天才も実践から学ぶ

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承前)「修道女アンジェリカ」のフィナーレへの流れを聞いている。改めて興味を持ったのは、ミュンヘン「三部作」イタリア語初演での三日目の映像についての様々な意見を目にしたからだ。一つは、アンジェリカを歌ったエルモネーラ・ヤホファン側からそのカメラの切り替えに批判的な声が上がっているからだ。要するにヤホからキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽団へと切り替わってしまうことへの不満の声である。映像のカメラアングルに関しては永遠の問題で、マルティチャンネル映像にならない限り解決されない。音声のようにベストアングルが無い。

そこでヤホの歌うコヴェントガーデンのヴィデオを見つけて、更に今回の初日の音声を比較する。これはとても面白かった。こうでもしないとヤホ女史がインタヴューで語り、自らもそのインタヴューをリツイートするヤホの芸術「感情を人に伝えることが何よりもの喜び」からの呪縛から逃げ無くなれるからである。彼女は舞台でその感情を偽って作ってもそれは直ぐにばれると、それを改めて広報するのだから、可成りの拘りの人のようである。

先ず先日インタヴューで語っていたこの役に初めて挑んだ時のヴィデオを聴くと、恐らくパパーノ指揮で間違いないだろうが、全く異なる歌唱で、その演出にも関連しているのだろう可成りおとなしい ― その後よりドラマティックになったと自ら語っている。管弦楽は下支えするかのように思い切って鳴らしているのはこの指揮者の特徴のようだが、更に声が小さく聞こえる。丁度今回の二日目にペトレンコが鳴らしていたのを彷彿させるのだ。再び、三日目の音を聞くとやはりその表現の強さは全く異なっている。そして音にフィルターを掛けられたヴィデオも消去されるまでは観れる ― いずれは部分だけでも劇場からオフィシャルで出して貰いたい。

そして初日の録音を聞くと、可成りテムポもリズム取りも変わっていて驚いた。印象からするとヤホの歌の正確さをチェックしないといけないと思っていたのであるが、実際は異なった。この初日の歌は比較的コヴェントガーデンのそれに近く、自身のレパートリーとしてものにしている楽譜だった。そしてペトレンコ指揮のそれがせかせかしていて十分な拍が取れていない。歌のアーティキュレーションを見れば明らかなのだが、ペトレンコは出来る限りセンティメンタルにならないような拍打ちとテムポを意図したとしか思えない。それゆえに余計にヤホが頑張ったというのが初日の成功だったようだ。そこに聴く側は一種の危うさの様なものを感じていたのは間違いなかった。

そして再び三日目のそれに戻ると、管弦楽が歌にしっかり寄り添うようなつけ方に代わり、その三拍子の弱起の拍が強調されることで全く異なった。するとアーティキュレーションを超えて、リタルタンド、ラレンタンドなどがまた別な意味を持ってくる。歌詞の表現の幅が広がるということだろう ― この点に関してはイタリア語がそれほど得意ではなさそうなこの指揮者への僅かばかり残された気になる点だった。そうした拍打ちをすることで明らかに歌の流れが良くなっている。それと同時に思いがけないほどの表現効果が生じていて、まさしく印象主義から表現主義へとの流れを「パルシファル」以降の直接のそれとして実感させることになる ― 恐らくこの辺りもこの指揮者のレパートリー選択に関連していることなのだろう。勿論、リヒャルト・シュトラウスや「春の祭典」初演のプッチーニの体験などが強く影響していることは改めて言及する必要はないだろう。

ここからは勝手に想像するだけなのだが、キリル・ペトレンコの喝采を受ける映像の様子を見ていると、上から改めてピット内の恐らくコンツェルトマイスターリンに業務連絡をしているようでもあり、気になることを頭で反芻していたようでもあり、何か完成という顔付では全くなかった。この楽曲なども加味して三回目の公演での放映を決断していた訳だが、どうしてまだまだ課題が解決されていないということなのだろうか?確かにこの部分の初日から三回目の変化を見るだけでも、想定以上の変化があった。

本題の歌手と指揮者に関して言及すれば、その喝采を受けている舞台での様子を見ていてもその両者によっては緊張関係が見て取れる。それゆえに、ヤホが三回目に想定以上の反響に驚いた表情を示している事情が読み取れないか?その結果、歌手も指揮者も想定していなかったぐらいの音楽芸術的な成果が生じたのであると思う。彼女のこのレパートリーにおける表現は完全に深まったに違いない。今回のイタリアオペラに関しては、ジークフリートを歌ったシュテファン・フィンケなどの歌手自身のイメージとの齟齬などの発言とは違って、イタリア言語であることも考えれば、天才指揮者でさえ実践を通して学ぶことが少なくないのではないかと思った。いずれにしてもこうして初めてプッチーニの音楽的価値を学術的な評価から抜け出して完全に実践で示したのではなかろうか。まさにこれが哲学用語としてのAufhebenである。(続く



参照:
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-27 23:35 | | Trackback

「キリストは神の子」41%

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クリスマス二日目の休日だ。頂上まで往復してきた。日の出前からベットの中で様子を窺っていた。陽射しが出てくると思い切りが付いた。靴紐をしていると足音が聞こえて爺さんが目前でUターンしていった。あの爺さんと並走するのかと思っていたがよかった。それでも息が落ち着いていたのでこれはと思っていたのだ。久しぶりの山登りでゆっくりと爺さんにあやかって息を上げないように走った。上部に至ると霧雨の様な感じになって来て、遅くならないでよかった。それでも足が疲れた。本日は洗濯しなければいけない。クリスマス前の新聞に載っていた調査が面白い。キリスト教への意識調査結果である。

戦後直ぐには90%の教会加盟率だったのが、統一の時には40%の東ドイツ人を合わせて72%だった。そして今は55%に低下している。これは外国からの移住者によるのではなく教会離れが激しいからで、教会に属していてもその三分の二しか教会にはいかない。つまり国民の三分の一以下しか時々も教会に行かないのである。その殆どがクリスマスか、冠婚葬祭だろう。

1986年には56%の人が「キリストは神の子」と信じていたが、西ドイツで現在41%しかいない。「神は世界の創造者」は47から33へ、「復活によって神の国」は38から28へ、「三位一体」は39から25へ、カトリック信者でも34%しか信じていない。このような数字を見るともはや謂わんかなであるが、それでも63%が「ドイツはキリスト教の国」とみている。

この間の推移をある程度体感してきているが、一番合点がいくのは、「キリスト教の国」の意識が2006年ごろに一旦落ちたが再び上昇傾向にあることだろう。信仰を意識することで、実際に「超絶の存在」を48%の西ドイツ人が信じていて、僅か6%のモスリムを含めて一神教的な思考形態は根付いている。増加している22から30への「天使信仰」が面白い。漫画か何かの影響か?

新聞には新旧合体の教会運動の影響も触れられているが、やはり2006年ごろのマルティカルチャーブームの洗礼を受けたともいえる。このアンケートはどうもそれこそ一神教的な視座からの設問しかないようだが、ここから外れた東ドイツのマルキストを除くと多神教特に仏教の影響はかなり多いと思う。その他西ドイツの58から46へと減少した無神論者でそのうちカトリック者の69から65に対してプロテスタントでは51から54へと増加していて、脱プロテスタントとその集中化に言及される。恐らく、世界的な傾向での原理主義者と隣り合わせなのだろう。

要するにクリスマスの飾りつけも何もかもが、日本の初詣やクリスマスケーキなどとあまり変わらない家庭がかなり多いということである。23日の夕食は冷たい食事だった。ミュンヘンで購入したテリーヌ類を片付けた。今年の賞を獲得した2015年産のゼーガー醸造所のピノノワール「シュペルメン」を開けた。二日掛けて飲み干したが、やはりまだ開くには瓶熟成が必要だと認識した。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
民主主義を叫んだ独裁体制 2016-07-22 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-26 21:44 | | Trackback

旨味を引き立てる香料

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毎年のように栗入りザウマーゲンを食した。ザウマーゲンと言っても小さな量なので膀胱入りだ。ザウブラーセンというのが正しいだろう。そとの包装ごと温めたので味は抜けなかったが、逆に膀胱の尿臭さが少し出た。日頃から腎臓などを食しているので気にはならないが、客人に出すときには注意した方がよい。そのままお湯につけたらそれは抜けてしまうが、味も少し出てしまう。やはり胃袋の方がいろいろな意味で有利かもしれない。とは言っても二回目以降は焼くので全く気にならない。シナの食膳風に言えば、これで膀胱も元気になる。しかし久しぶりに明け方にトイレに起きた。

ワインはいろいろさがした挙句、まだ早いのだがエティケットをナメクジにやられたウンゲホイヤーの2011年物にした。2011年産は分厚くて過熟気味で、リースリング愛好家には駄目な年なのであるが、それゆえに期待が出来ないことから後回しになっていた。初日の感じでは酸が弱まってきているので飲み頃かとも思った。充分に熟成した旨味はデキャンタ―で出てきているので、二日目以降が楽しみだ。流石にウンゲホイヤーはスパイシーさもあって分厚いだけの単調にはならない。

その前に開けた2013年のボェーイックがまだまだ酸が効いていて、熟成となっていなかったことから、もたないとされる2013年が意外に長寿しそうな印象がある。やはりリースリングは陽射しよりも、果実の健康だけで暑い年のものは駄目だとはっきりした。2003年、2005年、2011年、2015年などは駄目だ。要するに赤の良い年度である。

栗が今年は特別に大きなのが入っていて満足だった。ヴィルシングはいつもは白菜などで代用しているのだが、大振りに切って長く火を通すと思いがけない甘みで驚いた。炒めるときに若干焦がしたので残念だったが、おいしくする調理法が分かってきた。これだけ甘みが出ればナツメグが合うのは当然である。白菜の倍以上の価格だけのことはある。まだ中の柔らかい部分が残っているのでもっと上手に調理してみよう。

食事の時には、前日に生中継録音して、また翌日にDLしたヴィデオの音源などを内容確認に流した。オンデマンドからDLしたのはMP4で3時間13分で5.9Gしかないので心もとないが、動画が4000kBit/sのHDで通常のストリーミングではDL出来なかったのだが、MP4としてDL出来た。5時間ほど掛かった。やはりネット回線を良くしないと生では流れない。それでも個人的には画像は二の次なので、音声の48kサムプリング189kBit/sでは足りない。因みに生で録音したものは48kサムプリングなので3GBを超え、録画の方は11GBを超える。生放送録画は、6923kkBit/sながら画像は悪くても、44.1kサムプリングながらFLACでの音声なのでこちらはCD並みで悪くはない。

MP3ならば最低320kBit/sは欲しい。クリーヴランドの放送のアーカイヴとしてピエール・ブレーズ指揮のメシアンとラヴェル、ドビュシーのプログラムが上がっている。この放送局の面白いのはストリーミングの方がオンデマンドよりも音質を落としていることだ。

朝から頂上を目指そうかと思ったが、腰などに違和感があるのでもう一日延ばすことにした。天気も良くなりそうだ。食事さえ食べ過ぎなければ大丈夫だ。そろそろポルポーラの「ミトリダーテ」も調べておかないといけない。資料は限られていてイタリア語のリブレット以外にはあまりない。それならばモーツァルトのそれに耳を通していた方がよいかもしれない。

ミュンヘンからの中継のサイトにオペラアワードのノミネートのリンクが張られていたので書き込んだ。上から合唱は、タンホイザーの圧倒的なそれでバイエルン国立歌劇場合唱団、指揮者は更なる進化を導いたキリル・ペトレンコ、女性歌手はいまだ嘗て経験したことのない歌唱を聞かせてくれたエルモネーラ・ヤホ、演出家にザルツブルクでのピーター・セラーズ、男性歌手にはこれまた高度に歌詞の響きを追及した歌唱のクリスティアン・ゲルハーエル、制作は「タンホイザー」か迷ったが、想定を超えた大反響ということで「三部作」、管弦楽は今回も未知の領域へと大きな進化を披露したバイエルン国立歌劇場管弦楽団、若手歌手にはザルツブルクでの名唱と「ばらの騎士」での口パクを聞いたゴルタ・シュルツとした。このブログで言及したことばかりである。



参照:
胃袋がザウマーゲンに 2012-12-27 | 料理
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音

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# by pfaelzerwein | 2017-12-25 19:35 | 料理 | Trackback

また泣いちゃったよ

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承前)「おいちゃん、また泣いちゃったよ」と寅さんなら泣きべそをかきながら言うだろう。プッチーニのオペラで涙するなんてつい先日まで思ってもみなかった。あんなセンティメンタルなお話しで、それも今回は三つの一時間ドラマでしかない ― 「泣いて堪るかよ」程度のものである。

初日のラディオ放送の演奏よりも全ての面でよかったと思う。完成度が高かった。ストリーミング放送の数時間前からちょこちょこと準備をしていた。途中初日の録音らしきが出力テストで使われていた。あまりにも管弦楽が微細で弱音で奏するものだから全体のダイナミックレンジのバランスを調整しておかないとクリップしかねない。実際に音声を録音すると、驚くことに一幕「外套」で最大のレヴェル―1ほどに達していた。浮気の二重唱の辺りらしい。

初日も二日目もただ一人不満のあったスターキャストのヴェストブロックもヴィヴラートを揃えてきたように感じた。この辺りの実力となるとハルテロスの時と同じでちょっとした指摘で調整可能なのだろう。少なくともヴィデオでの演技も含めるとリーとともに魅せていた。コッホの歌と演技で感動したが、管弦楽は二日目よりも更に巧妙になっている感じだった。

