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未だ嘗て無いような合致

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新聞に木曜日の新制作「サロメ」初日の評が出ている。最近は珍しいことも無いが殆ど私が書いたことと同じ聞き方をしている。放送では分からない演出面と各々の歌手について以外は全く同じことを語っているとしても良い。それが何を意味するかと言えば、音楽面でキリル・ペトレンコがしようとしたことをこちら側が正しくデコーディングしていることになる。謂わば正しい聴態度だ。

更にその正しいというのはなにかと言えば、ペトレンコと同じように才能があるとか、専門的な知識で負けないとか、現場の経験があるとかではない。必要なのは、創作に対しての正しい理解があるかどうかである。僭越ながら私の場合はペトレンコ先生の楽譜の読み方を習ったので、誰の演奏を聞いても楽譜の音が出ていないことを確認するだけのことになってしまっている。今まで多くの曲で、音が出ているのはピエール・ブーレーズ指揮の録音だけの場合が多く、この「サロメ」での作曲家の協力者でもあったベーム指揮でさえももたもたして音化が充分でないのに気が付く。そこで容易に気が付くのは大指揮者とされる人が十数段のシステムの管弦楽となると楽譜が充分に読み込めていないことだ。勿論座付指揮者と呼ばれるような二三流の指揮者は精々ピアノで音をなぞる練習アシスタントのコレプティテューアの様に前から後ろへと音を流すのが精々で、それをして劇場の豊かな経験という。

さて、先ずは冒頭からして「未だ嘗て無いような始まり」として、「通常は、三全音の関係にある長短調の間で、激しいタンギングのクラリネットの動きを聞くのだが、それが幕が上がるのを彩り、それでも一幕全体の構造をそこに含していて ― サロメの死体との愛の二重唱での嬰ハ長の激しい反射へと導く」としている。そして「実際に始まったのはマーラーの亡き子をしのぶ歌の声の録音であり、世紀末的な死の秘よりも愛の秘が重要とするところのイコン」と考える。そしてそれらのものが、この「サロメ」においては観念連想の場に含有されるとする。

厳しく練習しただろう楽団からは、「ただのダイナミックスだけではなく、齎すティムパニーの上に、そしてシステム間においての絶えない変化に気が付かされると、繊細の極みの色彩となる構造が引き出される。それが圧倒的なものとして成される。管弦楽的名人技と、創作当時の管弦楽が現在よりも微細で繊細であった響きに準拠した音響への感受性が湧き起った」としている。

そして主役のマルリス・ペーターセンは、「そのお膳立てを活かして、テキストのニュアンスとピアノで、一音節から一音節へと一貫して明白にした」と賞賛する。「彼女の声は、作曲者の指定したメタリックで強い声ではなく、調和の取れた柔らかく、まことに暖かいのだが、ヘンツェからライマン、バロックからベルカントへと初演などをこなしていて、馴らされている」としている。それゆえに「今回のロールデビューは、通常を超えた歌唱の大きな変遷と多様性という事で、他の誰も追従できないこと」だとしている。

ここまで書くと、当然のことながら最早他の歌手は分が悪い。シュスターは大向こう受けするだけで、コッホは正しく纏めていたゆえに一面的で、ブレスリックはとろけるリリックに欠けたとされる。要するにペーターセンの陰に隠れてしまっている。更なる上演で期待するのは、この批評を読んで更なる表現へと進化して貰うことでしかない。しかしコッホをあまり追いつめて、休まれたらどうしようもないのである。

演出への批評に関しては現時点では何も言えない。しかしこれを読むとやはりとても興味深く、恐らく「影の無い女」以上に成功作となり得る可能性が強い。初日の反応はやはり中々上手く把握できなかった人が多かったという事だろうか。何よりも興味深い記述は、当日ロージュのバッハラーの横にドミンゴが座って始終キリル・ペトレンコに見入っていたという事だ。なるほど当日ドミンゴが突然居たと広報部長が呟いていたのは劇場へのお客さんだったからのようだ。なにか歌うのだろうか?まさか指揮という事は無いだろうが。コッホらもさぞ気になったことであろう。

エヴィアンの音楽祭中継を録音した。まだまだ中継放送も続くようだが、中々よかったが、表番組にベルリンのヴァルトビューネからの中継があった ― そこで指揮したスキエフもエヴィアンへと回る。最初ブロックされて何事かと思った。聴視料返せと訴えるところだったが、その後流れた。恐らく日本やシナなどへのブロックを掛けるのを間違って全部に掛かってしまったのだろう。そもそもこちらも技術調整も兼ねて冷やかしで見ていただけなので構わないが、夏にこのようなことになると大変だ。



参照:
Kopfloses Geschlurfe, blutiges Gekuschel, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.6.2019
一点一画の微に至る凄み 2019-06-29 | マスメディア批評
今晩はどのようになるか 2019-06-28 | 音
by pfaelzerwein | 2019-06-30 21:56 | マスメディア批評 | Trackback

