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究極の表現主義芸術実践

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復活祭初日に開幕レセプションから出かけた。何はともあれ初日の新制作楽劇「エレクトラ」について、火曜日には第二回公演もあり、週明けにはヴァ―クナーガラもあるので、まずはその印象だけをメモしておきたい。

前作「サロメ」のその青年様式の作品に対して人気もなく上演回数も一桁以上少ない作品であり、その上演の困難を乗り越えた時にどうなるか。所謂表現主義の音楽芸術作品として、頂点に君臨する作品であるのかどうか。

少なくとも今回のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーと歌手陣の音楽はその頂点に立つ音楽であることを示していた。

上演の実践で乗り越えなければいけなかったのは如何にあれだけ分厚い管弦楽を越えて声が飛ぶのか、そして歌詞が聴き取れるのかでしかない。先ず今回は演出家がトリックを使った。それは通常の字幕以外にギリシャの円形劇場から発想を得たとするスライドする階段状にしたその舞台装置の階段に通常の字幕テロップに加えて独語歌詞を独自の大文字強調を加えて映し出したことである。これはとても大きな効果を得て、少なくとも独語を解する聴衆にとってはホフマンスタールの文章を読む以上に芝居的な説得力があった。これは芝居劇場では通常の手法でもあるのだろうが、演出家の大勝利であり、音楽的な大きな支持となっていた。

開幕早々の女中の場面でその階段の最上階で、「素手便器」ならず雑巾がけをさせた ― 「素手便器」は演出家シュテルツル作映画「ノルトヴァント」でも最初のシーンだった。勿論声のファンダメンタルは出ずに歌には不利になる。そこで猫のようなとして登場する主役のエレクトラもその下の段で歌う。可也分厚い管弦楽が付けられていて、通常はそこからその楽劇の流れが停まって仕舞って、最初から鬱陶しくなるところでもある。ここだけでも前作「サロメ」と比較して成功しない。

しかし流石にペトレンコは、音量を抑えるだけでなくて、ニナ・シュテムメの丁寧なアーティキュレーションに綺麗に合わせて演奏させる。到底あれだけの分厚い管弦楽は容易に制御できないのは、最晩年のベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカーでも決して叶うものではなかった。しかしそこでは映画映像と当て振りという技術的な方法で克服しているだけに過ぎない。それゆえに恐らくその制作が現在までの模範的な映像とされるものだったであろう。

アガメノンの動機で始まり、そしてそれで終わる、そこへのクライマックスにこの作品の全てがある。それを可能にするのは最初の女中の場面に全てが凝縮されていたのは、同じ演出家の「ノルトヴァント」と同じ構成であった。そして、その背景にはフロイトが活躍するヴィーンの精神世界がヴィーナーヴァルツァーとして示されている。

だから1996年にザルツブルクで浅利圭太が演出したギリシャの明るい海岸風景がコテンパンに叩かれたのである。何も文化的背景の分からない日本人が、台本通りになんて考えても如何に表層的な認識でしかないことがそこで分かる筈である。そのようなことでは何世紀掛かってもこの楽劇は理解できないであろう。(続く




参照:
律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
ヴィーンでの家庭騒乱 2024-02-20 | 音
# by pfaelzerwein | 2024-03-24 19:17 | | Trackback

愈々復活祭初日

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初日の準備である。いつものように、食事とか衣装が気になる。周辺環境を揃えておかないと集中できない性質だからである。例えば、寒い暑いで不愉快なのも困り、寒ければ腹が減り、暑ければ食欲も出ない。結構繊細な人間なのである。

勿論衣装はそれだけではなく、幾ら身体が楽といっても場違いな服装ではこれまた落ち着かない。その程度のものであるが、時間の過ごし方で食事の時間もゆっくりしたいので結構気を遣う。

