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芸術音楽で可能となること

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今週は暑く、週末出かけるので、走行距離を落とす。頂上まで駈ける自信がない。無理すれば行けるが、週末にも足が攣りそうになった。水分を摂っているので、辛うじて事故にはなっていない。先ずは汗を掻くことを目的として、週末前にも軽く走っておけば何とかなるか。ボルダーリングは車の負担もあるので我慢しよう。

週末の新制作「ブルートハウス」のお勉強。演出家クラウス・グートのインタヴューが出ている。演出内容について語っている。まだ総稽古は済んでいない筈だが、実際に舞台に試してみて、舞台での心理面などの反応が変わるので、演出も変わるとしている。これは少々驚きだった。演出家として可也台本を読み込んで決めてくる人だと勝手に思っていた。

ヘンデル・クラウスの脚本はとても密に書かれているらしいのだが、ハースの音楽とは別途に進行しているようで、それをしてグートにとっては、最も音楽劇場としての面白さはそうしたテクストに関わらずに、音楽が心理的にも独自の状況を創出する所だとしている。

何かここまでは昨日ここで言及したことと似てはいないか。それをしてグートは音楽劇場の総合芸術性だとしている。それが最も扱われているのが、この「ブルートハウス」だとしている。そこに付け加わるのは更に重要な聴衆となるだろうか。

舞台設定を敢えて2000年代としている。理由は、オーストリアで相次いだ十歳から誘拐されていたナターシャ・カムプッシュや父親の子を十人も生んでいたフリッツルの娘などの被害者視線、そのものがこの音楽劇場の内容にもなっているからということのようだ ― 作曲家はその物語に自らの生い立ちを密かに見出していた。

勿論こういう話しを聞くと、もう私たちはその音楽劇場に既に一歩踏み込んでいるに違いないと感じる。

そして他の新聞は、作曲家のハースへのインタヴューを舞台写真らしきものと載せている。総稽古はまだかと思うが、衣装稽古の写真だろうか。明らかに主人公のブロンドで黒服のナーデャがスポットライトの中で膝をついて屈していて、背後にはその家で悲惨な死を遂げた両親や関わりのあった人のような影がある。

作曲家は、2011年のシュヴェツィンゲン音楽祭での「ブルートハウス」初演時には自らがナチとして躾けられていた事を口外できなかった。そして「分かたれた痛みは半減する、まさにそれが芸術によって起こることだ。」、「誰もが痛みを分かつことが可能、そして自らの痛みが違っているのを発見する。それが音楽で可能となることが素晴らしい。」。



参照:
Festival „Ja, Mai“ an der Bayerischen Staatsoper: Gespräch mit Georg Friedrich Haas, Merkur vom 17.5.2022
特別な音楽劇場の作業工程 2022-05-18 | 文化一般
一堂に会する音楽劇場 2022-05-17 | 音
# by pfaelzerwein | 2022-05-18 20:30 | マスメディア批評 | Trackback

特別な音楽劇場の作業工程

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承前)疑問を呈した。しかしその前にもう一度終景における演出の変更について考察しておこう。そこでは主人公のヘルマンが、カードの目を外しただけであっけなく自射してしまう。原作においてはその神も仏も無しのニヒリズムが強調されるところなのだが、ここではチャイコフスキーは古い聖歌をコーダに使った。この傾向は最期のオペラ「イオランタ」においてより明白になる様に明らかに神的な光を求めていた死を遠からず覚悟していた作曲家であり、ここではどこまでも主人公への慈愛の念を音楽化している。この作品がドラマテュルギー的に最後まで中々嵌まり難くしている由縁だろう。

そこにト書きには無い祈りの場を見せることで、その意味は可也大きく変わる。その演出意思以上にここで注意したいのは、途中で代えてまで変更してしまったやり方である。もしこれがミュンヘンの大劇場で行われていたならば、常連さんにだけでなくメディアでも大きな話題になったであろう。

制作の基本コンセプトとして音楽的な意味合いが先にあるとすれば、途中から演出が変更されるのはおかしい。またはその重心が移されるのは不自然ではないかとなる。実は、こうした演出の変更があってから二晩目のカメラも入っていない千秋楽には更なる細かな変更があった。少なくともヘルマンのメーキャップはより陰影がつけられた。到底満員にもなっていない晩の為に試みたのは何だっだのか。

明らかに重心が移されたので、そのヘルマンの歌唱が四日間でも最も素晴らしい出来となり、終演後の喝采も初めて主役に相応しい沸き方をした。つまり、演出の変化は音楽的にも大きな影響を与えたということであり、同様な状況はその後のベルリンでの演奏会形式での批評等にも表れていた。