索引 2019年6月


一点一画の微に至る凄み 2019-06-29 | マスメディア批評
今晩はどのようになるか 2019-06-28 | 音
水分補給を忘れずに 2019-06-27 | 生活
早起きのお得な朝 2019-06-26 | 生活
書き止める符に胸詰まる 2019-06-25 | 音
週明けの高温に備える 2019-06-24 | アウトドーア・環境
高位な座席からの風景 2019-06-23 | 暦
焼き魚の骨を箸で解す 2019-06-22 | 音
想定より急がされた決断 2019-06-21 | 雑感
高くて旨いのは当たり前 2019-06-20 | 生活
見かけとその裏 2019-06-19 | 音
さて来年はどうなるか 2019-06-18 | 暦
交響曲四番の真価 2019-06-17 | 音
黒い森近道の成果 2019-06-16 | 生活
三人指揮者の交響楽 2019-06-15 | 雑感
ヒューマニズムへと 2019-06-14 | 文化一般 TB0,COM6
LINUXでペアーリング 2019-06-13 | テクニック
グラデーションの綾 2019-06-12 | 音
光と影のミスティック劇 2019-06-11 | 文化一般
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般
いざ「ロデリンダ」 2019-06-08 | 生活
フランクフルトのお題二つ 2019-06-07 | 文化一般
眠れなくなる射幸心 2019-06-06 | 試飲百景
満ち溢れる愛の聖霊 2019-06-05 | マスメディア批評
アスパラガスも終わり 2019-06-04 | 料理
心安らかに眠りに就く時 2019-06-03 | 雑感
分かるようになる話 2019-06-02 | 試飲百景
遠くになりにけり 2019-06-01 | マスメディア批評

by pfaelzerwein | 2019-06-30 00:42 | INDEX | Trackback

一点一画の微に至る凄み

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ミュンヘンからの生放送を聴いた。とても素晴らしかった。冒頭からのテムピやその運びはこの天才指揮者しかできない見事さで、作曲家のシュトラウスはどこまで出来ていたのだろうと思わせる。言葉の端々が綺麗に浮かび、先月初日のあったヴィーンでの「影の無い女」で不満だった点がここでは聴かせる。楽譜のテムピ指定はドイツ語で書いてあるのでとても感覚的に分かり易い。時代の変化はあるだろうが、それをペトレンコは忠実にやっている。

すると懸案の細かな音形が誤魔化しなく正しく発音されることになって、そのもの言葉のアーティキュレーションにも結び付いていたり、またそこから外れていたりと、後に「アリアドネ」から「カプリツォ」等で主題になっている言葉と音楽の関係が明らかになってくる。

実際に昨今のシュトラウス解釈は初期の交響詩等と後年の楽劇の作品群を時系軸を横断して同時に観察していく解釈が取られている。興味深いのは、先月のティーレマン指揮の「影の無い女」がそこでは時代錯誤に陥って風呂場の鼻歌状態が更に強調されていることと、今回の「サロメ」が間違い無く初演後初めてその全容を表したこととの差異は大きい。

それにしても年明けから四種類の管弦楽団でキリル・ペトレンコの指揮を聴いてきているが、やはり何か変わってきた感じがする。今回も実際に見て確認したいが、少なくとも曲も短く短期間に纏めてきたと思うのだが、初日から出来が良くて、ストリーミングの日を待たずして完成させてきている。前回の「オテロ」においても初日とストリーミングの日の差は少なくなってきていて、歌の良い初日でも永久保存版になってきていたが、同じシュトラウスの「影の無い女」2013年11月の初日シリーズの質とは大分異なる。その後再演で聴いているが、無駄のそぎ落とされたようなシュトラウス演奏は明らかに進化していて、その指揮進化無しには考えられない。比較できるのはやはりムラヴィンスキーのそれぐらいしかなく、今回も新聞評では膝をやらさないかと心配だとあるが、恐らく振りは鋭くなっているに違いない。

今回の演出ではマーラーの録音が流れたが、まさしく「千人の交響曲」で指揮芸術のある種頂点を示したことから考えると、シュトラウスのこの曲に於いてのシステム間の緊張関係を最大限に導き出したのは当然ともいえる。こちらの認識も、ケントナガノの「あまりにも神経質」とまで言われるそれを見たりして、高まってきていることは間違いないのだが、それが引き出す音楽の厳しさを見るともはや指揮芸術という事ではもう殆ど完成してしまっているのではないかと思う。それ以前にはその才能に隠されて気が付かなかっただけではない一点一画も揺るがせにしない芸術を新たに感じるようになった。要するに凄みが備わってきている。