時間的にはそれ程長い時間がないので短いものを二回ぐらい挟もうか。それともと考えると駐車場料金を考えたりで中々定まらない。街中のことなので出たとこ勝負でいくか。

しかし天候が今一つで、聖週間に向けて若干の寒戻りとなって、雨が降る。するとあまり歩き回れない。若干憂鬱になる。

早く出かけても帰宅は21時頃になる。夜食はフランスのスーパーには行かないので適当に軽くということになる。

もうあまり時間がないのだが、作曲家に近かったベーム博士の最晩年の指揮の映画を少し流した。今迄は制作中に居眠りしてとかされたもので、本当にどれほど指示が出来ているのかどうかが疑問だった。今回改めて聴き始めると、思っていたよりもお勉強になる。

なによりも主役のリザネックの歌が、まだまだ声が出たようで、それから数年以内に東京で乳母を歌った時とは大違いである。アーティキュレーションへの拘りは指揮者のそれでもあり、歌手自体のものでもあるが、こうした指揮を今現在誰に期待できるだろうか。

管楽器の重なりの扱い方とか、色々なことはあるのだが、テムピの設定とかではやはりとても明晰である。今回のペトレンコ指揮でそれ以上を求めるところでもある。恐らくそれで最高の制作となるだろう。演出もそんなに悪くはなさそうで、期待したい。

お勉強は足りないが、仕方がないので往路で一時間程耳にして、細部をもう少し認識しておきたい。その後のレクチャーでもう少し大づかみの構造を確信して、更に時間が許す限り細部にもう一度戻れれば、初日は何とかなるか。

オタマジャクシは多いのだが、重なりが特徴で、それがどのように慣らされるかが注目点でもある。写真にあったように端にはサライカが座るので、恐らく女性三人の楽劇としては彼女が初めてオペラをリードするのだろう。

するとブラームス四番のリードがダイシンになる可能性が高まる。これはこれで楽しみだ、バルグレーでも勿論面白い。



参照:
律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
四旬節も終盤へと 2024-03-16 | 暦
# by pfaelzerwein | 2024-03-23 06:58 | 文化一般 | Trackback

律動無しのコテコテ停滞

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二年前にコロナ期間に出かけたザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」を流してみる。アスミク・グリゴーリアン目当てで出かけた。二十年ぶりぐらいのザルツブルクだった。しかし結果的にはあの状況下でよくやったと思った。あれだけの大編成を奈落でというのは特別なことだったからである。

演奏自体も劇場的な管弦楽団であるが準備は出来ていて、メストの指揮も劇場のそれとしては一流のものだった。しかし、こうして改めて聴いてみると、問題点は明らかだった。最大の問題は歌手との合わせ方で、その背景には歌手が独逸語歌唱を修めていなかったゆえに、歌詞と音楽が連携してという風にはなっていなかった。指揮者も楽団もそうした現代的なオペラの水準に達していない点もあるのだろう。

ザルツブルクのヴァリコフスキー演出のお決まりの小節前の芝居や音による演出は、この場合は最初の動機が出る迄の劇的な準備になっている。今回の復活祭の新制作では、ヴィデオが使われるのではないかと思うのだが、中々注目されるアインザッツの持って行き方であろう。

ザルツブルクではアスミクと同郷のステユンディーテの抒情的な声であったのだが、歌で場面を作る力はなかった。今回はシュテムメが歌うのでそのドラマ性と表現力には疑問の余地はないが、如何に大管弦楽団の上に通る声を準備できるかでしかない。なによりも妹役のファンデンへ―ファ―の声が上に乗るデュオは聴きものだ。これはザルツブルクとは比較に為らない。勿論母親役のシュスターも昨年の歌からするととても期待される。

しかし何よりもあれだけの大段の管弦楽を如何に声に当ててくるかであって、指揮者のペトレンコが凝縮した音を出させれるかでしかない。可也点描風に当てて来れるは、昨年の「影のない女」以上にやはり「サロメ」のコムパクトな音響が目されているに違いない。

