<   2018年 06月 ( 31 )   > この月の画像一覧

索引 2018年6月

十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
期待に膨らむ初日 2018-06-28 | 文化一般
危うく逆走運転手指揮 2018-06-26 | 音
いざカウンター攻撃 018-06-25 | ワールドカップ06・10・14
「プロシア的」の情けなさ 2018-06-24 | 文化一般
配券された初めてのもの 2018-06-23 | 生活
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評
ショックのUバーン体験 2018-06-18 | 歴史・時事
祭り会場から一時避難 2018-06-17 | 暦
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評
権威の向こう側 2018-06-14 | 文化一般
Don't we trust him? 2018-06-13 | アウトドーア・環境
暴漢に向かったBASF社員 2018-06-12 | マスメディア批評
またまたオタクな生活 2018-06-11 | 暦
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
管弦楽への圧倒的熱狂 2018-06-08 | 文化一般
不安の時代の闘争 2018-06-07 | マスメディア批評
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評

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by pfaelzerwein | 2018-06-30 23:59 | INDEX | Trackback

LadyBird、天道虫の歌

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疲れが残った。金曜日は殆ど仕事にならなかった。初日のメモを見乍ら忘れないうちに早目に纏めておきたいが、録音があることで安心して仕舞っている。それ以上に少しパンク状態かも知れない。最近のペトレンコ指揮の演奏は、あまりにも新機軸が多過ぎて、それを聴衆が消化するのに時間が掛かる傾向がある。四月のフランツ・シュミットの四番然り、オペラ上演然りで、こちらが咀嚼して想いを新たにする頃にはご本人は先を行っている。その意味からベルリンのフィルハーモニカーで二つの目のプログラムを時間をおいて繰り返すのは聴衆にとってだけでなく、演奏者にとってもとても教育効果が高い。週末に纏めたい。でないとストリーミングの次放送が近づいてしまう。

ストリーミングまでにPCの容量を開けるべく外付けのHDDを発注した。なんと3TBである。最初に買ったのが750MGぐらいで、二つ目からは東芝の1TB、2TBと増えて行った。価格も90ユーロほどまで落ちていたので買い時だ。古いデーターは何重にも記録されているので安全で、そこに新しい分も二重に記録すると、PCのDディレクトリーのここ一年半ほどのものをばっさりと消去可能だ。

英国からお知らせメールが入っていて、サマーセ-ル商品を発注した。来年はもう税金が掛かるかもしれないので、そろそろ買い溜めしておかないと行けないかもしれない。昨年はピンクを購入したので、三割引きで淡いブルーのシャツを発注した。先に欲しかったのはあんちょこバタフライで、上手くシャツなどが合えば二週間後にミュンヘンで使いたい。テントウムシの意匠である。暑くなる可能性が高いから棒タイよりは幾らか涼しい。送料を15ポンド取られるので、小さなものだけでは勘定が合わない。

その時に座る劇場のロージュの舞台脇のところを見ていたら、許可を受けないと入れないようになっていた。反対側は楽屋に通じているから当然なのかもしれないが、舞台の向こう側とこっち側の中間なのだなと改めて思う。音響に関しては決して良くは無いことは今回も分かった。見通しもそれほど良くないだろうが、今回の価格とは大分違うので、どうだろう。指揮に関しては今回も足元まで見えて、それは更に前から見る形で近くなる。

オペルンフェストの初日は初めてだったが、可成りいい席がぽつぽつと空いていた。平常の初日にはないことで、やはりフェスト期間中は企業の招待や世界からの訪問者などが多いのだろう。かなりもったいない。

ゴルダ・シュルツ出演のBRクラシックの番組はとても良かった。ゲストがお気に入りの録音を持ち込むという番組だ。その一時間足らずの番組構成で、インタヴューアのノイホッフ氏がいい感じでシュルツ嬢に絡んでいた。先ず一曲目の「フィガロの結婚」の序曲から始まって、その一日の始まりの素晴らしさの表現を、お勧めのネゼセガン指揮で流す。仕事をしてみたい指揮者という事で、今後のメトでの仕事の時には当然だろう。そのキャラクターも確かに合いそうで、彼女のプロフィールの話しとなる。ジャーナリスト志望の秘書職への道を歩んでいたことは知っていたが、父親は数学の教授で母親も看護師で、理論と実践の家庭だったという。そして子供は芸術家。なるほどと思ったが、楽器を片っ端から習っていて、父親の助言もあって楽士さんへの道は諦めていたらしい。ジャーナリスト志望とは文化波のBRのようなところでの仕事のことだったようだ。

現在はアウグスブルクへと引っ越したという事で、内向的な沈思黙考の生活がしたいという事で笑わせるが、とても嬉しい路上で声を掛けられるミュンヘンの街中の生活だけでは無くてという事らしい。正直には家賃が安くてという理由を明かす。

