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索引 2019年5月


連休に片づける細々 2019-05-30 | 暦
気が違ったサムプリング 2019-05-29 | テクニック
平和と強く鋭く叫ぶ精 2019-05-28 | マスメディア批評
約束される偉大なもの 2019-05-27 | マスメディア批評
予行演習をする 2019-05-26 | 生活
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
身体に精神が宿るとき 2019-05-24 | 音
店仕舞い商法もどき 2019-05-23 | 雑感
光闇、強弱のコントラスト 2019-05-22 | 文化一般
PC音楽再生再び 2019-05-21 | テクニック
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音   
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
ドルトムントに電話する 2019-05-17 | 生活
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
忘却とは忘れる事なり 2019-05-14 | 音
本物の一期一会の記録 2019-05-13 | マスメディア批評
楽章間拍手が意味すること 2019-05-12 | 音
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
EUを体現する熱狂 2019-05-10 | マスメディア批評
伴う技術的な興味も 2019-05-09 | 雑感
来年の避難の下調べ 2019-05-08 | 暦
なにがどのように繋がるか 2019-05-07 | SNS・BLOG研究
野放図なモンタージュ 2019-05-06 | マスメディア批評
2018年産最初の試飲会 2019-05-05 | 試飲百景
散髪を済ませた理由 2019-05-04 | 生活
これが三度目の正直か 2019-05-03 | 雑感
ワークインプログレス 2019-05-02 | SNS・BLOG研究
平和への会見の言葉 2019-05-01 | 文化一般

by pfaelzerwein | 2019-05-31 19:16 | INDEX | Trackback

連休に片づける細々

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連休に入った。所謂長い週末というやつで、木曜日祝日と週末を付けてしまって、季節がら多くの人が出かける。どこも渋滞である。個人的にはその次の週末がワイン祭りになって避難しなければいけないので、じっとして済ませることを片づける。

それでも週末には二件のワイン試飲会が入っていて、それだけは見逃せない。その準備もある。傾向と対策である。

同時にフランクフルトの歌劇場で二つものオペラを観るので、ざっと予習が必要になる。楽譜は「ロデリンダ」の方はDLしたが、音源はどうしようかと思ったがハーノンクール指揮の映像があるので観ておこうかと思う。片方のロジェル王の方は楽譜が無い分、パパーノ指揮の全曲がある。これは助かるが、問題はコヴェントガーデンのを比較すると到底カンブルラン指揮の上演では見劣りしてしまうことだ。そこに時間を費やすぐらいなら、次のアイヴスの交響曲四番に集中した方が価値がある。兎に角、準備である。

来年のワイン祭りの避難計画のもう一日が見つかった。上手く行けばミュンヘン滞在から翌朝ゆっくりと出てきて、途上でバイエルン内でコンサート、そこからゆっくりと夜中に帰宅するか一泊して翌朝午前中に帰宅すればよい。ティケットの前売りもまだ先のようなので計画変更は可能だ。そこで先ずはミュンヘンの宿泊を予約しておこうと思う。ミュンヘンに二泊で、美術館に何か特別展示があると有効に使える。

鬼が笑うではないが、そんなに先のことを決めていてもどうなるか分からないのだが、毎年のように直前におろおろするよりはましであろう。時期としてはアルプス行きも可能なのだが、今年の今後の予定を見ると来年の完全復帰は難しいかなと思う。



参照:
トーンハレの代替ホール 2018-09-22 | 文化一般
店仕舞い商法もどき 2019-05-23 | 雑感
by pfaelzerwein | 2019-05-31 00:18 | | Trackback

気が違ったサムプリング

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ミラノのスカラ座からの生中継を二回も流した。原因は録音しようとしたらなぜか音量が途轍もなく足りなかった。直ぐに巻き戻しの出来るものと分かったのだが、簡単には音量調整が出来なかった。結局クロームブラウザーからの出力がパルスオーディオに出るようになっている、その出力がなぜか下がっていた。そして最初から再生し直した。

その前に、動画コピーの音声を音飛びしないように再生するように、プッファーの値などを調整していたが、出来る限りALSAを使うように心がけているのでPULSEの方を弄った覚えが無い。そもそもブラウザー出力が44.1kしかでないようになっていて、再構築の可能性を考えている。しかし生放送でそれほど不満を感じたことも無く、ストリーミングの実力も実はよく掴めていない。