そこで特に注目されるのはシュテムメである。元々声量足りないのだが、特にこのエレクトラ役はドラマティックのみならず、抒情的に下で歌うこともあり、そこで何を語れるのか、どのように管弦楽が付けるのかが聴きどころとなろう。

手元のベルリンで録音されたポラスキーの歌で母親役をマイヤーが歌ったものがあるのだが、今回は後者はシュスターが歌うのであまり問題はない。ポラスキーは乳母役で聴いているのだが、シュスターに比較しても柔軟に歌える歌手ではない。もう一度聴いてみる。

前半を流してみた。先ずは制作録音ということもあってウィーナーフィルハーモニカーとは比較できない程座付き楽団が上手い、そして指揮もアーティキュレ-ションが明晰だ。しかし、マイヤーが出て来てさらにこてこてのアーティキュレーションで流れを止める。これで一人舞台も作っていたのだが、晩年のように二流の劇場ではとても酷い公演になっていたことはよく分かる。眠くなって聴きとおせない。

そもそも指揮者が流れない音楽を作ってそこにマイヤーが歌うとなると最悪である。ドイツでも評価する人も少なくない歌手であったのだが、一流ものしか訪問しない私にとってはあまり印象に残る舞台がなかった歌手であった。要するに流れる音楽でないと我慢できなくなる性質なのだ。(続く)



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
りっしん偏に生まれる 2023-04-02 | 音
# by pfaelzerwein | 2024-03-21 22:19 | | Trackback

一くさりからの芸術

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承前)ブラームスの歌曲の全貌が示された。ゲルハーハーと伴奏のフーバーあっての網羅である。そのプログラムはブラームス研究所所長のザンドベルガー教授が先乗りでケルンで聴いてきていたようだ。その話しは当日はなされななかったのだが、講演弁者の歴史家のオスターハムメル教授の話しにその枠組みが押さえられていた。

つまりヨハネス・ブラームスは19世紀後半の大スターであったリストのような売れっ子ではなくて、ピアノで世界中を演奏旅行特に北米で招かれてというような音楽家ではなかたっという事だ。これが何を意味するかというと、ハムブルク生まれの音楽家が当時の音楽都市であったライプチッヒとは違ってヴィーンに居ついて、そこから仕事がてらに各地に旅行していた音楽家の足場を探ることになる。

ヴィーンという帝都が何を意味するか。それはハプスブルク帝国が植民地を抱えるということで、その帝都に文化が集中するということにもなる。同じ植民地でもアフリカやシナなどをその帝国に抱えるフランスのインターナショナルなサンサーンスとの比較となる。つまりパリとの差異でもあり、ロンドンとの差異ともなる。

これでブラームスの音楽の特性が形作られている。そこに表れる東欧のジプシーの素材も民謡風とされるそれらも同じように素材として扱われる至極当然さでもあって、ハプスブルク帝国自体が講演の主題であったグローバリズムでもあったという事だ。

同時に時代的に軍楽の音楽が19世紀後半の交響楽団よりも立派な音を出していた事実もあり、18世紀のセレナーデなどがより野外音楽会においてより大きな意味を持つ催しものとなってきたということでもある。ブラームスとヨハン・シュトラウスとの関係も知られているが、後者はプラターの公園で大々的に催し物を行っていたのだった。

さて初期の創作から晩年のそれへと並べられた歌曲のプログラムは、その敢えて二流の作者の詩に音楽を付けたことにもよくその特徴が表れていて、必ずしもそこには高度な文化的な栄華を誇っているというものではないという事である。

そのように二流のテキストにはその言葉が与えるだけの表情があって、作曲家が語るように作曲によってはじめてそこになにかが生じるということになる。これが、ブラームスの歌曲の特徴であって、テキストの文字面を追っていても決してそのような高度な芸術とはなっていない。そこから作曲が始まっている。