ピットが映されると明らかに二日目とは違う陣営が乗っていた。稽古の音から聞いていたので興味があったのだが、オーボエが山賊兄になっていて ― 二日目はベルリンフィルで吹いた人が入っていた、そして第一ヴァイオリン二番には若いシュルトハイスに代わって金が入っていて、後ろにはいつも彼女と並んでいる若いブロンディーヌが入っていた。そしてどうも上からは確認できなっかったがその音からコンツェルトマイスタリンが全公演を務めている様だった。要するに女性陣を並べたのがこの日の演奏で、その細やかさと共感に満ちた一糸乱れぬ弦合奏になっていたと思う。プッチーニのあのしなやかさは女性的だと思った経験がある。一幕の軽いステップ感も女性ならではだ ― 道理で彼女らが入ってくるとかしましの声が聞こえていた。

なるほどマイクロフォンを通した響きと更に画像に邪魔される視聴と生の体験は印象が異なる面があるが、生放送で音声の録音に集中したので少なくとも視覚的な影響つまりカメラワークの影響からは逃れられる。やはり聞き返すと演奏の細やかさがよりはっきりする。想定通り、本放送の映像がスムースに流れ難そうなので、ツイッターで教えてもらったアジア向きのアドレスに最初から切り替えた。そのお陰で完璧に ― 一か所三幕後半でスイッチングの放送事故があったが ― 音も映像も流れたが、映像は強制的な英語字幕なので字幕無しをオンデマンドで録り直さなければいけない。

それにしても確かに二幕「修道女アンジェリカ」でのヤホの声は大きくはないのだが ― ヤホ、ヤホというと何か美保とか瑞穂とか呼んでいる感じになるが、こうした放送で聞くと全く威圧的なシュスターの歌声と比べても決して引けを取らない。二日目の下支えする管弦楽よりもこのストリーミングでは声楽と並行して歌っている風で更に細やかな歌になっている。声も出ていたがアンサムブルとしてのバランスが向上しているだけでなく、ヤホの歌もより技術的に正確な方へと改善されている。やはりペトレンコ指揮の下で皆が学ぶのだ ― いづれオペラは振らないようになるといってもオペラ界にバーデンバーデン祝祭が恋われるようになるのだろうか。

三幕は最初から更にネジが掛かっていたが、残念ながら代役が袖で歌ったことから若干テムポ感が鈍った感じはした。代役の歌は全く問題なく、来年のオペラフェストでは彼が歌うのだろう。二日目に比べると全てにおいてアンサムブル重視の方向へとより繊細な方向へと舵を切っている感じだ。その意味では、カメラワークと代役の問題があり喜劇性は二日目の方が強かったと思うが、最後の落ちの辺りはとても素晴らしかった。やはり一幕二幕で完全に泣かせるぐらいでないとここまでの効果は出ない。

プッチーニがその効果を願ったというよりも、今の日本語流に言わせると共感力(EQ程度)が試されるということになる。演奏家自身がそこで効果を狙っていたならば決してこうした効果は生じない。キリル・ペトレンコは、この作品を取り上げるに際してあらゆる版の研究もしたという。プッチーニの創作の真意に確信を得るためには必然だったのだろう。楽譜台にはリコルディー版が乗っているようだが、そこまで研究しないと、こうした楽曲が如何に表面的なキッチュなものでお涙頂戴の効果を狙ったものでしかないのかどうかも分からないのである。(続く




参照:
"Il trittico" - Recording from December 23, 2017, The production will be available as VOD for 24 hours starting from Dec. 24, 11:00 AM (CET) until Dec 25, 11:00 AM (CET). (Bayerische Staatsoper TV)
不覚にも嗚咽が漏れる 2017-12-19 | ワイン
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-24 20:27 | | Trackback

フルトヴェングラーの響き

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これで漸くクリスマスのストレスから解放される。毎年のように暗い広場の市場で魚のテリーヌを入手して、パン屋に寄り、肉屋で注文のものを回収して、買い物が済んだ。水曜日まではこれで籠れる。その間に頂上まで一度二度走れれば満足だ。

昨晩はミュンヘンのヘラクレスザールからのライヴ中継を聞いた。ブロムシュテット指揮のバイエルンの放送交響楽団の演奏である。食事のバラ寿司を作りながらなのであまリ真剣には聞けかったが、あまりにも不細工なジュピター交響曲の演奏なので録音していたものを直ぐに消した。なるほど同僚として挙げていたようにハーノンクールなどの奏法を取り知れていて、若返りを試みているが全くものになっていなかった。

日本などでは「この交響楽団は欧州有数」と恐らくその管楽器ポストなどがARDの優勝者の勤め先になっていることなどからか、それともあの強引なドライヴのヤンソンスの楽器になっているからなのかは知らないが、基本は昔から変わらず弦楽などのアンサムブルはあまりよくない。それがあまり上手くない棒で弾くとこうなるというお手本のようなもので、ヴィーナーどころかその面ではゲヴァントハウスなどとは比較にならないことを再確認した。流石にドサ周りのバムベルクの地方交響楽団とは違うが、遠くから出向いて聞くほどの管弦楽団ではないのは昔から変わらない。

老指揮者の管弦楽団次第の演奏は仕方ないのだが、その話しのインタヴューは聞き逃せない ― 体調はベルリンの時より大分良さそうだ。これほど話の巧い音楽関係者は他にいないと思う。流石の伝道師だ。今回もフルトヴェングラー話しが興味深かった。ブロムシュテットは、同じように自身で聞いたトスカニーニやブルーノ・ヴァルターとの比較でフルトヴェングラーを語るので、我々にとってはとても貴重な証言である。なによりも専門家であり、アメリカ人ならば他の指揮者と同時にフルトヴェングラーは聞けていないからである。

「フルトヴェングラーはロマンティックな音楽家で自ら作曲もして」と明らかに今でも通じるトスカニーニとは異なると断言している。これに関しては美学的な問題であるのでそのままは受け入れがたいが、それ以上に語り手の美学的な立場を反映している。そこで氏は、「自分自身はそもそも音楽学者志向」だからと述べていて、「フルトヴェングラーのテムポとか譜読みは最終的にその響き作りに最も都合のよいようになされている」とこれはとても重要な発言をした。そこで、例えばトスカニーニなどの譜読みとの比較になっていて、作曲家でもあるフルトヴェングラーの第二の創造であるというような意味合いと現在のブロムシュテット自らの立場を表明している。

メトロノームの半分しか刻まないフルトヴェングラーについてだけでなく、モーツァルトのテムポの可能性に関してもライポルト氏が質問していて、それに対して楽想ごとのテムポの相違とパウゼに関しても言及していてこれもとても面白かった。結局は最終的にキリル・ペトレンコの指揮のように技術が語ることの方が重要なのである。

我々がこの発言から驚愕するのは、やはりそのフルトヴェングラーの響きへの言及であり、まるで心霊写真かのように、なぜかフルトヴェングラー指揮の演奏録音は音がしっかりしない現象をいつも体験している人が「あれか」と思うその響きだ。この証言はやはりとんでもなく貴重だと思った。特に当時のドイツの音楽界を考えると、一方では新機軸のベーム指揮のシュターツカペレの様なノイエザッハリッヒカイトの響きがまさしくナチの芸術を音楽的に代弁していた訳だが ― 映像表現などともそのまま共鳴する、その一方でああした戦中から引き継がれる音楽芸術が存在した意味はあまりにも大きい。一体あの響きは何だったのか?

ブロムシュテットの譜読みの姿勢は、キリル・ペトレンコなどのそれにも共通する姿勢がみられるのだが、後半に演奏されたシュテンハムマーの交響曲二番においても87歳で初めて見つけて、それをやるか、やらないで終えるかの二者選択でやることにしたという、そのなんともこの人の人格を表しているのがまたその譜読みの姿勢でもある。これはある意味重鎮の音楽家にしてはとても危ういのであり、実際にその演奏にもそうした危うさが反映していた。

非常に実務的な態度であり、現場の空気をとてもよく伝えてくれる一方、その指揮の技術とか職業人としてのそれも可成り緩いな思わせるのだ。もう一域立ち入るとすれば、フルトヴェングラーのその響きというのは本人のエッセイなどを待つまでもなく、近代芸術音楽の構造の展開の根幹にある。一方では、和声関係からの所謂バロック音楽通奏低音に依拠する響きを古典的とする管弦楽運動が存在したことも事実であろう。この老指揮者が歌いそして解説するお話しが分かり易く格別面白いのは、まさしくそうした枠組みを一歩も踏み外さないからだ。それを芸術美学的に評価すれば、指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットがなぜ超一流から遠く、音楽先進国ではその話しの面白さに関わらずそれほど珍重されていないかの傍証になっていると思う。

今晩はプッチーニ「三部作」の三日目の中継である。日曜日にオンデマンドになるということもあり、映像はチェックだけにして音だけに集中して完璧に聞ければよいかとも思っている。今までの経験から動画の完全ダウンロードは難しいと思うからである。生放送の音だけでも完璧にDL出来ないだろうか。



参照:
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-23 20:26 | | Trackback

クリスマスの買い溜め

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眠い、また夜中に仕事を始めてしまった。目が覚めて連絡などをしているうちに、結局朝一番のポスト回収に間に合うように書類を整えることになった。完全に室内を動き回った。先週も事情は違え同じように夜鍋をしたが、二回も続くとは思わなかった。瞼が重くなって少しの睡眠ぐらいではなかなか治らない。昼間に頭がスッキリしないので効率が悪い。夜勤とか三部交代で働いている人もいるかと思うと到底勤まらないなと思う。

今年は日曜日がイヴで月曜火曜とお休みだ。だから大分様子が違う。金曜土曜で買い物を済ましておかなければいけない。ダルマイールでテリーヌを購入したので、これに付け合わせる野菜を買いたい。チッコーリは欠かせないか。土曜日にも魚類のそれも購入するので、両方に使うように上手く考えよう。魚のテリーヌを買いに行くには暗いうちから早起きして買わないと車が停めれなくなる。土曜日も早起きだ。

毎年恒例の栗入りザウマーゲンも注文してあるので、ヴィルシングなどのコール類も必要だ。ジャガイモも忘れてはいけない。卵も切れた。休みの間のヨーグルトなどもスーパーで買い足そう。混んでいるに違いない。

水曜日にスキーを取りに行こうと時間割などに余裕を見ていたが、タイを合わせている時に呼び鈴が鳴って、スキーが届いた。丁度出かける前でよかった。さもなければ無駄な時間を費やすことになった。それで一時間遅らして出掛けたが、今回はナヴィの調子が悪くて、それに気を奪われていて、トイレにも寄らずだった。どうもコピーしたCDRのミュンヘンの外輪と内輪の間の情報が読み込めていないようで、いつもと違う経路で旧市街にアプローチした。近づくと再びナヴィゲーションするだろうと思ったからだ。あれだけ通っていても市内の道は分かり難い。違う経路を通ることで土地勘を着けようと思ったが、まだまだ駄目である。一月二月は四回ほど通うことになるのでもう少し慣れるだろうか。先ずはCDRを焼き直してみよう。問題は帰り道にいつも北の環状アウトバーンに入ってしまうことで、昔のようにもしくは往路のようにニムフェンブルク城の前を通ることが殆ど無くなってきていることだ。そちらの方が近くて夜中は走り易いはずなのだ。帰り道のニムフェンブルクを入れればいいのだな。

今年はどのワインを開けるべきか?2012年と2013年産を軸に選択する。栗にはどれがよいだろうか。昨晩はミュンヘンで購入したいつもの牛ヒレウェーリントンパイに2015年のシュペートブルグンダーを開けた。もう少し後で飲み直さないと判断は下せない。酸が思ったよりも効いていた。

結局八百屋では17ユーロも支払ったが、お目当ての花を貰ったので満足だ。スーパーではバナナや瓶詰めのキャビア―などを購入して、更にアイスまで購入した。冷蔵庫には皆収まったが、クリスマス以降分まで食材がある。年末前までは買い物に行かなくてもよいかもしれない。今回は年末年始は一日が月曜日になるだけで、殆ど通常通りだ。



参照:
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
クリスマスの買い物終了 2016-12-25 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-12-23 03:59 | | Trackback

ペトレンコ劇場のエポック

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承前)ミュンヘンから帰ってきた。いつもなら旅行話から始めて、なんだかんだとその体験を回想する。しかし今度は三度目の公演も中継され、再び楽譜を見乍ら鑑賞できるので、その時にもう少し詳しく調べてみたい ― 凡人が準備中に想定していたことなどは天才は実践としてやり遂げていたのは間違いない。そのような細かなことよりもなによりも簡単に体験したオペラ鑑賞記をざっくりと認めておこう。

結論からすると、三幕「ジャンニスキッキ」が殊の外素晴らしかった。そして一幕「外套」は到底放送では聞き取れないほど繊細な内容だった。二幕はお待ちかねのヤホ女史の声が残念ながら初日のようには出ていなかった ― お陰で客席で号泣するような見っとも無いことにならなくてよかった。その分管弦楽が雄弁にドラマを支えていたが、若干次回の中継のための準備というような感じもした。それでも評判を聞いて駆け付けた人々は十分な喝采をしていた。因みに当日のキャスティング表にはヤホの名前の代わりにルート・イレーネ・マイヤーというちょい役とか合唱で歌っている人の名前が入っていた。案内所にはこれを尋ねる人が他にもいて、実際、真偽は確定不可だが、そこで確かめると「印刷ミス」という公式の情報だった。

「ジャンニスキッキ」が芸術的にも飛び抜けていたのは、そのコメディアデラルデ風の演出と、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」を想像するしかない偽後期ルネッサンスから初期バロックのそれを楽しめたからにほかならない ― とにかく「英雄の生涯」ではないが「ボエーム」や「バタフライ」だけでなく自作も含めて本歌取りを試みているようだ。予想通りに出だしは初日よりも快速だった。それでもオペラブッファ風に飛ばしたりはしない。プッチーニの音楽の行き着いたところだろう。例のヒット曲の歌も演出と合わせてとても良い出来で、歌ったロザ・フェオラという歌手は一流の人だと分かった。なるほど商業芸能世界でいつも求められているような歌唱ではなくて、全体の中での中々巧妙な歌なのだが完璧に熟していたと思う。相手役のパヴォロ・ブレスリィックという歌手も大したものである。しかし何といってもタイトルロールのアムブロジーオ・マエストリはその体格といい、声といい、この日の公演の目玉だった。まさしく、初日のヤホに続き、日替わり目玉連続公演である。これだけ上演の多そうなオペラであるが、様式的にも音楽的な成果も含めて中々これほど充実した上演はないのではないかと思った。