声楽も20歳からで28歳になってオペラを始めるのは女性では遅過ぎで、その声の形成からキャリア的に厳しいとされたが、ジュリアード終了時にロンドン等で面接で落ちて、三度目に初めてバハラー支配人に採用されたという。

三年先の計画を立ててレパートリーを確立していく世界だが、実際には月々の請求書を払う生活という。そもそもヴァークナーは遅咲きには難しいようだが、叫び続けなくてもよいので「黄昏」のフローラなどは容易で好きな役で、今回の華の娘も合うという。そして目を瞑らないでカウフマンとの絡みもしっかり眼を開いて観て呉れと、演出の不評を覆すかのような話をする。

途中、大人になってから知ったマーラーの作曲とそのアバド指揮の涙が毀れる二番などに挟まれて、二曲ほどポップスが流されて、マイルス・デーヴィスが何であんなにトラムペットが上手いのだろうと発言。最後に自身の歌うスザンナの夜の歌をメスト指揮で締める。素晴らしく構成された放送だった。



参照:
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
Crazy soprano!!! 2018-01-13 | 女


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by pfaelzerwein | 2018-06-30 21:07 | | Trackback

十七時間後に帰宅

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ミュンヘンから帰宅の途で一時間ほど仮眠した。戻ってきたら目が醒めた。仮眠から起きても身体がふわふわした感じで車の運転が怖かった。真夜中の運転は厳しい。そのためかところどころにパトカーが追走するような体制で配置されていた。前回宿泊したのは、「神々の黄昏」と長尺だったのと、今回の舞台美術を掌るバゼリッツ氏の小展示観覧を組み合わせたからだった。そして今回のパルシファルは通常以上にサクサクと進んだのだが、それでも引けて車に乗って走りだすと21時20分を超えていた。時刻的には問題が無かったが、朝から眠く、車を入れたのは13時半過ぎ、自宅を出たのが9時過ぎ、帰宅が翌2時半だったので、流石に堪えた。

それ程時間を取った訳ではないが、軽くサーモン入りのサラダで昼飯をいつものようにとって、いつもならばお土産で買う肉類を断念した ― 駐車料金は25ユーロになった、因みに入場料は半額売りで42ユーロ、昼食30ユーロである。一つは暑さと、一つは通常に肉屋が並んでいたからだ。その分、カフェーで試したトルテと異なるものを二つ購入した。いつも欲しいと思っていたがお持ち帰りは難しいと思っていた。車の走行時間を聞かれて、アイスボックスを持参していると言うことで、一つづつ小箱に入れて呉れた。今見ると無事だったようだ。

カフェで隣のおばさんがベリーの乗っているカシス味のそれを注文するのを見て、同じものを頼んだので、その人がトリアーから旅行に来ていたのを知った。マルクス像の話しやギュンター・ヤウフの話しやワイン、そしてオペラフェストの話しやルクセムブルクのフィルハーモニーのことなどを話した。興味深いのは、土地柄産業構造が弱いことを自覚していて、私が指摘したようにシナ人観光客を拒否するというような東独の考えは全く浮かばず、それ以外の様々な議論がされたという事だった。

生録音は上手く行っていたようだ。ダイナミックスの上限超えクリップしてなければ大丈夫だろう。敢えて大きめの入力にしたのだ ― 要するに今回は想定外の鳴らし方をしていた。前回の「三部作」などでは放送のダイナミックスレンジが足りなかったからだ。今回は前奏曲で完全にゼロラインまで上がっているので、一部はサチッているかもしれない。一般的にはライヴは音量が上がっていくものだが、今回は一幕からして完全に鳴っていた。恐らくキリル・ペトレンコ指揮公演では最もダイナミックレンジが上に触れたものだったと思う。それほどピニッシモからフォルティッシモの差が大きかった。そもそもこの舞台神聖劇はクナッパーツブッシュなどの演奏を待つまでも無く、テムポを落としてじくじくと鳴らしていくのが抹香臭くて喜ばれるのであるが、前奏曲だけで完全に非パトスに成功していた。

ラトルであろうともネゼセガンであろうともここまで徹底している人は居ない。それどころかピエール・ブーレーズのバイロイトでの演奏が如何に中庸であるかに気が付くだろう。それ故にペトレンコの演奏に激しいブーイングが起きないのが分からない。詳しくは改めるとしても、如何にヴァークナー協会などに加盟している人の耳が節穴かというのを示している。私のような人間でさえラトルのその優しく豊かな響きが恋しくなるようなペトレンコのザッハリッヒな姿勢は、冬期の「指輪」上演で嫌と言うほど経験している。ペトレンコを評価するものとしてはやはり歌芝居などで才能を浪費しないで欲しいと思う。なるほど電光石火の対応やパルス状の音出し、そしてきっちりと歌に寄り添う指揮は、恐らく歴史上嘗てなかったほどのオペラ指揮者である事は間違いないのだ。メモを見て確認しながら録音を聴くと書くことが限りなくありそうだ。

