取ったもののダルムシュタットでのセリアルとは距離を置かせるとなる。

キーワードとしてブレンドヴェルクと、建築のファサードの装飾を挙げて、そのオーラを放出する表面とその創作を指す。そこから同時にポストモダーンの形へと流れ込まないのは当然であり、ヴァルター・ベンヤミンの言葉を使って、「目標は、将来へと再び否定されるところのものとなる」とあくまでもプロテスタント的な批判がなされる。ここでその音楽に深入りする前に ― もし夏休みの時間が取れたなら楽譜が手元にあるので、改めて楽曲アナリーゼをしてみたいとは思うが、その演奏の録音を今流して、その成果を再確認している ―、ここでもう一つのキーワードである学究的若しくは逐語的への批判を一考する。

ミュンヘンでマーラーの交響曲七番演奏へのとてもよい批評から、恐らくマーラー解釈のスタンダードになって行くだろうとされる丁寧な動機の扱いの積み重ねだと思われる。その基本にはキリル・ペトレンコの楽譜そして第一次資料への拘りがあり、否定される余地がないものなのだが、この辺りでそうした姿勢にも批判的な視点をも確保していきたいと思っている。述べている通り、もはや歴史的評価の定まったペトレンコの芸術を称賛していても始まらない、面白くもないからだ。可能ならば批判が止揚されるような批判こそを願いたい。その端緒として、その「逐語的な楽譜解釈における批判精神の欠如」が挙げられるのではなかろうか。演奏実践の解像度を上げていくことでしか到達可能でない領域に入ってから、そして初めてその批判領域に入っていくのだろう。

ラトル指揮の最後のツアーへのコンサートの様子が報じられていて、ブルックナーのフーガではラトルが執拗に弦を煽るのに対して、管が付いていけなかったりと通常ではありえないぐらいに最後の数メートルへのひと押し状況になっているらしい。昨年の春の祭典での力のぶつかり合いが引き合いに出されているが、復活祭でのルーティンなマーラー交響曲などを見ると、想定外の力の入り方のようだ。そこで16年前の最初の頃には、「古楽奏法を教えてやった」と語り、管弦楽団を「ビックフット」と笑っていたのだが、ここに来てまるで指揮者が偉大か管弦楽かを示すかのような競演になっていて、若者のための普及などの貢献を通して、彼自身が最後には管弦楽に合わせて「ビッグフッド」になっていると書いている。そしていづれにしても管弦楽は新たなものを求めていて、キリル・ペトレンコ指名への決断こそが、「学究的」な管弦楽育成であるとしている。まさしくその「学究的な」ことこそが ― 「サーカスの猛獣使い」とこれが同義語になるのが「日本の学界」のようだが ―、今後の展開で建設的な批判の焦点になるのだろう。そこで話しの発端へと戻ると、その二つ目のキーワードこそが、「プロテスタント的な言語的定着」であり、その中で一つ一つ正確に熟していくというシュネーベルの仕事ぶりが述べられている。まさしく、余談ながら日本の学問において、たとえそこに漢字的な定着があったにせよ、Akribischと逐語的が結びつかないところであろう。

奇しくもベルリンのフィルハーモニカーの管楽陣と弦楽陣間のアンサムブルの傷に言及しているが、次期体制へと変化していくところが示唆されていて興味深い。フィラデルフィアサウンドなどを照査すると、そうした管弦楽団の原点のアンサムブルの形態や様式などにどうしても関心が向かうのであり、なにもそれは合うとか合わないの問題では全く無しに演奏様式を超えて、レパートリーや管弦楽団の存在意義についての考察となる。



参照:
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-05-30 23:03 | 文化一般 | Trackback

「八十八夜とは氷聖人の日」

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ここ暫くのランニングは厳しかった。気温が高いからだ。少し負荷を上げると汗が噴き出す。下りて来てタンクの水を浴びてクールダウンする。思う存分朝から汗を掻くので午後は眠くなるが室内では暑くて困ることは無い。まだまだ乾燥しているから盛夏のような暑さではなく、夜中は締め切って就寝可能だ。

京阪の温室で摘んだ新茶を飲み終えた。僅かな量だったので六回ぐらい煎れただろうか。上手く出せたのは二三杯だった。温度も管理して急須も温めてと苦労したのだが、それぐらいのアヴェレージだった。水自体は通常の煎茶で問題が無く、可成り柔らかい筈だが、新茶のお湯の温度が難しい。玉露並みに冷まし過ぎると上手く出なかった。玉露のお湯加減の方が簡単だ。しかしうまく出ると、苦くも甘くも無く、フレッシュさが漂う清涼感が何とも言えなかった。夏にもこうしたお茶が飲めると嬉しい。

