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索引 2019年1月

ジーンズを返品する訳 2019-01-31 | 生活
ハムブルクの夜の事 2019-01-30 | 女
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評
週末に考えること 2019-01-26 | マスメディア批評
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
音楽芸術の啓蒙思想 2019-01-21 | 文化一般
問われる継続性の有無 2019-01-20 | 文化一般
移り行く明日への残像 2019-01-19 | 文化一般
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
独に拘るシューボックス 2019-01-17 | 文化一般
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感
リューネブルガーハイデへ 2019-01-15 | アウトドーア・環境
意表を突かれた気持ち 2019-01-13 | 音
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
お見事な司会進行 2019-01-10 | 文化一般
ルクセムブルクへ一走り 2019-01-07 | 生活
売り時にオファーした 2019-01-05 | 生活
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評 CM9
ヴァルツァーの躍動感 2019-01-02 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦

by pfaelzerwein | 2019-01-31 23:03 | INDEX | Trackback

ジーンズを返品する訳

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暫く寝かせていたジーンズを送り返すことにした。理由は色合いだ。少なくとも私のモニターで見た色と現物では差がある。私などは色合いの細かなところに無頓着な人間だが、最近は気になることが増えてきた。今回のジーンズも現在のものがそれ以前のものと異なって濃いブルーだったので夏に使い難いことに気が付いた。冬場は寒さは無いのだがそれでも軽さがあった方がよいことが多い。そこで適当な色を購入したのだが、前回のものとほとんど変わらなかった。

勿論返品にはその理由を敢えて書いてあげた。商業的にも今後の大きな参考になる筈だ。そもそも私が購入してから数ユーロも安くしているのも許せなかった。現行のもののように最安値で購入していたならばまだ諦めがつく。今回発注したのは1%ウレタン入りだったのでその手触りを見れたのは価値があった。やはり出来る限り純綿を選びたいと感じた。

朝目覚めると、部屋の中が明るい、寝坊したのかと思うと、雪が乗っていた。夜中に寝つきが悪かったのも気圧が変動したからだろう。即パン屋は断念だ、毎日走る心算で早起きの予定だったので、二度寝になった。さて明日は取り返せるか?

そろそろ週末の準備だ。先日劇場で忘れたマフラーは見つかっているようなのでフィデリオ最終日公演前に取りに行く。また新しい事務室に出入りするようになる。またまた劇場の中の様子に詳しくなる。

部屋着にしているシャツの襟元が破れてきた。洗濯をしてもしないでも結果はあまり変わらないらしい。一度洗濯してもう一度着れるかどうかぐらいだろうか?次に下ろすシャツは決まっている。二年ほど前に卸してから年初めのハムブルクまで着た。合わせるのが難しいストライプだったので十年ほど前に安く入手したが、袖を通すまでに熟成した。それだけ外出着に使うとは思っていなかったが、一度目立つとその次もと思って結構使えた。普段着に卸してまた二シーズンぐらいは使えるか。

月末である。クレディットカードの一つが落とせなかったので一時封鎖とあった。またスパムメールかと思ったら本当だった。買い物の時に間違ってそのカードを使ってしまっていたことを忘れていた。週末使う予定だったが、他のでも使えるように準備しておこう。

今夜中に纏めて準備しておかなければいけないものもある。散髪も断念して、先ずは体調を崩さないようにこの週も乗り越えたい。



参照:
新しいシモンのパンツ 2017-08-30 | アウトドーア・環境


by pfaelzerwein | 2019-01-31 00:06 | 生活 | Trackback

ハムブルクの夜の事

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久しぶりに峠まで走って下りてきた。先週末に為せなかったから日にちが開いた。開くと不安になる。寒さが緩んだが、それでも山道は薄く白いものが残ったままだ。峠に近づくと雪の上を走った。それでも気温が摂氏二度まで程で低い方で安定しているため凍っていないのがよかった。ゆっくりしか走れなかったが、下りてきたら汗を掻いていた。先ずはそれでよい。週末土曜日は外出でまた走れなくなるので、その分まで走ろうと思えば毎日休みなく走ることになる。無理をする必要はないが、気持ちが上向くかどうかだけである。

先日注文したジーンズと靴ベラをようやく開けた。一週間ほどおいていた。開けてみるとネットの写真よりも青かった。返品しようかどうか考えている。中々ネットの写真と実際の色が合わない。もう一度陽の下で見てから判断しよう。

靴ベラは今までは航空会社のおまけについていたプラスティックを使っていたが、先日無理に捻じ曲げて折ってしまった。家には金物の長いものを置いてあるが車に一つ置いておかないと不便なことが多い。そのために購入した。こちらは思ったよりも大振りだったが使いやすそうだ。

先日ミュンヘンの帰りには、行きに見当をつけていた道路の名前をナヴィに入れると行きと帰りを同じ経路で街を出入りできた。具体的にはアウトバーン八号から旧市街への経路である。旧市街へは、道標もあり、問題ないのだが、帰りはいつも迂回をさせられる傾向にある。過去から何十回と旧市街に出入りしているが今回のように全く問題なく脱出出来たのははじめてだ。その道路名もヴェルディシュトラーセでピッピングシュトラーセとの交差点を目指せばそのようにナヴィが導いてくれた。まだ何回も往復しないといけないので少しでも短絡出来るのは嬉しい。