それは冒頭に置かれた作品14‐8の「憧れ」に顕著な和声の一鎖で以って、若しくは友人グロートの四つの詩の有名な雨の歌の雫のリズムで以って、簡素な芸術が形作られる。そしてト長調の同名のヴァイオリンソナタ一番として高名な動機となるのだが、それが歌曲集作品59にも残響として繰り返されている。クララ・シューマンの末っ子でヴァイオリンを弾くフェリックスが若くして結核で亡くなりクララへの慰めとして書いたとされる動機がこうして歌曲に響く。

ブラームスにおいては、それを継ぐヴェーベルンのように一つの言葉やそのシラブルへの響きとはなっていないのだが、既にたとえそれが民謡的な要素をベースとしていようともそこには晩年の交響曲に表れる様な音程とリズムによる世界が開かれようとしている。(続く)



参照:
歌曲の会で初めて聴く 2024-03-14 | 生活
演奏実践の歴史的認識 2024-02-18 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2024-03-20 21:50 | | Trackback

春の野のような風通し

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散髪を済ませた。生憎、上手な人はおらず、髪結いやり手婆の仕事だった。それでも以前よりはよくなったのは、上手い人が土台を仕上げていて、それを踏襲する形でバリカンを入れるからだ。鋏で揃えるのも大雑把だが仕方がない。そういうのに限ってドライヤーなどで形を整えようとしたりする。

最初だけでもよければ良しとして、次にハイデルベルクに出かける時にどのようになっているのかぐらいであろう。初夏に早めに行くしかない。コロナでの洗髪してからの決まりが無くなったので、先ず始めてから売り上げを上げる為にも、途中洗髪した。揃えるやすいのかもしれないがよく分からない。バリカンにはウェットカットはないというのも分かる。

兎も角、春の野のようにしてくれと頼んだので、地肌が見える感じになった。今度はお陰で頭皮が緩くなって、栄養が回りそうになった。髪の調子がよくなるかもしれない。野の地面のようにである。その影響から眼の廻りも凝りももう少し取れてくれると嬉しい。コロナ後の酷い時に比較すると、新しい眼鏡の影響もあるが大分眼の周りの緊張が緩んできている。もう一息かもしれない。コロナ禍は健康的にもまだ完全には回復していないと思う。不幸中の幸いはワクチンを三本しか打たなかったことぐらいか。

週末にかけて摂氏20度近くになってくる。未だ来週の聖週間は暦通りに一桁になって寒いのだが、復活祭は直ぐそこである。夏タイヤ交換も予約してあるので、あとは新車の発注だけだ。

壮行演奏会に続いて、ルツェルンの音楽祭の券も押さえた。久しぶりに最上階も一枚購入した。アルテオパーでの良い席があるので、二枚ともランクを下げて、その差額でアルテオパー分が殆ど賄える。楽曲とその音響を考えて席を選定した。

日程が決まったので再び予約してあるアパートメントを確かめる。昨年よりも価格が上がって250ユーロ程である。部屋も狭くて、決してよくはないのだが、場所を知っていて、地下ガレージも分かっているので、新車で走って行っても全く問題がない。当分は駐車場の場所とか屋根付きとかも決定要素にはなる。往復の燃料代などを入れて700ユーロ程の旅になるのか。

復活祭が終ったら来年の旅行の計画もぼちぼち立てておかないといけない。先日の講演でブラームスが、上手に仕事を入れて各地を回っていたとあった。ブラームスほどいいところを旅行して滞在している作曲家は知らない。

移動範囲が比較的限られている人ほど知る人は知る所に滞在している。全く知らない土地柄を除いては土地勘が出来てくるのでどの辺りに滞在したらよいのか、次の機会にはあの辺りにと思っていたところが増えてくる。要するに欧州内は大体あそこ辺りというのが決まってくるのである。



参照:
独最高の赤ワインの旨味 2024-03-19 | ワイン
旅絵日記一時帰宅編 2023-09-02 | 雑感
# by pfaelzerwein | 2024-03-19 23:21 | 雑感 | Trackback