劇場においては歌手の体調が悪いなどは日常茶飯の変化であるが、そうした場合でも破綻が起きないように劇的に支障が起きないようにするのが劇場指揮者の腕である。しかし今回の場合は、音楽的な追求からそれに寄り添う演出まで変更になって、千秋楽からまだベルリンでの公演へと飽くなき音楽的修正が為されたとも考えられる。こうした作業工程自体が、そして演出家が最後まで手を加えるというのも特別なことだった。

上記の明らかな演出上ひいては音楽上の頂点は、これらの事から聖金曜日の第三夜にあったとして間違いないだろう。恐らく、残される映像も当夜のものを主にして、録音もその他の取り換えや修正などが為されるものと予想する。

もう一つ、この作品のフェーク構造において、とても音楽的に重要な部分はネオロココの舞台化であった。これもこの作品の理解を難しくしている要素でもある。(続く



参照:
新制作二日目の狙い 2022-04-14 | 文化一般
まるで座付き管弦楽団 2022-04-16 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2022-05-17 20:32 | 文化一般 | Trackback

一堂に会する音楽劇場

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週末のミュンヘン行の準備を検討する。金曜日の午後に用事があるので、燃料もその前に満タンにしておきたい。つまり近所に車で走るのもそれまでに終えておきたい。また燃料費が上がっているようなので、130ユーロ程掛かるかもしれない。エンジンオイルも継ぎ足す。車両を立ち往生させないために出来るだけの事をしておく。そして無理をせずにゆっくりと巡行したい。

そこで気が付いた。当夜は、先日初日の評判がよかったベルリオーズ作「レトロ―ヤン」が大劇場で催されている。それならば早めに行って最初だけ覗いて来ることにした。立ち見のいい席を見つけたので、手数料を入れて17ユーロぐらいの価値はあるだろう。

すると初日当日に放送される指揮者ティテュス・エンゲルへのインタヴュー番組も出かける前に聴けなくなるが、車中で入るか。どうせ録音なのだろうが、当日にオンエアーすれば話題性が高まって、その後の売れ残りの席も売れるというのだろうか。

更に制作に関してまだ十分な情報が出てきていない。出ているのは、作曲家ハースが語ったアメリカのポール・オースタ著「ニュ―ヨーク三部作」と、創作の端となっている冷蔵庫の共振の純オーバートーンにいたたまれず冷蔵庫を持たなかった作曲家イヴァン・ヴュシュネグラツキーのウルトラクロマティックに関してである。作曲者のフリードリッヒ・ハースが、どのように技術を駆使して、それに対峙する土台の上に創作をしているかの説明になっている。

同時に、今回はクラウス・グートが演出する事から、作曲家、演出家、指揮者が一堂に会して、どのような制作が為されるか、それが音楽劇場の注目点である。こうした説明をして、そしてその音響をして、創作を把握するのは可也の事なのだが、そうした聴衆がまた音楽劇場の欠かせない要素になる。

兎に角、新体制になってから売れ行きが芳しくない。来年のオペルンフェストシュピーレの初日に行われる予定の「ハムレット」をメトからの生中継で聴いた。この作品をそこに持ってくる意味は理解できなかった。なによりも具合が悪いのは、これを音楽監督のユロウスキ-が振ることだ。この中継を聴く限り、ユロウスキーの指揮では荒くなるだけで決して「いい出来」にはならないと予想した。もう少し気の利いた人に振らせた方が良かったのではないか。少なくとも音楽監督が振る作品ではない。この辺りの選曲も音楽監督としての資質に関わる。若干そこに自己保身の姿勢をも感じる。

支配人としては、予算を調整しつつ、新たな聴衆を安く入れることで、餌を撒いたものを刈り取れるような中期的戦略があるのだろう。その為にはやはり大きな話題性も欠かせない。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
# by pfaelzerwein | 2022-05-16 23:03 | | Trackback

最期に開かれたのか?

最期に開かれたのか?_d0127795_22495620.jpg
承前)聖歌で幕を閉じる。今回の演出では、舞台に長い机を舞台いっぱいに開いて、その向こう側にばくち場の男たちが座っている。それに対して幕開きでもその机にヘルマンが一人座る。最後の晩餐を思い浮かべる所だろうか。

既に序奏から運命の動機が影を落としているのだが、そこで歌われるトムスキーのバラーデで全てが予期されることになる。終景において机の上でトムスキーが歌うので、このように上手に物語を作っていた。通常は「カルメン」のパロディーの子供の合唱などが挟まれるのでこうした対照は作られないのであろう。

より重要なのは、音楽的にも矛盾させない事であって、第一景での影の作り方とか位置配置とかは、今後映像化されて永遠に残されるとなると改めて細部に関しても批評されるところであろう。やはりオペラ舞台も映像化となると映画化と同じでとても細かなことが指摘される。