録音から気が付いたのは前奏曲でマイクロフォン回線でプチプチ音のようなものが入っていて少し残念だ。センターマイクは天井から吊るしてあって、いつもあんな高いところから収録しているのを知った。恐らく一番、声と管弦楽がバランスの取れる場所なのだろう。私の後ろで鳴った携帯の音などがどれほど入っているかもチェックしたい。兎に角、ここの劇場オペラライヴとしては最も迫力のある放送となっている。可成り放送局側の力が入っていたようだ。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
論評できない異次元 2018-02-12 | マスメディア批評


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by pfaelzerwein | 2018-06-29 22:47 | 生活 | Trackback

緑の原をミストリウムへ

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ミュンヘン行の準備万端を整える。燃料は138セント弱で入れた。昨年からすると10セントほど高くなっているが仕方がない。その中で安く入れられてだけでよかった。こちらは快晴でどんどん気温が上がり摂氏30度に近づくようなのだが、午前中早く出て、アルプス地方で雨に合うと20度を下わまる。朝食のパンは購入したが、ピクニック用にはやはり握り飯を一合と果物などだろうか。帰りのこともあるので、昼飯を摂っても何かを準備しておかないと眠くなる。肉屋でサラミも買いたい。

涼しい日々から週末、週明けに掛けて真夏になるので先に汗を掻きたかった。森の中は時刻も遅くなったので、気温は20度前後ながら、とても苦しかった。空気が急に重くなった感じだ。前夜に窓を開けて就寝したので体が重くて早起きが叶わなかった。

途上のタブレットに楽譜とラトルのパルシファルを準備したが、もう一つラディオ中継の録音準備が済んでいない。アウダシティーのタイマーは問題ないと思うが、バイエルン放送協会のストーリーミングが上手く流れ続けるかは少し不安だ。もう一度テストしてみよう。もう一つはPCのセッティングで、僅か一年半ぐらいで1TB近い容量を消費している。七時間回して録音しても、7GBにしかならないが、Dディレクトリーは80GBしか残りが無いので要らぬものを消去して整備したい。どうせ年内には新しいPCを買わなければいけない。

承前)三幕はこれまた冒頭から対位法的な進行となって、どうしても交響楽団の演奏としてもう一つ上の精度を期待してしまう。このような書法はコンセルトヘボー管弦楽団などがお得意とするところではないか。これも合う合わないの問題でなくて、アンサムブル文化の相違だろう。そしてこの始まりは、「マイスタージンガー」三幕トリネコの音楽から遥々と辿り着いたという感が強く、クンドリーの呻き声で我に返る。山なりの音型が上に下へと漂い、まさに程よく浮揚して、ラトルに言わせれば巨鳥が海原を飛翔すると、ミステリウムの聖金曜日の音楽否その前に緑の原を行くことになる。緑の木曜日だ。この美しさと優しさは、このラトルの演奏で格別で、二幕の秀逸さに続くものだ。

三幕の前に登場すると激しい喝采を受けて客席の方へと身体を向けた指揮者だったが、喝采はシュテムメに向けられたものだったろう。しかしラトル自身もその出来には自信があったに違いない。聖金曜日での鐘の音響などもバーデンバーデンの神秘には至らないが、二幕とは異なりこの三幕では合唱が出て来る頃になると全ては台無しとなっている。その歌わせる場所の効果や音響や合唱の質など以外に、ヴィオラ陣などが折角のところで配慮の無い音で弾いており、如何にこの楽団はそうした音色に拘るだけの質に達していないことが知れる。これだけの楽団にしてはあまりにも不細工な音を奏でている。そこにまたスケルトンのパルシファルが何ら配慮も無いような歌を披露していて、決して演奏の水準を上げるようなことは無い。なにもカウフマンを待つまでも無く、もう少し上手に歌える人はいる筈だ ― バーデンバーデンでのシュテファン・グールドは流石に違った。要するにこの歌手にとってはトリスタンもジークフリートもパルシファルも変わらないらしい。確かに板の上での歌唱なので管弦楽にマスキングされないような配慮が働いているのだろうが、このような舞台神聖劇の音楽をそのように演奏するのが間違いなのだ。最後に再び六拍子の効果などもあり、とても上手な作りを聞かせる演奏なのだが、やはり「救済」へとは至らなかった。(終わり)

インタヴューではゲオルク・バゼリッツの話しが面白かった。彼は奥さんに同伴してオペラに出かけるがあまり熱心にはなれないと言う。それほどの音楽ファンで、音盤愛好家らしい。要するにクラシックオタクである。そして「パルシファル」は最初の前奏曲の12分で全て終わっているのに、どんどん続いて素晴らしいと言っている。これは中々示唆に富んでいる言葉で、どれほど分析的なものか直感的なものかは分らないが、中々いい。

更に所謂演出劇場の読み替えをあまり評価していなくて、今回も寧ろその緞帳などの幕を作ることで古典的な劇に戻すのが狙いのようだ。だからト書き通りにものが登場するらしい。最終的には演出家の腕だが、あまり邪魔になるような演出にはならないのだろう。さてどう解決するのか?