だからこの月曜日の中継放送録音でも、気が狂ったかのように32Bit96kHzで録音していて、当然のことながらアップサムプリングとなってそれをそのままALSA経由で録音したものをALSAからDACに流すととんでもないハイレゾサウンドになっている。現場にいた感覚で、中継放送も流石にあれだけマイクを吊るしていただけに良かったが、こうして流すとやはり臨場感が甚だしい。批評すればセンターの混ざり方がもう一つで、テュッティのサウンドとソロのコントラストが若干小さい。

しかしこの気が狂ったような録音の問題点は現在使用中のPCでは音出しが大変で、NASからの転送もプッファーを拡大して、音飛びしないようにしなければいけないのは映像と同じであり、中々完璧な再生が難しい。

さてスカラ座からの中継は巻き直しで午前様になって録音を終えた。一言、ギルバートの指揮のこの音楽では秋にペトレンコが取り上げる意味が殆ど不明だった。要するにそれほどの関心を起こさせるものではなかった。ペトレンコがルネッサンス並みの読みをしてこないととてもではないが意中の作曲家でもなんでも無くて笑いものになるだけだろう。謂えば、リヒャルト・シュトラウスよりも優れた作品かどうかが問われる。

放送を流していて驚いたのは、PCのデャアルCPUが上に振り切れていたことで、たとえパルスオーディオを使ってもそこまでになるとは思っていなかった。PCオーディオはまだ分からないことがある。

さて映像の方は、他のプレーヤーを使っていたが結局はVLCの方が細かく調整出来ることが分かってそこに戻ってきた。こちらは兎に角キャッシュを百倍ほど大きくした。それでも音飛びするようなら画像を消すしかない。そのモニタコピーの質は維持しつつ音声だけは96kHzとこれまた気が狂ったコピーとなっているので、音だけでも悪くは無いのである。

要するに技術的にはアップサムプリングとなっていることは確かなのだが、今後も消去されずにアーカイヴとして使えるならば、現在は少々使い難くてもそれだけの価値は出てくると思っているからである。確かに高域の倍音成分や空気感は強調されるような感じは否めないのだが、全体のバランスが崩れたり歪感が増えたりはせず、質感も決して悪くはならない。



参照:
C:ディレクトリーの清掃 2018-10-26 | 生活
お見事な司会進行 2019-01-10 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-05-29 23:44 | テクニック | Trackback

平和と強く鋭く叫ぶ精

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フォア―アールベルクからの放送に感動した。大抵は、生で体験したものを放送で聴いてもなにか欠けている感じがして、少なくとも時間経過しない限り素晴らしいとは思わない。後に聴くと感動が蘇るという追体験でしかない。しかし、これは図星、私がブレゲンツの祝祭劇場で18日に聴いたそのものだった。まだ流してしかおらず、細かなところをチェックした訳ではないが、再確認したものが改めて感動を呼ぶというものだった。

なにが素晴らしいか、既に書いた通りでしかないが、その指揮のテムピの変化と緊張と緩和は神業だ。作曲家自身の指揮では恐らくこうはいかなかったと思う。恐らくグスタフ・マーラーは指揮という職業で歴史的に指折りの才人だった想像するが、自作自演のロールピアノの演奏を思い出しても、キリル・ペトレンコのようなことは出来ていなかった思う。

第一部の展開部の動機群が知っている第二部のそれと呼応して聴こえ出すともはやなす術がない絶対的な説得感へと繋がる。謂い方を変えると深層心理への直接への働掛けであるが、それがドッペルフーゲでの呼びかけとなり、hostem、pacemと動機が鋭く叫ばれると、二月に「ミサソレムニス」を聴いてきた者には、一挙にその歴史の荒波に持って行かれる。

なるほど器楽的にも、ミュンヘンではここは、ベルリンではと思うところも無くは無いのだが、こうして録音でもその空気感が伝わる。先ず最初からあれほど長く拍手していたのにペトレンコが出てくると一段と握手が強くなっている。そのとき思ったのは、これは前々日の演奏もそこそこ上手く行っていたのだなという空気感であった。