あり得ないという意味では、恐らく「外套」における管弦楽は、その精緻さでまるで昨年の「南極」世界初演に匹敵するような弱音で、王のロージェの横の席でも聞き取れないほどの音を弦楽が囀っていた。ゲネラルプローベから初日では殆ど印象派的な管弦楽と評されていたが、それには止まらない。それでも「南極」の時のように神経をすり減らすような弦楽にならないのは、しっかりとアンサムブルとして協和しているからで、このような管弦楽はオペラでは今まで存在しなかったのではなかろうか?この日の本当の縁の下の力持ちであり主役はバイエルン国立管弦楽団であった、そして音楽監督ペトレンコ以上に喝采を浴びていたことも記録されよう。

そのような繊細極まりない管弦楽がさざ波のように支えるものだから、大きな弧を描ての最後の破局への盛り上がりは尋常ではなかった。それがセーヌの霧が漂う中から始まり、背後のタイムマシーンで人々が過去へと、未来から過去へと一夜の中で行き来する訳だから、まさしくオールドファンには懐かしい米TVシリーズのそのままだ。これが音楽的な設計図である。予想通り、ヴォルフガンク・コッホは徐々に板について来ていて、どうしても「影の無い女」のバラックとその妻とのシーンを思い出してしまう。三幕まで決してシュトラウス的な響きも複調感もこの三部作には欠けない。それゆえに、初日への批評でも「落ち着かないヴィヴラート」とあったようにオランダの宝エヴァマリア・ヴェストブロックの今日的には荒っぽい歌がしっくりとこなかった。サイモン・ラトル指揮での共演は多そうだが、若干場違いな感が強かった ― 昨年イゾルテを聞いていて、その評判の悪かったことを後で思い出した。そこまでの違和感はなかったのはとても立派なヨンホー・リーの歌声で、しかしこのような管弦楽にはもう少し巧妙な歌唱が可能ではないかと思った ― 要するにバカでかい声で終わってしまう。

同じように声の力では二幕「修道女アンジェリカ」のミヒャエラ・シュスターが見事過ぎた。恐らく初日は小柄で華奢そうなエルモネーラ・ヤホが負けじと歌っていたのだが、流石にあれだけの鬼気迫る歌は毎回は続かないだろう。土曜日の中継に合わせてくるのではなかろうか。オペラ劇場通いはそれほどしておらず、初日も精々ザルツブルクに通ったぐらいなのだが、歌手陣に関してはやはり初日狙いというのがよく分かる公演だった。ペトレンコ指揮の管弦楽団に関してはどんどん良くなってくるのだが、これも劇場の常からすると例外的で、初日が一番緊張感があってよいというのは常識である。「南極」の世界初演ほどには、「ルル」の初日は、手探り感が強く、それほど特別ではなかったことも付け加えておこう。

ドイツの歌劇場の現代の歴史的エポックとして、ヴィーンのマーラー時代などと並んで、ベーム時代のゼムパーオパーとかが挙がるが、キリル・ペトレンコ指揮のバイエルン国立歌劇場はもはや歴史的な評価に達したと思う。オペラ評論として、今公演をして「永らくなかったような大成功制作オペラ」と評される意味は、勿論演出、音楽、配役を含めたことであるが、それは否定しようがないと思う。(続く



参照:
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
我々が被った受難の二百年 2010-04-04 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-21 22:27 | | Trackback

ヤホに表現の可能性を

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承前)ミュンヘン行の準備は大体整った。燃料も128セントだから受け入れられる価格だ。66Lで85ユーロであるから標準的な価格である。買い物帰りに入れたので、少々の雪道でも満タンで往復は出来るだろう。あとは購入する食料品を入れるアイスボックスを忘れないようにするだけである。

粘度が上がっていてエンジンオイル注意が出ているオイルを少しだけ入れておいた。200CCで効果があるかどうかは分からないが、帰宅まで注意表示が出なければそれはそれで気持ちがよい。少しだけ粘度が下がるだけでも走りやすい気持ちになるだろうか。燃費がよくなってくれると嬉しい。

FAZにプッチーニ三部作の批評が載っていた。それほど専門的でもないが、少なくとも以前のおばさんからすると、演奏者が読んだ時にそれが何かを語るかもしれない。演奏者とは何も音楽監督キリル・ペトレンコを特に意味しないが、全体のアンサムブルとして何らかの成果と聴衆のその受け止め方をそこに読み取れるのではなかろうか。

通常ならば少なくとも以前は公演前には敢えて目を通さなかったのだが、生中継を聞いていれば音楽的な成果は十二分に分かり、生で聞いて確認することはあまりない。ただしこうした音楽劇場作品は実際に体験してみないとその音楽劇場的な意味合いは実感できないものである。勿論演出自体はいくら写真を見ていても分かる訳でもないが、それに関してはこうした批評などを読めばある程度は想像がつく。それならば態々出かけて何を体験するのか?

批評では、アムステルダムのオフで活躍するロッテデベール女史は、コンヴィチニーの弟子らしいが、音楽劇場演出には批判的ということで、今回の演出もそうした新機軸とか何とかで批評されていない。その慎ましさはキリル・ペトレンコの音楽実践にも通じるということになる。面白いのは、この文章がペトレンコを取り巻く業界事情を暗喩して始めているところだ。

つまりペトレンコの様な芸術の徳は嘗ての話しで、今はコンクールなどに代表されるこれ見よがしの芸を飾り窓に入れて、更にアヴァンギャルドとして売るというのが新世界だというのである。それに比較するまでもなく、この音楽監督は美学的露出なんて言うことには全く興味がないようで、ミュンヘンのプッチーニ三部作においても、世界中がこれは新機軸だとか格別だとか喝采するようなことは殆ど強調しないとなる。

この前半の業界におけるその在り方は別にして、後半の芸術的なそれに関しての今回の公演でのコメントは、少なくとも体験するまでは敢えて反論も保留しておきたいと思う。そして、その具体例として「外套」における永遠に続く12拍子の印象を、もはやそこではセーヌ川の街はずれの騒々しい環境ではなくて、そこにまるで母親の胎内の羊水に浮かぶ胎児の遊泳の子守歌をイメージしている ― これはあまりに舞台に捉われた印象ではないかと思うが。要するに作品の本質に迫ろうとしているのだが、音楽的に導かれた結論ではない。

しかし音楽実践面に関しては、「歌手たちはペトレンコ指揮で歌えるのは幸福」であってと、音楽的核心の「修道女アンゲリカ」のエルモネーラ・ヤホに表現の可能性を慈しむかのような保護を与えたのはペトレンコ指揮の管弦楽団で、「メッツァ・ヴォ―ツェで歌い通して、最後に修道女のその安然の姿に火山の噴火を表現できたその効果はあまりに巨大だった」という。要するに管弦楽が音を潜めて演奏し得たということだ。

その他の二つほどの記事をリツイートしておいたら、ヤホ女史が見つけてくれて、今度は私の引用付きのものをリツイートしてくれた。フォローワーになるのは生で聞いてからと思っていたが流石にこれは外せなくなった。フォローする12人目のツイッターとなった。彼女の7010人目のフォロワーになったが、あまり反応が無いのは軒並み有名人をリストアップしている人だけの人が多いのかもしれない。昨日はオフの日に楽譜勉強のツイートが出ていたが、これは公演中に次の仕事となるとイメージが悪いと思ったのか消去したようだ。オフの日に気分転換に次の準備をしているのが興味深かったが、それを敢えてリツイートするのは避けていたのだった。(続く



参照:
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
心地よいだけでは駄目だ 2016-03-18 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-12-20 06:09 | マスメディア批評 | Trackback

不覚にも嗚咽が漏れる

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フランスのスーパーで購入したボーヌの2005年物を週末に開けた。結論からすると、良年の2005年ならばドイツのシュペートブルグンダーでこの程度のものはある。要するにもう一つ上のものからすれば繊細さが殆どなくつまらない。しっかりとコクのあるタンニンの効いたワインならばメドックの方が間違いなく上で、その鋼の様なストラドヴィヴァリウスのような芯が無い。やはりピノノワールに繊細さが無いとほとんど飲む価値が無い。今までボーヌ周辺のそれもいくらかは飲んでいるが全く満足したことが無いのである。

折からのプッチーニ「三部作」ミュンヘン初演の生中継に合わせて二日目はフリカッセを手元の材料で作って、簡単な食事とした。予想していたように二回の休憩があると思ったら、一回しか休憩が無かったので、「外套」の最初で食事をした。

承前)不覚にも号泣しそうになってしまった ― まるで復活祭に体験したペトレンコ指揮の「悲愴」三楽章の後の様な嗚咽になる。プッチーニのセンティメンタリズムのちんけなお話しのオペラである。だから一幕「外套」をヴェリズモとか何とかいう以前に、プッチーニのメロディーが安物のソ-プオパーにしか聞こえないのだが、流石にミュンヒェンでの初演は違った。

敢えて「幕」と表現したが、やはりキリル・ペトレンコの譜読みと実践は素晴らしく、二幕「修道女」アンジェリカでも「外套」に続いて、ラディオを聞きながら嗚咽が漏れそうになった。主演のエルモネーラ・ヤホの歌にも打たれた ― 放送後に直ぐにリツイートしたらご本人かマネージャーが直ぐに反応してバイエルン放送局のインタヴューのリツイートに「いいね」をくれた。そのインタヴューとは個人的なこの役柄との宿命的な繋がりを最後に少し触れたものだ。兎に角、このあまり上演されない役を歌いこんでいて十八番にしていることは間違いなかった。

そして先に触れた三幕「ジャンニスキッキ」での「助走」は、なるほどと思わせる実務的な解決法で、アレグロ132を遅く始めていて、テムポリタルタンドとテムポで上手に帳尻を合わせていた。ここも詳しく見てみたいが、第二回目の上演では早くするのではなかろうか。要するに細かな流れの変化を克明に音化することを先行させていた。まさしくこの辺りはこの天才指揮者にはお茶の子さいさいなのだ。まさしく、ヨーナス・カウフマンがペトレンコを評して「キリルには、知と情がとても良く配合されている」というそのもので、まさしく自由自在の棒の特に二幕における抒情性の表現は神技としか言えない ― バイロイトでも示した通りだ。その分、三幕の始まりは若干喜劇的な要素はなかったのだが、ただのドタバタ喜劇にならずに、一幕・二幕との繋がりがとてもよかった。詳しくは生で体験してからである。戸外の教会広場では待降節の音楽が流れていた ― まるで「ラボーム」の様な気持ちだ。(続く



参照:
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
価値のあるなしを吟味する 2017-04-05 | ワイン
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-19 00:39 | ワイン | Trackback

迫るミュンヘン初演

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承前)ユロウスキー指揮「ジャンニスキッキ」を聞いた。期待していただけに失望した。十数年前の変則的な公演だから仕方がないかもしれないが、管弦楽団の鳴らし方が悪い。交響楽団であるから流石に音の粒立ちや明白さはあるのだが、音符を歌に合わせる作業が出来ていない。これに関しては、キリル・ペトレンコ指揮のオペラ公演との比較になってしまって、それも現在と過去のそれであまりにも気の毒なのだが、管弦楽を厳密に弾かせない限りは、ケント・ナガノに代表されるような交響楽的なオペラ公演となってしまう。

なるほど音楽の運びは上手であり、しっかりとおいしいところを読み込んでいるのだが、そうした「助走」が有機的な音楽になっていないので、まるでプッチーニは効果のための効果の音楽を作曲したようにしか思われない。その意味からすると、シャイ―などがスカラ座を振ったものの方が如何にもオペラ的な音楽でとても自然なのだ。

楽譜を見て聞いていると、ここはペトレンコ指揮ならこういう風にというのが分かるので、とても物足りないのである。偶々同じ年齢のロシア系ユダヤ人というだけで同じように並べられてしまうとあまりにも不幸である。その他の指揮者と比較すれば若い時からとても良い仕事をしていることには間違いなく、この域に達している指揮者が他に浮かばない。やはり指揮の技術が秀逸というのが違うのだろう。この演奏でも、フィレンツェから手を切り落とされて追放されるぞの部分での音楽的な作りのは見事であり、やはりこの指揮者はオペラ向きだと思う。

そのようなことで益々今晩の初日の放送が楽しみになってきた。私がペトレンコ流に読み込んだところをその通りに演奏出来るのだろうか?特に歌のつかない早いパッセージでの細かな流れの変化や、上の演奏では感覚的に止揚がつけられていた個所を楽譜通りに、つまりプッチーニの意思をしっかり音化できるのかどうかである。

ちょうど真ん中あたりに例のヒット曲がある訳だが、その前後の更に前へと準備がなされていることが分かってきた。勿論動機的な表れから当然なのだが、リノの歌の辺りから音楽的な準備がなされていて興味深くなってきた。

なるほど、オペラ経験豊かな作曲家が晩年に作曲した楽譜であるから、座付き管弦楽団がなにが出来て出来ないのかは熟知している筈だが、本当にそのような流した作曲がなされているのか、それともしっかりと書き込まれているのかが分からない部分も少なくない。そのあたりは、ペトレンコ先生の演奏を聞いてみないと何とも言えかねる。少なくとも今日まではそこまで合わせた演奏はなされていないようだ。この三部作のミュンヘンでの初演*を楽しみにしよう。(続く

*正確には三部作は1959年12月20日にプリンツレーゲンテン劇場でドイツ語で上演されているが、国立劇場としては初演なのだ。



参照:
大人ではない子供の世界 2017-11-29 | マスメディア批評
週末から年末年始へ 2017-11-26 | 生活
趣味の悪くない劇場指揮者 2017-12-08 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-12-17 23:30 | | Trackback

覗き込んだ世界の裏側

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朝から暗かった。天気予報通りだったが、パン屋に行けなかった。寒いからである。気温はそれほどではないが、走るかと思うと寒くて駄目だと思った。ゾクゾクするというか、芯から冷えるというか、熱があるというほどではなかったが、これは無理してはいけないと思った。早くから起きていたが、ベットに戻って、昼過ぎまで寝た。このようんなことは久しぶりだ。前々夜の徹夜仕事が堪えたのだろうか?