ハムブルクの夜の事を書き忘れていた。劇場に入る前から気にしていたのは食事のことだ。初日はエルプフィルハーモニーのホテル内で済ませた。二日目の劇場は、街中なのだが、引けるのが遅い。これはこれでと探してもいたが、実際に下見をしてみると適当なところが見つからなかった。そこで劇場の案内のお姉さんに聞いてみた。というのはプログラムにイタリア料理が宣伝してあってその名もフォアデアオパーとかだったので、いいのかなと思ったからだ。そして聞いてみると、イタリアならば他にも横の筋を入って行けばあるよと教えてくれた。実際に探してみると中々開いているところがなかったのだが、駐車場の方に近いところにあった。

何を食したかはなぜかもう覚えていないが、そんなに悪いものではなかった。きっとサラダ類だったと思う。ビールを飲んだ覚えがある。記憶が不鮮明になるほど飲んだわけではないが、なによりも印象に残ったのは隣の机の若い女性だったからだ。それでもオペラ公演のことを忘れていないのはメモをしていたからに他ならない。しかし帰りには僅かなアルコールゆえかホテルへの道を間違って二十分ほど余分に走ったかもしれない。

何がそんなに興奮させたかというと、隣のテーブルでこちら側を向いて座っている彼女には直ぐに気が向いた。向かい側にこちら側に背を向けて座っている女性と喋っていたのはロシア語だとは分かるのだが、ウクライナ語との差は分からない。サンクトペテルスブルクのロシア女性とは暫く一緒に行動していたことがあるので何となく感じが分かり、またウクライナ女性も現に口説いているので、なんとなくその感じの違いを推測する。

そんなことでちらちらと彼女の表情を見ていたら、彼女がこちらのことを顎で指して、背中を向けている女性に伝える。一寸こちらを向いてというのがあって、更に耳を澄ませているとドイツ男性はという愚痴になってきた。そうだろうなと思って聞いていたら、店の者に「上に行くから」と言い出した。これは余程嫌われたかなと思って、凝りもせずに「上の方が気持ちいいかな」と立ちかける彼女に声を掛けたら、「どう、あなたもいらしゃいよ」と誘われた。

そう来るとは思ってなかったので「イヤー、それはありがとう」と重い腰を上げなかった。正直上の雰囲気も分からないので躊躇した。そして階段を上っていく彼女のお足もとを下から見るとなんとあの寒いのにミニスカートなのだ。これは気が付かなかった。最初からおみ足に気が付いていたら自制心無しに着いていくところだった。なにもチャラチャラした女性ではなく、ウクライナ女性に比較的あるような一寸知的な表情のある女性だった。横に掛けてあった彼女のコートも極真っ当な感じの学生のような装いだった。そして上階も出がけに見ると、彼女が階段の上でこちらに背を向けているのは、なんでもない健康なスペースだった。急に僅かなアルコールが回ったのを感じて店を出た。



参照:
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2019-01-30 04:05 | | Trackback

州立歌劇場でアニメ鑑賞

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オペラ劇場嫌いが、切っ掛けで、なぜかオペラ劇場に通う。車中のラディオが夜八時からイタリア人指揮者故ジョゼッペ・シノポリのシュトッツガルトでのアーカイヴを流すと広報していた。1996年頃だからドレスデンに行く前に頻繁にSDRの管弦楽団を振っていたようだ。その時の録音である。後に同地のリーダーハーレでシュツターツカペレを指揮してマーラーの六番を振ったのを聴いたので、その前の演奏だ。三番の交響曲が放送される。そのサイトを地元放送局のSWR2に探していたら、目についたのが、カールツルーへの劇場での新制作「エレクトラ」初日の大好評だ。

「エレクトラ」で、なるほど音を聞くとはっきりしたメリハリのある音が鳴っている。指揮者は小沢の弟子筋の英国人のジャスティン・ブラウンという人でもう既に10年も音楽監督を務めている。余程次の就職先がないのかどうかは知らないが、確かに座付楽団にしてはしゃっきと鳴ってるようにも聞こえる。指揮の技術はそこそこあるのだろう。東京の現音楽監督大野氏が振っていた時にも聞きに行ったことがあるが、当時よりもメリハリがあっても、良く聞くと大雑把な感じがしていて、総合的にはそれほど変わっていないとも思う。アングロサクソン系のノットとかあのあたりの指揮者の特徴にも似ているのだろうか。謂わば東京の国立劇場とどっこいどっこいの劇場だと思うがどうだろう?