参照:
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感


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by pfaelzerwein | 2018-06-28 14:15 | | Trackback

期待に膨らむ初日

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承前)「パルシファル」二幕である。バーデンバーデンでの公演と異なるのは主役のパルシファルがスケルトンが歌っていて、なんといってもクンドリーをニーナ・シュテムメが歌っていることだ。前者は思った以上にここで検討している。しかし何といってもシュテムメのクンドリ―には最初の叫びからして驚かされた。これだけでも勝てる者はいないと思った。自ら声を痛める可能性が高いがと話していた。最新のインタヴューによるとこの叫びは殆ど動物的であって、そもそもクンドリーが三幕では女であるというよりも人間になるという読み方をしている。そこでMeTooの話しに繋がって、それは男女問題であるよりもパワーハラスメントとして捉えていて、それでもこの歌手は今日的な女性像とこの神聖劇での奉仕のそのギャップを話していて、なるほどプロテスタント的な強い意志を持っている女性像が読み取れる。流石に声や技術だけでなく超一流の音楽家だとそこから分かる。そしてドイツ語を可成り身に着けているようだ。

バーデンバーデンでは思いがけずドノーゼが歌い熟していて皆を驚かせたのだが、これを聞くと世界が違った。シュテムメの歌はブリュンヒルデで聞いて、言葉の特に母音がスェーデン訛りの感じで抜けが悪く聞き難いと思ったが、その音域も合うのか若しくはコンサートで調子が良かったのが想定以上の歌唱を披露している。四時間を超えるコンサートを我慢していてもここだけでも聞ければ満足だったろう。ミュンヘンではそこにヨーナス・カウフマンが絡むと考えただけで、その公演がオペラ愛好家にとってはプラチナものであることは間違いない。正直こうしてその歌を聞いて想定外のそれに気が付いた。

そのカウフマンが、折からヴィーンツアーを一緒に行うラインプファルツ州立管弦楽団との稽古にルートヴィッヒスハーフェンに来ていて、そこにマンハイマーモルゲン新聞が訪ねて、インタヴューをしている。

キリル・ペトレンコとの共演は容易ですかそれとも難しい?

「それはハッキリ、とても要求されますよ、しかしそれはポジティヴな意味でね。彼のように異常に綿密に、正確無比に自身の想いを分っていて、稽古して、練習して止まないのは、更に細かい要求があるからで、同時にですね、演奏の時には嬉しくて、それを放つような指揮者はそんなにいませんよ。それは、本当に本当に素晴らしい。私もどこか完璧主義者なところがありますよ、そしてそのような指揮者もいますがね、直ぐに適当なところで満足してしまう。そうしたところに身を投げてしまうと、自身の向上というのは難しいです。そしてまた完璧主義者の指揮者らもいますが、稽古でそうで本番では殆ど凝り固まって失敗は許せずなんです。残念なのは本番では意欲を以って、そこからエネルギーが生じて霊感が働くのですが。長話になりましたが、端的に、キリル・ペトレンコは素晴らしい指揮者です。」

ベルリンでは管弦楽の方は最初の序奏でも舞台の上で弾くにしては粗く、なによりも指揮者がテムポだけを保持する一方、十分に呼吸が出来ていないために早いだけで我武者羅に音符を追うような塩梅になっている。ここがペトレンコとの大きな差であろう。ペトレンコが遅めのテムポで弾かせることは無いとしても遥かに風通しが良くなって、それなりに座付き管弦楽団が弾き込んで来ることとの差が大きい。

クリングゾールのニキティンは、バーデンバーデンでは高みで歌わされた分、ここではとても落ち着いた声質で素晴らしい歌声を披露していて聞き違えるほどだ。それにしてもこのデュオの部分の書法は楽匠が行き着いた頂点のような音楽で、まさかこれをして枯れた筆などと言う者はいまい。もう少しここは詳しく調べたい。圧巻であり、ラトル指揮のフィルハーモニカーの演奏も掛け替えない。動機の扱いも魔法の動機の派生のみならず、少し調べてみなけらば分からないものが重要な指示をしている。是非この二幕の演奏はDLして資料として手元に置いておきたい。(続く)



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
初物スカンポケーキ 2018-03-13 | 暦 
御奉仕が座右の銘の女 [ 女 ] / 2005-07-26


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by pfaelzerwein | 2018-06-27 18:12 | 文化一般 | Trackback