祝杯を挙げた。文鎮化のタブレットが完全復活した。大懸案のMACアドレスも書き加えて、WiFiでも認証可能となった。三時間ほどは掛かったかもしれないが、二種類の可能性を交代に試しているうちにゴールにたどり着いた。アドレスの件は日本語では見かけなかった。恐らく、業界人は自粛しているのだろう。つまり書き換えとなると犯罪であり、とてもグレーゾーンだからだ。要するにデジタル認証などは、広告の排除やウイルスの開発やコピー防止などと同じで猫とネズミのおっかっけこなので、要するにネットビジネスだけでなくてデジタル技術産業などは砂上の楼閣でしかないことを、自ら体験することになった。

今回の大きな成果に、今までは開発者向けの巨大ソフトをDLしないとできなかったことが、小さなMiniADBというので代わることが分かって、開発でなくPCでコマンドを出すだけならばこれで十分なことが分かったことだ。それで初期化から何から全部可能だった。これは大きい、残しおいていつでも対応が可能だ。

MACアドレス書き込みソフトでは、最後の工程で適当なファイルを選ぶところが特に難しかった。今回は二つ、三つのイメージファイルのセットあれやこれやと試したことで、つまり最初から決定版には至らなかったことで初期化まで進んでしまったが、そのお陰でMACアドレスを消去しながらも最後は適当なファイルを他のバッチから選ぶことが可能となった。差し引きゼロで、その分この裏側の構造を学んだことになる。

これに関しては、誰もが疑問に思うのは、世界にただ一つしかない筈の機械固有のMACアドレスがなぜそれほど簡単に消せる領域に記録されているかということだが、これに関してはそれらしい説明がある。つまり固有ということは、一つ一つ記録するとなると大変なので ― 刻印を考えればそれ程大したことはないと思うが - こうした簡単な記録がなされているということらしい。要するに容易に書き換えられるということでしかない。

シナにリンク付きの電子メールを送った。するとそのリンクは見れなくなっていたということだ。そのリンク先は何でもない先日ツイッターしたタイム誌のネットで「サムフランシスコ市長死亡」の記事だった。少なくとも日本の修正主義者以外には全く政治的な問題のない記事である。そしてこうした検閲を目の辺りにすると中共を憎むしかない。やはりまだ日本の報道規制の方が少しはましである。そういえば先月には、北京から寝具を大八車に積んだような帰郷者の写真が新聞に載っていた。そのような開発の進む首都からの貧乏人の追い出しはシナでは報道禁止どころかウェイボウでも消去されているらしい。まるでアベノミクスへの批判報道の様な塩梅である。

これで漸く、日曜日の初日までにユロウスキー指揮「ジャンニスキッキ」をじっくり鑑賞できる時間が出来た。この間まともな料理をする時間が無かったので野菜の消費が少なく、古い野菜が溜まってきた。来週はクリスマス週なので、今週は野菜を買わずに消費してしまう週末となった。



参照:
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
祝脱文鎮化、興奮の夜 2017-12-16 | テクニック
ルート化の月謝代は如何に? 2014-09-06 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-12-17 00:31 | 歴史・時事 | Trackback

祝脱文鎮化、興奮の夜

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明け方まで仕事をしていた。いつ以来の夜鍋だろう。途中日本へ二本の電話を掛けて用を足した。頑張って起きていられたのは、机の上のタブレットのお陰だ。

遂に脱文鎮化を果たした。自らおめでとうと祝したい。一時はうんともすんとも言わない状況にまで陥っていた。しかしそれらの状況を今はすべて掌握している。そして予想通りにMACアドレスを失ってしまった。これは書き加える方法があるようなので試してみる。だから今はWLANをMACアドレス認証無しで出している。来客の時と同じ状態だ。アドレスを書き加えることが出来れば直ぐに元通りに戻せる。そして大勝利である。ANDROIDなんて怖くない。5日の時間が経過した。

件の機種はLENOVOのB8000という、そのプロセッサーからMT6582シリーズの派生とされる。少し以前の所謂中華携帯やタブレット類の多くがこれに属する。だから同じような問題とその傾向と対策をメモしておく価値はあるだろう。

その症状と問題は、同じようなグーグル機にもあるように、電源を入れると精々ブランドのロゴあたりまでしか進まずに、再始動を繰り返すというものだ。だからOSのアンドロイドが開かない。それどころか再起動するので終了が出来ないという悲惨な状態である。先ずはその状態を収めようとして誰もがするように電源抜きを試みるのだが、最終的には分解しないと駄目という風になる。

途中の度重なる試みは省いて、結論的にはSP Flash Toolというのがみそだった。それ以外にはなかった。これと所謂イメージファイルというのを探して準備してタブレットの内部に送り込むだけだった。それ自体は2日前ほど前から始めたのだが、拾ってきたのがロシアのサイトからで、それを信用し過ぎたのがいけなかった。そのイメージを焼き付けることで、少なくとも停止することも可能になり、充電まで可能になった。それでも再稼働のループから抜け出さない。そこで早めにそのソフトを使って、ブートローダー部分を除いた初期化をしたものだから、その時点でMACアドレスの入っているNVRAMの情報を消去してしまったようだ。それから更に初期化などを繰り返したが埒が明かない。それどころかモニターからも光を失った。それでもファイルを再度送り込むことが可能と分かったので、今度は全てを初期化する前にバックアップを取った。しかしどうも遅すぎた。

それでもFastboot getvar allと少なくとも日本語のサイトにはなかったコマンドを見つけた。これによって中身が分かるので、必要なファイルのアドレスや大きさが分かり、バックアップを取れる可能性が出てきたのだった。

そして最後の全初期化の前に、他のイメージファイルの可能性を見つけた。そこに入っているFlash ToolもV5とV3よりも進んでいた。そしてこれのイメージファイルを使うと直ぐにアンドロイドの響きが戻ってきた。やった。しかし心配していたようにMACアドレスが消えていた。これを再びなんとか書き込めれば完璧だ。

どんなアンドロイドの製品もこれで文鎮化を避ける方策が見えてきた。安心して使える。そしてアンドロイドも少なくともウィンドーズぐらいに分かってきた。やっとその禁則の意味合いも分かってきた。残念ながらどうもこの商品はアンロックが出来そうにないので、他のコマンドはあまり役に立たない。

早速、リヴェンジの意味を込めて、再びAdChoiceの無効化を行った。DAAというネット広告団体の元締めが提供しているその無効化のサイトである。大企業陣の広告を請け負っている現在の世界最大ネット企業陣の団体である。



参照:
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
室内で汗拭う週末 2017-12-11 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-12-15 22:08 | テクニック | Trackback

良いこともある待降節

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悪いこともあれば良いこともある。ツアースキーに関してのプログラムに目が回らずに後回しにしていたら、人数分が埋まってしまった。仕方がない、あとは如何に動機付けを失わずにトレーニングをして、再来年に備えるかである。残念だが僅か一日のスイス行でも動機付けには良かった。残念だ。

そして郵便桶を覗くとルツェルンから厚い封筒が入っていた。指で弄るだけで中身は分かった。発注していた入場券だ。冊子ではない。

自分自身へのクリスマスプレゼントである。希望の安い席なのでそれ程の席ではないが、要は始まり始まりの最初の席を確保したことがなによりもである。

これで、キリル・ペトレンコ指揮べルリナーフィルハーモニカーのルツェルン初日と第二日目を体験できる。初日のリヒャルト・シュトラウスの二曲はそれほど期待していないが、歴代の指揮者が得意としていて、恐らく何人かはルツェルンで指揮しているだろう。そこが聞きどころだろうか?要するにフルトヴェングラ―から三人との比較になる。それでも一番比較対象になるのはサイモン・ラトルとクラウディオ・アバドの演奏だろう。誰よりも深い響きが奏でられるのではなかろうか?するとやはり晩年のフルトヴェングラー指揮との比較になるだろう。

フルトヴェングラーと言えばやはりベートーヴェンなのだが、その七番は台北での練習風景で楽しみになったのだが、イスラエルでの演奏以外はベルリンでの初日を待たなければいけないのだろう。ベルリンで一回、ザルツブルクで一回、そこで三回目の演奏になるのか。

二日目のプログラムは、四月十二日にベルリンで初日のプログラムで、デュカの「ラぺリ」も楽しみで、ワンワンがプロコフィエフの第三を弾く。後半のシュミットはWDRとの録音があるがどれだけの成果が示せるのか?ベルリンで三回、ザルツブルクで一回、都合四回目となると録音可能なほどの出来になるのだろうか。それが楽しみだ。

始まりの最初であるから、いろいろと予想のつかない面もある。ベルリンのフィルハーモニカーのルツェルン公演はツアー公演としては1958年来という。カラヤン指揮の第九だったようだ。つまりフルトヴェングラーはここでは音楽祭管弦楽団を振っていただけなのだろう。ルツェルンの音楽祭自体は何回も出かけているが態々ベルリンのフィルハーモニカ―やヴィーンのそれをそこに聞きに行こうと思ったことはなかった。プログラムとしてもそれほど興味をひくものではなかったからで、月並み感が強く、それならば近場で安くという気持ちが強かったからである。

それで思い出したが、旧ホールの時だったかもしれないが、ヴァルナ―・ヘンツェ向けの招待券を貰おうかと、地元の音楽マネージャーが誘ってくれたことがある。ラトル指揮のべルリナーフィルハーモニカーに招待されるというのだが、断ったのだった。ヘンツェと並んで彼の新作交響曲を聞くということだったが、彼の交響曲には興味がなかったということでしかないだろう。今から考えると、前半で面白い演奏が聞けたかもしれないのだが、ラトル指揮のヘンツェの保守的な交響曲はプロミスでも聞いていたのでもう沢山という気持ちが強かったようだ。

しかしこれで2018年は恐らくベルリンまで態々出かける必要もなくなり、ザルツブルクに出かける必要もなくなった。それらの旅費を考えればもう少し高額の席を申し込んでもよかったのだが、その程度の席の方が入手し易い可能性も高い。

前回出かけたのはクラウディオ・アバド指揮のスキャンダルの2012年で、六年ぶりとなる。新しい会場になってからもう少し行きたいとも思っていたが、これで再び切っ掛けになる。ミュンヘンよりも近いのが何よりもよい。将来的にもバーデンバーデン次第となるが、年間五つぐらいのプログラムはベルリンよりも身近で体験出来るのではないかと考えている。多くても年間二度ほどベルリンに行けば全てのレパートリーを聞けるのではなかろうか?



参照:
原発零でも電気零ではない 2012-05-06 | アウトドーア・環境
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-12-14 22:20 | | Trackback

脱文鎮化への試み

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手が空くとTABLETの脱文鎮化に努力している。間違いなく若干の前進があった。それで元通りになるかどうかは別にして、幾らかは制御出来た。PCからの制御には、ADBとFASTBOOTという小さな二つの指令系統があるのだが、後者が初めて使えるようになった。

所謂システムイメージをRAMにPCから書き込むことが出来た。レノヴオはそれを提供していないのでロシアのフォーラムから落としてきた。問題はなさそうだ。そのRARファイルの中にスマートフォンフラッシュテュールというのが入っていて、それを使うことで上書きすることが可能になった。

どうもプリロードが動いていていればその間に制御可能のようで、書き込む間は端末機も安定していた。それでも分からないので頑張って6分近く指でボタンを抑えていた。無事書き終えて、リブートすると、今までとは違って、アンドロイドロボットは現れなかった。だから電源ボタンを押すことでフォーマットなどのやり直し作業に入らずに、再駆動を繰り返し続けた。その動き方も以前とは変わってきており、更にPC側にも必要なドライヴァーが読み込まれることから作動していることは明らかだった。

但し、画面こそ違ってもLENOVOのロゴの先には進まず、そこでリブートになるのは全く同じだった。しかしそしてなによりも改善されたのは再びリセットとファーストブートの画面が現れるようになったことだろうか。同時にファクトリーモードが以前のマンダリン語が消えてメニューも無くなっていた。要するに上書きされたようだ。よってFASTBOOTコマンドが使えるようになった。

それでもらちが明かなかったので、SMFlashToolでフォーマットを試してみることにした。勿論ブートローダーを消さない形で行ったのだが、それが成功するとTABLETはうんともすんとも言わなくなった。これで万事休すかと思って、PCを見ると裏では何か動いているのだ ― どうもそれがプリローダーと称するBIOSの様なものらしい。それでFlashToolで書き込みを試すとデーターが送られた。そして電源長押しにすると再び起動した。

今度はと期待したがやはりロゴでその先には進まずに再起動してしまう。PCの方にはLENOVOが消えて恐らく字化けしたキリル文字がに代わった。これがどういう意味かは分からないが、MACIDまで消してしまったとは思わないが少し心配だ。それでも元に戻るかどうかは別にしてAndroidへのノウハウは増えてきている。