そしてガラ公演の日として同じ制作でカスリーン・フォスターがヴィースバーデンから客演するらしい。もう一人は何とアグネス・バルツァである。まだ歌っていたとは知らなかった。その意味からエディト・グルベローバまだ陽が当たるところで活躍しているだけ ― あまりにお呼びが掛からないとミュンヘンに苦情していたぐらい黙っていない ―、流石に二人の間には差がある。何か写真もブロンドに染めていて昔の面影がない。これ以上触れると侮辱になりそうだから書かないが、音程のだら下がりの歌手や昔の名前の人に余分に金を出す人がいるのだろうか?これならば市立劇場のマンハイムの方がいざとなると大物が来る。と思って見ると4月7日にはカムペが「フィデリオ」を歌うらしい。価格を見ると42から103ユーロである。交通費入れてもその金額を出すぐらいならミュンヘンに行くべきだろう。勿論宿泊費までの差額は出ない。それでもA級州立歌劇場程度とは付き合っていられない。ハムブルクは流石に違った。そしてミュンヘンの243ユーロというのは自由市場価格として正しいのだろう。

しかしカールツルーへのバーディシェシュターツオパーの方は、なんと二年前にヴィーンでしか上映されなかったユヴァ―ル・シャローンのアニメを使った「賢い女狐」を上演している。ルクセムブルクまで二時間かけて行ってクリーヴランド管弦楽団でそれのアニメ無しのコンサート形式を聴いたのだが、アニメが心残りとなっていた。反面、ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニーカー演奏とは比較にならないような上質の演奏を聴いたので、今更三流の音楽は「お耳汚し」になるだけだ。救いはドイツ語上演なのでニュアンスも大分変わり、不愉快になることはないと思う。日程などを見ていると、行けそうな日があって、調整卓の横で10ユーロの席に出かけることにした。なんといっても五十分でドアーツードアーで観れると思っていなかったアニメを体験できる。ノイズキャンセルで耳栓をしてみるわけにもいかないが、この価格なら少なくとも映画に行くつもりでと思って券を買っておいた。屋根の下で、視覚さえよければ文句がない。どれほどのワイド画面を体験可能か?音は隣で卓の空冷ファンが回っているぐらいが丁度よい。と言いながら音楽監督の腕も現在の管弦楽の程度もしかと見極めてくる。昨年のマンハイムよりもいいかどうか?

20時になって放送を聞こうと準備していたら、アメリカの放送局からティーレマン指揮のドイツェオパーベルリンでシュトラウスの前奏曲が流れてきた。芋のごった煮のような音を出していて強弱をつけたり何かしているようなのだがガタガタになっている。座付管弦楽団だからという程度ではない。あの程度の指揮者が「影の無い女」を振ったら何が何だか分からなくなるだろう。放送局も節操のないことをする。と思ってシノポリ指揮の放送管弦楽団を聞いていたら、二重リズムどころか初めからはっきりしない。最後までそのような感じでよくあれで最後まで演奏できたと思う。同じホールでのシュターツカペレドレスデンの第六も総奏になると濁っていて、あれは楽団の限界だと思っていたが、やはり指揮者の技術的な問題だったと理解した。それにしてもひどい演奏をしていたもので、昨年のボストンでネルソンズが指揮したものとは月と鼈だ。この二十年近くで指揮の世界に何が起こったか知らないが、二十年ほど前には室内楽の感覚では決して管弦楽の演奏精度を吟味できなかったが、今は超一流クラスの指揮者が超一流管弦楽団を振れば全く精度が違ってきている。



参照:
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
オペラとはこうしたもの 2018-11-12 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2019-01-29 21:26 | 文化一般 | Trackback

音楽劇場の社会的な意味

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#好きなオペラ10選の呟きを見ていて面白いと思った。交響曲とかなんとかだとお遊びでしかないのだが、劇場ものとなると関心が広がる。最初はその意味が解らなかったのだが自身で選んで更にそのリストを見ていると気が付くことがあった。あまり恣意的ではなく気ままにリストアップしていくのに、やはり劇場でその作品に満足したという条件を付けるととても容易に選択可能となった。これが決定的条件だったと自身のリストを見た後で気が付いた。

この手のリストを見ていて、その選択根拠とか趣向とかを推測するのが身についてしまっているのだが、その撰者固有のものであったり、それを取り巻く社会的な志向であったりもする。それがまた面白いところである。しかし劇場作品以外の音楽作品の場合はどうしてもその知識や思考が反映するだけで、あまり全人格的もしくは社会環境までを感じさせない。まさしくそこが劇場作品の本質である。

オペラ劇場嫌いを自認する自身のリストを見て、直接は関係ないが選択の前提となるその作品の劇場体験が複数であろうとも、その体験を思い起こしていくと、面白いことに気が付いた。意外にもそれら作品の劇場体験の裏にオペラ指揮の下手なサイモン・ラトル指揮公演が複数にも上る。ラモーの「レボレアーデ」にしても、彼が復興初演者のガーディナーに習ってきた成果だった。そして聴体験として「パルシファル」でさえ、ブーレーズ、ペトレンコと別け合っているというから、これは凄いと思う。今でも盛んにオペラを振りたがっており、今更止めればいいのにと思うのだが、何か小さな室内歌劇団でも任してみたいと思わせる。思い浮かぶ公演の指揮者にクラウディオ・アバドも挙がり、ピエール・ブーレーズと並んでキリル・ペトレンコぐらいだから、如何にペトレンコが劇場指揮者で無いかが分かる。