歌手陣についてもまだ様々な評は出るだろうが、あまりにもクール過ぎるとされるサロメもまさしく狙った通りで、ペーターセンの歌唱も初日を聴いた「ルル」時よりも進化している。ヘロデのアプリンガーシュヴェアッケもミーメの時よりいい。シュスターのヘロデアスも余裕の歌声が新たな個性を役に添えている。ベルスレクの歌も余りに贅沢過ぎるほどの個性付けだ。そして心配されたヨハナーンのコッホだが、成功作「影の無い女」の染物屋以上の出来で、声もバイロイトでのヴォ―タン以上に出ていた。更なる十八番になりそうな出来だ。

しかし放送でこれほど満足してしまうと実演では演出以外に何を期待すればいいのだろうと思わないではない。今回は劇場の十八番であり、謂わば音楽監督として先へとつなぐための一里塚とした公演だと思うので、我々は思い掛けない出来だと思っているが、昨年の時点でペトレンコが語っていたその通りになっている。

ハムブルクは夏休みに入るようで、その前に予約したティケットが届いた。オペラやその他を含めて最も高価な業務活動以外での入場券だと思う。マルクにすれば500近くになり、嘗てのザルツブルクでの直前に購入したオペラでも3500シリングはしていなかった。しかし今回のようなペトレンコ指揮の音楽を聴くとそれはそれでその価値のある芸術だとも言える。



参照:
ドライさとかカンタービレが 2018-11-25 | 音
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
by pfaelzerwein | 2019-06-28 23:26 | マスメディア批評 | Trackback

今晩はどのようになるか

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ベーム指揮「サロメ」を通した。演出はそれほど観ていないが、音楽は良かった。LPでカラヤン指揮のものを持っていて、ベーム指揮のそれは知らなかった。1974年のウニテルの制作だ。なによりも若いテレサストラータスが歌っていて、映像を見ても顔がよく分からない。演技は流石に上手い。歌は声が意外にルル程には合っていない。指揮者との相性もあるかもしれない。

音楽は、カラヤンの録音を何回聴いていても分からないところが沢山ある。それでもヴィーナーフィルハーモニカーがお家芸の誤魔化しで上手く奏するものだから、たとえベーム博士が振っているとしても音符が錯綜するところはそれで流れてしまう。冒頭のクラリネットの細やかなパッセージや風の音の部分ではなく音楽的に重要なところも出てくるので、ペトレンコ指揮では徹底的に音化されるだろう。ベーム指揮の楽劇を聴くと分かってくるのは、効果のためと主題動機からの重要なアンサムブルの両方があって、そうした重要なところでも振り切れていないところがあることだ。但し楽曲自体が最終的に収斂するところが決まっていて、どのような劇場でその長さからも比較的上演可能となっているのであろう。

兎に角、初日の生中継を聴いてみるしか、何とも言いようがない。録音の技術的なチェックを兼ねて昨年の「オテロ」初日の録音を流してみる。復活祭でメータ指揮で聴いた耳からすればいくら頑張っても劇場では管弦楽のやれる限度は明らかだ。そしてメータ指揮のヴェルディもミュンヘンでやった時とは桁違いによかった、そしてその「オテロ」はバーデンバーデンの上演の方が優れているところが幾つもある。それは昨年の「パルシファル」でも同じで管弦楽の表現としては到底ベルリナーフィルハーモニカーの演奏には及ばない。しかし歌手陣やそのアンサムブルではやはりミュンヘンでの上演は程度が高い。

何時もの様にキリル・ペトレンコが劇場でどんなに完璧な音化を目指しても限界があって詮無いことだと思う反面、歌手や合唱そして演出を含めた総合的な表現としての完成度に繋がる行為としてはやはりああしたオペラ上演実践となるのだろう。それは必ずしもキャスティングの問題ではなくて、各歌手にとことん厳しい反面最高のパフォーマンスを引き出す指揮者の能力によるようだ。奈落からの音が団子となって、適当に歌手が合わせる時点で表現の可能性が無くなる楽曲は少なくない。

今回の新制作のキャストは主役のサロメだけでなくて、ヘロデ王、ヘロデアスのシュスター、ナラボートのブレスリックなど、上の映像よりもいい配役になっている。先ず初日の中継は映像が無くとも可成りいい演奏になりそうだ。始めてミュンヘンの劇場で体験したのが、デュビリー指揮の「サロメ」でその演出も良く覚えていない。今後もメインレパートリーになる今回の制作の成功を期待したい。

お昼ごろにサイトを覗くと八枚以上残席が放出されていた。一時間ほどで殆ど売れた。平土間真ん中の11列の最上席は二人組であってもプレス席とか劇場の持っていた席だろう。流石に初日だけあって、ロージェやバルコンの最上席は出ていない。当日のお知らせで出かけようと思えばミュンヘン近郊在住者ぐらいでないと難しい。