そして放送で初めて確信したのは、第一部の後の握手の可能性に関してである。昨今のトレンドからすれば、どちらでもありかなと思ったが、なくてよかったと確信した。理由は明確で、あそこで空気抜きしてしまっていたら、終演後の本当のスタンディングオヴェーションは無かった。それもどきで終わっていた。あのフィナーレの胸が破裂しそうになる感覚はまさに聖霊のなせる業で、それが二部へと繋がる。大きなアーチ構造となっているとすれば、当然拍手による発散はその効果を壊す。

そうしてこうやって前半だけでも聴くと、2021年のベルリンでのオープニングはこれしかないのではないかと思うぐらいだ。そして中継で面白いことが語られていた。あのペトレンコが指揮台で演説して、「今日、皆さんが歴史の一ページを書き加えることになります」と、フォア―アールベルクでの初演に言及したという。

そして一時間の放送枠のあまりでは2008年の「子供の角笛」が放送された。公式CDが流されるかと思っていたがこれはとても気が利いていた。ミュンヘンでは日本帰りで同じ曲が演奏されて、態々出かけた。ゲルネの歌に合わせて全く異なるものだったが、その相違も興味深い。直にオンデマンド化されるだろう。



参照:
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
by pfaelzerwein | 2019-05-28 23:18 | マスメディア批評 | Trackback

約束される偉大なもの

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ヴィーンからの生中継を見た。オペラ劇場前でのオープンエアー中継である。この手のものは興味が無いが百五十周年記念で出ている歌手があまりに大物だったので観た。中々苦労して劇場の屋上や向かい側の建物などを使っていたが、効果はそれ程ではなかった。しかし中継のために空中ケーブルにカメラを走らせたりと金は掛かっていた。

一番印象に残ったのはやはりニナ・ステムメの存在感や妊婦ヨンチェヴァのおなかだったり、アラーニャ夫婦の熱い口づけのバカらしい姿だったりした。エンタメとしては充分満足だった。

バーデンバーデンからマガジンが届いていた。復活祭の写真などが沢山載っていた。目を引いたのは、2019年4月15日19時22分の写真である。一回目のチャイコフスキー交響曲5番のニ楽章のドールの吹くホルンへの言及となっている。通は二楽章の多彩なニュアンスに言及するかもしれないが、ペトレンコが演奏後に一人立たせたように、この日の二楽章は今回の復活祭の音楽的な一つの頂点だっただろう。

「チャイコフスキーの第五交響曲はスタンダードレパートリーとして数えられるものである。カラヤン以後のベルリナーフィルハーモニカーの指揮者はこの作品で以って勝負するものでもあった。まるで、全力を掛けないといけないかのようにみえて、ペトレンコはこのチャイコフスキー五番で大当たりとした。このロシアの作曲家への決心は、聴衆においてのみならず彼の楽師さんにおいても大歓迎を射止めた。あの緩叙楽章のあの有名なホルンソロの優しくセンシティーヴに回りを漂うのを聴いただろうか?二つがそこにあった。指揮者と管弦楽団が期待一杯に眼差しを先に向ける ― 偉大なものが約束されるところに、勿論、来るバーデンバーデンの復活祭における協調の『フィデリオ』がそこにある。」 

二回目のつまりベルリンから数えて五回目の演奏は、一楽章に於いては可成り完成に近づいていたが、この二楽章のドールは力が入り過ぎていた。三楽章はどちらも完成に近かった。夏に演奏される三回で何とか終楽章の息つけぬアチェランドの失神脱力感にまで至って欲しい。メストがいくら清潔にクリーヴランドを演奏させても、ネルソンズが幾ら手練手管でも臨んでも到達できない次元なのである。

さて今晩はマーラーの交響曲八番の放送である。二回あった本番の後の方が放送されると確信する。なぜならば誰かのヴィデオを観ていると、終演後の盛り上がり方が大分異なっていた。スタンディングオヴェーションが通常な感じのそれだったからだ。一か所だけ電話の音が入っているのか、それとも編集しているのか?分割放送一回目で第二部のそこまでは流れないだろう。



参照:
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-05-27 20:58 | マスメディア批評 | Trackback