そこでそもそもADBが使えなかったロックを外すというのを試みることにする。FASTBOOTでFlashing Unlock指令可能だからだ。実際に動くのだが暫くすると、「あまりにリンクが多過ぎる」ということでエラーが出て終了する。二回目は数十分と長持ちしていくのだが、結果は同じである。三度四度と時間が長くなって、今数時間経過している。本当に駆動しているかどうかは分からないが、裾う少し待ってみてもよいかと思っている。ウィンドーズでも上書き規制をざっと掛けて行くと切り替えに大変な時間が掛かる。問題はどこで見切りをつけるかである。兎に角、停止するようにもなって来て、プリローダー部分であろう充電画像も出てきたので、それはそれなりに制御可能になって来て、全く落ちていくという感じではない。



参照:
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
無いとなると想う有難味 2017-10-14 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-12-13 23:47 | テクニック | Trackback

年の瀬はロココ劇場へ

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年の瀬にシュヴェツィンゲンのロココ劇場に出かけることにした。春の音楽祭や昔日系のジュン・メルケルがマンハイムで振っていた時に出かけたりしたが、真冬に入るのは初めてかもしれない。その庭も寒い時に出かけた覚えはあまりない。

機会を与えてくれたのは、我がツイッターの9人目のフォローワーであるカウンターテナーのレイ・チェネスだ。カウンターテナーと言えばショル氏などには仕事の関係で挨拶したことがあるが、それ以外ではリサイタルでのルネ・ヤコブスなどが印象に残っている。そのほかバロックオペラでのそれだが、アンドレアス・ショルなどと比較して印象に残る歌手は記憶にない。だからあまり期待していない。

それでも今回出かけようと思ったのは、ポルポーラ作曲「ミトリダーテ」がハイデルベルク市劇場の出し物として演奏されるからである。ハイデルベルクの劇場では瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲のオペラ「愛怨」を独日協会関係で出かけたぐらいで、これまた期待しないのだが、ラシーヌの原作となると、芝居を見に行くつもりで出かけても悪くはない。なんといってもポルポーラが作曲した作品なので聞いておきたい。

ポルポーラは、彼のナポリ楽派のファルネリなどとの絡みでも有名だが、なによりもロンドンではヘンデルなどの商売敵であって、調べるとダルムシュタットの楽長として出始めたのは知らなかった。人気のユリア・レジェネーヴァなどもレパートリ-にしているが、オペラの歴史をこの作曲家無しには語れないのではなかろうか。また久しぶりに行くロココ劇場も楽しみだ。そこでスヴェトラノフ・リヒテルを聞いた時も、椅子のギシギシ音が気になったが、もう一度、今の耳でその音響を確認したい。

来週のミュンヘン行きの準備も整えている。ミュンヘンの名門山道具屋シュスターに電話した。スキーを前回の訪問時に預けていたからだ。10月10日の日本からの凱旋コンサートに出掛けた時だ。電話で聞くと、「修理の輪っかの入手に時間が掛かり」ということだったが、直ぐに送るというので、来週取りに行くことにした。どうせクリスマスの買い物もあることだから、早めに出かけて一日掛かりのミュンヘン行にしよう。これで漸く前シーズンに壊れたツアースキー道具が元通りになる。

新聞にエルブフィルハーモニ交響楽団を辞任する指揮者ヘンゲルブロックの話しが短報として載っていた。ヴェルト紙での「曖昧なインターヴュー記事」からの話しである。2019年までを一年早めて辞任したのは、後任者アラン・ギルバートが一週間も経たないうちに発表されたことなどの不愉快な出来事をとぶつくさと語っているらしい。そもそもエンゲルブロック自体が我々の会の公演で育ったような指揮者で、バロックの一部の合唱レパートリーに強みを発揮していて、とってもヴァークナーや通常の大管弦楽団でのレパートリーに強みを発揮するような指揮者ではなかった。それは既にモーツァルトの「レクイエム」でも大した演奏でなかったことから証明されていた。バッハでも名演奏を繰りひろげた印象が無い。だから最初のうちは彼の指揮する定期の券を捨てていた。それでもドイツ語の合唱に強みがあったのだが、バイロイトまで出演するとなって明らかに勘違いしていると思っていた。

そもそもNDRの交響楽団自体がそれほど魅力のある楽団ではないところに、凡庸な指揮者が振っていたのだから上手く行く筈がない。後任者の方が適任かもしれないが、こうした放送交響楽団の首席指揮者の人選などを見ていると如何にも役人的なそれで、シュトッツガルトがとても危ない川を渡るぐらいで、如何にも凡庸な指揮者ばかりが顔を揃えている。SWFのロートなどはまだよい方だった。

そのような人に身近に接して、如何にも好きな芸事で生活しているのは羨ましいと思いながらも、同じ舞台で一方には現人神のような人がいてとなるとどうしても考えてしまう。皆才能に恵まれて、必要な教育を受ける機会があって、更に人並みならぬ努力をしても歴然とした差が存在している世界である。皆同僚とはいいながらその芸術的な評価などからあまりにもの格差は致し方ない。



参照:
ヘテロセクシャルな胸声 2015-11-22 | 女
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
クリスマスの第一祝日 2012-12-25 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-12-12 23:50 | 文化一般 | Trackback

カロリーだけでなく栄養も

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雪は止んで、想定通り少し暖かくなった。それでも湿気っていて雨が降って肌寒い。週末に購入しておいたパン屋のシュトレーンを朝食代わりにする。バターが充分に入っていて比重が高いので比較的腹持ちがよい。ナッツ類も入っていてカロリーだけでなく栄養もある。

時間がある限りタブレットを弄っているので、食事などの時間が割かれる。目下の問題点は、前回の脱文鎮化では補助的な意味しかなさなかったPCによる制御であるが、これがなかなか難しい。PC側にドライヴァーをインストールなどした。それでもまだ充分にコマンドが可能となっていない。タブレットは再起動のループになっているものだから、もう少し弄って、電池を使い切った方がよいのかもしれない。時間を掛ける必要がありそうだ。

日曜日の夜は作業片手にベルリンからの放送を聞いた。引退するペレスがピアノを弾いたモーツァルトは大きな崩れはなかったようだが、その後のインタヴューは興味深かった。要するに彼女が語るに「ピアノを舞台の上で弾いていてもちっとも面白くない」というのだ。プロのピアニストとして、技術的破綻がないように一日中ピアノの練習をしているだけなのだろうから、もともとの技術的限界もあり、これ以上弾いていてもなんら希望が持てないということなのだろう。その理由にブラジルでの家族との時間を挙げていたので、要するにプロとしてピアノに向き合って技術を維持するための苦しい時間などは無駄ということらしい。ピアノを弾いているよりも貴重な自分自身の時間を大切にしたいということのようだ。その天分を考えるとそうなるのも分かるような気がする ― アルフレート・ブレンデルもいい時期に辞めたと思う。それでもインタヴューで、「チューリッヒでもう一度弾いて、日本に行って終わりだ」と語っていた。キャリアの最後に日本人の歓迎を受けて、たらふく寿司でも食してというのがこの手の演奏家のお決まりのようになっているようだ。それほど日本人は優しい。

日本で愛されている指揮者ブロムシュテットの演奏とインタヴューそしてナレーションはそれ以上に面白かった。先ず「座って指揮してもそのカリスマ性は変わらない」とナレーションが入るので、流石に東ドイツの名前でベルリンでは出ているのだと確認した。そのように評するのは東ドイツでのほかにはないだろう。更に驚いたのは息絶え絶えのインタヴューで、如何に極東ツアーで全力を使い果たして完全に弱っているのが声からも分かった。あの年齢になると、今日と明日、昨日と今日では随分と健康状態が異なる。

演奏自体は譜読みとその原典版の面白さは確認したが、演奏自体はまるでザールブルッケンの放送交響楽団が弾いている様な響きで、ベルリンのフィルハーモニカーはゲヴァントハウスなどとは違って、ここたった十年ほどの付き合いらしく、その稽古と指揮通りにしか演奏しないので、その指揮の技術的な粗さが見えるような演奏だった。ヴィーンのフィルハーモニカーとの演奏でもなかったことなので、如何にこの指揮者は客演には向かない指揮者だと思った。それも超一流ところに客演するような指揮者で無かったのはその経歴の示す通りだ。特に演奏前に流れた声を思い出すと殆ど気の毒にさえ思った。要するに90歳を超えたこの指揮者に高いアヴェレージを期待する方が間違っているのだろう。



参照:
待降節は四拍子だろうか 2017-12-10 | 生活
神無しに美は存在しない 2017-12-06 | 文学・思想
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# by pfaelzerwein | 2017-12-12 04:57 | 生活 | Trackback

室内で汗拭う週末

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雪に閉ざされた。日の出後は晴れていたが、予定通り降ってきた。明日は暖かくなるようだから一日だけだろう。

先ごろからタブレットのポップアップアドヴァタイジングが問題になっていた。いろいろ試したが改善しなかった。そして漸く対処出来たようである。特別危ないものをDLした訳ではなさそうだが、所謂大手のテレコムなどの全面広告が突然流れ込んで不愉快極まりなかった。そこで解決方法を纏めて置く。これに対処する方法が見つかって、無事に最新のAdChoicesを抑え込むことに成功したかに見えたが、挙動がおかしくなってリセットすることになりそうである。だから結果を待ってからしかないようには踏み込めない。さてどうなるのか?ネットビジネスのグーグル一派のアンドロイドの一部を壊したことになるのだろうか。

早朝4時前に起きた。楽しみにしていた「アインドイツェスレクイエム」の初回放送を見損なったからである。前回まではオンデマンドになっていたが、クレームがついて生だけになったようだ。とても良い放送だけに残念で仕方がない。文句をつけたのは、デンマーク放送かブロムシュテット側でしかない。宗教放送局としては泣く泣くだろうが、デンマーク側だとしたら誤った判断だろう。少なくとも生放送の期間が終わるまでは置いておいても管弦楽団などの宣伝にはなっても何ら被害は出ない筈だ。まあ、この放送を見てしまうとNHKでの実況放送録画を見る人は少なくなるかもしれない。オンデマンドでないと上手く再生できなく、音声だけは聞いていたが、折角ピアノを弾きながらのお話しだっただけに残念だ。

その代わり同じネットの文化放送で、「タンホイザー」制作の裏側を扱った番組が上がっている。カステルッチの「タンホイザー」を体験した人だけでなく、キリル・ペトレンコファンやフォークトファンにも見逃せないだろう。題名が「目に入る弓」となっているが例のおっぱい丸出しのシーンを裏側からというような期待にはそぐわない、しかしペトレンコの未公開のプローベシーンが50秒弱、またフォークトの一言があり、更にカステルッチへのインタヴュー、そしてバッハラーへのインタヴューに重要な情報があった。

それによると、「パルシファル」のあとは「トリスタンとイゾルデ」になっているようだ。1998年のコンヴィチニー演出は、フィリップ・ジョルダンが2015年に振っている。既に時代遅れの演出だろうから新制作になるのは当然かもしれない。疑問は、2019年になるのか、2020年になるのかだろう。バーデンバーデンとの絡みがあるのでとても気になるところである。



参照:
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
電話ケーブルの再敷設 2017-01-17 | テクニック
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-10 23:29 | 生活 | Trackback

待降節は四拍子だろうか

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更に寒かった。積雪の方はなかったが、その分放射冷却で冷えた。就寝時にはヒータ-を切っていたが、薄く入れておくべきだった。零下になるかどうかが指針だろうか。夜中に目を覚ますことはなかったのだが、切ると余計に水音が圧の掛かったようになって良くない。少し流しておく方が静寂性が上がる。いろいろ試してみるべきだが、エネルギーを如何に抑えるかだ。

九時を過ぎても駐車場は零下だった。足元も緩むことなく風も強い。足音が凍てついた地面に鋭い音を立てる。流石にパンツを履いて手袋をした。バンダナは考えたがまだ必要な寒さではなかった。

日曜日は気温は上がっても吹雪が予想されているので、峠攻めで今週の走り締めとする。冷蔵庫よりも冷えていると吸気が難しかった。勿論鼻で対応しなければいけないのだが、鼻の奥がツーンとしてよくない。深くは吸えないので数を増やす。ジョギングテムポなので、呼気4吸気4の八拍子にしてみる。呼気は問題がないが、吸気の最後の四が苦しい。下りもあまり変わらなかったので、やはりテムポが落ち過ぎると吸気が続かないことが分かった。八拍子はアレグロ以上でないと厳しいことが分かった。

走りながら、管楽器の特に木管のことを考えていたのだが、多拍子になるとテムポが遅いと生理的にも厳しくなるのだなと思った。日本人などが六拍子を刻むのが難しいとか言われるが、意外にこうした生理的な原因があるのかしらとか、フレージングなどとは違うことを頭に描いた。今年は走る際に昨年ほど呼吸を意識していなかったが、ニ拍子でもなくてワンサイクルの四拍子をもう少し意識すると上手く行くのかなと思った。ゆっくり走ったので40分近くも意識して呼吸しているといろいろと勉強になる。

来週も放映されるNHKホールでのキリル・ペトレンコ指揮のラディオ放送の録音を流してみると思っていたよりも素晴らしい音が録れていた。ヴィデオを観た時にはそちらの方が鮮度が高いように感じたのは視覚的な錯覚だった可能性が強い。我々の様な人間でもそのような錯覚があるのだから、やはり映像が与える影響は少なくないと思った。

そう思って昨年のマイスタージンガーの初日のラディオ放送を流した。なるほど秋のヴィデオの時からするとザックスのコッホも十分ではなく、ポーグナーもツェッペンフェルトではなく、エーファーもあわわの歌唱でいけないが、アイヒのベックメッサーもカウフマンのヴァルターも魅力的で、銃撃事件さえなければオペラフェストでの映像が残っていたのにと残念である。恐らく五回目ぐらいの公演でカメラリハーサルをしているのではなかろうか?兎に角、貴重な資料が残っていることだけでも喜ばしい。こうしたヴァークナー演奏を聞くともはや大抵の公演の奈落の管弦楽などは聞くに堪えないことになってしまう。

週末は、「アインドイツェスレクイエム」の続きと、ユロウスキ指揮「ジャンニスキッキ」の動画で勉強の予定だ。金曜日は、累計5時間ほどオンラインが不通になった。ルーターが壊れたかと思ったが、そろそろ第二の回線を準備しておかないといざというときにこのようなことになると悲惨だ。日曜日は、ブロムシュテット指揮のブルックナーの実況中継ヤコブ指揮の「コシファントュッテ」などの放送がある。どちらが面白いだろうか?女流ピリスのピアノは内田光子のモーツァルトとは比較にならないのは知っているので興味が無い。

車中のラディオで聞いた、ビゼーの「アルルの女」で有名なフランドルと重ねられる主題がクリスマスソングだと初めて知った。なるほど歌詞から「三博士」なのだが、民謡をビゼーが流用しているだけで、リュリのそれでも思い浮かばなかった。オリジナルは四拍子なのか?