朝、寝過ごしてしまった。バルコンで横になったら深く眠入ってしまい、零時過ぎに気が付いたからだ。そこからふらふらしながら、翌朝のクヴァークの準備をしてお茶をリットル冷やしておいた。二リットル以上飲んでも足りなかった。夜中にトイレに立ったかどうか、それほど排出の必要はなかった。森の中も涼しくは無かったが、風が吹いて、陽射しもそれほど暑くはなかった。徐々に盛夏を超えていく感じがした。今晩は夕食に火を使えるだろうか。



参照:
水分補給を忘れずに 2019-06-27 | 生活
早起きのお得な朝 2019-06-26 | 生活
by pfaelzerwein | 2019-06-27 22:15 | | Trackback

水分補給を忘れずに

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予定通り午前中に外出を済ませた。燃料を足しておいたので、早朝の移動で出来る限り処理するようにする。スーパーに立ち寄って、果物を中心に蓄えの準備だ。勿論ビールを忘れてはいない。昨晩も就寝時刻になっても涼しくは無かった。21時過ぎて30度を下回った。窓を開け放って寝た。そして本日は、22時まで30度を超えている。更に涼しくならない予報だ。注目したいのは夏至に近いこともあっての夜分の高い気温で、八月の空気と熱帯夜とは大分異なる。しかし金曜日になれば再び20度を下回る予報だ。

普段は摂らない昼食をこってりと摂った。肉屋のスープでのラーメンで、小腹が空いて、暑くなかったので先に食してしまおうと思った。夜分の暑さの方が堪えるからで、就寝前には冷たいものしか摂らずに、翌朝に備える方がいいと思った。日本では北海道人しか食さないクヴァークを準備しておいて、朝食のパンは冷たいそれで食する。バルコンで朝食が可能だろう。朝の数時間が一番気持ちがよいからだ。

夜分に食するのはメロンだろうか?あとはガツンと冷やしたヴァイツェンになにかちょこちょことあればよい。兎に角、涼しいのがよい。オリーヴの実はあるが、ビールが主体である。火を使う気もしなくなる。

夕方は、翌日に備えて「サロメ」のお勉強である。放送を聞くまでの最後のチャンスを活かして、あれやこれやと楽曲について精査してみたい。一般的には、楽劇「エレクトラ」で最も時代の先端へと行く作品を残し、「サロメ」はそこへの道程の中にあるとされているが、一体この曲をどの視点から見るかという事になるのではないか?そこまで考えれば自身の目の付け所が定まって来る。とても興味が湧いてくる。



参照:
心安らかに眠りに就く時 2019-06-03 | 雑感
猛暑が予想される今日この頃 2015-07-01 | 暦
by pfaelzerwein | 2019-06-27 03:51 | 生活 | Trackback

早起きのお得な朝

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朝一番でパン屋に向かった。暑さを避けて一っ走りして汗を流しておくためだ。前夜早めに床に就いたが、やはり目覚めは早過ぎた。それでもベットで暫し過ごしておく方が心臓にいいだろう。誰もいなかったが、森は既に摂氏20度を超えていた。前夜は洗濯物の都合もあって裸で窓を閉めて寝ていたが、それぐらいで良かった。直射日光に痛められることなく、やはり気持ちよく早めに走れた。それだけでも朝起きは得である。

暑さはまだこれからだが、来週の衣裳は大体考えた。シャツはチュリッヒに着ていったものが綺麗なのでそのまま使う。首元はまだ考えていないが、気温にもよるだろう。明け方に誰かが紹介した来シーズンのベルリナーフィルハーモニカーの予定にエルフィーやルツェルンやバーデンバーデンが出てくるとぞくぞくとする。ルツェルンでは客席が映っていたが自分らしきを確認できなかった。画質が落としてあった。記録に残るのでどうしても衣裳を考えてしまうのだ。ルツェルンと言えば、宿を二種類予約しておいたが気になっていて、二月前になったので決断した。断った方は湖の端の方で価格も高く距離も遠いので断るつもりだったが、近辺の安いところが本当にいいのかどうか自信が無かった。もう一度調べると50ユーロ少しだが、機能的な宿泊施設なので、調理こそできないが買い出ししておけばコンサート後の夜食と飲み物ぐらいはどうにかなると思った。冷やさないでもいいスイスの赤ワインでも買えばよいかもしれない。朝食も有料であるが、昼食をしっかり摂れば買い置きで良いかもしれない。三泊四日で何回の会に行くかだけが問題だ。

懸案になっていた遠隔操作のVNCの問題点を走りながら考えていた。テストに先ずはPC側のビューワーにレアルVNCをインストールして使ってみることにした。小さなプログラムなので邪魔にならない。実際に使ってみると、やはり上手く入れなかった。そこでWLANのアドレスがNASと葛藤していることに気が付いた。つまりラズベリーパイとNASがしばしば同じアドレスに割り当てられる傾向がある。そこで消去しながら一つづつ固定していった。NASに.109を割り当てた。NASを導入してから自動的に割り当てられていた番号をその儘にしておいたが、初めて変えることになる。こちらの方は有線なのだが番号は同じである。それゆえにあまりシステムに関係の無いタブレットの方では入れて、SAMBA接続になっているPCでは駄目だったのかもしれない。