既に遅しとならないように

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またまたコンサートのティケットを購入した。本当に行くのだろうか、大抵は日が重なってくると出掛ける時に後悔するのである。35ユーロ程度ものなので本当に行きたくなかったら捨てればよい。交通費の方が遥かに高い。批判の対象となっていた演奏をしている指揮者ハイティンクの演奏会だ。高齢で今のうちにと思う一人だ。昨年はより高齢でより元気なブロムシュテット指揮を二回聴いたので残るはこの人しかいない。キャリア的には同国人という事でアムステルダムのコンセルトヘボーの監督、そしてラトルらに大きな影響を与えたグライボーンでの監督などが主なところで、ブロムシュテットよりは少しは上なのかもしれない。引退したミヒャエル・ギーレンなどと皆同じ世代で、こうして挙げるとどこか共通項がある。

今月もアムステルダムで演奏会があったので検討したのだがあまりにも遠い割に見返りが少ないと思って断念していた。案の定二日目の拍手の時に倒れた。プログラムはマーラーの交響曲九番であった。奇しくも同じ週末にブロムシュテットが初めての九番を振っていた。こちらも既にその指揮を分かっているので断念した。ハイティンクの場合は、管弦楽がコンセルトヘボーだったことでマーラー全集を録音していて主要レパートリーとなっているが、ブルックナーの方が多く振っているのではないだろうか。両者ともマーラーを振るには少し役不足な感じがあって、今日求められるマーラーの音楽表現は期待できない。その点、ブルックナーでは、前世紀後半の特徴的な分厚い管弦楽の響きをテムポを守って振っていればそれで構わないだろう。ハイティンクの最近の評価はその流麗な響きなどが賞賛されているので、素晴らしい会場で聴ければいい。要するに欧州サウンド若しくは英スピーカーのタンノイサウンド派指揮者となるのだろうか。その為には音楽の細部も犠牲にする嫌いがあるのだが、少なくともブロムシュテットはそれなりに中々の配慮をしていて、ハイティンク指揮も生でこそ気が付くことがあるだろうか?コンセルトヘボーのような会場はなかなかないだろうが、音響もなによりもの関心事だ。

先日亡くなったツグッテンベルク追悼記事を改めて読んだ。この木曜日にラインガウでヴェルディのレクイエムを振る予定だった。七十二歳でまだ若かった。とても興味深かったのはその指揮ぶりのようで、それを観察すると普通の指揮者とは違っていたらしい。芸術至上の人だったようで、芸術の世界と世界の保護される環境との間で生きていた人のようだ。勿論財産がある人であるから特に驚くにはあたらない。その歴史的演奏を目していながら、その理想はアーノンクールなどではなくカール・リヒターのそれだったとして、実際にバッハの受難曲の演奏を礼拝に組み入れていたらしい。なるほどリヒターの真摯さ、そのもの故人の忘我の指揮ぶりとされるものと重なる。

ミュンヘンの「三部作」一日目の新たな券が放出されていた。被りつきで並び三つだった。これは先に出ていたら手を出していた可能性が高い。購入した二番目のクラスの舞台袖より手に入り易いかどうかは分からないが、もしこれを買っていたら投げる花輪を準備しなければならなかった。オペラの被りつきは歌手がお目当ての人には良いのだろうが、私たちのように管弦楽主体の人は舞台袖の方が興味深い。それでも価格が同じだったらこちらの方を選ぶだろう。正直袖は少し割高の印象を持っているからだが、試してみなければ皆目分からない。

秋の「マイスタージンガー」の券が届いた。これはバルコンなのでコンサートの時に後ろから観察していたので、こちらは間違いないと思う。まあ、「マイスタージンガー」ならば被りつきでもよかったのだが、「三部作」となるとバカ声も近くで聞かなければならないので不愉快だった。兎に角、ここ一二年の内に一通り試してみたいと思う。その後はその経験を参考に必要ならば都合のよい席を選択するだけだ。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
準備万端整え、いざ 2018-05-26 | 雑感


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by pfaelzerwein | 2018-06-26 23:56 | 雑感 | Trackback

危うく逆走運転手指揮

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「パルシファル」一幕である。ラトル指揮のフィルハーモニーでの演奏に16カ所ほどチェックを入れた。間違い探しではなくて、注意箇所だ。三連符を入れた最初の四分四と六が組み合わされて、長いデュミニエンドがあって休止から繰り返されるが、そのあとの九拍子へと楽匠のとても動機的な扱いが精妙だ。ラトルの指揮は、引き摺るようなことが無く、とてもよいので、余計に初指揮のペトレンコのこの前奏曲の扱いを想像するだけでもゾクゾクする。リズム的にもとても面白いところであるからだ。その後の信仰の動機による「アウスデュルックフォル」の盛り上がりでコールアングレとヴィオラが並行するのだが、やはりこの楽団ではしっかり弾けていない。明らかに非力であるというよりもアンサムブルの方法の問題だろう。やはり楽器群ごとにゆっくりと管と合わせて弾かせる位の練習をしないと駄目だ ― ここが世界の頂点との差なのだろう。恐らくミュンヘンの座付き管弦楽団は今回綺麗に合わせて来ると思う。