予行演習をする

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夜中に目が覚めた。覚めるとクリーヴランドからの放送が気になる。見ると録音をしているのかどうか分からなかったので、自動録音を外して手動にしてしまった。つまり終わるときにまたオフにしなければいけない。それでも人気のキンリーサイドのシベリウスの歌曲を録音できたようだ。オペラ愛好者からその名前をしばしば聞くその声を聞いてみたかった。生放送で録音ができたようである。その前のグリークの「ペールギュント」からは強いアクセントをつけていて、これまた楽譜で確認する必要があると思った。昨年MeTooでコンサートマスターが辞めてからのこの楽団の弦楽が不器用に聞こえるときが多いので、あの操り人形のようなメストの指揮と相まって要注意である。

その反対に夕方からの「影の無い女」の初日の演奏は指揮者クリスティアン・ティーレマンはカペルマイスター以上のことはしていなかった。特に端折って聞こえたのは拍がしっかりとれていないからだろうか?本当ならばドイツ人指揮者ということで言葉の出方などをもう少し期待したいところだったが、名歌手に、それ以上に管弦楽団に合わせたといった指揮で、あれならば御用指揮者のアダム・フィッシャーで充分ではなかったかと思わせた。なるほど指揮の戦略としては成功なのかもしれないが、ケント・ナガノ指揮どころかキリル・ペトレンコ指揮よりも流れてしまっていた。

本人が語っているように淡白になって、還暦で再び退化して行っているようなところもあり、復活祭での「マイスタージンガー」のように掌握できないというのもあるかもしれないが、修正が効かなくなる怖さがあるかもしれない ― 指揮者本人がインタヴューでが「大きな音を出しても室内楽風に演奏してもコントラストは得られない」と、結局それでも中庸にもなっていない。しかし、とても興味深かったのは、その譜読みから可成り保守的な「ばらの騎士」などの響きが出ていたことで、これはヴィーナーフィルハーモニカーの腕もあるが、やはりそこへ指揮者と共に落ち着いたという経過があるのだろう。

更に歌を受け持つ歌手陣が歌い慣れているので、聞かせ所を外さない。指揮者もそれから逸脱しても仕方が無いので適当なテムピを与えていくと、今度は全体の流れが更に曖昧になっていた。しかしこの曲での戦略としては成功していたと思う。流石に劇場付き指揮者であり、日常茶飯な仕事をこなしたことになる。勿論個人的にはそんなものに態々金を払って出かけるつもりなどはちとも起こらない。その分、身分相応にしか終演後の評価も浮かばれなかったであろう。

ベルリンのフィルハーモニカーの新シーズンティケット発売初日を初めてネット体験してみる。先ずカウントダウンが終わったら240番のウェイティングナムバーを貰ったので、ミュンヘンと比較するとなんだと思っていると、二十秒ほどで入室できた。想定外は、殆ど売れていて、購入可能な場所はどこも良くなかった。愚図愚図していて売り切れた。午前中の窓口販売等で大分売れていると聞いていたが、初日でメルケル首相を含む招待などのことは忘れていた。政治とドイツェバンク関係だけでも可也出ていて、そこに定期会員を入れると、その有様だったろう。

こちらの目的はその後の購入や全体のアルゴリズム調査にあるので、ちょこちょこと試してみた。先ず自分のメールアドレスが登録されていないことが分かった。それだけ長くフィルハーモニーに足を踏み入れていないのだ。全て整えて、送料無料でカードで支払いも分かり、ペイパルを使っていないことも分かった。他の演奏会も比較的定期で良席が出ていて、それほど好みの席を選ぶまでの余裕は無かった。それでも三枚ほどはまずまずのものを選んだ。そして予行演習を終えた。

総合的な印象は、今回は就任初めのオープニングで特別だったが、演奏の質とか音響とかを考えれば少々高価になってもルツェルンに狙いを定めたのは大正解だった。それ以上のCPは無い。あとはどのようなプログラムでベルリンまで出かけなければいけないか、何泊するのかとかだけの問いだけである。興味のある券が発売になるまでまだ時間があるので情報を収集しながらゆっくり考えればよい。バーデンバーデン復活祭は今後とも全部通わなければいけないこともはっきりした。



参照:
配券された初めてのもの 2018-06-23 | 生活
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
by pfaelzerwein | 2019-05-26 22:44 | 生活 | Trackback