これでバルコンの温度を室内から監視可能となった。怪我の功名かNASの伝送の感じが少し変わった気がする。安定感が出てきたようだ。これは助かる。週末に録音したクリーヴランドからの演奏会の生放送中継前半の音を流した。最初のコンセルトヘボーと同じ曲の初演はこちらの方が上手く行っていた。ブラームスの交響曲四番の冒頭を素材にしている。それよりも驚くほど良かったのは二曲目のラベック姉妹と演奏したブルッフの二台のピアノのための協奏曲である。初めて聞いたがこれは見つけものだった。

木曜日に新制作「サロメ」の初日が迫った。その前に名録音を聞いておかないともう聞く機会が無くなる。手元にはカラヤン指揮のLPがあるが音楽的な参考にはならないので、YouTubeでベーム指揮か何かを見つけておこう。既に総稽古後の情報がちらほら出ているが、演出はいつものヴァリコフスキーの映画の断章を使う方法で「愛の嵐」らしい。それ以上に1940年代のナチに脅えるユダヤ人家庭を舞台にしたという事である程度成功するのではなかろうか?マルリス・ペーターセンの声も思春期の娘の歌声には合っているだろうから心配は要らない。気になるのは首を切られる預言者ヨハナーンのコッホの歌だけだ。どこまで持ってこれるのだろうか。

SSDからNASへとシステムを改良してから最初の夏である。締め切った部屋の中では下手をすると扇風機の様にファンが回っていたが、流石に静かになった。合わせて六個ほどのCPUが稼働していてファンが回りっ放しであるが、精々静かな扇風機を静かに回している程度の音も出ていない。音楽を流しても喧しく感じない。なんとも嬉しいことである。



参照:
弁証法的な辛い生活 2016-12-10 | テクニック
書き止める符に胸詰まる 2019-06-25 | 音
by pfaelzerwein | 2019-06-25 23:10 | 生活 | Trackback

書き止める符に胸詰まる

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バルコンの外気温をモニターしようと思った。そしてラズベリーパイを設置しようとしたら面倒なことになってしまった。先ずは新しいWLANにログインしていなかったので、そこから弄ろうとしたら、嵌ってしまった。いつものように躓いたのはVNC接続で、PCから制御したいからだ。タブレットでは使い難くい。

以前は問題が無かった筈だが、ラズベリーで使っているリアルVNCサーヴァーとPCで使っているウルトラVNCヴューワーの相性が悪いらしい。ネットでも報告されている。なぜこのような設置になっているのかは自分でも忘れてしまっているので記録を読み返さなければいけないが、弄ると初めから全てやり直しで面倒で仕方がない。なんとか誤魔化して使える方法を探っている。要するに端的に言えばネット内での相互リモートコントロールのネッツワークだ。

日曜日の音楽聴視計画を時刻表にしてこなした。チューリッヒからの中継はまだオンデマンド化されていないがそれをダウンロードすれば十分だ。保存すべきものかどうかも画像を流している限り分からなかった。午後のアムステルダムからの中継と夜分のクリーヴランドからの中継のプログラムが重なっていた。指揮者がビシュコフで、アメリカでは奥さんのラベック姉妹が出るというものだ。生中継の録音をしくじっていたので後半だけで良かったのだが、同じ我が祖国からの選集を両管弦楽団で比較することになった。コンセルトヘボーも現在調子が悪く、クリーヴランドもコンサートマスターがMeTooで居なくなって大変具合が悪くなった。

結論からするとコンセルトヘボーの寄り切りである。名指揮者が振ってもそれ以上には弦楽器も弾けてはいなかったが、昨年のクリスマスでも見せた慣れがあるようで、音楽的に良く馴染んでいた。クリーヴランドの方はやはりチグハグしていて、現在の状況は世界の頂点からは大分遠い。弦楽が締まらないと急に管のアンサムブルもしっくりこないようになっている。再来シーズンに欧州ツアーがあると聞くが今の二人のコンサートマイスターでは止めた方がいいぐらいである。失望するぐらいならば行きたくない。

その前に放送されたフィラデルフィアからのマーラーの九番は聞きごたえがあった。弦楽のしなやかさはどうだろう。そこに網の目の様に対位法の木管、金管が絡む綾は、到底昔のカラヤン指揮の録音などとは比較にならないほどの精妙さだ。現在この組み合わせに対抗するだけの細やかな表現が出来るのはペトレンコ指揮ダイシン率いるベルリナーフィルハーモニカーしか存在しない。因みにペトレンコがこの曲に取り組むのは再来年シーズンである。