全四回の公演での飽くなき修正において ― なんとカメラも入っていない千秋楽にまで舞台演出の手が入っていた ―、 上記点に誰でも気が付くのは、実は最終景での幕の開け方とかでもあった。確か前二回は最終景は聖歌と共に暗転で一息入れてからの拍手であったが、三回目には二重構造になっている上半の幕が引き上げられて、既に亡くなっているリーザの部屋若しくはその戸口で跪いて祈るポーリの姿が見せられた。その是非に関しては改めるとしてもこの差異は、なによりも映像的に大きな効果の違いを与えたと思われる。直感的にこの修正は、映像プロデューサーの指摘があったからだと感じた。今回は、名プロデューサーのバイヤー氏ではなく、ネール・ミュンヒマイヤー監督となっている。さて出来はどうだろうか、既に165分と編集を終えるているようで、Arte,SWRの制作放送局以外にもオファーが出ている。

さて演出家ペアーは、音楽に添わせることをなによりもの信条としていて、特にキリル・ペトレンコの指揮するチャイコフスキーということで全幅の信頼をそこに寄せていることも口外していた。これは、ペトレンコ自身が「自ら演出することがあればな」と語っていたように、今回の企画の前提になっていただろう。取り分けこの作品は最も大切な作品とまで発言しているのだから、それ以上に尊重されるものはなかったに違いない。

勿論舞台作品とは言いながらもこうした高度な芸術作品であるからには、歌詞其の儘に音楽の表情が一面的に創造されている訳でもなく、上のバラードの様に、様々な状況が音楽的に活かされているとなると、当然の事乍ら芝居的な技術で以て劇を導くとなるのだろう。

強いて言えば、最初の景から終景迄可也の人数が合唱や踊りで舞台上に溢れる作品であったので、その人の波の整理は初日には少なくともスポットライトという意味では十分には決まってはいなかった。こちら側も一回ぐらいでは認知するだけの整理がつかなかったというのもあるのかもしもしれない。本当にそうだったのか?。(続く



参照:
まるで座付き管弦楽団 2022-04-16 | 文化一般
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2022-05-15 22:50 | 文化一般 | Trackback

次の頂点に再到達の音響

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金曜日の晩、ベルリンからフィルハーモニカーの演奏が生中継された。新シーズンプログラム発表後初めての定期公演だったので支配人ツャッチマンのインタヴューが番組中に流された。

新シーズンのテーマなどについての内容が話された。一つの柱でもある「愛とセクシャルティ」に関しては来年の「影の無い女」やヴェーゼンデュンク歌曲集などが挙げられていて、更に重要な「アイデンティティ」に関して、マーラー七番でシーズンを始める事以外に、楽団のそれについて言及された。

そこで、当夜の客演指揮者で前任のサイモン・ラトル卿と、後任のキリル・ペトレンコ体制の間での変化や特徴について質された。前者に関しては、珍しい曲での開幕とか又教育企画に代表されるパブリックコミュニケーションが総決算として出され、後者によっての現在のフィルハ―モニカーがその音響において明らかに低音がコムパクトに強化されたとが示された。そして当然の事乍ら楽団の見解として、「スペードの女王」でそれが現在までの頂点に達したと、そこ迄のオペラ演奏が可能になったと祝福された。

特にラトル時代のつるつるてんてんの響きが修正されて行く課程において、カラヤン時代の様に肥大化せずに、飽く迄のコムパクトに当てていくバスの殆ど点描的な響かせ方はミュンヘンにおいて最後までも最も違和感さえ与える点であって、ベルリンにおいては伝統的な分厚さとが上手く統合されたとしてもよいのかもしれない。

就任前の「悲愴」から「ドンファン」などにおいてはまだまだカラヤン時代の音響に比較して鳴り切らないとされた批判点であった。それは既にコロナ期間前には修正されていたと思われるのだが、奈落に入るようになってよりコムパクトな響きが要求されたという事だろう。決して奈落でも囂々とはならない乍らも大きな響きを出せる由縁でもあった。

ラトルが体制末期において「カラヤンが昼飯を誘いに来る」と度々漏らしていたのは、まさしくあれだけの音響を支える為にカラヤン化への誘惑に抵抗するしかなかったということだったのだろう。

今回もジェラードというシェーンベルクの弟子の音楽を紹介したラトルであるが、その音響も彼自身の体制の時よりも遥かに豊かになっていたのを客演指揮者として認識したに違いない。これだけマイルドな響きを新たに就任するミュンヘンの放送交響楽団では到底実践できないと認識した筈である。更に新ホールの建設も座礁に乗り上げた。

ペトレンコが、「サイモン、戦後の曲で何を振りたい」と尋ねてくれて、選曲まで任せてくれたと、ベルリンで今迄振った最高の指揮が出来る喜びに満ちた表情で語っているサイモン・ラトル卿である。



参照:
干ばつの毎日の驚愕 2018-08-01 | 音
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
原典回帰というような古典 2016-10-20 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2022-05-14 22:54 | | Trackback