参照:
足風邪をひきそうになった 2017-12-09 | 生活
じわじわ迫ってくる感 2017-12-04 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-12-09 22:53 | 生活 | Trackback

足風邪をひきそうになった

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風邪をひきそうになった。このシーズン初めてだ。理由は分かっている。裸で外気温が氷点に近いところを走り回っていたからだ。流石に上着はTシャツの上にフリースを着たが、下はショーツで走った。地面が固いと膝や腰にも堪える。それ以上に足腰が冷えた。これは以前はそれほど感じたことがない冷え性だ。暖房の効いた室内で机に座っていても膝から下が冷えた。こうなると足風邪である。二三日は元気が出なかった。

子供は風の子とかの言葉を知っているが、子供の時にも氷点に近いところを裸で走っていたかどうかは記憶がない。パンツを履くとどうしても走り難いのだが、注意しないと駄目なようだ。足風邪で全身の寒さの様な微熱感を感じるようになった。足腰の筋力は強化されている筈なのだが。

新聞の経済欄にEUに非協力的な税務当局のブラックリストに入っている国の名前が挙がっている。スイスだけではなくて、所謂パナマに相当する諸国の名前である。要するに以下の国とおかしな付き合いのある個人や法人は脱税まがいのことをしていると疑って間違いない。

先ずはパナマの中南米から、バルバドス、セント・ルチア、グレナダ、トリニダッドタバゴ、アフリカに移ってナミビア、チュネジア、バーレーン、アラブ首長国連邦、アジアに移ってマカオ、大韓民国、モンゴル、南太平洋ではマーシャル列島、グアム、パラオ、サモア、米領サモアとなっている。

韓国が脱税天国になるとは知らなかった。それどころかモンゴルとなると、日本ではいったいどのような人物がその黒いルートにいるかが想像出来る。明らかに広域暴力団などが入ってそこから彼の国に黒い金が流れているだろう。

切手を購入した。145セントのエルブフィルハーモニーオープンの切手が無くなったから補充したのだが、序に宗教改革500周年も注文した。ルターの顔の切手は頻繁に出ている気がするのだが、75セントのものが欲しかったので購入した。メキシコとの協調発行である。しかし来年になると直ぐに価格が上がって頻繁に必要になる切手の種類も変わる。



参照:
寂しき春の想いなど 2016-04-06 | 雑感
ラズベリーのアップグレード 2017-03-13 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-12-08 20:04 | 生活 | Trackback

趣味の悪くない劇場指揮者

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発表間近の次期バイエルン州音楽監督である、話題のユロウスキー指揮の中継録音を聞く。ロンドンフィルのオープニングコンサートの模様だった。既にコンセルトヘボウでの協奏曲の動画を見て分かっていたが、楽譜を片手にブルックナーの第五交響曲を聞いた。

結論からすると故テンシュテットなどが振っていたころよりも管弦楽が大分よくなっていて、流石に指揮技術では頂点にいる人の業だと感心する。その職人的技術で玄人評価が高いだけのことはある。問題はその音楽性である。先日のバイエルン放送協会の番組でも「デモーニッシュなどと言われている」と話しがあったが、その静的であり乍ら聴衆を揺り動かす音楽性に注視した。

基本的には、音楽をよく知っていて、流石に二代目の指揮者だけあって、破綻を来すようなことはしないでも十分効果を上げる実力を擁しているということのようだ。だからSWRに任命される指揮者テオドール・クレンツィスの様な非音楽的で恥さらしなことは全く無く、とても質も高く、それどころか風格すら感じさせる。同じような技能があっても如何に音楽に語らせるかどうかの相違だろう。この二人は年代こそ異なるが、音楽的にはとても良い対照関係になる。

とは言っても、ブルックナーの楽譜にアゴーギクなどをさり気無くしっかりと加えてマニエーレンをしている。それが気づかれないような形で、まるで音楽がそのように動いているかのような風情なのだ。所謂クラシックオタクのコンサートゴアーズには受けるだろうが、幅広くはどうだろうか?少なくとも上のブルックナーの場合は、なるほど素晴らしく鳴っていて、味わい深いのだが、この指揮者の演奏ではこうした名曲が特別な意味を放つことはないだろうと思われる ― 要するに比較対照の聞き比べでの対象の域を出ない。

最も期待されるレパートリーはルイジ・ノーノとかの20世紀の古典になるのだろうから、上の様な構成感などもあまり重要ではないかもしれない。そうした期待されるレパートリーとやや古風な演奏実践からすると、やはりこの人は典型的な劇場指揮者タイプだと感じた。劇場の奈落では、そもそも現実的な対応に迫られることからしても、前任者のキリル・ペトレンコ指揮の様な理想的な様式を追い求めるよりも、寧ろ音楽劇場としての最大限の効果が求められるからである。

その証拠にこの指揮者の協奏曲演奏は、ペトレンコのように合わせものであるよりも、表現の可能性を追及しているところがあり、立場は異なってもイゴール・レヴィットの様な音楽性の指揮者であり、共演を越えた演奏をしている。いい舞台を奈落から支えるのにこれ以上の指揮者はいないのではなかろうか?ソリスツが際立つだろう。早速身近でのコンサートを調べてみるとフランクフルトで三月にロンドンフィルを振って、チャイコフスキープロがあった。ネットで購入すると手数料を10ユーロほど取られて、40ユーロを超えた。これは高過ぎると思った。ノーノプロならば払ったかもしれないが、バーデンバーデンでのヴィーナーフィルハーモニカーやゲヴァントハウスよりはるかに高価だ。マネージメントも興業主も完全なマフィア組織である。そこまでの価値はない ― キリル・ペトレンコ指揮コンセルトヘボウよりも少し安いだけである!。

彼らの経歴から、容易にキリル・ペトレンコは劇場指揮者で、ウラディミール・ユロウスキーはコンサート指揮者と誤解している向きは世界中に少なくないが、少しだけでもその音楽の実践を分析すれば、そうした印象はただの蒙昧でしかないと直ぐに結論が下されて、事実は全く逆さまであることが証明される。

最終決定は、賞与などの交渉を終えてその金額などを入れた予算編成とその州議会での承認が必要となるので、体制が整ったキリスト教社会同盟の政治日程次第と書かれている。序ながら、ベルリンのコーミッシェオパーの監督バリー・コスキーが選から落ちてセルジュ・ドルニー支配人推挙となったのは、コスキーがそもそも軽歌劇の演出家であり ― 反吐が出ると悪態をつかれるほどに -、高尚な音楽劇場には向かないということでしかない。バイロイトは同様なカストルフで成功したのだが、こちらは東独のノスタルジーなどを掛け合わせていて、その方の共感も得ることが出来たが、コスキーの悪趣味に共感する聴衆がいるのだろうか?社会同盟でなくとも少なくともあのような悪趣味は受け入れられまい。バイロイト祝祭の趣味の悪いこと極まりない。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-12-07 21:28 | 文化一般 | Trackback

いつも同じことの繰り返し

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毎年同じころに同じことをしている。昨年9月に購入したNASの容量が一杯になってきた。2TGの容量に倍増したので二三年は大丈夫かと思っていた。その後ストーリミングの動画をコピーするソフトを常用するようになったので、録画が飛躍的に増えて、予想を超える勢いで保存するファイルの容量も増大した。

そこで、ノートブックのHDDを交換したのもその後の11月だった。NASの中にはバックアップが終了した2016年12月までのファイルが入っていた。幸い乍ら壊れたHDDもデータを取り出しだけならまだ使えそうなので、それ以前のファイルのコピーは消去しても構わないと結論した。これで180Gほどの容量が開くので、再びバックアップとしての容量が獲得できるだろう。

同時にHDDに入っていて不要なファイルを消去した。ザルツブルクの「アイーダ」とかバイロイトの「マイスタージンガー」とか、「アンドレアシニエ」などをどんどん消去する。消せなかったのは酷い音楽が流れていた「ティートの寛容」ぐらいだろうか。デジタルコンサートホールのものをNASにアーカイヴに入れてHDDから消し去る。こうしてバックアップすべきファイル容量が削減可能となる。

結局1.8Tの半分以上を消去した。これで、1TのHDDのバックアップは完全に叶いそうだ。ただしHDDの容量自体がそれほど余っていないのでこちらもできる限り早めに整理しておかないとバックアップが済んだところでNASの容量もやはり一杯になる。

序に、NASの外付けHDDもスキャンチェックをしてデフラグを掛けた。一部修正が必要で、更にフラグメーションも7%ほど進んでいた。バックアップが壊れていると用をなさないので、早めに修正しておいてよかった。

タブレットのアンドロイドの方も調子が良い。なによりも改善されたのはパーフェクトヴューワーという画像ソフトで、NASからの呼び出しにストレスがなくなった。その他にもNAS対応のアプリケーションも増えて使いやすくなってきた。二年前とは状況が大分変わってきている。やはりこれは、WLAN内でのコマンド等の端末が主力商品になってきていることと関係していて、ソフトも洗練されて来ているのだろう。音源もタブレットでコマンドを与えておくと、タブレットをダウンさせても音が鳴っているようになった。

NASに必要なファイルを入れておけばPCなどにはファイルを貯めておく必要が無くなり、次期ノートブックなどもHDDからSDDへと移行し易くなってくる。なによりもメカニックなストレージがなくなることで動かしやすくなるのも、ノートブックのドッキングステーション化とは別方向での可能性が高まる。

新聞の文化欄にジェームス・レヴァインの件が触れられている。未成年者へのセクシャルハラスメントだが、三人の一人は17歳のセントポ-ル室内管のベーシストでクリス・ブラウンというらしい。なるほどこのような具体性があると、四月に告訴されたミュンヘン高等音大の校長だったジークフリード・モイザーと殆ど変わらない。パワーハラスメントにもなっている。昨年NYから強制送還されたゲヴァントハウス弦楽四重奏団のシュテファン・アルツベルガーのような単純な婦女暴行とどうしても比較してしまう。新聞にもあるように音楽の世界も芸能界であり、学生として教えを受ける方も、授ける方にも一種の合意があるということになる。何も音楽学生の経験談などを聞いてみる必要もないことだ。その一方で、昨年の写真家のデーヴィト・ハミルトンなどのように自殺へと追い込まれるような大事になるのは、80年代では到底考えられなかったような未成年者保護への意識が厳しくなった世論背景がある。全く好悪の問題ではない。

但し、モイザーやアンスベルガーの数多くの録音を楽しめるかどうかはその罪状や噂とは関係ないだろう。駄目なものは最初から駄目なのだ。因みに個人的には、充分にあるバーンスタインの録音以外にもレヴァイン指揮のも幾つかある。なにも今後ともそれに手が伸びるかどうかは変わらないが、そもそもそれほど有難味を感じているものではなく、最近はほとんど関心がなく元来優秀な管弦楽の演奏録音として興味があったもので、デビュー当時から知っていても生で聞こうと思ったこともない指揮者である。モイザーの録音もご近所のヘルシャーとの録音ぐらいだろう。演奏会もそれを聞いたが、あまり琴線に来なかったこともそうした面の表れともいえる ― その時は健在だった彼の宰相メッテルニッヒのお孫さんと一緒に聞いた。アルスベルガーはその活動からして箸にも棒にも引っかからなかった。要するに演奏実践に全てが表れるというような妄想を持ってはいないが、少なくともまともな音楽をしている人物かどうかが分かるぐらいでないと、聞き耳とは言えないのではなかろうか。音楽愛好家に言うのではなくジャーナリストと称する連中に言いたい。シュターツカペレを指揮したマーラーがどうだったとかいう前に芸術を報じろと、それが仕事である。そうすることで、1980年に逮捕されていたとか、1997年にはミュンヘン政界で話題になっていたとか、ミヒャエル・プレトノフへの言及など要らぬ言い訳を書く手間が省ける。



参照:
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般
ドナウヴェレという菓子 2016-02-12 | 料理
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-06 20:42 | マスメディア批評 | Trackback

神無しに美は存在しない

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承前)伝道者ブロムシュテットの第四回目のお話しだ。四楽章がシンメトリーの中間にあたってとても重要で、いつものように全く素晴らしいテクストだと始まる。そしてこの詩編84のダヴィデの置かれていた状況を端緒とする。

1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。
4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。

息子のソロモンによって追われて難民となったダヴィデは、エルサレムを想うのだが、そこには戻れない。息子が統治しているからである。「あなたのお住まい」というのだが、そんな神殿などはどこにもない、それどころかテント生活をしているのである。一方息子はその後に立派な神殿を建てたというのだが、しかし彼はそこに神の存在を身近に感じている。象徴的なことなのだが、それはただの美しさではない。