幕が上がってゼーリックのグルネマンツの歌が始まるのだが、舞台の上では「Nun」とかの力む楽譜にはない音が気になって、これならば脱力のパーペならば今回もう少し上手く歌える可能性があるとも感じた。それはその後三連符やシンコペーションの表現にも関連していて、その歌の力み通りに進行してしまっているので、折角の創作の妙が目立たない。この舞台神聖劇を通してとても重要な点だと分かった。十八番にしているパーペとペトレンコの腕に期待したいところだ。

アンフォルタスのフィンレーは、やはりゼーリックとは反対に、言葉と言葉の繋がりをつまり音符と音符の繋がりを丁寧に制御していくだろうゲルハーハ―とは反対に、あまり決まらない。バーデンバーデンでのFAZ評は大分期待されていたが、やはりここでも全く十分ではない。同じようにオーボエのケリーが同じように滑ってしまっていて、先頃のマーラーといいここでも期待してしたほどではないのだ。そうしたシンコペーションをチェロが声に合わせるとしても、ミュンヘンの座付き管弦楽団ならさぞかし上手に合わせるだろうなと言うところが全く出来ていない。要するに奈落に入るとか板の上で演奏するとかの物理的な問題ではない技術の問題なのだ。勿論指揮者の責任でもある。

管楽器においても二拍目と三拍が結ばれて歌詞の律動に合わせられたりの創作自体が音楽劇場的な処理なのかもしれないが、まさしくそうした中声部の書法と演奏実践の感覚が座付きと呼ばれるものなのだろう。ゲヴァントハウスのそこがベルリンのそこよりも優れているとしたら関連があるかもしれない。グルネマンツの語りでは様々な動機が出て来るのだが、ラトル指揮ではあまりにも配慮されていないかのようにしか演奏されない。つまり楽譜で見ていてもただ不思議な楽想の動機となっていて、演奏自体が有機的な意味付けを持たなくなり、余計に演奏がぎくしゃくする。

アンフォルタスの「癒えぬ傷」のところでは、三連符でシンコペーション効果が出ているのだが、ここがまたリズム的にも難しく、一つの山なのでペトレンコ指揮でのゲルハーハ―の名唱が待たれるところだ。ここでは指揮が悪いようでとてもぎくしゃくとしている。

その後のミステリウムへと繋がると、その歩行のテムポから中庸にへとアクセルを踏み込んだりするのが極端で、その繋がりの難しさをどのように料理するかの聴き所なのだが、なぜかベルリンではバーデンバーデンで程うまく進んでいない。恐らくラトルのそのままのテムピではそのようになってしまったのが、バーデンバーデンでは劇場の制約で逆にあまり目立たなかったようだ。要するに楽匠の舞台の経験則でそのように書かれているという方が正しいのだろう。経験豊かなペトレンコなどの指揮では、舞台上でもしっかりと劇場のテムピを取れるに違いない。

まさにこの辺りは、反対ハンドルの外国で事故を起こさなかった運転手が ― つまり劇場で「事故」を起こさなかったコンサート指揮者が ―、自国に戻って来て逆走してしまったという話しにとても似ている。私はそこでの不自然なテムポ取りをそのように聞いた。(続く



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音


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by pfaelzerwein | 2018-06-25 16:24 | | Trackback

いざカウンター攻撃

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ドイツ対スェーデンの試合を観た。代わり番このARDの晩だった。嘗てのように男カタリーナヴィットことギュンター・ネッツの名解説も無くなったのだが、ZDFにはオリバー・カーンも出ていた。彼がカムバックしなければいけないようなディフェンスだと思った。兎に角、最初のお得意の密集総攻撃で得点出来なかったので駄目だと思ったが、最後には辛うじて首を繋いだ。それでもこのチームが優勝争いに食い込むなどとは誰も期待していない。毎回最初は全く盛り上がらないのがドイツであるが、いつも知らないうちに優勝争いに食い込むようになって、首相の訪問日程が検討されるようになると燃焼寸前だ。それでも今回のチームに限っては政治日程には絶対のぼらないだろう。

なによりも興味深かったのは、あのボアテンの反則だった。最終的には赤紙が出されて退場となったが、最初の反則が取られていたならば完全に負けていただろう。彼の名を聞くたびにAFDの「もしボアテンがご近所さんだったら」発言とその反響を思い出す。まさしく修正主義的なこの手のポピュリスト政党の常套文句で、皆が「そのような人種差別などは恥と考える」その裏側でなにか本音のような邪悪な感情に呼びかけるのがこ奴らの手段で、それは世界中変わらない。

勿論多くの人はそのようなスローガンに自問自答してみて、やはりそのような発言や手法は許せないと思い、実際に上の場合もボアテンに部屋を貸したいというオファーが沢山出された。この辺りは、所謂カウンターと呼ばれる運動に近い。そこで最も重要なのは、その手の連中を許さないことを示す活動で、政治活動として認めないもしくはピアニストのイゴール・ヨベットのように果敢にカウンター活動をすることだろうか。