新茶の「八十八夜」を調べると、いつもレープホルツ講話に必ず出て来る「アイスハイリゲ」との共通性に気が付いた。前者は立春から88日目となっていて、後者は幾つかの聖人記念日の五月前半となる。つまりこれらは太陽暦でほとんど同じ時期で、その意味も遅霜が下りる時期であり、これを超えると作物は一安心となる。奇しくも温帯地方の日本のお茶とドイツのワインなどの作物が同じ時期に霜被害を受ける可能性があるとはとても不思議だ。

ワイン祭りが近づくので、イヤーフォンのイヤーピースを調整してみた。付属品として四種類の大きさの二種類の材質のイヤーピースが付属している。丁寧に開けて、それを観測して試してみる。先ず大きめのにすると押し込む形になって駄目だ。小さいと隙間が多くなる。するとMのもう一つの素材を試してみる。もともとついていたのは固い素材のピースで、それを捥ぎ取るのにも気を使った、回せと書いてあるように見えたが到底動かないので、爪でこじ取った。一体どれぐらいの人がこんな細かな仕事に耐えられるのだろうか。それほど器用でないことは自覚しているのだが、状況さえ確認可能ならば対応可能だが、なにも分からないで手探りで作業を行うことになる。壊すことも無く取り換えたが、扱い難い。

柔らかい混合素材の方にして耳に押し込むと圧迫感が少なくなった。アウトバーン走行中の経験からその素材と気圧の変化の問題は別だが、耳のあたりを重視した。それで密閉度が足りないのかどうか試してみたい。しかし音が出ているスピーカーの前で試してみても楽音は殆ど漏れてくる。波形のシャープなものはノイズキャンセルでは対応しないようになっているのだろう。ワイン祭りの戸外の音楽はサラウンドになると言っても距離があるので雑音としてキャンセルされることを願っている。

自動車の騒音もタイヤのロール音が大きく、あれが消えるならば楽音のバスの喧しいようなものはキャンセルしてくれるのではないかと思うが、そこに乗っている倍音成分は消えるだろうか?ピースの素材による音質の変化などは今のところ全く考えられない。そこまでの音質が得られているのかどうかもまだ分からない。兎に角自分自身の耳の中の音響自体にまだ慣れておらず評価を下すまでに至っていないからだ。少なくとも固い素材は柔らかい素材よりはシャープだとは思う。

プラスティック素材では、欧州からストローや綿棒の芯、カクテル棒、お皿類の発売禁止の法案が纏められようとしている。環境団体からは木を使う様になればそれはそれで問題があるとされる。少なくとも食料のテークアウト用のその手のものは無くなると思う。あれが無くなると、精々アルミ素材のお皿ぐらいが残るのだろう。寿し類などはフォイル処理した紙箱しかないだろう。可成り影響は出ると思われる。個人的には綿棒とストローぐらいなので発売禁止になる前に少し買っておけば用が足りる。キャムプ用などには今まで以上に紙素材のそれが使われるようになるのだろう。



参照:
トレンドは冷えた「神の雫」 2018-05-15 | 試飲百景
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感


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by pfaelzerwein | 2018-05-29 23:07 | | Trackback

尊重したい双方向情報

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承前)余話となるが、フィラデルフィア管弦楽団の手元の録音を流している。数は少ないが何枚かはディスクがある。こちらではザヴァリシュ指揮のツアーが最も注目されていたがプログラムがつまらなかった。手元にはその頃録音された初代監督ストコフスキ編曲集がある。ムーティ指揮もあるが、気になったのはショスタコーヴィッチ全集で10番と11番を担当しているヤンソンス指揮の録音だ。少し流して気が付くのは、96年の録音だから現在メムバーとは殆ど重ならないだろうが、この指揮者が振ると急に余裕が無くなってしまう。指揮者自身が心臓に来るのは当然というような鄧小平が新幹線を「後ろから鞭が入っている」と評したように、如何にもソヴィエト文化らしい演奏だ。この水準の楽団になるとこの指揮者には振らすのがやはり惜しい、精々オスロやミュンヘンの放饗ぐらいどまりの指揮である。

その点、現監督のネゼセガンは知的程度も高いようでコミュニケーション能力にも秀でている。なんといっても指揮技術的には優れているので、成長が期待される。反面それだけに目立ちがたりであるのは指揮者の本性で、その指揮に批判が集まるのはその点である。技能的にはギリシャ人のカラヤン二世の方が高いのかもしれないが、フィラデルフィアでのつまらない録音も楽団のためと言うならば理解されよう。そして今回のようなプログラミング作りは、その能力の一つとして十分に誠実さを窺がわせ、舞台捌きも決して悪くはないどころか、広い聴衆に訴えかける力も有している。プロテストについて一言付け加えた前夜に続いての同曲のアンコール「愛の挨拶」までのプログラミングもである。