演出家ではペーター・シュタインとか、意外にムスバッハーが入っていたり、文句しかつけないロバート・ウィルソンが入っていたりするのが不思議だ。それらは全てザルツブルク時代にジェラール・モルティエ支配人が設定したものだった。そしてリストアップした作品の内容を思うと、全くザルツブルク上演とは関係なしに共通点も見つかる。というか、オペラの勃興から恐らく終焉までの歴史の中で音楽劇場のその社会的な意味をそこに見る。詳しくはそれこそモルティエ氏の遺稿集を開きながら纏めたいと思うが、まさしく公的資金を投入する音楽劇場の意味をそこに見出す。やはりあの故人の情熱は特筆すべきものだった。そして当時のハイダー博士勢力に連帯して対抗した自負もある。そして彼の継承者であるであるミュンヘンの後任支配人ドルニーに期待したい。

余談ながら後任音楽監督のユロウスキーのコンサートのティケットを一枚購入しておいた。年末ベルリンに行かなければ先に聞いておく。不都合なのは、一部音楽祭の日程は出ているが、楽団のツアー日程などはまだ発表されていないことで、割高の切符は買い難い。近辺で更に安く同じものをより条件が良い場所で聞ける可能性が高いからだ。30ユーロ近い料金はベルリンの放送交響楽団には高過ぎる。同じ場所でゲヴァントハウスがブルックナーの八番で更に数ユーロ高いので、こちらは一先ず断念した。入場料金だけなら、交通費は全く異なるとしても、ルツェルンと変わらない。1400席未満としても視界が効かないのに高くはないか?

クリーヴランドの「トリスタン」の放送の紹介をしたら、知らない人からコメントが入って、「フロリダのナポリに向かっていて、マーラーの二番を歌って、帰りにこれを聞くんだ」と書いてあってリツイートしてくれた。彼がクリーヴランド合唱団の一員であり、楽団がマイアミツアーに出かけていて、数時間後のコンサートがそのような場所であることが分かるまで、ネットリサーチしなければ分からなかった。その前にいつものように楽団からメンションがあったのは分かったが、一体あの楽団関係者には何か基本ガイドラインがあって、効果的にSNSを使うコンセプトが存在しているかのようだ。合唱団からも入った。そして今回も声楽の人で、器楽の人に比較して練習時間を長くできないので、ソリスツに限らず合唱団までネット活動が盛んなのだろうと思った。ピアニストで盛んなイゴール・レヴィットなどは特殊なのだと思う。

お蔭で私も録音してじっくり聞くことになった。昨年放送の節はシュテムメの声を生で聞いた後だったのであのコンサート舞台などにも抵抗があって熱心に聞かなかったが、改めて聞いてみるとなかなかいい演奏をしている。合唱団員も自身が歌っていなくても名歌手の歌唱となると熱心に聞くのだなと思った。日曜日に午後から就寝まで奇しくもフロリダの現場の空気を感じていた。



参照:
音楽劇場のあれこれ 2018-03-08 | 女
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評




by pfaelzerwein | 2019-01-28 23:33 | 文化一般 | Trackback

ミュージカル指揮の意味

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ミュンヘンのオパーフェストの日程を見ていた。今回は二回野外での公開ものがある。いつものオペラと野外コンサートの二本立てということで、来年はペトレンコ指揮の最後の年でどうなるのかとも思った。それよりも発表されたプログラムが示唆するものの方が興味ある。

先ず歌手は、ゴルダ・シュルツとトーマス・ハムプソンが新たに挙がっていて、曲目もガーシュインとブロードウェーミュージカルとなっている。つまりガーシュイン以外にも何かを振るということだ。コルンゴールトかも知れないしほかの何かかもしれない、不案内なので分からない。そして、上の二人を採用したのも気が利いている。私のツイッター仲間ではないか。

そして本当の関心所は違うところにある。恐らくヴァルトビューネは来年もまだ登場しないと思うが、今年のジルフェスタ―コンツェルトはミュージカルプログラムになってこの二人の登場もあり得るかもしれない。そうなれば私もベルリンまで出かける必要はなくなるが、さてどうなるのか。今迄の経験から四月の発表で、コロムブスの卵のように「何だそんなことだったのか」とそれほど捻りがないことが殆どだったので、そのまま行くかもしれない。

「フィデリオ」にもう一つ新聞評が出た。殆ど異常な再演への関心の高さである。短いながらも南ドイツ新聞が報じている。面白いと思ったのは出だしで、「僅かばかりの音で、彼は本当の指揮者だと分かった。強打、そして奈落から湧き起る弦楽の音で、舞台の一人の女の孤独を感じさせた」とまるで日本で活躍のライターが書いているようなそのものの書き様である。なるほど何が起こっているかを報じるジャーナリスト的な視線も感じられるが同時に、吉田秀和から小林秀雄へと遡れるような私小説系のコラムである。名前を見るとヘンリック・オェルディンクとなっていて日本人でも女性でもなかった。若い人かもしれない。NZZやFAZでは考えられない書きようであるが面白いと思った。続いて「クレッシェンドが男装へと着替える女性を下打ちして」と描写を試みる。

