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いぶし銀のブルックナー音響

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承前)初演をしたゲヴァントハウス管弦楽団の奏でたブルックナー作曲交響曲七番ホ長調の響きは正真正銘のブルックナーサウンドなのだろうか。

一楽章の再現部で、第二主題が展開されるとき、木管や他の弦とカノンするヴィオラに魅了されてしまった。これに近い弦楽部を聞いたのはシャイ―指揮のコンセルトヘボーぐらいで、ベルリンのフィルハーモニカ―のように自己主張するまでもなく、しっかりと和声の中声部を支えるだけでなく、これだけしっかりと仕事を果たしているヴィオラ群を聞いたことがない。そしてその合わせ方がまた座付き管弦楽団風なのだが、その響きの鋭さとアンサムブルはヴィーンやドレスデンの座付きとは異なる交響楽団のそれなのだ ― 英ファイナンシャルタイムズ紙などは、この特徴こそはブロムシュテットの後任の前監督シャイ―がなしたものだとしている。

そしてシュターツカペレとの録音とも最も異なっていたのは、デミヌエンドから続くコーダの「アラブラーヴェ」のテムポである。まるでチェリビダッケ指揮のそれのように十二分に落として大きなクライマクスを築いて、もうこれだけで十分と思わせるぐらいだった。

同じようにアダージョ楽章の三拍子モデラートの第二主題の第一ヴァイオリンでの旋律の繰り返しの歌いまわしは今までの録音よりも明白なイントネーションを与えていた。殆ど具体的な意味を持っているかのようで興味を引く部分で更にそれが繰り返されている。

また再現部でのブルックナー特有の第一主題を中心にしたクライマックスへの昇りでも ― やはり当日のガイダンスで、蒸気機関の大きな弾み車が一つ一つと回転を増して行き雪だるま式に巨大な確信へと昇り詰める、これが特徴であるとした ―、ヴィオラが楽章冒頭にも現れた付点四分二桁符八分の動機を管との間でユニゾンで合奏するのだが、これがまた絶妙なのだ。その他の弦とのバランスの良さは指揮者が簡単に作れるものではない管弦楽団の合奏能力でありサウンドである。かつて日本公演などでも「いぶし銀の響き」と称されたが、まさにこのことだったのかもしれない。そして、例の「ヴァークナーの葬送」がテムポを落として奏される。このデミムエンドに続くテムポ設定に関しては楽譜を見ていてもよく分からない。

三楽章のトリオは更に美しく、管と弦が別途に合奏をするのだが、ここでもヴィオラを中心に弦の織りなす綾の美しさは、まさしくこの楽団の弦楽四重奏団のある意味古典的な最上のアンサムブルを弦楽合奏に拡大したように上質なのだ。正直全く想定以上の高度な演奏だった。このような弦楽楽団奏を聞くのはいつ以来のことだろう?

終楽章の第三主題部の練習記号Kからのヴァイオリンの先端でのボーイングとまたヴィオラの同音進行がこれまた効果的でそのあとのトレモロがとても活きてくる。弦楽ばかりについて称賛したが、管楽器も、決してベルリンのそれのように名人技で例えばホルンが楽曲を先導するようなことはなく、そのような輝かしい響きではなく飽く迄も地味で座付き管弦楽団のような響きで以て、しかしとてもコントロールされていて、ヴィーンのチャルメラオボーエや派手な響きを奏でることもない。勿論先日のミュンヒェンでのそれとは全く異なるのはやはりコンサートホールのホームグラウンドの響きがあるからだろう。まさしく嘗てのゲヴァントハウスを東独時代に日本の青木建築が新しく建てた空間で養われた合奏が管と弦の間でも銀糸のように織られていたのだ。

備忘録のようなことばかり脈略のないことを書いたが、再びコンサート前のガイダンスに戻ると、ブルックナーの楽曲構成についてのおさらいとなる。その対位法的な主題と動機の扱い方に関しては改めて目新しいことはなかったが、用語的に各楽章の主題が最初の一分ほどかかる第一主題の反行のみならず韻律上の変形であり、そのデモフォルメであるとの意識を広げた。

更にいつもの解釈であるが、ブルックナーの三つの主題の三位一体の構成感にも思いを巡らす。そこでは既に扱った例えば第三主題などのリズム的にも旋律的にも廻旋する動機の扱いが繰り返される度に、丁度弾み車が螺旋を描いて大きく広がっていく様こそが、産業革命後の蒸気機関による世界秩序の新たな創造という信仰的な信念から導かれ、その典型的な表徴として19世紀の工場の教会を形作った建造物が挙げられる。またあの爆発的な音の束縛からの開放こそは、人力を超えた力の表徴であるということになる ― これは先頃の合衆国からの論文におけるマックス・ヴェーバーから導かれるブルックナーの社会的危険性ともなる。その点を理解するかしないかがブルックナーへの愛好の大きな分水嶺になるというのも面白い見解である。そしてそのような工業との繋がりというよりも、音の開放自体がもはやグスタフ・マーラーには表れないというのもとても興味深いだろう。

そこで最初の命題に戻ってくる。「ブルックナーの響きとは」となり、今まではヴィーナーフィルハーモニカーのそれが本場ものと考えていた。しかし、上のような音楽的特徴をあの楽団が表現出来ているかというととても否定的にならざるを得ない。そもそもその表現力を身に着けていない。その意味からすると、ブロムシュテット指揮のブルックナーは隅々まで納得が行くものであり、その表現をドレスデンのシュターツカペレよりも正確に交響楽的に表現できていたのは、このゲヴァントハウスの管弦楽団である。今までブルックナーの交響曲を何度も生で聞いてきたが、ここ十年ほどでもメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカー第八番、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―第四番、ギーレン指揮SWF第九番、ティーレマン指揮シュターツカペレ第五番、そして五月のヴィーナーフルハーモニカ―第四番など、そしてこれほど充実した交響楽を満喫したことは一度もなかった。

何よりもベルリンでは期待できない音色であり、シュターツカペレでは聞けない交響楽的なアンサムブルと、楽譜を読み込んでいる卒寿の指揮者の実力に他ならなかった。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はブルックナールネッサンスに近いと思う。それほど立派なものである。

もしキリル・ペトレンコ指揮からこれ以上の効果を期待しようと思えば、やはりフィルハーモニカ―の音質を充分に深みのある音へと各々の楽器が努力していかないと駄目だと思われる。サイモン・ラトル指揮のブルックナーはとても素晴らしいと思うが、この点で明らかに物足りなかったのであった。(終わり)



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-30 21:13 | | Trackback