今回のイスラエル建国70年ツアーに際して、その抗議活動も含めて、やはりこの活動に注目したい。まさしくコメントされたように、今回のツアー実施への裏表をも全て含めての決断への「尊重」である。この点では、生誕年と言うだけでなく、そのバーンスタインの交響曲「不安の時代」の演奏が先ずは火曜日にエルブフィルハーモニーから一時間時差で生放送される ― 既にフィラデルフィアからは放送されている。この指揮者の音楽的な実力もその限界もある程度は把握出来たと思うが、彼自身が語っているようにバーンスタインは指揮者としての手本となっていて、その点でもこれはこの指揮者の知的な芸術活動に期待するところでもあるのだ ― 至らないまでもその活動は北アメリカからの一つの指標とはなるのではなかろうか。

休憩後の二曲目は新曲のオルガン協奏曲だったが、これはフィルハーモニーのオルガンも聞けて良かった。そして管が各々にそこに絡む訳であるから、もう一つのプログラム曲「ドンファン」よりも管弦楽団のショーウィンドーとして熟慮されている。編成も大きく、その管の繋がりだけで一聴に値した。またオルガンのポール・ヤコブのペダルテクニックも見ものだった。

さて愈々三曲目のシューマンの交響曲四番であるが、そのままの大編成で、既に書いたようにプリンシパルの奏者などが出て来るのだから、そのサウンド自体にも初めから期待させた。放送であったように大編成でありながら室内楽的なアンサムブルを目指していて、管と弦もとてもよくコントロールされている。まさしく指揮者の腕なのだが、それは上のザヴァリッシュ指揮の録音で全く出来ていないことが可能となっている面で ― メゾフォルテと呼ばれたその指揮者でもとどのつまりカラヤン世代であることを思い起こさせるに十分な脂ぎったサウンドで嫌気がさす。ムーティの方が遥かにおしゃれだろう、しかし日曜日に放送されたラヴェル編曲「展覧会の絵」をネゼサガン指揮で聞くと、現在シカゴとフィラデルフィアではどちらが音楽的に機能的かは明白で、シカゴが苦戦している ― だからキリル・ペトレンコを尊重したのだが、フルトヴェングラーと同じようにベルリンには負けたのである。同時に終楽章では編成に見合うだけに十分なダイナミックスを準備しているのだから、シューマンの交響曲らしからぬ熱さもある。それでも例えばロスフィルのような金管が響く訳ではなく、なるほど欧州の趣味ではそれほど熱い支持は得られないかもしれないが、十分に会場は湧いた。勿論シューマン解釈へである以上に管弦楽への絶賛がその拍手にもよく表れていた。その意味ではより洗練されたクリーヴランドよりは湧きやすいかもしれない。

それに関してはやはりフィラデルフィアからのネット中継の効果が大きく、少なくとも奏者の名前や膨大な量の情報がフランコーネの指揮者や演奏者の口から齎される威力は、それが英語であることを含めてとんでもない広報効果となっている。ルクセムブルクに集まった何人がその放送を聞いているかは分らないが、遠来の客にしては身近に感じさせる効果が大きい。つまり演奏会などの催しにしても、こうした双方向のコミュニケーションがインターアクティヴな新たな形で生じる可能性は、まさしくベルリンでツェッチマン支配人などが行おうとしていることなのだ。

幾らかそれに関連して独仏文化TV局ARTEが正式なアンケートをネットで取っていたので返答した。質問項目以外に、「あなたが局長になったら」という問いに、「独仏国境領域での更なるダイレクト中継、最後ではなくてバーデンバーデンの祝祭劇場から、例えば復活祭」と書いたので、局がベルリンのフィルハーモニカーのメディアパートナーになって今後の具体策を出すときの後押しになると思う。兎に角なんでも機会があれば少しの時間を割いてでも意思の表明をしておかないと始まらない。インターアクティヴの形は数があり、文化におけるそれはまだこれからより具体的な成果になってくると思われる。(終わり)
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参照:
荒野に生えた葡萄 2005-04-29 | 歴史・時事


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by pfaelzerwein | 2018-05-28 19:05 | 文化一般 | Trackback

ビッグファイヴの四つ目

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ルクセムブルクでのフィラデルフィア管弦楽団演奏会は私にとっても大きな出来事だった。昨秋のクリーヴランド管弦楽団とはまた異なる体験だった。後者はアメリカのそれとしては変わり種で「細いピンセルで」とホームグラウンドの会場の音響ゆえに決してグラマラスな管弦楽にはならないのだが ― 恐らくジョージ・セルの芸術はそうした環境によって形成さられたのだろう ―、それに反してこちらはゴージャスそのものでフィラデルフィアサウンドとして知られている。要するにビッグ5の中でも最もアメリカ的と考えられているが、私の関心のありどころはそのサウンドにあった訳ではない。