しかし次の段落からは、「この再演が容易なものではなくて、ガッティ指揮の時は音楽的に評価できるものでなく、今回も長いレオノーレ三番の序曲からプラスティック板の迷路に佇む主役の女性に付き添い演出の嫌味に翻弄されなければいけなかった」と音楽監督キリル・ペトレンコの最初のフィデリオに期待させられたとしている。「直ぐに緊張感を作り、音色とダイナミックスへの賢いセンスでもって、彼がどんなに音色の魔術師であるかを証明した」と絶賛する。

更に「ペトレンコの強みは、楽員との信頼関係でもあり、二幕の弦楽四重奏132のアダージョで泣かせてくれて、バカバカしく駕籠に入って演奏していることも直に忘れさせてくれた」とこれまた故大木正興が書いているのかと思ってしまった。歌手の成果にも一寸触れて、最終的にはペトレンコが持って行ったと御馴染の締め方をしている。恐らくこの書き手は音楽ジャーナリストではなく普通の社会記者みたいな人かもしれない。所謂音楽オタクかもしれない。恐らく私が今まで見かけた中でドイツ語で音楽に書いてあるものの中で最も日本のそれに近いものだった。一度ご本人に会ってみたいぐらいに興味深い。広大ぐらいに留学して修士でも取っているのだろうか?

またまたフィンレー氏のいいねが付いていた。ジュリアードでのセミナー中継を紹介したからだが、中々マメで偉いと思う。オックスフォードに留学していた筈で、流石にSNSの使い方やその意味をよく分かっている証拠である。私個人としては現在オペラ劇場関係の話題を扱うことが多いのでどうしても偏るのだが、本来ならば声楽部門とはそれほど関係がなかったのでとても不思議に思う。

兎に角、自身のサポーターのような人を10人ぐらいつけていれば、利害関係なしで無料で広報してくれるのだから、こんないいことはない。そもそもキリル・ペトレンコがメディアの支援を受けずにつまり芸術的に不利になりかねない関係を断つことが可能になったのもSNSのお蔭であることは賢い者は皆認識している。更にそこに公共的な資財を利用出来るようになればもはや商業的な援助は全く必要が無くなる。

ARTEでゲヴァントハウスのブルックナーの七番が放送されるが、既にオンデマンドになっている。放送されるものはもう少し質が高いのかどうか?少なくともMP4自体はサウンドが126kBitしか出ていない。あまり音源としては使えない。



参照:
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感


by pfaelzerwein | 2019-01-27 23:36 | マスメディア批評 | Trackback

週末に考えること

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この週末は幾つか片付けないといけないことがある。先ずは来週末のミュンヘンからチューリッヒを繋ぐ途上のホテルをキャンセルすること、若しくは天候などを見て判断すること。また木曜日に劇場の食堂で忘れたマフラーの紛失を届けておくこと、また「ミサソレムニス」への準備を開始することなどである。また来週頭に会計士に依頼するメールなども整えておくこと。三月は余裕が出来るが、そこまでは流してしまわないと駄目だ。

金曜日に朝寝して森を走ったが、帰宅の車中のラディオがペトレンコのアシスタントを務めていて、今度シュトッツガルトにデビューする女流指揮者のインタヴューを流していた。「サウスポール」世界初演でアシスタントを務めていたというから、現在グラーツの監督をしているリニヴの後任のフランス人ジャコーである。女流ばかりになるのだが、コンサート活動もしていて、丁度現代の音楽もクラングフォーフムで振り慣れているらしく、世界初演には役に立つ助手だったのだろう。大体どの程度のアシスタントが選ばれたかは、彼女らのその後の経歴を見ればよく分かる。どこかで見た顔だと思えば昨年の座付管弦楽団のカーネギーホール初公演の時にも同行していて、プレプログラムなどを振っていた。

ペトレンコのアシスタントは、「全てが音楽に向けられていて、どこが良いのか駄目なのか、殆ど授業のような感じで、今でもその教えに感謝している」と話す。もともとトロンボーン奏者として楽団でも吹いていたようで、28歳の若さにしては経験豊富な感じである。力があれば直ぐにコンサート会場でも馴染みの顔になるかもしれない。

「フィデリオ」再演の批評が二種類出ている。再演としては話題だ。一つはDPAの通信社で流されたもので誰が書いているか分からない。内容は短く、簡潔としても報告を超えていて批評をしているのでなぜ匿名扱いのなるのだろう。もう一つは地元紙であり、その名前にも記憶がある。

このあまりにも厳密に行う指揮者が初めて指揮をするとなれば、十二分に考慮したと考えられるわけだが、それもこの特別な多面的な作品「フィデリオ」となればとなる。となると、この再演に当たって、特に性格的に特別でなく作品に向かうとすれば少し驚きとなるとして、レオノーレ三番が序曲におかれた導入においても、過剰に重く深刻になることなく軽妙さを失わずに、無重力なヴィヴァ―ツェと、彼のいつもの流れの早いテムポを保ったとなる。