沸々と、ああ諸行無常

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承前)第二部、今まで以上に音色旋律的な扱い方、つまりギーレン指揮の演奏などでは聞き取れなかった楽器間の動機の受け渡しがあって、それに伴う音色の出方が、可成り原色に出るところがあった。まるでそれが故マゼール指揮のように思え、それが演奏者のアンサムブル上の妥協なのかどうかは判断しかねた ― そもそもペトレンコがどんなに合唱付きの難しい楽曲であろうと当夜のようにアメリカ楽器配置にするなどは通常は考えられない。なるほどその早目のテムピと共に全く以って間延びするどころか、直ぐに次の緊張の線が描かれる。そして楽想、動機毎のイヴェントが築かれる。

罪深き女と罪を悔ゆる女との対照が明らかとなる。我々が思っていたよりもこの第二部はマーラーの名作であることがよく分かるところだ。そもそも第一部の展開部で明確に楽想を定義していたため、ここではそのセマンティックな展開を楽しむという知的にもとても高度な楽しみ方が出来て、まさしくゲーテの「ファウスト」というホッホクルテュ―アが展開される最高度の芸術音楽となっている。そこまで来れば到達先も見えてくるが、そこからが終演後にも話題となった愛の主題における歌いぶりであり、第一部のテムピの早さがあった故の余裕を以っての第二部内での大きなテムピ上のメリハリが可能となった。会場の方を向いて先ずはバルコン席の上の歌手を指揮して、最後に再び下の金管が深々と吹奏されると、もはやその三次元的な音響効果と共に付け加えるものの無いフィナーレとなる。まさしく諸行無常が大きく歌いあげられるのだが、その指揮振りの憎いこと。これに匹敵するほどのペトレンコの指揮は限られていて半神たる所以だった。ベルリンではまだ一度も見せていないからこそ、バイエルンでの様にはコッミシェオパー時の馴染みのように扱われて、まだまだ神になっていないのである。

ああした途轍もない大きなクライマックスは容易には築けない。なるほど途上のフォルテッシモではもう少し音が解放されればと思わないでもなかったが、緊張と緩和で十二分にコントラストが築かれていて、音楽的な効果は申し分なかった。楽譜を見れば気が付くように、マーラーの交響曲においては楽想の誇張によって咆哮したり情動的に泣きわめいているようでは、このように作曲家のペン先から紡ぎだされるような音響とはならない。その音楽から決して内声を聴くことも叶わず、それはグロテスクと陳腐さに終始する。

いつものように放送枠の関係から週明け月曜日から二週間に別けて放送されるようなので、先ずはそれでもう一度じっくり確認したい。余談ながら、昨年の第七交響曲は放送を待っていたのだがされなかった。許可が下りなかったに違いない。よって、その前に録音しているのは第五交響曲で、日本公演で指揮する準備ともなっていた。週明け月曜日の放送の予告はされていて、先ずは中止はなさそうである。オンデマンドもいつものようにあるが、残念ながらMP3の128kでは音質的に厳しい。

スタンディングオヴェーションは何度も経験したことがあるが、当夜のものだけが本当のそれだった。なにが違うか?近しいところではハイティンク指揮の演奏会後の一斉に立ち上がるそれであったが、その切っ掛けや間が全く異なった。多くの場合は前が見えなくなるとか、帰る序でに腰を浮かすかの両方の混じった形で徐々に殆どの人が立ち上がり、その間に座ったままのお年寄りがいるというような塩梅である。しかし今回は残響が鳴り止んで二三秒で拍手と同時に前列数列が立ち上がり、様子を観察した私がその二秒後に立ち、周りが総立ちになるのに更に二秒ぐらいしか掛からなかった。

そして管弦楽団よりも合唱団に、合唱団よりも独唱陣に更にペトレンコへと沸いたのを見てもそのスタンディングの意味するところは明らかだった。それが何回か繰り返されるコールの間座り直す者も殆ど居らずに永遠と拍手が続くのは嘗ての人民公会堂でもなかったほどである。そこで独唱陣が下がっても下がっても、更にまたふつふつと沸き上がる感じで拍手が継続されて、彼らが袖から出てくるのを待ち続けて更に盛大に拍手された。多くの場合は呼び出しの拍手へと移っていくのだが、ここではあくまでも静かに沸々と沸く感興だった。(終わり)



参照:
Radio Vorarlberg Kultur Das Konzert, ORF Voralberg, 27.5.2019
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
by pfaelzerwein | 2019-05-25 03:19 | | Trackback