それに関してビッグファイヴの解説をプログラム冊子で試みている。書き手の見解では各々の管弦楽の創立年代を併記すればその特徴が浮き上がるとなる。ニューヨーク1842、ボストン1881、シカゴ1891、フィラデルフィア1900、クリーヴランド1918となる。つまり輸入?音楽のその目的に敵った編成、形態や機能がサウンドを形作っているという事になる。欧州のベルリン1882、アムステルダム1888をそこに並べてみるとどうか?欧州の場合は創作活動の場と演奏実践の場が重なり影響し合うので変化が伴うが、アメリカの場合は輸入文化としてある程度固定される可能性が強い。さて具体的にはどうか。

だからメトで活躍のネゼセガンの指揮への期待でも、エレーヌ・グリモーを聞きたかった訳でも無かった。もう少し複雑で、ムーティやレヴァイン指揮でその録音を聞いていて、最近中継放送で聞き始めたこの管弦楽団の機能性と現在の水準を確認したかった。だからネゼセガンのような力のある指揮者が常任として振っている事が欠かせなかった。その意味でバーンスタイン指揮でしか知らないニューヨークのそれは未だに確認できていない。

肝心の実力であるが、演奏旅行という事で一曲づつ少なくとも管楽器はベストメンバーが配された豪華さで、一曲目のブラームスや休憩後のオルガン協奏曲にはバス―ンのマツカワが出ていなかったので残念に思っていたぐらいだ。ダニエル・マツカワはその楽器の名人のようで、フィラデルフィアからの放送でも最も多く名前が発せられる。だから残念に思っていたが、二曲目よりも編成の小さなシューマンで登場となった。そしてこの名人が吹くことの意味を確認した。この人の名前を知るようになったのは放送を聞くようになってからだが、どうして頻繁に名前が挙がるのかはシューマンを聞けば一聴瞭然だった。この人が入ると管弦楽の響きが変わるのだ。その吹いている様子を見ているとバスラインをコントラバスやチェロなどと一緒に支えている。金管と違うのはその音色で、一吹きすると合奏の弦楽器の音が変調する。

まさしくゴージャスなフィラデルフィアサウンドになる。そして放送で聞き取れなかったのはやはり音の揃ったコントラバスの締まり具合で、キリル・ペトレンコが先頃の「指輪」ツィクルスの特に「ヴァルキューレ」で聞かせたような触れたら切れそうなそれには到底至らなくとも同じ方向であり、クリーヴランドのあの乾き切った音ではないのも、正しくバス―ンが綺麗に重ねているからだ。オーボエのリチャード・ウッドハムズも立派な音が出ていた。フルートのジェフリー・カーナーも良かったが、クラリネットのリカルド・モラーレスがマツカワの横で芯のあるクラリネットを響かすという腕利き揃いだ。モラーレスも ― レヴァインに悪戯されていないのだろうか? ― 、彼らの名前は放送で知っていてもこうして写真とHPを合わせて初めて顔を認識した位だが、それらが一曲目ブラームスでは休憩をしていて、中入りからトリとなると揃ってくるのだから千両役者勢揃いの横綱相撲のようである。

そこからすると一曲目のブラームスの協奏曲では、前日ブルッセルでは「フリーパレスティナ」の抗議行動で演奏を中断・再開しており、この日も指揮者登場前にフィルハーモニー支配人が一言述べたように、聴衆も演奏者も一寸した高揚と緊迫感があった。ネゼセガンに期待される正確な読みと指揮技術はその通りだったが、若干ピアノをマスキングしてしまうぐらいな音量を出していたのは残念だった。メムバーもプリンシパルが若干落ちた編成で演奏していて、音量コントロールが儘ならなかったとも思われない。少なくともグレモーのあのピアノにはもう少し丁寧に合わせてもよいと思った。言うならばそこがこのメトの次期監督が、キリル・ペトレンコ指揮の「ばらの騎士」のカーネギー会場で習わなければいけないと指摘されるところだろう。もう一つ危惧していた二楽章などでの合わせ方は、これはよく辛抱していたと思う。三楽章はピアノもコントラストが付いていたのでとてもうまく運んだ。違う会場で、合わせものを演奏する難しさもあったかもしれない。つまりネゼセガンがそこまでコントロール出来ないのか、若しくはペトレンコのブラームスの様にそこまで合わせようとしないのかの疑問は指揮者に向けられるもので、管弦楽団の技術的な問題とはまた異なる。(続く



参照:
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-05-27 19:16 | 文化一般 | Trackback

まるでマイバッハの車中

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帰宅したのは午前一時前だった。アウトバーンから降りて峠を下って帰ってきた。時間的には不利かも知れないが、残り燃料が少ない時には少しだけ上って長く下るので効率がいい。距離的には近い。それでも街に下りてくる最後の辺りは可成り意識が薄れていた。アルコールが一滴も入っていなくても疲れがあった。それだけ途上での空いた時間も準備をして真剣に聞いたからだ。これほど実りがあるとは思っていなかった。