兎に角、彼に任せるしかないチーム事情を考えると悲観的になってしまう。一体ああしたAFDの連中はこうした現実をどのように思っているのだろうか。こうしたナショナルチームのみならず、世界中の優秀な管弦楽団なども同じような塩梅で、それこそが現実で各々の人材を其々に活かすことにしか道は無いのである。

涼しい週末となって、寒冷前線で気温摂氏10度から20度ぐらいで気持ちが良い、というか眠くなる。走るのも気持ち良く、先日までの滝のような汗が嘘のように、軽く掻いた汗も気持ちよく乾く。来週は週末の30度へと再び上昇するようだ。初日が木曜日のミュンヘンはライフが予想されていて最高気温が20度以下のようだ。それならば十分に着込んでいても暑くは無いだろう。気温によってはディナージャケットも考えてみようか。よく考えるとオペルンフェストの初日は初めてだ。まあ、たとえ赤絨毯が引かれていても私は駐車場から入るので関係は無いのだが。

「パルシファル」一幕は一通り観て、感想もメモしておいた。週末中に二幕と三幕を片付けて仕舞いたい。流石にバーデンバーデンの初日の前からすると積み重ねが増えていて、結構いいところまで来ている。木曜日までに満足するほど把握出来るようになるだろうか、限が無いのは分かっているのだが。



参照:
身体の使い方や鍛え方 2014-02-22 | 雑感
スカンポンなカメルーン西瓜 2010-06-15 | ワールドカップ06・10・14


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by pfaelzerwein | 2018-06-24 20:22 | ワールドカップ | Trackback

「プロシア的」の情けなさ

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週末は木曜日の初日へ向けての準備である。色々と調べた結果やはりベルリンのフィルハーモニーでの「パルシファル」を批判してしまわないとならないようだ。メトでの演奏は既に批判したので繰り返す必要もない。なるほど演奏会での演奏はバランスが悪いが、管弦楽演奏上の問題点はハッキリする。それほどラトルの指揮がこの曲には向いていると感じたからだ。

それに比較するまでもなくマーラーの六番はやはり駄目だった。そもそもマーラーにおけるテムポ変化などのアゴーギクの細かさは、ご本人の関心とは別にサイモン・ラトルのブルックナーほどには向かない。最終公演二日目のデジタルコンサートも観たが、ラトル指揮フィルハーモニカーの全てを曝け出した演奏だった。メスト指揮クリーヴランド管弦楽団との比較で、合奏が合うとか合わないとか上手いとか下手とかの問題ではなくて、音楽的に勝負にならなかった。後者があまりにも精細に演奏していてメストの演奏解釈があそこまで今日的なマーラー解釈になっているとは想定外のことだったが、そもそも譜読みの精度が大分違う。

ラトル指揮では複雑な個所になるとた横に流すだけの演奏しか出来ていない。記憶からするとフィラデルフィア管弦楽団を振っていたMeTooのレヴァイン指揮などと同じでしっかりと各声部各音符の音化が出来ていない。多声的とその音楽構造とはまた違うのだ。恐らくラトルが客演でクリーヴランドをフィラデルフィアを振ってもそれほど変わらないと思う。つまり一つ一つの動機などの表情付けがそこではなされていなくて、選抜された箇所のみをプローベで表情づけしているという感じで、そもそもその精度が全く異なる。あの年代はあれで通っていたのだ。それがクリーヴランドの管弦楽団の特徴などではないことは過去のアーカイヴで流されるセル指揮のその楽団の音楽性を現在のそれと比較すれば分ることで、そもそも駄目なリズムとかだけではないところでの多声部での表情付けの細やかさはセル時代には求められていなかったものである。

少なくともマーラーのような大編成でのその細やかなそれは嘗て無かったもので、ベルリンでのそれを容易に切って捨てれない理由でもある。少なくともヤナーチェック「女狐」でのその音楽的な実力差は、ベルリンの方が曲に慣れていなかったからのディスアドヴァンテージだと思っていたが、マーラーでは指揮者も含めてクリーヴランドにそれほどアドヴァンテージは無かっただろう。

二日目の映像を観ていて気が付いたのは半数ぐらいはラトル時代の最初から在籍していた人で、可成り年配も多くアバド時代の人が多そうだったことだ。コンツェルトマイスターのスタブラーヴァはクスマウル以降で最もソロを聞きたい人であるが、どうして、徹底できていないのだろう。その中の半分ぐらいは定年も近いようなのでペトレンコ時代にはどんどん変わっていくと思われるが、想定以上に悪かったのは管楽器で、半数ぐらいは変わらないと厳しいと思った。特に木管でこの人というのは限られていて、アメリカのそれと容易には比較したくはないのだが下手である。