そのマーラーサウンドを聞いていて思い出したのはやはりこの楽団をMeTooのレヴァインが振った録音である。それにしても流れてしまわないネゼセガンの指揮もセンシティブ且つ立派だ。流石に終楽章はもう少し凄みがあっても良かったと思うが、生中継前に舞台袖で話している通りの最後の音符をそっと置いて書き止める感はとても出ていたと思う。それが音楽性なのだが、情感豊かな表現の活きる指揮者であるが、あの嘆きの動機の歌わせ方は最初から胸が詰まる。まさにこれが音楽でありその芸術性なのだ。ハイティンクが最後にもう一度と指揮棒を握って、コンセルトヘボー管弦楽団が幾らまじめに演奏してもその露ほども音に出来ないのが音楽なのである。二楽章の最後のファゴットのなんと素晴らしいフーモア!今こうやってあのバーンスタイン指揮演奏を一つづつ乗り越えていけることの素晴らしさ。

もう一つ明け方にロスアンジェルスからの放送を録音しておいた。予想以上にサロネン指揮が好演していたが、やはり「春の祭典」になると厳しい。到底メータの指揮には及ばない。それでも楽団も欧州の二流所とは異なり明白に発音するので、最近のお衰えを上手く隠している。嘗ての欧州ツアーでの成功を少しだけでも彷彿させた。やはりこの指揮者は西海岸で活躍すべき人だと思った。楽団はある程度やれることは分かっているので、再放送シリーズの七月末のメータ指揮から九月のバレンボイム指揮辺りまでの今シーズンの演奏会再放送が待ち遠しくなった。

今週は流石に暑いのでワインも進まないだろう。先日空けたような泡ものでも駄目だろう。先ずは涼しい内に陽が陰ってからリースリングでも飲んでおこう。食事も煮豚とジャガイモで食い貯めだ。



参照:
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
by pfaelzerwein | 2019-06-25 03:06 | | Trackback

週明けの高温に備える

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週明けから水曜日に掛けて高気温が予報されている。水曜日に摂氏40度が出されている地域が広がっている。最低気温も20度を超えるので夜中に窓を閉められなくなる。先ずは週明けに外出仕事を済ませて、水曜日にはじっと自宅待機、木曜日にはミュンヘンからの初日中継と準備したい。

兎に角、本日から朝早いうちに冷たい飲み物を用意してという日々が始まる。ここの所ふらふらしたり、心臓辺りが重かったのは慢性の水分不足でなかったかと思う。やはりビールを少々飲むだけではいけないのだ。そして冬ほどにお茶を煎れてという気にはならない。冷やすのがとても面倒であるが健康の為に、一リットル、二リットルと毎朝準備をしよう。

夜中に目が覚めたので朝の出が遅くなって、陽が燦燦と輝いていたが、森の中は、予想外に影が多く、涼しかった。それでもこちらの身体もついて行かないので、ひたすら完走だけを目指して峠を往復してきた。流石に汗ぐっしょりになった。週明けは早朝の涼しいうちに走ってその足でパン屋に行くしか方法は無い。とは言ってもそれほど早め早起きが出来るのではないので、パン屋が開いてから走るようになるのだろう。

帰って来てからニューヨークフィルハーモニーの放送を聞くと、バーンスタイン指揮コープランド作曲「コノテーションズ」初演の録音にサ―ノイズが大分聞こえた。1962年の録音なのでCBSのLPの録音とはまた異なるのだろうか。少なくともその後DGでのデジタル録音とは全く違う。それに続いてメーター指揮のコリアーノ作曲クラリネット協奏曲、ブーレーズ指揮のカーター作曲「三つの管弦楽団のための交響曲」などとても面白いプログラムが流れた。最後のはCBS録音もあり、その前のはニューワールドレコーズの音源もあるが、これら全て態々CD化されたものを探してというものではないアナログ録音なので、とても助かる。なによりも初演時と言うのが貴重である。そう言えばボストン交響楽団の放送でも小澤征爾指揮のニューワールドレコーズ録音に言及されていて、結構そこに重要な録音があるのではないかと気が付いた。

先週バーンスタイン指揮の第八交響曲一部のライヴが流れていたので目を離せなくなったが、こうしたアーカイヴもとても興味深い。土曜日には発注していたメータ指揮「春の祭典」のCDを流したが、とんでもない音が入っていた。演奏もこれが彼のニューヨークフィルのサウンドかと思うものを自由自在に操るメータ指揮で、イスラエルフィルでの指揮しか印象に残っていなくて、この復活祭で漸くその指揮を改めて見直す者からすると、やはり強烈な印象があった。如何にバーンスタイン指揮のニューヨークフィルと言うのが特殊なサウンドで鳴っていたかを確認した。メータの指揮は、これでもかというぐらいに吹いて重ねてくる楽器陣を発散且つ制御する。十八番だけにそのテムポ運びの配合は見事で、やはりこの指揮者はこれと言った曲をまた管弦楽団をとことん自家薬籠中のものとしてしまう芸がある人だと思った。面白おかしくとか批評されるのもそれがあまりに決まってしまうからである。