先ずは最短・最速経路でシャルツホーフベルクのあるヴィルティンゲンに向かった。ファン・フォルクセム醸造所に2017年物を取りに行くためだ。距離にして150㎞で二時間少し要す。つまり200㎞のルクセムブルクと時間的に15分ほどしか変わらない。今回のもう一つの目的はノイズキャンセルリングイヤフォーンのテストだった。無事にシャツを洗濯屋で回収して、峠手前の駐車場で着替え、徐にケースから取り出し、タブレットでラトル指揮のシューマンを鳴らす。

先ずブルーテュースをセットして、ノイズキャンセリングにするとエンジンを掛かっているのかどうかも分らなくて、もう一度キーを回してしまった。V型エンジンであるから振動はもともと少ないが、20年近くも乗っていると流石にエンジン音が聞こえるようになる。だから錯覚が重なって、運転するのが怖かったぐらいだが、走り始めると、視界に集中する分落ち着いた。その走行感はマイバッハかロールスロイスに近く、私の知っている限りではジャグウアーのV12に近い。振動面でも、古い車は足回りもがたが来ているのだが、そのようにしか表現が仕様がないほどの走行感である。もともと車として静かな方だと思ったが、これを使えばどんな襤褸車でも高級感が味わえるのだろうか?そして聴覚からの疲労感は少なくなると感じた。

アウトバーンで感じたのは、自身では気が付いていなかったが、やはり走行音がスピードへの抵抗になっていて速度感が得られていることだった。音が聞こえないぐらいでついつい30㎞ほど余計にスピードが出ていて、一般道でもラムぺのカーヴで突っ込みそうになった。要するに知らず知らずに飛ばしてしまう。目的は燃料節約であるから抑えるつもりでも、一般道に下りてからもスピード感が分からずに違反が怖い。兎に角気持ち良かったのだが、アウトバーンでフンツリュックの高原地を上り下りするうちに耳に違和感を感じた。気圧調整をしなければいけなかったようだ。大した高低ではなくそのスピードも限られているのだが、飛行ならばとても重要な機能だと分かった。これで耳栓の大きさなどを調整すれば可成りな威力である。フィルハーモニーについてからも地下駐車場で、最後にシューマンの四番を楽譜を見乍ら聞いたが、とても落ち着いて集中して聞けた。まあ、これだけでもこの価値はあるかとも思った。

13時半にはヴィルティンゲンの上部のシャルツホ-フベルクに着いたので、フォルクセム醸造所には14時過ぎに立ち寄るつもりで、反対斜面の木陰に車を停めピクニックとした。先ずは一合で三個作った握り飯だ。梅干し入りの三角握りである。朝早く炊いて作ったのだ。これを二個と果物などで腹ごしらえをした。残りの一個は帰路でバナナと一緒に消費して何とか帰宅可能となった。

ファン・フルクセム醸造所に行くと、まだ瓶詰したところで、試飲も出来ないが、新たに建造した醸造所にあるという事でそこに向かう。大きな建造物という事でそれらしきに向かったが工事中で看板も出ていないので、近所で再び聞いた。爺さんは、「あれもフォン・フォルクセムで、ビットブルガーも彼のものだよ」とか、ご近所さんの気持ちが良く出ていた。結局行き違いもあったが、グーツヴァインの「ザールリースリング」を持って来て貰った。その下の斜面ではヘリコプターで散布作業がされていた。巨大な建造物で投資額も2ミリオンでは足りないだろうなと思った。今では品質共々ドイツの最高の醸造所の一つであるから自己資金でなくても貸し付けは全く問題ないだろうなと思った。

ヴィルティンゲンからルクセムブルクまで、ザールの河口であるコンツを通って、国境のグレーフェンマァヒャーまでモーゼルの右岸の地道を走った。50㎞で50分ほどの行程であるからそれほど変わりないのだが、ここでも簡単に走り抜けて、疲れず燃料を温存するのが狙いだった。ルクセムブルク市内は前回の日曜日とは異なって、大学やEUの施設付近は人が多かったが、二度目なので問題なくフィルハーモニーに到着した。問題の駐車場はやはり今回も側道に入り損なって、リエントリーしなければいけなかった。二時間前に駐車して、四時間半若しくは午前一時までは3ユーロはとてもお得だ。公的な援助なのだろう。入場料とも有り難い。



参照:
2015年産のお見事な出来 2017-05-20 | 試飲百景
日本の製品は田舎臭い 2018-05-25 | 雑感


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by pfaelzerwein | 2018-05-26 22:26 | 生活 | Trackback

準備万端整え、いざ

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ルクセムブルクに向かう。燃料は余分に40L入れたので往復出来る筈だ。カイザースラウテルンへと山越えで近道を走ろう。準備万端整えたつもりが、取りに行った洗濯屋が臨時休業していた。出かける序に立ち寄るが、回収できなかった時のために他のシャツを持っていく。タイも二種類色違いをもっていかなければ仕方がない。