ルターのドイツ語訳の美しさを語る。Wie lieblich sindの母音の響き、Seele verlangt und sehnt sichのsの響き。そして「前庭」とのまさしく神殿への印象を夢見ながら、身近に感じる生き生きとした神こそが喜ばしいのであって、そのような岩石などの建造物では決してないのだ。

そしてブラームスの音化について触れていく。「先ずは美しい音色を聴いて貰ってから話を続けましょう」と四楽章の一回目の放映がされる。

音楽が終わって、先ずは放送局のメディア提供に謝辞を述べてから、「ただ簡単な歌に聞こえるのだが」と前置きして、芸術音楽として詳しく見ていく。これまた山なりの旋律線でと歌い始めて、「ツェバオート」が二回繰り返されるところにやってくる。ツェバオート自体がその大きな存在を意味するだけなのだが、言語での二回繰り返しと音楽は異なって、その繰り返しに意味を持たせることが可能となる。そもそもWie lieblichのテノールは、一拍目から二拍目とスラーが伸ばすように掛けられているように、変化されて歌われており、「もしこれを牧師がそのように伸ばして説教したらおかしんじゃないかと思われるのだが、こうした可能性の組み合わせが音楽表現なのだ」と。

更に良く聞けば、弦楽器が弓で擦るだけでなく、ピチカートで弾いているのは、間違いなくダヴィデの持っていた単純な5弦のハープに違いない。そして「この響きはブラームスらしくなくてダヴィデでしょう」と語る。

そして憧憬へのところの繰り返しつつの高揚が、ハーモニーに伴われての素晴らしい音化になっていて、そして心身共の喜びに至り、活動的になって、そして静まる。ソプラノが「フロイデ」と長く伸ばすと、他の声部はそこに掛け合うように輪が広がっていく。まさに天使が呼応するかのような情景だ。そしてまるで身体に感じるかのような喜びで楽章を閉じる。

「こうした表現し尽くしがたい音楽というものにどうしても神の存在を感じるのではなかろうか?、朽ち行く人類にこうした創造が可能なのか」、同僚のハーノンクールが語ったように、「音楽とは神と臍を繋ぐ緒」だと。

たいへんに高名な神学者がコンサートの後に訪れた時のことだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲とシベリウスの交響曲で宗教的な作品ではなかったのだが、「三十年この方、これほど神を身近に感じたことがなかった」とその神学者が語ったという。また有名な神学者と待降節の集まりで知り合い、本人は全くクラシックには興味が無くてロックファンということだったのだが、伝手で訪れたコンサートでリヒャルト・シュトラウスの交響詩とベートーヴェンの協奏曲などを聞いた。その後病気で入院していた時にベットでヘッドフォンのラディオから流れるべート―ヴェンやブラームスを聞き出して、「今まで聞いていたものはあまりにも日常的で無意味だった、ブラームスなどは神の存在無しにはあり得ない。」と論文を新聞に投稿した。

「こうして宗教的なテキストに作曲された創作があることがとても有り難く、美というのは神の意匠であり、神とは創造主であり、これは再び六楽章で触れますが、「神無しには美は存在しない。こうした気持ちは、例えば美しい自然に感じるときも、例えば美しいアルプスの峰を眺め、美しい音楽を聴き、または美しい絵画を見るときでも同じでしょう。」

神学者パウル・ティリッヒの第一次世界大戦での壮絶な経験をして、「そこの野戦図書館で簡単な本にボッティチェッリなどの挿絵を見て、ベルリンに戻ってきて直ぐに美術館に駆け込んでの絵画がとても重要な神的な体験になった」、それは、聖書ではなく、音楽でもある。



参照:
Wie lieblich sind deine Wohnungen (HappyChannel)
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
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# by pfaelzerwein | 2017-12-05 21:21 | 文学・思想 | Trackback

一寸した大人の味

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クーヘンを購入した。いつものパン屋でのものだが、試した記憶がなかったから、売り子に聞いていると、横にいたベッカーマイスターリンが「おいしいよ」と教えてくれたので迷わず購入した。

彼女がパン屋の親方のところに弟子入りしたのはミドルティーン当時で、その頃から知っている。その頃は、手が空いているときに店番に出てきても釣銭は間違え、まともに計算もできないような様子だったので、一度1ユーロ近く損をしてから、相手されるのも億劫だった。

こちらは新たには開発した手作りパン屋であるから、応援して店仕舞いすることのないように必死で応援しなければいけないと思っていたのである。旦那はパン工場に勤めているらしく、当時は健在だった先代が工房を守っていたのだ。

さて、件の彼女であるが、計算の間違えだけでなくて、接客態度などもぎこちなかった。その小太り系プロポーションにも拘らず顔立ちもそれほど悪くはなく、ミドルティーンの丁度ヴァイオリンのアンネ・ゾフィー・ムターがカラヤンと初共演したころの感じで、つっけんどうな感じにも、こちらは閉口していたのである。要するに、応援しているにも拘らず苦手だった。

その後、スーパーでペンキ屋の職人の同年輩のお兄さんと一緒にいたところを挨拶したこともあり、少しは接客態度なども変わってくるかなと思っていた。それでもその後もぶっきらぼうな感じは変わらなかったのだ。

それでも今年ぐらいだろうか、店前で車を当てられたりしてから後、借りてきた代車を見て、「新車?」とか聞くようになった。彼女もやっと大人になったなと思ったのだった。その後もなんとなく、対面の印象がよくなった。

さて肝心のクーヘンは、上にアーモンドが乗っていて香ばしい。四角く、四つ切にして食した。何回かに分けて食せるのも嬉しかった。ワインには甘みが合わなそうだったが、泡物には行けるのではないかと思った。



参照:
気に入るということは 2011-12-21 | 料理
水々金々日々、月曜日 2012-11-12 | 暦
南独のもの北独のこと 2011-11-25 | 料理
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# by pfaelzerwein | 2017-12-04 22:33 | | Trackback

じわじわ迫ってくる感

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雪雲が迫っている。だから土曜日に走り納めしておいたのだ。それでも冷えていたものだからウォーミングアップしても冷えた車の様な足元だったので、腰に違和感が残った。スキーでも体を痛めるのはこの寒さなのだろう。新しいパンツを探しておかなければいけないかもしれない。そのような状態で零下5度の降雪の中で一時間近くの山登りコースを上下するのは体を壊す以外の何物でもなかった。

修理したもの二つ目は車のキーだった。キーのレンズ電池が弱くなって― 1.5二つ直列で2Vを超えるぐらいだった、ガレージに行って開閉ボタンをしても反応しなくなっていた。だから車に乗るたびに、差し込んであるメカニックなキーで鍵を開けて、しばらく乗ると充電されて使えるようになるというものだった。最初の時はバッテリーが上がったかと思って驚いたが、最初だけが問題だった。それでも冷えてくると電圧が上がらずに作動しなくなった。

そもそもキーは予備の二つ目を使っていて、一つ目も電池が弱ったころにあまりにも強く押してプラスティックが割れていたのだった。結局レンズ電池を取り替えずに二つ目を使っていたのだった。電池が当時は探さないと入手し難かったのだが、今はアマゾンで発注して無料で送ってくれる。価格もパナソニック製六個組3.18ユーロならば文句はないだろう。取り替えると新品の時のようにパイロットラムプも点き、使い勝手が全く違った。

承前)初日に向けての稽古風景が流れてきている。プッチーニ「三部作」の楽譜にざっと目を通して、スカラ座での公演動画も一通り流した。「アンジェリカ」はもう少し勉強してみないとわからないが、多段のシステムなどの本質的な意味合いを理解しないと、効果的なリリックな歌唱の土台の音楽的な工夫が分からない。

「ジャンニスキッキ」も線の書法も見えてきた。「ジャンニスキッキ」は音楽的には分かり易かったが、演奏は結構苦労するところもあるのではないだろうか。いつものように事故が起こりそうなところもありそうだ。特に有名な「いとしいパパ」までの重唱への場面が山だと思った。大変よく書きもまれている。

リカルド・シャイ―指揮の本場物のヴィデオは、そうした音楽的な面白味が最後までよく理解し難かった。ヴァレーズ全集録音などでもあれだけの指揮をしているのに、自国のこの作曲家の書法を通常以上には読み込もうとしていないのは不可解だった。デビュー当時からオペラにおいてはクラウディオ・アバドなどに比較すると効果的ながら月並みな表現をしていた指揮者だったが、そうしたところが一貫しているのだろうか?

プッチーニが楽譜に書き込んでいる情報の半分も音化していないだけでなくて、如何にも「おいしそうな表情」も無視するかのような指揮をしている。スカラ座の管弦楽団の稽古やその労務関係の難しさは想像するしかないのだが、そもそもオペラ劇場などはそうしたものでコンサート活動とは全く異なるものだと主張しているかのようだ。名門座付き管弦楽団とそれ以外の相違は何もしないでもある程度の上演が出来ることだと、まるでヴィーンの国立劇場の様な事になっているのだろうか。要するに芸術的、職業的な怠慢でしかない。

そのような訳で、楽譜を見ていなければ、プッチーニがそこに何を書き込んでいてどのような音楽が流れるかは月並みな演奏を聞いていても全く分からなかった。月並みなイタリアオペラの水準が分かったので、グライボーンでユロウスキーが指揮したものを更に探した。「スキッキ」はあっても「アンジェリカ」などは見つからない。まだ若い指揮者に任せたそのような上演だったようだ。結局17日の初日のラディオ放送を待たなければいけないのか。(続く



参照:
次世代への改良点 2017-12-03 | アウトドーア・環境
クリスマス向きのリスト 2017-12-01 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-12-03 18:02 | 生活 | Trackback

次世代への改良点

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この週も幾つかのものを直した。一つ目は、トレールランニングシューズの紐だ。スイスのライケル社を引き継いだマムムート銘柄のもので、一号機から四世代目のものである。モデルチェンジというよりも新しい分野なので進化している各世代を商品モニターのように試している。

最新モデルの特徴である紐の締め具とその構造は初めてのものだったので、やはり不都合が出てきた。材料の耐久力などは一流メーカーであるからある程度は計算している筈なのだが、その見落としをこうして使うことで実感する。どこで見落とすかということで興味深い。

この締め具構造は、通常の靴紐ならば蝶結びとなるところを繋げていて、そこにパイプ状の補強がしてあって、そこを引っ張りながら根元を締め具で締める構造になっている。そうすることで、紐が指で引っ張りやすく、引っ張ったまま締め具でブレーキを掛けれるので締め心地を感じながら適当なところで固定できる特徴となっている。

前世代からすれば明らかに締め心地がよくて、緩めるにも都合がよかった。機能自体は完全に進化していると思ったが、最初から左側が少しパイプの位置がずれている感じがしていたのだが、そのずれた端で紐を傷つけることになっていたのだ。紐の外側が破れて芯が出てきた。その状態で締め上げれば上げるほどパイプの端で芯を痛めることになるので、態々靴底を洗ってから修理した。

紐自体をどうこうすることは出来なかったが、ずれたパイプの位置を正しく真ん中に持ってきて引っ張っても芯が出ているところに当たらないように調整した。最初からそのようにしておけば紐が痛むことはなかった。予定通りささくれた紐のところをテープで巻いてパイプにネジ揉もうとしたが中々容易ではなかった。それでも一度ねじ込んで傷んだ部分を保護してしまえばそこが再び露出することはなさそうだった。

どうしてもそのパイプ自体も撚りが出来ていたりして、やはり一年も使っていると破れたりしそうだった。紐が傷むのはパイプの位置がずれていたからにほかないが、最終的にはこの製品のウィークポイントとなりそうである。もし紐が切れてしまったならば前世代の紐と締め具に取り換えるぐらいしかないのだろう。スイスのメーカーだけに次期世代はこれを改良してくると想定される。

零下2度に近い森の中は流石に寒かった。このシーズン初めてパンツを履いたままの峠攻めとなった。日曜日は降雪と零下5度が予想されているために、合間に走っておきたかったのだ。地面は霜柱とその緩みなどがあって走り難かった。幸い雪がついていることはなかったので、普通にはゆっくりと走れた。着込んで走ったにも拘らず汗だくとならないのは、ペースを落としていることと、その寒さゆえに違いない。樹氷が美しかった。



参照:
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
新製品試着の歯痒い気持ち 2013-04-12 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-12-02 21:29 | アウトドーア・環境 | Trackback

エポックメーキングなこと

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3SACDと1DVDのセットが配達された。2014年にドナウエッシンゲンで行われたもののライヴ物で、記録的価値しかないもので、四枚組で20ユーロは決してお得ではない。それでも発注から四週間待ち続けたのは、DVDに入っているステーンアンデルセンのピアノ協奏曲を見たいばかりだったからだ。2016年にフライブルクでの再演を経験して、シェーンベルクのピアノ協奏曲それ自体を含めてそれ以降のこのジャンルにおけるエポックメーキングな作品ではないかと感じたからだ。そもそもその期間にまともにこのジャンルで創作されたことがあるのかどうか疑問であった。それはまさしくそのシェーンベルクの作曲にもそれが示唆されていた。

そもそもこの創作自体がフルクサスのまとめの様なマルティメディアの創作なのだが、その冒頭のピアノ破壊の映像やそのサウンドトラックだけの効果には止まらないサムプリングと映像の組み合わせがあり、言うなれば過去数十年間のそれらが統合された形になっている。

残念ながらコンサートを体験してから主催者のSWRのHPを探したが、こちらが見たい場面は見つからなかった。音楽的な核心部に近いところでもあるが、映像的にもユーモアに溢れてまさしくフルクサス的なそれからは最も遠い世界の場面だった。映像技術的には特別難しいことをしているのではないが、そのサウンドトラックの付け方と全体の音楽構成が並々ならぬ才能を思わせるのだ。