身体に精神が宿るとき

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少しづつ気温が上昇してきた。印象からすると今年ほど涼しい春は無かった。このまま推移するとそれほど暑くはならないと予想する。空気が充分に冷えていて、陽射しの中でのランニングも気持ちよかった。当然月が替われば気温は上昇するだろうが、長袖が必要な五月は久しぶりだったのではないか?五月の気持ちよさが今一つで、六月、七月と快適だったらよいと思う。但し六月は例年の如くヴァインフェストで騒がしくなる。

承前)最初のハイライトであったドッペルフーゲに関しては既に言及した。フォルテシモの頭出しの付け方とアクセント、到底今までの演奏では出ていなかった頭出しとそのカノン、残念ながら合唱ほどには管弦楽団に十分なアクセントが付けられていなかった。全てはコンツェルトマイスターの責任だったが、楽団は実力なりにしっかりと弾いていた ― 最後の喝采において管楽器奏者も何人も立たせた、しかし同じ楽器群でも立たせない楽器の一番二番の奏者もいた、それはペトレンコがいい演奏をこそ誉めるという矜持であって、ラトルのだらしなさとは正反対である。こうした対位法的な扱いにおけるペトレンコの腕前は劇場でも何回となく経験しているが、劇場作品ではこれほど凄まじく立派な楽譜は無い。

しかし、今回の八番の恐らく最も成功していたのはそこへと繋がると同時に第二部の素材となる楽想や動機の扱い方で、私が注目していたのはこの交響曲の展開部に相当するところでのその力感である。早いテムポにおいて第二主題部を上手に運んだのは当然なのだが、この第一部においては誰が指揮しても降臨する第一主題部とその他の部分へのあまりにものコントラストが難しい。

そして展開部の流れの中で、特に既に第二部での準備となっているところは、なにも楽譜が頭に入っていなくても予習に繰り返し音源を聴いている耳には、ミサ的に「インフィルマノストリ」と聖霊(精神)が宿るのは明らかではなかったかと思う。それほどの場の劇性こそが、ペトレンコ指揮では、ギーレン指揮者や小澤指揮などと同じようには音楽が淀んだり流れてしまわない所以である。

管弦楽の実力も影響したかに思えたのは、今まで聴いたどのペトレンコ指揮の音楽よりも、ややもすると説明的に感じたからだ。つまり対旋律などの当て方がで残念ながら上手く出てこなかったところがあるからだろうと想像する。反面、主旋律がアクセントをもって出てくるので見通しが良過ぎるぐらい流れが分かり易い。この点に関しては一年後のミュンヘンの劇場での公演でも完成しようが無さそうなので、ベルリンでの演奏が待たれるところである。恐らくマーラーのこの代表的な交響曲の本格的な回帰へと繋がり、バーンスタインのルネッサンスを漸く乗り越えることが可能となるに違いない ― 晩年にもう一度振ることを拒絶して「何も新たにすることが無い」と敗北宣言を捨て台詞とした指揮者アバドの無能力さを改めて回顧する。

そして件のフーゲを超えて、更に大きな合一のフィナーレへ、勿論ペザンテからのテムポの運びも、どうしてもこうしたペトレンコ指揮の専売特許として注目してしまうのだが、例えば指揮者ヤルヴィなどだと地団駄踏んでギアを入れ替えるところを一瞬の体の屈伸で見事に大フィナーレと運んだ ― 例えると昔のミッションの五足ギアと、最新式の九足のフルオートの相違であろうか。第一部の残響が捌けたところで拍手が来るかどうかと構えた。最近の傾向からすれば大都市圏ならばここで湧き起ったと思うほどの圧倒的な出来だった。

しかし流石にそこはローカルな地方都市の住人であって、そこまでトレンドに影響されていない。明らかに一部のドイツの都市からすると聴衆の平均年齢も高かった。そこに楽譜に指示があって、ヴィデオで見るロート氏のように会場を振り返って受けを狙わないのは当然だが、兎に角早い動きで大指揮をしたので汗だくだったようだ。いつも以上に長い時間を掛けて汗を拭いていた。(続く)



参照:
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2019-05-24 19:14 | | Trackback