それにしても来年四半世紀ぶりにニューヨークフィルを聞くチャンスに恵まれそうで、興味津々である。こちらの興味はビッグファイヴとベルリナーフィルハーモニカーの比較という事なのだが、一昨年あたりから、シカゴ、クリーヴランド、フィラデルフィアと生で聞いてきて、更に来年シカゴ、ニューヨークと聞けば、放送を補うだけで完璧に批評可能となる。

実際にはベルリンのフィルハーモニカーは、ボストンとシカゴの交響楽団創立年度中間ぐらいでシカゴとはここ半世紀でも頂点を争ってきた。そして、最も老舗のニューヨークのそれに耳を向けるとやはり興味深い。少なくともメータ時代のニューヨークはマッチョなイメージが強く実際には弦の男女比などは分からないが、それほど羨ましいとは思わないのだが、ある意味ベルリンの高弦の鋼のような音色をどこに落ち着けるかという事ではやはりとても参考になるのではなかろうか?これでもかこれでもかと前へ出てくるところは若干共通性もある。一種の押しつけがましさだが、それをベルリンではダイシンの力で細やかな繊細な表現へと変えたが、管楽器などの問題を含めてまだまだ解決すべきことがまだある。やはり、バーンスタインにしてもブーレーズ、メータとも名白楽だったというのがここで証明されている。

昨晩は窓を閉めて就寝可能だったが、今晩からは開けっ放しで、昼間は締め切らないといけないだろう。精々涼しい風を今のうちに浴びておこう。



参照:
さて来年はどうなるか 2019-06-18 | 暦
身構えてしまう猛暑の前に 2015-08-06 | 生活
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音
by pfaelzerwein | 2019-06-23 22:09 | アウトドーア・環境 | Trackback

高位な座席からの風景

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聖体の祝日の木曜日、ハムブルクのエルブフィルハーモニーの来シーズンのティケット発売だった。北ドイツは平日で、カトリック圏を中心に南ドイツは祝日だったので、八時間近くそれで時間を費やした人も少なくないと思う。

成果は、紆余曲折があったが、十分だった。前日からあれやこれやと調べていたのだが、予想通り結局思うようにはならず、電話で以って早めに解決とはならなかった。兎に角一斉発売なので、対象数が多過ぎて、そもそも電話で対応する気があったのかどうかも分からなかった。其々の電話で直ぐに録音に回された。

既に書いたようにケルンの方へと向きを変えかけたが、辛抱して18時のオンライン解除まで我慢し続けた。ケルンでも一つだけは所望の席が余っていたからで、それが売れないかと心配だった。しかしその甲斐があって思いがけず売れ残っていて、それも第一希望のブロックから決して悪く無い席が一つだけ残っていた。欲を言えばもう一つ前の列ならばそれ以上望ことは無かった。それでも3Dの座席からの光景を見ると、先ずはこのホールの批評をするのにも使えそうな席で、逆にその席で不満があればもはやこの会場は駄目である。

ベルリナーフィルハーモニカーのエルフィーでの公演は数晩目になると思うが、指揮者がサイモン・ラトルでもなかったので即完売とはならなかったのだろう。その証拠に翌日、翌々日のロンドン交響楽団は二晩とも完売までに時間が掛からなかった。言い換えると、如何にキリル・ペトレンコが前任者とは異なって知名度も人気も無いかという事になる。既に、ミュンヘンの座付と一回、ユース管弦楽団と一回登場していて、直ぐに完売にならないという事は、精々前者の聴衆の半分と後者の四分の一ぐらいしか再訪しないという事ではなかろうか。それ以上に人気がなさそうなのはフランクフルトのアルテオパー公演で散々な売れ行きだ。理由はその超格安の料金で分かるようにアルテオパーが主催しているので定期会員が入っていないので本当の一般発売になって、バルコンの第一列が空いていることからドイツェバンクも招待客をベルリンに集めただろうことなどが想像される。

更に、客の入りが悪いのは明らかにプログラムゆえにだろう。音楽ファンからすればとてもバランスが取れたストラヴィンスキーからピアノを使いながらのツィムマーマン、そしてラフマニノフへの魅力的なプログラムであるが、エルフィーの聴衆の多くにとっては「無名の指揮者による訳の分からないプログラム」となるのだろう。やはりあそこの聴衆の質が平均すると低い、ケルンとは一ランク下だと思われる。