早めに出かけて、ザールの醸造所に立ち寄り、ピクニックもいい時間に済ませてとなると、14時出発では殆ど余裕が無く、工事中とかで迂回路を走ることになれば焦って走り抜くしかなくなる。途上の醸造所へは地道を長く走るからだ。つまり気持ち良いドライヴでなければ疲れるだけなのだ。そこで12時前にシャツを取りに行くとなると、完全に二時間近くの時間が出来る。早めに試飲してピクニックで一眠りも可能だろう。アルコールはコンサートのために避けたいのだが、運転の疲れは帰路の夜間運転に影響する。帰路は高速を走り続けるだけなのだが、200㎞近い道を走り通さなければいけない。つまり往路は三時間以上かけて、帰路は二時間以上かけて戻ってくることになる。

イヤフォンでグルダのピアノでホルスト・シュタインが指揮したベートーヴェン、そしてサイン・ラトル指揮のシューマンの交響曲集等をハイレゾリューション再生で聞いてみた。もう少し低音も抜けず、細かな部分も上手く聞けない。早速アンドロイドのアプリケーションをインストールしたが、まだまだ調整していかないと駄目なようだ。そもそもこの価格で期待される耽美的な音楽鑑賞が可能なのかどうか、まだ分からない。

その一方、ノイズ化キャンセル効果については耳栓さえ整えればある程度は行くだろうなと想像する。先ずはルクセムブルクへの走行中に試してみたい。繰り返すが、有線なんてありえない。しかし、室内で比較すると最も大きな違いは車の音なんかよりも鳥の歌声が完全にカットされることで、若干損失のような気さえする。ソニーのエンジニア―は音の氾濫している日本のようなところしか考えていないのかもしれないが、室内で使用するとなればやはりヴァ―チュアルなサラウンド感覚の音体験でしかない。少なくとも今までのところその程度に至るのかどうか、不明である。

この間上のシューマン以外に、バレンボイム指揮シカゴ交響楽団のLPを見つけた。流石にスタディオ録音らしく、演奏技術的に最も優れていて、同時にショルティー時代に客演で振っている指揮者の制限も感じる制作だ。つまりアンサムブルは典型的な当時のショルティーのそれで些か木で鼻を括るの感は免れないが、指揮者がロマンティックな歌を遣ろうとしている。総合的にはその情報量の割には統一的なシューマン像に至っていない。当時のブルックナー全集などにも共通する「名演奏」なのかもしれない。スタディオ録音と言えば、先日のフルトヴェングラーのコンサート前にベルリンで録音されたものがスタディオだとアナウンスされていた。フルトヴェングラーのそれはSPの「悲愴」や戦前の「運命」などを除くとフィルハーモニア管とヴィーナーフィルハーモニカー録音以外主兵での録音はほとんど残っていないと思っていたので驚いた。勿論このDGのモーツァルトやヒンデミトなどの録音は聞いているのだが、ライヴかスタディオの違いは明白に認知していなかった。一体どのような事情でスタディオ録音になったのだろうか。戦後の占領RIAS放送のための放送録音なのだろうか。

もう一つのラトル指揮の録音はライプチッヒ版とされるもののようで、改訂版よりも斬新なものとして指揮されている。なるほど同じ作曲家のファンタジーなどの曲を考えれば交響曲もそのようになるのだろう。その演奏の全体の印象としては、なにか二十世紀のネオロマンティズムを想起させて、少なくとも同じアメリカの作曲家で言えばエリオット・カーターよりもジョージ・クラムやもしかするとジョン・アダムスを想起させて仕舞うのだ。

そうこうしていたらjpcのサイトで僅か29歳?の新鋭キリル・ペトレンコ指揮のブラームスの協奏曲を見つけた。orfが実況をCD化している。冒頭の動機は強拍が伸びる感じで、だから弱拍のアクセントも強拍のそれも思う様に付けられている。これならばギーレンのそれでは足りない面も恐らくハイティンクのやりたかったことも同時に実現されているのではなかろうか。我々凡人からすると、どうして才能を以って世界的に活躍する重鎮たちでさえもこんな基本的なことが出来ないのかなと思うのだが、言ってみてもなにも始まらない。

そして二楽章のアダージョではいつものように早いテムポで始まってどんどんと流れるのだが十二分に歌い込んでいる。要するに嫌らしくないのである。そして三楽章ではこれまたピアノに合わせて事故が起きないような快適なテムポながらしっかりと刻んでいる。こんな僅かな触りを聞いても、改めてこの人はロシアの何とかというよりもただただ天才だと改めて感じる。よかった、これで、グリモーとフィラデルフィアのそれをしっかりと見極める、一つの指針を掴んで。



参照:
またもや因果な商売 2018-05-23 | 雑感
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般


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by pfaelzerwein | 2018-05-25 14:32 | 雑感 | Trackback