絶えず弦を張りつめながら、管楽器の音色が輝き、「フィデリオ」のオペラ的な開始に見合う。しかしそれがこの作品の傷でもあり、喜劇的なその導入からの管弦楽の力強い叫びへと、ペトレンコの仮借なさはこの作品において限定的なあり方とされる。

また穴掘り強制の希望の無い場面からフィナーレへと暴力的にとげとげしく解放されるのではなく、ペトレンコの帰来の音楽性によって無理なく繋ぎ合わされたとしつつも、この断面が平坦化されたとも書く。

若いペアーの魅力的なミュラーとパワーを誉め、グロイスボックのベルカントのその総唱でも低音が浮かび立つほどの声はロッコ役には期待されないほどとして、ナズミの信頼置ける以上の歌と評価する。そして、カウフマンがセンセーショナルな声のコントロールで無からの不信の叫びへと歌い上げたとした。そうした最高度の歌で、パートナーのカムペの歌を望まざらず難しくして、声自体が高い領域で厳しそうなのを、賢明なフレージングと表現力豊かなセリフで部分的にのみ対抗するに至ったと書く。

コッホの不安定な低音でドンピッツァロを疲れた事務職にしてと、この再演の落ち着かない暗い要素を、声楽的にも管弦楽的にも軽くしたように思えたと、ジャーナリスト的な報告としている。恐らく当晩の公演からその満足度六点中五点を含めて、批評できることはざっとしているかと思う。詳しくは各々の読者に問うか、若しくは何回か続けて聞いてからで、早々に結論じみたことをいうというのは早急で、これぐらいが正しい纏め方だろうと思う。



参照:
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音


by pfaelzerwein | 2019-01-27 00:21 | マスメディア批評 | Trackback

飛ぶ鳥跡を濁さずの美

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名伯楽が皆あれほど苦労する楽曲をいとも簡単に指揮してしまうペトレンコには改めて驚かされる。最終日を待って感想を纏めたいと思うが、ペトレンコのべ-ト―ヴェン解釈は基本的には変わらない。羽の生えたような軽妙さに木管楽器などの名人芸も要求されていて、中々やっていたと思う。ホルンもデングラーの横にヴィオティーが並んで四管体制の管楽器がとてもよく吹けていて、ホルンもオーボエも流石に二人ともベルリナーフィルハーモニカーで若しくは助っ人で吹いただけのことはある。座付楽団であれほど吹けていたオーボエはザルツブルクでもどこでも聞いたことが無い ― 後で写真を見て「ハフナー」と「悲愴」のためにベルリンに呼んだグヴァンツェルダッチェだと確認した。もしフィルハーモニカーで演奏したら弦の圧も異なるがそれに対抗する管も強力で、あの軽さを要求されるという超技巧を要求されることが分かった。座付管弦楽団が絶妙に演奏すればするほど私はそこにフィルハーモニカーの課題を聞く。フィルハーモニカーがこの公演を聞いたなら同じだと思う。コントラバス四本の同じ編成でバーデンバーデンで演奏したらと思うと、ルツェルンの感覚からそのダイナミックスに鳥肌が立つ。先ずは四月にランランとの二番の協奏曲でじっくり聞かして貰おう。

そしてヨーナス・カウフマンへの拍手はいつものように控えめだ。しかしその歌唱は彼の活動領域やその人気市場の広さとは裏腹にとても通向きである。そもそも彼の名前が私の目に入ったのはYouTubeで偶然見たマネ劇場での「ファウストの業罰」の名唱と名演技であって、本当はそうした分野こそが独断場だと思う。歌劇的であるよりも器楽的であり且つ名演技となる。声の質とか何かは評価すべきところが違うと思う。詳しくは、もう一度細かく確認したいと思うが、拍手を見れば分かるように、ゲルハーハーのように舞台で大向こう受けしない、そのような技能である。

止む無きことから終演後に再び再会した他の芝居劇場の演出家の奥さんのおばさんが、「演出どうだった」と口火を切った。彼女に言わせると、「ここはモダーン過ぎてあまりにもというのが多い」となるが、明らかにこのビエイトの演出もポストモダーン風でもはや些か色褪せてしまっている。感心する人はもう殆どいないと思う。その演出についてあまり深入りはしたくはないが、それも改めて観てからとなる。「演出は感心しないが、音楽は良かったよ」と答えると、どっこい「カウフマンどうだった」と来た。

そこで「難しい二幕一場を上手にこなしていた」と答えたが、一面メディアの話題の矛先であり、一面可成り業界的な関心事であることも事実であろう。実際の音楽的なハイライトはフィナーレ前のデュエットで、カウフマン自身が「女性に有利で男性に不利な作曲になっている」というその通りのクライマックスだった。この点で実際に相手役のカムペに喝采が集まるのは当然で、それに値するだけの歌と演技と、この数年で更に緩んだ下着姿を披露した ― しかし同年輩の同僚では出来る人はあまりいないだろうという自負もあるのだろう、また実際に若い姿態で魅せてもあれに代わって歌える人がどれぐらいいるのだろうか。そのようにペトレンコが個人的な繋がりを超えてカウフマンやカムペにテコ入れするにはそれなりの意味がある。