店仕舞い商法もどき

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ドルトムントからティケットが届いた。二枚組になっていて発券番号も連番だった。そして四重奏団の名前も繋げて書かれている。やはり前半後半で弾くのだろうか。まだまだ先のことなのであまり考えないが、日本での放送の一部を小耳にするとベルチャと言う方は本格的な弦を弾いているがその分音も分厚く、第一ヴァイオリンの女性の見映えそのものだ。あまり和音を響かせたベートーヴェンは聴きたくないが、もう一つの四重奏団エベーヌの方が名前の通りならバランスが取れるだろうか。あまり共通性の無い二つの四重奏団のような気配がある。

今年の準備も追々進めていかなければいけない。先ずは、ヘンデル「ロデリンダ」である。なんと完売している。更に調べてみるとネットにフランクフルトのトレーラーが出ている。なるほどクラウス・グートのプロジェクトアイデアを聞くとそのあまりもの明晰さに揺さぶられる。やはりこの人も週末に話したピーター・セラーズとはまた違った意味で天才的である。音を聞くと、ちょっと信じられないような音が座付楽団から出ている。指揮のマルコンにもとても期待したい。

それに引き換えカムブレラン指揮の「王ロジャー」の売れ行きは酷い。自らが監督だったらまた辞めると喚きたてるだろう。バイセクシャルの人間は皆似ているところがある。日本で人気があると言えばもう一人、ぺレスと言う女流ピアニストがいる。元々そのモーツァルトの安売りCDをネット試聴して内田の録音などに比較すればこれは価値が無いと思っていたが、引退騒動でインタヴューなどを聞いていて更に驚いた。「ピアノが弾くのももう嫌だけど日本で最後稼いでくる」という意味のことを語っていたので驚き、腹立った。そして今また盛んリサイタルどころかルプーに代わって登場するなど稼いでいる。恐らく住居のあるユダヤ人の多いチューリッヒへ暇に出てくるというなら分かるのだが、ハムブルクまで公演旅行をするというから只者ではない。あそこまで嫌と言ったのが本当だったのか、何か訳ありだ。まるで閉店閉店と万年掲げているような布団屋の閉店商法である。出てくるならばピアノを弾くのが嫌になったとあの歳で言うべきではなかった。余程金に困っているのだろうか?日本人ほど簡単に金を巻き上げれる聴衆もいないであろう。

その次の週のケント・ナガノ指揮のアイヴスの交響曲の副指揮者三人目の名前が出ている。兎に角、作曲家のピンチャーが序でに指揮するということは無いらしい。こちらの方はまだまだ売り切れていない。

コンセルトヘボー管弦楽団の演奏会が安売りになった。少々感じるところがある。ルツェルンのフェスティヴァルでのことだが、売れ行きが極端に悪いことは分かっていた。責任はルツェルンの舞台でコンツェルタントでもオペラを上演するという魂胆だ。同様のカラヤン二世指揮のダポンテシリーズは中ホール販売なので完売寸前である。勿論バルトリ効果は見逃せない。同様にソヒエフ指揮も人気が無いが、こちらはギャラが安いから問題になり難い。楽団の問題もあるが結構実力があっても入る入らない人気あの有る無しの指揮者がはっきりしてきている。私がこの二人を今まで聴いていないというのがとても良くそれを裏付けていると思う。

本当に危惧されるのは、コンセルトヘボーの人気低落つまりシャイーなどの時からは明らかに技術的に落ちている。そしてルツェルン音楽祭の安易なコンツェルタンテのオペラ上演である。バーデンバーデンとは異なって可能性が限られるというのは支配人も述べていたことであるが、やはり余程創造的に動かないと駄目だ。

一方、懸案のペトレンコ指揮シェーンベルクは大分出たのでこれは殆ど売り切れるだろう。ラトル指揮の中ホールも先ず先ずだ、同じ金を出すならばこれの前夜に一泊して、シャイー指揮のマデルナやリームを聴く方が価値がある。安くいい宿が見つかればである。



参照:
ワークインプログレス 2019-05-02 | SNS・BLOG研究
儒教に沿わない男女同権 2019-04-01 | 文化一般
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
by pfaelzerwein | 2019-05-23 01:21 | 雑感 | Trackback