日本の製品は田舎臭い

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散髪を済ませた。ほっとした。これでミュンヘン行後まで心配無用。どうしても暑くなった時に、床屋の夏休み前に駆け込めば本年のサマーカットは事足りる。暑さに弱い人間としてはQOLに係る重要な条件だ。

人々の口には前夜の雷の話しがのぼる。走ってシャワーを浴びて急いで床屋に行ったので、髪が濡れていた。ウェットカットの準備だと言ったら、雷雨に濡れたのかと返された。また肉屋では爺さんが雷にやられたと語る。何事かと思ったら、息子のルーターが壊れたのだという。なるほど一キロ先ほどでも落雷しており、一時間近く鳴っていたので、激しい雷雨には違いなかったが、私はメインのHiFiコンソールの電源を落とすぐらいでそれほど対処をしなかった。停電もなかったぐらいだから安全と思っていた。日本の人が「日本では停電などありません」と語るが、ドイツの様に地下架設しているところでも電気製品の落雷被害が起きていて、そのためのヒューズが使われているのだが、日本ではどうやってそれを避けているのだろう。電柱毎にフィルターを入れても駄目な筈だ。家庭ごとに高電圧フィルターが設置してあるなど聞いたことが無い。

発注したWI-1000Xが届いた。箱など装丁は中華のHUAWEIの方がスマートだ。こちらはアムステルダムとは異なり英国で管轄されていて、若干その趣味が違うからだろうか。それどころかロシア語の表記などもあって、東欧で生産されているのだろう。更に中身もアクセサリー類が完備しているとはいいながら、なんとなく違和感がある。あまりにも複雑なのだ。二種類の東欧と西欧に別れた説明書などはいいとしても、そこでのインターナショナルなピクトグラフが分かり難い。そして複雑なのだ。これは明らかに日本人の感覚だと思った。合衆国では、電子レンジに「猫は入れないでください」とかあると聞いたものだが、インターナショナルな市場で勝負するソニーのこのような感覚は全く解せない。

私などは雑な方であるが、それでも幾らかは分かる方だ。それでもミニUSBの蓋の開け口や開け方などはその図示を見ても自信を持てなかった。指も細かな仕事になる。一体世界でどれぐらいの人がこうした作業に対応可能で、最初から壊さずにいれるのか皆目分らない。なるほど乗用車の様にフットマットを引っ掛けてアクセルが戻らなくなるような危険はないだろうが、日本の商品がここまでややこしいと ― キャノンのプリンターなども全く同じだ ―、世界市場では通用しない、要するにスマートではなくローカルな田舎者なのだ。だからSONYよりHUAWEIの方が遥かに愛される。大陸的と言えば大陸的なのかもしれないが、正直私自身そうしたガラパゴス感覚はもはや馴染めなく、ちっともありがたく思わない。要するに日本の製品は田舎臭いのである。

製品の仕上がりとか素材は悪くは無いのだろうが、予想以上に重いと感じた。直ぐに繋がるブルーテュースでハイレゾ音源を聞いてみる。先ずは備え付けの耳あてで使っても結構圧迫感があり、今まで使ってきたヘッドフォーンとは全く異質で若干圧迫感を感じた。音自体も押さえられたような音質で、外気圧調整などをしてもその傾向は残る。ボーズの方が遥かに詰まったような音で、ソニーの方が音質が良いとされているのだが、やはり抜けた音がしないのは自身の耳の中がこんな音しかしないという事だろう。耳栓などを調整していろいろ試してみないと分からないが、少なくとも今も使っているAEGのヘッドフォーンなどの様なモニターとしての音質は無い。それは三つのモードどれでも共通しており、やはり高級ヘッドフォーンとはその価格に拘わらず比較出来ないようだ。つまり期待していたように室内で更に音楽を細かに聞き取り、その楽器演奏の技術や管弦楽の細部まで聞き取ろうとする目的では使えない。あくまでもノイズキャンセリングが目的である。

それは有線でも同じだったので、この手のイヤフォーンの特徴なのだろう。タブレットから有線で音を出すぐらいのつもりでいたが、こうして無線で使うと最早車運転中に有線などとはあり得ないと思った。それどころかタブレットを置いたまま歩き回れる無線でなければ駄目だと感じた。そもそもハイレゾ再生となるとそのアナログ出力はPCであろうとなんであろうと意味がない。



参照:
遮断される聴空間 2018-05-20 | 雑感
先の準備を整える 2018-03-16 | 生活


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by pfaelzerwein | 2018-05-24 21:14 | 雑感 | Trackback

ルツェルンの想い出??