駄目な人は直についていけなくなると思うが、そうした競争のシステムとはまた異なるところで「プロシアの管弦楽だ」とか豪語している楽員を見ると、矯正のしようがないと思った。宜しい、その秩序だった文化を指すならば、当然なのだが、そもそも英語でインタヴューに答えるソリストなんて採るぐらいならば、もう少し音質的にも「プロシア的」を徹底しろと言いたい。なにかフィルハーモニカーのプロシアと言うのは肯定的には受け取れない。要するに、芸術的なローカリズムや伝統とは違って、感覚的に田舎臭いだけなのである。

エルブフィルハーモニーのサイトを見ると一日経過しても、ペトレンコ指揮のユーゲント楽団だけでなく、ネゼ・セガン指揮ベルリナーフィルハーモニカーの券が残っていた。つまりそろそろ皆が押し寄せる状況が終わって、一段落して来てぼちぼち正常化だろうか。そもそも早々に売れ切れていた世界の管弦楽団シリーズはやくざな主催者のもので入場料金も高いが、ベルリンのそれは良心的な主催者で価格も微妙だった。最低席の15ユーロとか50ユーロとかはお得で、最高額も190ユーロだから、ハムブルクからならばベルリンへと行くのとの天秤が掛けられることになる。私個人からすればハムブルクはベルリンより近いが、フィラデルフィアでなくベルリンからの管弦楽団のために旅行するには遠過ぎる。そもそも録音で聞く限り、評判ほどに若しくはテルアヴィヴほどにはエルブフィルハーモニーは音響が良くないと感じている。恐らく音響修正が必要だろう。



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評


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by pfaelzerwein | 2018-06-23 20:12 | 文化一般 | Trackback

配券された初めてのもの

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「マイスタージンガー」のティケットが早速配券された。「金に糸目は付けず」の力が伝わったのだろうか。但し日程は最後のものになったので他の都合をこれに合わせていくしかない。それほど期待している。

更にもう一つ買い求めた。第一希望はボストンシムフォニ―管弦楽団だったが、これは完売していた。そこで第二希望のペトレンコ指揮のユーゲント管弦楽団演奏会だ。前々日にルクセムブルクに行く心算だったが、先ずはこちらを確保した。既に問い合わせしていて断られたものだ。舞台の奥の席が10ユーロなので人にあげてもよいので購入しておいた。初めてのエルブフィルハーモニーである。行くのが大変だが、席を確保しておかないと他の計画も立てられないので、先ずは購入。

ペトレンコデビューの時はバーデンバーデンの「パルシファル」初日だったのでそもそも試さなかったが、購入は難しかったと思う。今回も窓口と別枠で発売したようだが、結構入るのが大変だった。いつものようにシステムのアルゴリズムを考えながらウェイティングルームに入ったが、番号は800番台だった。十五分ぐらい待っただろうか。先ずはボストン完売を受けて、何とか確保した。

舞台の奥に座った経験を考えると、大阪のシムフニーホールは珍しくて喜んで座ったが、記憶に残るのはロイヤルアルバートホールでのラトル指揮バーミンガム饗でのヘンツェの交響曲七番だったと思う。確かに前から見ていたのは覚えているが、それほど近くも無かったので、最後に作曲家と拍手しているのぐらいしか覚えていない。特殊な音響のそれは記憶にあるが、まあそれは構わない。ルクセムブルクでも被りつきにしようと思っていたが、ペトレンコの指揮を前から見れる機会とは思わなかった。

エルブフィルハーモニーでの初めてのショッピングだったので覚書としておこう。アルゴリズムや入り口の問題はどこのシステムでも共通している。ウェイティングシステムの開かせ方も若干異なるようだが、今もっともすっきりしていて公平なのはミュンヘンだと思う。その他は幾らかは癖があって、アルゴリズムを読まないといい番号が貰えない。まだ改良の余地がありそうだが、現在の需要過多の状況での目的からすると致し方ないだろう。

一度入れば30分ぐらい時間を貰えるようだが、最初だったので時間配分が分らなかった。向こうが選ぶ機能が見つからなかったのでいちいち座席表から探すと椅子取りゲーム状態になって中々取れないのはどこのシステムも同じで、最善の席からの配券でないと厳しい。それでも安全パイから確保していって決定したが、最初に焦ったのはログインで、なぜかパスワードの切り替えまでする必要が生じた。そうなると30分なんて殆ど消費してしまう。それでも何とかログインして、その後の決算でもエラーが出て電子メールで相談しろとまで出た。諦めずに証拠のショットだけ写して、繰り返すと何とかペイパル支払い準備まで行った。ここで再びエラーが二回ほど出たので、明らかにサーヴァーのパンク状態だった。ぺイパルに入ればこちらのものだった。それでも持ち時間を殆ど費やした。最後まで焦った。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
決してCPで負けない 2018-05-09 | 試飲百景



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by pfaelzerwein | 2018-06-22 15:57 | 生活 | Trackback