上のおばさん、つまり教会のお写真を送って貰ったおばさんも「それでももう直ぐいなくなってしまう」とペトレンコが辞めてしまう事を嘆いていた。「バーデンバーデン」に来てくださいよとミュンヘンの人と話す度に宣伝をする私設大使の私であるが、まさしくフェードアウトの準備は着々と進んでおり、ミュンヘンでの監督時代の頂点は過ぎて、そこに「飛ぶ鳥跡を濁さず」の美意識と逆算の見事さを見る。

管弦楽に関して前記したように、一つ一つの演奏実践の奥に、フィルハーモニカーとの未来形もしくは彼らへのとても大きな課題を指し示す形となって、まさしく私たちの時代の管弦楽演奏の可能性の有無がとても楽天的な気分の中で問われている。



参照:
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活


by pfaelzerwein | 2019-01-25 21:39 | | Trackback

こうなるとペトレンコ頼り

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安い燃料代が期待できそうだ。夕方の買い物の時に満タンにしよう。雪がついていて肌寒い。陽射しがあった時の放射冷却よりも湿気があるのか寒く感じる。それ以上に血圧のためかもう一つ気分が優れない。手足も冷える。燃料は、一年ぶりぐらいに、125セントで入れれた。一時と比べるとミュンヘン往復で10ユーロほど安い。プログラムを買ってコーヒーが飲める。今回のように再演でプログラムが要らないと、軽食しても何とかなるかもしれない。

幾つか片づけることがある。先ずは三人の女性の携帯電話番号をしっかりメモして、必要ならば自身の携帯にも幾らか金を入れとかないと使えなくなる可能性がある。調べると20ユーロを超えていたので今回は大丈夫だろう。

あとは道中の録音を新たに準備した。YouTubeの様々な演奏で二幕一場の'Gott! welch Dunkel hier!'を比較してみた。楽譜を分析しようと思って、先ずは道中のお供にベーム指揮では駄目だと分かったので探しているうちに聞き比べになってしまった。歴史的に評価の高いクレムペラー指揮のジョンヴィッカースやフルトヴェングラー指揮とかショルティ指揮とか様々な名歌手のも聞き比べたがまともに振れている指揮者がいなくて驚いた。カウフマンの歌につけたメストがましな方だったが、最後におかしなことになって振り切れていなかった。難しさは声の器楽的な扱いをどうしても歌にするためにそれに器楽を合わすか、若しくは大きなアゴーギクとテムピ設定で誤魔化しているものが殆どだ。特に痛かったのはフルトヴェングラーが戦後にザルツブルクで振ったもので、死の直前の耳が聞こえない状態のものかと思ったら1948年のものでどんな楽譜を使っているのだと思った。フルトヴェングラーのオペラは出来不出来があるが、ベートーヴェンはいつものそれが歌と合わなくなっている。制作録音は所持しているがそんなに酷い記憶はない。しかし今更聞き直そうとは思わないのはとても細かな仕事をしないと解決しないことが多いからだ。意外に良かったのがボータが歌った小澤征爾の指揮である。なるほどリズム的な癖が出るが、それでも細かなことを手兵の座付管弦楽団にさせていて、ペトレンコと同じようにそれが天才的な指揮であることの証明を記録している。解釈だ何とか言っている次元の話ではない。

そこで意外に上手にクルストフォンドナーニが指揮していたと思った先日聞いたCDをラッピングした。聞き返すと件のところも恐らく歴史上一番成功している様にとても細かで丁寧な指揮をしている。しかしクレッシェンドが同時にアッチェランドになるアゴーギクの扱いは同じで最後はごちゃごちゃとなる。余程実演で繰り返し練習したようで、ヴィーンの座付管弦楽団が上手に弾いている。しかしリズムの難しいところに来ると振り切れていない。しかしなぜこんなに二線級の歌手ばかりで制作録音がなされたのか、たとえ劇場の新制作がこの歌手陣であったとしても、謎である。

もうこうなるとキリル・ペトレンコに振ってもらわないとこの楽曲はまともに演奏が出来ないと思う。こんなに難しいことになっているとは全く気が付かなかった。同じように難しいのはハムマークラヴィーアソナタとか後期の楽曲にもあるが、ある意味単純な技術的な難しさを超えたものだ。勿論攻略法がはっきりしていないことには歌手が歌えない。そもそも私はカウフマンファンでもなんでもないのだが、今までの関係からペトレンコ指揮でこの課題を解決できるのはこの歌手しかいないと確信している。最終日にも再訪するので初日はここだけにでも耳を傾けたい。そこが上手く行けば、私は最後まで拍手し続けなければいけない。また帰りが遅くなるが仕方がない。