そうなると、プログラム一曲目のストラヴィンスキーをブラームスに替えさせたフランクフルトはどうなっているのだとなる ― 今確認するとプログラム変更でブラームスが無くなっている、初めからそうならハムブルクに行っていなかったが、まあ地元だから仕方がない。最終的には埋まると思うが前代未聞だ。146ユーロから37ユーロまでの価格帯はとても良心的で、これがヴィーナーだとしても価値がある。そして音響はシューボックスという事ではエルフィーよりも優れていて、間接音の割合の好みに応じて座席を距離によって選べる。若干長めに後を引く傾向はあるのだが混濁は無く美しい。嘗ての大阪のフェスティヴァルホールよりも、ザルツブルクよりも綺麗である。エルフィーの裏側に190ユーロとか154ユーロ出すぐらいなら、アルテオパーの最高席146ユーロの方が音響的には完全に上である。身体が複数あったらバルコンの最前列を買いたいぐらいだ。勿論私は37ユーロでとっておきの場所を四月に購入していた。

早速宿を予約しておいた。年始は二泊して翌日劇場にも出かけたが、前夜も劇場も興味なく、安い席を翌日にも取り損なったので、今回一泊のみで、一直線で出来る限りハノーヴァーに近い宿を中継地とした。77㎞、一時間の距離だけでもハムブルクから離れることで、帰宅に若しくはチェックインに早く着ければ楽だと思った。ホテルまで自宅から520㎞、5時間の道程となる。予約した宿は60ユーロしないので、車中のランチボックスなどを充分に整えれば、あとは駐車場の高額料金だけで済む。このままならば同じプログラムを聞くためにケルンに寄ることも無いと思う。



参照:
想定より急がされた決断 2019-06-21 | 雑感
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2019-06-22 23:50 | | Trackback

焼き魚の骨を箸で解す

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承前)アイヴスの交響曲体験は素晴らしかった。意識を変えさせるに十分な要素はその管弦楽の鳴りに関するもので、ここでまたあまりにも鋭い不協和を聞けたのはとても良かった。協和音に関する含蓄は嫌と言うほど聞かさせるが、不協和に関するものはまた異なる。四分音やその繋がりを幾ら幾つもの平均律を並べて試奏やまたはハースの作品に芸術化してもやはりこうした不協和の体験にまでは至らない。あまりにもラフな形を以ってこうして響かされると全く異なる意味を持つ。要するに無調とかの語法とは異なる響きとなる。

ケントナガノの指揮が偶々そのように魅力的な響きを引き出したとかではないが、とても現在の管弦楽のもう一つの響きを示唆していてとても興味深かった。如何にこうした鋭い響きを芸術的に鳴らせるかという事でもある。

所謂ロシアのモダニズムやまた騒音音楽、若しくはショスタコーヴィッチなどにも繋がる無調では、不協和音とでもいえる系譜にもう一つはヴァーレーズを代表とするような扱い方がある。実際には機械文明の音化などからブルックナーの交響曲なども一つの源泉とするのかもしれないが ― こちらの方はギーレンの指揮によらないまでも12音技法へと連なる。丁度上のハースにおける四分音の創作へと流れる。

そもそもアイヴスの交響曲の調性が逆にこの曲を粥の様にしているのであるが、それはケントナガノまでに今まで誰もここまで振っていなかったからではないかとも思う。なるほどマイクを通した響きではその実態が捉えきれないところもあるのだが、副指揮者陣と共に見事な音響としていた。

ケントナガノの指揮に改めて感心したのは、ピンチャーの点描風の音楽においてもテムポの運び様が見事で、勿論キリル・ペトレンコのその天才的な腕前とは全く異なるものなのだが、ここまで職人芸的にまるで焼き魚の骨を箸で解していくような妙技は中々の見世物だった。

その指揮は、一月にハムブルクの劇場でも見たのだが、やはり今回の方が見せ場が多かった。その前に見たのはベルリンのフィルハーモニーでシュトックハウゼンを振った時だった。印象からするとその時よりも大分無駄が無くなってきているのではないかと感じたが、思い過ごしだろうか?

現任との年齢は大分異なるが、当時のザルツブルクでの議論からすれば、バイエルンの放送局の次の指揮者はこの人しかいないのではないかと感じるようになった。そもそも放送交響楽団であるからメインレパートリーもピンチャーのような曲であり、アイヴスなどをしっかり振って、その他のヴァークナーやベートーヴェンなど幾らでもゲストで振る指揮者がいる。そんなものは振らないでいい。

当日のガイダンスでは、ピンチャーのコントラクラリネット曲に続いて、アイヴスとレオン・テレミンの繋がりをお孫さんが実演を兼ねて話していた。招聘などを執り成しをしていたのは指揮者のストコフスキーだと理解した。左手を上下させて音量、右手で音程やその表情を反映するというシムプルな楽器だが、名人に掛かれば表現力は現在のシンセサイザーなどよりも遥かに高いところもある。まさにこのアメリカの作曲家の立ち位置が分かるような話しとなった。

7月11日に前日初日の演奏会の実況録音が放送されるので、それを待ちたいと思う。また異なることにも気が付くかもしれない。(終わり)



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
三人指揮者の交響楽 2019-06-15 | 雑感
by pfaelzerwein | 2019-06-21 23:42 | | Trackback