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連休明けに床屋に行こうと思った。前夜から、早起きして、パンを取り、一走りして、シャワーを浴びて床屋に駆け込み、サマーカットで肉屋に立ち寄って、朝食にするべく、備えた。シャワーを出たのが遅く、髪を濡らしたまま「ウェットカット」と店の前に立つと、張り紙があってもう二日お休みだった。髪を濡らして肉屋に寄り、雪辱を期す。幸運にも雷雨となり、散髪無しでも耐えられた。

もう暫くは天候不順で週末になって初めて気温が上がるようなので、順番待ちをすることも無く、間違いなく散髪を終えたい。そして来月のミュンヘンにも備えたい。愈々リハーサルが始まったようで、その合間にマーラーの交響曲でバービカンセンターまで客演するようだ。この夏最大の注目音楽劇場上演との下馬評であるが、その舞台に関してはそれほど期待していない ― まだ新制作が五つはあるが。現在の体制での評価は歴史的にも既に定まっており、もはや意外性に期待することも無い。オペラファンは次期体制になるのを待つだけだ。音楽監督キリル・ペトレンコにとってはキャリアー中期のスプリングボードとしての一時期でしかないだろう。

朝の車中のラディオで知ったヘンリク・シェリングのシュヴェツィンゲンでの演奏会録音中継が予想通りよかった。同じ録音がカセットテープに残っているかもしれないと思って探したが見つからない。1979年の録音であるからその年にNHKで流されたとしても、当時使用していたカセットデッキは現在も使っているものより一つ前である筈だ。日本で話題になって来日公演が連続放送されたの1976年のようだ。するとその年ならば更に古い方のデッキを使っていただろうから、今手元にテープが見つからないのだろう。今回の放送では1979年頃が名声の絶頂としていて、同じようなプログラムでザルツブルクなどで盛んにリサイタルとあった。記憶にあるのはその頃で、シュヴェツィンゲンへの想いが募ったのもその当時であり、最初に家探しに滞在する遠因となる。

居眠りしていてモーツァルトのソナタの頭は聞き逃した。記憶していたよりも、現在の古楽器のそれに共通する奏法を工夫していて、シゲティの再来などとも言われたが、どうして中々現在でも通用するものがある。しかし所詮オブリガート付きのソナタだけあって、このヴァイオリニストの演奏としては若干この曲では物足りない。番組の最後に放送された1969年にリーダーハーレで演奏されたパルティータに関して、その彼が校訂したショット版の楽譜が今でも教科書になっているというのは当然だと思う。シゲティの録音に関してはCDになってから初めて入手した位で、その録音の音質とかを言い訳に聞いていなかったように思うが、意外にそれは本質的な事で、現在の古楽器奏法に馴染んだ耳には、なにも技術的な事が分からなくとも、余計にこのシェリングの苦慮や工夫などをサウンド的にも評価しやすくなっているのではなかろうか。二曲目のベートーヴェンは中々そのソナタらしく弦とピアノの葛藤のような響きも充分で、記憶以上に聞き甲斐があった。ピアノを弾いているジェムス・トッコはARDの優勝者だったとは知らなかった。中々上出来のデュオになっている。使用楽器はガルネリとあるが、ストラディヴァウスのような鋼の芯は無いが、固い木のような強靭な張りがある。同時に涼しさもあって、当時活躍していたグァルネリカルテットなどにはなかったものだ。また後年のクレメルのガダニーニなどに比較すると「古楽器の鳴り」が美しい。

もう一つ同時刻にフルトヴェングラー指揮ルツェルンでの最後の演奏会の録音が放送されていた。これは調べてみるとSACD化されたものらしいので、金曜日に聞くシューマンの第四交響曲だけでもと思って、ダブルブッキングを何とか熟した。その前の曲のエロイカで録音の程度も確認した。第四楽章だから当然かもしれないが、低音も綺麗にリズミカルに刻まれる。カラヤン世代によって無視された音楽芸術の洒脱性や軽妙な繊細である。その後のお待ちかねのシューマンは、楽譜を見ていたが、問題の弦と管と重なりなどの場合は管が優位になるようなバランスになっていて、「ロマンツェ」でのチェロも補強のような形になっている。

1953年8月26日演奏の管弦楽団は所謂祝祭管弦楽団で、その会場はクンストハウスである。その会場が気になっていたので片付けてあるプログラムを調べてはっきりした。現在のホールKKLが完成する前のホールの名前だった。そして1992年のそれを開いて驚いた。その年のベルリンからのフィルハーモニカーを聞いていた。完全に忘れていた。それどころかアバド指揮のフィルハーモニカーの演奏の記憶が全くなかったからである。50スイスフランで37列目7番のようだ。今なら六倍の値段はする席だろうか。ただ記憶していたのはそのコンサートが新ホール建設のためのガラ公演だった事で、そのホールへの最後のベルリンからの登場だったのだろう。先頃ひょんなことで「ダフニスとクロエ」を生で聞いたことがあるなと記憶を辿っていたのだが、これですっきりした。



参照:
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感

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by pfaelzerwein | 2018-05-23 17:51 | 雑感 | Trackback