午前11頃に初日の最後の放出があった。なんと王のロージェの一列目が四つ出た。王家が来ないということで、再演の場合は普通だが、同じ高価な243ユーロを出すなら価値があるだろう。しかし、この制作に対しての価格が法外であり、とても一人で出かけてあそこに座る気はしなかった。三ランク目の183ユーロまで出ていたが、半分ほどは一時間以内に捌けていて、一列目共々後まで残っていた。正直私の21ユーロと243ユーロで肝心のところがどれだけ違って聞こえるかは大変疑問で、視覚と艶やかな感じが異なるだけだ。不思議なことに全く手が出そうにならなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評



by pfaelzerwein | 2019-01-24 04:16 | | Trackback

ベーシックな生活信条

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「フィデリオ」再演初日が近づいている。準備をしなければいけない。今回は多くの人がそうしたように、四日間の日程の中でいい券が入る日を予備として手を付けた。私などは最終日にまさかあんな席が入ると思っていなかったから、二日目を捨てることになった。初めての公式交換サイトでのオファーをした。そしてその二週間ほど前の経験が直ぐに役に立った。

自身の券を売るにも面倒だと思って顔見知りの劇場のカウンターのオヤジに話していたのだが、一年前に初日買い出しを奨められたように、交換サイト参入にも後押しされた。第三者同士のことで責任がないからと言ってもよくも簡単にとも思った。そして試してみたのだった。

そして今回は不測のことから不要になった他人の切符を捌くことになった。交換サイトでは修羅場にならないように値崩れしないように額面でしか売ってはいけない。つまりオファーはそこでは出せない。安くしないと難しいと感じたのは昨年のクリスマスから出されていた同じ列の平土間のオファーが消えていないからだ。最高額券が必ずしも捌けない訳ではないが、いくつかの条件があって、例えば初日とか最終日の同じ席ならばもう少し捌けたと思う。その次に二席並びも捌けた。理由はハッキリしていて、一人で高額席に出向く人は、全く関心の無い人かよほど関心のある人で、後者はあらゆる手段を駆使してその程度の席は入手している。今回は前者の人にまで伝わらなかった。本当は幾らでも27日の日曜日にミュンヘンに日本からの出張者はいた筈で、見本市や学会の状況は分からないが三ケタに上ると思う。日曜日の夜は出張者にとってはフリーも多い。

そこで様々な方法を考えた。一番確実な一つは交換サイトで券を探している人である。生憎高額券一枚を求めている人は皆無で、二枚は複数いた。理由はハッキリしていて、今回は再演であり、その演出もそれほど評判が良くないからだ。私自身243ユーロはどうしたのだろうと思った。オールスターキャストは認めるとしても誰が欠けるか分かったものではない、音楽監督の肩に重荷が掛かる。自信のほどをのぞかしているとなると、これまたこちらも武者震いである。

さて件の券は結局年金生活者の人の手に行った。なぜ彼が143ユーロと中途半端な座席を求めていたのか。年金生活者だから金がないよというような前提にしては高額であり、少なくとも私にとっては高過ぎる。要するに私よりも金持ちだ。それでもこちらの243ユーロとは100ユーロの差額がある。143ユーロの上は183ユーロである。それどころか下の102ユーロでもよいと書いてある。到底成立しない価格差だ。だからこちらの適当な価格で出してみた。文面も若干ざっくばらんだが、受け渡しなどにも言及しておいた。出してからあの額なら結構いい買い物だと思った。そして自分も、十日ほど待つだけなら、今度やってみたいと思ったぐらいだ。疑心暗鬼でそのニックネームもなにか騙しでよほどの交換のプロかとも思った。だから、価格交渉には乗らないぐらいのつもりだったが、反対にプロなら一度会ってみてその人物像によって色々と手解きを受けてみたいとも思った。場合によっては値引きしてもよいぐらいにも思った。

しかし現実は違って、親爺が昼前に回答して来たメールには婆さんの写真までついていた。そして、「私は身体が不自由だから嫁さんに取りに行かす、お見知りおきを」と書いてあるのだ。なにも婆さんの写真などは見たくはなかったが、仕方がないので開けると、背景は教会なのである。笑ってしまった。彼、彼女らの生活信条というか、少なくとも他人に「私たちはこういう人ですよ」と語っている。彼らの信条告白だ。なにもそれに付け加える言葉が出ない、少なくとも私の住んでいる地域ではありえない風情だ。これがバイエルンの片田舎でなくて、都市部の恐らく電車で簡単に劇場を行き来できるところに住んでいる人たちだろう。

こういう人たちがあのミュンヘンの劇場のベースになっている人たちで、その芝居からオペラからいつも最新のモードやハイブローな思考にも触れているのだとも分かった。これこそが生涯教育の公的劇場の使命なのだ。その割に、上の二組とも私のように一時間も早く出かけてガイダンスを受けに行くという人でもなさそうなのだ。私もその価値があったのは一度のみで、あまり良くはないと思っているのだが、これまた只で何か参考になるものがあるとなるとどうしても貪欲になってしまうのである。彼らからみると「これまたなんと熱心な真面目な人だ」と思われているに違いない。

謎解きを忘れていた。彼が143ユーロを求めていたのは、足が不自由だから平土間に座れるそれが最低の価格だったのだ。しかしその席の割り当て48席が四つの車椅子席の間にあるだけだ。殆ど可能性はなかったと思う。それが前から四列目に思いがけずに座れる。上階にもエレヴェーターはあるのだが、座席までには階段がある。こうした需要があるとは考えたこともなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事



by pfaelzerwein | 2019-01-23 02:34 | 生活 | Trackback