光闇、強弱のコントラスト

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車に乗って、コンソールのレヴァーを上げた。トランクが開いた。日曜日にコーヒーを零して不通になっていた。窓も開かなくなっていたが、これも開いた。最後にサイドミラーである。これも動いた。てっきりヒューズが飛んで取り換える必要があると思っていたので手間が省けた。同時に車は水に少しでも浸かると制御不能になることも実感した。コヒー半分でこうである。水難事故はやはり脱出が難しい。

承前)コンサートの後、敢えて席を予約しなかった祝祭劇場のレストランで席を待ちながらカウンターで一杯ひっかけていた。そして二杯ほど飲んだところで、相席しますかときた。爺さん婆さんのお通夜みたいな二人だった。湿気てるなと思いながらも、様子を見ていて、声を掛けた。私が話したかったのはペトレンコの地元の定期会員の人であるが、そもそもあの時間に食事をしようという谷の人は少ないだろう。車でも距離が結構あり、雷雨も予想されているような天気だったからである。

しかし返ってきた答えは「シュトッツガルトから」だった。それならば話が早かった。爺さんの方は婆さんに振り回されて走りまわされているようだったが、婆さんは、「よく知っているねと言う」と、「そりゃ何十年もやっているから」と完全な団塊の世代のクラオタだった。話しを総合すると、ペトレンコのこのシリーズには何回か来ていて、ヨーナス・カウフマンにも出かけ、地元ではカラヤン二世の会に通い、夏はザルツブルクという人だった。ペトレンコに関しては、アニヤ・カムペ狙いで、ボッフムの「トリスタン」で無名のペトレンコを聴いて、「ディ・ゾルダーテン」、「ルル」を聴いて、2015年にバイロイトに出かけたらしい。目下の楽しみは夏の「イドメネオ」と次回のマーラー第九と、来年のバーデンバーデンのマーラー作曲六番となる。

因みにユロウスキー指揮の「ヴォツェック」も良かったというので、こちらはミュンヘンの宣伝を兼ねて、ユロフスキーとドルニーのペアの話しもしておいた。そして、シュトッツガルトの新聞にはティーレマンとのスワッピングの話しが載っていたというので完全否定しておいた。同時に今後のバーデンバーデンへの話しでは、新プログラムにはコンセプトが感じられたというので新支配人スタムパの話しになった。どうも私が通ってた頃のザルツブルクはあまり知らないような感じであったが、現在は再びの状況であるという意識を話していた。

いつものようにバイロイトの初代音楽監督の話しになって、私の書き込みの話しや、彼の駐車スペースにはポルシェでなくてVWフォエトンが停まっている話し、その才能の無さに話が進み、少なくともカラヤン二世は才能があるということになった。そこから演出のセラーズ、更に南アフリカ出身のゴルダ・シュルツが攻撃されたこと、そのことをラッセル・ト-マスが語っていたことを、知らなかったようなので、説明しておいた。ティーレマンがAfDかPEGIDAかどうかなどは話さなかったが充分だったろう。

しかし肝心な話は、やはり当夜の感想だった。私が強調したのはその音響のあまりにもの鮮烈さであり、それはいつも同じで劇場でもそうなるから、「キリル・ペトレンコはオペラ指揮者ではない」といういつもの力説を述べると、やはり驚かれた。それゆえに後任者のユロスキーの口八丁へと話が振れた訳である。すると婆さんは当夜の第二部の緩やかな部分の歌を反論として挙げた。

今回の八番の演奏を一言で評すとなるとそのコントラストとなる。強弱、光闇、緩急がとても大きく、緩やかな場面もペトレンコの指揮ならば更に間を持たせることも可能だった。それでも後年のギーレンの様には粘らない。ギーレンと比較すれば、その激しさと厳しさは到底比較できない指揮だった。レパートリーは異なってもムラヴィンスキーを想起させる指揮にペトレンコのそれは近づいているて、その厳しさはあまり例を見ない。楽譜を見ると確かに今回のペトレンコ指揮が正しいとしか思えない。

その分、合唱や歌手陣には求められるものを多かったが合唱団も少年少女も天晴れだった。合唱の入った大管弦楽では初めての音響体験であり、振り返ると日に日にその演奏の意味が更に大きくなってきた。当日の中継録音放送が流れるのにはまだ時間がある。(続く



参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-19 | 雑感
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
by pfaelzerwein | 2019-05-22 05:18 | 文化一般 | Trackback