先ずはそのDVDをPCに入れるが映像が開かない。仕方がないので所謂リッピングソフトを使う。綺麗に読み取って、HDDにコピーする ― 簡単に読み取れるようにしておかないから余計に皆がこうしたソフトを使うようになる。今時DVDプレーヤーなどを購入する人がいるのだろうか?このDVDが見れない限り2013年の4枚組SACDと同じ価格で2014年のそれを購入する必要はなかったので、無事にコピー出来てよかった。なによりもピアニストの鏡像の様な親爺の顔に再会出来た喜びに満ちた。

しかし演奏も音質も再演には全く敵わない。演奏も再演で慣れていることにもよるのだろうか、その迫力が全くこれでは伝わらず、音の厳しさが全く違う ― これでは激しいトリルと特殊奏法の後でこちらを向く鏡像のピアニストと二度目のベートーヴェンの調べでこちらを向くときとの対照効果が薄れる。それはあのドウナエッシンゲンの会場とその録音の質とフライブルクのコンサートホールでの実演との差でもあろう。なるほど純器楽曲として同じロート指揮SWRバーデンバーデンで再演した微分音調律した四つのピアノためのハースの曲とは異なり、伝統通りのピアノ協奏曲でもあるのだが、殆どが特殊奏法の手袋を嵌めた打鍵かトリルなのだがまさしくピアノという楽器のための協奏曲である。

どうも来年にはミュンヘンの後継者が決定するようで、恐らくウラディミール・ユロウスキーとセルジュ・ドルニーのコンビになりそうだ。指揮者では、パパーノやネルソンズ、メストとの接触はあったようだが、最初のはコヴェントガーデンからの乗り換えにもあまり興味が無さそうで、最も楽団に人気のあったネルゾンズは他と競合となり、メストは人気もあまりなかったようだ。後者のモルティーエ門下のドルニーの方はドレスデンのティーレマンなどとは合わないのは当然で、ユロウスキーとはグライボーンやロンドンフィルでの協調から二人を組合わせでということになりそうだ。

個人的には、CDや録音などでパパーノのオペラ指揮者としての実力は評価してもその指揮のためにミュンヘンまで行くことは全く考えられなかった。ネルソンズはゲヴァントハウスの管弦楽団で先ずは真面なプログラムで演奏を聞いてみないと、そのオペラでの興味は起こらない。メストがミュンヘンで学びながらヴィーンに拘る理由もあまり理解できないのだが、ミュンヘンではやはり難しいと思う。しかしユロウスキーとドロニーの組み合わせでの企画によっては行きたいと思わないでもない。

寧ろ、ペトレンコ音楽監督体制ではどうしても音楽至上となるので、モルティエー体制であったような劇場としての面白しろさまでには至らなかった ― その点からもキリル・ペトレンコは全く劇場指揮者ではなくコンサート指揮者であることは明らかだ。バーデンバーデンでのスーパーオパーに期待したい理由はそこにもある。その点、ユロウスキーの技能的な秀逸さには疑いなく、一見更に地味乍らとんでもない効果を奈落から引き出してくれそうで、音楽劇場として更なる進展が期待できそうだ。恐らく「伝説的指揮者」が築いた土台を継いで、音楽劇場として開花させるのはこの二人しかいないように感じ出した。



参照:
MACHEN DORNY UND JUROWSKI DAS RENNEN?, IM GESPRÄCH MIT BERNHARD NEUHOFF (BR-Klassik)
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-01 19:39 | 文化一般 | Trackback

クリスマス向きのリスト

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降雪の合間に一っ走りした。週末にかけて摂氏零下五度ぐらいまでは予想されている。夜中にもちらついていたようだが、まだ雨交じりである。白くなっているかと思ったら全く雪はなかった。止んだ時に森に出かけて、最も短いコースをカメラを持って走った。下からもボールダーのある山肌には雪がついているのを確認したが、駐車場には残っていなかった。それでも少し高度を上げると雪が残っていた。積み上がられて三か月ほどになる丸太にも雪がついていて、その向こう側の白い山肌の前景になっていた。

新聞に恒例のクリスマスプレゼント向きの今年の文化商品一覧が出た。昔は興味を持っていた。書籍にしろ、マルティメディア商品にしろ、なにか文化的な記事のように感じていたからだ。しかしこの十数年ほどはそのリストをじっくり見ることもなかった。理由は、確かに情報源としては高級新聞の文化欄のリストだからそれなりの価値はあるのだが、年間で云々言っても仕方ないように感じたからだろう。なるほどクリスマスプレゼントとして普段とは異なったものに目を向ける価値はあるだろう、しかしどうもネット情報が増えてきている今日の状況からこうしたプリントメディアで新しいものに出合うという可能性が小さくなってきたと感じるようになった。

さて実際にはどうだろうか?購入しようとは思わないが、二人の選者がリストアップしているペトラ・モルスバッハの「裁判宮」という小説でなかなか面白そうだが、法律用語が飛び出すのでその方に関心がないとまどろっこしいかもしれない。同じようにテオドール・モムセンの「ローマ国法」などは研究者には欠かせないのだろう。政治社会分野では、イヴァン・ブーニンの「逃亡の日々」とロシア革命の日記らしく、最初の一冊以外は一生涯手にすることはないだろう。歴史ものでは新たな「イリアス」クルト・シュタインマンの訳本について複数が触れている。そうした難しいものよりも英語からのマテュー・スウィーニーの詩集「犬と月」が創作俳句のようでウイスキー好き以外にもとなっている。実用本ではペータ―・クラウスの鳥の鳴き声の教則本がある。トーマス・マッチョの「命を絶つ」は自殺の美学などを述べているようだ。

アニメでは、「化物語」全集とか「やかり」とかが挙がっているが、こび山田の児童書、写真集では金子隆一とマンフレート・ハイティンクのユーゲントシュティールとか広重・栄仙の木曽路とかがあるが、高価なものは到底手が出ない。

音楽では、9枚組LPのジョニー・キャッシュのビルボードソング集だ。それほど価値があるものなのか?お馴染みのところでは、二人が触れているゲルハーエルの「ミューラリン」の二度目の録音フィリップ・ヤロウスキーのヘンデル集がある。デーニッシュ弦楽四重奏団のアルバムはよいとしても、DGカラヤン全集を態々触れなければいけない破廉恥な職業環境には呆れる。

結局それほど目ぼしい情報がなかった。雑学的に少しの情報があったぐらいだ。あまり重要でないものには、自らどうしてもフィルターを掛けて行く訳だが、これはと感動するようなことがないのも悲しいことである。その分、ネットではヴィデオなどを含めて日々刺激的な情報も得ていることも間違いない。



参照:
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
読者層に合わせた興奮度合い 2011-11-22 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-11-30 21:07 | 文化一般 | Trackback

索引 2017年11月


大人ではない子供の世界 2017-11-29 | マスメディア批評
MTBを抜き切る 2017-11-28 | アウトドーア・環境
私にとって、それは神だ  2017-11-27 | アウトドーア・環境
週末から年末年始へ 2017-11-26 | 生活
まるで億万長者ゲーム 2017-11-25 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
枯木も山の賑わいとか 2017-11-23 | 生活
ネジを絞められない話 2017-11-22 | 雑感
永遠の歓喜に寄せて 2017-11-21 | 文化一般
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
居心地もいけるかな 2017-11-18 | 生活
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
汲めども汲めども尽きない 2017-11-16 | ワイン
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
十年先のペトレンコを読む 2017-11-14 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
とうとう暖房を入れた日 2017-11-08 | 暦
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
籠り部屋でのモニター 2017-11-06 | 生活
パリとベルリンからの中継 2017-11-05 | 雑感
離れたモニターを使う準備 2017-11-04 | 生活
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
人命に軽重無しとは言っても 2017-11-02 | 歴史・時事
はっぱふみふみ 2017-11-01 | 生活

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# by pfaelzerwein | 2017-11-30 01:42 | INDEX | Trackback

大人ではない子供の世界

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プッチーニの三部作第一部の「外套」を見た。なるほど子供の時には関心がなかった筈だ。痴話物で、「道化師」などは分かってもこれは流石に幾らませていても分からなく関心がなかった筈だ。流石にであるが、若い嫁さんをもってという前提となると、また今少し揺すぶるものがある。

イタリア語の「外套」の意味は分からなかったのだが、恐らくこの日本語訳はそれほど決まっていないと感じた。細かくテキストを見ていくともう少し真っ当な訳が浮かぶかもしれない。少なくともその「外套」は嘗て若い嫁さんを温めて、そして最後にはその愛人の死体を隠しているというだけの意味ではなかろう。文学的に二人の関係がタイトルとしてしっかり表れているような和訳でなければいけないと思う ― 歯に衣着せぬの反対の感じになるのか。

音楽的には、最後のドラマティックな殺人シーンよりも丁度中間の浮気シーンが中心だと思った。その前後の流れでが全体の三部作に繋がるのではないかと感じた。更に最初の12拍子や三拍子系が当然のことながらセーヌの流れや舟唄に通じるのは在り来たりだが、その後にヴァルツァーに持ってくるなどの工夫が面白い。更に歌の線とユニゾン楽器などの書法がメロディーの線を重視するとともに、それが歌い易いだけではなくて、厳密に合わせていく必然性を感じる。

ダウンロードしてあったシャイ―指揮のスカラ座の演奏では、あまりにもお手のもののスカラ座の管弦楽団をそこまで厳密に振ろうとしていないようで、明らかに歌に合わせるような指揮をしているようだ。それはそれで本場物の感が強く大変な強い効果を上げているのだが、なにか手持無沙汰な感がするのは、クラウディオ・アバドがあまりプッチーニを得意としていなかったことと似ているような気がする。イタリア人にとってはあまりに日常過ぎてこの作曲家の書法に関心を抱くほどの距離感がないのかもしれない。(続く

ペトレンコ指揮の「子供の不思議な角笛」と「ヴァルキューレ一幕」を無事に鑑賞した。ラディオで聞いていたから改めてとは思うが、前半の「角笛」は四回目のミュンヘンでの本番とは大分異なっていて、動画を見ると上手く行っていない部分が見て取れた。管弦楽団の精度も異なるが、歌手のゲーネの方も流石に合わせてきていたので、上手く運んでいたところもNHKでは全く駄目だった。熱心にマーラーの歌曲を歌っているようだが、どこまで読み込んでいるのか疑問に思われ、この歌手の本領は「ヴォツェック」の様なオペラの狂人の役ではないかと思う。更に、それなりの音質なのだが、カメラアングルが歌手に集中していて重要な音楽的な情報にも欠けていた。資料的な価値はある映像かもしれないが、芸術的にはあまり意味ない映像だった。それに引き換え後半の方はやはり興味深いところが更に前半でも見つかった。NHKのカメラディレクターもマーラーの歌曲よりは「ヴァルキューレ」の方が曲に馴染みがあるのだろう。



参照:
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-11-28 23:58 | マスメディア批評 | Trackback

MTBを抜き切る

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頑張って山登りコースを二週間続けて走った。先週はシーズン最初で心拍計を着けたが、今回は着けずに寒さを予想して ― ライン平野の対岸では降雪中である ―、上着を着けたまま走る準備をした。土曜日は降雨だったので、晴れ間が出来ると皆動き出したようだ。少なくともワイン地所から車で上がるときに三人連れのMTBを抜かした。同じコースを目指すことは想像ついていた。上着を着たまま下のパンツは脱いで柔軟体操をしていると、やってきて、先に上っていった。その後ろ姿からこれはいいペースメーカーになると踏んだ。

あまり早く出発すると並走状態になってこれはこれで負担が大き過ぎると感じて、若干時間をおいて走り出した。案の定最初の長い急坂で後姿を捉えた(0.6km)。その後のカーヴとなると失ったが思いがけづ最後の一人を捉えて、追走するとその彼はおりてMBXを押している(0.8km)。急坂が終わったところであとの二人も待っていたようで、全員の後ろ姿も捉えた(0.9km)。その後緑のベンチで左方向に進むのが分かったので(1.55km)、これは頂上で会うことは確実だった。

その後は見かけなかったので、ハイキング道に入ったのを察した(1.7km)。こちらはひたすら林道を走るので、もしかしたら追いつくかなと思っていたら、林道と交わるところで最後の一人を待っていて、三人が揃ったところを追い抜かした(2.7km)。

それでもその上の頂上領域に至ると傾斜の無いところが続くのでそこで抜かされる準備はしていた。上からは女性一人を含むこれまた三人組が下りてきた(3.2km)。しかし声が後ろから聞こえたのだが、目の前には最後の急坂が出てきて(3.6km)、これは走り抜くしかないと思った。道は譲れない、二通りのコース取りがあるが、抜くなら抜いてみろ。そして頂上に立った。すぐに折り返しても彼らは見つからない。活き絶え絶えに急坂の下り口に行くと、二人が最後の一人を待っていた(3.3km)。二人に挨拶して、三人目には余分に挨拶した。恐らく高級の余分でMTBを購入したのはいいのだが暇潰しにこうして使ってみたといった塩梅だろうか?若い割にはトレーニングが出来ていない様子だった。頂上到着時間は大分悪かったのだが、MTBに勝ったのだった。

ピアニストのイゴール・レヴィットがボン市民の選んだベートーヴェンリンクを獲得した。今年のベートーヴェンフェストのレジデンスピアニストだった。授賞式は来年の春のベートーヴェンハウスでの演奏会でのようだ。贈与理由を「彼は息をもつかせぬピアニストで、人を虜にして魅了してしまう」と提示したのに対して、ご本人はそれに直ぐに以下のように反応したらしい。

「私は音楽を吸引力には出来ません」 ― そこから政治的な責任を導き出すような、啓蒙された市民のベートーヴェン的伝統にあるような。

あれほどの政治的な発言があるこのピアニストだけに、この発言の主旨が余計に強く響く。受賞して直ぐにこのように返せる音楽家がどれほどいるだろうか、天晴だ。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-11-27 19:11 | アウトドーア・環境 | Trackback